第一ヨハネ書

 

 

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」 ヨハネの手紙一1章3節

 

 宛名も差出人の名もなく、終わりの挨拶や祈りもない手紙ですが、それは、著者と宛先教会の間に、形式的な挨拶を必要としない関係を考えればよいのでしょう。かえって、ヨハネ福音書と同じような始まり方をして、この手紙が福音書の続編であることを示しているかのようです。著者は福音書とほぼ同一、1世紀の終わり頃、福音書が記された後に記述されたものと考えられています。

 

 著者は、福音書と同様、伝統的に12使徒の一人、ゼベダイの子ヨハネであると考えられて来ましたが、本書にも福音書にも、使徒ヨハネの署名はありませんし、それをほのめかすような記述もありません。最近の主だった学者は、使徒ヨハネの可能性は先ずないと言います。第二書、第三書に「長老のわたし」とあり、それが著者の職名で、教会の重要な指導者の一人と言えます。

 

 本書の冒頭(1節)に「初めからあったもの」と記されておりますが、この「初め」は、ヨハネ福音書1章1節の「初め」と同様、天地が創造される前の「命の言」(1節)なるキリストの先在性を示す表現でしょう。

 

 初めから聞いている神の言葉、この世に現れた「命の言」について、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1節)という言い方をしています。命の言は何よりも先ず、聞かれるものですが、単に聞くというだけではなく、それを目で見、よく見て、手で触れたと言います。

 

 「命の言」を目で見るとはどういうことでしょうか。よく見て、手で触れるとは、どういうことでしょうか。神の言葉というのは、決して、単なるお話などではない、語られておしまい、聞いておしまいというただの言葉ではない、それは私たちに見られるものとなる、つまり、出来事になる、具体的な生活の中に経験され、味わわれるものとなるということです。

 

 あると思えばある、ないと思えばないというような、そんな曖昧なものではない。私たちが信じようが信じまいが、神は初めから存在され、私たちを生かす「命の言」を語っておられるのです。それは出来事となり、目で見、手で触れることが出来るものとなるのです。まさにそれが、主イエスによって実現したのです。

 

 今、肉眼で主イエスを見、この手で主イエスの体に触れることは出来ません。しかしながら、主イエスの御言葉は、2000年前という大昔の話ではなく、今も私たちがその御言葉を聞き、御言葉を信じ、受け入れて歩ませて頂くことの出来るものです。

 

 そして、確かにそれが「命の言」、私たちに命を与え、恵みを与える神の言葉であることを知ることが出来ます。今も主が生きておられ、私たちのために恵みの御業をなしておられるということを、知り、味わい、体験させて頂くことが出来るのです。

 

 1章は10節までという短いものですが、ここに「交わり」(コイノニア)という言葉が、冒頭の言葉(3節)に2回、6,7節に1回ずつの合計4回出て来ます。それだけ、「交わりを持つ」重要性がここで強調されています。

 

 この交わりの特徴について、4節に「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と記されています。交わりを通して喜びがもたらされる、喜びが満ち溢れて来る。神の恵みに満たされ、聖霊の力に満たされる喜び、罪が赦され、清められ、新しくされる喜び、そのような喜びであるということが出来ます。

 

 あらためて、冒頭の言葉(3節)に「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と言われております。私たちは、御父がこの世にお遣わしくださった御子イエス・キリストによって救われ、御父と御子の交わりの中で新しくされ、豊かにされ、喜び満ち溢れる人生を歩ませていただくことが出来るわけです。

 

 著者は、自分たちが御父と御子イエス・キリストとの交わりに生きていて、喜び満ちあふれる人生を歩ませていただいているように、この言葉を聴く者たちが同じようにその交わりによってその恵みを知り、味わい、体験して喜びに満ち溢れる歩みを自分のものとして欲しいと願っているのです。

 

 ここから示されるのは、命の言を聴き、その恵みを味わうためには、「わたしたち」という交わりの中で神の御言葉を聴き、学ぶことが大切ということです。

 

 ただ、著者が完璧な指導をしているから、その交わりが神との交わりになるというのではありません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18章20節)と主イエスが言われたとおり、主の御言葉を聴くために集う中に、主がおられ、主との交わりが豊かに開かれるのです。

 

 つまりそこに、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」というような福音の体験が起こるというのです。教会でなくても聖書を学ぶことが出来るし、一人で聖書に聴くことも出来るでしょう。しかし、それを「命の言」として味わうためには、主の名によって集い合う交わりが必要だということです。

 

 知的な深さ、高さが問題ではなく、神が生かし、導いておられる教会の交わりの中にいて、共に御言葉をいただきながら、その真理に共に触れることが一番大事だと思います。それが、「わたしたちの交わり」と、著者が呼んでいるものなのです。

 

 そのような交わりに与るために、何をすればよいのでしょうか。7節に「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とあります。光の中を歩みなさいということです。5節に「神は光であり」と記されていますから、神の光に照らされて歩むということです。

 

 「あらゆる罪から清められる」ということについて、9節で「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と言われています。光の中を歩むとは、神の光に照らされ、そこで示される罪を公に言い表すということになります。

 

 私たちが光になるとか、光を作り出すということではありません。神様の方に向き直る、主イエスの十字架を仰ぐ、血潮によって清めていただく、御言葉のお恵みに与る、御言葉の光に照らされて、光を頂きながら歩むということです。

 

 この交わりを妨げるのが、罪です。どんなに太陽の光がさんさんと降り注いでいても、窓に分厚いカーテンをかけると、部屋に光が差し込んで来ません。私たちの生活の中で神の光が輝かないのは、罪というカーテンが心の窓にかかって、御言葉の光が閉ざされているからではないでしょうか。

 

 神が私たちに語りかけておられる御言葉に真剣に耳を傾け、互いに心を開き、主に従い、互いに仕え合うこと、これが「交わりを持つようになる」というメッセージです。朝毎に主の御言葉を聴き、その恵みを分かち合い、共に祈りを合わせましょう。

 

 主よ、私たちのために、御父と御子イエスとの交わりを開き、教会の福音宣教を通してその交わりに私たちを招いてくださって、有難うございます。私たちもこの交わりによって生かされ、喜びをもって命の言、命に与る恵みを宣べ伝えさせてください。 アーメン

 

 

「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたがすでに聞いたこのとある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。」 ヨハネの手紙一2章7,8節

 

 1章で語られていた「交わり」について、2章では「神を知っている」(3,4,14節)、「神の内にいる」(5節)「神の内にいつもいる」(6,24節)、「いつも光の中におり」(10節)、「神の言葉があなたがたの内にいつもあり」(14節)、「御父に結ばれている」(23節)、「御子の内にとどまる」(27,28節)といった表現で語っています。

 

 ここで、「いつもいる」(6,10,14,24節)、「とどまる」(27,28節)はギリシア語の「メノー」という言葉で、新約聖書中で112回用いられています。その内、ヨハネ福音書に38回、ヨハネの手紙一に23回、ヨハネの手紙二に3回、ヨハネ黙示録に1回使用されていて、全体の半数以上がヨハネによって用いられていることが分かります。

 

 ヨハネがこれだけ、「留まる」(メノー)という言葉を用いている背景には、当時多くの人々の心を捉えたグノーシスと呼ばれる思想があります。より深い霊的な知識を得ようとして、主イエスの教えから離れる人々が出てきたのです。

 

 また、深い霊的な知識を得たと主張する人々は、そのような知識に到達していない人々を、レベルの低い者と考えて差別していました。ヨハネは、偽りの教えに惑わされないよう、「神を知れ、神の掟を守れ、神の内にいつもいなさい、主イエスにとどまりなさい」と語っているのです。

 

 私たちはかつて、主イエスを知らず、主イエスから離れて、罪の中に生きていました。けれども、今私たちは主を知る者になりました。「神を知る」とは、神についての知識があるという意味ではありません。御父と御子イエス・キリスとの人格的な交わりがあること(1章3節)を、「神を知っている」というのです。

 

 黙示録3章20節にあるとおり、主イエスが私たちの心の扉を叩いて、天の御父と御子イエス・キリストとの交わりに招いてくださいました。それは、食事を共にするという親しい交わりです。主イエスが私たちの心の中に入って来られ、そこに住まわれました。主イエスと、心と心でつながったわけです。

 

 1節後半に「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と記されています。ここに主イエスについて、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と紹介しています。

 

 「弁護者」は、罪人の傍らに立ち、法律を用いて罪人を弁護します。キリストは、私たちの罪を自分の身に負い、私たちに代わって償ってくださいました(2節、1章7節)。それによって、私たちを罪に定める証書を破棄し(コロサイ書2章14節)、無罪を主張してくださるのです。ここに、神の愛があります(4章9,10節)。

 

 「弁護者」は、原語で「パラクレートス」と言います。これは、「パラ(傍らに)」+「クレートス(呼ばれた者)」という言葉で、口語訳では「助け主」と訳されていました。主イエスが、私たちの傍らにいて助けてくださる「弁護者」だということです。罪人の私たちのために、神は弁護者として、イエス・キリストを私たちの傍らに遣わしてくださったのです。

 

 また、「慰め主」と訳されることもあります。どのような悲しみの中にいても、その傍らに慰め主なるお方がおられます。そのお方が私たちを傍らに呼んで慰めてくださるのです。

 

 ここでちょっと寄り道。ヨハネ福音書14章16節に「別の弁護者(アロス・パラクレートス)」という言葉があります。別の弁護者とは、「真理の霊」(同17節、15章26節)、また「聖霊」(同14章26節)を指しています。

 

 主イエス・キリストが「御父」のもとから最初に遣わされて来た「弁護者」ですが、天に上って神の右の座に着かれた後、「御父」は「別の弁護者」として、真理の御霊、聖霊をお遣わしくださったのです。いずれも「弁護者」というのですから、その役割は同じということになります。

 

 真理の御霊なる「別の弁護者」は、私たちにすべてのことを教え、キリストが話したことをことごとく思い起こさせてくださいます(同14章26節)。聖書はすべて、神の霊の導きの下に書かれました(第二テモテ書3章16節)。

 

 主イエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ福音書5章39節)と言われました。つまり、真理の御霊が、すべてのことを教え、キリストが話したことを私たちにことごとく思い起こさせるために聖書を書かせて、キリストを証ししているのです。

 

 使徒言行録2章38節に「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と約束されています。主イエスを信じてバプテスマを受けた私たち、主イエスに結ばれた私たちには、真理の御霊、聖霊が与えられているのです。

 

 聖霊は、私たちと共におられ、私たちの内に住まわれて(ヨハネ福音書14章17節)、「恵みの賜物(カリスマ)」をお与えくださいます(第一コリント書12章1節以下)。その最も大きな賜物として「愛」が与えられます(同31節以下)。ローマ書5章5節にも「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。

 

 冒頭の言葉(7,8節)は、禅問答のような言葉です。「わたしが書いているのは、新しい掟ではなく、古い掟です」と言ったあとで、「しかし、わたしは新しい掟として書いています」と語ります。これはどういうことなのでしょうか。考えて見ましょう。

 

 まず、「古い掟」とは何のことでしょうか。それは十戒など旧約の律法のことではありません。主イエスが「新しい掟」(ヨハネ福音書13章34節)としてお与えになったもので、それは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(同34節)という命令です。

 

 それをなぜ「古い掟」と言ったのかといえば、主イエスがこの命令を「新しい掟」として語られたときから既にある程度、時間が経過して来ているからです。「あなたがたが初めから受けていた」とは、手紙の読者が信仰に入ったときから聞いていたということです。だから、「新しい掟ではなく、あなたがたは初めから受けていた古い掟です」(7節)というわけです。

 

 であれば、8節で「新しい掟として書いている」というのは、どういうことなのでしょうか。二つのことが考えられます。一つは、これは初めから聞いていた命令で、今初めて語られたわけではないけれども、あらためて今聞くべき掟、従うべき言葉として命じられるということです。主イエスの御言葉が過去のものとされてはいけない、常に新しく聞き直す必要があるということです。

 

 もう一つは、主イエスが「新しい掟」と語られたのは、今までになかった新しい教え、命令という意味ではなかったのではないでしょうか。家族同士、兄弟姉妹が互いに愛し合うということは、命じられるまでもなく当然だとも考えることが出来ます。

 

 そこで主イエスが語られた「新しさ」とは、人間が互いに愛し合う愛を超えた、神が私たちに示される愛について語っているのです。神は御子キリストを世に遣わされました。しかも、私たちの罪を償ういけにえとして御子を遣わしてくださったことで、神は私たちへの愛を示されたのです(4章9,10節参照)。

 

 既にキリストの贖いの業は成し遂げられました。だから、8節後半で「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」と言われています。そのようにして、神の愛を受けて互いに愛し合う新しい道を開かれたのです。

 

 しかしながら、私たちが自分の力で、主イエスが私たちを愛してくださった神の愛で互いに愛し合うことなど出来ません。絶えず主の愛を受けて、主の愛に支えられて、御霊の導きによって愛し合うということです。

 

 それが1章で語られていた「わたしたちとの交わりを持つ」こと、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に与ることです。御言葉を聴き、御言葉に留まるとき、真のぶどうの木なる主イエスの命の恵みに与り、愛の実を結ぶことが出来るのです。

 

 主イエスは、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ福音書13章35節)と言われました。私たちも主につながり、御言葉に留まって互いに愛し合う愛の実を結ぶというしるしをもって、主を証しする者とならせていただきましょう。

 

 主よ、あなたは罪によって敵対していた私たちを、無限の愛をもって愛してくださいました。私たちが神の子とされるため、どれほどの愛をいただいたか、いつも覚えさせてください。その恵みを思いつつ、互いに愛し合えと命じられた神の愛に生きることが出来るよう、私たちを聖霊で満たし、私たちの心に神の愛を注ぎ続けてください。 アーメン

 

 

「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」 ヨハネの手紙一3章12節

 

 3章は「考えなさい」という言葉で始まります。これは「見なさい」(イデテ:behold)という言葉です。何を見るのかといえば、それは父なる神が私たちのことをどれほど愛してくださっているかということです。神が私たちを愛されたのは、私たちが神の子と呼ばれるためです。

 

 主イエスを信じ受け入れたキリスト者には、神の子という名前だけでなく、神の子としての資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。だから、「事実また、そのとおりです」(1節)というのです。それは、霊における神の子どもとして、新しく生まれたということです(同3章3,5,6節)。

 

 ただ、神の子とされてはいるのですが、ここに記されている「子」は、「フイオス(son:息子)」というのではなく「テクノン(child:幼児)」です。即ち、成人した神の息子ではなく、まだ幼な子といった表現です(同1章12節も同様)。

 

 主イエスの再臨後、キリストと同じ栄光の姿に変えられ、ありのままの御子キリストの姿を見ると言われます(2節)。これは、現在神を見ることが許されていない私たちが、初めて御子キリストの真の栄光の姿を見ることのできる者に変えられるということでしょう。

 

 キリストの再臨の日が私たちの救いの完成の日となり、栄光のキリストと相見えるというのが(第一テサロニケ書4章16,17節、第一コリント書15章20節以下、51節以下参照)、キリスト者の希望であり、その希望を持つ者は「御子が清いように、自分を清めます」(3節)と言われています。

 

 この言葉は、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ福音書5章8節)、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(同5章44節、第一ペトロ書1章15節なども参照)という言葉を思い出させます。即ち、成人した、完全な神の子となれということでしょう。 

 

 自分を清める根拠として、4節以下に罪の問題を取り上げます。「御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(5節)と告げ、「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」(6節)と言います。

 

 「いつもいる」は2章にもあった「とどまる」(メノー)という言葉です。キリストが罪なき方であるから、キリストの内に留まる者も罪を犯さない、罪を犯すはずがないというのです。キリストに留まる者は、キリストと絶えず結びついているからです。

 

 それに対して、「罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません」(6節後半)と言われます。罪を犯すのは、キリストと結びついておらず、キリストの内に留まっていないからで、それは、キリストの言葉を本当に聴いたことがないということ、神から生まれたものではなく、悪魔に属する者であることを示しているのです(8節)。

 

 10節で神の子と悪魔の子を対比させ、正しい生活をしない者は皆、神に属していないと言い、さらに、「自分の兄弟を愛さない者も同様です」と言います。主イエスの「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)という命令を守らないことが、正しい生活をしない悪魔の子の欠陥を何よりも明らかに示すものだからです。

 

 冒頭の言葉(12節)に、「カインのようになってはなりません」と書かれています。カインというのは、創世記4章に出てくる、最初の人アダムとその妻エバの初子、長男です。カインには弟がいました。名はアベルと言います。カインは土を耕す農夫となり、アベルは羊を飼う牧夫となりました。

 

 やがて献げ物を献げる時となり、カインは土地の実りを、アベルは肥えた子羊を献げました。ところが、神は弟アベルの献げ物に目を留められましたが、カインの献げ物は顧みられませんでした。激しく怒ったカインは、アベルを殺してしまいます。それをヨハネは、「彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました」(12節)と記します。 

 

 神がカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口をあけて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(創世記4章10~12節)という裁きの言葉を告げられました。

 

 それで、カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだと記されています(同16節)。ノドとは「さすらい」という意味です。イスラエルの東方にはアラビアの裁くが広がっています。そこをさすらうのは、死と隣り合わせの危険な生活を余儀なくされるということです。

 

 ここから題材をとって、有島武郎が「カインの末裔」という短編小説で、貧しい農夫という主人公の、神に見放された人間としての苦悩を描いています。有島は、資産家で大蔵省の役人を父に持つ裕福な家庭で育ちました。しかし、自分は神の愛を必要としながら、神に背いてさすらいの人生を生きているカインの末裔であり、そして、誰もがカインの末裔なのではないかと言おうとしたのでしょう。

 

 カインのようになってはいけないと言われますが、カインのようになりたいと思って努力する人はいないでしょう。それなのに、誰もがカインのようになってしまう、カインのように生きていると、ヨハネも考えているのではないでしょうか。互いに愛し合って生きるべきだと思っているのにそう出来ず、むしろ憎み合ってしまいます。

 

 パウロが、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ書7章19,20節)と語っているのは、そのことでしょう。あなたもわたしも、確かにカインの末裔だと思います。

 

 それに対して、アベルは、カインに殺された弟です。神が兄カインに弟アベルのことを尋ねて、カインの罪を指摘されるとき、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4章10節)と言われました。

 

 このとき、アベルの血は何と叫んでいたのでしょうか。創世記4章11節に「今、お前(カイン)は呪われる者となった。お前が流した弟(アベル)の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」と記していました。その言葉から考えると、アベルが兄カインを呪って「恨めしや、この恨み晴らさでおくべきか」と叫んでいるように思われます。

 

 そして、恨みを抱えたまま、その霊が土の中をさまよい、その血が呪いの言葉を叫び続けているというのであれば、弟アベルもまた、神の祝福から離れてさすらう兄カインの末裔の一人と言わざるを得ません。

 

 しかしながら、ヘブライ人への手紙11章4節に「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」と記されています。ここで、信仰によって何と語っていると考えたらよいのでしょうか。「信仰によって」という言葉の用いられ方からすれば、それは恨み言や呪いの言葉ではなく、神をたたえる賛美や感謝の言葉であろうと想像されます。

 

 何ゆえの賛美、感謝でしょうか。それは、第一には、彼の献げ物を認めてくださったことであろうと思われます。しかし、彼が恨み言、呪いの言葉を叫んだのは、献げ物が認められたのを兄に妬まれて、殺されるという、言われなき苦しみを受けたからです。どこで恨み言、呪いの言葉が賛美となったのでしょうか。

 

 その答えがヘブライ書12章24節にありました。そこに「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」という御言葉があります。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」とは、主イエスが十字架で流された血潮のことです。

 

 主イエスの血が語るのは、恨み言や呪いではありません。それは、罪の赦すという宣言であり、そして私たちを愛するという祝福の言葉です。だから、キリストの血が流されたことによって、すべての呪いが祝福に変えられたということでしょう。アベルの呪い、恨みも、キリストの血によって祝福、賛美に変えて頂いたのです。つまり、キリストの贖いのゆえに感謝と賛美を語り続けているのです。

 

 私たちも、呪いを祝福に変えていただくことが出来ます。それは、16節にあるとおり、私たちのために命を捨ててくださった主を信じ、その愛を知ることです。23節でも「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」と説いています。

 

 ここに、主イエスを信じる信仰と兄弟愛の実践が結び付けられています。これは、最も重要な掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ福音書22章37節、申命記6章5節)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章39節、レビ記19章18節)とが、聖書全体を支えていると教えられたことと符合しているようです。

 

 主イエスの愛と憐れみによって贖われ、罪赦された者は、主を信じ、主を愛そうとするでしょう。そして、主を信じ、主を愛そうとする者は、隣り人を愛する愛に生きよと命じられているのです。憎み合い、妬み合い、恨み合うことをやめて、祝福し合い、愛し合い、励まし合い、支え合って生きる道が開かれたのです。

 

 この時代、、互いに愛し合うことによって、私たちは主イエスの福音を世の中の人々に、もっと力強く証しして行かなければならないと思わされます。アベルの末裔として、神をほめたたえつつ、キリストの愛と恵みを証しし続けましょう。

 

 主よ、私たちはあなたを離れて、実を結ぶことが出来ません。私たちの内に、命の光がないからです。主を信じて愛の実、喜びの実、平和の実を豊かに結ぶことが出来るよう、常に主の内に留まり、その御言葉に従って互いに愛し合う者としてください。それによって、主を証しすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「イエスが神の子であることを公に言い表す人は誰でも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」 ヨハネの手紙一4章15節

 

 4章には、「公に言い表す」という言葉が3度出て来ます。初めが2節で「イエス・キリストが肉となってこられたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」と語られています。次は3節で「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません」と言われます。3度目が冒頭の言葉(15節)です。

 

 「公に言い表す」は、「ホモロゲオー」(「告白する」の意・口語訳参照)という言葉ですが、「保証する、約束する、同意する、認める、知らせる、公表する」という意味もあります。ここでは、「同意する、認める」あるいは「告げ知らせる」という表現ではないかと思われます。

 

 イエス・キリストが肉となって来られたということを認めず、ナザレのイエスが神の独り子、メシアであることを告げ知らせない「反キリストの霊」(3節)によって語る「偽預言者」(5節)とされる巡回伝道者たちがいたようです。2章22,23節でも偽預言者たちが、イエスが神の御子、キリストであることを否定していることが分かります。

 

 これは、神が罪ある人間になられるはずがない、全知全能の神が苦しまれたり、死なれたりするはずはないという考えに基づく、グノーシス主義と呼ばれる思想でしょう。それは、キリストの十字架の死による贖いや、死からの甦りというキリスト教の福音の中心メッセージを否定するものです。ですから、このような教えを告げ知らせる者が、神の霊によって語る預言者であるはずがないのです。

 

 著者は彼らを「偽り者」(2章22節)と呼びます。真理なる主イエス・キリスト(ヨハネ福音書14章6節)を否み、その御言葉に留まらないからです。彼らは「自分には罪がない」(1章8節)、「罪を犯したことがない」(同9節)と言っていたようです。だから、彼らの内に真理はない、神の言葉はないと告げています。

 

 ですから、冒頭の言葉(15節)で「イエスが神の子であることを公に言い表す」というのは、この地上をナザレのイエスとして生き、十字架に贖いの死を遂げられ、三日目に死を打ち破って甦られた方、そして天に上り、神の右に座しておられる方が、神の御子であり、私たちの主メシアであると認め受け入れること、それを公に告げ知らせることということが出来ます。

 

 この信仰は、勉強すれば分かるというものではないでしょう。どうして、2千年前にイスラエルのベツレヘムの家畜小屋に生まれ、エルサレムで十字架刑も処せられた人が、現代に生きる私たちと関係のあるメシア、救い主であると認識することが出来るでしょうか。そして、死人が生き返ったということを、科学的に証明するのは不可能です。

 

 けれども、キリスト者が主イエスの贖いの死と甦りを信じ、そして、イエス・キリストこそ神の独り子、自分たちの救い主と信じ、告白することが出来るのは、学識などではなく、神の霊の働き、導きなのです(2,13節、第一コリント書12章3節も参照)。

 

 パウロが「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ書10章9,10節)と言っています。心で信じることも、口で公に言い表すことも、神の霊の導きです。

 

 エフェソ書1章13節に「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」とあります。約束された聖霊で証印を押されるとは、聖霊の導きによって信じた主イエスを、神の御子、メシアと告白出来ること、告白し続けることではないかと示されました。

 

 上述のとおり、神の霊の働きを受けて、イエスを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださっているということ、そしてそれは、その人も神の内にとどまっていることなのだと教えられています(15節)。

 

 私たちが神の霊の働きを受けることが出来たこと、そして、それによってイエスを公に言い表すことが出来たこと、それゆえに私たちの内に神が留まってくださり、そして、私たちが神の内に留まらせて頂けること、これらのことはすべて、神の深い愛のゆえ、憐れみのゆえです(7節以下)。

 

 16節で「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と言っているのは、そのことです。

 

 キリストの御言葉の上に信仰によってしっかり立ち、そこから動かされることがないように御霊の助けと導きを祈りましょう。

 

 主よ、今日も御言葉を知らせ、その教えを頂くことが出来て感謝致します。私たちはいつも主イエスの贖いを必要としている罪人です。絶えず主の十字架を仰がせて下さい。そして、罪赦された喜び、今も生きておられる主と共に歩むことが出来る平安、それをお与えくださる神のご愛を、いつも公に言い表すことが出来ますように。 アーメン

 

 

「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」 ヨハネの手紙一5章5節

 

 1節の「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」という言葉は、4章7節で「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」と、愛について語っていたことを、信じるという言葉で語り直したようなものです。

 

 イエスがメシア、キリストであると信じる人は、神から生まれた者だと言われるということは、その認識、信仰は、神がお与えくださったものということです。ゆえに、その認識、信仰を持たない者は、偽り者であり、反キリストだと、2章22,23節に語られていました。

 

 子どもは、自分を生んでくれた親と、同じ親から生まれてきた兄弟姉妹を愛するもので、それが正常な家族の関係です。だから、神への愛から兄弟姉妹に対する愛が生まれてくるわけです(1節)。4章20,21節では、兄弟姉妹を愛せない者が神を愛せるはずがないと語られていました。

 

 「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(3節)と言います。「神の掟」とは、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(4章21節)という戒めのことです。マタイ22章34節以下に語られていた旧約聖書中「最も重要な掟」として語られていた、神を愛することと隣人を愛することを結び合わせ、「隣人」を「兄弟」と言い換えています。

 

 「世に打ち勝つ」という言葉が、4,5節に3度語られています。世に打ち勝つというのは、どういうことでしょうか。一度も「世を打ち負かす」と言われていないので、相手をねじ伏せるというようなことではないようです。口語訳、新改訳はこれを「世に勝つ」と訳していましたが、新共同訳は「打ち勝つ」と訳語を変えています。

 

 「打ち勝つ」(ニカオー)には、自分より強い相手に勝つ、困難や苦しみに堪えてそれを乗り越える、克服するという意味があります。ということは、世は自分よりも強い相手であるけれども、世がもたらす困難や苦しみを乗り越えることが出来るということになります。

 

 世がもたらす困難や苦しみとは、どういうものでしょうか。ヨハネは、どのようなことを考えているのでしょうか。前後の文脈から、信仰の弾圧や迫害というものではなさそうです。

 

 3節で「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」と語った後、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです」(4節)と言います。ここに、神の掟を守ることが易しいことの根拠として、世に打ち勝つという表現が出て来ます。ということは、神の掟を守らせないように、世が働くと考えたらよいでしょう。

 

 神の掟とは、上述のとおり「兄弟を愛すべきです」(4章21節)という命令であり、主イエスが新しい掟として告げられた「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)という戒めです。この掟に背いて、兄弟を愛することを困難にし、互いに愛し合うのを妨げるのが、世の働きということになります。

 

 ヨハネが問題にしているのは、教会の外のことではありません。4章4節で「あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました」と言い、同5節に「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます」と言っています。

 

 互いに愛し合うことを困難にする反キリスト、偽預言者が教会の中に侵入していたので、「偽預言者たちに打ち勝ちました」ということは、この戦いが困難なもの、むしろ自分たちの方が劣勢であったということのようです。そして、「世は彼らに耳を傾けます」ということは、彼らの偽の預言に耳を傾ける者が少なくない、むしろ惑わされる者が多かったということです。

 

 より強く、より賢く、より大きく、より多くを求めて進む競争の社会で、勝利者の言葉に人は耳を傾けるものでしょう。敗北者の言葉に耳を傾けようとする人など、ほとんどいないのではないでしょうか。しかし、多くの者たちを引き連れて出て行った偽預言者、反キリストに惑わされず、キリストの言葉に留まり、その指導者の導きに忠実に従った人々がいたのです。

 

 勿論、それは嬉しいことではありません。自分たちの勝利を声高に喧伝するようなことではありません。むしろ痛みです。悲しみです。その痛み、悲しみこそ、主イエスの十字架に通じるものです。

 

 主イエスの心には、悲しみがありました。ゲッセマネの園で祈りをささげられる際、ペトロたちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14章34節)と告げられました。主イエスが弟子たちに裏切られ、愛を注いでおられたイスラエルの民に殺されることになるからです。それは、主イエスがイスラエルの民に代わって神の呪いを身に受けること、神に捨てられることでした。

 

 そして、主イエスの十字架は、自分を裏切り、自分を殺そうとする者に対して、その罪を赦し、人々に神の愛を示すものです。そして、主イエスこそ神の御子であると信じる信仰に立つ者だけが、世に打ち勝つことが出来る、これが、冒頭の言葉(5節)で告げていることです。

 

 私たちも主イエスを、神の御子、キリストであると信じました。いつも主に目を留め、主のご愛に心満たされ、それによって愛し合うことを喜びとする者にならせていただきましょう。愛が壊され、信頼が傷つけられるようなこの時代に、この世にねじ伏せられず、むしろ信仰によって悪魔の策略に打ち勝たせていただきましょう。

 

 主よ、弱い私たちを助けてください。いつの間にか妬みや憎しみが心を満たします。愛すること、信じることが苦しくなります。主の十字架を仰がせてください。私たちを命がけ愛しておられる主の御声をいつも聞かせてください。そこに留まり、愛の光のうちを歩ませてください。神から生まれた者だけが世に打ち勝つからです。 アーメン

 

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