詩編③

 

 

「完全な道について解き明かします。いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって、無垢な心をもって行き来します。」 詩編101編2節

 

 101編の冒頭に「ダビデの詩、賛歌」(1節)という表題があります。M.ルターはこれを「ダビデによる王の鑑」と呼びました。指導者たる者は、詩に歌われている内容を拳拳服膺(拳拳:両手で大切に捧げ持つこと、服膺:心に刻むこと)すべきだというわけです。そして、この詩を読む者も、神に選ばれた者として、その心を心とせよと言っていることでもあります。

 

 この詩が作られた時期について、冒頭の言葉(2節)の「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか」という言葉から、ダビデが神の箱をエルサレムに運び上る前のことではないかと解釈する学者があります。

 

 イスラエルがまだ王国でなかったころ、ペリシテとの戦争に敗れた折、神の箱を奪われたことがありました(サムエル記上4章1節以下、11節)。やがて、神の箱がイスラエルに戻されて、キルヤト・エアリムのアビナダブの家に置かれていました(同7章1節)。

 

 それから、ダビデが王位についてエルサレムを都と定め(サムエル記下5章1節以下)、そこに張られた天幕に運び上げられるまで(サムエル記下6章1節以下参照)、長い間、その存在も忘れられていたようなものでした。

 

 神の箱は、神とイスラエルの民との契約のしるしですから(申命記10章1~5節、ヘブライ書9章4節など参照)、その意味では、神との関係が全く希薄になっていたということにもなるでしょう。ダビデが神の箱をエルサレムに運び上げたということは、主なる神との契約関係が修復されたということになります。

 

 1節に「慈しみと裁きをわたしは歌い」とあります。「慈しみ」(ヘセド)は、ギリシア語のアガペー(愛)に通じる神の慈愛、憐れみを表す言葉です。「裁き」(ミシュパート)は、法に基づいて公平に裁くことで、「公正(justice)」とも訳されます。

 

 「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない」(出エジプト記23章6節)、「あなたは賄賂を取ってはならない」(同8節)という規定があるということは、公正な裁きが行われていなかったという証拠であり、主なる神はイスラエルに正義と公正が行われるように望んでおられるわけです。

 

 ここで「慈しみと裁きをわたしは歌い」というのは、慈しみと公正は神によるのものであることを表しています。イスラエルの王は、神の代務者として主の慈しみに支えられ(21編8節)、主の公正をもって政を行うことが求められます(72編1節)。詩人も、神の慈しみと公正がイスラエルに表されることを喜び、願っているわけです。

 

 冒頭の言葉(2節)に「完全な道について解き明かします」とありますが、「完全な道」(ターミーム)とは、神の慈しみと裁きということでしょう。また「解き明かす」(サーカル、ヒフィル形)は、「見る、注意を払う、熟考する」という意味の言葉です。神のなさる業をよく見る、注目するということでしょう。

 

  「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか」ということは、詩人は、神が慈しみと裁きを携えて訪れてくださるのを待っているのであり、それなしに、完全な道を歩むことは出来ないということです。

 

 また、「わたしは家にあって、無垢な心をもって行き来します」と言います。「無垢な心をもって」とは、文字通り「咎めがない、高潔な」(トーム)という言葉ですが、それは、ダビデが罪を犯したことがないということではありません。罪を犯したことのない完全な人など、存在しません。ここでは、神の前に隠しごとがないということでしょう。

 

 神の御前には、すべてが明らかです。人の目には上手くごまかしたと思われたダビデの姦淫と殺人の罪(サムエル記下11章)を、主なる神は預言者ナタンを通して暴かれました(同11章27節、12章)。罪が指摘されたとき、ダビデは「わたしは主に罪を犯した」(同12章13節)と懺悔しました。その心を神は「無垢な心」と呼んでくださるのです。

 

 それだけでなく、彼の罪は贖われました。ダビデに代わってその子どもが死んだのです(同13節以下)。罪のない子どもの死は、やがてダビデの子孫として来られた神の御子、キリスト・イエスが全人類の罪の身代わりに十字架で死なれることを予め表しているのです。

 

 十字架に、神の慈しみと裁きが明確に表されています。私たちの罪を担われたキリストは、裁かれて陰府に降り、私たちには神の慈しみが表され、罪赦されて神の子とされたのです。ここにダビデは絶えず目を注ぎ、主イエスに従う道を行き来すると語っているわけです。

 

  慈しみと公正をもってご支配くださる主を仰ぎ、心から御名を賞め歌いましょう。真理であり、命であられる主の道を、感謝と喜びをもって歩みましょう。

 

 主よ、あなたは私たちのために御子キリストを贖いの供え物とされ、新しい契約を締結してくださいました。私たちもその御業に目を留め、絶えず御名をほめたたえます。その心を戴して、互いに愛し合い、家庭や職場、学び舎、地域などそれぞれが遣わされている嗣業の地に平和を作り出す者とならせてください。 アーメン

 

 

「主よ、あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。」 詩編102編13節

 

 102編はその内容から、バビロンで強制労働に従事させられているイスラエルの民が、神に救いを求める「祈りの詩」と考えられますが、レントに朗読される「七つの悔い改めの詩編」(6,32,38,51,102,130,143編)の一つに数えられています。

 

 とはいえ、詩の中に具体的な罪に対する言及はありません。また、罪を悔いる言葉も罪の赦しを乞う祈りの言葉もありません。どうしてこれが、悔い改めの詩と言われるのでしょうか。

 

 「悔改める」(ヘブライ語:ナーハム、ギリシア語:メタノエオー)とは、「向きを変える、ターンする」という言葉です。つまり、「ごめんなさい、このようなことは二度としません」と言うか言わないかというようなことではなく、今までの生き方を変えるということです。

 

 イスラエルの民は、神に背き、御言葉に従わない生活をしていました。真の神を求めて祈ることもなかったのではないでしょうか。その結果、「あなたは怒り、憤り、わたしを持ち上げて投げ出された」(11節)と記されているとおり、神の怒りを買い、投げ捨てられたようになったわけです。具体的には、イスラエルがバビロニア帝国に滅ぼされ、民は奴隷となったということです。

 

 詩人は今、主の御名を呼び、「主よ、わたしの祈りを聞いてください」(2節)と神の御前に祈り求めるようになりました。確かに、神に対する態度が変わったのです。

 

 表題に「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」(1節)とあるように、詩人は、捕囚の苦しみの中、頼りとする一切のものを失って心挫けてしまったのです。しかし、そのとき、もう一度まことの神、主を思い出し、思いを注ぎ出す祈りをささげているのです。

 

 それは、「苦しいときの神頼み」と揶揄されそうな事態です。しかしながら、苦しいときに依り頼むことの出来る神がおられることが、詩人の救いです。まさに、表題に言う「貧しい人」とは、神のほか、頼りとなるものを何も持たない人、祈りのほか、神に差し出すものを持ち合わせない人のことだからです。

 

 詩人が思い出した主なる神は、冒頭の言葉(13節)のとおり、「とこしえの王座についておられる」お方です。そのことについて、「わたしの神よ、生涯の半ばでわたしを取り去らないでください.あなたの歳月は代々に続くのです」(25節)と願い、神には終りの時がないけれども、人は取り去られるときが来る。そのときを早めないで欲しいと言います。

 

 また、「あなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは長らえられます」(26,27節)、「すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては変えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません」(27,28節)と言い、最後にもう一度、「あなたの歳月は終わることがありません」(28節)と語ります。

 

 詩人は、主なる神が永遠に変わらない、とこしえの王座に着いておられることに希望を置いて、「どうか、立ち上がって、シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました」(14節)と言っています。

 

 主がイスラエルの人々を御自分の宝の民とされたのは、彼らが強く優秀な民だったからではなく、むしろ他のどの民よりも貧弱だったからです(申命記7章6,7節)。ですから、神がシオン=エルサレムを神の都として選ばれ、そこに神殿が建てられたのは、シオン山がどの山よりも高くそびえ、美しかったからではなく、神がイスラエルを憐れみによって選ばれたしるしだったのです。

 

 であれば、永遠に変ることのない神は、今、神の憐れみを求めて祈る詩人たちのために、怒りによってシオンを永遠に滅ぼしてしまわれることはないだろう。かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民の呻きに耳を傾け、憐れみをもってその苦しみから救いだしてくださったように、ご自身の御名のゆえに、その栄光を回復させてくださるときがやって来るだろうと、詩人は期待しているわけです。

 

 そして、そのときがくるのを一日千秋の思いで待っています。それが、「あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み、塵をすら、どれほど慕うことでしょう」(15節)という言葉になっています。そうして最後に、「あなたの僕らの末は住むところを得、子孫は御前に堅く立てられるでしょう」(29節)と、主への信頼を言葉にすることが出来ました。

 

 主がこの信仰の祈りに答えてくださったことは、歴史が証明しているところです。詩人は「後の世代のために、このことは書き記さねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」(19節)と言います。イスラエルの民は、とこしえの王座に就かれ、自分たちを憐れまれる主を褒め称えるために、その恵みに与ったのです。

 

 私たちも、救いの恵みに与った者として、「主を賛美するために、私たち主の民は創造された」と歌い、喜びと感謝をもって主の御言葉に従いたいと思います。 

 

 主よ、罪の裁きを受けたイスラエルの民が、本心に立ち返り、神を求めて恵みに与ることが出来たのであれば、裁きは実に神の愛であり、深いご経綸のあったことを示されます。御前に無益なことは一つもなく、すべてがプラスに変えられると信じます。どうか私たちの心の王座に着かれ、絶えず私たちを真理の道に導いてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」 詩編103編2節

 

 103編は、「憐れみ深く、恵みにとみ、忍耐強く、慈しみは大きい」と主を讃える賛歌です。「わたしの魂よ、主をたたえよ」という言葉が1,2節の初行と22節の最後にあり、この言葉で、詩を囲んでいます。これは、詩人のすべての思いを主への賛美としてささげようとしていることを示しているようです。

 

 それはまた、22節(ヘブライ語原典は表題を除いて22行詩)というヘブライ語のアルファベットと同じ数になっているということで、記憶しやすさと共に、詩人があらゆる言葉を尽くして主を賛美しようとしていることを表しているようです。

 

 聖書の言葉で「魂」(ネフェシュ)というのは、ギリシア哲学のように霊魂と肉体を区別するような用語ではありません。これは「命、人間、生きている存在」という意味であり、そこから「息、血」、また「感情、欲求、情熱」と訳されたりもします。

 

 「わたしの内にあるものはこぞって」(1節)とあるように、ただ口だけでなく、目も耳も、また心臓や肝臓、腎臓なども総動員で、それらの内臓諸器官は感情を宿す心の在り処と考えられていたので、実に全身全霊をもって主を賛美しようと言っているわけです。

 

 「すべて」(コール)という言葉が、詩の最初の連(1~6節)に5回(1節「こぞって」、2節「何一つ」、3節「ことごとく」と訳されている)、最後の連(19~22節)に4回(21節「万軍(すべての軍勢)」、22節「どこにあっても(すべてのところで)」)と、用いられて、文字通りすべてのものをもれなく包んでいるという印象を強めています。

 

 この詩が作られた理由について、冒頭の言葉(2節)で「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と記されています。神がイスラエルの民になさった「御計らい」(ゲムール:「取り扱い、報酬、利益」の意)を忘れないための記録として、この詩を朗読するたびに、それを繰り返し思い起こそうというわけです。

 

 特に、この詩の中に「慈しみ」(ヘセド)という言葉が、何度も登場して来ます(4,8,11,17節)。詩人は、イスラエルの民への「主の御計らい」を、神の「慈しみ」、「憐れみ」と受け止めているわけです。

 

 また、「憐れみ」という言葉も、繰り返し出て来ます(4節:名詞形,8節:形容詞形,13節:動詞形で2度)。この言葉は、子を宿す「胎」(レヘム)という言葉から派生したものと考えられており、同じ母の胎から生れ出た兄弟間における切なる情や、我が子への母の切なる情を表現するものと言われています。

 

 この「慈しみ」と「憐れみ」は、神の本質を示すものとして、聖書中に繰り返し登場してきます。その原点は、出エジプト記34章6,7節で主が御自分の御名を宣言して、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と言われています。

 

 それは、出エジプト記24章以下、戒めの刻まれた石の板を授与されている間に(31章18節)、民がアロンに若い雄牛像を鋳造させ(32章1節以下)、生け贄を捧げて戯れていました(同6節以下)。モーセが怒りに燃える主をなだめ(同11節以下)、執り成しの祈りをささげました(同31,32節)。

 

 それを受けて、主なる神は再度石の板二枚を携えるようモーセに命じ(34章1節)、その通りして主の前に立ったモーセに語られたのが、先のご自分の御名の宣言(同6,7節)です。

 

 主なる神の慈しみと憐れみは、「罪をことごとく赦し」(3節)、「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」(10節)、「東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(12節)と、罪や背き、過ちを赦すところに表されています。

 

 因みに、10節の「罪」(ヘート)は、出エジプト記34章7節では「過ち」、同様に「悪」(アーヴォン)は「罪」と訳されています。

 

 103編が102編に続けておかれているのは、これが、102編の祈りに対する答えをいただいたイスラエルの民の賛美と解釈されているからでしょう。主はイスラエルを怒りによって滅ぼし尽くすことを良しとされず、却ってその罪を赦し、捕囚という苦しみの縄目から解放してくださったのです。

 

 詩人の言葉遣いは、イザヤ書40章以下、第二イザヤと呼ばれるバビロン捕囚期に語られたと考えられる預言の言葉に重なります(5節とイザヤ40章31節、9節とイザヤ57章16節、11節とイザヤ55章9節、15,16節とイザヤ40章6~8節)。バビロンからの解放を、出エジプトの再現、新しい出エジプトとして詠われているわけです。

 

 罪が赦され、解放の恵みに与った詩人たちの心を支配したのは、喜びと感謝であったことは言うまでもないことであり、そしてそれゆえに、主をほめたたえよと繰り返し語っているわけですが、もう一つの思いがありました。それは「主を畏れる」ということです(11,13,17節)。

 

 「主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(13節)とありますが、しかし、イスラエルの民が主を畏れる心を持っていたので、罪が赦されたのではありません。むしろ、預言の実現、捕囚からの解放に罪の赦しを味わって、民に主を畏れる心が芽生えたのです。

 

 それは、罪の赦しには贖いの供え物が必要であることを知っているからでしょう(レビ記4,5章参照)。そして、贖いの供え物を用意したのは、捕囚の民ではなく、主なる神ご自身でした。御子キリストが贖いの供え物として血を流されたことにより、神と民との間に新しい契約が結ばれたのです(エレミヤ書31章31~34節、ルカ福音書22章20節、ヘブライ書8,9章参照)。

 

 絶えず主の恵みに感謝し、真に主を畏れる者として御前に謙り、日々主の御言葉に聴き従いましょう。

 

 主よ、あなたのは慈しみ深く、その憐れみはとこしえに尽きることがありません。私たちを極みまで愛してくださり、そのために御子をさえ惜しまず、与えてくださいました。あなたのなさった御計らいを、一時でも忘れることがありませんように、絶えず唇の実を御前にささげさせてください。御霊の満たしと導きに与り、主の恵みの証し人とならせてください。 アーメン 

 

 

「あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる」 詩編104編30節

 

 104編は、天地万物を創造され、そこに住むすべての生物に必要なものをお与えくださる主をたたえる「賛美の詩」です。103編同様「わたしの魂よ、主をたたえよ」(1,35節)という言葉が詩の最初と最後にあって、賛美を呼びかける言葉で詩を囲んでいます。

 

 この詩は、18節と19節の間を対称軸として、左右対称の構造になっています。すなわち、第一群は、第一連(1~4節)と第八連(31~35節)が対称で、第一連には天の栄光、第八連には地の栄光が記されます。

 

 第二群は、第二、第三連(5~12節)と第七連(25~30節)が対称で、第二、第三連には天の雨と地の泉や川、そして、第七連には海とそこにすむ生物が記されています。

 

 そして第三群は、第四連(13~18節)と第五、第六連(19~24節)が対称で、第四連には自然の実りが人の生活の備えであること、第五連には季節や時という生活環境を備えられたことが記されています。

 

 このような構造から、第6連(24節)も、「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」と記しているとおり、神の卓越した知恵によって、天地万物は秩序正しく創られているということを、この詩の構造によっても賛美しているということが出来ます。

 

 特に、「地から糧を引き出そうと働く人間のために、さまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(14,15節)という言葉は、人間は神の被造物の一つですが、神がお与えくださる良い物によって生かされていること、言い換えれば、神は人間のために地の良いものを創造され、お与えくださったことを感謝しているのです。

 

 「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(15節)で、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)と語られた主イエスの言葉を思い出します。

 

 これは、ぶどう酒やパン以外にも必要なものがある、飲み物もいるし、油=脂肪の乗った美味しい肉も必要などということではありません。パンを含めて、私たちが生きていく上で必要なすべてのものが、神の御言葉によって創造され、それによって生かされているのです。

 

 神の創造された世界の中で、秩序を乱すものがあります。それは、「罪ある者」、「主に逆らう者」たちの存在です(35節)。それゆえ、詩人は彼らが「この地からすべてうせ」、「もはや跡を絶つように」と語ります。それによって、神の創造の秩序が回復され、永遠に保たれることを願うのです。

 

 6,7節で、「深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った」というのは、ノアの箱舟の出来事を暗示しているような表現ですが、かつて人が乱した世界を洪水で破壊し、そこから再び秩序を創り出されたような出来事を、ここに再現して欲しいと願っているのかも知れません。

 

 ただ、そうだとすると、詩人は、神の裁きの前に誰が生き残れると考えているのでしょうか。自分は大丈夫、と胸を張っているのでしょうか。そうではないでしょう。103編の次にこの詩が配置されているところに、その意味が示されていると思います。

 

 つまり、キリスト・イエスの贖いにより、すべての人の罪が赦され、汚れなき神の子として御前に立つことが許されたわけです(103編3,10,12節)。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされたのです(ローマ書3章23,24節)。

 

 そして、私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちにお与えくださいます(同8章32節)。このキリストの愛から引き離すことが出来るものはいません。

 

 だから、「命ある限り、わたしは主に向かって歌い、長らえる限り、わたしの神のほめ歌を歌おう」(32節)と、詩人は全身全霊をもって主を賛美するのです。私たちが賛美するとき、主がそこにいてくださいます。絶えず賛美をささげれば、主がいつも共にいてくださり、その恵みと平安を知り、味わうことが出来ます(16編7,8節)。

 

 この詩は、キリスト教の歴史が始まってから、ペンテコステにおいて用いられてきました。それは、冒頭の言葉(30節)で、神の「息」(ルーアッハ)が送られたと語られているところ、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)で神の「霊」(プネウマ)と訳されたからです。

 

 神がその息を取り上げられれば、被造物は息絶え、塵に帰るのです(29節)。被造物は、神の息によって創造され、生きたものとなるのです。命の創造のために、神の「息」(ルーアッハ)は働くのです。

 

 パウロが、「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのである」(第一コリント書15章45節、創世記2章7節参照)と記しています。

 

 ここで「最後のアダム」というのは、私たちの罪のために死なれ、三日目に甦られた主イエスのことです。主イエスはご自分の命をもって私たちを贖い、永遠の命に与らせてくださったことを、最初の人アダムを生きる者とした神の「息」とかけて、「命を与える霊(プネウマ)となった」というのです。

 

 エゼキエル37章には、枯れた骨を人として生き返らせる神の霊の働きが記されています。それは、神の民イスラエルの再生、再創造を意味する預言です。上述の通り、私たちは信仰により、キリストの贖いによって罪赦され、神の民に加えられました。確かにキリストが私たちに命を与える霊となってくださったのです。

 

 「わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ!」。

 

 主よ、御名を賛美します。贖いを感謝します。その深い愛と憐れみのゆえに感謝します。主にあって、すべての必要が満たされます。今苦しみの中に、困難の中におられる方々に平安と慰め、癒やしをお与えください。その必要が満たされ、呻きが祈りに、嘆きが賛美となりますように。豊かな命の恵みに与らせてください。 アーメン

 

 

「主はとこしえに契約を御心に留められる、千代に及ぼすように命じられた御言葉を。」 詩編105編8節

 

 105編は、神の深いご経綸とアブラハムに対する契約のゆえに、驚くべき御業と奇跡によって歴史の中に力強く働かれる主をたたえる「賛美の詩」です。

 

 1~15節は、ダビデがアサフに命じて作らせた賛歌の一部です(歴代誌上16章8~22節)。1~6節は賛美への招きで、7~45節は賛美の言葉 となっています。賛美の言葉のはじめ(7~11節)に、賛美の主題が提示されます。それは、主なる神がアブラハムと結ばれた契約です。

 

 「アブラハムと結ばれた契約」(9節)は、「わたしはあなたにカナンの地を嗣業として継がせよう」(11節)と主なる神がイスラエルの父祖らに約束されたもので、創世記15章18節に「あなたの子孫にこの土地を与える」と主がアブラハムに告げられていました。

 

 与えると約束されたのは、「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地」(同18~21節)です。

 

 この契約締結からイスラエルの民がカナンの地を手に入れるまでには、少なくとも数百年という時間を必要としました。その間、アブラハムの孫ヤコブの代に大飢饉が起こり、一族はエジプトに移り住みます(13節以下、16節、創世記41章56節以下、46章)。

 

 先ずヤコブの息子ヨセフが、エジプトの奴隷として売られました(17節、創世記37章28節)。ヨセフは数々の苦難を経験した後(18,19節、創世記39章)、宰相に取り立てられます(20節、創世記41章40節以下)。そのヨセフの許に身を寄せるかたちで、ヤコブたちはエジプトに移住したのです(23節)。イスラエルを苦難から守るため、エジプトの国力を用いられたわけです。

 

 イスラエルはエジプトで数を増し、エジプトを脅かすほど強くなりました(24節、出エジプト記1章7節)。そこでエジプトは、イスラエルの民を奴隷とします(25節)。その苦しみ呻く声を神が聞かれ、モーセとアロンを遣わして救い出されます(26節以下、出エジプト記3章1節以下)。28~36節は、そのときエジプトに起こった災いのリストです(出エジプト記7~12章)。

 

 イスラエルの民は、430年のエジプトでの奴隷生活に終止符を打ち(出エジプト記12章40節)、意気揚々エジプトを出立してシナイの荒れ野へと道を進みます(出エジプト記14章8節、民数記33章3節)。

 

 主なる神は、昼は雲の柱、夜は火の柱で民を導かれました(39節、出エジプト記13章21節)。また、天から「マナ」という不思議なパンを降らせ、また、鶉の肉をもたらされました(40節、出エジプト記16章)。民が水を求めると、主は岩から水を出されました(41節、出エジプト記17章)。

 

 40年の荒れ野の生活を経て、民は約束の地に入り、やがて、ダビデ、ソロモンの時代にそれを手に入れることが出来ました(44節、ヨシュア記1章4節、列王記上5章1節)。アブラハムとの契約から約一千年のときが流れたことになります。

 

 イスラエルが嗣業の地を得ることが出来たのは、冒頭の言葉(8節)のとおり、上述の父祖アブラハムに対する契約、幾千代に及ぶ祝福の言葉に心を留めて(出エジプト記20章6節)、民を恵みをもって導かれたからです。

 

 神の助けなしにエジプトを脱出することは出来なかったでしょうし、荒れ野で食料や水を確保することも出来ない話だったでしょう。何より、カナンの諸民族が住む中に自分たちの土地を獲得することは出来なかったでしょう。

 

 カナンの地を偵察した斥候たちが、「その土地の住民は強く、町という町は城壁で囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました」(民数記13章28節)、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々より強い」(同31節)と報告していました。

 

 その地を獲得するためには、自分たちの知恵や力ではなく、主との契約により、御言葉に聴き従うほかはありません。彼らが主を畏れることを学び、主の掟を守り、その教えに聴き従ったとき、主が働かれ、彼らに約束の地が授けられたのです(45節)。

 

 詩人が、こうしてイスラエルの歴史を振り返り、「主の掟を守り、主の教えに従わなければならない」(45節)と結んでいるのは、バビロン捕囚後のイスラエル再建のためには、イスラエルの民が主を畏れて御力を尋ね求め、その御顔を慕い求めること(4節)、主の御言葉を心に留めること(5節)が不可欠だと示されているからでしょう。

 

 使徒パウロは、私たちは主イエスを通してアブラハムの子孫であり、約束による相続人であると語りました(ガラテヤ書3章29節)。私たちの受け継ぐ嗣業の地は、天の御国にあります(フィリピ書3章20節)。

 

 信仰によってキリストに結ばれた者として、絶えず主に信頼し、その御言葉に耳を傾け、 御霊の導きに従って歩みましょう。御霊に満たされ、力を受けて、恵みの主の証人とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちは異邦人ながら、憐れみにより、信仰によって主イエスに結ばれて、アブラハムの子孫とされました。私たちは、輝かしい嗣業の地を受け継ぐべく、主と共に歩ませていただいています。絶えず主を畏れ、その御言葉に聴き従うことを通して、この町に主の恵みと慈しみを証しすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い、諸国の中からわたしたちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。」 詩編106編47節

 

 106編は、先祖たちが犯した罪を離れることが出来ず、約束の地を失うことになったイスラエルの民の「悔い改めの詩」です(6節)。この詩は、直前の105編と対をなすものです。105編が主の驚くべき御業に信頼し、主を賛美しているのに対して、ここでは主の恵みに与ったにも拘わらず、主を信頼できず、背きの道を歩いたことを告白しています。

 

 かつてエジプトを脱出するとき、モーセの手を通して数々の災いがエジプトにもたらされたのを見(7節、出エジプト記7章以下参照)、エジプトを出るにあたり、追いかけて来たエジプト軍から、葦の海の奇跡によって救われるという経験をしました(8節以下、出エジプト記14章)。荒れ野を旅する間、天からマナが降り、ウズラの肉を食べることもありました(出エジプト記16章)。

 

 そのように様々な恵みを経験していながら、恩を忘れ、不平を言います(13節)。水がなくなれば、「水を与えよ。渇きで殺すために荒れ野に連れて来たのか」と騒ぎ(14節、出エジプト記17章1節以下)、十戒を授かるためにシナイ山に登ったモーセの帰りが遅いと、「我々に先立って進む神々を造れ」といってアロンに牛の像を造らせます(19節以下、出エジプト記32章)。

 

 そして、各部族の代表を斥候として約束の地を探りに行かせると、強大な先住民がいてその地に上って行くのは不可能だという報告で、それを聞いた民は、約束の地に行って殺されるくらいなら、エジプトに引き返したほうがよいと言い出す始末です(24節、民数記13,14章)。

 

 モーセらの執り成しがなければ、イスラエルの民は神の憤りによって、シナイの荒れ野で滅ぼされていたかもしれません(23,30節、出エジプト記32章11節、民数記14章13節以下、25章など)。

 

 こうして、神の憐れみによって約束の地に入ることは出来ましたが、そこでも、神に背いて自分勝手にカナンの民と混血し、異教の偶像を拝みました(34節以下、士師記2章10節以下、3章7節以下12節以下、4章1節以下など)。エジプトを出て以来、神に背いていない時は殆どなかったというような有様です。

 

 そして、これらのことが決して過去のことではなかったのです。詩人は、「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった」(6節)と告白しています。彼らも、同じ罪に手を染めているということです。

 

 ここで「先祖と同じく」は、「先祖と一緒に」(イム・アボーテーヌー with our fathers)という言葉です。詩人は、罪の力は世代を超え、広く民全体に影響を及ぼすものであることを悟ったのです。

 

 また「罪を犯し」(ハーターヌー we have sinned)、「不正を行い」(ヘエヴィーヌー we have committed iniquity)、「主に逆らった」(ヒルシャーヌー we have done wickedly「悪をなした」の意)という三つの1人称複数の動詞で、先祖と共に罪を告白し、悔い改めの意を示します。

 

 自分たちの度重なる罪で神の怒りを買い、神はイスラエルの民を諸国の手に渡されました(39節以下)。神は何度も助け出そうとされたのですが、民自らそれを拒み、ついに国を滅ぼしてしまったのです(43節、列王記下24章20節)。

 

 このような中で詩人は、この詩を「ハレルヤ」で始め(1節)、「主に感謝せよ」(ホードゥー・ラ・アドナイ)と、感謝を勧めます。それは、主が「恵み深い」(トーブ「善い」の意)お方であり、その「慈しみ」(ヘセド)は「とこしえ」に変わらないものだからです。

 

 主を「善い方」というのは、25編8節、34編9節、52編11節、73編1節、86編5節、100編5節、107編1節、118編1,29節、119編68節、135編3節、136編1節、145編9節、エレミヤ書33章11節などにもあります。イスラエルの救いに示された永遠の慈しみ.不変の愛を、「善い」(トーブ)と言い表しているわけです。

 

 2節では、「主の力強い御業を言葉に表し、主への賛美をことごとく告げうる者があろうか」と、1節で求められた賛美を誰がささげられるのかと問います。続く3節で「いかに幸いなことか」(アシュレー)と祝福されるのは、「裁きを守り、どのような時にも恵みの業を果たす人」です。その人こそ、その資格があるというのです。

 

 ここで、「裁き」は「ミシュパート」(「公正」の意)、「恵みの業」は「ツェダカー」(「正義」の意)という言葉です。97編2節で「正しい(ツェデク)裁き(ミシュパート)が王座の基」と言われていました。王なる主は、正義と公正をもってこの世を統べ治められるということです。それを守り行う者が祝福される所以です。

 

 そうして、「主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき、わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。あなたの選ばれた民に対する恵みを見、あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い、あなたの嗣業の民と共に誇ることができるようにしてください」(4,5節)と求めています。

 

 これらの言葉によって、自分たちも父祖たちも、神との契約を蔑ろにし、慈しみ深き神の御業に感謝せず、神に背いて罪を犯したことを、悔い改めているのです。

 

 だから冒頭の言葉(47節)で「わたしたちを救い、諸国の中からわたしたちを集めてください」といって、捕囚の地からエルサレムに戻れるように願い、「聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください」といって、もう一度神を礼拝することが出来るよう、祈り求めているのです。

 

 主なる神はこの祈りに答え、まことの神を礼拝する新しいイスラエルを再創造されました。48節は、第4巻(90~106編)の巻末であることを示すために、後から付加された言葉ですが、主は確かに、詩人の願いを聞き、イスラエルの国を再興させ、彼らに「ハレルヤ」と歌わせてくださったのです(エズラ記6章19節以下、ネヘミヤ記8章9節以下、12節)。

 

 私たちも、御子イエスに贖われ、その救いに与った者として、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず主にささげましょう。

 

 主よ、あなたの驚くべき御業に目が開かれ、御言葉を信じて聖なる御名に感謝し、常に賛美をささげることが出来ますように。バビロンの捕囚の縄目から解放して、主を礼拝する民を創造されたように、困難な生活を余儀なくされている人々に、新しい恵みの世界が創造されますように。 アーメン

 

 

「『恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに』と、主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い、国々の中から集めてくださった、東から西から、北から南から。」 詩編107編1~3節

 

 107編は、第五巻(107~150編)の巻頭にふさわしく、第二の出エジプトともいうべき、バビロン捕囚からの解放を経験した詩人の、主の慈しみに感謝する「賛美の歌」です。

 

 1~3節はこの詩の序文で、「国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から」(3節)と言います。これはバビロン捕囚のことではなく、アレクサンダー(ギリシア)時代(紀元前300年)以後の、イスラエルの民が各地に出て行ったディアスポラ(離散の民)の時代のことであろうと思われます。

 

 4~32節に、神のなさった4つの「贖い」(2節)の業が記されています。各組には、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」(6,13,19,28節)、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」(8,15,21,31節)という句が、リフレインとして詠われます。

 

 第一組(4~9節)は、荒れ野で迷い、砂漠で道を見失って、飢え渇いた人々のため、主が良いもので満たしてくださったという恵みが記されます。

 

 第二組(10~16節)は、神に対する背きの罪のゆえに牢獄に捕らわれ、闇と死の陰に脅かされていた人々のため、牢の戸を破り、解放されるという恵みが記されています。

 

 第三組(17~22節)は、神に対する無知と背きと罪の結果、病いによって死の床にいた人々のため、癒しをなし、立ち上がらせてくださるという恵みが告げられます。

 

 第四組(23~32節)は、海で嵐に遭って死に飲み込まれそうになっていた人々のため、嵐を静め、港に導かれるという恵みが語られています。

 

 それぞれの組の人々が恵みを味わうことが出来たのは、彼らが苦難の中から助けを求めて叫んだからでした。それは、苦しいときの神頼みであり、また、主に願う以外に、その苦しみから逃れる術がなかったからです。

 

 そして、その声を主が聞き入れられたのは、ただ主が彼らを憐れまれたからです。詩人が繰り返し、「主に感謝せよ、主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と詠っているとおり、彼らが救われたのは、実に驚くべき恵み(Amazing Grace)だったのです。

 

 「贖う」(2節)とは「買い戻す」(ガーアル)という言葉で、奴隷とされた者や売られた畑地を買い戻すのは、近親者(ゴーエール)の務めです(レビ記25章25、47節以下)。

 

 家族が殺された時には、近親者が血の復讐をし(民数記35章19節)、長男が子をもうけないまま死ねば、弟がゴーエールとして兄の妻に子を産ませなければなりません(申命記25章5節以下)。ルツ記に記されている、ナオミの畑地やナオミの嫁ルツに対するボアズの振る舞いは、「贖い」の良い例です(ルツ記4章9節以下)。

 

 そして、新約聖書の信仰に生きる私たちも、主イエスを通して、信仰によって,贖いの恵みに与ることが出来ます(ローマ書3章24節、第一コリント書1章30節など)。それは、この「贖い」の意味から言えば、主なる神が私たちの近親者として行動してくださったということです。

 

 私たちがそのような恵みに与ることが出来るのは、私たちにその資格や権利があるからではありません。言うまでもなく、私たちは主なる神の近親者ではありません。神自ら贖い主(ゴーエール)となってくださったという、まさに恵みです(エフェソ書2章8,9節)。

 

 主が私たちをあらゆる苦しみ、煩いから贖い、救い出してくださったのは、その恵みに感謝し、御名を賛美する民、すなわち、その魂が主の恵みに対する感謝と喜びで満ち溢れ、霊とまことをもって主を礼拝する神の民を集めるためです。

 

 40~42節に「主は貴族らの上に辱めを浴びせ、道もない混沌に迷い込ませたが、乏しい人はその貧苦から高く上げ、羊の群れのような大家族とされた。正しい人はこれを見て喜び祝い、不正を行う人は口を閉ざす」と記されていますが、富と力を持ち、あるいは悪をなす者は、神を呼び求めないので、その慈しみに与ることが出来ません。

 

 しかしながら、彼らも道に迷い、貧苦に悩むとき、神に助けを祈り求める者となるでしょう。神は、打ち砕かれ、悔いた心を軽しめられず(詩編51編19節)、彼らを高く上げ、繁栄を回復されるのです(サムエル記上2章7,8節)。

 

 「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」と唱えつつ、今も私たちのために働いておられる主の慈しみに目を注ぎましょう。

 

 主よ、あなたは渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださいます。私たちを閉じ込めようとする獄屋の青銅の扉を破り、鉄の閂を砕いてくださいます。御言葉を遣わして私たちを癒し、滅びから救い出してくださいます。嵐を静め、望みの港に導かれます。心から感謝のいけにえを献げ、その御業を語り伝え、喜び歌わせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。」 詩編108編13節

 

 108編は、6節までと7節以下の二つの部分に分かれ、前半が神への賛美、後半が神の救いを求める祈りとなっています。そして、2~6節は57編8~12節から、7~14節は60編7~14節から、ごく一部の違いを除き、ほぼ字句通りコピーされたものです。

 

 違う詩の一部分を切り取って、それを貼り合わせたような詩が作られたのは、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(第二テモテ書3章16節、第二ペトロ書1章20,21節も参照)と言われるように、詩人が直面している課題に対する答えが、これらの言葉を通して与えられたということでしょう。

 

 57編は「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」という表題に示されるような、自分が仕える主君から命を狙われたダビデの苦しみを彷彿とさせる詩でした。そうした苦しみの中から、「わたしは曙を呼び覚まそう」(3節)という言葉で、賛美を歌って夜明けを呼び覚まそう、賛美によって自分を覆っている深い闇を神の光で追い払ってもらおうという信仰を言い表しています。

 

 また、60編の表題に「ダビデがアラム・ナハライム及びツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」とあり、これは、サムエル記下8章に記された、華々しい戦果を上げていたときのことと考えられます。

 

 ところが、この詩はまるで連戦連敗とでも言わんばかりに、「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは我らと共に出陣してくださらないのか」(12節)と詠います。見えるところは華々しくあっても、その内側には平安も喜びもない、まるで神から突き放されたように思われる。調子良くことが進む中で、いつしか奢り高ぶり、神から離れてしまったということでしょうか。

 

 このような二つの詩を一つに組み合わせることによって、前半で、自分が暗闇の中にいたときには、むしろ神への信仰で心には平安があり、喜びがあって、賛美で朝の光を呼び覚まそうということが出来た。ところが後半では、栄光の中にいるはずの自分の心には、平安も喜びもなく、神の助けを必要としているといいます。

 

 ダビデは、羊を飼って荒れ野でクマや獅子と戦った時、あるいは、ペリシテの勇士ゴリアトと戦った時、少年でありながら、怖じることなく主に信頼して、勝利を手にしました(サムエル記上17章35節以下、41節以下)。しかし、王となったダビデは、姦淫と殺人の罪を犯し(サムエル記下11章)、その後、息子たちに翻弄されることになります(同13章以下)。

 

 この詩人は、バビロン捕囚という苦しみの中にいたときには、もっとはっきり神を感じていたのでしょう。ところが、捕囚から解放されて、神殿を再建し、エルサレムの城壁も完成して、そのように外側は整っていくのだけれども、内には空しさがあり、神を遠くに感じるようになったと悩んでいるのかも知れません。

 

 だから、もう一度、かつての信仰を呼び覚まそう、わたしの誉れよ、目覚めよと歌うのです(3節)。そして、自分たちが拠って立つのは、自分たちの知恵や力、業績などではなく、神の御言葉のみだということを、8節以下に神の宣言を記すことで示しています。

 

 そして、冒頭の言葉(13節)で、神からの救いを求める祈りをささげます。詩人の告げるとおり、人間の与える救いは役に立たず、神だけが、ご自身の宣言を実現することがおできになるのです。

 

 賛美と祈りを通して、神の御心、すなわち天に満ちる慈しみ、雲を覆う神のまことに触れたい、それによって、神に背く思い、神を見えなくするあらゆる力を追い払い、打ち滅ぼして欲しいと願っているわけです。

 

 そして、ダビデの詩を引用することで、ダビデの信仰に倣い、ダビデの時代に与えられていた神の恵み、その時代に見ることの出来た神の栄光に、もう一度与りたいと考えているのでしょう。私たちもこの信仰に倣い、困難に直面するときに御霊の導きを願い、御言葉にその御心を求めて、祈りと賛美をささげましょう。

 

 主イエスが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)と言われています。常に私たちと共にいてくださる勝利の主を信じ、その導きに与って、苦難に打ち勝たせて頂きましょう。

 

 主よ、どうか私たちの心を御言葉の光で照らしてください。神に背く闇の力を追い出してください。神の栄光を盗む高ぶりや傲慢から守ってください。どんなことにも、主を賛美し、御言葉に聴き従って勝利することが出来ますように。 アーメン

 

 

「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが、あなたの僕は喜び祝います。」 詩編109編28節

 

 109編は、善意に悪意で答える敵からの救いを求める「祈りの詩」です。

 

 その中で、新共同訳は8~20節を、詩人を苦しめる者に対する呪いの言葉と解釈し、訳文の記し方に変化をつけています。注解者の中には、この部分は、詩人を苦しめる敵対者の言葉だという立場をとる人がいます。

 

 17節の「彼は呪うことを好んだのだから、呪いは彼に返るように」という言葉が敵対者のものであれば、詩人が呪いを好んでいる、先に呪いの言葉を口にした詩人に、それが返るように願っているということになります。

 

 詩人が先に敵を呪ったということになれば、敵対者が詩人の善意に対して悪意で答え、愛に対して憎しみを返すという4,5節の表現と適合しません。喧嘩を売ったのは、むしろ詩人の方だということになってしまいます。

 

 そこで、8~15節を敵対者の詩人を呪う言葉、そして16節以下は詩人が敵対者を呪う言葉としてとらえ、自分の善意に悪意で答えるような、善意の人を呪うことを好む輩の上にその呪いが返るように求める言葉と考えるべきではないかと、これまで思っていました。

 

 詩人は、神に逆らう輩が自分を欺き、偽りの言葉をもって語りかけ(2節)、それによって自分を苦しめるのは、理由のないことだと言い(3節)、詩人は相手に愛を示したのに、相手は敵意をもって、善意に対して悪意を返すのだと訴えます(4,5節)。

 

 ということは、自分が相手を呪うのは、理由のないことではない、彼らの自分に対する悪意に対抗するためにしている正当な行為だと言っていることになります。けれども、いったい誰が、自分は相手を苦しめる正当な理由もないのだけれども、とにかく呪ってやろうと考えるでしょうか。

 

 誰もが、相手を悪く言うには正当な理由がある、悪いのは相手だと考えていることでしょう。しかし、自分にとって正当だという理由が、相手にしてみれば不当であるということも、往々にしてあることです。

 

 原文を調べると、詩人は自分を一人称単数「わたし」と語り、そして主なる神を二人称単数「あなた」と語ります。一方、敵対者について語るところでは三人称複数形(彼ら)が用いられます。2節では「神に逆らう者の口」と「欺いて語る口」を「(彼らは)わたしに向かって開き」、「偽りを言う舌」で「(彼らは)わたしに語りかけます」と語られています。

 

 そして、6節から19節まで、三人称単数の「彼」が登場します。これは、敵対者たちが詩人のことを三人称単数で「彼」と言い表しているようです。17節の言葉は4,5節の言葉と適合しないと前述しましたが、これは、敵対者たちが詩人のことを、悪意をもって偽証しているものだろうと思いを改めました。

 

 詩人は、主の慈しみによって敵対者の悪意、その呪いから救われることを願い(26節)、冒頭の言葉(28節)のとおり、「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます」と語り、祝福を求めました。神は呪いを祝福に変えることが出来ると詩人は信じているわけです。ゆえに、敵は恥に落とされ、自分は喜び祝うことが出来るというのです。

 

 かつて、モアブ王バラクが呪い師バラムを招き、イスラエルを呪おうとしたことがあります(民数記22章以下)。ところが、神は呪い師バラムに、イスラエルを祝福するよう命じました(同23章7節以下、18節以下、24章3節以下)。

 

 バラムによって語られた祝福の最後の言葉は、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる」(同24章9節)というものでした。それは、神がアブラハムに対して与えた、イスラエルを祝福の源として、地上のすべての氏族に祝福を約束する言葉でもあります(創世記12章2,3節)。

 

 神は祝福する者を祝福し、呪う者を呪うと言われているので、自分に対しては、敵対者の呪いの言葉が祝福に変えて与えられ、自分を呪う敵対者には、その呪いが返ってくるということになるのです。

 

 新約時代を生きている私たちに対して、主が「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ書3章9節)と命じておられます。

 

 誰がその命令に従えるでしょうか。誰にも出来ることではないかも知れません。そういう私たちのために、神の御子キリストが犠牲となられました。殺す者を赦し、祝福を願われたのです(同3章18節以下)。その主イエスの執り成しによって、私たちは恵みに与りました。

 

 主イエスを心の王座に迎え、アブラハムの子として、祝福の源とならせて頂きましょう。

 

 主よ、弱く乏しい私たちの右に立って、私たちを守り支えてください。私たちの心の王座に着き、すべての人々の祝福を祈る者とならせてください。世界に広がるテロへの不安と、テロとの戦いと称して続けられる報復の戦闘という負の連鎖を断ち切り、国際平和のために同じテーブルに着いて話し合い、平和的に手を取り合うときが一刻も早く到来しますように。 アーメン

 

 

「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」 詩編110編1節

 

 110編は、王の即位のときに朗読されたものです。

 

 冒頭の言葉(1節)で「賜った主の御言葉」(ネウム・ヤハウェ)とは「主の託宣」(新改訳「主の御告げ」)という預言者の常套句で、詩人に扮した預言者が、「わが主」(アドニー)と呼ぶ王に対して、主(ヤハウェ)の言葉を告げるという形式になっています。

 

 主なる神が「わが主」なる王に、「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」と告げます。「わたし(主)の右の座に就く」というのが、王となるということでした。

 

 ここで、「右」というのは、たまたまそう言っただけで、隣であれば左でもよいなどということではありません。右は、左に対して力や優位を示します。我が国の言葉でも、右腕といえば、その働きを代表する、代わりに務めを果たすことも出来るということを表します。また「彼の右に出る者はいない」と言えば、それは、彼が最も優れた者であるという意味になります。

 

 16編8節に「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」という言葉がありますが、それは、主なる神が詩人にとって、力強い守護者であるということを示しています。「右」は、そのような優れた力、技能の持ち主が立つところを表すわけです。

 

 ですから、「わたしの右の座に就くがよい」というのは、神が御自分の代務者、代理人として王を選び、その座に就けるということになります。それを預言者が、王として即位する者に向かって宣言、告知しているのです。

 

 「わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」とは、すべての敵を屈服させるということです。そのことを「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ」(2節)と説明します。

 

 「力ある杖」とは、王の持つ笏で、すべてのものを支配する王としての力を主が授けるということでしょう。主なる神が王の腕を支える力であられるので、敵に囲まれている真中で自信をもって治めることが出来るというのです。

 

 3節は難解な箇所です。「輝きを帯びて」という言葉について、ヘブライ語原典脚注に「山々において」と、一文字変えて読む案が提案されています(岩波訳脚注も参照)。口語訳はRSV(改訂標準訳)にしたがって、「あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に」と訳しているのは、そのためです。

 

 「聖なる山々」とは、エルサレムを囲む周囲の山々のことで、そこに王に従う者たちが集結して来るということを示しているのでしょう。主が王に力を与え、王に従う者たちがその周りを取り囲むとき、王に敵対していた者たちも進んで王に仕えるようになるという情景を思い浮かべます(2,3節)。

 

 イスラエルでは、王や祭司が即位するとき、頭に油が注がれました。それは、神のために聖別したというしるしですが、油は、神の霊を象徴しており、その儀式を通して、神の霊がその人に注がれた、知恵や力が神の霊を通してその人に与えられたということを示しているのです。

 

 イスラエルの人々が王に求めたのは、単なる政治手腕や戦闘能力の高さなどではないということです。それよりも、神からの知恵や力が与えられているかどうか、神がその人物を王として認め、用いられるかどうかが重要だと考えられたわけです。油が注がれた人のことを、ヘブライ語で「メシア」と言います。

 

 主イエスが1節の言葉を、御自分に適用して語られており(マルコ12章35~37節、14章62節など)、主イエスがメシアとして栄光を受けることを預言したものと、解釈されています。

 

 また4節の「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」という言葉も、ヘブライ書5章6節、7章17,21節に引用されて、「メルキゼデクと同じような大祭司」とは、キリスト・イエスのことを預言したものであると明示しています(同5,7章)。

 

 祭司は、神と人との間で人々のために供え物をささげて執り成し祈り、また人々に対して神の御言葉を語り、御心を教えるという務めを果たします。この言葉が、王に即位する者に対して語られているということは、イスラエルの王には、祭司としての働きが期待されているわけです。

 

 しかしながら、イスラエルの王たちは、神に喜ばれる王ではありませんでした。神に背いた結果、国が滅んでしまいました。そこで民は、神のお立てになる真の王、真のメシア、救い主を待望するようになりました。ダビデに勝る理想のメシア、救い主を待ち望んだのです。その願いに答えて神がお選びになったのが、ご自身の御子キリストを世に遣わすという手段でした。

 

 ご承知のように、「キリスト」は、「メシア」をギリシア語に翻訳した言葉です。「イエス・キリスト」とは、「イエスこそキリスト」、「救い主なるイエス」という表現です。そして、4節の「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」という言葉は、実に主イエスに語られたものであるということは、上で述べた通りです(ヘブライ書6章20節、7章1節以下も参照)。

 

 主イエスは、とこしえの祭司として私たちのために祈り、私たちを義とするためにご自身をいけにえとしてささげられました(ヘブライ書9章12節以下、同23節以下、同10章10,12節)。それが、十字架の死の意味です。

 

 祭司として私たちに神の御言葉を語り、執り成し祈り、ご自身を贖いの供え物とされた主イエスを、王として心の中心にお迎えし、絶えず主の御言葉に耳を傾け、その御心を行うことが出来るように、聖霊の導きと満たしを祈り求めて参りましょう。

 

 主よ、贖いの御業を感謝します。日々御言葉を示し、御心を行い、その使命を果たしていくために必要な知恵、力、御霊の賜物をお与えください。御心を行うことが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力を御自分の民に示し、諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。」 詩編111編5,6節

 

 111編と続く112編とは、対をなしています。111編は主を畏れる者たちによってなされる主の御業を賛美する詩です。そして、112編は主を畏れる者たちを賞賛するものです。

 

 冒頭の「ハレルヤ」を除くと、ヘブライ語のアルファベットの数と同じ22行です。各行の最初の文字がアルファベット順に並んでいるので、「アルファベットによる詩」と注記されています。これまでにも、いくつか出て来ました(9,25,34,37編など)。

 

 さらに、それぞれの行は、三つの単語ないし結合された語句で形成されています。これは、何よりも詩を記憶しやすくするための技巧ですが、しかし、作詩の際に、相当の制約となったことでしょう。

 

 それだけに、「わたしは心を尽くして主に感謝をささげる」(1節)という言葉のごとく、少ない言葉に万感の思いを込めて感謝の意を表わすという作者の意図が、そこに示されます。

 

 まず1節で、主への感謝をささげるものであることを告げ、2節には、この詩のテーマが提示されます。それは、主の大いなる「御業」(マアセ)です。新改訳は「主の御業は偉大で」と語っています。「御業(彼の業)」、「主の業」という言葉が、3,4,6,7節に繰り返し用いられています。

 

 語られている「主の大いなる御業」、「驚くべき御業」(4節、新改訳「奇しいわざ」)とは、エジプトの奴隷の状態から解放され、約束の地に定住するに至るという、出エジプトの出来事を指していると考えられます。

 

 「驚くべき御業を記念するよう定められた」(4節)と記されていますが、過越祭(出エジプト記12章1節以下、同43節以下)と、それに続いて守られる除酵祭、パン種を取り除く祭り(同12章15節以下、同13章3節以下)は、出エジプトの出来事を記念して行われる祭りだからです。

 

 列王記下23章22節に「士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった」という記述があります。これは、ヨシヤ王が過越祭を行わせたことについての評価です。つまり、「記念せよ」という主の言葉が、ヨシヤ王の時代までは蔑ろにされていたということです。

 

 そして、ヨシヤ以後の王たちもそれを蔑ろにし続けたので、結局国が滅び、イスラエルの民は捕囚とされる憂き目を見ることになったのです。

 

 あらためて、ここに「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」と語られているということは、エジプトにおいて奴隷生活をしていたのと同様、イスラエルの民がバビロンにおける捕囚の生活を送っており、もう一度出エジプトの出来事を思い起こそう、主の恵みと憐れみを思い出そうとしているということではないでしょうか。

 

 出エジプトの民は、荒れ野の旅路において何度も不平を言い、神に背きましたが、神は彼らを憐れみ、彼らの必要に応えられました。それが冒頭の「主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力を御自分の民に示し、諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる」(5,6節)という言葉に示されています。

 

 かつて、父祖たちがシナイの荒れ野を約束の地カナンに向けて旅していたとき、主なる神はイスラエルの民のために天から「マナ」というパンを降らせ、またウズラの肉を与えて、民を養われました(出エジプト記16章)。また、岩から水を出して飲ませられました(同17章1節以下)。そして、「嗣業の地」カナンを得ることが出来ました(ヨシュア記)。

 

 それは、主なる神がイスラエルの民との間に結ばれた契約を心に留め(5節)、それを誠実に守られたからです。105編8節にも「主はとこしえに契約を御心に留められる」とあり、続く9節に「アブラハムと結ばれた契約、イサクに対する誓いを」と語られています。

 

 アブラハムと結んだのは、地上のすべての氏族を祝福するために、イスラエルを大いなる国民とし、祝福の源とするというものであり(創世記12章2,3節)、星の数ほどに子孫を増やし、エジプトの川から大河ユーフラテスまで嗣業の地として与えるという約束です(同15章)。詩編105編10,11節に言われるとおりです。

 

 また、主なる神は、シナイにおいて出エジプトの民と契約を結び、彼らをご自分の宝の民とされました(出エジプト記19章3~6節、24章3~8節)。それは、イスラエルの民が優れた数の多い民であったからではなく、むしろ貧弱な民だったので神の憐れみを受けたのです(申命記7章6節)。

 

 同様に、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて帰郷が許され、エルサレムに第二神殿を建て、都の城壁を築き直し、国を再建することが出来るのは、ひとえに神が父祖たちと結んだ契約を御心に留め、それを忠実に守られるからです。「御手の業はまことの裁き、主の命令はすべて真実、世々限りなく堅固に、まことをもって、まっすぐに行われる」(7,8節)と言われるとおりです。

 

 ここで「まこと」(エメト)は「忠実、真実」、「裁き」(ミシュパート)は「公正」という意味です。新改訳は直訳的に「御手の業は真実、公正」(岩波訳も同様)と訳しています。主は、契約を通してイスラエルの民のために、かつて父祖らが守ることの出来なかった真実と公正を創り出してお与えくださいます。

 

 10節には、「主の賛美は永遠に続く」という結びの言葉の前に、「主を畏れることは知恵の初め」という教訓が語られています。知恵についてのこの命題は、箴言に2回、ヨブ記に1回登場します(箴言1章7節、9章10節、ヨブ記28章28節)。9節にも「御名は畏れ敬うべき聖なる御名」と語られています。

 

 「これを行う人は」の「これ」は、原文では3人称の複数形(それら)です。7節の、真実と公正を表す「主の命令」が複数形で、それを受けているわけです。即ち、私たちにとって、主を畏れることは神のご命令であり、命令に従うことを通して神の真実と公正が実現するのです。

 

 詩人が「命令」(戒め)というのは、トーラー、神の教えのことでしょう。知恵とは、神の教えが記されている神の御言葉、聖書を学び、それに生きることによって初めて得られるものです。私たちは、聖書を通して、イスラエルになされた主なる神の大いなる御業を学ぶことが出来ます。

 

 さらに、主イエスが新しい命令として、「互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)と告げられ、続けて「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(同35節)と仰いました。

 

 主は恵み深く、憐れみに富み、契約を結んだ私たちを常に御心にとめてくださいます。今日も、十字架にかかられた主イエスの御口を通して語られる神の御言葉によって豊かに養われ、主への畏れをもって心から御名をほめたたえましょう。

 

 主よ、御子イエスの十字架の贖いによって私たちは神の子とされました。それほどの大きな恵みと憐れみの中に生かされていることを覚え、絶えず感謝と喜びをもって主に従い、御霊の力を受けて、日々の生活の中に「互いに愛し合いなさい」という主の御命令を実践することが出来ますように。 アーメン

 

 

「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。」 詩編112編1節

 

 112編は、111編の姉妹編ということが出来ます。

 

 どちらも、「ハレルヤ」で始まります。そして、その「ハレルヤ」を除けば、いずれの詩も、各行の初めの文字が、ヘブライ語のアルファベット22文字の順番に並んでいます。また、それぞれの行が三つの単語ないし結合された三つの語句で構成されています。

 

 新共同訳で112編は24行ですが、原文は「ハレルヤ」に続く2行「いかに幸いなことか、主を畏れる人」が三つの語句(アシュレー・イーシュ、ヤーレー、エト・ヤハウェ)で一行になっており、上述のとおり「ハレルヤ」を除く22行の冒頭の文字が、アルファベット順になっています。

 

 また、112編は、111編最後の「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」(10節)という言葉を受けるかたちで、冒頭の言葉(1節)のとおり「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は」という言葉で始まっています。

 

 また、「恵みの御業は永遠に続く」(111編3節)と「彼の善い業は永遠に堪える」(112編3,9節)は、ヘブライ語ではいずれも全く同じ「彼の正義はとこしえに立つ」(ツィドゥカートウ、オーメデト、ラー・アド)という言葉遣いです。一種のリフレインのような役割といえばよいでしょうか。

 

 ただし、111編の「彼」は主なる神であるのに対し、112編では主を畏れ、その戒めを愛する「人」を指すという違いがあります。主は恵みの御業を今も行っておられ、主を畏れる人はそれをいつまでも受け取ることが出来るわけです。

 

 このように、111編は、人のために驚くべき恵みの御業をなされる主への感謝と賛美の歌で(1,10節)、一方112編は、主を畏れ、戒めを深く愛する人に与えられる祝福を語る歌になっており(1節以下、7節以下)、相互に補完する関係と言えます。

 

 このような二つの詩の関係から、主を畏れ、戒めを深く愛するというのは、人のために驚くべき御業をなされる主への感謝と賛美であるということになります。また、「主を畏れる人、戒めを深く愛する人は」という言葉遣いから、主を畏れるとは、戒めを深く愛することだと示しています。

 

 この「深く愛する」は「大いに喜ぶ」(ハーフェーツ、メオード:口語訳、新改訳、岩波訳など)という言葉です。主の命令を大いに喜び楽しむということは、主を畏れる人が主を深く敬愛しているからこそのことでしょう。それで新共同訳は「深く愛する」と意訳したわけです。

 

 一方、主に対して感謝と賛美をささげるのは、その人が主なる神の驚くべき御業を経験したからで、それによって主の豊かな恵みを味わったためでしょう。しかしながら、主の恵みが豊かであればあるほど、嬉しいという思いよりもむしろ、畏れを感じるものです。というのは、自分自身、そのような主の恵みを受けるのにふさわしい人物であるとは思えないからです。

 

 一晩中不漁で、主イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」という言葉に、やっても無駄という言葉を呑み込んで「お言葉ですから」と従い、舟が沈みそうになるほどの大漁になったとき、シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」と言いました(ルカ福音書5章4節以下、8節)。

 

 ペトロは、イエス様がついていれば鬼に金棒、もう不漁になることはない、これからはいつも一緒に自分の舟に乗ってください、とは求めなかったのです。そうではなく、驚くべき主の御業に触れて、ペトロは主を畏れました。主の恵みがペトロの心を照らしたとき、彼は自分が罪深い者であることを悟ったのです。

 

 けれども、主イエスがその御業を現されたのは、ペトロを驚かせ、その罪を裁くためではありません。彼らを「人間をとる漁師となる」(同10節)よう招くためです。「人間をとる」とは、「人々を生け捕りにする」という言葉で、ここでは、人を活かす漁師という意味で語られているのではないかと思われます。

 

 それは、マルコ3章14,15節との関連で、福音を宣教し、悪霊を追い出すという働きをなすことです。勿論、ペトロたちにそれをする力がある、彼らはその資格十分ということでもありません。主を畏れ、その御言葉に従うとき、彼らのその従順な信仰を通して神の御業がなされ、それによって、人に命を与えることが出来るということです。

 

 つまり、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人とは、律法違反の罰を恐れてこわごわ従う人ではなく、また、規律によってがんじがらめにされるということでもなく、自分の罪深さを知るがゆえに、いっそう神の恵みに深く感謝し、その御言葉に信頼し、喜んで従う人のことをいうのです。

 

 主なる神に対する愛と信頼のゆえに、「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」(4節)という恵み、「悪評を立てられても恐れない(直訳「悪い知らせを恐れない」)」(7節)という平安、「敵を支配する」(8節)喜びを味わうことが出来るのです。

 

 8節の「堅固で」は、「支える」(サーマク)という動詞の受動態分詞形で、「支えられて、支えられながら」という意味で用いられています。自分の決意を固く保つというのではなく、信頼する主に支えられているので、恐れに支配されることがないというのです。

 

 お互いの愛と信頼が脅かされている今こそ、私たちを愛し、ご自身の命をもって私たちを贖い出してくださった主イエスに信頼し、主の御言葉を大いに喜び、恵みのみ手に支えられて、憐れみに富み、情け深く、正しい主の光を世に輝かせましょう。

 

 天のお父様、御子イエスを通して示された神の愛と赦しのゆえに、心から感謝致します。私たちの心もキリストの光に照らされており、絶えず、平安をもって歩むことが出来ます。周りの人々、特に、悩み苦しみのうちにいる人々に、恵みの光、愛の光、命の光を届けることが出来ますように。 アーメン

 

 

「子のない女を家に帰し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」 詩編113編9節

 

 113編は、ユダヤ教の伝統において、「ハレル」と呼ばれる詩編歌集(113~118編)の最初の詩です。「ハレル」とはヘブライ語で「ほめたたえる」という意味です。バビロン捕囚後に、感謝の歌として礼拝用に作られたと考えられています。

 

 「ハレル」は、特にユダヤの祝祭のときに歌われました。それは、「ハレル」が出エジプトにおいて表された、神の御業をほめたたえるにふさわしい内容となっているからです。

 

 であれば、主イエスの最後の晩餐の後、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」(マルコ福音書14章26節)という言葉に言われている「賛美の歌」とは、最後の晩餐が「過越の食事」としてなされていることから(同14章12節以下)、この「ハレル」のことと考えてもよいでしょう。

 

 この詩は、1~3節が賛美への呼びかけ、4~6節が主の威光についての賛美、そして7~9節が主の憐れみの御業に対する賛美という内容になっています。

 

 賛美を呼びかけられているのは、「主の僕ら」(1節)です。彼らは主によって召し出され、その召しに応じた者たちです。その選びのゆえに、恵みの主をたたえます。彼らは、「今よりとこしえに」(2節)、「日の昇るところから日の沈むところまで」(3節)と、時間的にも空間的にも限りなく主をたたえる奉仕に召されたのです。

 

 詩人は主の比類のなさを、「わたしたちの神、主に並ぶ者があろうか」(5節)と反語的に問い、「すべての国を超えて高くいまし」(4節)、「主の栄光は天を超えて輝く」(5節)と歌います。しかも驚くべきことに、すべてを超越しておられる主が、低きにいるすべてのものに深く関わってくださるのです(6節)。

 

 低きにいるすべてのものについて、7節に「弱い者」、「乏しい者」、冒頭の言葉(9節)に「子のない女」とあります。そして、彼らに関わってその苦しみから解放し、救い出された神の御業を、8節で「自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる」、続く冒頭の言葉で「子を持つ母の喜びを与えてくださる」と詠って、主を賛美しているのです。

 

 特に、子のない女に子を持つ母の喜びを与えるというのは、聖書に何度も出てくる重要な主題です。まず創世記に紹介されるイスラエルの父祖、アブラハムの妻サラ(創世記11章30節、21章1~8節)、イサクの妻リベカ(同25章21節)、ヤコブの妻ラケル(同29章31節、30章1,2節、22~24節)がそうでした。

 

 また、サムソンの母(士師記13章2節以下)、サムエルの母ハンナ(サムエル記上1章2節以下)、そして、新約の時代においても、バプテスマのヨハネの母ハンナ(ルカ福音書1章7節、13節以下、36節、57節以下)がそうです。

 

 不妊の女性が子を産むというのは、神の助けなしにはきわめて困難なことです。「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ」(7節)は、ハンナの祈り(サムエル記上2章1節以下、8節)やマリアの賛歌(ルカ福音書1章47節以下、52節)とも一つに結び合う内容です。そして、彼女たちに授けられた子らは、イスラエルの歴史の中で、大変重要な役割を果たしたのです。

 

 イザヤ書54章1節にも、「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」と語られています。これは、バビロンの捕囚とされたイスラエルの民が、解放されてエルサレムに戻ってくることを預言しているのです。

 

 イスラエルの民がこの詩を、特に過越の食事の前後に歌っているということは、捕囚からの解放を出エジプトの出来事と重ねているわけです。そして、主イエスが最後の晩餐の後、この歌をうたってオリーブ山に出かけられたのは、単に過越の時になされる習わしだからということに留まらず、受難を出エジプト、バビロンからの解放と重ねていると考えてもよいでしょう。

 

 バビロン捕囚は、イスラエルの民の背きの罪が原因でした。彼らが救い出されたのは、ひとえに神の憐れみによるものです。神殿の再建、イスラエルの再興は、神の憐れみなしには、為(な)し能(あた)わざることでした。それゆえ、「歓声をあげ、喜び歌え」と言われるのです。

 

 主なる神は、罪を犯した私たちを憐れみ救うために、独り子イエスを贖いの供え物として十字架につけられました。ここに、すべての国を超えて高くいます主が、低く下られたという事実を見ることが出来ます(フィリピ書2章6~11節)。

 

 私たちは、主の深い憐れみによって救いの恵みに与りました。私たち自身を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして、喜んで主に献げましょう。それこそ、私たちのなすべき礼拝(ロギケー・ラトレイア reasonable service)なのです(ローマ書12章1節)。 

 

 私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父よ、どうか私たちに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 アーメン

 

 

「ユダは神の聖なるもの、イスラエルは神が治められるものとなった。」 詩編114編2節

 

 114編は、「ハレル」詩編歌集(詩編113~118編)の第2のもので、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、神がいかにしてご自身の宝の民とされたかということについて物語っています(135編4節、出エジプト記19章5,6節)。

 

 この詩は、2節ずつ4つの段落に分かれ、第1段落と第4段落、第2段落と第3段落が対応とするという対称形になっています。さらに、各段落の前節と後節が対をなしていて、短い詩ながら、技巧を凝らした構造になっています。

 

 第1段落(1~2節)には、イスラエルがエジプトを脱出したこと、そして、イスラエルが神の聖なる民となったことが記されています。主なる神がエジプトの奴隷であったイスラエルの民をご自身の民として選び、救いの恵みをお与えくださったのです。1節で「イスラエル」と「ヤコブの家」、「エジプト」と「異なる言葉の民」は同義語です。

 

 また、冒頭の言葉(2節)で「神の聖なるもの」は「彼(神)の聖所」という言葉です。「神が治められるもの」とは「彼(彼)の領土」という言葉です。これは、イスラエルを神の治められる領地とし、そこを聖所、すなわち主なる神を礼拝するところとされたということを示しているのでしょう。

 

 第1段落と対になる第4段落(7~8節)には、「地」で言い表される全地の民が、主の御前に身もだえすること、即ち、主なる神を畏れること、それはその方が岩を水のみなぎり溢れる泉とされる方だからということが記されています。これは、出エジプト記17章1節以下、民数記20章8節の出来事を指しています。

 

 第2段落(3~4節)は、海とヨルダン川が退いたことと、山々と丘が踊ったことが記され、第3段落(5~6節)は、海と川、山々と丘がそのように振舞うとはどうしたことかと問う言葉が記されています。

 

 海が逃げ去ったとは、葦の海が二つに分かれて、イスラエルの民が乾いた地を渡ったこと(出エジプト記14章21,22節)、また、ヨルダン川が退いたとは、川の水が上流でせき止められて、民が干上がった川床を渡ったこと(ヨシュア記3章15~17節)を指しています。

 

 また、山々と丘が踊ったとは、イスラエルの民に十戒を授けるために神がシナイ山の上に降られた時、山全体が煙に包まれ、激しく震えたこと(出エジプト記19章16,18,19節)を指しているのでしょう。ここには、海や川、山や丘を支配される神が詠われているわけです。

 

 そしてそれは、イスラエルの民がエジプトを脱出して、カナンの地に向けて進むときに起こりました。つまり、3~6節で言われていることは、1節と2節の中間に起こった経過報告になります。

 

 主なる神は、力強い御腕をもってイスラエルの民をご自分の宝の民として選び、エジプトの奴隷の地から連れ出され、ユダの地を聖所として選び、そこに神飲み屋を建てさせられました。かくてイスラエルを治められる神は、それゆえに、全地の民に畏れられるお方であられます。

 

 そしてまた、海や川を退かせ、山々と丘を震え上がらせて全地を支配される神は、岩を水のみなぎるところとし、それによって荒れ野を旅するイスラエルの民に飲み水を供与されるお方なのです。

 

 こうして詩人は、全地を支配される神が、奴隷の苦しみの中にあったイスラエルの民を憐れみ、彼らをその苦しみから救って約束の地を得させるために、驚くべき御業をなさったこと、全地の民はその方を畏れ、礼拝すべきことを、この短い詩の中に見事に描き出しています。

 

 バビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、バビロンから解放されたことを出エジプトの出来事と重ね、あるいは「異なる言葉の民」(1節)をバビロニア人と考えて読んだのではないでしょうか。そして、どのような苦境にあるときにも、この詩を歌うことで、慈しみ豊かな神への信仰に目覚め、そこに堅く立つことが出来るようにされたことでしょう。

 

 信仰に立って賛美と祈りをささげるとき、自分は何者か、自分はどこにいて、何をすべき者なのかを知らされます。また、苦難の中にいて主の御名を呼び、嘆きの歌をうたえば、主なる神が親しく聞いて、民の苦しみを取り除き、その縄目から解放してくださいます。

 

 これまで何度も学んだように、神はイスラエルの民を御自分の聖なる民、全地のすべての民の中から選び出された宝の民とされました。それは、彼らが他のどの民よりも貧弱だったから、神の愛のゆえにその恵みに与ったのです(申命記7章6~8節)。

 

 その深い愛と憐れみのゆえに、異邦人である私たちも選ばれて神を礼拝する宝の民として頂くことが出来ました(第一ペトロ書2章9,10節)。イスラエルの救いのために大自然に働きかけられた神は、私たちを神の民とされるため独り子イエスをお与えくださったのです(ヨハネ福音書3章16節)。ここに神の愛があります。

 

 主の恵みに応え、私たちに委ねられた使命に生きるため、朝ごとに主のみ声を聞き、命の糧に与りましょう。

 

 天のお父様、あなたの深い愛と憐れみのゆえに、心から感謝し、賛美をお献げ致します。かつては神の民ではありませんでしたが、今は神の民であり、以前は憐れみから漏れていましたが、今は憐れみを受けています。私たちを暗闇から驚くべき光の中に導き入れてくださった主の愛と恵みを、広く証しし、福音を宣べ伝えることが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。」 詩編115編1節

 

 115編は、危機にある信徒たちに主に依り頼むよう勧め、祝福を祈る「典礼歌」です。

 

 2節に「なぜ国々は言うのか、『彼らの神はどこにいる』と」と記されています。この言葉は、バビロンに捕囚となったイスラエルの民に対して、バビロンの人々から浴びせられた問いか、あるいはまた、捕囚から解放されて帰国を果たすことが出来たものの、神殿の再建もエルサレムの再興も果たせずに苦労しているイスラエルの民に対して、周辺諸国の人々から投げかけられた言葉でしょう。

 

 それは、親切で尋ねているはずもなく、「お前たちの神はどこにいるのか、いるというなら見せてみろ」という、侮辱を含んだ言葉です。あるいは、イスラエルの民の神に対する堅い信仰を揺るがせようとしているのでしょう。

 

 かつて、アッシリアの王センナケリブが、イスラエルに攻め込み、エルサレムを包囲した際に、エルサレムの民に向かって、ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したかといって、ヒゼキヤと主なる神を侮辱する言葉を語りました(列王記下18章13節以下、29,32,35節)。

 

 そしてまた、悲しいことに、私たちの心にも、「神はいるのか。いるというなら、どこにいるのか。神は、私のことを助けてくれるのか」と、疑いの思いが出て来ます。そこで、私を助けてくれる神、私の願いを聞いてくれる神を捜し求めて、右往左往し始めます。

 

 しかしながら、そこで詩人は、「わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」(3節)という信仰の宣言をします。神は確かにおられ、ご自身の計画に従い、驚くべき御業を行っておられるのです(111編3,4節)。

 

 4~7節に「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことはできない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」と記されています。

 

 確かにそうです。人間が造った神の像が人間を助けてくれるはずはありません。神の像を造った人も、それくらいは分かっているでしょう。神の像が人間を助けるはずはありません。

 

 そう分かっているのに、なぜ像を造るのでしょうか。それは、目で見えるように、手で触れられるように、そして自分の願いを聞いてくれるように、お守りとして神を近くに置いておきたいのでしょう。ということは、神の像ばかりではなく、自分が信頼出来ると考えるものがすべて、偶像になり得ます。お金や地位、権力などが、神にとって代わることがあるわけです。

 

 そのことについて、詩人は8節で「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じになる」と言います。天地を造られた神を人が正しく形作ることなど、出来るものではないでしょう。造られた神の像が不真実なものであれば、それを造る者も不真実の中に留まっているということです。

 

 それゆえ詩人は冒頭の言葉(1節)のとおり、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって」と語ります。詩人は、主なる神が御自分のために驚くべき御業を行われ、それによって、主こそ恵みと慈しみに富むまことの神であることを自ら明らかにして、御名の栄光を現してくださるようにと願っているのです。

 

 それこそ、恐れと不安の中にいる乏しく弱い人々に対する最も確かな希望であり、平安を与えるものであることを、詩人は知っているのです。ゆえに、「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾」(9節)というのです。「天地の造り主、主があなたたちを祝福してくださるように」(15節)と祝福を祈るのです。

 

 神は、もともと神の民でなく、その憐れみを受けられるはずがなかった私たちを、その深い憐れみによって救い、神の民とされました(第一ペトロ書2章9,10節)。それこそ、私たちのために、神の慈しみとまことによって、御業を行ってくださったのです。主は、主を畏れ、主を礼拝するために奉仕する者の助けとなり、また、祝福をお与え下さいます(9~16節)。

 

 私たちこそ、希望と平安の源であられる主をたたえましょう。今も、そしてとこしえに。ハレルヤ!

 

 主よ、御子キリストの贖いのゆえに感謝します。私たちが神の子と呼ばれるためになされた愛の御業のゆえに、御名をほめたたえます。とこしえに御名が崇められますように。常に御業がなされますように。そのことのために、私たちをあなたの器、道具として用いてください。 アーメン

 

 

「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」  詩編116編10,11節

 

 116編は、救いを求めて嘆き祈る祈りが主によって答えられたことに対する感謝の賛美の歌であり、あらためて主を信じる信仰を宣言する詩です。

 

 七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)では、9節までと10節以下で別々の詩とされています。七十人訳のとおり、本来は別々だったものが一つにされたというのでしょうか。それとも、現在の詩のごとく本来は一つだったものが、礼拝祭儀などに用いられるといった理由で二つに分けられたのでしょうか。正確なところはよく分かりません。

 

 詩人は、「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ」(3節)、「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から、助け出してくださった」(8節)、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」(15節)と、繰り返し「死」について語っています。

 

 傷病であるにせよ、押し迫って来る敵の存在であるにせよ、そこに詩人を陰府へ突き落とそうとその命を脅かし、苦しませ、嘆かせているものがあったことが分かります。 

 

 そのような状況に陥ったとき、詩人にはもはや、主なる神のほかに頼りになるものがありません。それゆえ、「苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください』」(3,4節)と詠うのです。

 

 詩人にとって死と陰府の脅威とは、何より、神との交わり、神との関係が完全に断たれてしまうことを意味していました。パウロが、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ書3章23節)、「罪の支払う報酬は死です」(同6章23節)というのも、同様のことを語っていると思います。

 

 15節の「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」という言葉は、興味深い言い回しです。しかしこれは、主の慈しみに生きる人は、主の目に価高いのだから、いつ死んでもよいなどということではありません。

 

 「主の目に価高い」とは、主の慈しみに生きている人を死なせることは、彼らの主を褒め称える歌が途絶え、全地に主の恵みを証しする働きを奪い去ることになり、それはもったいないことだという表現で、主の慈しみに生きている人の命を価高い大切なものとしてくださいという願いが込められている言葉なのです。

 

 「主の慈しみに生きる」とは、主の慈しみのうちを歩む、慈しみを受けて生きるということでしょうか。原語は「ハーシード」(「敬虔な、忠実な、聖なる者、聖徒」の意)です。それは、主の「慈しみ」(ヘセド)に対して、主を畏れ、誠実に生きることを表しているのです。

 

 6節に「哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる」と語られていることから、詩人は、自分が哀れな人で、弱り果てている者であると告白し、そのような自分を守り、救ってくださる神に感謝し、慈しみ豊かな主とその御言葉に信頼して忠実に歩もうと言っているわけです。

 

 さらに、冒頭の言葉(10,11節)で、「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも。不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」と宣言しています。岩波訳は10節前半を「私は信じている、私が語るときも」とし、脚注に「七十人訳『私は信じた、それゆえに語った』」と記しています。

 

 前述のとおり、ここに来て詩人には、主なる神のほか頼りとするものは何もないのです。人に頼れば、「不安がつのり、人は必ず欺く」という思いから解放されず、ますます不安が募って来るといった悪循環に陥ってしまいます。けれども、主を信じ、主を頼りとするとき、主が憐れみ深く、情け深いお方であることを味わい、悟ります(5節)。

 

 使徒パウロはこの詩人の信仰に心打たれたのでしょう。10節前半の言葉を第二コリント書4章13節に引用して、「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」と記しています。苦しめられ、死にさらされていても、主を信じて語ることが出来るというのです。

 

 さらに、第二コリント書12章9節で「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで弱さを誇りましょう」と語っています。

 

 私たちが弱り、苦しめられている中で、神の力ある御業がなされるとき、それは私たちのゆえではなく、神の恵み、慈しみのゆえであることが分かります。パウロは同4章7節で『私たちはこのような宝を土の器に収めています」と語っていました。内にある主の光が輝き出るなら、器にどのような価値があるかは、大して問題ではないのです。

 

 当然のことながら、弱さそのものが私たちの誇りなのではありません。私たちの弱さの中で、しかし力強く働いていてくださる主を誇りとし、それゆえ、どのようなときにも喜びと感謝をもって、主なる神に賛美と祈りをささげるのです(1,2節、17節以下)。

 

 救いの杯を上げて主の御名を呼びましょう(13,14節)。この賛美の杯をパウロは、主の晩餐式の杯と結びつけています(第一コリント書10章16節)。

 

 「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう」(ヘブライ書13章15節)。 

 

 主よ、弱い私たちを憐れみ、助けてください。弱さの中に御業を現してくださる主を信じます。私たちの嘆き祈る声に耳を傾けてくださるからです。聖霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌をもって御名を褒め称えさせてください。絶えず御名をたたえる唇の実をささげることが出来ますように。 アーメン

 

 

「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」 詩編117編2節

 

 117編は、詩編の中で最も短い詩です。けれども、詠われている内容は、限りなく豊かなものです。ただし、116編19節の後ろにつけて、一つの詩としている写本が多数存在します。

 

 詩人は、「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ」(1節)と、あらゆる国のあらゆる民族に、主なる神を賛美するように呼びかけます。ここで詩人は、イスラエルのみならず、主はすべての国のすべての民の神であられると考えているわけです。

 

 神が天地万物の創造主であると信じるならば(創世記1章)、すべてのものが神によって創られたわけですから、当然のことながら、すべての国のすべての民にとって、主こそ神であるということになります。86編9節で「主よ、あなたがお造りになった国々はすべて、御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます」と言っているのは、そのことでした。

 

 賛美を呼びかける理由は、ここではしかし、神が創造主だからというのではありません。詩人は、冒頭の言葉(2節)で「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い」と詠っています。「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメト)」は、イスラエルが繰り返し経験してきた、救いの御業を行われる神のご性格を言い表す用語です。

 

 イスラエルがエジプトを脱出して奴隷の苦しみから逃れることが出来たのも、40年に及ぶ荒れ野の放浪生活を乗り切ることができたことも、そして、先住の民を追い払って約束の地を手に入れることが出来たのも、父祖アブラハムと契約を結ばれた主なる神の「慈しみとまこと」のゆえでした。

 

 そしてまた、バビロン捕囚から解放されて帰国を果たすことができたこと、幾多の困難を乗り越えて神殿を建て直すことができたこと、また同様に、城壁を築きなおして国を再興することが出来たのも、主の恵みだったのです。

 

 しかしながら、それはイスラエルの民にとっては恵みでしょうけれども、エジプトやバビロン、そして、パレスティナから追い出された先住の民にとっては、決して喜べる話ではありません。彼らに向かって勝ち誇ったように、「主を賛美せよ」と言うのであれば、なおさら、主をほめ歌うことなど、出来る相談ではありません。

 

 137編1~3節に「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々にかけた。わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから」とあります。「嘲り」を受けて歌うことなどできません。

 

 パウロが、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(ローマ10章14節)と言っているように、賛美する理由がなくて、主をほめ讃えることは出来ません。主について聞いたこともない者が、主を信じることなど、まずあり得ないことでしょう。

 

 「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い」(2節)という言葉で、「とこしえに」ということは、世代を超えるという表現ですし、「わたしたちを超えて」とは、国や民族を超えてということです。

 

 つまり、主なる神は、あらゆる世代のあらゆる国と民族に、ご自身の慈しみとまことを現されると言っていることになります。それは、実に神が、慈しみに富む、まこと、真実なるお方だからなのです。

 

 このように賛美の呼びかけがなされているということは、そのために、主なる神の「慈しみとまこと」が広く語り伝えられ、至るところでそれが体験されなければならないということになります。

 

 そのために、慈しみ深くまことなる主は、使徒たちに聖霊を注ぎ、力を与えて、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、主イエスの証人となるようにされたわけです(使徒言行録1章8節、2章1節以下、9~11節)。

 

 主イエスによってなされた十字架の贖いの御業によって、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁を取り壊し(エフェソ書2章14節)、敵意を滅ぼし(同17節)、両方の者が一つの霊に結ばれて、父なる神に近づくことが出来るようにしてくださったのです(同18節)。そうして、すべての者がアブラハムの子孫とされ、約束のものを相続することが出来るようにされたわけです。

 

 パウロが、「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人がその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」(ローマ書15章8,9節)と言います。

 

 そして、「『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています」(同11節)と、詩編117編1節を引用しつつ、その根拠を示しています。

 

 マルティン・ルターは、「わたしの見るところでは、使徒言行録はこの詩編あるがゆえに書かれたと言ってよい」と、詩編の注解において語っています。すべての国民が主をたたえるよう、神の愛の福音がエルサレムから、ユダとサマリアの全土、そして地の果てにまで告げ知らされるようにされたのだということでしょう。

 

 「わたしたちを超えて力強い」神の慈しみとまことに圧倒されて、私たちも、全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝える伝道の働きの一翼をしっかりと担い、私たちの置かれている静岡の町、その周辺に、キリストの福音を告げ知らせましょう。主の手足となって働かせて頂きましょう。

 

 希望の源であられる父なる神様、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてください。世界中の人々が、慈しみとまことのゆえに神をほめたたえますように。 アーメン

 

 

「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」 詩編118編22,23節

 

 118編は、ハレル賛歌詩集(113~118編)の最後の歌です。この詩は、様々な苦難から救われた人の信仰告白と、それを祝う人々の賛歌です。

 

 この詩が、117編に続いて読まれることを考えると、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(1節)と賛美をするのは、イスラエルの民を超えた、すべての国のすべての民ということになります。

 

 そして、恵み深い主に感謝し、永遠の慈しみをほめたたえるがゆえに、彼らも神によって選ばれた「イスラエル」、主を礼拝する「アロンの家」、そして、「主を畏れる人」と呼ばれるのです(2~4節)。

 

 この詩が詠まれた時代的背景や、詩人が経験した出来事について、具体的なことは分かりませんが、出エジプト記15章の「海の歌」との関連を示す記述があります。それは14節で、出エジプト記15章2節前半の言葉と全く同じ言葉遣いです。詩編で「わたしの砦」と訳されているのは、出エジプト記の「わたしの力」(アージー)という言葉なのです。

 

 また、「主の右の手」(15,16節)というモチーフが、出エジプト記15章6,12節にありまし、「わたしの神」(28節)として主を崇める言葉も、出エジプト記15章2節後半に出ます。

 

 ただ、14節の言葉はイザヤ書12章2節にも現れるので、この詩は単に出エジプトの出来事を思い起こさせるだけでなく、国々の包囲の中にあって、特にバビロン捕囚とそこからの帰還に際し、イスラエルが主なる神の見守りの下にあったことを明らかにしています。

 

 詩人にとって神とは、苦難の中で御名を呼び求めれば、そこから助け出して解放してくださる力強い味方、助けとなり、避けどころとなられるお方なのです(5~9節)。敵に包囲されても、主が味方となってくださいますから、彼らを必ず滅ぼすことが出来ます(10~12節)。

 

 10節の「滅ぼす」と訳されているのは「切断する、断つ」(ムール)という言葉で、特に「割礼を施す」という意味で用いられます。「割礼」と「滅ぼす」が結びつく例は、サウル王がダビデを娘ミカルの婿に迎えるのに、ペリシテ人の陽皮100枚を要求したのに対し、ダビデは200人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰ったという話でしょう(サムエル記上18章25,27節)。

 

 その事実にサウル王は、主がダビデと共におられることを思い知らされたと、同28節には記されています。

 

 そのときサウルは、100人分ものペリシテ人の陽皮を持って来ることは不可能だろう、出来ればそのときにダビデが命を落とさないかと考えていたわけで(同17,25節)、それを難なくやってのけたということは、ダビデに神の助力があることを認めざるを得ないということになったわけです。

 

 そもそもダビデは、自分がサウル王の婿になれるなどとは全く考えていませんでした(同18,23節)。けれども、こうした状況で神がダビデに助力したということは(同14,28節参照)、ダビデがサウル王の婿になること、後にサウルに代わってイスラエルの王位に就くことが神の計画であるということでしょう。

 

 このダビデの子孫として、エルサレムにやって来られる方がおられます。その方こそ、主イエス・キリストです。

 

 冒頭の言葉(22節)に、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」とありますが、この言葉を主イエスが引用しながら、御自分を「家を建てる者の退けた石」、ユダヤの指導者たちを「家を建てる者」として語られたことがあります(マルコ福音書12章10~12節など)。

 

 ユダヤの指導者に捨てられた主イエスこそ、神の家を建てるときに要となる石であり、キリストによって全体が組み合わされ、完成するということです(エフェソ書2章20,21節)。そのとき、ユダヤ人も異邦人も、男も女も、キリストによって一つにされます。

 

 主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城されるときに、人々が「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マルコ福音書11章9,10節)といって主イエスを迎えました。それは、118編で歌われている内容の実現といってよいでしょう。

 

 というのは、人々が主イエスを迎えた言葉は、26節の「祝福あれ、主の御名によって来る人に」という言葉そのものです。また、「ホサナ」とは「どうか、私たちを救ってください」という意味ですが、25節の「どうか、わたしたちに救いを」は、原文では「ホーシーアー・ナー」、それをギリシア語音化すれば「ホサナ」という言葉になるのです。

 

 かくて、主イエスが義と平和の王としてエルサレムに入城され、ご自身を贖いの供え物として十字架に死んでくださったことにより、私たちの罪が赦され、信仰によって神の子とされる救いの道が開かれたのです。だから、「今日こそ主の御業の日、今日を喜び祝い、喜び躍ろう」(24節)と宣言されているわけです。

 

 「主の御業の日」は「主が造られた日」(ゼ・ハッヨーム、アーサー、ヤハウェ)という言葉です。キリスト教会はイースターにこの詩を読みながら、キリストの復活を喜び祝う日として、この日を造り与えてくださった主をほめ讃えて来ました。

 

 慈しみ深き主を心から誉め讃え、感謝の一日を過ごしましょう。賛美を通して恵みの主を証しさせていただきましょう。

 

 主よ、あなたこそ私たちの神、私たちに光をお与えくださる方です。御子イエスが十字架の祭壇にご自身を生贄としてささげ、贖いを成し遂げてくださいました。御名を崇め、感謝をささげます。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがありません。 ハレルヤ! アーメン!

 

 

「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。」詩編119編1節

 

 詩編119編は、表題のところに(アルファベットによる詩)とあり、8節ごとに区切られた段落の始めに(アレフ)、(ベト)、(ギメル)などと記されています。これは、ヘブライ語のアルファベットで、その段落の各節の最初の文字が、そのアルファベットになっているということを示しています。

 

 ヘブライ語のアルファベットは22文字です。各段落が8節ずつありますから、8節×22文字=176節まであるという、聖書中で最も長い1編(章)となっています。

 

 この詩は、主なる神を教師、詩の読者を僕なる生徒、聖書の御言葉(律法、定め、掟、戒め、裁き、言葉、命令、仰せ)が教科書、そして、この教科で学ぶのは、主に従って生きる生き方、詩の中では「道」と表現されているものです。

 

 詩人は言葉を尽くして、主の御言葉を聴くことの出来る喜び、御言葉に従うことの重要性を説き、それを忘れることなく絶えず口ずさむことが出来るように、アルファベットの詩に編んだわけです。この詩の中には、きらめく宝石のような御言葉がそこかしこにたくさんちりばめられています。一つでも二つでも暗誦することが出来るようになって、詩人の労作に報いたいものです。

 

 冒頭の言葉(1節)は「アレフ」で始まる段落の中にあります。余談ながら、ヘブライ語のアルファベットはすべて子音で、それに母音記号がつけられて発音されますが、アレフは無声子音で、母音どおりの発音になります。

 

 「いかに幸いなことでしょう」(1,2節)は、1編1節と全く同じ書き出しです。幸いな人について、「まったき道を踏み、主の律法に歩む人」(1節)、「主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人」(2節)と言います。

 

 1節に「踏む」という動詞は用いられていません。原文を直訳すると、「完全な道を、ヤハウェの律法において歩く人は」という言葉遣いです。主の律法の内を歩むと、完全な道、人生になるということでしょう。「踏む」という動詞が補われたのは、「道」(デレク)が同根の動詞「ダーラク」(「踏む、歩く」の意)から派生したものだからでしょう。

 

 119編には、「道」が20回出て来ます。「デレク」が14回(1,3,5,7,14,26,27,28,30,32,33,37,59,168節)、「オーラハ」が5回(9,15,101,104,128節)、「ナーティーブ」(男性形)1回(35節)、「ネティーバー」(女性形)1回(105節)です。主の律法に従って歩む大切さを、この用語法で示しているのです。

 

 「律法」は「トーラー」の訳語で、元来「投げる、打つ」(ヤーラー)という言葉から派生して、「方向、指示、法」という意味を持つようになったものです。生ける神の口から出て来た「教え」といってもよいでしょう。

 

 主の律法に歩むとは、主なる神の御教えに聴き従うことです。神の御教えを聴くとは、御言葉を自分の頭で考え、理解するということではありません。御教えに従うこと、御言葉を実践することです。従わない者は、主の律法を「主なる神の御教え」として聴いていないのです。

 

 「まったき道を踏み」と言われますが、神の道を自分の力で完璧に歩むことなど、誰にも出来はしません。神の教えを自力で完璧に実践出来る人など、存在し得ないでしょう。しかしながら、私たちが御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩もうとするとき、神はそれを「まったき道を踏んでいる」と見てくださるのです。

 

 私たちの歩みが完全なのではなく、神の御言葉が完全なのであり、私たちはそれを完璧にこなせるわけではありませんが、しかし、たとえ踏み外すことがあっても、絶えず御声に耳を傾けるなら、主は私たちを正しい道へ導いてくださるのです(23編3節参照)。

 

 2節で「主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める」というのは、神の御声に絶えず耳を傾ける態度のことです。そして、神を尋ね求めるとは、神の語られた御言葉、そこに啓示されている御心を心の中心で受け止め、それに聴き従おうとすることなのです。

 

 前述のように、人に踏まれたところが道となります。主イエスは、御自分を指して、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章6節)と言われました。

 

 私たちは神に背いて罪を犯し、主イエスを踏みつけるようなことをしました。しかし、主は私たちの罪を赦し、その道を通って父なる神の御許に行くことが出来るようにしてくださいました。私たちが主の御言葉に聴き従うのは、そこに真理があり、命があるからなのです。

 

 主の計らいに信頼し、主の御言葉どおりに道を保って、幸いを得ましょう。主の定めを楽しみとしましょう。

 

 主よ、御言葉を通して啓示される主の導きに素直に聴き従うことが出来ますように。どのような財宝よりも、あなたの定めに従う道を喜びとしますように。わたしは命を得て、御言葉を守ります。 アーメン

 

 

「主よ、わたしの魂を助け出してください。偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」 詩編120編2節

 

 120~134編には、「都に上る歌」という表題が付けられています。「都に上る」というのは、三大祝祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)への巡礼の旅を指していると考えられます(申命記16章16節)。巡礼の旅の間、ないし祭りの間の行進において用いるために、ここに集められているのでしょう。

 

 120編は「都に上る歌」歌集の冒頭に置かれていますが、その内容は、祝祭に参加するために都に上るときの華やいだ思いとはほど遠く、異国によそ者として住んでいる詩人が、苦難の中から救いを願い求めた祈りの歌と言えそうです。

 

 5節に、「わたしは不幸なことだ。メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは」とあります。「メシェク」とは、はるか北方、黒海とカスピ海の間の地域を指すようです(エゼキエル書38章2,3節)。また、「ケダル」とは、パレスティナの東方、アラビアの荒れ野を指しています(イザヤ書21章16,17節、エゼキエル書27章21節)。

 

 二つ併せてイスラエルのはるか北東方向ということになります。これはヨハネの黙示録において「バビロン」が「ローマ」を指していたように、「メシェク」と「ケダル」で「バビロン」を意味しているのかも知れません。であれば、「わたしは不幸なことだ。云々」というのは、バビロンに捕囚となったことを嘆いているようなかたちです。

 

 すると1節の「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった」という言葉は、捕囚の苦しみの中で主を呼び求めたとき、主が祈りに応えて捕囚から解放され、エルサレムへの帰還を果たすことが出来たと語っていると考えることも出来ます。

 

 そのような具体的な出来事でなくても、詩人は冒頭の言葉(2節)で「偽って語る唇」、「欺いて語る舌」といい、3節でもそれを繰り返しています。それは、詩人に敵対する存在があることを示します(5編10,11節、10編7節、12編3~5節、31編18,19節など)。

 

 5節のメシェクやケダルはその敵対者の住むところで、彼らは「平和(シャローム)を憎む者」(6節)であり、7節で「彼らはただ、戦いを語る」と告げられます。そのような好戦的というか、争い好きな者たちに囲まれる中で、平和を願っている詩人が平和のない生活を余儀なくされているのでしょう。

 

 70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)で7節は、「わたしは平安だったが、わたしが彼らに語ると、彼らはわたしと空しく戦った」(岩波訳の脚注参照)という言葉になっており、詩人を苦しめる者たちは、偽りの言葉、欺きの言葉をもって戦いを挑んで来たのでしょう。

 

 そこで詩人は、3節で「主はお前に何を与え、お前に何を加えられるであろうか、欺いて語る舌よ」と語って、神が彼らにきっちりと仕置きしてくれることを求めているわけです。

 

 新共同訳は4節を「勇士の放つ鋭い矢よ、エニシダの炭火を付けた矢よ」と訳して、3節の「欺いて語る舌」を言い換えた表現と捉えています。一方、口語訳は「ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである」として、欺いて語る者たちに与える神の報いと考えているようです(新改訳、岩波訳も同様)。 

 

 ただ、バビロン捕囚の苦しみを味わったのは、彼らがまことの神に背き、主との契約を蔑ろにしたからでしょう。その意味でいえば、偽って語る唇、欺いて語る舌の持ち主は、自分自身ということになるのではないでしょうか。

 

 主に信頼して安心しているよりも、エジプトやアッシリア、バビロンなどに囲まれている中で、いかにして、より強い者に与するかということに汲々としていたわけです。だから、主がイスラエルの民に加えられた仕置きが、「メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住む」(5節)ことだったのです。

 

 詩人は、神に背いた民の心の有様が、約束の地から遠く離れた「メシェクに宿り、ケダルの幕の傍ら」に住んでいるようなものだったと示されたのでしょう。そして、その苦難の中から主を呼んだということは、自らの罪を認めて主の御前に悔い改めたということであり、主が答えてくださったとは、その罪を赦し、救いの恵みをお与えになったということです。

 

 神の宝の民として特別な恵みに与り、祝福の内に守られていたイスラエルの民が、神の御翼のもとから外に出て自分勝手に振舞い、その結果、一切の祝福を失ってバビロンの捕囚となり、そこで、もう一度恵みの主を思い出して悔い改めたというのは、主イエスがルカ福音書15章11節以下で語られた「放蕩息子のたとえ」のようです。

 

 それは、弟息子が父の財産を生前に分けてもらって旅立ち、放蕩に身を持ち崩してしまい、すっかりお金を使い果たして生活に窮するようになったとき、ようやく本心に立ち返ったという話です。そして、父親は、悔い改めて帰って来た弟息子を喜び迎えるのです。

 

 今日、主イエスを信じて救いに与り、神の宝の民の一人に加えて頂いた私たちですが、あらためて、2節の言葉を思います。私たちは自分で自分の「偽って語る唇、欺いて語る舌」、即ち神に背く罪から、自力で逃れることが出来ませんでした。主の助けを必要としています。だから、日々御言葉を聞き、「わたしの魂を助けてください」と祈り求めるのです。

 

 真の平和をお与えくださる恵みの主を仰ぎ、喜びをもって御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従って歩むことが出来るよう、聖霊の導きを祈りましょう。 

 

 主よ、どうか私たちの心に、迷いの道がないか、偽り欺く思いがあるかどうか、心を探ってください。そして、どうか、とこしえの道に導いてください。あなたの慈しみが私たちの上に常に、永久にありますように。 アーメン

 

 

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」 詩編121編1,2節

 

 121編は、「都に上る歌」歌集の2番目のもので、主なる神に信頼しつつ旅路を行く人の詩です。

 

 冒頭の言葉(1節)で「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」とありますが、このように詠う詩人の心境とは、どのようなものでしょうか。「わたしの助けはどこから来るのか」という言葉から、いくつかのことが考えられます。

 

 まず、「山々」とは、自分の行く手を阻むさまざまな問題を象徴しているもので、具体的には、山賊や肉食獣などの潜む危険な場所を示しており、詩人が不安な面持ちでそれらを眺め、「わたしの助けはどこから来るのか」と声を上げているといった様子を思い浮かべます。そして、その声を聞いてその危険な場所で詩人を助けてくださるのは、天地を造られた主だと詠っています。

 

 「天地を造られた」というのは、創世記1章にあるように、天と地にある一切のものを創造されたという表現です。であれば、山々を造られたのも、そこに潜むすべてのものを造られたのも、主なる神なのですから、当然、行く手を阻むものの手から詩人を守ることが出来るというわけで、そこに希望を見い出し、平安を得て進むことが出来たということになります。

 

 あるいは、旧約聖書において「山々」に象徴される高いところは、「聖なる高台」と呼ばれて、神を礼拝する場所でした。列王記上11章7節などには、異教の偶像を祀る場所として、聖なる高台が設けられたことが記されています。高い山で天との距離の近さを思うのでしょう。いずれにせよ、イスラエルの民はそれら聖なる高台に祀られる異教の偶像に惑わされ続けていました。

 

 かつて、カルメル山の上で預言者エリヤがイスラエルの民に呼びかけて、「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」(列王記上18章21節)と尋ねました。どっちつかずにいたイスラエルの民は、それに答えることができませんでした。

 

 そうしたことから、この詩人は、山々に祀られる神々の中で、だれが自分を助けてくださるのかと自問し、助けは天地を造られた主なる神のもとから来ると、自ら答えているというわけです。

 

 もう一つは、「山々」がエルサレムとその周囲の山々を指しているという考えです。125編2節に「山々はエルサレムを囲み」という言葉もあります。エルサレムを取り囲む山々は、シオンの丘との間に谷を造り、エルサレムを堅固な要塞とします。主なる神がそのように山々を配置されたのです。

 

 123編1節に「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。天にいます方よ」という言葉があります。それは、主の憐れみが注がれるのを待つ祈りの姿勢であり、その祈りに応えてくださる方を仰ぐ信頼の姿勢でした。

 

 詩人は、天地を造られた主なる神を礼拝するために、エルサレムに向けて歩みを進めています。エルサレムを囲む山々を眺めながら、「わたしの助け」は「天地を造られた主のもとから」やって来る、わたしは今、神の助けに囲まれていると、何かワクワクするような思いで語っているのではないでしょうか。

 

 これらの解釈の内、どれが正しいのかということではなくて、私たちの人生には、いずれの要素もあるのではないかと思わせられます。不安や恐れに囲まれているように感じるときがあるでしょう。どれが自分の進むべき道か、はたまた、神はほんとうにおられるのかと惑うときもあるでしょう。

 

 しかし主は、不安に押しつぶされそうなときに寄り添い、惑っているときには道を示してくださいます。そうして、私たちが主を仰いで、「わたしを助けてくださるのは、天地を創造され、わたしのために贖いの御業を成し遂げてくださった主なる神である」と告白することが出来るように助け導いてくださるのです。

 

 ダビデが、「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の影の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩編23編3,4節)と言い得たのも、主の助けを頂いたからこそでしょう。 

 

 パウロが、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ書1章13,14節)と記しているのも、そのことです。

 

 主は私たちを助けて、足がよろめかないように、眠ることなくまどろむことなく見守ってくださいます(3~5節)。常に主イエスを仰ぎ、絶えずキリストの愛と平和に満たして頂きましょう。

 

 主よ、どうか足がよろめかないように私たちを助け、まどろむことなく眠ることなく、私たちを見守ってください。キリストの平和が私たちの心を支配し、キリストの御言葉が私たちの内に豊かに宿りますように。そして、聖霊に満たされ、感謝して心から御名をほめたたえさせてください。 アーメン

 

 

「都に上る歌。ダビデの詩。主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。」 詩編122編1節

 

 112編は、「都に上る歌」詩集(120~134編)の3番目で、これは、エルサレムを巡礼した詩人の、エルサレムをたたえつつその平安を祈る詩です。表題に「ダビデの詩」(1節)とありますが、これは5節の「ダビデの家の王座が据えられている」という言葉からつけられたものでしょう。

 

 1節と9節に「主の家」(べート・ヤハウェ)という言葉があり、この言葉で詩全体を挟み込む形になっています。「主の家」とはエルサレム神殿のことで、神殿を主題として、詣でる喜びを歌っているものであることを示しています。

 

 2節に「エルサレムよ、あなたの城門の中に、わたしたちの足は立っている」という言葉があり、まさに、詩人たちがエルサレムに到着し、神殿に詣でたときの喜びが示されています。詩人は冒頭の言葉(1節)で、「わたしはうれしかった」(サーマフティー)と語ります。これが表題に続く詩の最初の言葉で、詩全体に溢れている喜びをストレートに表現しています。

 

 その喜びとは第一に、3節の「エルサレム、神の都として建てられた町」という言葉に示されています。エルサレムの町は、ダビデ・ソロモンの時代に、イスラエルの都として建設されたものです。詩人は都の堅牢なつくり、壮麗な神殿に、苦難のときの避けどころ、堅固な岩という、神の確かな守りを見るのです。7節の「城壁」、「城郭」もそれを示しています。

 

 第二は、「そこに、すべては結び合い、そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め」(3,4節)という言葉に示されます。イスラエルの人々は、年に三度、祭りのために神の前に出なければならないと定められていました(出エジプト記23章14節以下など)。

 

 定めの通りに都に上るというのは、大変なことだったでしょう。けれども、それが嬉しいのは、神への感謝があるからです。それは特に、全イスラエル12部族がひとつになるときでした。イスラエルの民は、神への感謝と賛美をささげること、すなわち神を礼拝することによって一つとなれる。それが詩人の喜びだったのです。

 

 主イエスが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18章20節)と言われました。ユダヤ人とギリシア人、男と女、奴隷と自由な身分の人、富む人と貧しい人、どんなに違いがあっても、主イエスの名によって一つとなることが出来ます。それは、そこに主イエスがおられるからです。

 

 パウロも、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいてひとつだからです」(ガラテヤ書3章28節)と言っています。主にあって一つとなれたら、それは本当に大きな喜びとなることでしょう。

 

 第三は、「そこにこそ、裁きの王座が、ダビデの家の王座が据えられている」(5節)という言葉に示されます。城門の側の広場は、町の裁判所でもありました。様々な問題がそこで協議され、裁かれたのです。エルサレムは、いわば最高裁の役割を果たしました。地方で裁けなかった問題を、巡礼で都にやって来て、そこで裁いてもらおう、神の義を示してもらおうと期待されたわけです。

 

 しかしながら、ダビデ家の王たちは自ら神に背いて罪を重ね、義を示すことが出来ませんでした。それゆえ、国が滅び、捕囚の憂き目を見たわけです。詩人が、「そこにこそ」と協調するのは、まさに、神の都エルサレムに神の義が示されること、神の救いの御業が行われること、そして、それによってエルサレムに真の平和がもたらされることを求めているわけです。

 

 それが、6節以下において、エルサレムの平和を求める意味です。エルサレムの平和は、満ち溢れてエルサレムを愛する者たち(6節)やその兄弟、友人(8節)をも満たすのです。 

 

 義なる神はその求めに応え、神の義を表すために、独り子キリストを十字架に架けて贖いの供え物とされ、全人類のすべての罪をお赦しになりました。裁きの王座、ダビデの家の王座が据えられたとは、私たちの身代わりに裁かれて十字架で死なれた主イエスこそ、私たちの王として着座されたお方であるということを預言しているようです。

 

 今、主イエスを信じる私たちの心に、主がお住まいになり、そして、私たちはキリストの代価によって贖い取られた聖霊の神殿とされています(第一コリント書6章19,20節)。その救いは、信じる者とその家族にもおよびます(使徒言行録16章31節)。

 

 目には見えませんが、確かに主は私たちとともにおられ、守りと助けを与えていてくださいます。私たちが主を賛美するとき、そこに主はおられ、それによって平和、平安をもたらしてくださいます。それは何よりも、主にあって罪赦されたという、義による平和、主の愛による平安なのです(ローマ書14章17節参照)。

 

 皆で十字架の主イエスを仰ぎ、その御前に心ひとつに賛美と祈りをささげましょう。そうして、上よりの平和、平安で満たしていただきましょう。 

 

 主よ、私たちを絶えず義の道、平和の道に導いてくださり、感謝致します。あなたを信じ、愛する人々が、あらゆる面において繁栄し、安全、安心の内に守られ、健康に過ごすことが出来ますように。家庭に、職場に、学校に、地域に、そして日本に、主の平和が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「御覧ください。僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます。」 詩編123編2節

 

 123編は「都に上る歌」歌集の4番目の詩で、主に憐れみを求める祈りが記されています。

 

 前半(1,2節)で主なる神に対する信頼を言い表し、後半(3,4節)には、嘲る者からの救いを求める祈りが記されます。その双方を結んでいるのが、「憐れむ」(ハーナン:2,3節)という言葉です。

 

 冒頭の言葉(2節)で「僕が主人の手に」、「はしためが女主人の手に」目を注ぐのは、力の象徴である「手」による保護を求めるからで、詩人は、主の守りを求めているのです。「憐れみを待ちます」というのは、「彼(ヤハウェ・私たちの神)が私たちを憐れむまで」という言葉で、彼らが神によって守られるのは、その憐れみによるという思いが示されます。

 

 詩人が神の守りを求めるのは、彼らが辱められ(3節)、嘲笑され、侮られているからです(4節)。彼らは例えば、「お前の神はどこにいる?」(42編4,11節)といった嘲りにさらされていたのでしょう 

 

 「わたしたちを助けてください、救ってください」というべきところを、「憐れんでください」(3節)と求めているということは、詩人が、自分には神に救いを願う権利や資格がないと考えているか、あるいは、神に対する罪意識があるということではないでしょうか。

 

 もし、自分は神の御前に正しく歩んでいる、潔白だ、と考えているならば、敵の嘲り、蔑みに対して、神が相手を正当に裁いてくださるように、そうして恥を雪いでくださるようにと求めたことでしょう。そう願っていないのは、敵の嘲りの言葉、侮辱の言葉が、詩人らの罪責をあげつらうもので、悔しいながら、それに反論出来ないということだろうと思います。

 

 詩人は敵対者のことを4節で、「平然と生きる者ら」、「傲然と生きる者ら」と呼んでいます。その言葉の背後には、彼らもまた、神の前に罪なしとはされない者たちであるという詩人の思いが込められているのでしょう。嘲りや蔑みというのは、高いところに立って他者を見下げる行為、それを言葉にしたという表現です。

 

 私たちが人を裁くとき、そこに神への畏れや、相手のことを思い遣る心なしにそれをするなら、いつの間にか自分を高いところ、即ち、神の御座において人を断罪しているということになるのではないでしょうか。

 

 「敵対者」をヘブライ語で言うと、「サタン」です。サタンは、ヨブ記1,2章に見るように、私たちの敵対者として神の前に立ち、私たちの罪をあげつらい、断罪するという役割を果たします。

 

 敵対者が詩人たちを罪に定め、嘲笑し、侮辱している中、この詩人は天に向けて目を上げます(1節)。そこには、主なる神がおられ、詩人たちを見下ろしておられます。主なる神の口は、その手は、どのように動き、どのように語ることでしょうか。詩人は、冒頭の言葉(2節)のとおり、まさにそこに目を注いでいます。慈しみ深い恵み豊かな主は、きっと憐れんでくださると期待しているのです。

 

 イザヤ書30章18節に、「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」と記されています。神に背き続けているイスラエルの民に対する裁きとともに、救いの到来も併せて語られているのです。

 

 詩人の求めに応じて、主なる神はイザヤによって告げられた預言のとおり、彼らに憐れみを注ぎ、すべての罪を赦し、その呪いから解放してくださいました。それは、彼らが受けるべき罪の刑罰、嘲笑、侮辱を、神の独り子、主イエス・キリストが身代わりに受け、贖いの供え物とすることによって、成就されたのです。

 

 今、私たちの心は、神の愛と恵みによって平安に満たされ、また感謝と喜びに溢れています。ゆえに、私たちも天を仰ぎます。私たちを憐れみ、救ってくださった御子キリストが、神の右に座しておられ、敵対者サタンの告発に対し、私たちの弁護者として、今も私たちのために執り成していてくださるからです。

 

 目を上げて主イエスを仰ぎましょう。主を待ち望み、上からの力に与りましょう。聖霊に満たされ、心から主をほめたたえましょう。 

 

 主よ、贖いを感謝します。救いを感謝します。平安を感謝します。憐れみを感謝します。私たちは打ち捨てられて当然の罪人に過ぎませんが、憐れみのゆえに神の子とされ、主を礼拝する民の一員とされました。あなたのなしてくださったことを何ひとつ忘れず、絶えず感謝し、喜んで御言葉に従うことが出来ますように。常に聖霊に満たされ、主の証人として、御業に励むことができますように。 アーメン

 

 

「仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。」 詩編124編7節

 

 124編は、「都に上る歌」の5番目で、主の救いを賛美するようイスラエルの民に促す「賛美の詩」です。

 

 最初に「イスラエルよ、言え」(ヨーマル・ナー:1節)といって、自分たちの経験した救いの出来事を思い返し(1~5節)、次に「主をたたえよ」(バールーク・ヤハウェ:6節)といって、救いの出来事を賛美し(6,7節)、最後に「わたしたちの助けは主の御名にある」(エズレーヌー、ベ・シェーム、ヤハウェ:8節)と、主に対する信仰の表明がなされます。

 

 8節の「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」という言葉は、121編2節の「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」という言葉によく似ています。そして、「わたしの助け」が「わたしたちの助け」と、個人から集団へと助けが拡大されています。個人をお救いくださる神は、「わたしたち」という集団も守り助けられるお方なのです。

 

 「わたしたちの助け」を提供される神は、「わたしたち」という集団を形成している一人一人のことを、よくご存知です。集団の中の一人でも足並みを乱す者がいれば、助けはお預けということであれば、「わたしたちの助け」という言葉は存在しなかったことでしょう。仮にそういう者がいても、神はその集団を憐れみ、味方となってくださるのです。

 

 「主がわたしたちの味方でなかったなら」と、1,2節で2度繰り返されています。それに対して、「そのとき」(アザイ:3~5節)を3度繰り返して、その条件の帰結が語られます。そうすることで、イスラエルが繰り返しそのような危機から主によって救われてきたことを、読者に思い起こさせるのです。

 

 2節の「わたしたちに逆らう者」の「者」とは、「人」(アダム)という言葉です。単数形ですが、「人々」を意味する集合名詞として用いられています。これは、自分たちを苦しめているのは人間に過ぎない。人間が主なる神に敵対することなど出来はしないということでしょう。

 

 それにも拘わらず、イスラエルは危機に際して、「人」に代表される目に見える強いもの、例えばアッシリアやバビロン、エジプトなどの軍事力に頼ろうとします。そうして、主の命に背き続けてきたのです。その結果、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、捕囚となる憂き目を見たのです。

 

 確かに、主なる神が味方となってくださらない状況では、「敵意の炎」(3節)「激流」(4節)、「奢り高ぶる大水」(5節)には全く太刀打ちできず、絶望せざるを得ませんでした。

 

 「わたしたちの味方である」というのは、「わたしたちの側におられる主」(ヤハウェ、シェハーヤー、ラーヌー)という表現です。どうして主なる神は、繰り返し背いて主を悲しませたイスラエルの詩人たちの傍に立ち、その味方となられたのでしょうか。それは、この詩が123編に続く場所に置かれているというところに、解釈の鍵があると思います。

 

 123編3節で詩人は、「わたしたちを憐れんでください」と願い求めていました。憐れみを乞うということは、詩人には、神に救いを求める資格や権利がないということだと学びました。しかしながら、神の憐れみによる救いを求めるということは、もはやそれ以外に、自分たちが救われる術がないということでもあります。そして主は、その祈りに答えてくださったのです。

 

 冒頭の言葉(7節)には、「逃れ出る」(マーラト)と「網」(パー)が2度ずつ出てきますが、原文を見ると、「逃れ出る」、「網」、「網」、「逃れ出る」という具合に、対称形に並んでいます(交差配列)。これは、詩の一つの技巧で、自分たちに襲い掛かってきた危機から逃れ出られた喜びを、このような形で表現しようとしているのです。

 

 詩人は、自分たちが網から逃れ出ることが出来たのは、「網は破られ」てということだったと言っています。自分で網を破いたとか、網にかからなかったということではないわけです。つまり、もしも網が破られなければ、逃れ出ることは出来なかったということになります。そして、網を破られたのが、味方となられた主なる神のお働きと言っているのです。

 

 イスラエルの民は、その罪ゆえに神に裁かれ、亡国と捕囚の憂き目を味わいました。そこで苦しみ呻く民の祈り、願いに、神の憐れみの御手が伸べられ、彼らを捕えていた網を破ってくださったのです。

 

 網を破る仕事を請け負ったのが、ペルシアの王キュロスでした(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。キュロスは、かつてイスラエルの罪を裁き、国を滅ぼす役割を与えられたバビロンを滅ぼし、捕囚とされていたイスラエルの民を解放したのです。

 

 ここに、天地を造り、すべてのものを御手の内に治めておられる主の、人知を超えた計画と御業があります。イスラエルのために、主は時に異教徒のバビロンを用いられ、また、ペルシアをお用いになるのです。ゆえに、「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」(8節)と、高らかに主に対する信仰の宣言をするのです。

 

 私たちも、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)という神の御言葉を信じ、「わたしたち(家族)の助けは、天地を造られた主の御名にある」との信仰を言い表して、その御言葉に聴き従いましょう。

 

 主よ、私たちのために死んで甦られた御子キリスト・イエスがその右にいて、私たちのために執り成していてくださいます。この愛から私たちを引き離すことは出来ません。この神の愛のゆえに、私たちはどんな困難にも勝利することが出来ます。主を喜び、御名をほめたたえさせてください。 アーメン

 

 

「主に従う人に割り当てられた地に、主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。」 詩編125編3節

 

 125編は「都に上る歌」の6番目で、エルサレムが山に囲まれて内外の敵から守られているように、主に依り頼む人が主なる神によって守られるよう祈る、教訓的信仰の歌です。

 

 1,2節に「主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなくとこしえに座る。山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいてくださる、今も、そしてとこしえに」とあり、ここに詩人の信仰が表明されています。シオンの山が揺らがないように、主に依り頼む人は揺らがせられない。山々がエルサレムを囲んでいるように、主がその民を囲んで守っていてくださるというのです。

 

 ただ、何の疑いもなくそのように語ることが出来るときもありますが、しかし、様々な波風に揺るがされ、どこにも囲いがないように思われるときもあります。主に信頼すれば、危険がなくなるということではありません。むしろ、突然の嵐といった思いがけない危機に遭遇するからこそ、神の守りが必要であり、主に助けを求めて依り頼むのです。

 

 冒頭の言葉(3節)で「主に従う人」とは、「義人(たち)」(ツァディーキィーム)という言葉です。主なる神との正しい関係にある人々ということです。それで、「主に従う人」と意訳されています。1節の「主に依り頼む人」、2節の「御自分の民」を「主に従う人(義人)」と呼んでいるわけです。

 

 また、「割り当てられた地」とは「くじ」(ゴーラル)という言葉です。かつて、約束の地を各部族がくじをひいて嗣業の地を得たことから(ヨシュア記15章1節、16章1節など)、そのように訳されているわけです。

 

 さらに、「笏」は王権を示し、「主に逆らう者」は「不正、悪」(レシャー)という言葉で、「主に従う人」に対して「主に逆らう者」と訳されています、主に逆らう者の支配ということから、ここでは、異教の民や他民族のことではないかと考えられます。

 

 「ように」と訳されているのは、「キー」(なぜなら、確かに)という接続詞で、これは願いを意味するものというより、1,2節で語られている言葉の理由や目的を示す言葉なのです。

 

 岩波訳はこの3節を、「まことに、不法の笏は、義人たちの籤(くじ)に留まらない。義人たちが手を不正に差し入れないために」と、直訳的に記しています。つまり、イスラエルの嗣業の地を異教の民が治めたりしないために、主がご自分の民を取り囲んで守ってくださるということです。

 

 

 しかし、危機を及ぼすのが必ずしも外敵ばかりではないことを、詩人は知っていて、「主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように」と願います。「悪」は、「不正、偽り、不義」(アヴラー)という言葉で、「主に逆らう者」との関連で、神に背く道を歩むことを指しています。

 

 「主に従う人」は、続く4節の「良い人、心のまっすぐな人」と、「主に逆らう者」は、5節の「悪を行う者」とが対応しています。ということは、主に従う人の中で、悪を行う者に誘惑され、「よこしまな自分の道にそれて行く者」(5節)がいるわけです。

 

 このように語られる背景には、バビロン捕囚があります。エルサレムの都が占領され、傀儡政権がおかれました。エルサレムに「神に逆らう者の笏」が置かれることになったわけです(列王記下24章8節以下、17節)。紀元前597年のことです。

 

 その10年後、この傀儡政権がエジプトを頼りに、バビロンに対して反旗を翻します(同24章20節)。しかし、バビロンの王ネブカドネツァルによって謀反は鎮圧され、都は焼き払われ、民は捕囚として連れ去られてしまいました(同25章1節以下9,11節)。それは、イスラエルの王たちが主の目に悪とされることをことごとく行い、主の怒りを買ったからです(同24章19,20節)。

 

 イスラエルの民が捕囚から解放され、故郷に帰ることが許されたのは、神の一方的な憐れみでした。だからといって、バビロンから解放されたイスラエルの民を待ち受けている状況は、以前とまったく変わってしまっているわけではありません。

 

 詩人はあらためて、自分たちを取り巻いている状況にではなく、主なる神に目を注ぎ、人の知恵や力などではなく、自分たちを囲んで守ってくださる主に依り頼むことを宣言し、そして、主に逆らう者、悪を行う者を追い払ってくださるように祈り求めているのです。

 

 ハバクク書2章4節に「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。「神に従う人」は、3節の「主に従う人」と同じ「正しい」(ツァッディーク)という言葉の単数形が用いられています。即ち、主に従う人の正しさというのは、主の恵み、主の助けに信頼することによって表されるということであり、主を信頼して歩むときに、神の救いの御業が現されるわけです。

 

 詩人は、主なる神の御業によって内外に平和が実現されることを、主に信頼しつつ「イスラエルの上に平和がありますように」と求めているのです。

 

 平和が脅かされている時代に、主にあって世界中にキリストの平和が実現するように、また、どんなときにもあらゆる人知を越える神の平和が、私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守るように、平和の源である神に信頼しつつ、祈り求めて参りましょう。

 

 主よ、あなたの御顔を拝し、心からほめ歌をささげます。どうか私たちを信仰に固く立たせ、私たちをあなたの恵みで囲んで守ってください。いたるところで平和が脅かされています。不安と恐れが世界を支配しているかのようです。世界中にキリストの平和がありますように。信仰によって得られるあらゆる喜びと平和で満たし、私たちを希望に満ち溢れさせてください。 アーメン

 

 

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」 詩編126編5節

 

 126編は「都に上る歌」の7番目で、捕囚からの解放の喜びを思い起こし、主の民の回復を待ち望む巡礼の民の信頼の歌です。

 

 1節に「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて」とありますが、原文は「主がシオンの回復を戻した」という言葉です(岩波訳脚注参照)。「捕らわれ人を連れ帰る」という訳は、七十人訳と同様、4節の「わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください」との関連で、「回復」(シーバー)を「捕らわれ人」(シェビート)と読み替えたかたちになっています。

 

 口語訳、新改訳は、「回復」を「繁栄」と読んでいます。シオンの回復とは、シオンが神の都エルサレムなので、エルサレムが回復するとは、民の帰還と共に、神の都が復興するということになるでしょう。そこから、「繁栄」という訳語が選ばれたということなのだろうと思います。

 

 シオンの繁栄の回復とは、商売繁盛、五穀豊穣などといった物質的な祝福ではなく、まことの主なる神を礼拝するイスラエルの民が回復することです。そして、主を礼拝する民の回復とは、バビロンに捕らわれている人々が解放されることであり、彼らが帰国して神殿を再建すること、神の都を復興することなのです。

 

 捕囚から解放されて帰国しさえすれば、シオンの繁栄が回復出来るというものではありません。彼らが頑張れば、国を建て直すことが出来るというわけでもありませんでした。

 

 解放されたときには、まさに「夢を見ている人のよう」(1節)だったろうと思われますが、帰国した捕囚の民を待ちうけていたのは、城壁も破壊されたままの荒れ果てた地です(ネヘミヤ記1章3節)。神殿を建て直そうとしますが、内外に妨害があり、工事は遅々として進みませんでした(エズラ記4章)。

 

 帰国して22年後、ダレイオス王の治世第6年(BC515年)、ようやく第二神殿を完成することが出来ました(同6章15節)。エルサレムの城壁再建にはさらに時間がかかり、ネヘミヤの時代、アルタシャスタ王の治世第20年(BC445年)に、それが実行されました(ネヘミヤ記6章15節)。

 

 けれども、それで主を礼拝する民が回復されたわけではありません。エズラ記9章に、「異民族の娘との結婚」という小見出しがあります。異教の民との結婚がなされたということは、これは信仰上の問題ということですが、その背景には、そうせざるを得ないほどの貧しくて辛く苦しい生活があったのだと思います。

 

 だから、4節に「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの繁栄を回復してください」と主に祈り求めているのです。「ネゲブ」(南という意)はユダヤの南部、年間降水量が200㎜以下という乾燥地帯です。

 

 「ネゲブに川の流れを導く」とありますが、ネゲブの川は、夏(乾期)の間は全く水を見ることが出来ません。しかし、冬(雨季)になると雨水が川を満たして一気に流れ下ります。つまり、雨が降ったときだけ水が流れる、ワーディーと呼ばれる川なのです。

 

 ネゲブに川の流れを導くようにということは、ときどきイスラエルを繁栄させて欲しいというのではなく、天の水につながっていなければ水が流れないというところから、絶えず水の流れがあるよう自分たちを主なる神にしっかりとつながらせ、常に主なる神を礼拝する民として回復してくださるようにと、詩人は祈り求めているわけです。

 

 冒頭の言葉(5節)で「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」と言い、6節でも「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と語って、このところでは、種蒔きと涙、刈り入れと喜びが結び付けられています。

 

 刈り入れが喜びであることは言うまでもありませんが、なぜ種蒔きが涙なのでしょうか。種を蒔くことそのものが涙のこぼれる辛いこと、悲しいことであるはずはありません。

 

 詩人が語っているのは、水のないネゲブの川のように、種を蒔こうとしても蒔く種がない、種を蒔くための畑もないといった、厳しく辛い現実だろうと思います。つまり、収穫などほとんど期待出来ない状況です。そのような厳しい現実の中で、イスラエルの民は日々主を仰ぎ、主に信頼するという訓練を受けているのです。

 

 そのような苦しみの中で主を仰ぎ、涙ながらに主を求めたとき、主はそれを信仰による種蒔きとして、収穫のときのような喜びを味わわせてくださるということでしょう。恵みの雨で川に水が流れるように、自分たちの手に蒔くべき種はなくとも、収穫の主はその民に麦の束を与え、喜びの歌を歌わせてくださるのです。

 

 その意味では、主を礼拝する恵みに与っていることこそ、私たちに授けられた「束ねた穂」であることを悟ります。キリストのご受難を覚え、あらためて悔い改めの涙をもって主の御前に進み、私たちのために独り子をさえ惜しまずお与えくださる主の恵みをほめたたえましょう。

 

 主よ、あなたは私たちを主の民として選ばれました。それはただ、主の深い憐みのゆえです。主よ、どのようなときでもあなたを信じ、依り頼み、あなたの手足として用いて頂くべく、いつもあなたに聞き、その御言葉に従うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」 詩編127編1節

 

 127編は、「都に上る歌」(120~134編)の8番目、ちょうど真ん中にあって、主なる神に信頼する平安と祝福を教えています。

 

 表題に「ソロモンの詩」(1節)とあるのは、2節の「(彼の)愛する者」(エディードウ)という言葉が、ソロモンの幼名「エデイドヤ」(「主の愛する者」の意、サムエル記下12章25節)によく似ているということで、そのようにつけられたのではないかと考えられます。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)は、「ソロモンの詩」という表題を省略しています。

 

 1,2節に「むなしい」(シャーウェ)という言葉が3度、出て来ます。それは、家を建てる人の労苦、夜通し町を守る人の労苦、そして、朝早くから夜遅くまでの日常の労苦について語っているものです。

 

 冒頭の言葉(1節)で、「家」は、「神殿」と訳すことも出来ます。ソロモンの建てた神殿は、バビロンによって焼かれてしまいましたが、バビロンから解放されて帰国した人々が2番目の神殿を建てます。

 

 そこで、主なる神が神殿を建ててくださるのでなければ、労苦することは空しいと言われるのは、無駄だからやめようと言っているのではなく、神殿を建てる業は神の祝福に基づく業、それこそ、主ご自身が建ててくださるのだから、どんなに苦労があり、それで空しさを覚えることがあっても、徒労に終わらせず、信仰をもってやり遂げようと語っているわけです。

 

 また、「家」には冠詞がついていません。「ザ・ハウス」ではなく、「ア・ハウス」なのです。ですから、普通の家を建てることとも考えられます。そうであれば、事情は少々違って来ます。

 

 ハガイ書1章4節以下に、捕囚から帰還した人々が神殿よりも自分の家の再建を優先させたことに対する神の裁き、あるいは、警告が語られています。それとの関連を考えると、神を無視した自宅の建築は、無駄なこと、空しいことになると言われているようです。

 

 かつて、王宮に住むようになったダビデが、神殿を建てたいと主なる神に願ったとき(サムエル記下7章2節)、主はそれを留められました(同5節以下)。

 

 そして、「主があなたのために家を興す」と言われました(同11節)。それは、ダビデに王国を嗣ぐ子を与えてくださり、その子が神殿を建てることになるということでした。つまり、子らによって、家が堅く建てられるというわけです(同12節)。ダビデの家は、まさに主御自身によって建てられたのです。

 

 このことは、後半(3節以下)の「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」(3節)などと言われるところにも示されます。詩人は、仕事の成功と家庭の繁栄は、共に主の祝福として与えられるものとして、ここにそれを結び合わせているのです。 

 

 「町を守る人」は、ネヘミヤ記4章1節以下を思い起こします。同9節に「わたしたちが気づき、神がその計略を破られたことを敵が知ったので、わたしたちは皆、城壁に戻り、それぞれ自分の作業に就いた」と記されています。即ち、城壁の再建を妨害する敵に対して、神御自身が見張りをしてくださったということです。

 

 詩人は、エルサレムの城壁再建にあたり、敵の計略を破られた神が、今も町を見張り、また配慮し続けていてくださると言っているわけです。その意味で、町を守るのは城壁ではなく、神ご自身であるということです。

 

 確かに、ソロモンの建てた神殿はいかにも壮麗であり、飛ぶ鳥を落とすほどの威光によって築かれたエルサレムの町は、堅固な城壁に守られていました。けれども、子らは国を二つに割り、北はアッシリアに追い散らされ、南はバビロンによる捕囚の憂き目に遭いました。確かに、神殿の壮麗さや城壁の堅固さが町を守るわけではないと学ばされます。

 

 今イスラエルは何に依り頼むべきか。もし、主の御手が共にあるのでなければ、主が働いておられるのでなければ、一切は空しいこと、無益なことなのだということ、ゆえに、主の御手が共にあり、主が働いてくださるのであれば、糧を得ることにあくせくせず、安心して眠るがよい(2節)と、詩人は教えているのです。

 

 箴言10章22節に「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることができない」と記されています。「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人」(2節)という言葉の背景には、神に背き、神を離れて生きることになった人間に定められた労苦(創世記3章16~19節)があるようです。

 

 主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ福音書5章17節)と言われました。父なる神が、私たちを神の安息に導き、平安な恵みを味わわせるためにお働きくださっており、その御心を実現するために主イエスがお働きくださっているということです。

 

 主の平安と恵みに導きいれられ、そこに留まる事が出来るよう、絶えず主を信頼し、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、私たちが主イエスから離れるなら、実を結ぶことが出来ません。どうか、常に主につながり、その御愛の内に留まることが出来ますように。私たちの内に主の御言葉がいつもあり、祈り願いを聞き届けていただくことが出来ますように。 アーメン

 

 

「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。」 詩編128編1,2節

 

 128編は「都に上る歌」の9番目で、主に信頼する者を祝福される主なる神への賛美の詩であり、127編の続編ともいうべき内容です。

 

 127編では、主の働きなしに労苦する空しさが、その冒頭で語られていました。それに対して128編では、冒頭の言葉(1,2節)のように、主を畏れ、主に信頼してその道を歩む者の労苦は豊かに報われ、また家族に恵まれて繁栄すると(3節)、祝福が語られています。

 

 人は、神が取って食べるなと命じられた木から食べるという罪を犯したため、地は呪われ、生涯、食べ物を得るために苦しむことになりました(創世記3章17~19節)。また、女性は出産のために苦しみを味わわなければならなくなりました(同16節)。労働も出産も、大きな苦痛を伴うものとなったわけですが、それはいずれも、神の祝福のもとにありました。

 

 神が、ご自分にかたどって人を、男と女に創造されたとき(同1章27節)、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」といって祝福されました(同28節)。また、エデンの園を耕し、守るように、人にその務めを与えられました。そして、園の木の実を食物とするようにされたのです(同2章15,16節、1章29節も参照)。

 

 ですから、出産や子育て、そして勤労は、本来、神から祝福として与えられたものなのです。その祝福なしに生きるのは、神の御旨に添わない不完全なこと、127編の言葉で言えば、「むなしい」ということになります。即ち、主なる神は、私たちの人生を祝福に満ちたよいものとしてお与えくださったわけです。

 

 「シオンから、主があなたを祝福してくださるように」(5節)と言われるということは、シオンが御自身の現臨を示される地であり(132編5,13節)、そこから全世界を恵みをもって統治されるということです(50編2節、99編2節)。

 

 それゆえ、私たちの祝福はシオン、即ちエルサレムの平和と繁栄に関わりがあることになり、それで、「命のある限りエルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように」と祈られるわけです(5,6節)。であれば、122編6節以下と同様の願いが語られていることになります。

 

 詩人は勿論、シオンの山、エルサレムに来なければ、神様の祝福を受けることが出来ない、エルサレム神殿の礼拝に参加すれば、それが受けられるなどと言っているわけではありません。かつてバビロン捕囚という苦難を経験した人々は、エルサレムの神殿や町の城壁が自分たちを守ってくれるわけではないことを、しっかりと学びました。

 

 127編で学んだとおり、主が建ててくださるのでなければ、主が守ってくださるのでなければ、一切の労苦は空しいのです。だから、主を畏れ、主の導きに従って歩む者の幸い、祝福が語られているのです。

 

 この詩においては、主の道を歩むこととは、「都に上る」ことであり、エルサレム巡礼をすることですが、その心は、絶えず主との交わり、主との結びつきを確認するということです。

 

 神は、独り子キリストを信じる者に永遠の命をお与えくださいました(ヨハネ3章16節)。「永遠の命」とは、単に永遠に長生き出来るということではなく、交わりの豊かさが与えられることです。同10章10節で「わたし(キリスト)が来たのは、羊(私たち)が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と語られているのは、まさにこのことです。

 

 主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(同14章6節)と言われました。「主を畏れ、主の道に歩む」とは、主イエスと共に、主イエスの導きに従って歩むことで、真理と命の恵みを受け、そして、父なる神との交わりが豊かに開かれるのです。

 

 私たちにとって、誰より何より、主が私たちの内におられ、共にいてくださるのが、何よりの恵みです。主イエスは「インマヌエル」、即ち「神がわたしたちと共におられる」(マタイ福音書1章23節)と呼ばれるお方です。ここに、祝福の基があります。主から、聖霊を通して神の愛、平安、希望、喜び、力が注ぎ与えられるのです(ローマ書5章5節、15章13節など)。

 

 絶えず主を拝し、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 

 主なる神よ、御子キリストが私たちのために十字架にかかられ、私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死に、義に生きるようになるためです。どうか、御霊により、御言葉に従って主の御足跡に続いて歩ませてください。悪に打ち負かされず、祝福の基として、すべての人のために祝福を祈る者とならせてください。 アーメン

 

 

「傍らを通る者が、『主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって、あなたがたを祝福する』と言わないように。」 詩編129編8節

 

 129編は「都に上る歌」の10番目で、敵の支配の中にあっても、主が守り助けてくださるという信仰を言い表し、敵の敗北を願う歌です。

 

 1,2節に「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続けたが」(ラバト・ツェラルーニー・ミネウーライ)と、同じ言葉が2度繰り返されていて、苦難を繰り返し味わったことを強調しています。

 

 1節冒頭の「イスラエルは言うがよい」は、原文では「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続けたが」という言葉にサンドイッチされる位置に記されていて、詩人の苦しみは民族の苦しみであるということを示そうとしているようです。

 

 その苦難は3節の「耕す者はわたしの背を耕し、畝を長く作った」という言葉から、畑で過酷な農作業に従事させられたと考えられ、詩人にとっては、さながら自分の背を耕し、そこに畝を作るような過酷な痛み苦しみを伴うものだったということです。

 

 それは、エジプトでの奴隷生活のことも含まれるでしょう。そして、そのときの400年間の奴隷生活にも匹敵するバビロンでの50年という意味もあるでしょう。

 

 それだけでなく、モーセに導かれてエジプトを脱出した後、約束の地カナンに王国を築くまでも、その後、アッシリア、バビロンに国が滅ぼされるまでも、さらに、ペルシアによってバビロンからの帰国が許され、神殿を再建してからも、ずっと苦難続きでした。イスラエルの歴史は、確かに自分の体に刻まれた傷が畑の畝に見えるほどの苦難の連続だったわけです。

 

 しかし、「彼らはわたしを圧倒できなかった」(2節)というとおり、詩人をはじめイスラエルの人々は、その苦しみに耐え抜くことが出来ました。というのも、かつて主の助けによってエジプトでの苦しい奴隷生活から脱出することが出来たように、バビロン捕囚の苦しみからも解放されたからです。そのように常に神に希望を置いていたということも出来そうです。

 

 その信仰が、「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる」という4節の言葉に表現されています。これまで、様々な苦難を味わうたびに、イスラエルの民は救いを求めて神に叫びました。憐れみ豊かな神は、その声に答え、イスラエルをその苦しみから、悩みから、あらゆる束縛から、解放してくださったのです。

 

 そもそも、彼らがそのような苦難を味わうことになったのは、イスラエル自身が主に逆らう者となったからです。彼ら自身が彼らを守る主の御手を離れ、自分勝手に神ならぬ神に惹かれて行きました。強国にすがり、守ってもらおうともしました。

 

 しかし、神の守りがなくなったとき、主に逆らう者、シオンを憎む者らの束縛に陥りました。彼らが頼りとした異教の神々も、エジプトに代表される強国の軍隊も、そのとき、何の助けにもなりませんでした。ですから、イスラエルの民は、様々な苦難を通して、改めて主への信仰を受け止め直したのです。

 

 5節以下に、「主に逆らう者」(4節)に対する呪いの言葉が記されます。5節では「シオンを憎む者」と呼ばれます。イスラエルに敵対し、それを滅ぼそうとする者は、その都の置かれたシオンを憎む者であり、それは、シオンをご自身の住まいとして選ばれた主に逆らう者だという論理です。

 

 しかし、逆に言えば、イスラエルの民は主に背き続けていたので、彼らこそシオンを憎む者と呼ばれる者であり、ゆえに、自ら国を亡ぼす結果となったいうことです。それが冒頭の、「傍らを通る者が『主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって、あなたがたを祝福する』と言わないように」(8節)という呪いの言葉の結果です。

 

 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって、あなたがたを祝福する」というのは、本来、収穫の束を抱えている者たちがお互いに交わした祝福の言葉でしょう。そして、「都に上る歌」という表題に示されるように、エルサレムに巡礼してきた旅人がお互いに交わした言葉でしょう。

 

 それを言わないようにということは、収穫に与らないということでしょう。また、エルサレムに詣でることがないということでしょう。捕囚となって民が味わった悲哀を思います。であれば、自分たちを苦しめたバビロンを呪っておしまいになるという話ではありません。

 

 あらためて、主は祝福する者を祝福され、呪う者を呪われます。「人を呪わば穴二つ」なのです。だから、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(第一ペトロ書3章9節)と教えられているのです。

 

 呪う者ではなく、祝福する者になりましょう。背く者でなく、主に従う者になりましょう。 

 

 主よ、あなたが私たちを徹底的に愛し、恵みに与ることが出来るようにしていて下さることを、心から感謝致します。もしも主が私たちの悪に悪をもって、侮辱に侮辱をもって報いられる方であるなら、私たちが主を信じ、神の子とされる恵みを味わうことなど、あり得ませんでした。祝福を受け継ぐために召されたことを肝に銘じ、主の御足跡に従わせてください。御国が来ますように。御心がこの地に行われますように。 アーメン

 

 

「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。」 詩編130編5節

 

 130編は「都に上る歌」の11番目で、「七つの悔い改めの詩」(6,32,38,51,102,130,143編)の一つにも数えられています。

 

 詩人はこの詩を、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(2節)という、救いを求める言葉をもって始めています。詩人は今、「深い淵の底」にいて、そこから主を呼んでいると記しています(1節)。

 

 「深い淵の底」は、「深み」(マアマッキーム)という言葉で、通常、海の深みを表します(69編3,15節、イザヤ51章10節など)。海は恐怖の対象として描かれることが多く(46編4節、イザヤ5章30節、ルカ福音書21章25節など)、人に恐れや死をもたらす悪しき龍が住むと考えられていました(ヨブ7章12節、74編13節、148編7節、イザヤ27章1節)。

 

 「深い淵の底」が具体的に何を指すのか、どのようにして深い淵の底に落ち込んだのか、詳細は不明ですが、3節で「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」と語られているので、詩人は、罪ゆえにそこに投げ込まれたように感じているということなのでしょう。即ち、神に捨てられ、祈りの声も神に届かないような「深み」なのです。

 

 罪ゆえに海の深みに投げ込まれたといえば、ヨナ書に物語られている、アミタイの子ヨナという預言者のことを思い出します。ヨナは、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」という主の言葉を聞きましたが(同1章1,2節)、それに背いてタルシシュ行きの船に乗ります。

 

 タルシシュの正確な場所は分かっていませんが、地中海の西方、現在のスペイン領にあるだろうと考えられています。一方、ニネベはアッシリア帝国の首都で、現在のイラクの北方に位置していました。

 

 アッシリアは、北イスラエルを滅ぼした国です。ヨナに対して主の言葉が告げられたのが、北イスラエル滅亡の前か後かなども不明ですが、列王記下14章25節のヨナと同一人物であれば、北イスラエル滅亡前、ヤロブアム二世の時代ということになります。そうであれば、そのような国に行って神の言葉を告げ知らせたいとは思えなかったわけです。

 

 というのは、彼が神の裁きの言葉を告げ知らせることによって、ニネベの町の人々が悔い改めでもすれば、憐れみの神は裁きを思いとどまられるからです。そして、神が預言者が遣わされるのは、勿論、ニネベを滅ぼしたいからではなく、悔い改めに導きたいからなのです。ヨナは、ニネベは滅んで当然と考えていたので、敢えて主に背いて逃げ出したわけです。

 

 その船は海上で大嵐に見舞われました(同5,12節)。しかし、ヨナが嵐の海に放り込まれると、海は静まりました(同15節)。嵐がヨナの裁きと関わりがあったという証拠です。海に放り込まれたヨナは、巨大な魚に飲み込まれ(同2章1節)、その腹の中から主に祈りをささげました(同3節以下)。

 

 そこに、「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」(同3節)とあり、130編1,2節の祈りの言葉をヨナが祈ったところ、神が答えられたと読める内容です。

 

 自分の罪ゆえの苦しみの中からの叫びを聞かれるとは、なんと神は憐れみ深いお方なのでしょう。だから、冒頭の言葉(5節)のとおり、「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」というのです。

 

 ここで、「望みをおく」は「望む、待望する」(カーワー、ピエル完了形)という言葉で、「待ち望む」は「待つ、待ち望む」(ヤーハル、ヒフィル完了形)という言葉であって、意味上の違いはそれほど大きくありません。同類の言葉を重ねることで、主を待ち望む思いの強さを表わしているようです。

 

 主を待つ思いは、主を信頼する心でもあります。それが、6節の「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」に示されます。ここに、主を待つことが、見張りが朝を待つことと対比されています。夜の次に朝がやって来るのは確実です。その朝の到来を待つ見張りの心にもまして、主を待ち望むというのです。

 

 4節の「赦し」(スリーハー)、7節の「慈しみ」(ヘセド)は、いずれも定冠詞がつけられており、「赦し」と「慈しみ」の権威が主のものであり、主は赦し、慈しむ力をお持ちであることを示しています。 

 

 しかし、主の赦しと慈しみが自分たちに与えられることたは勿論大歓迎ですが、イスラエルの敵国アッシリアの首都ニネベの人々にも与えられるというのは、ヨナでなくてもなかなか納得できないでしょう。そして、神のなさりようは納得いかないと腹を立てたとき、私たちも主に背く者となります。それゆえ、ヨナ同様、海に投げ込まれ、深い淵の底で苦しむ者となるのです。

 

 誰でもない私たち自身が従順に感謝と喜びをもって主に従う者であるよう、主は絶えず憐れみをもって私たちを招き続け、語り続けていてくださいます。主は深い愛と憐れみによって神の義を作り出されるお方なのです。

 

 苦しみ、悩みのすべてを主の御手に委ね、常に主に望みを置き、朝ごとに主の御言葉を待ちましょう。

 

 主よ、私たちの魂はあなたを待ち望みます。慈しみと、豊かな贖いはあなたのもとにあります。あなたは私たちをあらゆる罪から贖い、救いの喜びに与らせてくださいました。絶えず御言葉に耳を傾け、素直にその導きに従うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。」 詩編131編2節

 

 131編は「都に上る歌」の12番目、宮詣に際し、自分の分を弁えて主に信頼し、主を待ち望むよう勧める教訓的な詩です。

 

 聖書を読みながら、神様は本当に私たちのことをよくご存知だと思わせられます。様々なことに心惑わし、平安のない私たちに、「主に望みをおき、主を待ち望め」と130編で語られましたが、今日も、同様に語っていてくださいます。

 

 調べてみると、「恐れるな、恐れてはならない」という言葉が、新共同訳聖書で110回用いられています。聖書を一年で読み通せば、3日に一度「恐れるな」と語られている言葉を聞くという計算になります。それほどに、私たちは様々なことに心騒がせて平安を失い、あるいは人の目を気にし、また恐れを抱いているのだと教えられます。

 

 1節に「わたしの心は奢っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」とあります。ここで「奢る」(ガーバー)は「高い、高ぶる」、「高くを見る」(ルーム)は「高ぶる、高慢になる」という言葉です。

 

 主が憎まれ、心からいとわれるものとして、箴言6章17節に「驕り高ぶる目、うそをつく舌」と言われています。また、「破滅に先立つのは心の驕り、名誉に先立つのは謙遜」(同18章12節)という言葉もあります。

 

 究極の奢り高ぶりは、自分を神のように思い、考えることです(エゼキエル書28章2,5,17節参照)。即ち、何でも分かる、何でも出来ると考えているということです。

 

 「大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」(1節)とは、「大きいこと(ガードール)の内を、また、わたしから不思議に見える(パーラー)中を歩かない」という言葉遣いです。136編4節に「ただ一人、驚くべき(パーラー)大きな御業(ガードール)を行う方に感謝せよ」と言われ、それは神のなさることだと示しています。

 

 表題に「ダビデの詩」とありますが(1節)、詩人が王であれば、その立場上、どんな情報でも知識でも手に入れることが出来ますし、国内のことは何でも思い通りに出来るものでしょう。そのとき、よほど思い上がらぬよう注意していなければ、罪を犯してしまう危険があります。

 

 ダビデは、自分の部下の妻と姦淫し、部下を殺す罪を犯しました。預言者ナタンに罪を指摘されるまで、自らその罪の重さに気づきもしませんでした。ダビデはそのとき、権力の座にあって自分の欲望に支配されていたわけです。

 

 エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは、神のように賢くなれると蛇に唆されて、神に背く罪を犯してしまいました(創世記3章参照)。神のようになれるということがどんなに大きな誘惑なのか、そこに象徴的に示されています。

 

 詩人がここで、奢らない、高ぶらないと言っているのは、何でも知りたい、望むものを手に入れたい、思い通りにしたいとは思わないということ、そんな自己本位なプライドはいらないということでしょう。というのは、自分自身に頼る必要がないからです。

 

 ダビデ王のような境遇になったことはありませんが、また別の意味で、何でも分かりたい、思い通りになって欲しいと考えることがあります。たとえば、自分が苦しみの中にいて、なぜそんな苦労をしなければならないのか、なぜ自分の祈り、願いが叶えられないのかと考えるのです。自分の心が問題一杯、恐れや不安、そして不信と不満で満ちています。

 

 そうした自分の欲望、あるいは恐れや不安、不信と不満などで満たされる代わりに、詩人は冒頭の言葉(2節)のとおり、「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と語ります。

 

 ここで、「幼子のように」と訳されているのは、「乳離れした子のように」(ケ・ガームル)という言葉です。乳離れした子が母の胸にいるというのは、なにがしか問題があったということでしょう。だから、母親がその子を抱き上げたのです。

 

 たとえば、夜の闇に怯えて泣き声を上げた幼子を、母親が胸に抱き上げてあやします。すると、闇がなくなったわけではないのに、幼子は安心して再び眠ります。幼子にとって、母の胸以上に自分を安心させ、寛げる場所はないからです。

 

 この比喩によって、不安や恐れの中に置かれた人間にとって、神との交わり、神への信頼こそが、「魂を沈黙させる」もの、即ち、平安と幸いを得る最大の秘訣であることを教えています。

 

 神は様々な問題を通して、私たちを謙遜にさせ、御自分のために心を整えさせられます。もしも心の畑が耕されておらず、踏みつけられ固められた道端のようであれば、あるいは、頑なな心のままであれば、あるいはまた、日常の出来事に心ふさがれておれば、種が芽を出すことも困難で、花を咲かせ、実をつけることが出来ません(マルコ4章1節以下参照)。

 

 よく実を結ばせるためには、深く耕された良い畑が必要です。良い畑に種が蒔かれると、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです(同8節)。それは、「御言葉を聞いて受けれる人たち」(同20節)のことと説明されます。

 

 私たちの人生において、豊かな実りを迎えるためにも、問題の背後にある神の御手にすべてを委ね、母の胸に憩うごとく魂を沈黙させて、主を待ち望め、その御言葉に耳を傾け、受け入れよと言われているのです。

 

 主の僕として、自分の使命を自覚し、その業に励みましょう。その結果も含め、すべてを主の御手に委ね、主を待ち望みましょう。

 

 主よ、御言葉を感謝します。そして、祈ることが出来る幸いを感謝します。あなたは私の問題をご存知であり、そして私の必要をご存知です。その一切を御手に委ね、ただ主を待ち望みます。あなたがなしてくださることが、最善だからです。主に信頼することこそ、私たちの平安であり、力です。 アーメン

 

 

「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。」 詩編132編17節

 

 132編は「都に上る歌」の13番目で、他の「都に上る歌」と比べて長い詩です。主のための場所を見出し、そこにダビデの王座を回復するよう求める祈りです。

 

 1節に「主よ、御心に留めてください、ダビデがいかに謙虚にふるまったかを」とあります。「謙虚にふるまう」というのは、「苦しめられる、屈辱を受ける」(アーナー)という言葉です。詩人は、イスラエルの民が苦難にあっている状況を、かつてのダビデの物語と重ねて、神の助けを求めているのです。

 

 ダビデは、サムエルから油注ぎを受けましたが(サムエル記上16章13節)、すぐに王とされたのではありません。そのときは、ベニヤミン族のキシュの子サウルが王でした。ペリシテの勇士ゴリアトを倒してサウルに召し抱えられたダビデですが(同17章、18章2節)、戦いに勝利を上げ続けるダビデは、サウルから王位を奪う危険な存在として恐れられるようになります(同18章15節)。

 

 そして、ついにサウルがダビデ殺害を家臣たち全員に命じたため、ダビデは逃亡生活を余儀なくされてしまいます(同19章1節以下)。もし神の守りがなければ、ダビデが生き延びることは出来なかったでしょう。

 

 サウルがペリシテとの戦いで戦死した後、ダビデはヘブロンで油注がれ、全イスラエルの王となりました(サムエル記下5章3節)。ダビデはシオンの要害を攻め落し(同5章6節以下)、町の周囲に城壁を築き、王宮を建て(同11節)、そうして王権は揺るぎないものとなりました(同12節)。

 

 それからダビデは、アビナダブの家にあった神の箱をエルサレムに担ぎ登り、天幕に安置しました(同6章)。6節の「エフラタ」はベツレヘムの古い名前で(創世記35章19節)、ダビデの出身地です(サムエル記上17章12節)。

 

 また、「ヤアルの野」というのは、「ヤアル」は「森」という意味で、アビナダブの家があったキルヤト・エアリムの丘のことを指しているのではないかと考えられています。サウル王の時代、忘れられた存在であった神の箱を、ダビデがアミナダブの家からエルサレムに運んだのです(サムエル記下6章1節以下、17節)。

 

 その後ダビデは、ぜひ神殿を建てたいと願いましたが(同7章2節)、主は「わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた」(同6節)と言われ、「なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」(同7節)と問われてダビデの申し出を断ります。

 

 それは、神殿を建てないということではありませんでした。主は「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(同12,13節)と告げられ、実際、ダビデの子ソロモンが神殿を建てました(列王記上5章15節以下、6章38節)。

 

 ところが、贅を尽くし、趣向を凝らして建てられた壮麗な神殿は、ソロモンとその子らの不義のゆえにバビロンによって破壊され、神の箱をはじめ神殿祭具は略奪され、所在が分からなくなってしまいました(列王記下24章13節、25章9,13節以下)。

 

 ここに詩人は、ダビデが様々な苦難を経てイスラエルの王となり、その王権が揺るぎないものとされたことを掲げて、現在苦難の中にいるダビデの子ら、イスラエルの民を御心に留め、神殿が再建され、そしてとこしえの神の都として神がシオンに住まわれ、イスラエルの平和と繁栄を回復してくださるようにと求めているわけです。

 

 歴代詩下6章に記されているソロモンの神殿奉献の祈りの最後の部分(同41,42節)に、132編8~11節が引用されているのは、注目に値します。それは、捕囚の地で神殿に向かって祈る祈りに耳を傾けるよう祈る言葉(歴代重6章36節以下)に続いて語られ、ダビデの家を顧み、ダビデに示された慈しみを覚えるように願う言葉になっているからです。

 

 「ダビデに示された慈しみ」とは、11節後半~12節の「あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約とわたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる」という主の約束のことです。 

 

 詩人は主の語られた言葉として、冒頭の言葉(17節)を記しています。「角」は力、権力、威光を表します(89編18,25節など)。角を芽生えさせるとは、王権の回復を言うのでしょう。また、灯が備えられるとは、王国の存続を言っているようです(サムエル記下21章17節、列王記上11章36節参照)。つまり、11,12節の誓いを実行してくださるということです。

 

 ルカ福音書1章で祭司ザカリアは、この17節の言葉を念頭に置いて、「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(同69節)、「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ」(同78節)と、救い主キリスト・イエスの誕生を預言しています。

 

 18節の「王冠」(ネーゼル)は、出エジプト記29章6節では、「(聖別の)しるしの額当て」と訳されています。それは、大祭司の「純金の花模様の額当て」のことで、そこに、「主の聖なる者」と刻印されています(同28章36節)。

 

 そこで、ダビデが大祭司としての役割を果たすと解釈することも出来ます。ネーゼルをナザレと読むのは無理がありますけれども、ダビデの子孫として生まれた神の御子キリストは、王として、また大祭司として、この世においでになったのです。

 

 そう考えると、初めに言及した1節の「ダビデがいかに謙虚にふるまったかを」という言葉も、パウロがフィリピ書2章6~8節に記しているキリスト賛歌に通じています。即ち十字架の死に至るまでの従順とは、十字架刑という苦しみ、屈辱を味わうことであったからです。 

 

 主なる神は、十字架で贖いの御業を完成された主イエスを信じる者との間に新しい契約を結ばれ、その心を神の箱として、契約の言葉を心に記され(エレミヤ書31章31節以下、33節)、私たちの体を神殿とされました(第一コリント3章16節、6章19節など)。

 

 「祭司らに、救いを衣としてまとわせ、わたしの慈しみに生きる人は、喜びの叫びを高く上げるであろう」(16節)と言われるように、私たちは救いの恵みに与り、その慈しみに生かされています。

 

 主イエスの贖いのみ業、救いの恵みに感謝して、唇の実を高く主にささげましょう。

 

 主よ、御子キリストは、おのれを無にし、奴隷の姿となってこの世に来られました。御子キリストの贖いのゆえに、その十字架の打ち傷によって、私たちは癒されました。私たちの体を神殿として内に住み、永久に共にいてくださることを心から感謝致します。御子キリストのご受難とご復活に示された神の愛の御業の故に、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」 詩編133編1節

 

 133編は「都に上る歌」の14番目で、シオンに一つの家族として集う者たちの味わう恵みの喜びをうたった詩です。

 

 冒頭の言葉(1節)は、この詩の主文です。原文は「見よ」(ヒンネー)、「なんと良いことか」(マー・トーブ)、「そして、なんと美しいことか」(ヴ・マー・ナーイーム)、「兄弟たちが座っている」(シェベト・アヒーム)、「また一緒に」(ガム・ヤーハド)という言葉遣いになっています。新共同訳は、「良いこと」(トーブ)を「恵み」、「美しいこと」(ナーイーム)を「喜び」と訳しています。

 

 「兄弟が共に座る(住む)」という表現は、旧約聖書の中であと一度、申命記25章5節(「兄弟が共に暮らしていて」)に登場します。それは、レビラート婚と呼ばれる制度を定めた箇所で、親兄弟家族が共に住むことが前提となっていることを示しています。

 

 ここでは、親兄弟家族が仲良く共に暮らす喜びが歌われています。兄弟、家族が仲良くというのは勿論のことでしょうけれども、和合している兄弟、家族を周りで見ている者にも、その喜びが伝わっているという様子が覗えます。

 

 さらに、兄弟を「同胞」ととって、イスラエル全部族が神の御前に共に座し、神に礼拝をささげることをとおして、そこに真の神の家族が形作られていることを意味し、その喜びが語られていると読むことも出来ます。

 

 紀元前587年にバビロンによってエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、捕囚とされたイスラエルの民にとって、もう一度エルサレムに戻り、そこで礼拝が出来るようになることは、彼らの悲願、切なる祈りだったと思います。

 

 紀元前587年にバビロンによって破壊されたエルサレムの神殿が、捕囚から解放されて22年後の紀元前516年、ダレイオス王の治世第6年に再び建て直され(エズラ6章15節)、神の御前に礼拝をささげることが出来るようになりました。

 

 そこで盛大に祝われる祝祭に、国内に留まらず、様々な国地域から巡礼者がやって来て、祝いの食卓を共に囲み、仮庵で共に過ごすなどして、皆が一つの家族となって礼拝をささげるのです。それは、どんなに大きな喜びとなったことでしょう。「なんという恵み、なんという喜び」(1節)という言葉がそれを示しています。

 

 もしかすると、詩人はそのような日が再びやって来ると、考えることができなかったのかも知れません。あるいは、考えてはいても、実現するはずもないと思っていたのでしょう。それが実現したのは、神の恵み以外の何ものでもありません。それはまさにアメイジング・グレイス、考えられないほどの恵みだというわけです。

 

 2節に、「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り」とあります。エルサレムの神殿で奉仕する祭司を聖別するために、油が頭に注がれると、それがひげに流れ、そして衣の襟に達したということです。

 

 「衣の襟」とは、祭司の祭服で一番上に身につけるエフォドのことを指しているのだろうと思われます(出エジプト記28章6節以下)。エフォドには、その肩の部分に十二部族の名が記された石がつけられていました(同9,10,12節)。祭司に油が注がれ、それが襟に滴っているということで、神の祝福が祭司を通して、12部族に注がれることを示しています。

 

 主イエスが十字架にかかられる前、ベタニアのシモンという人の家で食事の席についておられたとき、一人の女性が主イエスの頭に、純粋で非常に高価なナルドの香油を注ぎかけました(マルコ福音書14章3節)。

 

 主イエスはそれを、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われました(同8節)。大切な使命のために、聖別の儀式が行われたと考えてもよいでしょう。

 

 そのために払った犠牲の大きさは、女性が主イエスをどれほど大切に思っていたかということを表しています。主イエスは、その愛の香りに包まれて十字架に向かわれました。それは、主イエスの贖いの死を通して、神の愛がすべての者に注がれるためでした。

 

 3節に「ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる」とあります。ヘルモン山はイスラエル北方、シリアにそびえる山です。シオンの山々とは、エルサレムを指しています。高山に降りた露が滴り流れて、ヨルダンの流れとなり、遠くシオンを潤しています。

 

 そのように、「シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を」(3節)という言葉で、エルサレムから、主を仰ぎ、御名をほめたたえる人々の住む全世界に主の祝福と永遠の命が届けられるというわけです。

 

 神は、この世を愛して御子を遣わされ、御子を信じる者に永遠の命をお与えになりました(ヨハネ福音書3章16節)。御子を信じた者たちに聖霊の油を注ぎ、この良き知らせを全世界に出て行って証しするようにと命じられました(マタイ福音書28章18節以下、使徒言行録1章8節)。今日、世界のいたるところにキリストの教会が建てられ、主なる神を礼拝しています。

 

 私たちが聖霊の導きを得て、信徒同士が互いに愛し合い、一つになって礼拝をしている姿を主が見られるとき、主はそれをどんなに喜んでくださるでしょうか。

 

 あらためて、主の十字架を拝し、聖霊に満たされることを祈り求めましょう。キリスト者の一致は、キリストの福音を信じる信仰により、そして、聖霊に満たされることによってもたらされるものだからです。

 

 主よ、私たちが互いに愛し合うことを通して、私たちが主イエスに従う者であることを証しするため、聖霊の満たしと導きに与らせてください。多くの方々に主の愛と恵みの福音を告げ知らせることが出来ますように。そうして、救いに与る人々が次々と起こされますように。 アーメン

 

 

「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ、聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。」 詩編134編1,2節

 

 134編は、「都に上る歌」(120~134編)の最後のもので、117編と並んでとても短い詩です。原典では、表題を除いて4行の詩になっています。

 

 これは、巡礼者たちと祭司らとの掛け合いの歌で、冒頭の言葉(1,2節)が都に上ってきた巡礼者たちの歌、3節は、神殿で仕えている主の僕ら、つまり祭司やレビ人たちの歌です。巡礼者たちが「主をたたえよ」と賛美すると、次に祭司たちが「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福してくださるように」と祝福するというかたちです。

 

 これは、巡礼者がエルサレムを去るにあたって祭司たちと交わす賛歌だったのだろうと想像されます。また、主をほめ称えて賛美の歌をうたうと、主が祝福してくださるという信仰を教えていると読むことが出来ます。

 

 実は、冒頭の言葉(1,2節)の「(主を)たたえよ」という言葉と、3節の「(あなたを)祝福してくださるように」という言葉は、ヘブライ語で同じ「バーラク」という言葉です。主は祝福する者を祝福し、呪う者を呪うと言われるわけですが(創世記12章3節参照)、主なる神に対して祝福する者は、主から祝福されるわけです。

 

 ただ、祭司が巡礼者を祝福するというのは、巡礼者のために祝福を神に祈るということであり、祝福は、神が人に与えるものということが出来ます。となれば、人間が神を祝福することはあり得ないということから、「主を祝福せよ」ではなく、「主をたたえよ」と訳されるわけです。

 

 2節に「聖所に向かって手を上げ」とあります。原文を直訳すると、「あなたたちの両手を聖所に向かって上げなさい」(セウー lift up・ヤデーヘム your hands・コーデシュ in the sanctuary)という言葉です。

 

 両手を上げるというのは、祈りの姿勢と言われます(岩波訳脚注参照)。幼い子どもが親に向かって両手を挙げているときは、「抱っこして」といっているように見えますね。自分のすべてを神に委ねるという姿勢ということが出来ます。

 

 あるいはまた、強い者に向かって手を上げると、それは降参という形になります。「四の五の言いません。主の言われるとおりに従います」という姿勢といってもよいでしょう。主なる神を信頼してすべてを委ね、主に聴き従うという祈りをすることが、主をたたえること、賛美することだというのは、私たちが学ばなければならない大切な信仰の心だと思います。

 

 このことで、ルカ福音書24章50節以下の御言葉を思い出しました。そこに、主イエスが弟子たちを、手を上げて祝福されたことと、弟子たちが絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていたことが記されています。

 

 ここでも、「祝福された」と「ほめたたえていた」とは、ギリシア語の「エウロゲオー」という同じ言葉が用いられています。主イエスの祝福を受けた弟子たちが、主をほめたたえているわけです。

 

 同50節に「手を上げて祝福された」とあるのは不定過去形(アオリスト)動詞で、過去のある時点に起こった出来事というのを表します。一方、続く51節には「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と記されています。ここには、現在形の不定詞が用いられていて、今ある状態、あるいはそれが進行している様子を示します。

 

 つまり、主イエスが祝福されたのは、天に上げられる前、ベタニアの辺りでのことでしたが、しかしそれは「祝福し終わって天に上げられた」ということではないのです。ルカはこのような言葉遣いで、弟子たちを祝福された主イエスの祝福は、今、私たちのためにも続けられている、私たちも今、この主イエスの祝福に与ることが出来ると言おうとしているのです。

 

 このことは、私が神学校で学んでいたとき、説教学の講義においでになった故松村秀一先生から教えて頂きました。松村先生は、戦中戦後、大牟田教会の牧師を務め、その後、東京で常盤台教会を設立される働きをされました。後に、連盟の理事長としても手腕を発揮されました。

 

 主イエスの昇天後、弟子たちは、神殿の境内で神をほめたたえていました。ヘロデ大王によって建てられたその神殿は、ローマとの戦争で破壊されました。今日まで残っているのは、西の壁などごく一部だけです。

 

 私たちは、エルサレムの神殿に上らなくても、私たちの体が聖霊の住まわれる神殿とされています(第一コリント書6章19節など)。私たちと共におられ、私たちの内にお住まいくださる御霊なる神にすべてを委ね、御霊の導きを求めつつ主の御言葉に耳を傾けるとき、主はその祈り、その賛美を受け止めて、主の祝福と導きに与ることが出来るわけです。

 

 皆で主をたたえましょう。天地を造られた主がわたしたちを祝福してくださるように。 

 

 主よ、あなたの尊い御名を崇め、心から感謝致します。主イエスが私たちのために執り成しの祈りをささげてくださり、今その祝福を頂くことが出来ます。主が語られたことは、必ず実現するからです。御国が来ますように。御心がこの地になされますように。主イエスの平和が全世界にありますように。 アーメン

 

 

「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた。」 詩編135編4節

 

 135編は、神による創造と救いの恵みにより、主なる神をたたえる賛美の詩です。

 

 1節の初めと3節(「主を賛美せよ」はハレルヤ)、21節の最後に「ハレルヤ」、1節で「主を賛美せよ」(ハレルー・ヤハウェ)、19節以下で「主をたたえよ」(19,20節はバーラクー・エト・ヤハウェ、21節はバールーフ・ヤハウェ)が繰り返し詠われて、136編と共に「大ハレル」と呼ばれます。

 

 4、5節の冒頭には、「キー(「なぜなら」の意)」という接続詞(新改訳、岩波訳はこれを「まことに」と訳し、口語訳、新共同訳は訳出していない)があり、1~3節の賛美の理由、根拠を示しています。

 

 まず4節(冒頭の言葉)では、ヤコブ=イスラエルを主が宝の民として選ばれたことを挙げ、そのテーマを8~12節で展開しています。主がイスラエルを宝の民として選ばれたことについては、出エジプト記19章5節、申命記7章6節などにも記されています。

 

 また、5節では、主なる神の偉大さを挙げ、天と地、海とその深淵において御旨を行い、すべてのものを統べ治めておられることを6,7節で歌います。それに対して15節以下で、異国で神々として祀られている偶像は、人間が自分たちの手が造り出したもので、それに依り頼むことの虚しさを告げています。

 

 上述の通り、主がご自分の宝としてヤコブ=イスラエルを選ばれたことについて、歴史の中に働いて、エジプトの奴隷であったイスラエルを解放し(8,9節、出エジプト記12章)、ヨルダン川東部でシホンとオグを討ち(11節、民数記21章)、ヨルダン川西部でカナンの王たちを討って(11節、ヨシュア記12章7節以下)、その領地を嗣業としてお与えになったと告げます(12節)。

 

 あらためて、なぜ主は、ヤコブ=イスラエルを御自分の宝として選ばれたのでしょうか。

 

 イスラエルの父祖ヤコブは、双子の兄エサウの長子の権利を一杯の豆の煮物と交換して手に入れ(創世記25章22節以下)、そして、兄エサウに与えるはずの祝福の祈りを、父イサクを騙して奪い取りました(同27章1節以下)。

 

 長子の権利と父の祝福を奪われた兄エサウは激怒し、弟ヤコブを殺そうと思うようになります(同41節)。それを知った母リベカは、ヤコブを自分の実家のあるハランに逃がします(同42節以下)。

 

 母の実家のあるハランの町に向かうヤコブは、旅の途中、荒れ野で野宿します(同28章10,11節)。そのとき、神がヤコブに天に達する階段の幻を見せ(同12節)、そして、ヤコブに祝福を語ります。それは、主が常にヤコブと共にいて、ヤコブを守り、そして、逃げ出したイスラエルの家に連れ帰って下さるという約束です(同13節以下)。つまり、兄から長子の権利を奪い、父を騙して祝福を奪ったヤコブを、神が祝福されたのです。

 

 その後、ハランに着いて叔父ラバンの娘たちを娶り、家畜を飼う仕事を手伝ったときには多少の苦労はしましたが(同29章14節以下)、神の助けによって、たくさんの家畜を持つようになりました(同30章43節)。そして、意気揚々故郷に帰ることになります。

 

 家に帰るに先立って使いをやったところ、兄が400人の供を連れて迎えに出るという返事です(同32章4節以下、7節)。それに恐れをなしたヤコブは、群れの中から兄への贈り物を選び、それで、兄の心を和ませようと考えます(同14節以下)。

 

 しかし、それでも安心出来なかったヤコブは、家族に先にやり、一晩中神の使いと格闘します(同23節以下、25節)。その後、神の使いはヤコブに祝福を二つ与えます。一つは、「イスラエル」即ち「神と人と闘って勝った」という名(同29節)、もう一つは、腿の関節が外されて引きずって歩くようになった足です(同32節)。そのため、もう逃げ出すことが出来ません。

 

 ヤコブは、兄エサウと再開を果たします(同33章1節以下)。そして、兄エサウは、弟の罪を全く話題にしません。既にそれを赦し、忘れてしまったかのようです。

 

 ヤコブは、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と言います(同10節)。これは、おべっかというより、神は罪を赦すお方であるという信仰の表明であり、兄エサウがさながら神のように、罪を赦してくれたことに対する感謝を言い表しているわけです。

 

 神がヤコブを選ばれたのは、ヤコブが優れているからではなく、神の助けと赦しなしには生きられないことをヤコブに学ばせるためでした。申命記7章7節では、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と語られています。

 

 イスラエルという名を与えたのは、目的のために手段を選ばないという生き方ではなく、主なる神に信頼し、互いに赦し合い、愛し合って生きる者となること、そのような民を神が御自分の宝とするという祝福なのです。

 

 新約の時代にペトロが「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(第一ペトロ書2章9節)と語っているのも、同じ信仰を表明しているのです。

 

 ここで、ペトロからあなたがたと呼ばれているのは、ユダヤの民ではありません。「ポントス・、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」(同1章1節)、即ち今のトルコに住む異邦のキリスト者たちのことで、主イエスを信じる信仰によって、神のものとされているのです。

 

 恵みによって神のものとされた私たちに主イエスが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34,35節)と言われました。

 

 聖霊によって注がれる神の御愛で心を満たし(ローマ書5章5節)、主イエスに従って互いに愛し合う者とならせていただきましょう。 

 

 主よ、私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の民の一員に加えられました。その恵みに与ったものとして、互いに赦し合い、愛し合って歩むことが出来ますように。それによって私たちがキリストの弟子であることを、多くの人々に証しすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「低くされたわたしたちを、御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」 詩編136編23節

 

 136編は、詩の各節に「感謝せよ」(ホードゥー)、「慈しみはとこしえに」(キー・レオーラーム・ハスドー)とあり、主に感謝し、主をほめたたえることを教えています。ただし、4~25節は、ヘブライ語原典には「感謝せよ(ホードゥー)」という言葉はありません(新改訳、岩波訳は原典に忠実)。

 

 この詩は、前半を祭司が、そして「慈しみはとこしえに」を会衆が斉唱したのでしょう。誉め讃えられるべきお方は、「恵み深い」(トーブ:「善い」の意)「主」(ヤハウェ:1節)であり、「神の中の神」(エロヘー・エロヒーム:2節)、また「主の中の主」(アドネー・アドニーム:3節)であられます。

 

 4節に「ただひとり、驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ」と記されています。これが、この詩のテーマといってもよいでしょう。

 

 神のなさった驚くべき大きな御業について、まず5~9節では、天地を創造されたことを上げて、感謝と賛美をささげます。天地、海、太陽、月、星などは、周辺諸国において、神として祀られていました。しかし、それらは、神が英知をもって創造されたものであることを、ここにはっきりと宣言しています。

 

 また、天地を造られた神は、私たち人間をも、創造されました。だからこそ、神に感謝するのです。そして、「慈しみはとこしえに」と賛美していますので、詩人は、神が天地を造られたのは、神の慈しみのゆえであると詠っているわけです。

 

 「慈しみ」(ヘセド)には、3人称単数の接尾辞(「彼の」)がつけられています。彼とは、「主(ヤハウェ)」、「神の中の神」、「主の中の主」、「ただ一人、驚くべき大きな御業を行う方」のことです。

 

 ここに、人が造られたことが語られてはいませんが、神のかたちに創造された人間は、被造物にあらわされた神の慈しみに感謝し、主をほめたたえるべきことを、詩人が教えているということが出来ます(創世記1章26節参照)。

 

 続く10~15節では、出エジプトの出来事を記し、奴隷の苦しみから解放してくださった主をたたえます。16節は、40年の荒れ野の旅を支えられた主をたたえます。17~22節は、敵の軍隊を打ち破り、約束の地をお与えくださった主をたたえています。

 

 いずれも、彼らにそれを受ける資格や権利があったわけではありません。神の助けがなければ、エジプトを脱出すること、約束の地までたどり着くこと、そして嗣業の地を獲得することは不可能だったでしょう。だからこそ、神の慈しみに感謝し、賛美しているのです。

 

 そして、冒頭の言葉(23節)で「低くされたわたしたちを心の留めた方に感謝せよ」と言い、さらに24節で「敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ」と語っているので、あらためてエジプトの奴隷の苦しみから救い出されたことを語っていると見ることも出来ますが、これは、それに重ねてバビロン捕囚から解放されたことを感謝していると読むべきでしょう。

 

 「低くされた」とは、バビロンの奴隷にされたということですが、それは、単にバビロンとの戦争に負けたということではなく、イスラエルが主なる神に背いてその怒りを買い、神の祝福を失ったということです。いわば、神によって低くされたということです。

 

 天地宇宙、大自然のいたるところに神の慈しみが表れているのに、そしてエジプトの奴隷から解放され、約束の地カナンを頂くことが出来たことも、すべて神の慈しみであったというのに、イスラエルの民は恩知らずにも、神に背いて罪を重ねたのです。

 

 それなのに、神は「低くされた」イスラエルの民を心に留められるのはなぜでしょうか。それこそ、まさに神の慈しみです。

 

 その背後に、アブラハムとの契約があります。神はアブラハムを選び、祝福を与える約束をされました。その約束とは、アブラハムの子孫に約束の地を与えるという約束です(創世記15章1節以下、7節)。

 

 そのとき、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳でした。サラは不妊で、子どもができませんでした(同11章30節、18章11,12節)。もし、神がアブラハムを選ばれていなければ、そしてサラに子を授けるようにしてくださらなければ、彼らにイサクがうまれるはずはなく、ゆえに、イスラエルの民がこの世に登場してくることもなかったのです。

 

 慈しみによって天地万物を造られた神は、神を礼拝する民をその慈しみによって創造されたわけです。さらに、イスラエルを頑なにすることで、神の慈しみが主イエスを信じる異邦人に及ぶようにされました(ローマ書11章28節以下)。

 

 主は私たちとの間に新しい契約を結び、主が私たちと共に、私たちの内に住まわれて「イエスこそ主である」ことを教えてくださいます(エレミヤ書31章33,34節、マタイ福音書16章16,17節、ローマ書10章8~10節、第一コリント書12章3節)。恵み深い、慈しみ豊かな神に心から感謝し、御名をほめたたえましょう。

 

 主よ、あなたが私たちと共におられ、いつも命の道、真理の道に導いてくださいますから、感謝です。絶えず、主の御声に耳を傾け、その御心を悟らせてください。主の御足跡に従うことが出来るよう、絶えず信仰の目を覚ましていることが出来ますように。全世界にキリストの平和と喜びがありますように。 アーメン

 

 

「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、わたしの最大の喜びとしないなら。」 詩編137編5,6節

 

 137編は、エルサレムの神殿において主を賛美していた音楽奉仕者によって作られたものではないかと思われます。紀元前597年にネブカドネツァルに攻め込まれてヨヤキン王は白旗を掲げ(列王記下24章10節以下12節)、エルサレムのすべての人々と共に捕囚として連れ去られました(同14節以下、第一次バビロン捕囚)。

 

 傀儡で立てられたゼデキヤ王が愚かにもバビロンに反旗を翻し(同20節)、全軍を率いてやって来たネブカドネツァルの軍に包囲され(同25章1節)、ついにエルサレムが陥落しました。神殿が破壊されて祭具などすべて奪われ(同13節以下)、都は焼き払われ(同9節)、城壁も破壊されました(同10節)。

 

 そして、都に残っていた人々も捕囚として連れ去られました(同11節)。エルサレムが陥落し、民が連れ去られた結果(第二次バビロン捕囚、紀元前587年)、ダビデ王朝は途絶え、イスラエルの歴史は閉じられることになったのです。このとき、親衛隊の長ネブザルアダンが祭司長らを捕らえているので(同18節)、詩人も一緒に連れ去られたのではないでしょうか。

 

 詩人たちが一日の働きを終え、「バビロンの流れ」のほとりで、故郷を偲んでしばし涙していると(1節)、バビロンの人々が、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」(3節)と求めます。「わたしたちを捕囚にした民」(3節)というのはバビロンの兵士たちで、彼らの労役を監督していた人々のことではないかと想像します。

 

 シオンの歌とは、詩編46編2,5,6節の「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。・・・大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」というような詩歌のことでしょう。

 

 彼らがシオンの歌をリクエストした理由は、詩人たちを嘲り、「お前たちの神はどこにいるのか」と、その信仰を侮辱して楽しむためだったと思われます。勿論、そのような求めには応じられません。2節で「竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた」というのは、竪琴を弾かないようにしたということです。

 

 シオンの歌は、神の都エルサレムにいます神をたたえるものですから、竪琴の調べに合わせて歌えと言われても、彼らの余興のためなどにそれを歌うことは出来ません。4節で「どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で」というとおりです。

 

 「異教の地」を指し示すように、1節で「バビロンの流れのほとり、そこにわたしたち(新共同訳は訳出していない)は座り」、3節にも「わたしたちを捕囚にした民が、そこでわたしたちに(ここも同じく)歌をうたえと言うから」と、「そこに、そこで」(シャーム)という言葉が繰り返されます。 

 

 亡国のイスラエルの民は「そこ、異教の地」で、亡国の悲しみの上に嘲りの的とされる屈辱を味わわされ、どれほど辛く、悔しい思いをしたことだろうかと思います。にも拘らず、彼らが信仰を失うことはありませんでした。むしろ、苦しめられるほどに、神の都エルサレムを思い、主を慕い求めました。それが冒頭の言葉(5,6節)です。

 

 「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら」とは、シオンを選んで御自分の住まいとされた主なる神を決して忘れることはないということで、その思いは激しく、もしもエルサレムを忘れるようなら、自分の右手が萎え、舌が上顎に張り付いてもよいという、呪いの誓いを立てるほどです。

 

 詩人にとって、右手が萎えるというのは、竪琴を奏でることが出来なくなるということであり、舌が上顎に張り付くというのは、主へのほめ歌を歌えなくなるということです。あるいは、そのような事態に陥っても、神の都エルサレムを忘れ、主なる神への信仰を疎かにしたりはしないと、あらためて宣言しているのでしょう。

 

 現実に押し流され、困難に押しつぶされて神を信じることが出来なくなり、喜びや平安、希望を失う事態に陥れば、竪琴を奏で、主へのほめ歌を歌うのは、空しいことでしょう。そうなっていても可笑しくない状況の中で、なお主を慕い、祈りをささげることが出来るところに、詩人の信仰を見ることが出来ますし、そのような信仰を授けられた主の慈しみを感じます。

 

 「主よ、覚えていてください。エドムの子らを」(7節)以下の言葉は、受けた屈辱、過酷な仕打ちを、彼らに報い返してくださるようにと求める呪いの祈りです。

 

 エドムは、ヤコブ=イスラエルの双子の兄エサウの子孫です(創世記25章19節以下、30節など)。創世記27章41節には、エサウが、長子の権利と父の祝福を奪った弟ヤコブを憎み、「父の喪の日も遠くない。そのときが来たら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と考えている言葉が記されています。

 

 この件は、創世記33章において、すでに水に流されているかのように見えます。しかしながら、ヤコブはエサウと歩みを共にすることはありませんでした(同33章12節以下)。そのような兄弟のすれ違いが、エドムがバビロンと連合してイスラエルを攻め滅ぼすという結果を生み出したともいえそうです(エゼキエル書25章12節以下、アモス書1章11節、オバデヤ書10節など参照)。

 

 しかしながら、復讐に復讐では、今日のパレスティナやアフガニスタン、イラク、そしてシリア情勢、各地で引き起こされるテロ事件が示すとおり、平和の関係を築くことは不可能です。むしろ、互いに憎悪が増し、争いが拡大してしまいます。

 

 受けた苦しみを忘れたり、相手を赦したりというのは、誰にも出来ないことかもしれませんが、私たちの罪を引き受け、赦しと救いの恵みをお与えくださった主イエスが、互いに罪を赦し(マタイ6章12,14,15節、18章22節など)、愛し合うべき(ヨハネ13章14,15節など)ことを教えておられます。

 

 御教えに従うことが出来るように、そうして愛と平和の家庭、社会を築くことが出来るように、祈りましょう。

 

 主よ、他人から受ける悪や侮辱に対して、祝福を祈って返すというのは、私たちの自然の感情ではありません。しかし、愛と信頼の関係を破壊しようとしている悪しき霊の仕業にしてやられることなく、また、自らの感情に流されることなく、御言葉に堅く立って行動出来ますように、主の慈しみと平和で私たちの心と思いをお守りください。キリストの平和が全地にありますように。 アーメン

 

 

「わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。」 詩編138編7節

 

 138編は、神の救いの御業に感謝する歌です。その慈しみとまことに信頼しつつ、救いを願う言葉で詩を閉じています。「ダビデの詩」という表題ですが、その文体、用語から、捕囚期後の作と考えられています。

 

 イスラエルの民は、自らの罪のゆえに神の怒りを買い、バビロンに捕囚として引いて行かれ、塗炭の苦しみをなめました。けれども、慈しみとまことに富む神は、彼らの求めに答え、その苦しみから解放されました(2,3節)。それが、この詩人が心を尽くして感謝し、御名をほめたたえている理由です。

 

 詩人らは、バビロンにおいて異教の神の宮を見せられました。その神を拝むように強要されることもあったでしょう。座興として「シオンの歌」を歌わされたりもしました(137編3節)。しかし、それは決して喜びではあり得ません。

 

 けれども今、エルサレムに戻ることが出来、聖なる神殿の前で礼拝をささげられるようになりました。その日をどんなに待ちわびていたことでしょうか。ほめ歌を心から歌えるというのは、どれほど嬉しかったことでしょう。感謝も一入だったでしょう。

 

 1節の「神の御前で」を、口語訳は「もろもろの神の前で」、新改訳は「天使たちの前で」と訳し、異教の神々の前で主なる神をたたえるという解釈を採っています。「感謝する」(ヤーダー)、「ほめ歌をうたう」(ザーマル)には、「あなたに」(ハー)という接尾辞がついていますので、神々の前で「あなた」と呼ぶ主に賛美をうたうという言葉遣いと考えられます。

 

 新共同訳は、主をたたえている者たちは主なる神の前に立って賛美しているということで、その訳を採ったのでしょう。神々の前で主をたたえるということは、主なる神こそ真の神、主の主、王の王であられるということなのです。

 

 「心を尽くして」(ベ・コール・リビー:「わたしの心のすべてにおいて」の意)感謝するという表現は、申命記に多用されています(4章29節、6章5節、10章12節、11章13節、13章4節、26章16節、30章2,6,10節)。 

 

 この感謝の言葉の中で、「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました」(4節)と語り、「主の道について彼らは歌うでしょう、主の大いなる栄光を」(5節)と言います。イスラエルの民が、神の慈しみとまことによって解放されることを喜び感謝するのは当然ですが、地上の王たちが感謝し、主の栄光を歌うとは、どういうことでしょう。

 

 そのことについて、「あなたに感謝をささげます」(ヨードゥーハー)、「彼らは歌うでしょう」(ヤーシールー)は、いずれも未完了形です。主によって苦難から解放されたイスラエルの民が、主の恵みを地上の王たちをはじめすべてのものに証しすることを通して、すべてのものが、主の慈しみとまことを知り、味わい、そうして、神に感謝し、ほめ歌うようになるということではないでしょうか。

 

 6節に、「主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます」と語られます。神は弱い者、小さき者の味方となって助け、傲慢な者、横暴な者を退けられるということです。神は、バビロンによって低くされていたイスラエルを救い出され、バビロンは歴史の舞台から退けられたのです。

 

 詩人は、主の慈しみとまことに信頼しつつ、冒頭の言葉(7節)の通り、「わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください」と祈り願っています。

 

 「命を得させてください」、「お救いください」と求めるということは、神の助けが必要であるということであり、それこそが詩人の拠り所であるということです。

 

 「御手を遣わし、右の御手でお救いください」とありますが、神の御手、それも右の御手とは、どんなものでしょうか。右腕とは、頼りになる人のことを指します。詩編16編8節に「主は右にいまし」とあり、神が私たちの助け主、弁護者として右にお立ちくださることが示されます(109編31節、110編5節、121編5節も参照)。

 

 神の右におられるのは、私たちの救い主なる主イエス・キリストです(マルコ16章19節、ローマ書8章34節など)。神は、この世を愛し、私たちに永遠の命を授けるために、キリストをこの世に遣わされました(ヨハネ3章16節)。キリストは、十字架によって贖いの業を成し遂げられ、三日目に甦られて後、天に上げられ、神の右の座に着かれました(ヘブライ書1章3節)。

 

 このキリストの贖いの業により、すべての人々に神の救いの道が開かれました。「聖書にも、『主を信じるものは、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の御名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ書10章11~13節)。

 

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ書1章6節)。

 

 ゆえに「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に述べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ書2章10,11節)。

 

 主よ、あなたは御子キリストの贖いにより、私たちを天の御国に国籍を持つ神の子供としてくださったことに、心を尽くして感謝し、御名をほめたたえます。私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。主イエス・キリストの恵みが、常に私たちの霊と共にありますように。 アーメン

 

 

「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」 詩編139編8節

 

 139編は、自分のことを知り尽くしておられる神に感謝をささげ、悪をなすものを滅ぼしてくださるよう求める祈りの詩です。この詩は、1節から18節までが、神に感謝し、たたえる歌、19節以下は、悪を滅ぼすよう求める祈りという、二部構成になっています。

 

 詩人は1節で、「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」と語り、ここに、神によって完全に知られている存在として、自らを描いています。

 

 そして23節で、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください」と求めます。初めの宣言と終りの願いで詩全体が取り囲まれ、循環するかたちです。

 

 詩人は、主は「遠くからわたしの計らいを悟っておられる」(2節)し、また、「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」(4節)と、行うことも考えていることもすべて主がご存知だと言います。

 

 さらに、主が前からも後ろからも囲み、その御手の下に置かれて(5節)、何も隠すことが出来ないことなど、主の知識の不思議をこのように驚きをもって語り、「あまりに高くて到達できない」と言います(6節)。

 

 さらに、「どこへ行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとららえてくださる」(7~10節)と言います。

 

 一般に、天は主なる神のいますところ、地上は人間の住むところ、そして陰府は死者が身を横たえるところと区分され(115編16,17節)、天と陰府の間には深い淵が横たわっていて、往来は出来ないと考えられています(ルカ16章19節以下、26節参照)。しかし、この詩人は、地上のどこでも、陰府の底にも、神の前から隠れる場所はない、そこに神がおられると述べています。

 

 主は、また、昼も夜も共に司られるただ一人のお方です(11,12節)。人にとって、昼は明るく、夜は暗い闇です。しかし、主は夜も昼も共に光を放ち、変わるところがないと言います。これは、昼を司る太陽や、夜を司る月や星、それらを神々として拝む異教の礼拝を一掃するものです。

 

 詩人はいつ、どこで、このような神についての信仰を持つに至ったのでしょうか。聖書が示すとおり、天地万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる神であれば、詩人がここに語っているのは当然のことといってもよいと思いますが、しかしここで詩人は、心のひだに隠しておいたどのような思いも神が探り知っておられると、自らの体験に基づいて語っているのです。

 

 それで行き着いたのが、「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(13節)という表現でしょう。聖書時代、内臓は人間の感情が生まれてくるところ、深い精神的な働きを担う心のある場所と考えられていました。「深く憐れむ」とは、「腸がちぎれる」という言葉で表現されています。

 

 感情の座、心としての内臓を作り、母の胎内で自分を組み立てて下さった神には、何ら隠し事は出来ないということになるわけです。

 

 心のひだに隠されている思いとは、神の御前に必ずしもよいものでないことを、詩人は知っています。だからこそ、逆らう者を打ち滅ぼしてくださるよう求めたのち(19節以下)、自分自身のうちに神に逆らう思い、時に憎む思いがないか、思い悩み、道に迷っている状態ではないかと主に尋ね、「とこしえの道に導いてください」と願うのです(23,24節)。

 

 イスラエルの民は、神に受けた恩恵を忘れて神に背き、他の神々を慕い、姦淫を行って神を怒らせ、それによってバビロン捕囚の苦しみを味わいました。苦しみの中で、神を呪うようなこともあったでしょう。その一切をご存知の神は、嘆き呻く彼らを深く憐れみ、捕囚の苦しみから解放してくださいました。

 

 主は、エルサレムの神殿だけでなく、「バビロンの流れのほとり」(137編1節)にいる彼らの声ならぬ声にも耳を傾けてくださったのです。神の恵みの光が届くはずもないと思っていたのに、神はそこに右の御手を伸べてくださいました。

 

 あらためて冒頭の言葉(8節)の「天に登ろうとも」というのは、「私たちが有頂天になっているときにも」と読めます。「陰府に身を横たえようとも」とは、「意気消沈しているときにも」と読めます。どんな時にも、主がそこに共にいてくださり、そして御手で私たちを支えながら、正しい道、命の道に導き出してくださるのです(10節、23編3節)。

 

 私たちの救いは、神の御子イエスの贖いによって成し遂げられました。私たちが心のひだに隠していた思い、あらゆる罪を清めるため、キリストが十字架にかかって死んでくださったのです。

 

 私たちは自分で自分を清めることが出来ません。自分を正しく導くことが出来ません。ゆえに今日も、「神よ、私を究め、わたしの心を知ってください」と願い、「どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」と求めましょう(23,24節)。主は、その祈りに答えてくださいます。

 

 主よ、感謝します。あなたは私を究められました。前から後ろから私を囲み、御手を私の上においてくださいます。主の慈しみのもとに留り、私の足が右にも左にもそれず、主に従ってまっすぐに歩むことが出来ますように。その恵みを広く告げ知らせるものとしてください。聖霊の満たしと導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「主よ、さいなむ者からわたしを助け出し、不法の者から救い出してください。」 詩編140編2節

 

 140編は、一人称で語られる、神の救いを求める祈りです。

 

 詩人を苦しめる存在について、冒頭の言葉(2節)に「さいなむ者」、「不法の者」(5節にも)とあり、5,9節には「主に逆らう者」、6節には「傲慢な者」と挙げられています。

 

 3節で「彼らは心に悪事を謀り」と説明されていますが、「さいなむ」(ラー)は「悪事」(ラーアー)の形容詞形ですから、まさに「さいなむ者」とは「悪事をなす者、悪い者」です。

 

 「不法」は、「ハマス」という言葉で、「暴力、暴虐、残忍」といった意味もあります。ハマスと言えば、イスラエルへの抵抗のために組織されたパレスティナの政党で、イスラム原理主義組織と言われる「ハマス」を思い起こしますが、これは、「イスラム抵抗運動」のアラビア語の頭文字から作られた呼称です。「ハマス」というアラビア語には「激情」という意味があるそうです。

 

 その悪事とは、語る言葉で罠を仕掛け、陥れようとするもののようです。4節に「舌を蛇のように鋭くし、蝮の毒を唇に含んでいます」とあり、6節では「傲慢な者がわたしに罠を仕掛け、綱や網を張りめぐらし、わたしの行く道に落とし穴を掘っています」と語ります。これは恐らく、裁判において偽りの告訴や証言を行うということでしょう。

 

 また12節に、「舌を操る者はこの地に固く立つことなく、不法の者は災いに捕らえられ、追い立てられるがよい」と、さいなむ者に対する呪いが語られています。ここで、「舌を操る者」は「舌の人」という言葉遣いで、「舌」(ラーショーン)は「言語、言葉」とも訳されます(創世記10章5節など)。そこで、「言葉巧みに語る人」という意味で、「舌を操る」という訳にしたのでしょう。

 

 パウロがローマ書3章13節に、4節の言葉を引用して、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ書3章10節)と語る論拠の一つにしています。つまり、誰もが蛇のような二枚舌で人に毒を与える言葉を吐く者となる可能性を持っているということです。

 

 かつて、エデンの園で女を罪に誘惑したのは、蛇でした(創世記3章参照)。偽りを語る2枚舌というのは、蛇のように舌の先が「Y」の字に分かれていることなのでしょう。蛇は、愛の神をけちん坊(同3章1節)で嘘つき(同4,5節)と偽ることで、女を唆しました。女は蛇の企みに載せられ、その落とし穴に陥りました。その結果、神に背き、その恵みから離れることになってしまったのです。

 

 罠を見分けることが出来れば、逃れることが出来ます。落とし穴があると思えば、注意もします。実際には、張り巡らされた罠や、掘られた穴に気づきません。熱いフライパンに蛙を入れれば、勿論飛び出してしまうけれども、水を入れた鍋に入れて少しずつ温度を上げていくと、中の蛙は逃げ出さないまま煮上がってしまうという話を聞いたことがあります。

 

 イスラエルがバビロン捕囚の苦しみを味わわなければならなかったのは、異教の偶像に引かれ、神に繰り返し背いたからでした。しかしながら、それが50年に及ぶ奴隷の苦しみにつながるとは、考えもしなかったことでしょう。彼らが慕った異教の神々、そして彼らが頼った異国の力は、イスラエルの民とエルサレムの町を守ってはくれませんでした。

 

 蛇は女に「食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3章4節)と言い、その木を見ると、賢くなれるように唆していました(同6節)。しかし、食べた結果、「神のように善悪を知るもの」になれるはずはなく、自分たちが神の守りから離れて裸であることを知ったのです(同7節)。

 

 彼らを罪に誘った蛇は、彼らのために弁護してはくれません。罰を引き受けてもくれません。彼らは神に背いた罰として、エデンの園を追い出されてしまいました(同23節)。

 

 詩人は、自分をさいなむ者、不法の者から守ってくれるのは、天地万物を創られたまことの主なる神だけであることを知り、助け出し、救い出してくださいと願っているのです。そして主は、その声に耳を傾け、慈しみをもって彼を救い出してくださいます。

 

 それゆえ、「わたしは知っています。主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを」(13節)というのです。確かに神は、イスラエルの民をバビロン捕囚の苦しみから解放し、イスラエルの国を建て直すことが出来るようにしてくださいました。

 

 アダムとエバがエデンの園を追放されるとき、二人は裸のままではありませんでした。彼らは初め、いちじくの葉を綴り合わせて腰を覆うものとしましたが(創世記3章7節)、神が二人に、皮の衣を作って着せてくださったのです(同21節)。そのために動物が殺されました。その命で罪が贖われたわけです。

 

 そしてこのことは、イエス・キリストの贖いを示しています。キリストが私たちの罪のために死なれ、私たちは主イエスの命の衣を着せて頂いているのです。それは、私たちの罪が赦されたというしるしであり、神が常に共にいて私たちを守っていてくださるというしるしなのです。

 

 恵みの主に従って御名に感謝をささげ、いつも主の御前に座らせていただきましょう。

 

 主よ、絶えず信仰の目を開き、不法をなす者の罠に陥らず、落とし穴にはまることがないように、私たちの心と思いを守ってください。二枚舌にならないよう、あなたが共にいて、真理の御言葉を示してくださいますように。聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌をもって語り合い、主に向かって心からほめ歌わせてください。主の御名があがめられますように。 アーメン

 

 

「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください。」 詩編141編2節

 

 141編は、140編に続いて、主なる神に助けを願う祈りの詩です。

 

 1節に、「主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい、あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください」という祈りの言葉があります。緊急の助けを願っているのは、詩人に悪の手が迫っているからです。

 

 詩人に迫る悪の一つは、彼を悪へと誘う誘惑です。4節に、「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって、悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように」と言っています。

 

 欲望を満たすよう誘われるとき、なかなかそれに打ち勝つことが出来ません。詩人に対する誘惑は、言葉の問題だったのでしょうか。「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」(3節)と求めているからです。それは、神に対して不敬虔なことを語ることでしょうか。あるいはまた、人の悪口を言うことでしょうか。確かに、人の噂話にはなかなか扉を立てることが出来ないものです。

 

 悪への誘惑と言葉の問題ということで、民数記22章以下に、モアブの王バラクがベオルの子バラムという預言者を招き、イスラエルを呪わせようとしてことが記されています。バラムはバラクの再三の要請に対し、最初は神の言葉を聞いてそれを断りましたが、要請を受けて改めて神に尋ねると、行っても良いとのことだったので、出向くことにします。

 

 この後、結局バラムは神の導きに従って3度イスラエルを祝福し(同23章7節以下、18節以下、24章3節以下)、結果的にバラクの要請を拒否した形に終わります(同24章12,13節)。

 

 しかしながら、第二ペトロ書2章15節では、「バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです」と言われます。

 

 つまり、バラクの要請に応じるべきか、バラムが2度目に神に尋ねた動機は、真実に神に問うたということではなく、「不義のもうけ」、つまり、自分の懐を肥やす金儲けのためだったというのです。

 

 あるいは、アッシリアの王センナケリブの軍隊に取り囲まれて絶体絶命の危機にあるヒゼキヤ王のことを思います(列王記下18章13節以下)。彼は、エルサレムの民に、アッシリアの脅しの言葉に対して沈黙するように命じました(同36節)。恐れ戦いて消極的、否定的な言葉を語ることで、神の御前に罪を犯すことがないようにしたのです。

 

 そして、預言者イザヤに執り成しを願います(同19章1節以下)。そのときのヒゼキヤの思いは、まさに、「主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい、あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください」というものだったでしょう。

 

 詩人は冒頭の言葉(2節)のとおり、「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください」と求めます。イスラエルの祭司は、絶えず神の前に香を炊き、香りの献げ物をささげました(出エジプト記30章7,8節)。また、朝と夕方、雄羊に穀物とぶどう酒を添え、それを燃やしてなだめの香りとしました(同29章38~42節)。

 

 詩人には、香も雄羊も持ち合わせがありませんので、祈りを香として、上げた手を供え物として受けるようにと求めます。つまり、神の前に差し出せるものは何もないのです。上げた「手」とは、上げた「掌」という言葉です。何も持っていない手を神の前に広げているのです。

 

 それは、自分ではお手上げということで、すべてを主に委ねて謙ることです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」といわれ(51編19節)、主はその人に命を得させてくださいます(イザヤ57章15節など)。

 

 また、上げた手は、自らを主に差し出すということでもあります。ひたすら主の前に座り、主が祈りに答えてくださるのを待つという姿勢であり、主のために自らを献げ尽くすということです。それ以外に、悪から逃れる術がないからです。そして、主はそのように主を求める者に、答えてくださるのです(エレミヤ書29章12~14節、マタイ福音書7章7~11節)。

 

 どんなときにも主の御前に進みましょう。絶えず主を仰ぎ、御名をたたえるほめ歌を歌いましょう。ことごとに祈りの手を上げ、主の御名を呼びましょう。 

 

 主よ、私たちの心に主の御言葉が豊かに宿りますように。聖霊に満たされますように。それにより、詩と賛歌と霊的な歌をもて互いに語り合い、絶えず主に向かって心から御名をほめ歌うことが出来ますように。私たちの生活を通して、主の愛と恵みを証しすることが出来ますように。主キリストにある喜びと平和が全地にありますように。 アーメン

 

 

「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と。」 詩編142編6節

 

 142編は、孤立無援になった人の神に助けを求める祈りの詩です。

 

 表題に、「マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴のいたとき。祈り」とあります(1節)。ここで、「ダビデが洞穴にいたとき」とは、サムエル記上22章1節以下の「アドラムの洞窟」のことを言っているものと思われます。

 

 その洞窟に入る前、ダビデはサウル王の手を逃れて、ガトの王アキシュの許に身を寄せようとしました(同21章11節)。ところが、アキシュ王の家臣たちは、自分たちの敵であったダビデを迎えるべきではないという判断を示します(同12節)。家臣たちの言葉で、アキシュ王が自分の命をとるかもしれないと恐れたダビデは、気が狂った真似をして、何とかその場を逃れました(同14節以下)。

 

 5節に、「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もいません」と記されています。これは、神に呼びかけて、自分がいかに孤独であるか、寄る辺なき状態に追い込まれているかということを訴えているわけです。

 

 ベトザタの池の回廊に38年もの長い間病気で苦しんでいた一人の男がいて(ヨハネ福音書5章2,5節)、その男に主イエスが、「良くなりたいか」と言われたとき(同6節)、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えました(同7節)。

 

 池の水が動いたとき、真っ先に入る者は病気が良くなると言われており、たくさんの病人が池の周りに集まっていました。その男には助けてくれる者がいないから、良くなりたくてもなれないということですが、その裏側には、自分のために親身になって助けてくれる友や家族がいないのだから、良くなっても仕方がないという思いが見え隠れしています。

 

 それこそ、ここに詠われているアドラムのダビデと同じような心境でしょう。表題の「マスキール」とは、「教訓」という意味ですから、この詩に示されているダビデの祈りや信仰に学びなさいということを表しているといって良いでしょう。

 

 ダビデはアドラムの洞窟に一人いて、これからどうしようかと考えたとき、まずその状況を神に訴えました。それが5節です。さらにダビデは言葉を次いで、冒頭の言葉(6節)の通り、「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ。命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と」と語ります。

 

 ここで、「わたしの分となってくださる方」とは、かつてイスラエル12部族の中のレビ族に対して、「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てである」と言われたことを示します。

 

 レビ人は主なる神のために神殿で仕え働くことによって、神の養いを受ける者とされたのです。ですから、「わたしの分となってくださる方」とは、自分が信じて仕える神こそ自分の拠り所、命の源であるという表現です。

 

 ダビデが洞窟でその祈りをささげたとき、ダビデの兄弟や親族のほか、困窮している者、負債のある者、そして、サウル王に不満を持つ者などがダビデの許に集まりました(サムエル記上22章1,2節)。彼は一人ではなくなったのです。確かに、主は彼の祈りを聞き、必要な助けをお与えになるのです。

 

 38年の長患いの男は主イエスに声をかけられて、自分の問題を打ち明けました。それが出来たとき、実は男の問題は解決されていました。自分に「良くなりたいか」と声をかけくださった方が、彼の右に立つ真の友、彼の逃れ場となってくださったからです。

 

 ですから、主イエスが「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられたとき(ヨハネ5章8節)、彼はすぐに立ち上がり、床を担いで歩き出したのです(同9節)。

 

 主よ、あなたは私たちが祈る前から、私たちの必要の一切をよく御存知です。ですから、私たちがあなたに祈り求めたとき、その必要を豊かにお与えくださいます。主よ、今なお自然災害や原発事故により、寄る辺なき思いにされている方々に寄り添い、慰めと平安、希望をお与えくださいますように。 アーメン

 

 

「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって、わたしに答えてください。」 詩編143編1節

 

 143編は、「七つの悔い改めの詩」(6,32,38,51,102,130,143編)の中で最後に登場する詩です。悔い改めの詩と言われていますが、むしろ、敵からの救いを求める祈りという形式になっています。

 

 1節で、「主よ、わたしの祈りをお聞きください」と願い、3節で、「敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を地に踏みにじり、とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします」と訴えます。

 

 そして9節で、「主よ、敵からわたしを助け出してください」と求め、さらに12節で、「あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を、ことごとく滅ぼしてください」と祈ります。

 

 救いを求める詩の場合、自分の正しさにも拘らず、敵の非道さで苦しめられている様子が語られ、速やかに敵を滅ぼしてくださるようにと求めるのが常です。ところが、2節に、「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」と述べています。

 

 即ち、正しい裁きによって敵を滅ぼせというのではありません。主の僕をさばきにかけないでくださいと求めているのです。そして、神の御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいないというのです。ここが、「悔い改めの詩」と呼ばれるポイントなのでしょう。

 

 詩人の罪がどのようなものであるかは不明ですが、どのような行いによっても、自分が神の前に義とはされ得ないことを認めているわけです。であれば、詩人が敵から救い出して欲しいと願う根拠は、おのが正しさや敵の不当な攻撃に対する裁きなどではなく、ただ神の恵み、慈しみということになります。

 

 だからこそ、冒頭の言葉(1節)のとおり、「わたしの祈りを聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって、わたしに答えてください」と求めているのです。

 

 原典に忠実に訳すと、「わたしの祈りを聞いてください。あなたのまことにおいてわたしの嘆きに耳を傾けてください。あなたの恵みの業においてわたしに答えてください」という言葉になります。 

 

 ここで、「まこと」は「真理、誠実、堅固、信頼」(エムーナー)という女性名詞で、この言葉の男性形は「オーメン」です。イザヤ書25章1節に「エムーナー・オーメン」と二つが共に用いられて、「揺るぎない真実をもって」と訳されています。

 

 また、「恵みの御業」は、「義」(ツェダカー)という言葉です。「義」とは、神との関係が正しいということを示します。行いによっては誰も御前に正しいと認められないにも拘らず、神との関係が正しくなるとすれば、それは実に神の恵みの御業です。神の義は、人を裁いて神との関係を断絶するように働くのではなく、正しい関係に導き返すよう働いています。

 

 イスラエルは、神の御前に、律法に従って正しく歩むことが出来ませんでした。むしろ、恵みを味わいながらも、神に背き続けました。それゆえ、神はついにイスラエルを東方の強国バビロンの手に渡すことにされました。

 

 それを預言したのがエレミヤです。エレミヤは、涙の預言者でした。イスラエルの裁きを語らなければなりませんでした。そして、イスラエルの民は、エレミヤを受け入れず、むしろ嘲り、迫害しました(エレミヤ書20章7,10節)。

 

 詩人は、この預言者エレミヤのような存在なのではないでしょうか。だから、預言者として神の裁きを語る一方、同胞イスラエルがバビロン捕囚という苦しみに遭うことを看過出来ず、民の罪を自分に重ねて、民のために神の憐れみを求めたということかも知れません。

 

 そして、「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます」(6節)と言います。自分の内に拠り所を持たず、内外の苦しみで渇ききった魂を主の御手に委ねます。もはやそこにしか、彼が苦しみを逃れて救いを求めるところは残されていなかったのです。そして、それこそが悔い改めです。

 

 悔い改めとは、泣くこと、悲しむこと、謝ることではなく、正しく神に顔を向けること、神の恵みに信頼することだからです。詩人はそう語ることで、イスラエルの民にも、主の慈しみに目を留め、そのまことと恵みに信頼すること、即ち悔い改めることを求めているのです。

 

 そのように主を信頼して一切を主の御手に委ねるとき、8節で「朝にはどうか、聞かせてください、あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください、あなたに、わたしの魂は憧れているのです」と詠うとおり、苦しみの夜が終わり、慈しみの光が差し込む朝を迎えることになるでしょう。

 

 主よ、あなたがまことと恵みをもって、私たちのために最善を行っていてくださると信じられる者は、幸いです。この世には様々な苦しみがあります。その苦しみによって忍耐を学び、練達し、そして希望が生まれてきます。また、苦しみによって助け合い、愛し合うことを学びます。主よ、行くべき道、御旨を行う術を教えてください。御心がこの地になされますように。そうして御国が来ますように。 アーメン

 

 

「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください。とびかう稲妻、うなりを上げる矢を放ってください。」 詩編144編5,6節

 

 144編は、王に関係する祝祭で用いられるために作られた「王の詩」の一つとされています。

 

 表題に「ダビデの詩」(1節)とあるように、ダビデの信仰に倣い、同じ恵みに与りたい、ダビデの子孫であるイスラエルの民に救いの恵みを与えて欲しいと願っているわけです。なお、死海写本にこの表題はなく、また、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)には、「ゴリアトに対するダビデの(詩)」という表題がつけられています(サムエル記上17章参照)。

 

 この詩は、「わたし」と一人称単数で語られる11節までの第一部と、「わたしたち」と一人称複数で語られる12節以下の第二部という二部構成です。第一部は異邦人の手からの解放、第二部は主を神とする民の祝福がテーマとなっています。

 

 また、この詩は、18編、33編などから多くの言葉を拝借し、戦いに勝利をお与えくださる主をたたえ、人の儚さを嘆き、敵からの解放と繁栄を求める詩として纏め上げられたかたちになっています。

 

 「主をたたえよ、わたしの岩を」(1節)、「わたしの支え、わたしの砦、砦の塔、わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ」(2節)は18編3節、「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください」(5節)は18編10節、「飛び交う稲妻、うなりを上げる矢を放ってください」(6節)は18編15節、「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち」(7節)は18編17節と似ています。

 

 そして、「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」(9節)は33編2,3節、「いかに幸いなことか、主を神といただく民は」は33編12節と、よく似ています。そのほか、3節は8編5節、4節は39編6節などといった具合です。詩人はこのように、他の詩の言葉を借りて来てその信仰を学び、同じ恵みに与らせて欲しいと願っているのです。

 

 冒頭の「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください」という言葉(5節)は、上述の通り18編10節によく似ていますが、これは、もともと、モーセに十戒を授けるために神がシナイ山に降られたときの描写のようです(出エジプト記19章16,18節、20章18節)。エジプトを脱出した民に授けられた神の律法は、神と民との間に交わされた契約書でした。

 

 ですから、十戒の書かれた石の板を収めた箱は、契約の箱と呼ばれました。詩人が、「主よ、天を傾けて降り」と今ここで求めているのは、あらためて神との契約を結びたい、新しい契約の言葉を頂きたいと求めていることになります。

 

 ただ、18編の言葉を借りて、モーセのときのように契約のために主が降られることを求めているからといって、文字通り、同じことが起こるということではありません。それは、詩人も承知のことでしょう。「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」(9節:33編3節)と、新しい契約という恵みに新しい歌で神をたたえると詩人が宣言しているからです。

 

 預言者エリヤが神の言葉を求めて神の山ホレブに着いたとき(列王記上19章1節以下)、主の御前に激しい風が起こり、その後に地震が起こり、その後に火が起こりましたが、モーセのときのように、主がその中でエリヤに語りかけるということはありませんでした。それらが起こった後、主なる神は静かにささやく声をもってエリヤに語られたのです(同12節)。

 

 詩人の願いに対して主なる神が用意されたのは、飛び交う稲妻や唸りを上げる矢でも、静かにささやく声でもありませんでした。それは、神の独り子イエス・キリストです。御子が天から降り、人間となって十字架に贖いの業を完成なさいました。流された血によって新しい契約が結ばれたのです。御子を信じる者は誰でも、神の子となることが出来ます。

 

 エレミヤ書31章33節によれば、「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」ということですが、それは、主イエスが聖霊において私たちの心に宿られ、共にいてくださるということです。即ち、私たちの体が契約の箱、そして、聖霊が契約書です。

 

 12節以下に、家庭に息子娘があり、蔵に穀物が満ち、牧場に肥えた牛がいて、都は平和に保たれているという、神の祝福に満たされた様子が描かれています。そして主イエスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われました(ヨハネ福音書10章10節)。

 

 私たちの内に住まわれ、常に共にいてくださる主を仰ぎ、その御言葉に従って、聖霊による平安と喜びのうちに、日々歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、聖霊によって神の愛を豊かに注ぎ与えてくださり、感謝致します。それにより艱難をも喜ぶことが出来ます。希望の源なる主が私たちと共におられるからです。絶えず主の御言葉に耳を傾け、素直に導きに従うことが出来ますように。主キリストの喜びと平和が全地にありますように。 アーメン

 

 

「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます。」 詩編145編14節

 

 145編は、「アルファベットによる詩」と、新共同訳聖書には記されています。各節の冒頭がアルファベット順に並んでいるわけです。ただし、14番目の「ヌン(英語のn)」がありません。ヘブライ語のアルファベットは22ありますが、一つ足りないので、21節までになっているわけです。

 

 重要な死海写本や、ギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)などは、13節の後に「ヌン」の行を挿入しており、それを採用すれば、「主は御言葉に忠実(真実)であられ、すべての御業において聖であられる」という言葉が、13節と14節の間に入ることになります。

 

 もともと、「ヌン」の行はあったのか無かったのかが問題になるわけですが、日本語訳聖書はいずれも、「ヌン」の行のある本文を採用していません。ということは、本来は無かった、死海写本や70人訳に「ヌン」の行があるのは、写本の記者が書き足したものと考えているるのです。

 

 一般的に、2種類の写本があるとき、整った形をしているものが先にあって、それからなぜか一部分が抜け落ちて不完全なものになってしまったと考えるよりも、もともとは不完全な形だったので、後から書き足して形が整えられたと考える方が、理に適っているというわけです。

 

 145編は、「世々限りなく御名をたたえます」という言葉が最初(1節)と最後(21節)にあって、この詩が王なる神をたたえる賛美であることを明示し、そして、この言葉に挟まれた詩の各節は、たたえられるべき神の恵みと偉大なる御業について、力強く謳い上げています。

 

 表題に「賛美(テヒッラー)、ダビデの詩」とありますが、表題で「テヒッラー」と紹介されているのは、詩編の中でこれだけです。 タルムードでは、この詩について、「ダビデのテヒッラーを三度繰り返すものは皆、間違いなく来るべき世の子である」と評価しているそうです。

 

 因みに、タルムード (ヘブライ語で「研究」の意)とは、モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群のことです。6部構成、63編から成り、ラビの教えを中心とした現代のユダヤ教徒の生活・信仰の基となっているものです。

 

 この詩の中に、正確に訳出されていないものも含め、「すべて、ことごとく」(コール)という言葉が、合計17回出て来ます。「絶えることなく(=すべての日に)」(2節)、「造られたものがすべて」(10節)、主に感謝せよと、時間、空間に制限を設けないで、限りなく賛美すべきことが強調されているわけです。

 

 それは、主なる神の主権は「とこしえの主権」であり、主の「統治は代々に」(13節)及んでいるからです。ここで、「とこしえ」は複数形で、しかも、「すべての」という言葉がつけられています。いかに強調した表現になっていることでしょう。

 

 「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます」(8節)、「主はすべての者に恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます」(9節)とたたえていますが、神の強い力、その御業が、特に弱い者に向けられていることを示しています。

 

 具体的には、冒頭の言葉(14節)の通り、「主は倒れようとする人をひとりひとり(=すべて)支え、うずくまっている(すべての)人を起こしてくださいます」と言い、次いで、「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて食べ物をくださいます」(15節)と語られます。

 

 この言葉は、主の祈りの、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という言葉について学ぶときに、必ずといってよいほどに引用されるものです。

 

 エリヤが女王イゼベルに呪いをかけられて怖気づいたとき(列王記上19章2節以下)、御使いが彼にパン菓子と水を与えて力づけ(同5節以下)、神の山ホレブに導きました。そこでエリヤは主の御言葉を聞きます。その中で、エリヤの後継者としてエリシャを立てること(同16節)、そして、イスラエルにバアルにひざまずかなかった7000人が残されていること(同18節)が告げられました。

 

 エリヤのような預言者でも、倒れることがあります。うずくまってしまうことがあります。けれども、主はエリヤに手を差し伸べ、力づけ、立ち上がらせてくださいました。彼に必要な食べ物をお与えくださったのです。

 

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)ものです。神はすべての御言葉で私たちの必要を満たされます。パンが必要なときにはパン、慰めを必要としているときには慰め、気力を失っている者には今日を生きる命の力と新たな使命を与えて、立ち上がらせてくださいます。

 

 逆に言えば、この神の助けなしには、立ち上がって歩き出すことは出来ない。神の口から出る一つ一つの言葉なしには、誰も生きることは出来ない。神は私たちが立ち上がることができるように、必要なものをすべて備え、与えてくださるということです。

 

 詩人の勧めの通り、世々限りなく主の御名をたたえましょう。

 

 主よ、私たちを活かす命のパンとして、主イエスをこの世に遣わし、私たちを罪のどん底から救い出し、立ち上がらせるために贖いの供え物とならせられました。それがクリスマスの出来事であり、十字架の出来事です。ここに神の深い愛が示されます。すべての者が主に感謝し、その恵みを深く味わって、心から御名を崇め、賛美をささげることが出来ますように。 アーメン

 

 

「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人。」 詩編146編5節

 

 146編は、詩編の最後を締めくくる「ハレルヤ詩編」(146~150編)の最初のものです。「ハレルヤ詩編」は、詩の初めと終わりで、「ハレルヤ」(1,10節)と主なる神をたたえています。

 

 主を賛美せよと記した後、「君侯に依り頼んではならない」と言います(3節)。人間が頼りにならないのは、「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」からです(4節)。彼らに信頼していた人々の希望も、彼らの死によって打ち砕かれてしまいます。

 

 そこで、5節以下において、真に頼るべきは主なる神であることを示します。主が「とこしえにまことを守られる」(6節)からです。「まこと」は「真理、真実、確かさ、安定、信頼性」(エメト)という言葉です。 

 

 それは、リーダーが不必要ということではないと思います。かつて、イスラエルの民がエジプトを脱出したとき、モーセは、民の上に千人隊長、百人隊長、十人隊長を立てるように導かれました(出エジプト記18章13節以下、21節)。

 

 また、主はサウルを選び(サムエル記上9章以下、10章1節)、次にダビデを選んで、イスラエルの王とされました(同16章1節以下、12節、サムエル記下5章1節以下、3節)。

 

 ただ、サウルやダビデ、その子孫がいかに優れた指導者であっても、真の信頼に足るものでないことを、イスラエルの民は歴史を通して学びました。彼らは、偶像礼拝の誘惑から、それに伴う神の裁きから、国民を守ることが出来なかったからです。指導者自身が神を畏れ、忠実に神の御旨に従うべき者であることが求められているのです。

 

 私たちは、政治や経済、教育その他あらゆる分野の指導者たちのために祈るべきです。わが日本バプテスト連盟の信仰宣言の中で、「国家も神の支配のもとにある。・・教会は国家に対して常に目を注ぎ、このために祈り、神のみむねに反しないかぎりこれに従う」と述べているのは、そのことであるといってよいでしょう。

 

 冒頭の言葉(5節)で、主なる神を助けと頼み、待ち望む人がいかに幸いなことかと語った詩人は、「天地を造り」(6節)から、「主は寄留の民を守り」(9節)まで、神がどのようなお方であるかを、10の動詞(分詞)で表しています。つまり、主なる神は、神を助けと頼み、主を待ち望む者のために、具体的に行動されるお方であるということです。

 

 その箇所に3つ、受身の動詞(分詞)があります。「虐げられている(人)」、「捕らわれ(人)」(7節)、「うずくまっている(人)」(8節)です。その背後に、弱い者を虐げ、捕え、うずくまらせる、神に「逆らう者」の存在をうかがわせます。

 

 人の上に立つ者は、その権力、力で思うまま横暴にふるまってはなりません。権力者の暴力によって苦しめられ、弱くされている人々のために、神が彼らの傍らに立たれ、彼らのために働かれるのです(103編6節、145編14節)。

 

 9節で、「みなしごとやもめ」は寄る辺なき者の代表として、一方、「逆らう者」は彼らを苦しめる者として、対比されています。そして、「励ます」、「くつがえす」と訳されている言葉は、いずれも未完了形の動詞が用いられています。つまり、その状態が今もずっと続いていることを示しているのです。神は寄る辺なき者に絶えず寄り添い、彼らを苦しめる者を退けられるわけです。

 

 イスラエルの民は、バビロンから解放されたとき(エズラ記1章1節以下)、そして、神殿を再建したとき(同3章8節以下、6章13節以下)、それから、エルサレムの町の城壁修復でも(ネヘミヤ記3章1節以下、7章1節以下)、そのことを味わいました。

 

 「励ます」は、「戻る、繰り返す」(ウード)という言葉のポレル形で、「回復する(restore)、(苦しみを)軽くする、取り除く(relieve)」という意味で用いられます。イスラエルを苦しめていたバビロンは退けられ、バビロンによって捕らわれ、虐げられ、うずくまらせられていたイスラエルは、主を礼拝する民として回復されたのです。

 

 そこに、神の深い愛と慈しみが示されます。そして主なる神は、その深い愛と慈しみにより、自分の罪のゆえに死の渕に沈むほかなかった私たちをも救い、神の子となる道を開いてくださいました。

 

 「王」という漢字は、天と地の間に十字架を書きます。天と地を十字架の道で結んでくださったお方こそ、神の右に座しておられるとこしえの王なる主イエスです。主イエスとその御言葉に信頼し、幸いを得ましょう。

 

 主よ、あなたの御業のゆえに、感謝し、賛美をささげます。あなたは私たちに救いの道を開き、命の言葉を与えてくださいます。日々御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みます。その恵みに生きることの出来る幸いを心から感謝致します。主の恵みと慈しみが全地に満ち溢れますように。 アーメン

 

 

「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。」 詩編147編15節

 

 147編は、ハレルヤで始まり、ハレルヤで閉じられる、「ハレルヤ詩編」(146~150編)の2番目のものです。

 

 「主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる」(2節)という言葉から、この詩は、バビロン捕囚後、帰国した詩人によって詠われたものであると考えられます。

 

 1節から、神をほめ歌う喜び、賛美の心地よさが語られます。それは、「打ち砕かれた心の人々を癒やし、その傷を包んでくださる」という、バビロンでの苦しく辛い捕囚の生活から解放された喜びであり、それはまた、神が自分たちに目を留めていてくださったということを再確認した喜びでもありましょう。

 

 イスラエルは神に背き続けて怒りを買い(列王記下24章18節以下)、バビロン軍にエルサレムの都を落とされ、神殿や王宮が焼き払われ、城壁も取り壊されました(同25章8~10節)、そしてイスラエルの民は、エデンから追放されたアダムとエバのごと、御前から突き放されたようにバビロンに捕囚として連行され(同11,21節)、過酷な苦しみを味わわなければならなくなりました。

 

 彼らは、金輪際故国の土を踏むことはあるまいと覚悟していたのに、その嘆きを聞かれた神が歴史の中に介入されて、国に帰り、神殿を再建することが許されたのです(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。

 

 彼らは捕囚の苦しみによって、神の選民としての誇りが打ち砕かれましたが、主なる神は彼らを包んで癒されました(3節)。これは、詩編でも度々記されてきた重要なテーマです(34編18,19節、51編19節など)。

 

 捕囚となったイスラエルの民にとって、自分たちが神の民であることを確認するのは、神の御言葉だけでした。バビロンに神殿はなく、契約のしるしである神の箱も失われていました。けれども、イザヤらによって語られた預言の言葉が、捕囚の民を励まし、力づけたのです(イザヤ書40章以下、43章5節、エレミヤ29章10節以下など)。そして、その預言の通りに帰国が許されたわけです。

 

 あらためて神は、神を礼拝する民をイスラエルの地に置かれました。彼らは、馬の勇ましさや人の足の速さに示される戦の強さなどではなく、主を畏れ、その慈しみに生きることにより(10,11節)、主の祝福を受けて、城門のかんぬきが堅固になり、国境に平和が置かれ、その内に住む子らが祝され、豊かな収穫に与ることが出来るのです(13,14節)。

 

 冒頭の言葉(15節)に、「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る」と言われています。神の言葉は、神の口から出ると、神の望まれることを成し遂げ、使命を必ず果たします(イザヤ書55章11節)。

 

 神が「光あれ」と言われると、光が出来ました(創世記1章3節)。「仰せを地に遣わされ」、「御言葉は速やかに走る」というのは、16,17節の「雪を降らせ」、「霜をまき散らし」、「氷塊をパン屑のように投げられる」との関連で、雷鳴が轟くということかと思われます。

 

 そして、15節以下の段落は、この地を裁く言葉ということです。19節に、「主はヤコブに御言葉を、イスラエルに掟と裁きを告げられる」と言われているとおりです。

 

 17節後半に、「誰がその冷たさに耐ええよう」とあるように、神の裁きに耐えることが出来る者はいません。然るに、「御言葉を遣わされれば、それは溶け、息を吹きかけられれば、流れる水となる」(18節)というように、救いの道も備えておられるのです。

 

 神の口から出て、神の望まれることを成し遂げ、使命を必ず果たす神の言葉として、「地に遣わされた」仰せという言葉で思い出すのは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」で始まるヨハネ福音書1章の記事です。

 

 同14節に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言われます。即ち、神が地に遣わした仰せ、私たちの間に宿った「言」とは、主イエスのことです。

 

 主イエスはご自身を十字架に贖いの供え物として、私たちのために救いの道を開いてくださいました(ローマ書3章24節、ガラテヤ書4章5節、コロサイ書1章14節など)。主イエスを信じ、その名を受け入れた者には、神の子となる資格さえお与えくださったのです(ヨハネ福音書1章12節)。

 

 今日も御言葉に耳を傾け、その導きに従って、豊かな恵みに与りましょう。

 

 主よ、キリストの贖いにより、救いの恵みに入れていただきました。それは、一方的な恵みであり、憐れみです。絶えず御前に謙り、主を畏れて御言葉に耳を傾け、その導きに喜んで従うことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン

 

 

「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。」 詩編148編14節

 

 148編は、詩編を締めくくる「ハレルヤ詩編」(146~150編)の三番目のものであり、内容的に、6節までと7節以下の二つに分けられます。前半では、「天において、主を賛美せよ」と呼びかけており(1節)、後半には、「地において、主を賛美せよ」という招きがなされています(7節)。

 

 天における賛美には、御使いや主の万軍(2節)、日や月、星(3節)、天の天、天の上にある水(4節)が動員されます。

 

 一方、地において賛美するのは、海に住む竜、深淵(7節)、火、雹、雪、霧、嵐(8節)、山々、丘、実を結ぶ木、杉林(9節)、野の獣、家畜、地を這うもの、鳥(10節)、地上の王、諸国の民、君主、地上の支配者(11節)、若者、おとめ、老人、幼子(12節)です。

 

 前半は、呼びかけた相手にそれぞれ、「主を賛美せよ」と語りかけます。それを受けて後半は、最初に「地において、主を賛美せよ」と命じた後、賛美を命じる対象者を次々と呼び出します。

 

 かくて詩人は、天と地と海のあらゆるものに賛美を呼びかけています。それは、5節にあるとおり、すべてのものが全能の主なる神によって創造されたからです。創世記の記事によれば、神は、「光あれ」という御言葉によって、光を創造されました(創世記1章3節)。

 

 詩人は、そのことを思いながら、すべてのものは主を賛美するために、神によって呼び出された、存在せしめられたものであると言おうとしているようです。被造物は、産み出されたときがあるように、取り去られるときが来ます。しかし、主を賛美するようにという目的、使命、定めは世々限りなく、変わらないのです(6節)。

 

 6節の「越ええない掟を与えられた」は、岩波訳のように「掟を与えて、それが過ぎ去らないようにした」とも訳すことが出来、いずれにせよ、神の与えられた掟、分、律法は不変だということを示しています。 

 

 日や月、星、日や雹、雪や霧、山や丘は、どのように主を賛美するのでしょうか。8節に、「御言葉を成し遂げる嵐よ」とあります。嵐が御言葉を成し遂げるということは、神の御言葉によって、嵐が起こされるということでしょう。つまり、神によって創造されたすべてのものが、神の御旨のままに登場し、動き、働くとき、それによって主がほめ讃えられ、御名が崇められるということです。

 

 19編2~5節でも、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」と詠われていました。神によって創造された天の万象が、神の創造の不思議を無言ながら雄弁に物語り、それを見る者、聞く者は、主をほめ讃えざるを得ない思いにされるのです。

 

 13節で、「主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている」と語り、次いで冒頭の言葉(14節)のとおり、「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ」と詠います。

 

 ここで、13節の「天地に満ちている」は、原文では、「地と天の上にある」という言葉です。「天と地」という表現は、何度も出て来ますが、「地と天」と順序が逆になっているのは、創世記2章4節とこの箇所だけです。地の上に天があり、その上に主の威光が満ちていると考えれば、この順序に意味があると言えるでしょう。

 

 イスラエルは、神に背いてその怒りを買い、バビロンによって滅ぼされましたが、主の慈しみにより、もう一度、神の民として神によって選ばれ、主の御名をほめ讃えるために、主の御傍近くに置かれたのです。「角を高く上げる」と言われていますが、「角」が力や権威の象徴であることから、力や権威が与えられること、賞賛や栄誉に与ることと考えられます。

 

 神の慈しみによってイスラエルに力と権威、賞賛や栄誉が与えられるということは、賛美こそ、イスラエルに与えられた力であり、権威です。主を賛美するとき、主の栄誉と賞賛に与ることが出来るといってよいでしょう。

 

 イスラエルの角を高く上げられる神は、主イエスの十字架の贖いによって私たちを罪から救い、永遠の命を授け、神の子としてくださる愛と恵みの神です。高らかに主の御名をほめ歌い、その恵みを証ししましょう。

 

 主よ、はかり知ことの出来ない豊かな慈しみのゆえに感謝し、御名を褒め称えます。私たちが救いに与ったのは、ただただ恵みでした。あなたはその威光を天地に満たしておられます。すべての者がそれを認め、賛美の招きに答えて御前に跪き、イエスこそ主であると告白して、栄光を主に帰すことが出来ますように。 アーメン

 

 

「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」 詩編149編1節

 

 149編は、「ハレルヤ詩編」(146~150編)の4番目の詩で、異邦の民に対する勝利を喜ぶ賛美の歌です。

 

 まず、イスラエルの民を賛美へ招きます(1~3節)。冒頭の言葉(1節)に、「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ」とあります。「主の慈しみに生きる人」は、「慈しみ」(ヘセド)の形容詞で、「敬虔な、忠実な」(ハーシードの複数形)という言葉です。それが名詞的に用いられて、口語訳、新改訳のように「聖徒」と訳されることもあります(岩波訳は「忠実な者たち」)。

 

 新共同訳は、敬虔な者、聖なる者たちとは、主の慈しみに生きる者と解しました。それは、主の慈しみなしには生きられない、主に依り頼んで生きる人々ということであり、それゆえに、主なる神の御前に謙って歩む者たちということでしょう。

 

 それは、主イエスが山上の説教で語られた、「心の貧しい人々」のことといってもよいのではないでしょうか。岩波訳はそれを「乞食の心を持つ者たち」と訳しています。直訳すると、「霊において貧しい人々」という言葉で、依って立つべきものを一切持たない人々のことを言います。

 

 主は、その貧しい人々に天の御国を賜るという祝福をお与えになります。だから4節に、「主は御自分の民を喜び、貧しい人を救いの輝きで装われる」と言われているわけです。

 

 2節に、「シオンの子らはその王によって喜び躍れ」と言われていますが、ここで「王」というのは、前の行の「イスラエルはその創り主によって喜び祝い」という言葉から、かつてイスラエルに君臨したダビデ家の王たちではなく、天地を創り、イスラエルを統べ治められる万軍の主なる神を指しています。

 

 1節の「主の慈しみに生きる人」を、2節で「イスラエル」、「シオンの子ら」と言い換え、主なる神が造り主として、また王として、御自分の民に慈しみをお与えになるがゆえに、4節の言葉でいえば、「貧しい人を救いの輝きで装われる」ので、喜び祝い、喜び躍ることが出来るというのです。

 

 「主の慈しみに生きる人」に与えられる装いについて6節に、「口には神をあがめる歌があり、手には両刃の剣を持つ」と語られます。「両刃の剣」は、「国々に報復し、諸国の民を懲らしめ」(7節)、「王たちを鎖につなぎ、君侯に鉄の枷をはめ」(8節)るために与えられるのですが、9節では、「定められた裁きをする」と言われていますので、これは、神の裁きの言葉ということです。

 

 両刃の剣と言えば、ヘブライ書4章12節でも、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と言われております。

 

 勿論それは、神の裁きの言葉をもって、誰彼となく切りつけて報復してよいということではありません。両刃ということは、刀の刃が相手に向かうと同時に、自分にも向けられているということです。人を裁くその裁きで自分も裁かれ、人を祝福するとき、自分も祝福に与ることが出来ます。

 

 エフェソ書6章10節以下に、悪魔の策略に対抗して立つことが出来るよう、神の武具を身につけよと命じられています。その17節に、「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」という言葉があります。この剣は、敵を成敗する「正義の刃」などではありません。同14節に、「正義を胸当てとして着け」と言われています。つまり、正義は私たちの命を守る胸当てであって、剣ではないのです。

 

 同19節に、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように」と言い、さらに同20節で、「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に語れるように」と言っています。すなわち、私たちが身につける霊の剣、神の言葉とは、救いの恵みを与える福音の言葉、人を生かす命の言葉ということになります。

 

 実に主イエスは、私たちがまだ罪人であったとき、不信心な私たちのために、死なれました。むしろ神の敵であったのに、私たちに愛を示し、救ってくださったのです(ローマ書5章6節以下)。神によって裁かれるべき私たちが、その贖いによって罪赦され、救いの衣を着せられ、神の子とされました。

 

 それゆえ、「主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み、伏していても喜びの声を上げる」(5節)のです。伏しているのが病いの床であっても、悲しみの床であっても、主イエスはそこから立ち上がらせ、喜びをお与えくださるのです。

 

 口に主を崇める歌を、手には福音の言葉を持ち、主の愛と慈しみを証するため、聖霊に満たされましょう。日々主を求めて御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。

 

 主よ、私たちはキリスト・イエスにあって、新しく造られたものです。古い自分に死に、神の子として生きる道を歩ませて頂いています。主の御言葉に従って歩むことを通し、聖霊に満たされ、主から授けられた新しい歌で賛美することを通して、力強く主を証しさせてください。すべてを益に変えてくださる主を信じ、御名を崇めます。 アーメン!

 

 

「息ある者はこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ」 詩編150編6節

 

 150編は、最初と最後に「ハレルヤ」とある「ハレルヤ詩編」(146~150編)の最後のものであり、150編の詩編を締め括るにふさわしく、壮大なスケールの賛美です。

 

 最初の「ハレルヤ」に続き、各行の文頭に合計10回、「神を賛美せよ」(最初はハレルー・エル[神]、後はハレルーフー[彼])と記されています。即ち、一息ごとに「賛美せよ」と、賛美に招いているのです。「ハレルー」は、「ハーラル(賛美する)」のピエル・命令形です。

 

 冒頭の言葉(6節)は語順が入れ替わり、最後の「ハレルヤ」の直前に「主を賛美せよ」(テハレール・ヤー)が置かれています。「テハレール」は「ハーラル」のピエル・未完了形で、命令から指示に変化しています。  

 

 冒頭の「ハレルヤ」に続いて、「聖所で、神を賛美せよ。大空の砦で神(彼)を賛美せよ」(1節)と、まず賛美する場所を示します。「大空の砦」とは、神のいます天上の世界を示しています。「聖所」は、神を礼拝する場所です。礼拝において私たちが賛美すべき神は、天におられるということです。

 

 2節には、「力強い御業のゆえに、神を賛美せよ。大きな御力のゆえに、神を賛美せよ」とあり、神を賛美すべき理由が示されます。「力強い御業」、「大きな御力」は、天地万物を創造されたこと、またイスラエルをバビロンから救い解放したことなどを指すと考えられます。

 

 3節以下では、どのように賛美をするのか、その道具と方法が示されます。「角笛」(3節)は祭司が吹き鳴らすものです(ヨシュア記6章4節など)。「琴と竪琴」(3節)、「シンバル」(5節)は、レビ人の中の詠唱者たちが賛美に用います(歴代誌上15章16節など)。

 

 「太鼓」(4節)は、預言者ミリアムが葦の海の奇跡で神を賛美するときに用いた小太鼓(出エジプト記15章20節)、エフタを出迎えた娘が踊りながら打ち鳴らした鼓(士師記11章34節)、ダビデをたたえる女たちが打ち鳴らした太鼓(サムエル記上18章6節)などの記事から、タンバリンのようなものであろうと想像します。

 

 その他に、「弦」や「笛」も用いられます(5節)。ここで、「弦」(メーン)は、45編9節とここだけにある言葉で、訳語は70人訳を参考にしています。3節の「琴」(ネーベル)や「竪琴」(キンノール)とはまた違う弦楽器です。つまり、あらゆる楽器を用い、さらに踊りも交えて(5節)、力の限り主をたたえるのです。

 

 そして最後の6節で、「息あるものはこぞって、主を賛美せよ」と言い、だれが主を賛美すべきなのか、誰を賛美に招いているのかを示します。「息あるもの」とは、土で形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となった、人間のことです(創世記2章7節)。人はすべて、神の深い愛と計画に基づいて創造され、生かされているのです。

 

 ここまで見て、この詩には、「いつ」神を賛美をすべきなのか、どこにも示されていないことに気づきます。これはむしろ、何をしていていも、いついかなる状況でも、絶えず賛美すべきなのだということを、無言で語っているのでしょう。「賛美せよ」と命じられているということは、神が私たちが賛美するのを待ち望んでおられるのです。

 

 絶えず賛美せよと言われても、苦しみのとき、悲しみのときに賛美するのはなかなか困難です。しかしながら、神は私たちの苦しみ、嘆き、悲しみの涙を、喜びと感謝の歌、主への賛美に変えてくださるお方です(30編5節、126編5,6節など)。「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト記15章2節)と、私たちにも歌わせてくださいます。

 

 神は私たちを愛し、私たちを神の子として迎えるために、独り子を世に遣わされ、十字架に贖いの供え物とされました。それは父なる神にとって、どんなに悲しく辛いことだったことでしょうか。神は悲しみを知るお方として、私たちを慰め、救ってくださるのです。神のなさった「力強い御業」、表された「大きな御力」とは、まさにそのことでしょう。

 

 キリストの贖いによって救われた私たちが、どうして「賛美する気分になれない」などと言えるでしょうか。確かに、賛美は気分でするものではなく、私たちを愛してやまない主の偉大な御業に対し、感謝と喜びをもってささげるものです。私たちが賛美をささげるとき、神はそこを聖所とし、そして大空の砦なる天の御座の前に私たちを引き上げてくださいます。

 

 瞬間瞬間、主なる神をたたえる思いで、委ねられた務めに励み、主と共にある喜びと感謝をもって過ごし、力いっぱい「ハレルヤ」と、主をほめ讃えましょう。

 

 主よ、私たちを愛し、私たちに絶えず目を留め、守り導いていてくださることを、心から感謝致します。私たちもあなたの御言葉を心に留め、御旨に従って歩みます。聖霊に満たされ、詩と賛歌と霊的な歌をもって語り合い、あなたに心からほめ歌をうたいます。上からの力に与り、主の恵みを証します。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設