第二テサロニケ書

 

 

「このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。」 テサロニケの信徒への手紙二1章11節

 

 第二テサロニケ書は、パウロの死後、パウロの同労者か弟子の集団から出た後継者が、パウロの権威に頼りつつ、第一の手紙の時よりも激しくなった迫害にさらされている教会に書き送ったものであろうという学者たちがいます。執筆時期は、1世紀の終わり頃だろうと思われますが、エルサレム神殿が破壊される前の紀元60年代とする学者もいます。

 

 この手紙の書き出しは、第一の手紙と非常によく似ています。3節の感謝の言葉が、1章全体を覆っています。原文では、3~10節が一つの文章になっております。そして11~12節は、文頭に置かれている「このことのためにも」(エイス・ホ・カイ)という接続詞によって、3~10節とつなげられています。

 

 感謝の内容は、彼らの「信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛」(3節)が彼ら「すべての間で豊かになっている」(同節)こと、そして、「ありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していること」(4節)です。

 

 第一の手紙1章6節にも「ひどい苦しみの中で」と記されていましたが、ここでは「ありとあらゆる迫害と苦難」と記されていて、迫害が続く中、その厳しさ、激しさが増大していることを窺うことが出来ます。

 

 にも拘らずテサロニケの人々は、信仰が成長し、お互いに対する愛が豊かになり、迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示しているのです。第一の手紙1章3節では、忍耐は希望と結び付けられて、「希望を持って忍耐している」と語られていました。ここでも、キリストに対する希望のゆえに、忍耐と信仰を示すことが出来たと読んでよいでしょう。

 

 そうすると、神によって与えられる三つの大いなる賜物である「信仰、愛、希望」(第一コリント書13章13節)が、ここでも語られていることになります。しかし、「希望」を直接記さずに「忍耐と信仰」と記されているところにも、「迫害と苦難」の厳しさが感じられます。

 

 そこで、5節以下に最後の審判について記し、教会を迫害する者たちに対する裁きが語られます。その決算のときに、今苦しみを受けているあなたがた、テサロニケの人々には、主が「休息」(アネシス:「放免・釈放・休み」の意)をもって報いてくださると言われています(7節)。

 

 冒頭の言葉(11節)は、これらのことを受けて語られた祈りです。この祈りの中で、「招きにふさわしいものとしてくださり」と言います。この「招き」は、キリストを信じる信仰への招きではなく、救いが完全に実現した神の御国に招かれるという意味です。

 

 しかし、やがて神の国に招かれるにふさわしい者になれというのは、キリスト者となった者が自分の力で御国にふさわしい者になれということではありません。それは、キリスト者となるように招かれたときから始まっている神の働きに与り続けること、神の恵みをいただき続けることです 

 

 続いて、「その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」と祈ります。フィリピ書2章13節の「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」という言葉から、私たちが神の喜ばれることを望み、願い求めるように、私たちの内側で聖霊が御力をもって働かれ、実現のために力を授けてくださるということになります。

 

 つまり、善の実行を願うことも、それを実際に行うことも、いずれも神の霊の働き、神の霊の力によるということです。ということは、聖霊の御力が授けられるように祈っていると言ってよいでしょう。

 

 テサロニケの人々の信仰が大いに成長して、激しい迫害と患難の中でも忍耐と信仰を示すことが出来たように、そしてお互いの間の愛が豊かになったように、私たちも、どんな時にも主イエスを神と認め、その福音に聞き従う信仰者として日々主の御言葉に堅く立ち、主の御心を行う者とならせて頂きましょう。

 

 そのために、聖霊の満たしに与りましょう。聖霊の御力を祈り求めましょう。主は、求める者に得させ、探す者に見出させ、門を叩く者には道を開いてくださいます。そして、求める者に聖霊をくださると約束しておられるのです(ルカ福音書11章9~13節)。

 

 主よ、御言葉を聞いても行わない、砂の上に家を建てる愚かな者のようにならないように、私たちを御言葉に聴き従う者としてください。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する、主が求めておられる信仰に生きることが出来るように、聖霊に満たし、御力を注ぎ与えてください。 アーメン

 

 

「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。」 テサロニケの信徒への手紙二2章13節

 

 冒頭の言葉(13節)に「主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません」とあります。パウロは、始終主の前に祈る人でした。確かに彼は、使徒として史上最大の伝道者ですし、パウロほど深い思索をもって神学をした人も、それほどいないと思います。また優れた聖書学者でもあったと思います。

 

 しかし、見落としてならないのは、彼が祈る人であったということです。彼の伝道の力、そして、手紙に書き残した様々な教えも、その知性、知能によるところ小ならずとは思いますが、しかし、祈りを通して主なる神から授けられた力、知恵ではないかと思われます。

 

 そして、パウロが祈る祈りの特徴のひとつは、必ず感謝するということです。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)というパウロは、「いつも喜んでいなさい」(同16節)、「どんなことにも感謝しなさい」(同18節)と語ることを忘れません。

 

 祈りに喜びと感謝を添えて、神にささげているのです。テサロニケの人々のために祈りをささげるときにも、「いつも神に感謝せずにはいられません」というわけです(13節、1章3節)。フィリピ書4章6節にも「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と記しています。

 

 感謝の言葉に続いて、「なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」(13節)と、感謝の理由が述べられます。

 

 つまり、「聖なる者とする霊の力」と、「真理に対する信仰」によって、神がテサロニケの人々を御自分の民として愛し、選ばれたということです。ここに、三位一体なる神の働きが見られます。

 

 「聖なる者とする」とは、聖くする、聖化するという表現ですが、もともと、神のために区別するという意味です。神が私たちを御自分のために特別にお選びくださったということです。そして、私たちを神のために選び出し、聖なる者とするのは、聖霊の力です。

 

 また「真理に対する信仰」というのは、信仰を強調する表現です。「真理」については、様々な定義があると思いますが、聖書が語る「真理」について一言で言うならば、それは、主イエスのこと、主イエスこそが真理なのです。

 

 主イエスご自身が、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)と言われました。だから、「真理に対する信仰」とは、主イエスを信じる信仰ということになります。主イエスの御言葉に従って生きるところに真理がある、真実に生きる道がある、それを信じるということです。

 

 私たちは自分でその信仰を獲得したのではありません。私も牧師になって30年あまりの間、様々な方が信仰に導かれ、バプテスマを授けさせていただく恵みに与りましたが、私の指導で人々が信仰を持つようになったというわけではありません。

 

 私自身、牧師の息子として生まれ、聖書が身近にあるという環境に育ちましたが、それゆえに、神の存在について今まで一度も疑ったことはありませんが、それでも、主イエスを信じてクリスチャンになろうというのは、私にとって当たり前のことではありませんでした。

 

 むしろ、中学1年生の春までは、なりたくないと思っていたのです。ところが、いつの間にかクリスチャンになりたいと思うように変えられました。意思をはっきりと表明したのは、中学一年の秋の特別伝道集会のときですが、講師の話を聞く前から、クリスチャンになろうと決めていたように思います。「霊の力」というように、聖霊なる神の働きによって信仰に導かれたということでしょう。

 

 であれば、神が働いて多くの人々を信仰に導き、主イエスを信じる信仰を授けてくださるように、絶えず祈らざるを得ません。そして、神がその祈りを聞いてくださるので、信仰に導かれる方が起こされ、喜びと感謝が溢れて来るのです。

 

 さらに、彼らは「救われるべき者の初穂として」神に選ばれたと言われます。「初穂」とは、その収穫を感謝して神に捧げるものです(レビ記23章10節など参照)。言葉の上では、いちばん最初に出た穂を「初穂」というのでしょうが、聖書では、最も善いものという意味であるといってよいでしょう。

 

 ですから、テサロニケの信徒たちが「救われるべき者の初穂として」選ばれたというのは、ギリシア、あるいはヨーロッパで救われた人々の中から選ばれて神にささげられた者と解釈出来、そして、彼らが選ばれたのは、ギリシア全土からヨーロッパ全体にキリストの福音がもたらされるためであるということなのです。

 

 神が彼らをお選びになった二つの手段、「聖なる者とする霊の力」と「真理に対する信仰」とは、今見てきたように、いずれも人が持ち合わせているものではありません。それは、神がお与えになる賜物で、選びの出来事すべてが神の恵みなのです。だから、祈りの度に神に感謝しているわけです。

 

 だから、祈りの度にテサロニケの人々と一緒に神の御前に立ち、神がテサロニケの人々をお選びになったこと、そのために霊の力と信仰の賜物をお与えになったこと、彼らが神の御前に招かれるために、パウロたちの福音宣教が用いられたことを(4節参照)、神に感謝しているわけです。

 

 とすると、15節以下の勧めと祈りは、テサロニケの人々のために語ると同時に、自分自身がそれに従って生きるためであるということになります。

 

 私たちも、神に愛され、選ばれた者として、置かれた場所・地域で、隣人の救いのために祈りつつ、聖なる生活と主イエスを信じる信仰によって、福音宣教の業に励みましょう。

 

 主よ、私たちの内を聖霊の宮としてお住まいくださり、その力をもって私たちを聖なる者としてくださること、また、絶えずイエスを主と告白しつつ従う従う信仰の導きを与えてくださることを、感謝します。私たちの遣わされている場所で、主の証人として福音宣教の使命をしっかりと果たすことが出来ますように。 アーメン

 

 

「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」 テサロニケの信徒への手紙二3章3節

 

 1節から、自分たちのために祈りを要請しています。まず「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」(1節)と、宣教の働きが速やかに実を結ぶように祈りを願います。パウロは福音宣教に命を懸けていますが、宣教が進展して実を結ぶのは、聖霊の働きによるからです。

 

 そして、「わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように」(2節)と、祈りを求めます。それは、教会外の迫害者から守られるようにということもあるでしょう。しかし、「道に外れた」という表現から、偽りの福音を説く者が教会をかき乱している様子を伺えるように思います。

 

 そして、自分たちの宣教がそのような者に妨げられないように、さらに、自分たちがその誤りに陥ることがないようにと願います。パウロが福音を宣べ伝えるとき、抵抗に遭わずにすむということがなかったのです。また、自分の力で、知恵で、御言葉の上に正しく立ち続けることは誰にも出来ることではないとパウロは知っているのです。

 

  このように祈りを要請しながら、神がその祈りに必ず応えてくださるという確信が、パウロの心に満ちてきます。それが、冒頭の言葉(3節)の「主は真実な方です」(ピストス・エスティン・ホ・キュリオス the Lord is faithfull )という表現です。

 

 私たちは時に偽ります。裏切ります。そうしたいと思っているわけではなく、申し訳ないと思いながら、自分で約束したことを守れないことがあります。けれども、主なる神は、真実です。常に信頼に足るお方です。この信頼が裏切られることはありません。

 

 主の真実は、温かいものです。私たちが裏切り者でも、主は私たちを真実に愛し続け、恵み続けてくださいます(ローマ書3章4節参照)。もったいないほどの愛、恵みです。パウロは、主イエスを信じたときから、主の愛と恵みの中を歩み続け、その真実を味わい続けて来たのです。

 

 文脈上「主は必ずわたしたちを強め、悪い者から守ってくださいます」という表現になるところですが、ここでは「必ずあなたがたを強め」と言われます。神の真実に思いが導かれたとき、自分が恵みに与って来たように、「迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している」(1章4節)テサロニケの人々に主の真実が示され、それによって強められ、守られるという確信が湧き上がったのでしょう。

 

 前に、一日5分、神の御声に耳を傾ける沈黙の祈りをしてみましょうとお勧めしました。そのことで、西南学院大学神学部教授のバークレー先生が、「静寂は聖化の試練である」という言葉を紹介してくださったことがあります。

 

 神の御前で静まる、沈黙の祈りをすること、つまり、自分の言葉を発しないで、神の御声に耳を傾けることは、私たちの生活を聖め、神に近づくために必要な試練、訓練であるというのです。静寂が試練と言われるのは、たとい声は発していなくても、沈黙していても、私たちの心は沈黙していない。私たちの心は様々な思いや考えに支配されて、本当に神の御前に静まっていないのです。

 

 黙祷していると、いつの間にか祈りでさえなくなっていることがあります。あらゆる思考を停止して、神の御前に静まり、ひたすら御声に耳を傾けるために、訓練が必要だということです。

 

 私たちが、どのようなときにも主に目を向け、その真実に心を留め、心静めて御声に耳を傾けるとき、その信仰を主が喜ばれ、必ず私たちを強め、悪い者から守っていただくことが出来ます。福音の前進のために、互いに執り成し、祈り合いましょう。

 

 主よ、全世界で福音宣教の働きについている伝道者、宣教師、牧師たちに、聖霊の力が絶えず豊かに注がれますように。彼らに託されている福音を正しく大胆に宣べ伝えることが出来ますように。主の御業が前進し、御名が崇められますように。そうして、私たちに神の愛とキリストの忍耐を深く悟らせてくださいますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設