「今、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うがよい。これは、あなたたちが自ら行ったことだ。神はあなたたちの誰かを受け入れてくださるだろうかと、万軍の主は言われる。」 マラキ書1章9節
いよいよ、旧約聖書の最後の書のマラキ書に入ります。マラキ書が執筆されたのは、その内容から、ハガイ、ゼカリヤよりも半世紀以上降った紀元前460年ごろ、エズラ、ネヘミヤと同時代のことだろうと想像されています。預言者マラキについては、マラキ書に書かれている内容以外のことは何も分かりません。
「マラキ」という名は「私の使者」という意味であり、3章1節では、「マラキ」が普通名詞として、「わたしは使者を送る」と訳されています。こうしたことから、マラキとは固有名詞ではなく、3章1節からとられた役職名ではないかと考える学者もいます。
そうであれば、彼が神からの託宣を受けて語る預言者であるということ以外に(1節)、この預言者個人について、その名前も含めて、確実に言えることはほとんど何もなく、マラキ書の内容から推定される時代状況を読み取るほかはないということになります。
紀元前460年ごろというのは、神殿は再建され(紀元前515年)、礼拝は定期的に守られているものの、城壁は破壊されたまま、都の回復はまだ程遠いといった状況でした。ペルシア帝国による支配は穏やかでしたが、その支配から独立することは出来ませんでした。また、生活が大幅に改善されるということもなかったようです。
神殿が再建されれば、自分たちを取り巻いている生活環境や国際的な情勢など、状況が劇的に変化するのではないかと期待していたイスラエルの民は、次第に懐疑的になって来ていました。それは、主は本当にイスラエルを愛しておられるのか(1章2節以下)、正義を行われるのか(3章13節以下)という問いです。このような状況の中に、預言者マラキが登場して来たのです。
内容は概ね警告であり、悔い改めて神に立ち返るようにとの勧告です。即ち、「わたしはあなたたちを愛してきた」(2節)という言葉に始まり、「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた」(3章24節)と結んで、主との契約を忠実に履行せよと招いているのです。
2節以下で愛を語られる主は、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(2,3節)と言われます。エサウとヤコブは、イスラエルの父祖アブラハムの子イサクの息子たちです(創世記25章19節以下、25,26節)。ヤコブに対する主の愛は一方的なものです。創世記25章23節に「一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」とありますが、その理由は説明されません。
エサウの子孫エドムはイスラエルに隷属し、時には反抗していましたが、やがて歴史の表舞台から姿を消します。「荒れ野のジャッカルのものとした」(3節)とは、砂漠の住民ナバテア人によって、その地から追い払われたことを指しています。
エサウが表舞台から姿を消したのが、神に愛されているイスラエルに対する敵対行為を理由としてなされたと考えると、それがまさに、主なる神がイスラエルを愛しておられる証拠とされるわけです。しかし、この愛はイスラエルへの慰め、希望として語られているのではなく、主の愛を軽んずるイスラエルに対して、エサウが憎まれたようにイスラエルも同じ道を行くことになると警告しているのです。
イスラエルが神の愛を軽んじている様が、6節以下に示されます。それは、祭司たちが汚れたパン、目のつぶれた動物、足が傷ついたり、病気である動物をいけにえとしてささげ、しかも、「主の食卓は軽んじられてもよい」(7、12節)、「主の食卓は汚されてもよい」(12節)といって、主の名を汚していることです。
良いものはとっておいて、売り物にならず役に立たないものを主にささげる。厳しい生活の中でそれはやむを得ないと考えることも出来るかもしれません。実際に、「主の食卓は軽んじられてもよい」などと公言する人は殆どいないでしょう。むしろ、申し訳なく思いながら、それが精一杯だと思ってするのではないでしょうか。
けれども、冒頭の言葉(9節)を見てください。その献げ物をささげて、主が恵みを与えられるよう、ひたすら主に赦しを願うけれども、誰が主に受け入れてもらえるだろうかというのです。それが私たちの行っていることだと言われています。
8節に「それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうか」という言葉があります。勿論、そうはしないと、誰もが答えるでしょう。ここに、主なる神が総督よりも低い地位に置かれ、民の生活の必要の後回しにされている現実が浮き彫りになります。そして、当然それは、主が喜ばれる信仰の生活ではないのです。
「日の出るところから日の入るところまで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる」(11節)とは、異国の民が純粋に創造主なる神をあがめ、真実な礼拝をささげているということです。
それに対して、イスラエルの民が主なる神を軽んじ、御名を冒涜し続けるなら、彼らの礼拝を主が受け入れてくださるはずはありません(13節)。むしろ、偽り者として神の呪いを受けることになります(14節)。
主に喜ばれるために、どうすればよいのでしょうか。主を畏れましょう。おのが罪を認め、主に赦しを願いましょう。そして、何よりも先ず、神の国と神の義とを求め(マタイ6章33節)、いとよきものを主にささげましょう(民数記18章29節,ローマ書12章1節)。そうすれば、主なる神は私たちの必要を満たしてくださいます。
主よ、私たちの不信仰をお赦しください。日毎に御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けさせてください。御心を教えてください。導きに従い、主の御業を行う知恵と力を与えてください。聖霊の満たしと導きが常に豊かにありますように。そうして、主の御名をあがめさせてください。 アーメン
「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや、既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。」 マラキ書2章2節
2章は最初の段落(1~9節)に、祭司への警告が語られています。彼らは、主の御前にいけにえをささげ(1章7節以下参照)、また人々に真理を語り教える務めを担っています(6,7節)。しかし、いつのころからか、それがおざなりになってしまいました(8,9節、1章12,13節)。
民の貧しさを見て、最もよいものでなくても、第二、第三のもの、残りのものでもよいとしたのでしょうか。それで、盗んで来たものや足に傷のあるもの、病気にかかっているものであってもよいとしたのでしょうか(1章8,13節)。あるいは、自分たちの貧しい状況を変えてくれないような神に、最もよいものをささげる必要などないと人々から言われたのかも知れません。
とはいえ、群れの中に傷のない雄の動物を持っていながら、傷あるものを主に献げるのは、偽りを行うことでしょう(同14節)。そして、それを許したということは、祭司たち自身の神を畏れる心が鈍くなり、礼拝する姿勢が既に崩れていたということを示しています。
かつて、神はイスラエルの民をご自分の宝の民として選ばれました(出エジプト記19章4節、申命記7章6節)。それは、彼らに祝福を与えるためであり、そしてその祝福がイスラエルを通して異邦の民にも及ぶためでした。ところが、今は冒頭の言葉(2節)の如く、イスラエルの背きの罪のゆえに、祝福が呪いとなってしまっています。
かつて、エジプトを脱出して約束の地を目指すイスラエルの民に恐れを抱いたモアブの王バラクが(民数記22章3節)、ユーフラテス流域のアマウ人の町ペトルから占いを生業とするベオルの子バラムを招き(同5節)、イスラエルを呪わせようとしました(同6節)。ところが主はバラムに、イスラエルの祝福を告げさせました(同23,24節)。モアブによる呪いを祝福に変えられたのです。
しかるに今、主は祝福を呪いに変えると警告されます。イスラエルが主の道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせて、主の祝福を受けるに相応しくないと判断されたからです(8,9節)。
むしろ、異邦の民のほうが、主をあがめ、主の御前に香をたき、清い献げ物を献げていると言われているのです(1章11節)。勿論、重要なのは、どのようないけにえを献げたかというよりも、どのような心でそれをしたのかということです。主は「潔白な手と清い心をもつ人、むなしいものに魂を奪われることなく、欺く者によって誓うことをしない人」(詩編24編4,5節)を祝福し、恵みをお与えになります。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)という言葉もあります。
主イエスは、貧しいやもめの献金を賞賛されました(ルカ福音書21章1節以下)。この女性の献げたレプトン銅貨2枚は、現在の50円硬貨二つというところでしょう。しかしそれは、この女性の生活費全部だったのです。
たとえ傷のある動物であっても、それが、最上のものを惜しんでとか、自分が先にとった残り物とかというのではなく、その人の献げられる最上のもの、精一杯の献げ物であれば、人は喜ばなくても、主はそれを喜ばれるでしょう。外面的には傷がなくても、病気でなくても、いとよきものを献げようという心からの献げ物でなければ、主は喜んでくださらないのではないでしょうか。
主イエスの贖いによって救われ、神の民とされた私たちも、いかにして神の道に歩み、その聖なる御名にふさわしい栄光を神に帰するかということを学ぶ必要があります。私たちの信じる主は、畏れとおののきこそがふさわしい大いなる王であるということを知るべきです(5節、1章14節)。
もう一度、主イエスを全地の大いなる王として崇めましょう。私たちを創り、私たちを贖い、私たちを愛し尽くされる主に、心からの賛美のいけにえを捧げましょう。私たちに御霊を注いで力を与え、主の証人としてお立てくださった主の使命を、喜んで果たしましょう。
「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(詩編47編2,3節)。ハレルヤ!
主よ、御名を崇めて感謝します。あなたこそまことの主、まことの神。あなたの他に私たちを救うことの出来るお方はありません。あなたにあって、命と平和を得ました。与えられている恵みを呪いに変えてしまわないように、御言葉に聴き、その導きに従って歩みます。いつも目を覚ましていることが出来ますように。 アーメン
「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。かならず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」 マラキ書3章10節
マラキ書3章は、旧約聖書最後の章です。
1節に「見よ、わたしは使者を送る」と言います。この「使者」は「マルアーキー(my messenger)」という言葉で、1章1節の「マラキ」と同じ言葉です。つまり、「見よ、わたしはマラキを遣わす」と訳すことも出来ます。確かに主はマラキを使者としてイスラエルの民に遣わしておられます。
その後に、「あなたたちが喜びとしている契約の使者がやって来る」と言います。「契約の使者(マルアフ・ハッブリート)」は、「あなたたちが待望している主(アドーン)」とも呼ばれます。最初の「使者」は「契約の使者」の道備え、「待望の主」の到来を告げ知らせるため、遣わされるということでしょう。
イスラエルの民は契約の使者の到来を喜びとし、待望しているのかも知れませんが、その使者は彼らが期待するメッセージを伝えてくれるでしょうか。というのも、「彼の来る日にだれが身を支えうるか。彼が現れるとき、誰が耐えうるか」(2節)と言われているからです。
この後の文言を考えると、「待望している主」、「喜びとしている契約の使者」とは、文字通りというよりも、むしろ皮肉を込めたものと考えざるを得ません。2章17節に「裁きの神はどこにおられるのか」とイスラエルの民が言っているとされていますが、イスラエルの民がその到来を期待していなかったというか、存在を信じていなかった「裁きの神」として、待望の主、契約の使者が来られるということです。
「裁きの神」(エロヘーイ・ハッミシュパート)は、精錬する火としてレビの子らを清め、金銀のようにその汚れを除きます(3節)。それは、彼らが献げ物を正しく献げる者となるためであり、主を正しく礼拝するためです。
5節に「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する」と言われます。この「裁き」も「ハッミシュパート:the justice)で、律法に背いて呪術を行い、姦淫し、偽り近い、雇い人の賃金を不正に奪い、寡婦、孤児、寄留者を苦しめ、主を畏れぬ者らを告発して、イスラエルに正義を確立されるのです。
新共同訳聖書は、6節以下の段落に「悔い改めの勧告」という小見出しをつけています。そして7節に「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる」と記されています。聖書の告げる悔い改めとは、主なる神に立ち帰ること、主の御言葉に耳を傾け、その声に従うことです。
十分の一の献げ物と献納物において、神を偽っているという告発が、8節にあります。即ち、神のものを盗んでいるというのです。レビ記27章30節以下、申命記14章22節以下に、すべての収入の十分の一を神に献げるようにと命じられています。
十分の一を献げることになった原点は、アブラハムがいと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクに対して、取り戻したすべての財産の十分の一を贈ったというところでしょう(創世記14章20節)。また、ベテルで祝福の約束を受けたヤコブが、約束が成就した暁には、十分の一を献げるという誓願を立てています(同28章30,31節)。
イスラエルの民が献げた「十分の一」は、レビの子らの嗣業として与えられます(民数記18章21,24節)。それは、彼らが嗣業の土地を持たないからと説明されています(同23,24節)。
そしてレビの子らは、嗣業として受けた十分の一を主への献納物とします(同26節)。そしてそれは、祭司アロンに与えられます(同28節)。主への献納物とするのは、執行として行けたものの中の最上のもの、聖なる部分を選ばなければなりません(同29節)。このような規定があるということは、レビ人たちがそれに誠実でなかったのではないでしょうか。
また、イスラエルの民が献げる「献納物」とは、祭司やレビ人たちの生計のために分けられる「奉納物」,「礼物」と言われる雄羊の献げ物の一部分で(出エジプト記29章26節以下)、「イスラエルの人々が主に対する献納物として,和解の献げ物のうちから献げる物である」(同28節)と規定されています(レビ記7章32~36節、民数記5章9節など参照)。
「十分の一の献げ物と献納物において」主のものを盗んでいたのは(7節で「偽る」と訳されたカーバーは、「盗む、奪う」という語)、1章、2章の記述からすれば、イスラエルの民だけでなく、祭司たちも同様でしょう。祭司を筆頭にすべての民が「掟」(ホーク:定め、掟、律法)と言われる主の教えを守っていなかったのです。
彼らがそれを守れなかったのは、理由のないことではなかったと思われます。というのは、冒頭の言葉(10節)に「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」と記されているからです。そのことから、その当時は天から雨が降らず、旱魃による不作が続いていたのではないかと想像されます。
また11節には、「食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにする」とありますから、イナゴなどの害虫による被害に絶えず見舞われていたのでしょう。旱魃にイナゴの害、まさに泣き面に蜂の状態です。
そのような状況の中で食うや食わずの生活をしているような人々が、わずかに収穫できたものや、次期の収穫に備えて蓄えているようなもの、また、家畜の産んだ初子などを主なる神の前に携えて来るのは、言うほど容易なことではなかったと思います。
しかるに主は、冒頭の言葉(10節)のとおり、十分の一と献納物は主のものだから、まず主の家の倉に納めよ、そうすれば、旱魃や害虫などによる被害から守ろう、そのとおりになるかどうか試してご覧と言われるのです。
主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイ福音書6章25節)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同33節)と教えておられます。
これらの御言葉で語られているのは、神とその御言葉を信じるかということです。神の愛に対する信頼があれば、その言葉に従うことが出来るでしょう。そうすれば、大きな恵みを味わうことが出来るというのです。
ダビデ王が、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23編4節)と語ることが出来たのは、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴う」(同1,2節)羊飼いなる主への信頼、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる」(同5節)という信仰があったからです。
すべてのものは神のものです。確かに、収入は自分の労働に対する報酬で、どのように使おうと個人の自由でしょう。けれども、働くために必要な知恵や力、健康、そして職場があることなどは、報酬ではありません。家族があること、家庭の暖かい交わりも、報酬ではありません。
十分の一の献げ物と献納物を主にささげるのは、すべてが主の所有物であると信じることです。そしてまた、主の豊かな恵みに対する感謝と喜びを表明することでもあります。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)。
いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように,あらゆる恵みをわたしたちに満ちあふれさせることがお出来になる方に信頼し(同9章8節)、喜びと感謝をもって主の教えに聴き従いましょう。
主よ、私たちはあなたの恵みによって常に守られ、支えられています。ご自身の栄光の富に応じて,キリスト・イエスによってわたしたちの必要をすべて満たしてくださる主の御言葉に従い、献げることにおいても豊かな恵みを味わうことが出来ますように。 アーメン