第一コリント書

 

 

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」 第一コリント書1章9節

 

 この手紙は、パウロが紀元55年春ごろ、第3回伝道旅行の途中、エフェソかその周辺に滞在しているときに書いたものと考えられています(16章8節、15章32節、使徒言行録19章1節以下)。コリントの教会は、パウロの第2回伝道旅行の折、紀元50年前後に、設立されました(使徒言行録18章1節以下)。

 

 伝道しながら各地に教会を建てる働きをしているパウロにとって、設立した教会の安否は常に気になるところであったと思います。そのために多くの手紙が残されています。この手紙もその一つで、教会からの質問に答えるという形式で様々なことが記されています。その意味で、優れた牧会書簡であると言えます。

 

 パウロは、コリント教会への「挨拶」(1~3節)の中で同労者として「兄弟ソステネ」(1節)の名を挙げます。使徒言行録18章17節によると、コリントの町には同じ名前の会堂長がいます。前任者のクリスポがキリスト者となったので(同8節参照)、ソステネがその後任となったのでしょう。そして、ソステネもキリスト者となったわけです。

 

 この会堂長がパウロの同労者と同一人物かどうか、証明することはできません。ただ、聖書中にソステネを名乗る人物は、コリントの会堂長以外にはいませんし、エフェソでパウロと働きを共にしているソステネが、もともとコリントの会堂長だったとすると、ここにその名が挙げられているのも、なるほど納得というところです。

 

 挨拶に続いて「感謝」(4~9節)が述べられます。それは、人の業績を褒め称える美辞麗句、外交辞令などではありません。キリスト者がその信仰を通して与えられた神の恵みに目を留め、感謝して神を崇めているのです。コリントの教会は、「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(5節)。賜物に何一つ欠けるところがありません(7節)。

 

 実は、この「言葉」、「知識」、「賜物」が豊かであるということが、コリントの教会ではかえって問題となっているのです。自分たちの知識や賜物の豊かさのために増長し、教会が分裂の危機を迎えてしまいました。神の恵みが徒になったかたちです。

 

 それでも、「神に感謝している」と語られているのは、コリント教会の人々が、パウロの感謝の言葉で、自分たちの豊かさが神の恩恵であること、神の恩恵は、他者に仕えるために与えられるものであることを、もう一度思いを新たにするようにと考えてのことなのです。

 

 冒頭の言葉(9節)で「神は真実な方です」というのは、私たちが不真実であっても、神は恵みの計画を変更されないということです。問題の多いコリントの教会の人々のために、神が恵みをもって仕えてくださっているのです。

 

 その恵みによって、彼らは霊的にも豊かにされています。彼らこそ、神に感謝すべきなのであり、喜んで主と教会に仕えるべきです。神の恵みの計画は、ユダヤ人のみならず異邦人も、すべての人々を「主イエス・キリストとの交わりに招き入れ」ることなのです。

 

 「(交わりに)招き入れられた」(カレオー)とは、「(交わりの中へと)呼ばれた、招かれた、召された」という表現で、バプテスマを通して教会の仲間となったことを示しています。バプテスマは、私たちがキリストの中へと入れられたことを現すものです。

 

 「交わり」をギリシャ語でコイノニアと言います。10章16節に「キリストの血にあずかること(キリストの血のコイノニア)」、「キリストの体にあずかること(キリストの体のコイノニア)」と記されています。

 

 これは、私たちがキリストの血と体、つまりキリストの命と密接につながっていることを示しています。私たちは、キリストの血を象徴する杯を飲み、キリストの体を象徴するパンを食べること、即ち主の晩餐式を通して、キリストが私たちのために死なれたこと、そしてキリストの命に与って生きる者とされたことを、人々に告げ知らせているのです。

 

 こうして、キリストの贖いを通して与えられた神の恵みが、すべてのキリスト者を時間と空間を越えてキリストと結びつけ、そしてキリスト者同士を同じキリストの命で結びつけているのです。私たちは、イエス・キリストの命の代価によってもたらされたこの交わりを、感謝と喜びをもって大切に守っていきたいと思います。

 

 主よ、私たちを御子イエスとの交わりに招き入れてくださり、豊かな恵みにあずからせてくださって、心から感謝します。私たちが互いに愛し、互いに仕え、共に力を合わせて働くことによって、いよいよ主の御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に主の御心がなされますように。私たちの信仰の歩みを守り導いてください。 アーメン

 

 

「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」 第一コリント書2章12節

 

 パウロは、「わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と言い(1節)、根拠として、「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心の決めていたからです」と語ります(2節)。

 

 「優れた言葉や知恵を用いませんでした」というのは、アテネで哲学的な言葉や知恵を用いようとして、伝道に失敗したからではないかという解釈がなされることがあります。アテネでの失敗を引きずってコリントに行ったので、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(3節)と語っているのだろうと考えるのです。

 

 アテネでの失敗というのは、使徒言行録17章16節以下の記事で、最後に「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(同32節)と記されていることから、これは失敗だったと判断されるわけです。

 

 しかしながら、「彼について行って信仰に入った者も何人かいた」(同34節)と続けて記されており、それは決して失敗と言える結果ではありません。また、続くコリント伝道の記事において、「ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」(同18章5節)とあり、アテネでの失敗を引きずっているとは思えない表現です。

 

 

 「神の秘められた計画」(1節)は「神の奥義(ミュステーリオン)」という言葉で、奥義は一般に、特別な知恵や力がなければ理解できないものと考えられます。そして、その奥義=秘められた計画こそ、「十字架につけられたキリスト」なのです。神の奥義ですから、人間の知恵や力では理解することが出来ません。

 

 4節に「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした」と語られていますが、霊と力による証明とは、パウロが奇跡のようなことを行って見せて、キリストの福音を信じさせたというようなことではないでしょう。

 

 また、自分の知恵や雄弁さで人々を説得しようとしたのでもなく、神の秘められた計画(ミュステーリオン)である「十字架につけられたキリスト」を、そのまま証ししたということでしょう。その証しの結果について、パウロは聖霊の導きに委ねたので、聖霊がパウロの告げ知らせるキリストを信じ受け入れるよう、御力をもって相手に働きかけられたということです。

 

 ここで注目したいのは、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(2節)という言葉です。前後の文脈によれば、「何も語るまい」と言いそうなものです。なぜ、「何も知るまい」というのでしょう。

 

 それはまず、パウロの関心が、十字架につけられたキリストという一点に集中しているということです。色々と調べて知ってはいるのだけれども、あなたがたには十字架につけられたキリストのことしか教えないというようなことではないのです。

 

 また、「知る」とは知的な作業ではありません。出会いを通して味わう恵みです。パウロは、人の知恵や力で理解することの出来ない神の奥義である「十字架につけられたキリスト」を、コリント教会の人々との交わりを通して味わおうと、集中しているのです。「あなたがたの間で」(エン・ヒューミン:in you)とはそのことでしょう。

 

 パウロの雄弁な説教ではなく、コリントの信徒たちの優れた知恵でもなく、彼らの交わり(コイノニア)のうちに働かれる聖霊の導きによって、「神の秘められた計画」なる「十字架につけられたキリスト」を味わうことが出来ると信じているわけです。それこそ、まさにパウロが行く先々で体験していた、「霊と力による証明」ということなのでしょう。

 

 3節の「わたしは衰弱して」という言葉を正確に訳せば、「わたしも衰弱して」となります(岩波訳参照)。この「わたしも」は、それと明示されてはいませんが、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」を受けて語られていると考えることが出来ます。

 

 無抵抗のままユダヤの宗教指導者たちに捕らえられ、ローマ人の手によって十字架にかけられた主イエスの死は、ユダヤ人には躓きを与え、異邦人には愚かなものとみなされました(1章23節)。しかしそれが、全人類の罪を贖う神の救いの計画なのです。この躓き、愚かと見えるキリストの十字架の中に、神の知恵と力が示されているのです(同24,25節)。

 

 パウロはそれを、「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」(5節)と言い、そして、「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」(6節)といって、その「知恵」を「隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」(7節)と説明します。

 

 「信仰に成熟した人たち」は「十分に成熟した」(テレイオス)という言葉で、口語訳は「円熟している者」、新改訳は「成人」としています。岩波訳は「完全な者たち」と訳し、「パウロは何の留保もなしにではなく、むしろある種の批判を込めてしていると思われる」という注釈をつけています。

 

 前述のように、「神の知恵」はキリストご自身のこと、その福音を指しているので、それ以外の、自分の霊的経験や特別な知識(グノーシス)を誇り、そう語ることは、十分に成熟していない、未熟な信仰の様を示していると暗に告げます。その未熟さが、コリントの教会に分裂の危機をもたらしているのです(1章10節以下参照)。

 

 パウロは冒頭の言葉(12節)で「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました」と言い、「それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」と語ります。

 

 神からの霊だけが、神を知っておられるので、キリストを信じる信仰において神からの霊を受けた私たちは、神から恵みとして与えられたものを知り、味わうことが出来ます。ここでパウロが語っているのは、神からの霊によって、十字架につけられたキリストこそ、神の恵みとして与えられたものであることを知った、その恵みを神の救いとして味わったということではないでしょうか。

 

 私たちが「イエスは主、メシアである」と信じることが出来たのも、実は、自分で理解した、納得したというのではなく、神ご自身の霊と力の証明によって教えていただいたからなのです(5,13節、マタイ福音書16章17節)。主の導きに従い、その恵みを感謝しつつ、御霊に満たされて、主の福音を私たちの家族、友人に宣べ伝えましょう。

 

 主よ、キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、それによって罪赦されて神の子として生きることが出来ると信じる信仰をお授けくださり、感謝します。それは、私たちの知恵によらず、神の霊と力による導きのたまものです。日々御言葉に聴き、絶えず聖霊に満たされて歩むことが出来ますように。人の知恵によらず、霊と力によって主を証しする教会とならせてください。 アーメン

 

 

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」 第一コリント書3章16節

 

 5節に「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」という質問があります。コリント教会内に、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」(4節)、「わたしはケファに」「わたしはキリストに」(1章12節)などという人々があり、分派間の争いが絶えなかったようです(3節、1章11節)。

 

 アポロはアレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しい雄弁家でした(使徒言行録18章24節)。エフェソからアカイア州に渡って来て、「メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せ」(同28節)、教会の人々を大いに助け励ましました。その働きから、パウロとは違う指導を期待する人々が、「わたしはアポロに」と主張したわけです。

 

 それに対するパウロの答えは、「この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」というものでした。パウロは「植え」る働き、そして「アポロは水を注」ぐという働きをしました(6節)。働きは違うけれども、共に主に仕える者として働いたのです。

 

 それを9節で、「神のために力を合わせて働く者」と語っています。彼らの働きは神に仕える者で、神が彼らを任命したのです。ですから、彼らを通して、神ご自身が働かれたのです。だから、コリントの人々が信仰に導かれたのです。これは、パウロやアポロの働きではなく、神ご自身の働きなのです。だから、「成長させてくださったのは神です」(6節)と言うのです。

 

 永遠の命をお与えになり、信仰を導いて成長させるのは、主なる神なのです。そして、その働きのために人を任命し、お用いになるのです。ですから、それぞれの好みで神に任命された「仕える者」を担ぎ上げ、分派間で争うのは、神の主権を侵すことなのです。

 

 また、神がその働きのために人を任命するのは、指導者だけのことではありません。「仕える者」(ディアコノス)とは、文字通り「奉仕する者」であり、神に仕えるすべてのキリスト者です。そして、すべての者が「神のために力を合わせて働く者」(シュネルゴス)なのです。

 

 「仕える者」がいなくては、教会が成り立ちません。そして、皆で「神のために力を合わせて働く」のです。働きは様々です。それぞれが、主がお与えになった分に応じて、賜物に応じて、能力に応じて働くからです(ローマ書12章6節以下、第一コリント書12章4節以下、同27節以下参照)。

 

 その様々な働き、奉仕がキリストにおいて一つにされて、一つの体なる教会の働きとなるのです。そして、それを神は、神のために力をあわせてなした働きとしてくださるのです。その働きは、会堂の中だけに留まっているのではありません。私たちが遣わされている職場での働きも、家庭での働きも、地域での働きも、その一切が神のための働きです。

 

 ですから、お互いのために祈ります。特に、牧会の働きを与えられた者は、皆のために、各自の働きがキリストの栄光を現すように、そして、教会全体でキリストのよい香りを放つことが出来るようにと、執り成し祈るのです。

 

 冒頭の言葉(16節)でパウロがコリントの教会の人々に「あなたがたは・・知らないのですか」と尋ねていますが、これは、当然知っているはずだということ、即ち、パウロ自身が既に教えたことであるということでしょう。何を教えたのかというと、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいること」です。

 

 「自分が神の神殿である」ということには、二つの意味があります。一つは、コリントの教会が神の神殿であるということです。「神の霊があなたがたの内に住んでいる」という表現から、教会が神の神殿であることが示されます。9節に「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とありましたが、その「建物」をここで「神殿」と定義付けたかたちです。

 

 一方、17節に「あなたがたはその神殿なのです」とありますが、「その神殿」とは勿論「神の神殿」を指しており、ここに用いられている関係代名詞(ホイティネス)は複数形です。そこから、「あなたがた」と呼びかけられた教会員一人一人が「神の神殿」であると読むことが出来ます。

 

 教会員一人一人が神の霊を宿していると同時に、教会の内に聖霊が宿られます。神が教会と共に歩まれるということです。ソロモンがエルサレムに壮麗な神殿を建てて以来、神の住まわれる宮はエルサレムの神殿でした。しかし、この神殿はバビロンによって破壊されてしまいました。そして、契約の箱はどこに行ってしまったのか、分かりません。

 

 そのことでエゼキエル書11章16節に、「それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった』」という預言があります。

 

 さらに、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(同19,20節)と告げられています。

 

 またエレミヤ書31章33節にも、「来るべき日に、わたしがイスラエルと結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という預言が語られていました。

 

 イスラエルの民が主なる神に背き続けた結果、主が彼らを「遠くの国々に追いやり、諸国に散らした」バビロン捕囚が起こり、それまでの主とイスラエルとの契約が破棄されてしまう結果となったわけです。それでも、主はイスラエルを完全に捨て去ることはなさらず、新しい契約が結ばれることになります。

 

 パウロは、エレミヤが「来るべき日に」と語った預言が、主イエス・キリストの十字架によって実現し、そして約束の聖霊が降ってエルサレムに教会が誕生したことを思いつつ、コリントの教会が神の神殿であると、ここに記しているわけです。

 

 教会が神の神殿であるというのは、建物のことではありません。当時、屋根に十字架のついた建物など、どこにもありませんでした。信徒の家に集まって集会をしていたのです。つまり、信徒の集まりが神の神殿ということになります。言い換えれば、神がご自分の住まいとして、人々を集められたということです。

 

 ですから、集まりの中に分派を作って、交わりを阻害するようなことをするのは、神の神殿を壊す行為であり、そのようなことをする人は神に滅ぼされるという表現が出て来るのです(17節)。

 

 私たちの内に住まわれ、私たちと共に歩まれる聖霊を悲しませ(エフェソ4章30節)、霊の火を消すことがないように(第一テサロニケ5章19節)、互いに愛し合い、互いに仕え合う「神のために力を合わせて働く者」として、キリストの教会を建て上げましょう。

 

 天のお父様、聖霊の住まわれる神の宮が私たちと共にあり、私たちの内にあることを知りました。それは、いつも神が共にいてくださるということであり、また、神が私たちの祈りを傍で聞いていてくださるというのは、なんという平安、なんという光栄でしょう。いつも主を喜び、絶えず主に祈り、どんなことも主と共に感謝する信仰で、日々前進させてください。 アーメン

 

 

「神の国は言葉ではなく力にあるのですから。」 第一コリント書4章20節

 

 1節に、3章5節に続いて「仕える者」という言葉が出て来ました。パウロは、自分たち使徒を「仕える者」と考えるべきだ、そのように見なすべきだと言います。キリスト者たちはみな、キリストに仕える者です。そして使徒たちは、「神の秘められた計画を委ねられた管理者」としての務めが与えられています。いわば、「仕える者」の長であるということです。

 

 主イエスが「目を覚ましている僕」のたとえ(ルカ福音書12章35節以下)の解き明かしで、「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」(同42節)と言われました。主人が召し使いたちの上に立てた忠実で賢い管理人も、召し使いの一人です。その身分は奴隷です。

 

 しかし、主人に忠実という点で、他の召し使いの上に立てられました。パウロが2節で、「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と記しているとおりです。忠実さがなければ、彼はその立場にいることが出来ません。

 

 その忠実さのゆえに、他の召し使いたちには不人気となるかもしれません。それは、管理人には喜ばしいことではないでしょう。にも拘らず、彼はすすんで管理人としての務めを果たします。そのことに、他の召し使いたちが知らない恵み、喜びを味わっているからです。

 

 それは、他の召使たちを支配する喜びではありません。というのは、1節の「仕える者」という言葉が、支配とはまったく無縁の言葉だからです。ここには、「フペーレテース」という言葉が用いられています。「フポ」は「下の under」という前置詞、「エレテース」は「舟の漕ぎ手 rower」という意味です。合わせて「下層の漕ぎ手」ということになります。

 

 「ベン・ハー」の映画の中で、主人公が「フペーレテース」にされるという場面があります。彼らは舟の最下層に鎖でつながれて、そこから逃げ出すことが出来ません。リーダーの木槌の音に合わせて、いっせいにオールを漕ぎます。戦闘モードに入れば、全力を振り絞って漕がなければなりません。そんな過酷な労働を強いられている者が「フペーレテース」です。

 

 後には、「人の下で働く者、下役、助手」を意味する言葉となりました。新約聖書でも、裁判官の「下役」(マタイ福音書5章25節)、大祭司の「下役」(マルコ福音書14章54節)などとして用いられています。

 

 パウロは、キリストの「下役」であり、教会の「下役」なのです。彼が主人から預かった務めは、優れた知恵や豊かな言葉ではなく、十字架のキリストを宣べ伝える務め、福音を忠実に伝えて教会に仕える務めです。

 

 キリストも、王様としてご自分を信じるキリスト者たちを支配されることはありませんでした。ご自分で「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ福音書10章45節)と語られているとおりです。

 

 パウロは、キリストの迫害者であった自分が主イエスを信じる信仰に導かれた際に、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになるという体験をしました(使徒言行録9章1節以下18節)。それは、肉眼が見えるようになったこと以上に、心の目、信仰の目が開かれるという経験でした。

 

 キリストが十字架に死なれたのは、パウロの罪を赦し、その代価を支払うため、自分に代わってその呪いをその身に引き受けられたためであったと、悟ったのです(ガラテヤ書3章13節、コロサイ書1章14,20節など)。だから、自分を選んで僕として用いてくださる主イエスに、どんなに苦しみがあっても、喜んで従おうと決心したわけです。

 

 冒頭の言葉(20節)で「神の国は言葉ではなく力にある」と言います。「神の国」(ヘ・バシレア・トゥー・セウー the kingdom of God)は、神が王として支配する領域、また、王としての支配のことを指します。

 

 主イエスがこの世に来られて宣教を始められたとき、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ福音書1章15節)と言われ、また「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ福音書12章28節とも言われました)。これは、キリストの宣教活動によって、神の国がこの世に到来したことを示しています。

 

 一方、「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ福音書14章25節)とも語られました。これは、終末における新天新地、完成した神の支配のことを指していると考えられます。

 

 つまり、終末に神の支配、私たちの救いが完成することと、今、十字架の福音が宣べ伝えられているところに神の支配が始まっていることが、コインの表と裏のような関係で示されているわけです。ですから、どちらか一方だけを強調することは、聖書を逸脱することになります。

 

 ところが、コリント教会の中には、既に神の国がこの世に到来したということを強調する人々がいたようです。それが、8節の「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」という言葉に表れています。

 

 「わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」というのは、先ず使徒パウロたちが王になり、それから教会の信徒たちが王になるはずだということではありません。使徒パウロの教えを逸脱して、勝手に王を名乗ってしまっているということです。

 

 それが真実でないということが、続く「いや実際、王様になっていてくれたらと思います」(8節)という言葉で示されます。つまり、彼らが言っているのは、高ぶりと自己満足に過ぎないということです。

 

 パウロは、その高ぶっている人たちに、「言葉ではなく力を見せてもらおう」(19節)と言います。これは、神の支配の力が本当にそこに働いているのか、それとも彼らが高ぶって空しい言葉を語っているだけなのか、確かめようということです。

 

 ここに示されるパウロは、さながら「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」(列王記上18章20~40節参照)と語ってバアルの預言者と対決し、彼らを打ち負かしたエリヤのように見えます。

 

 あるいはパウロは、終末における神の国の到来、それに先立つキリストの最後の審判と、自分のコリント訪問をダブらせているのかもしれません。パウロにその力があるというのではなく、コリントの教会の人々が真実にキリストに従う者でなければ、神に裁かれるということです。パウロの願いは、彼らが裁かれることではなく、彼らがキリストにしっかりと結ばれることなのです。

 

 パウロが見たいのは、彼らが自分の知恵を誇っている姿ではなく、御霊の導きに従って忠実に、十字架につけられたキリストを宣べ伝えている姿です。そこにこそ、神の霊と力が現れるからです(2章4,5節)。

 

 主よ、私たちは御旨に従いたいと願いながら、その実、自分の欲求が満たされることを第一とする傾向があります。金持ちになること、王のように処遇されることを喜びます。それを捨てて、キリストに従えと招かれたとき、直ちに従うことが出来ますように。絶えず主を仰ぎ、キリストの福音を証しさせてください。 アーメン

 

 

「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」 第一コリント書5章8節

 

 パウロは7節で「新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種を取り除きなさい」と教会に勧めます。パン種とは酵母菌のことです。イスラエルでは、年に一回、春の一週間、パン種を用いないでパンを焼く習慣があります。それは、過越祭に続いて祝われる除酵祭のことです。

 

 もともと除酵祭は、大麦の収穫祭でした。酵母菌が大麦の穂が実るのに悪い影響を与えるということで、これを家中から取り除いたのが始まりだそうです。その祭りが、イスラエルの救いの歴史と結びつきました。

 

 イスラエルの民がエジプトから脱出するときに、急いで出発しなければならなかったので、パンを酵母を入れないまま焼いて食べたということから、それを記念する祭となったのです(出エジプト記12章15節以下、37節以下)。

 

 パウロがここで「古いパン種を取り除きなさい」と言っているのは、除酵祭に題材をとりながら、信仰生活に悪い影響を与える古い生活習慣を捨てなさいということです。具体的には、不品行を捨てなさいということです(1,2節)。

 

 また、「新しい練り粉」(7節)とは、古い生活習慣、罪が取り除かれ、不品行が捨て去られて、清められた教会を指します。そして、教会は、絶えず清くなければならないことを「新しい練り粉のままでいられるように」と教えているのです。

 

 この勧めを語ったパウロは、その勧めの根拠を語ります。それは、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」というものです。コリント教会の信徒たちは、本当は、「パン種の入っていなも者なのです」。というのは、キリストが彼らのために屠られたから、という説明です。

 

 過越祭では、小羊を屠って食べます。これも、イスラエルの歴史と結びついています。イスラエルがエジプトから脱出するとき、神はエジプトに大きな災いを与えられました(出エジプト記9章以下)。特に、最後に下されたのは、エジプト中の長子が神の御使いに撃たれて死ぬという災いです(同12章1節以下)。

 

 そのとき、イスラエルの民は、小羊を屠り、その血を家の柱と鴨居に塗りました(同3節以下7節)。血が塗られている家は、初子を撃つ神の御使いが過ぎ越した、つまり災いが通り過ぎて難を逃れたのです(同13,27節)。

 

 エジプトのファラオは、次々と起こる災いに恐れをなして、イスラエルの民を解放しました(同31,32節)。そのことを記念して、過越祭を祝うのです(同14節以下、43節以下)。過越祭は、400年以上にわたる奴隷生活からの解放を喜び祝う祭りです。先の除酵祭は、この過越祭に続いて行われる祭なのです。

 

 このことから、「キリストが過越の小羊として屠られたと」は、キリストが十字架で死なれたことが、私たちを古い罪に縛られた生活から解放するためであることを示し、そして、キリストを信じたことによって、今は新しい清い生活に入れられたということを教えているのです。

 

 イスラエルの民は、奴隷として仕えるエジプトの国に留まったままで過越祭、除酵祭を祝うことなど出来ません。奴隷として縛られた生活をしながら、解放を喜ぶ祭りを祝い行うというのは、おかしなものです。

 

 私たちは、月ごとに過越の小羊の肉を記念するパン、小羊の血を記念する杯をいただく主の晩餐式を行います。これは私たちにとって、「まことの食物、まことの飲み物」(ヨハネ福音書6章55節)なのです。主イエスの命をいただいて生かされ、キリストの血潮によって清められています。

 

 冒頭の言葉(8節)にも「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで」と記されています。パウロは上述の通り、除酵祭に題材を借りて、信仰生活に悪影響を与えるものを取り除け、古い生活習慣、悪意と邪悪な行いを捨てなさいと言います。

 

 コリント教会の中には、信仰によって義とされた者は何をしても自由だという、誤った考えを持っている人がおり、驚くような不品行さえも、自分たちの自由を表現するものと勘違いしていたのです。しかし、旧約以来、不品行は取り除かれるべき悪です(レビ記18章)。

 

 そして、主イエスは「山上の説教」(マタイ福音書5~7章)の中で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(同5章17節)と、明確に語られています。

 

 「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」とは、古い罪が取り除かれ、清められた教会を指します。キリストは過越祭のときに十字架にかけられ、贖いの業を完成されました。7節で「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」というのはそのことです。

 

 ですから、「純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」というのは、キリストによって罪赦され、清められた者として、その救いを喜び祝いましょう、主イエスを礼拝しましょうという奨めを語っていることになります。

 

 誰が、自分で罪から離れ、自分を清く保つことが出来るでしょうか。詩編の記者が謳っているように、「御言葉どおりに道を保つことです」(詩編119編9節)。私たちも、キリストを信じて、今は新しい清い生活に導き入れられました。

 

 神の喜ばれない古い生活習慣に逆戻りしないように、悪意と邪悪の霊に縛られてしまうことがないように、絶えず主を仰ぎ、その御言葉に聴き従いましょう。

 

 天のお父様、私たちはあなたの計り知れない恵みにより、御子キリストの贖いのゆえに、新しい命に生きる者としていただきました。絶えず、あらゆる不従順、不信仰のパン種を取り除かせて下さい。清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。日々、主のみ顔を慕い求め、朝ごとにみ言葉に耳を傾け、導きに従って歩みます。いよいよあなたの望まれるような者に作り替えてください。 アーメン

 

 

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」 第一コリント書6章19節

 

 冒頭の言葉(19節)に「知らないのですか」(ウーク・オイダテ don’t you know) という言葉があります。6章には「知らないのですか」が6回(2,3,9,15,16,19節)記されています。

 

 それらは、当然知っているだろうと思われる事柄であり、私たちの信仰にとって重要な事柄であるのに、あなたがたはまるで知らない者であるかのように振舞っているという表現ではないでしょうか。そうであるならば、ただ単にコリントの教会の人々に語られている言葉としてではなく、今を生きている私たちに対して語られている言葉として、聞く必要があります。

 

 私たちは、私たちの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、私たちはもはや自分自身のものではないと、本当に知っているでしょうか。確かな知識を持って、その知識にふさわしく行動しているでしょうか。あるいは、もう一度「あなたがたは知らないのですか」とパウロから尋ねられなければならないような振る舞いをしてはいないでしょうか。

 

 「あなたがたの体」(ト・ソーマ・フモーン the body of you)とありますが、「あなたがた」は当然複数形なのに、「体」は単数形です。厳密に言えば、あなたがたの一つの体ということになります。

 

 つまり、この「体」は、私たち一人一人の肉体というのではなく、キリストによって一つとされた体、即ち「教会」を指しているということになります。ということは、3章16節を言い換えた表現になっていると言えます。私たちがキリストを信じる信仰において一つに集められたキリストの教会は、聖霊の宿る神殿だということです。

 

 しかしながら、12節以下の段落で繰り返し語られている「体」というのは、自分の体のことです。そして、「娼婦と交わる」(16節)という「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」(18節)と語っています。

 

 そして、その直後に「知らないのですか」(19節)と記されていますから、ここに語られている「体」(ソーマ)は、信仰によって一体とされた教会を指していると同時に、教会を形成している信徒一人一人の肉体、それに象徴される生活ぶりのことも考えていると言わざるを得ません。

 

 だからこそ、あなたがたはもはや自分自身のものではない、自分の体を自分の自由にしてよいということにはならない、というわけです。私たちの体が自分自身のものでなければ、どなたのものなのでしょうか。それは、私たちを救うために罪の代価を支払われた主イエスのもの、主イエスをお遣わしになった神のものということです。

 

 こうして神のものとされた私たち一人一人の体に聖霊が宿り、そして、私たちをキリストにあって一つの体とするのです。20節に命じられている「自分の体で神の栄光を現しなさい」というのは、私たちが神のものであればこそ、可能になることです。神がご自分のものを用いて、ご自身の栄光を現されるということになるからです。

 

 そこでパウロが求めているのは、私たちが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマ書12章1節)ることであり、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにな」(同2節)ることです。真実な礼拝がなされるところに神は臨在され、ご自身の栄光を現してくださるのです。

 

 パウロは、人が救われるのは、律法を守り行うことによるのではなく、主イエスを信じる信仰により、神の恵みによると説きました。ところが、神の恵みによって救われるのなら、どんな生活をしてもよい、と考える人が出て来ました。それが、12節の「わたしには、すべてのことが許されている」という発言です。

 

 それを承認した上で、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と諭しています。確かに、何をしてもよいからといって放縦な生活をするのは、決して益になりません。自分の自由を何のために用いるかが重要なことです。パウロは、その自由を主のために用いるのだと教えているわけです。

 

 それを教えるために、「体」というモティーフを用います。15節でも「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」と言っています。「自分の体がキリストの体の一部」というのは、私がキリスト教会の一員であるということ以上の意味を持っています。私たちの体が、キリストの命によってダイナミックにつなげられているのです。

 

 だから、14節で「神は、主を復活させ、またその力によってわたしたちをも復活させてくださいます」と言い、さらに17節で「主に結びつく者は主と一つの霊となる」というのです。それは、体の交わりよりもさらに密接な、深い生命の結合です。

 

 そういうわけで、「キリストの体の一部を娼婦の体の一部として」(15節)よいわけがありません。娼婦と肉の交わりをすることは、娼婦と一体となることだからです(16節)。ここにパウロは、娼婦との性的な交わりが、一時的衝動的行為ではなく、それによって夫婦の真実な交わりを壊す以上に、キリストとの神聖な結びつきを壊す冒涜的な行為であると言い表しているのです。

 

 私たちの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、もはや私たちのものではありません(19節)。キリストの命で買い取られた、贖われたものです。キリストの命で一つにされた、神の愛において一つにされている交わりの内に、聖霊が宿られるのです。

 

 逆に言えば、聖霊が宿られると、神の愛がそのうちに働いて、私たちをキリストの体として整えてくださるということでしょう。この真実な教会、信徒の交わりを造るために、神の御子キリストが代価を払われたと読むことが出来ます。

 

 私たちのために贖いの業を成し遂げられた神の御子キリスト・イエスを主と仰ぎ、日々聖霊の導きを求めつつ主のみ言葉に耳を傾け、み心に従って主の恵みを証しする者とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちを神の子としてするためにお与えくださった深いご愛に、心から感謝しています。あなたの恵みに応え、いつも御言葉に聞き従い、キリストと結びついて一つの霊とならせていただくことが出来ますように。私たちの交わりが主に喜ばれ、主の愛を証しするものとなりますように。御名の崇められんことを。 アーメン

 

 

「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。」 第一コリント書7章3節

 

 7章でパウロは、結婚について記しています。それは、コリント教会からの質問に答えたもので、質問の内容は、禁欲的な生活を送るために、夫婦であっても、体の交わりを避けたほうが良いのではないかというものであったと想像されます。

 

 確かに、パウロは禁欲主義的な発想をしていると思います。ですから、まず、「男は女に触れないほうがよい」と答えるのです。とはいえ、それが絶対的な規則ではないことを、2節の「しかし」が物語ります。

 

 ここが、コリント教会内の禁欲主義者とパウロの相違点です。禁欲的な生活が新たな不品行を生み出す危険性をパウロは知っていたのです。結婚は不品行を避けるために行うものではありませんが、確かに、結婚生活によって不品行から守られる側面があります。

 

 ですから、質問に対する答えとして、3節で「夫は妻にその務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と述べます。ここに、夫婦の交わりを避けてはならないと示しているわけです。

 

 その例外として5節で「納得しあった上で、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」と言います。祈りに専念するため、期限付きで交わりを避けることは許されるというのです。

 

 そして、期限が過ぎれば、元通り夫婦の務めを果たしなさいということです。その上で、一時的な禁欲生活をしたほうがよいとか、そうすべきだと言うのではなく、そうしても差し支えないと、究めて控えめな言い方をしています。

 

 今回、この箇所を読みながら、長い間パウロを誤解していたのではないかと思いました。パウロは独身主義者で、肉欲を避けるために仕方なく、結婚を許すと言っているのだろうと思っていたのです。

 

 けれども、それは誤解でした。7節に「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」とあり、パウロのように独身で専心主に仕えるという賜物をいただいている者もいれば、結婚という賜物をいただいている者もいると語っているのです。

 

 5章以下の議論を見ると、コリントには、自分の欲するまま何でもしてよいと考える自由主義者と、一切の肉欲を断つべきだと考える禁欲主義者がいて、パウロはその両極端の立場が、聖書に基づくものではないことを示そうとしているわけです。

 

 自由主義者は結婚の関係を簡単に壊そうとするでしょうし、禁欲主義者は結婚生活が罪を犯すものであるかのように考えます。やもめたちの再婚には、両主義者とも反対したことでしょう。けれどもパウロは、「自分を抑制できなければ結婚しなさい」(9節)と教えています。

 

 あるいは、パウロも一度は結婚していたのかもしれません。8節の「わたしのように」が「未婚者」を指すと考えていましたが、あるいは「やもめ」のことを指すとも考えられるからです。死別という理解もありますが、パウロがキリスト教の伝道者になったので、ユダヤ教徒だった妻が彼を捨てて実家に帰ってしまったと考える学者もいるそうです。

 

 ユダヤの律法を学ぶ者にとって、結婚していることは普通で、殆ど義務ではなかったかと言います。「20歳を越えて結婚していない者は、すべての日を罪のうちに過ごしている」というラビの教えもあるそうです。これは、パウロが結婚を否定的にではなく、肯定的に見ていることを伺わせることではないでしょうか。

 

 パウロは終末が極めて近づいているという緊張感の中で生活していましたから(25節以下、29節)、何が主に喜ばれることか(32節)、どうすれば、主に仕える生活が出来るのか(35節)を、真剣に祈り求め、実践していたのです。

 

 主イエスも結婚を重んじて、「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、日宇とは父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マルコ福音書10章6~9節)と教えられています。

 

 結婚を重んじることについて、パウロは、主によって召されたときのことを話題にします(17節以下)。パウロは、クリスチャン生活の原則として、キリストを信じて教会の交わりに加えられることになったときの身分のままでいなさいと示します。

 

 その身分、生活環境は、神が各人に分け与えた恵みとして受け取るものであって、自分からそれを破棄してはならないというのです。ユダヤ人か異邦人か、自由人か奴隷かということは決定的なものではありません。終末において、それらはすべて更新されるのです。今私たちが神に召されたのは、身分や制度を変革するためではなく、神の救いに与るためです。

 

 私たちは、罪の奴隷から解放されたのです。召されたときの身分に留まれということは、神の呼びかけは、その人が神と出会い、神に呼び出された場所や状況にも及んでいるということです。

 

 変える必要があれば、神が変えてくださるということであり、また、私たちを呼び出してくださった神は、私たちが呼び出された家庭、職場、地域、国家の中に働き、御業を行っておられることを認めるということです。いわば、私たちはその家庭、職場、地域の初穂として呼び出されたのです。

 

 そして私たちは、自分が所属している組織に、主イエスにあって、新たな責任が与えられたわけです。神の救いの御業がなされるように祈る務めであり、主の福音を宣べ伝える務めです。それが主に召されるということであり、すべてのキリスト者は、主に召された者なのです。キリスト者になったから、未信者の伴侶とは別れるなどというのは、神の御心であるはずはありません。

 

 主の導きに従い、委ねられた役割をきちんと果たすため、必要な知恵と力を賜るよう、聖霊の満たしと導きを祈りましょう。

 

 主よ、あなたが私たちにお与えくださった多くの賜物のゆえに感謝します。ある人には独身生活が与えられ、またある人には結婚生活が与えられています。与えられているものを主に感謝しながら、各自に委ねられている務め、その使命をしっかりと果たしていくことが出来ますように。 アーメン

 

 

「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」 コリントの信徒への手紙一8章1節

 

 パウロは8章で、偶像に供えられた肉について指導します。コリントでは、アポロの神殿に供えらえた肉が、市場で売られることになっていたので、そのような肉を食べても、信仰の上で問題はないのかという質問がパウロに届いたのです。

 

 冒頭の言葉(1節)で「我々は皆、知識を持っている」と、カッコつきで記されているのは、ここにパウロがコリント教会の人々の主張を引用しているということを示しています。そしてその知識とは、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないこと」(4節)を指しています。

 

 「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」(1節)ということは、彼らの認識は確かだと、パウロが認めていることになります。けれどもパウロは、正しい認識を持っているのだから、その知識通りに行動しなさいとは言いません。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(同節)と言っています。

 

 即ち、知識に愛を結びつけるように、愛によって知識に基づく行動を制御するように、と告げているのです。そうでなければ、その人は高ぶりに陥るからです。「高ぶる」(フシオオー)とは、「膨らむ(puff up)」という意味の言葉です。それは、自分を実物以上に大きく見せようとすることです。

 

 イソップ物語で牛を見た蛙の子が(おたまじゃくしではなかったと思いますが)、親蛙に大きな動物を見たと報告します。親蛙は、息を一杯吸い込んで自分のおなかを膨らませ、このくらいの大きさかと子蛙に尋ねます。子はもっと大きかったと答えます。親はもっとおなかを膨らませ、子はもっと大きかったと答えます。

 

 そういうやり取りを続けているうち、ついに親蛙のおなかははじけてしまいます。蛙が牛の大きさにまで膨らむのは、勿論不可能なことでしょう。身の程知らずの蛙の愚かさを笑うという話です。パウロはここで、コリント教会の人々が持っている知識は、自分を高ぶらせるだけで、それは何の益にもならないと言っているのではないでしょうか。

 

 学者の研究によると、コリントの信徒たちの中に、自分がいかに正しい知識を持っているか、偶像に供えられた肉を食べても何の害を受けないということを証明して見せるために、「偶像の神殿で食事の席に着いて」(10節)いた人物もいたようだということです。

 

 コリントの町の上流階級の人々は、異教の神殿で様々な祝いの席を設けることを常としていたそうです。その席に招かれること、あるいはその席に客人を招くことが、彼らのステータスだったわけです。そこで飲み食いしても何の影響も受けないことを示して、自分の信仰の強さ、知識の確かさを証明した気になっていたのでしょう。

 

 それは、キリスト者であろうとなかろうと、コリントの町の人ならば、誰もが当たり前に参加していた行事でしょう。ところが、キリスト者になった今、その祭りに参加して異教の偶像に供えられた肉を食べることは、主なる神に罪を犯すことになるのではないかと考える人もいました。

 

 そこで、信仰が強いと自称する人々が、そのように考える人を「信仰が弱い」と批判し、パウロに彼らの信仰の指導を依頼したのではないかと考えられます。そのことをパウロは、そのように弱い者を見下ろす態度をとる者たちの知識は、自分を高ぶらせるだけの無益な知識であると批判しているのです。

 

 それだけでなく、「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事に席についているのを、誰かが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」(10,11節)と言います。

 

 パウロは、偶像なる神は存在しないことを認めてはいますが、しかし、偶像の祭りに参加することを無害とは考えていません。弱い者はそれによって滅びてしまうというのは、再び偶像のとりこにされてしまうということでしょう。パウロはそこに、悪しき霊の働きを見ているのかも知れません。

 

 そうすると、キリストの贖いの業を、無駄にすることになります。11節の「その(弱い)兄弟のためにも」の「も」という言葉は、原文にはありません〔ローマ書14章15節参照〕。岩波訳は直訳的に、「〔しかし〕その彼は兄弟なのであり、その人のためにキリストは死なれたのである」と訳しています。

 

 そして、弱い兄弟をつまずかせ、信仰の道を外れさせるのは、「キリストに対して罪を犯すことなのです」(12節)と言い切ります。弱い者が自分の良心を汚してしまうことも、強い者が弱い兄弟を顧みないことも、教会の主キリストに対して等しく罪を犯すことになるのです。

 

 そうするくらいなら、「わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)とパウロは語りますが、これは、偶像に供えた肉を食べないというのではなく、どのような肉も食べないという意味です。これによってパウロは、はっきりと弱い者の側に立つと言明しているわけです。

 

 一方、「(愛は)造り上げる」(1節:オイコドメオー)とは、「建築する」という意味の言葉で、パウロは、その行動によって人を高め、キリストの教会を建て上げることを求めます。すなわち、正しい知識を持っていることが行動の基準ではなく、愛こそが行動の基準として重要であることを示しているのです。特にそれは、弱い者を生かし、その交わりが豊かになることなのです。

 

 「我々は皆、知識を持っている」とコリントの教会の人々が言っているということですが、「我々」とは誰のことでしょうか。私たちが日常使う「私たち」というのは、いったい誰のことを考えているのでしょうか。都合の悪い人や仲間に加えたくない人などを省いて、「我々」と言ってはいないでしょうか。

 

 「天にまします我らの父よ」(マタイ福音書6章9節)と祈るとき、私たちは信仰による神の子、キリストの兄弟として、父なる神の御前に並んで立っています。主イエスは神を「わたしたちの父」(パーテル・ヘモーン father of us)と紹介されました。

 

 主イエスは私たちを神の子とするために十字架に死に、命の代価を支払ってくださいました。ここに愛があります(第一ヨハネ書4章10節、3章16節など)。イエスを主とするキリストの教会は、互いに愛し合う愛によって造り上げられていきます。主こそ、愛だからです。

 

 互いに愛し合う愛に生きることが出来るよう、聖霊の導きを祈りましょう。

 

 主よ、私たちの心を探ってください。知識の正しさよりも愛によって行動することを選ぶようにという教えに、あらためて自分の愛のなさを教えられました。いつも主を拝し、御顔を慕い求め、御言葉に従うことを喜びとしますように。聖霊により、神の愛を私たちの心に満たし、互いに愛し合う愛に生きることが出来ますように。主に従うことによって、その栄光を表すことが出来ますように。 アーメン

 

 

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」   コリントの信徒への手紙一9章23節

 

 冒頭の言葉(23節)で「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というパウロは、19節で「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と語っていました。これは、パウロが実際に奴隷になったということではありません。対象となる人々の生活や環境を受け入れて、それに従うことを意味します。

 

 具体的には、「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました」(20節)と言っています。彼はユダヤ人ですが、キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人であることから自由になったのです。しかし、ユダヤ人に福音を伝えるためには、ユダヤ人として生活するというのです。

 

 そして、それとは反対に「律法を持たない人」(21節)、つまりユダヤ人ではない異邦人に対しては、「律法を持たない人のようになる」ことも出来ます。それは、律法で禁じられているものを食べてでも、彼らと交わるということでしょう。それが福音の前進に役立つとあれば、いとわず進むのです。

 

 扇谷正造という人がずいぶん前に著した『トップの条件』(PHP研究所,1983)という本があります。副題に「『恕』1字で萬事」と記されています。「恕」の訓読みは「ゆるす」で、「相手の立場や心情を察すること、またその気持ち。思いやり」を意味します。寛恕といった熟語もあります。

 

 この本の中に、英国のウインザー公の話がありました。彼が皇太子のころ、当時は大英帝国を誇り、世界各地に植民地を持っておりました。そして毎年、植民地の王たちを招いて、ロンドンで大晩餐会を催していたそうです。そこには、英国の紳士淑女が陪席します。

 

 ある年の晩餐会で食事の最後にフィンガーボールが出てきたとき、インドの王様がその水を飲んだというのです。まさか、それは手を洗う水ですよといって主賓に恥をかかせる訳にもいかず、どうしようと陪席の紳士淑女たちが戸惑っていると、ホストのウインザー公もそれを飲んだ。それで一同がそれに倣い、晩餐会が無事に終了したそうです。

 

 このウインザー公の心配りが、恕の精神だというわけです。相手に恥をかかせないもてなし、相手の立場に立ってものを考える力が問われるということです。パウロが、すべての人に対してすべてのものになったというのは、恕の精神をもって行動しているということではないでしょうか。

 

 すべての人に対してすべてのものになったというパウロが、一番強調しているのは、22節の「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」ということです。その理由として、二つのことを上げることが出来ます。

 

 一つは、すべての人に対してすべてのものになったと言っているのに、「強い人に対しては、強い人のようになった」という言葉がないことです。パウロは、できるだけ多くの人を得たいと考えていますが(19節)、強い人のようになるとき、弱い人は彼を離れるでしょう。明らかに彼は、弱い人に寄り添い、弱い人と共に歩み、自ら弱い人として生きることを選んでいます。

 

 もう一つは、「弱い人のようになった」を原文で読むと、「のよう」という言葉がないことです。正しく訳せば、「弱い人になった」という文章になります。強い者から批判される対象となり、その批判を跳ね除けられるような強い者ではなく、批判されるままにその弱さを担う者になったというのです。「すべての人の奴隷になった」という表現もそれを示しています。

 

 そしてこれは、パウロが主イエスを模範として行ったことなのです。主イエスは「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ書2章7節)。その十字架の死によって、すべての人の罪を担い、贖ってくださったのです。それによって、私たちは救いを得ました。主イエスに倣う生き方をすることこそ、パウロの語る「共に福音にあずかる」ということなのです。

 

 福音に共に与る者となるために、どんなことでもすると語ったパウロは、それに続いて、競技場で競技をする者の例を持ち出します。東京オリンピック開催が来年に延期になりました。パウロは、オリンピックを見たことがあるかどうか、定かではありませんが、コリントの町では、イストミア競技会と呼ばれる大競技祭が、2年ごとに開催されていたそうです。

 

 だから、コリント教会の人々は、パウロが短距離走や拳闘について語るとき、活き活きとしたイメージでそれを聞いたことでしょう。25節に「朽ちる冠」という言葉があります。オリンピックでは月桂冠をかぶらせますが、イストミア競技会の勝者には、枯らしたセロリで作った冠がかぶせられたそうです。

 

 なぜセロリなのか分かりませんが、その冠そのものに価値がないという点では、「朽ちる冠」という表現がぴったりです。しかし、勝者になる栄誉を受けるために、競技者たちは厳しく節制します。

 

 この話をしながら、パウロは「わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制する」(25節)と言います。この言葉で、競技の観客のような信仰の傍観者などではなく、信仰生活で「朽ちない冠を得る」勝利者となるよう、私たちにチャレンジしています。

 

 私たちが教会生活という団体競技で勝利者となるというのは、他の誰よりも強い確信があるとか、豊富な知識を持っているというようなことではありません。そうではなく、皆が「福音に共にあずかる者となる」(23節)ということであり、そのために互いに愛し合うこと、隣人に対してキリストの愛をもって奉仕することなのです。

 

 パウロに倣い、私たちも福音の共にあずかる者となるため、私たちの大切な家族親族、知人友人を覚えて主の導きを祈りましょう。愛をもって相手に仕え、生活を通して主の愛と恵みを証ししましょう。

 

 主よ、パウロが弱い人になったのは、自分の罪のために死なれた主イエスの福音に参与することでした。私たちも、それぞれの方法で福音にあずかる者となることが出来ますように。御霊に満たされてその力を受け、心に神の愛が注がれて、主の御業に用いられるうつわとしてください。 アーメン

 

 

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 コリントの信徒への手紙一10章13節

 

 9章31節で「他の人に宣教しておきながら、自分のほうが失格者になってしまわないためです」と記したパウロは、「次のことはぜひ知っておいてほしい」(1節)といって、イスラエルの先祖たちの失敗を語り、コリントの教会の人々に警告します(11節など)。

 

 モーセに率いられたイスラエルの民は、雲の柱、火の柱をもって守り導かれる神に従って(出エジプト記13章21,22節)、葦の海の乾いたところを通ってエジプトを脱出しました(同14章)。彼らは、シナイの荒れ野で神が与えたパンを食べ(同16章)、岩から流れ出た水を飲みました(同17章)。

 

 パウロはここで、葦の海を通って奴隷の地エジプトを脱出した経験をキリストにつくバプテスマと(2節)、荒れ野でマナを食べ、岩から出た水を飲んだ経験を主の晩餐と(3,4節)結びつけて、特に水を出した岩をキリストと同定することで(4節)、イスラエルの民に命を守り支えているのは、主イエス・キリストであることを示しています。

 

 ところが、彼らの大部分は荒れ野で滅ぼされました(5節)。彼らが神に従わなかったからです。それは、異教の偶像を礼拝し(7節、出エジプト記32章など)、みだらなことをし(8節、民数記25章2,6節以下など)、キリストを試み(9節、民数記21章4節以下)、指導者に不平を言ったこと(10節、民数記16章1節以下、17章6節以下)などです。

 

 イスラエルの民は神に与えられた自由を自分の欲望に売り渡し、罪の奴隷となってしまったのです。だから、以前の罪の奴隷から解放されたコリントの人々が、自由を履き違えて神の御心に適わないことをして滅びを招かないように、警告しているわけです。

 

 それは、そのような生活をする人々がいたのでしょう。異教の偶像に供えた肉を食する宴に参加することを厭わず、コリントの町に1000人いたと言われる神殿娼婦と交わることをためらわない人がいますし(6章9節以下、8章1節以下)、パウロが主イエスに召された使徒であることを疑い、その指導に背いて(9章1節以下)、教会分裂の危機を生じています。

 

 彼らは、そのようにすることが真の知識を持った自由人の証しと言ってはばからないわけです。けれども、当然のことながら、罪の赦しと罪からの解放とは、罪を犯す自由と権利を得ることではなく、罪を犯さない生活をすることです。

 

 主イエスは、姦淫の現場で捕らえられた婦人を罪に定めず、解放されましたが、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8章11節)と命じておられます。パウロも、それを冒頭の言葉(13節)で確認しているわけです。

 

 ここで、「試練(test,trial)」(ペイラスモス)という言葉には「誘惑(temptation:欽定訳ほか)」という意味もあります。神ご自身が人を罪に誘惑されることはあり得ません。それは、悪しき霊の仕業です。しかし、神が悪しき霊をもその手中で支配しておられ、その仕業をある程度許容しておられます。

 

 それは、私たちがその誘惑に際し、あるいは悪しき霊に苦しめられるとき、どのように振舞うかを試す、文字通り、試練として用いられるわけです。そして、ご自分を求める者たちには、自分の欲望を満足させようとする罪の誘惑に打ち勝ち、あるいは誘惑から逃れ、神の御心に従って生活が出来るように、必要な知恵や力、助けをお与えくださるのです。

 

 その根拠は、「神は真実な方です」ということです。神は、イスラエルの歴史を貫いて、常に真実であられました(申命記32章4節、詩編36編6節、40編11節、89編9節、イザヤ書49章7節、65章16節、ゼカリヤ書8章8節、ヨハネ3章33節、ローマ書3章4節、1コリント1章9節、2コリント1章18節など)。

 

 ゆえに、背き続けるイスラエルの民を憐れました。そしてついには、独り子をさえお与えになり、その血によって私たちと新たな契約を結んでくださったのです(ヘブライ9章15節以下、12章24節など)。私たちと共におられ、私たちを守ってくださる主イエスとの真実な交わりに生きること、それが、真実な神を信じて生きる道なのです。

 

 私たちは、キリストの血という代価によって買い取られ(6章20節)、真実な神の霊を宿す神殿とされています(同19節)。神の真実に支えられて、信仰の道を誠実に歩んでいきましょう。 

 

 主よ、今日の御言葉を感謝します。主の真実に信頼します。私たちは不真実であっても、あなたは常に真実な方だからです。あなたの真実に支えられて、主の道を歩みます。聖霊と御言葉によって私たちを常に正しい道、命の道へ導いてください。 アーメン

 

 

「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 コリントの信徒への手紙一11章1節

 

 冒頭の言葉(1節)の「わたしに倣う者となりなさい」という勧めは、4章16節に続いて2度目の登場です。パウロは、自分の言うことを聞けと命じるのではなく、自分を手本とせよと言います。師が弟子にそう語るのは、当然と言えば当然のことです。

 

 パウロ自身は、「キリストに倣う者である」と言います。ここに、キリスト、パウロ、コリントの信徒たちという順序、上から下への流れがあります。パウロなしに、コリントの教会はありませんでした。そして、キリストなしに、使徒パウロは存在し得なかったのです。

 

 パウロはどのようにしてキリストに倣い、コリント教会の信徒たちの模範となろうとしているのでしょうか。それは決して、パウロが立派な生活が出来ているとか、完璧にキリストに倣っているという意味の模範ではありません。パウロはいつも、十字架につけられたキリストに注目しています。ですから、コリントの信徒たちにも、キリストに目を注いでほしいと考えているのです。

 

 十字架のキリストに目を注ぐと、何が見えてくるのでしょうか。キリストの十字架は、私たちの罪を赦し、救いの道を開くものでした。パウロは、キリストに倣って、自分が救いの道を開く者になったと言っているのでしょうか。勿論そうではありません。断じてそうではありません。十字架が私たちの救いの道となったというのは、そこにキリストが命を捨てられたということです。

 

 キリストが十字架にかかられたのは、決して英雄としてではありませんでした。罪なき神の子が罪人として裁かれ、そこで死なれたのです。既に見たとおり、「十字架につけられたキリスト」を宣教するのは「愚か」であり、「つまずかせるもの」でした(1章23節)。

 

 しかし、信仰の目が開かれたとき、キリストの苦しみと死は、永遠の栄光をもたらす神の力の表れであり、父なる神の使命を果たすために、御子キリストが十字架にかかり、贖いの業を成し遂げられたものであることが分かったのです。ゆえに「自分の十字架を背負って」(ルカ福音書9章23節)とは,日々、主の使命を自覚し、それを行うことを意味していると言ってよいでしょう。

 

 パウロがキリストに倣うと語るのは、神に忠実に従って十字架の苦しみを受け、死なれたキリストに倣うこと、つまりそれは、自分の名を上げることではなく、主のため隣人のために、特に弱い者のための愛と奉仕という主の使命に生きることなのです。誰が注目してもしなくても、評価されてもされなくても、一人を獲得するために働くのです。

 

 場合によっては、それは多くの人から批判される働きになります。見失った一匹の羊を探し出すため、99匹の羊を野原に残せば(ルカ福音書15章4節)、羊飼いは99匹の羊から文句を言われるかもしれません。自分勝手にいなくなった一匹にそこまで目をかけて、ずっと従って来た私たちを野原に放っておくのかと。

 

 あるいは、そもそも一匹の羊を見失うこと自体、羊飼い失格という証拠だということにされるのではないでしょうか。キリストは見失った一匹を獲得するために、「どうして彼(主イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マルコ福音書2章16節)という文句を引き受けられたのです。

 

 あらためて、考えてみてください。実は他の99匹も以前は見失われ、野に迷い出ていたものであって、キリストによって一匹ずつ見出されたものでした。主イエスが羊のために命を捨ててくださるよい羊飼いだからこそ(ヨハネ福音書10章11節)、今の私たちがあるのです。

 

 パウロは、その感謝、喜びを忘れることが出来ません。彼は、単に迷い出たというようなものではありませんでした。羊飼い失格と考え、キリストに敵対する者だったのです(ローマ書5章6節以下)。にも拘わらず、愛され、義とされ、和解させていただき、救いに与りました(同10節)。だから、キリストに倣ってその一匹を探し出す者となり、その働きでコリント教会が建てられたのです。

 

 パウロの願いは、すべての人に福音を告げ知らせ、救いに導くことです。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(9章23節)というパウロです。10章33節でも「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」と言っていました。

 

 自分の自由、知恵知識、経験を誇り、他者を差別する生き方ではなく、すべての人に仕える生き方、それが、パウロのキリストに倣う姿勢、福音を告げ知らせるスタンスです。その姿勢にコリントの教会の人々が倣ってくれること、協力し合うことを願っているのです。

 

 めいめいがどこから主の救いに導かれ、今があるのかを思い起こし、感謝をもって主に仕え、委ねられている使命を果たして参りましょう。 

 

 主よ、キリストの体なる教会が、絶えず神の愛に満たされ、キリストの愛を実践することが出来ますように。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に泣く真実な交わりで、すべての人と平和に、共に福音に与る歩み、働きが出来ますように。絶えず聖霊の満たしと導きをお与えください。 アーメン

 

 

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」 コリントの信徒への手紙一12章3節

 

 1節に、「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」と記されています。「ぜひ知っていてほしい」というのは、原文では「無知でいて欲しくない」(ウー・セロー・アグノエイン)という、コリント教会の信徒たちの理解の程度を少々疑う言葉遣いになっています。

 

 また、「霊的な賜物」は、「霊的な、霊の」(プネウマティコス)という言葉で(10章3,4節,15章44,46節)、中性名詞的に「霊的なもの、霊的なこと」(2章13節,9章11節)とも訳されます。

 

 ただ、所有格の複数形は中性形も男性形も同じ綴りになるので、男性名詞的に「霊的な人、霊の人」と訳すことも出来ます(岩波訳脚注参照)。実際、同じ言葉が2章15節、3章1節、14章37節で「霊の人」と訳されています。

 

 ここでは、4節以下に種々の「賜物」(カリスマ)が取り上げられられているので、その文脈から「霊的な賜物」という訳語が選ばれたようです(14章1節も同様)。「賜物」については、コリントの教会で重要視されていた事柄です。ですから、パウロも12~14章と大きな部分を割いて、この問題を取り扱っています。

 

 冒頭の言葉(3節)は、神の霊、聖霊の働きがどのように現れるか、それがどこに認められるかという問題に答えたものです。これは、今日においても重要なことでしょう。これほど文明が発達し、様々なことが科学的に立証される時代になっても、占いやまじない、霊能者と呼ばれる人々が堂々とテレビにも登場して来て、人々の耳目を集めています。その影響力は計り知れないものがあります。

 

 様々な霊の存在、霊の働きが認められる中で、神の霊、聖霊の働きは、それによって語られる言葉、即ち「イエスは神から見捨てられよ」(アナセマ・イエスース:「イエスは呪いである」の意:岩波訳参照)というのか、それとも「イエスは主である」(キュリオス・イエスース)というのかということで判断出来ると、パウロは言っています。

 

 キリスト者が「イエスは見捨てられよ」と発言するとは考えられません。キリスト者を迫害する者が、踏み絵のような形で強いて言わせようとした言葉と考えてもよいでしょう。背後に、異教徒の存在がありそうです。あるいは、コリント教会の信徒たちの中に、異教徒のときに様々な霊体験を持った者がいて、それが今も影響していると、パウロが考えているのかも知れません。

 

 霊によって、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれて(2節)、金縛りにあったり、トランス状態になっておおはしゃぎしたりしたという体験です。この後の議論から、特に「異言を語る」(10節、13章1節、14章2,4節など)という経験をすることが、霊的な恵みを受けたこと、特別な存在となったことの証拠と考えられたようです。

 

 そこで、そういう体験を求めて「ものの言えない偶像」のもとに熱心に通ったということでしょう。コリント教会の信徒たちが霊的な「体験」を熱心に求めるというのは、そのような異教の霊の悪影響を引きずっているのではないかというわけです。

 

 しかしながら、彼らは異教の悪影響から救われ、主イエスを信じる神の子どもになりました。神の霊、聖霊の働きは、「イエスが主である」と信じることが出来るように導き、そう告白させることです。私たちが信仰を得たこと、そして、「イエスが主である」という信仰告白に導かれたのは、神の霊の導き、聖霊の賜物であるという主張がここにあります。

 

 聖霊は私たちに真理を教えます(ヨハネ福音書14章17節、16章13節など)。同様に、キリストの言葉にとどまることで、真理を知ります(同8章31,32節)。そして、御言葉による真理は、私たちを自由にします(同8章32節)。

 

 また、「主の霊のおられるところに自由がある」(第二コリント書3章17節)という御言葉があります。こうして、聖霊はキリストの御言葉を通して働かれると見ることが出来ます。

 

 神に喜ばれるのは信仰です。信仰がなければ、神に喜ばれることは出来ません(ヘブライ書11章6節)。そして、その信仰は、キリストの言葉を聴くことによって始まるのです(ローマ書10章17節)。御言葉を慕い求めましょう。御言葉に聴き従いましょう。聖霊はその信仰の中で働かれるのです。

 

 主よ、今日も御言葉を求めます。御言葉を聴きます。そこから、信仰が始まるからです。聖霊の導きによって、御言葉の真理を悟らせてください。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできると言われているからです。真理に従って歩むことが出来ますように。私たちの歩みを祝福してください。 アーメン

 

 

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」 コリントの信徒への手紙一13章4節

 

 13章は、「愛の賛歌」と呼ばれて親しまれている箇所です。パウロは、12章の最後のところで、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12章31節)と記しています。そうして語られたのが、この「愛の賛歌」です。即ち、パウロは、愛こそが最大の賜物、愛に生きることこそ最高の道と考えているわけです。

 

 1~3節に、12章に記されていた「霊の賜物」が登場して来ます。まず1節、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と言われます。14章でパウロは、「異言」という賜物を肯定的に評価していますが、それには、愛をもって語ることが重要だというわけです。

 

 「やかましいシンバル」のあとの動詞が省略されていますが、「なる」(ギノマイ)の現在完了形が用いられているので、直訳すれば「なってしまっている」となります(岩波訳参照)。コリントの信徒たちの語る異言は、大きな音を立てる楽器と化していて、そこに意味を見いだすことが出来ないとているという批判の言葉ということが出来そうです。

 

 2節は、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」です。教会を造り上げるためには、「預言」の賜物が「異言」にまさっていると14章5節に記されていますが、愛なしにはそれも無に等しいのです。

 

 「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じている」、「完全な信仰を持って」いるということを自慢している人々がいたようです。神から与えられた賜物を持っていることを自慢する者たちは、他者への愛に欠けており、それは無意味なことだというパウロの批判と見ることが出来ます。

 

 3節には、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と記されています。貧しい人々に全財産を施すというのは、最高の道徳行為と考えられていました。また、「わが身を死に引き渡す」とは、殉教の死を遂げるという表現です。命をかけて信仰を守るというのは、信徒の誇りでしょう。

 

 しかし、最高の行いと思われることでも、愛がなければ、何の益もないと言われます。これは、大変厳しい言葉ではないでしょうか。施しというものは、その動機が何であれ、そこには多少なりとも愛があるでしょう。それを、愛がなければ無益と言われるということは、逆に、私たちは愛の行為をすることが出来るのかということになるのではないでしょうか。

 

 そこで、パウロは4~7節において、15の動詞を用いて、愛の特質について説明します。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」です。

 

 「忍耐強い、情け深い」と言えば、日本語では形容詞ですが、原語では「忍耐する、親切にする」という動詞です。動詞で愛の特質を説明しているのは、愛というものは、何よりも行動によって示されるものであるということです。

 

 バークレイの注解では、冒頭の言葉(4節)の「忍耐強い」(マクロスメオー)という動詞について、「常に人々に対する忍耐を表わし、周囲の状況に対する忍耐を意味してはいない。それは、他者から不当な扱いを受け、これに対して復讐しようと思えば簡単に出来るのだが、あえてそれをしない、そういう人間について用いられる言葉である。それは怒りを遅くする者をあらわす」と言います。

 

 私たちは、たとえば、貧しさとか病気などの苦しみは耐えようとすることが出来ますが、むしろ、人々から受ける不当な扱い、たとえば、誤解されること、無礼な態度をとられる、侮辱されるなどの苦痛を味わわされても、それをじっと忍耐し、あえて復讐しないというのは、大変困難なことです。

 

 パウロは、十字架の苦難、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架に釘づけられるという苦痛の上に、あらゆる侮辱、嘲りを耐え忍ばれた主イエスの忍耐を思っているのです。この「忍耐強い」という動詞に示されているのは、キリストを通して表された神の愛なのです。

 

 よく言われることですが、4~7節の「愛」という言葉に自分の名前を入れて読んでみましょう。どうでしょう。はっきりと声を出して読めますか。だんだん声が小さくなりますね。自分の内に、聖書で言う愛がないということを、思い知らされるような感じです。

 

 あらためて、「愛」という言葉を「キリスト」と置き換えて読んでみましょう。「キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。ねたまない。キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 

 何の違和感もありません。ここに語られている「愛」は、確かにキリストを表わしているということが分かります。ということは、ここに15の動詞で表現されている愛は、パウロが経験してきた、パウロが味わっている主イエスのご愛そのものということではないでしょうか。

 

 以前、幼稚園の卒園式のときに、泣いている子どもたちがいたので、「悲しいことがあれば、泣けばいい。だけど、光の子として胸を張ろう。後ろのことは忘れて、前を向こう。力を合わせ、助け合って前進しよう。神様がきっと祝福してくださる」と話したことがあります。

 

 式の後、一人のお母様が私のところにおいでになって、あの言葉で癒されましたと仰いました。どういう悲しみをお持ちなのか、詳しいことは分かりませんが、神様がすべてご存知で、拙い言葉を通して、お母様に慰め、癒やしをお与えくださったのだと思いました。神様がそのご家族を、広い愛、長い愛、高い愛、深い愛で導いてくださるようにと祈りました(エフェソ書3章18,19節参照)。

 

 パウロは、「愛は決して滅びない」(8節)、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(13節)と断言します。信仰と希望と愛は、7節で「忍び」と「耐える」にはさまれて、「(愛は)すべてを信じ、すべてを望み」と記されていました。パウロはここに、終末に訪れる神の愛の最後の勝利を堅く信じ、その勝利を待ち望んでいるのです。

 

 この愛が神の最大の賜物であり、それを受けるよう「熱心に努めなさい」と言われるということは、愛を祈り求めよということです。祈りを通して、信仰に、希望に、愛に導かれ、その恵みをお与えくださる主をほめたたえましょう。

 

 主よ、私たちに聖霊をお与えくださり、感謝いたします。聖霊を通して私たちの内なる人を強め、信仰によってキリストを心の内に住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者、神の忍耐強い愛に生きる者としてください。 アーメン

 

 

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」 コリントの信徒への手紙一14章1節

 

 14章でパウロは、「異言と預言」という霊的な賜物について記しています。

 

 「異言」というのは、私たちが日常生活で使う言葉ではありません。原文を直訳すると「舌」(グロッサ)という言葉です。自分が語ろうとして語る言葉ではなく、霊が語らせる言葉、霊が自分の舌を動かして霊の語らせるままに語るので、自分の思いとは異なる言葉ということで「異言」というようです。

 

 「異言」は、語る人にもその意味が分からないものです。これは、神に向かって語られる、誰にも分からない、霊によって神秘を語るという霊的な言葉の賜物です(2節)。使徒言行録2章4節に「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあり、それは異言とはされていませんが、イエスの弟子たちの意思によらず自分たちの国語ではない言葉を話し出したという点で、得言といってもよいでしょう。

 

 120人が一斉に様々な国言葉で話し出せば、それを聞き分け、語られていることを正確に理解するということは、思うほどたやすいものではありません。故に、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(同13節)とあざける者もいたと言われます。自分の故郷の言葉で話されているのを聞いて心打たれ、キリストを信じる者になったというわけではなかったのです。

 

 コリント教会の中には、異言の賜物を過度に重んじる人々がいました。異言を語ることが、霊的に成長し、信仰が成熟した者の証拠であるかのように考えていたようです。そのような考え方をする人が、コリントの教会の有力者といわれる人々の中に少なからずいたと、注解書に記されていました。

 

 異言が語る経験を持たない人々が多い教会では、この賜物を軽んじ、あるいは忌避する傾向がありますが、異言も教会に与えられた「霊的な賜物(タ・プネウマティカ:複数形)」の一つであり、「霊の働きが現れるのは、全体の益になること」(12章7節)といって、同8節以下に霊の賜物を列挙する中に「種々の異言を語る力」(同10節)と挙げられています。

 

 だからパウロは、誰にも理解出来ないような異言を語るのはやめなさいという言い方をしません。むしろ18節で「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と言っており、また39節に「異言を語ることを禁じてはなりません」と記しています。

 

 3,4,12節に「造り上げる」という言葉が出て来ます。これは「家を建てる」(オイコドメオー)という言葉で、口語訳では、「徳を高める」と訳されていました。ここでは「高める、強くする、確立する、徳を養う、益となる」といった意味にも用いられます。

 

 異言は、個人を強め、造り上げるものです(4節)。それは、異言の賜物が私たちを強めるということではなく、異言の祈りを与えられる聖霊の働きによって、私たちが造り上げられるということでしょう。しかし、異言が教会の中で語られても、それは誰にも理解出来ないものなので、それを聞いて互いに心を一つにすることが出来ません。

 

 15節に「霊で祈り」、「霊で賛美し」とあるのは、文脈上、異言の祈り、異言の賛美と考えてよいでしょう。異言で祈り、賛美すれば、霊的な実を実らせることになるでしょうけれども、それは他者にも自分自身にも分かる言葉ではないので、私たちの理性は実を結ばず(14節)、教会を造り上げることが出来ないというのです。

 

 4節には、教会を造り上げるのは、預言の賜物だと記されています。預言とは、何年後にどういうことが起こるかを予め語る「予言」のことではありません。聖霊の働きで神の言葉を預かり、それを人に向かって語ることです。

 

 異言が神に向かって語られるのに対し(2節)、預言は人に向かって語られるもので、人を造り上げ、励まし、慰めます(3節)。だから、教会を造り上げるために、冒頭の言葉(1節)で、「預言をするための賜物を熱心に求めなさい」と言われています(5,12節も参照)。

 

 「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)と主イエスが言われ、その後、ペンテコステに福音を大胆に語り出し、多くの人々が信仰に導かれました(同2章1節以下)。

 

 だから、預言が出来ればよいというのではありません。聖霊の力に満たされて、キリストを証しすること、福音を宣べ伝えることが求められます。そのことを、パウロは、「預言の賜物を求めなさい」という言葉で勧めているわけです。

 

 キリストの体なる教会を造り上げるために、大胆に力強く福音を伝えることが出来るように、御言葉を語る器として用いられるために、聖霊に満たされること、聖霊の賜物が豊かに与えられることを、熱心に祈り求めて参りましょう。

 

 主よ、私たちが大胆に福音を宣べ伝え、教会を造り上げるために、聖霊に満たし、御霊の賜物、特に預言の賜物を授けてください。聖霊を通して注がれる神の愛を受けて、平和を作り出す者となることが出来ますように。 アーメン

 

 

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いておるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」 コリントの信徒への手紙一15章3~5節

 

 15章には、パウロがコリントの人々に「告げ知らせた福音」(1節)について、記しています。「もう一度知らせます」(同節)と語られていますが、原文には、「もう一度」という言葉はありません。以前「告げ知らせた福音」を「知らせる」(グノーリゾー)というので、「もう一度」という言葉が訳文に付け加えられたわけです(岩波訳参照)。

 

 再び知らせようとしている「福音」は、以前彼らに告げ知らせたものであり、彼らが「受け入れ、生活のよりどころとしている」(1節)ものです。「生活のよりどころとしている」は、原文では「そのうちにに立っている」(エン・ホー・エステーカテ)と書かれています。「立っている」というのを、「生活のよりどころとしている」と意訳したわけです。

 

 その「福音」が、冒頭の言葉(3~5節)です。その内容は、①キリストがわたしたちの罪のために死んだこと(3節)、②葬られたこと(4節)、③三日目に復活したことです(4節)。そして、復活の証人としてケファ(即ちペトロ)と12人が挙げられました(5節)。12人とは、主イエスがお選びになった使徒たちのことです。

 

 「キリストがわたしたちの罪のために死んだこと」(3節)と、「三日目に復活したこと」(4節)には、「聖書に書いてあるとおり」という言葉が記されています。聖書とは、この時代、新約聖書は出来ていませんから、旧約聖書のことを指しているのですが、旧約聖書を調べると、救い主メシアが私たちの罪のために死なれること、そして三日目に復活されることが記されているというのです。

 

 主イエスが、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ福音書5章39節)と仰ったのも、そのことを指しています。

 

 一方、「葬られたこと」(4節)と「ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」(5節)には、「聖書に書かれているとおり」という言葉がありません。これは、聖書に記されているかどうかという問題なのではなくて、この二つは、それぞれ、歴史的な事実を証言しようとしているのです。

 

 「葬られた」ということは、主イエスが死なれたというのは、歴史的な事実であるということを証言しています。エルサレムに聖墳墓教会、主イエスのお墓の教会があり、その地下に、主イエスが葬られた墓が保存されています。墓があるということは、主イエスが、歴史的事実として死んで葬られたということを,確かに証言しているのです。

 

 また、「ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」というのは、主イエスが「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」(4節)ということが、歴史的な事実であると証言しています。復活されたからこそ、その後、ケファ(ペトロのこと)や12人の前に姿を現すことが出来たのです。

 

 何気ない言葉ですが、パウロが伝えた証言によれば、ケファに現れた後「十二人」に姿を現されました。「十二人」とは、主イエスが使徒として選ばれた人々で、そこにはイスカリオテのユダも含まれます。もしもユダの自死を告げるマタイ27章5節や神の裁きを示す表現の使徒言行録1章18節の証言が正しければ、ユダを除いて「十一人」と言わなければならなかったはずです。

 

 つまり、福音書や使徒言行録よりも早く記述されたパウロの福音は、イスカリオテのユダの前に甦られた主イエスが姿を現されたと証言しているのです。いずれの証言が正しいのか判然としませんが、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、そして三日目に復活されたことが、予め聖書に記されていたことであり、そして、さらにそれが歴史的な事実として証言されていると、ここに語られています。

 

 パウロはこれを、「最も大切なこととしてあなたがたに伝えた」(パレドーカ・ヒューミーン・エン・プロートイス)と語っていますが、しかしこれは、パウロが考え出したものではありません。「わたしも受けたものです」(ホ・カイ・パレラボン)と告げているとおりです。

 

 ちょうど、リレーの走者がバトンを受け渡すように、あるいは、駅伝ランナーがたすきを受け渡すように、しっかりと先の者からあとの者へ、福音を語る役目を引き継いだということです。最も大切な福音と呼ばれている冒頭の言葉は、初代キリスト教会、ペトロやヤコブ、ヨハネたちが宣べ伝えるときに用いた福音の言葉、伝道の言葉、あるいは信仰告白と言われています。

 

 「最も大切なこと」と呼んでいるわけですから、この福音の言葉は一字一句替えないで、受け継がれてきたものだと思います。しかしながら、パウロたちはそれを伝言ゲームのように、正確に憶えて間違えないように次の人に語っただけということでもありません。

 

 というのは、この福音は、聞いた人々に受け入れられ、生活の拠り所となるからです(1節)。「わたしも受けた」と語ったパウロも、この福音によって救われたのです。まさに、この福音に救いを得させる神の力が働いているのです。

 

 その上パウロは、6,7節を付け足しています。500人以上もの兄弟たちに同時に現れ、次いでヤコブに現れ、その後、すべての使徒たちに現れたと言います。ヤコブは、主イエスの実弟で、後にエルサレム教会を中心的に担うことになった人物です(使徒言行録21章18節以下)。

 

 この付け足しは勿論、彼が勝手に考えたことではなく、これもバトンが渡されるたびに付け足されてきたのではないでしょうか。即ち、ケファ、12人、そして500人以上の兄弟たち、主イエスの実弟ヤコブ、それからすべての使徒たちが、甦られた主イエスと出会って、主イエスの甦りを証言する者とされました。

 

 そして、最後に「月足らずで生まれたようなわたし」(8節)、即ちパウロにも主イエスが姿を現されたと言います。主イエスの福音は、聖書において預言され、歴史的な事実として語り告げられてきたこと、そしてパウロもその事実を味わった一人として、福音を告げ知らせるバトンを受けたということです。

 

 本来ならば、彼はそこに名を連ねるはずのない人物でした。むしろ、そのような証言者を根絶やしにしようと迫害する側にいたのです。9節に「神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と記しています。だからこそ、「月足らずで生まれたようなわたし」というのです。

 

 確かに、パウロがバトンを受けたのは、神の恵みです。決して、自分からなろうとしてキリストの使徒となったのではありません。神がパウロを神の御子キリストの復活の証言者、福音伝道者たる「使徒」として選ばれたのです。

 

 そして、キリストの復活の証人、使徒として働くことこそが、本来のパウロのあるべき姿でした。それを神の恵みによって見出したというのです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです(I am what I am)」(10節)と語っているのは、そのことです。

 

 神の恵みを受けるまでは、そのことが分からなかったのです。ですから、パウロの働きすべてが神の恵みなのです。すべてが「神の恵み」という言葉に集約されていますが、パウロにとって、どんなにマイナスと見えることも、神の恵みの中でそれが益となって働くということを、使徒として働く中で味わってきたわけです。

 

 今、この福音宣教のバトン、多くの人々の汗と涙、血のにじんだたすきが、私たちのところまで運ばれてきました。私たちも、私たちの罪のために死なれ、三日目に復活された主イエスの福音を信じて、救いの恵みに与りました。甦られた主イエスに選ばれ、召されたのです。

 

 この福音にしっかり立ち続け、そうして周りの人々に、最も大切なこととして語り告げて参りましょう。主の恵みと導きが豊かにありますように。

 

 主よ、御子キリストが私たちのために死んでくださったこと、それによって命の道が開かれたことを感謝します。死への恐れではなく、永遠の命に生きる希望をもって、この地上で主の業に励みたいと思います。絶えず霊の恵みをもって励まし、助けてください。私たちを、主の十字架と復活の証人として用いてください。 アーメン

 

 

「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。愛をもって行いなさい。」 コリントの信徒への手紙一16章13~14節

 

 16章は、「エルサレム教会の信徒のための募金」についての指示(1~4節)、コリントへの「旅行の計画」(5~12節)、そして最後に「結びの言葉」(13節以下)が記されています。

 

 冒頭の言葉(13,14節)は勧告で、13節に四つ、14節に一つの命令形の動詞があります。

 

 まず、「目を覚ましていなさい」(グレーゴレーテ be alert)というのは、実際に睡眠をとらない生活をすることではありません。信仰の目を覚ましていること、今がどのようなときであるかをわきまえ、特に、終わりの日が近いことを考え、再臨の主を待望して、その希望にふさわしい生活をすることです。

 

 「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」(ステーケテ・エン・テー・ピステー stand fast in the faith)というのは、自分の主義信条によるのではなく、神の国の福音を土台として、主イエスを信じる信仰に基づいて生活することです。

 

 ヘブライ書11章6節に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあり、また、ローマ書10章17節に「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と記されております。この時代に、何ものにも動かされないでしっかりと信仰に立つことが出来るように、キリストの言葉を聴いていきましょう。

 

 「雄々しく、強く生きなさい」というのは、「雄々しくあれ」(アンドゥリゼスセ be brave)と「強く生きよ」(クラタイウースセ be strong)という二つの動詞が連なって語られているものです。「雄々しく」は、ここ以外に新約聖書には用いられていません。「アンドゥリゾマイ」は「アネール:男(複数形アンドレス)」に関係し、口語訳、新改訳は「男らしく」と訳しています。

 

 「強く生きなさい」も、用例は僅かです(他にルカ1章80節、2章40節、エフェソ3章16節のみ)。「クラタイオオー」は「クラトス」(「力 power」の意:エフェソ1章19節、6章10節、コロサイ1章11節など参照)と関係する言葉です。

 

 この二つの言葉が同時に用いられているのは、詩編31編25節(七十人訳)が反映しているものと考えられます。24節から読んでみましょう。「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ(アンドゥリゼスセ)。心を強くせよ(クラタイウースソー)。主を待ち望む者はすべて」。

 

 ここで、強さや雄々しさは、主なる神への愛に根ざし、主を信頼して待ち望むところに根拠を置いています。「主に望みを置く人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ書40章31節)のです。ですから、真の強さというものは、驕りや高ぶりとは無縁のものなのです。

 

 14節には「何事も愛をもって行いなさい」(パンタ・フモーン・エン・アガペー・ギネスソー let all your things be done with charity)という命令があります。「愛をもって行え」というのは、この手紙の主題ともいうべき言葉です。

 

 愛については、8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語られておりました。また13章は「愛の賛歌」と呼ばれるところであり、霊的な賜物、神のプレゼントについて語っている12章から14章において、最も大いなる賜物、最高の道は、愛であると教えている箇所です。

 

 13章4節から7節において、神の愛が15の動詞で説明されています。即ち、神の愛は行動によって表されるということです。特に「忍耐強い」(4節)、「すべてを忍び」、「すべてに耐える」(7節)と、忍耐する愛が語られます。

 

 私たちの堪忍袋の尾は、簡単に切れてしまいます。もう限界だ、そのような愛には生きられない。そんなことをやっていたら身が持たない、やっていけないということになってしまいます。だからこそ、賜物として与えられる神の愛を祈り求め、すべてのことを愛もって行えと、ここで命じているのです。

 

 結びの言葉の最後に祝福の祈りが記されます。それは、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(23節)という祈りです。礼拝の最後に「主イエスの恵みと、父なる神の愛と、聖霊の交わりがあなたがたの上に豊かにあるように」と、三位一体なる神からの祝福が祈られます。ここは、「神の愛」と「聖霊の交わり」も、「主イエスの恵み」という言葉に込めて祈られているのでしょう。

 

 通常は祝祷で終わりですが、この手紙では祝祷にさらに祈りが続きます。それは、「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(24節)という祈りです。キリスト・イエスこそ、パウロとコリントの信徒を結ぶ絆です。そして、キリスト・イエスのゆえに、パウロは、コリントの信徒たちを愛すると語ることができるのです。

 

 私たちも互いに祈り合いましょう。自分たちの愛が、キリスト・イエスにおいて、キリストの体なる教会に連なる神の家族一同と共にあるように祈るのです。お互いの思いが主イエスによって執り成され、キリストの愛によってお互いが愛の絆で結ばれるように祈りましょう。

 

 主よ、あなたの恵みと導きに感謝します。私たちが何事も愛をもって行うことが出来ますように。主イエスの恵みが、常に私たちと共にありますように。私たちの愛が、キリスト・イエスにおいて神の家族一同と共にありますように。お互いの思いが主イエスによって執り成され、神の愛の絆で結ばれますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設