箴言

 

 

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」 箴言1章7節

 

 今日から箴言を読み始めます。箴言の「箴」は、ハリという文字です。現在、ハリは「鍼」と書きます。これは鍼灸のハリという字です。昔、中国では竹のハリで治療していたから「箴」で、現在は金属のハリを使うようになったので「鍼」という字になったそうです。つまり、「箴言」とは、知恵の言葉というハリで、人生のツボをつくという意味なのです。

 

 箴言の著者は、「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモン」とされています(1節)。ただ、25章1節に、「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」とあり、25章以下の部分は、もとはソロモンかも知れませんが、ヒゼキヤの世に筆写されたものと、後代の編者が記しているわけで、全体を編集したのは、捕囚後のことであろうと考えられています。

 

 著者とされるソロモンについて、列王記上5章9,10節に「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった」と記され、さらに「彼の語った格言は三千、歌は千五百種に達した」(同12節)とあり、そして「あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた」と言われています(同14節)。

 

 その編者が箴言を編集した目的を、2~6節に記しています。短くまとめれば、知恵を得て賢くなるためということになるでしょうか。ソロモンがそれを集めたのであれば、それは、ダビデ王朝による支配が、それまでのものとは違う新しい形態を求めたということなのかも知れません。

 

 「知恵」(ホフマー)という言葉は、旧約聖書に161回出て来ますが、うち42回が箴言、ソロモンの知恵ということで列王記に17回出て来ます。

 

 「知恵」には、「技量」という意味もあります。出エジプト記に8回出て来ますが、それは、神の幕屋を建造し、幕屋で用いる祭具や祭司の衣服などを整えるために必要な知恵を授けると言われており(同31章3,6節など)、そこでは、立派な仕事をするために必要な技術的な知識や腕前を指しています。

 

 そうすると、箴言というのは、人が人生を生きていく上で必要な知識や技術を授けるため、その格言を集めたものということになりますね。

 

 箴言の中で最も良く知られているのは、冒頭の言葉(7節)にある「主を畏れることは知恵の初め」という言葉でしょう。「主を畏れる」という言葉が箴言に14回記されており、とても重要なテーマであることが分かります。

 

 知恵との関連では、9章10節にも「主を畏れることは知恵の初め」とあり、15章33節でも、「主を畏れることは諭しと知恵」と言われています。

 

 「知恵の初め」とは、入り口、入門というよりも、土台、基礎という意味です。主なる神を畏れるということが、知恵全体を支えている、知恵を探っていくとその一番深い重要なところに神への畏れというものがあるということです。

 

 そして、聖書が教えている神への畏れとは、神を怖がることではありません。「障らぬ神にたたりなし」ではないのです。神の聖さを認識することで生じる崇敬と畏怖の念、そして、畏敬の念から生じる神への従順や忠誠ということです。

 

 十戒を授けられたイスラエルの民に、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4,5節)と命じた後、「あなたの神、主を恐れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(同13,14節)と言われるのはそのことです。

 

 新約に、「知恵」(ソフィア)という言葉が51回用いられています。うち28回はパウロ書簡で、中でも第一コリント書に17回用いられています。知識を誇りとしていた人々との論争が、その背景にあります。

 

 その中でパウロは、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(第一コリント書1章23,24節)と言います。

 

 十字架につけられたキリストは、愚かであり、躓きだといわれるけれども(同1章18節)、それこそ、神の知恵だというのです。コロサイ書2章3節に「知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠れています」というのも、それを示しています(イザヤ書11章2節、ローマ書11章33節参照)。

 

 また、エフェソ書5章21節に「キリストに対する恐れをもって、たがいに仕えあいなさい」と言われます。箴言に、神の知恵なるキリストを見出し、その恵みを証ししつつ主と共に歩みたいと思います。

 

 主よ、あなたを畏れることを教えてください。私たちをキリストを畏れ、主に仕える真の礼拝者としてください。あなたは私たちの創り主で、私たちのことをすべてご存知です。あなたの御心に従って歩むことが、私たちの喜び、私たちの楽しみとなりますように。 アーメン

 

 

「あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」 箴言2章5節

 

 2章は、知恵を求める祝福が語られています。

 

 1章7節に続き、冒頭の言葉(5節)にも、「主を畏れること」が語られています。「主を畏れることを悟り、神を知ることに到達する」ことが出来るには、「わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら」(1,2節)、そして、「分別に呼びかけ、英知に向かって声を上げるなら」(3節)と、その条件が挙げられています。

 

 父がわが子に語るように、著者がそれを学ぼうとする者たちに、知恵、英知、分別を尋ね、探し求めるようにと説いているわけで、それらを追い求めると、主を畏れること、神を知ることに到達するというのです。

 

 そのような知恵や英知、分別をどこに探すのかといえば、6節に、「知恵を授けるのは主、主の口は知識と英知を与える」と言われておりますから、神の言葉にそれを求めるのです。即ち、神の言葉を聞くことにより、主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するのです。

 

 ただ、「銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを探すなら」(4節)というのですから、その知恵は、机について学ぶものではなく、それを手に入れるために、苦労しなければならないのでしょう。

 

 主イエスが、「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」というたとえ話をしておられます(マタイ福音書13章44節)。見つけたら持っているものをすべて売り払ってでも手に入れたい宝、それが天の国です。

 

 天の国は、神がおられるところということで、神にお会いすること、神と交わることを、天の国と言い表しているといってよいでしょう。神とお会いし、その交わりに与ることは、何ものにも変えられない喜びだということをぜひ知って欲しいと、主イエスが語っておられるわけです。

 

 しかしその宝は、畑に隠されているというのです。宝がなぜ畑に隠されているのでしょう。私たちが真剣に神を畏れ、神を知りたいと願い、主に知恵や分別、英知をを尋ね求めるかどうか、御言葉を聞き、その教えに従いたいかどうかを、神が私たちに尋ねておられるということなのかも知れません。

 

 私の好きな話に、ある父親が仕事嫌いで怠け者の3人の息子に家宝を遺すという話があります。イソップ童話だったでしょうか。

 

 父親は、息子たちを呼び、「宝を畑に隠しておいた。見つけた者にやる」と言います。3人は我先に畑に行き、先を争って宝を探し始めますが、なかなか見つかりません。ばらばらに探していても埒が明かないと見た3人は、競い合うことをやめ、協力して探すことにします。一列に並び、端から順に深く掘って探しましたが、結局、宝は出て来ませんでした。出たのは、汗とため息ばかり。

 

 これは、「親父、騙しやがったな」という話なのでしょうか。そうではありません。この話の結末は、深く耕した畑は、どんな野菜でも良く育ち、豊かな実りを与えてくれる。そのために3人が協力して根気よく働くことこそ、家宝であるというのです。

 

 ところで、仕事嫌いの3人は、畑が宝の宝庫であることに気づいたでしょうか。協力すれば、どんな困難も乗り越えられるということを悟ったでしょうか。父の教え、諭しにきちんと耳を傾けていなければ、何も出て来なかった畑を、それこそ二束三文に売って、それで放蕩してしまったかもしれません。そして、その畑を買った人が、本当に安い買い物をしたと大喜びしたことでしょう。

 

 マタイ7章24節の「岩の上に自分の家を建てた賢い人」という表現を、ルカは、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人」(ルカ6章48節)と記して、土台となる岩は地面深くに隠れているとしています。地面を深く掘って、隠れている岩を見出す賢さ、知恵が必要だということです。 

 

 パウロは、「知恵と知識との宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ書2章3節)と言っています。知恵と知識を得るために、特別な学問をする必要はないのです。

 

 パウロは続けて、「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」と言います(同6節)。つまり、主イエスを信じ、主イエスにあって、主イエスと共に歩むとき、その交わりを通して、真の知恵、知識の宝を、キリストの内に見出すのです。

 

 聖霊の導きを祈りつつ御言葉に静かに耳を傾け、御旨を尋ね求めること、示された御言葉を昼も夜も口ずさみ、主の御前に信仰を言い表すことによって、その知恵と知識との宝が開かれてくることでしょう。そのようにして、主を畏れることを悟り、神を知るという恵みに与らせていただきましょう。

 

 主よ、私のようなものさえ、父と子と聖霊の交わりの内に迎えてくださり、御言葉の恵みに与らせてくださって、心から感謝致します。明日から始まる新しい一年、あなたの御言葉に耳を傾けることを喜びとし、その御旨に従って歩ませていただく願います。霊の耳、目を開かせてください。聖霊の満たしと導きが豊かにありように。 アーメン

 

 

「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。」 箴言3章3,4節

 

 1節に、「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ」と言われています。ここで、「教え」とは、トーラーという言葉で、通常「律法」と訳されるのですが、もともと、「投げる、打つ、矢を放つ」という言葉です。そこから、「方向を示す、指示、指導」という言葉になりました。即ちトーラーとは、私たちの進むべき道をいかに歩むべきかを示す大切な「教え」なのです。

 

 また、「戒め」はミツバー、「命令」という言葉です。私たちに命令を与えるお方は、慈しみに富む恵み豊かなお方です。

 

 出エジプト記20章6節に、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」とあり、神の戒めを守ることが、神を愛することと並置されています。命令に絶対服従するというより、神を愛し、その御心を行いたいと願うことでしょう。そして、そのように神を愛し、その命令に従う者には、その人だけでなく、幾千代に及ぶ慈しみが与えられるのです。

 

 2節は、教えを忘れず、戒めを心に納めている者に与えられる祝福を示しています。「命の年月、生涯の日々は増す」とは、つまり長寿という祝福が与えられるということでしょう。

 

 イスラエルの父祖ヤコブがエジプトのファラオに、「わたしの旅路の年月は130年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」と語っています(創世記47章9節)。

 

 ヤコブの父イサクは180年、祖父アブラハムは175年の生涯でした。130年ではまだまだ短く、これでは幸いとは言えないというのです。長寿が神の祝福であるという信仰が、この背景にあります。

 

 さらに、「平和が与えられる」と言います。「平和」とはシャロームという言葉で、完全、健全、健康、幸福、平安という意味があり、その意味では、「救い」と言い替えてもよい言葉です。

 

 教え、戒めを守る者に長寿と救いという祝福を与えるというのですが、その教え、戒めの内容が3節以下に記されています。その中で冒頭の、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の板に書き記すがよい」(3節)という言葉に目が留まりました。慈しみとまことが離れないようにする、それがこの教えの中心です。

 

 「慈しみ」はヘセドという言葉、「まこと」はエメトという言葉です。この二つは旧約聖書中において32回、「慈しみとまこと」と、一括りにして語られています。それは、神と人、人と人との間に結ばれる関係にとって必須条件だということです。

 

 出エジプト記34章6,7節に、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」という神の自己紹介がありますが、そこに「慈しみとまことに満ち」とあり、これらが神の本質的な属性、つまり「不変の愛」であることを示しています。

 

 であれば、「慈しみとまことがあなたを離れないように」とは、神の愛の内に留まりなさいと言われていることになります(第一ヨハネ書4章16節参照)。「それらを首に結び」とは、忘れないように、いつも思い出すようにということでしょう。

 

 それを「心の板に書き記すがよい」とは、肝に銘じなさいということですが、これは新しい契約(エレミヤ書31章33節)との関連で、主イエスを信じる者の内に聖霊によって主が住まわれるという意味になるでしょう(ヨハネ福音書14章23節参照)。主こそ愛なるお方であり(第一ヨハネ書4章8節以下)、聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれてくるからです(ローマ書5章5節)。

 

 神は、たとい私たちが不真実であっても、絶えずまことを尽くして慈しみ、愛してくださいます(ローマ書3章4節参照)。だからといって、私たちが不真実であってよいわけはありません。神の愛の内に留まるとは、私たちを愛してくださる神を全身全霊をもって愛することであり(申命記6章5節)、自分のように隣人を愛することだからです(レビ記19章18節)。

 

 そのとき、神は、御自分を愛する者のために、万事が益になるように共に働いてくださるのです(ローマ書8章28節)。

 

 真実の愛をもって恵みをお与えくださる主を信頼し、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。 

 

 主よ、罪の内に生きていた私たちに神の救いを知らせ、その恵みに与ることが出来るように、道を開いてくださいました。そして、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と約束してくださっています。主の慈しみのもと、日々御名を崇め、平安と喜びをもってあなたの御言葉に聴き従うことが出来ますように。聖霊に満たされ、その力を受け、主の愛と恵みを証しする者とならせてください。 アーメン

 

 

「知恵の初めとして、知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても、分別を獲得せよ。」 箴言4章7節

 

 4章は、1~9節(第一部)と10~22節(第二部)の二部構成になっています。第一部には、「知恵を獲得せよ」との勧めが記されています。また、第二部では、二つの道、すなわち「知恵の道」と「神に逆らう者の道」が提示され、知恵の道を歩むよう勧めています。

 

 著者はソロモンということですから(1章1節)、4節で、「父はわたしに教えて言った」というのは、父ダビデがその子ソロモンに教えて、「分別を獲得せよ。知恵を捨てるな、彼女はあなたを見守ってくれる」(5,6節)と語ったということになります。

 

 ダビデは、死期が近づいたとき、王子ソロモンに、「あなたは勇ましく雄雄しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる」(列王記上2章2,3節)と、モーセがヨシュアに告げたように(申命記31章5節以下)告げてします。

 

 さらに、「また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう」(列王記上2章4節)という勧めを遺しています。

 

 父ダビデの死後、王座に着いたソロモンは(同2章12節)、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた主なる神に(同3章5節)、民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、聞き分ける心を与えて下さいと求め(同3章9節)、誰にも劣ることのない知恵を得、あらゆる知識に精通する賢明な頭脳を授けられました(同3章12節、5章9節以下)。

 

 その知恵は、周囲の国々に知れ渡り、あらゆる国から、ソロモンの知恵に耳を傾けるため、民が送られて来るようになりました(同5章11,14節)。シェバの女王もそのひとりでした(同10章1節以下)。そして、女王はソロモンの知恵に驚き、知恵あるソロモンを王とした主なる神をたたえました。知恵をもって、「公正と正義を行わせられるから」というのがその理由でした。

 

 ただ、知識を持っていることと、それを生かすことは違います。残念なことに、ソロモンは、父ダビデの戒めを守って生きることが出来ませんでした。列王記上11章に、「ソロモンの背信とその結果」が記されています。知恵を持っていさえすればそれでよいということではないのです。

 

 1章7節に「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とありましたが、冒頭の言葉(7節)でも、「知恵の初めとして、知恵を獲得せよ」と記しています。獲得すべき知恵とは、主を畏れるということ、主を主として崇め、その御言葉に聴き従って初めて、その知恵が生きるということです。

 

 「これまでに得たものすべてに代えても、分別を獲得せよ」とは、全財産で分別を買い取れという言葉です。知恵、分別は、それほどに値高いものであるということで、それを徒や疎かにしてはならないのです。だからこそ、主を侮り、御言葉に従わない者は、「知恵の初め」を軽んじているので、無知な者と言われるのです。

 

 ソロモンはそのように記しておきながら、自ら無知な者となってしまいました。しかし、知恵に満ちていたソロモンがそうであるなら、誰が、自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くして主の道を歩むことが出来るのでしょうか。

 

 これは、自分の知恵や力でそれを成し遂げることが出来る者はいないということでしょう。「だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩編14編3節、ローマ書3章10~12節参照)とあるとおりです。

 

 ただひとり、神の独り子なるキリスト・イエスだけが、自分を無にして父の御心のままに歩み、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられました(フィリピ書2章6~8節)。

 

 同様に、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源とな」られたと、ヘブライ書5章8,9節に記されています。

 

 ゲッセマネの園において、十字架の苦い杯を飲まずにすむよう、「この杯をわたしから取りのけてください」と願われましたが(マルコ福音書14章36節)、「しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」と、加えて祈っておられます。

 

 徹底的に謙られたキリストを、神は死の中に打ち捨てては置かれず、三日目に甦らせ、天に高く上げて、あらゆる名にまさる名、即ち、主として神の右に座す、御国の王座をお与えになりました(フィリピ書2章9節、ヘブライ書7章26節以下、8章1節など参照)。

 

 「わたしの言葉をお前の心に保ち、わたしの戒めを守って、命を得よ」という、ダビデがその子ソロモンに与えた戒めが、ダビデの子孫として生まれた神の御子イエスによって、ここにかなえられたわけです。

 

 今、主イエスを信じる信仰に導かれた私たちの心の王座に主イエスがお着きになり、私たちの人生の主となっていてくださいます。自分の知恵や力で歩むのではなく、日々主の御言葉を聴き、主の導きに従って歩ませて頂きましょう。そのとき、私たちには、喜びと平安が満ち溢れていることでしょう。主の御言葉の内に命があり、私たちを守るからです。

 

 主よ、御名を崇め、賛美します。あなたこそ、私たちの神、主です。瞬間瞬間御言葉に耳を傾け、謙ってその導きに従うことが出来ますように。御旨を行う者となれるよう、弱い私たちを助け、聖霊に満たしてください。新しい年、主の御業に励み、その栄光を拝させてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。」 箴言5章15節

 

 5章は、「よその女」に従わないよう警告するもので、2章16~19節にも同じ主題の教えが語られていました。

 

 冒頭の言葉(15節)は、夫婦の関係、交わりを豊かにせよ、という教えです。

 

 前後の文脈で、「よその女」(3、20節)の誘惑に遭わないように、「あなたの道を彼女から遠ざけよ」(8節)という表現や、「(自分の井戸の)水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな」(17節)という表現から、「あなた自身の井戸」とは自分の伴侶のことを指しているようです。

 

 伴侶のことを「井戸」や「泉」にたとえているということは、水事情の厳しいパレスティナにあって、夫婦関係がいかに重要なものであるかということを示しているといえます。

 

 「あなた自身の井戸」、「あなた自身の泉」と繰り返すことで、遊女との売春など、正当な夫婦関係ではない異性との姦淫を戒めているのです。正統な夫婦関係を疎かにして、不倫の関係にうつつを抜かしているようであれば、自分の伴侶も、「その源は溢れ出て、広場に幾筋もの流れができる」(16節)、つまり、自分の家に留まっていないで、他人との情事にふけるようになるだろうというのです。

 

 その結果、そのような不倫の関係から得られるものなど何もなく、むしろ大切な物を皆失ってしまって(9節以下)、「どうして、わたしの心は諭しを憎み、懲らしめをないがしろにしたのだろうか」と後悔することになるというわけです(12節以下)。

 

 箴言の著者と言われるソロモン(1章1節)には、700人の妻と300人の側室がいました。それは、徳川家の大奥のような、近隣諸国との関係を強化する政治的意味合いや、多くの子をなして王朝の基盤を強化するという目的があったことでしょう。

 

 けれども、列王記の記者は、ソロモンが神に禁じられていた近隣諸国の女性を娶ってとりこになり、妻たちは王の心を迷わせて他の神々に向かわせたと断じています(列王記上11章1節以下、3,4節)。それは実に、主を畏れる「知恵」に耳を傾けることをやめ、「よその女」という言葉で言い表されている、神に背かせるものに惑わされ、惹かれていった愚かさでした。

 

 そのため、イスラエルは神の祝福を失って、ソロモンの死後、国は南北に分裂してしまいます。その後もイスラエルは神に従う道を歩まず、北イスラエル王国は紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国も紀元前587年にバビロンに滅ぼされるという結果を招いてしまいました。まさに、後悔先に立たずというところです。

 

 エレミヤ書2章13節に、まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水を溜めることのできない、こわれた水溜めを」と言われています。これは、まことの神を信じる信仰を捨てて、他の神々に頼ったということです。しかしながら、それらの神々は、イスラエルの信頼に応えることが出来るものではなかったのです。

 

 しかるに主なるまことの神は、亡国の悲しみ、捕囚の苦しみに呻いていたイスラエルを顧み、国を再建する導きをお与えになりました。そして、御子キリストを遣わして新しい契約を結ばれました(ヘブライ書8章6,8節以下、9章15節以下)。ユダヤ人がキリストの前に頑なになって福音を拒んだ結果、キリストによる救いが異邦人に先に広げられました(ローマ書11章11節以下、30節)。

 

 主イエスがお与えくださる水は、それを飲んだ人の内で泉となり、永遠の命にいたる水が湧き出る、と言われます(ヨハネ福音書4章14節)。これは、主イエスがくださる命のことです。そしてそれは、主との交わりがいかに恵み豊かなものかを示しています(同10章10節)。

 

 エフェソ書5章21節以下に、夫婦に対する教えが記されています。そこでは、夫婦の関係をキリストと教会の関係になぞらえて教えています。そこに、「言葉を伴う水の洗いによって」という言葉があります(同26節)。原文の直訳は、「水の洗いによって、(宣教の)言葉において」です。つまり、「水の洗い」を「(宣教の)言葉」と言い換えた形になっているわけです。

 

 かくて、主イエスとその御言葉が、私たちに与えられた生ける水の泉、水の源であることを示しています。信仰の恵みに豊かに与り、腹から生ける水が川となって流れ出るまでに満ち溢れさせて頂きましょう。その恵みをもって、夫婦、親子が互いに愛し、仕え合い、麗しい家庭を築かせていただきましょう。

 

 主よ、あなたとの交わりがいつもみずみずしく潤い、豊かでありますように。そして、私たちの夫婦関係、家族の交わりも、平安と喜びに満ちたものとなりますように。それが周りにもよい影響を及ぼし、祝福が広げられますように。そのために、主を畏れて日々御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩む者としてください。 アーメン

 

 

「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。」 箴言6章20,21節

 

 6章は、「父の諭し(七)」(1~5節)、「格言集(一)」(6~19節)、「父の諭し(八)」(20~35節)という3部構成になっていると新共同訳は解して、そのように小見出しをつけています。

 

 第一部「父の諭し(七)」では、保証人となって苦境に立たされたときの勧めが語られます。箴言の著編者は、保証人となることについて、繰り返し読者に警告しています(11章15節、17章18節、22章26,27節、27章13節)。

 

 第二部「格言集(一)」には、「怠け者」(6節)、ならず者(12節:ベリアル=「無価値な者」)に対する警告と、そして、主が憎まれる7つの事柄を数える格言(16~19節)が記されています。

 

 第三部「父の諭し(八)」には、姦通に対する警告が告げられています。父の戒め、母の教えに従うことで、悪い異邦の女の誘惑から守られ、命の道を灯火をもって歩むことが出来ると教えます。

 

 「父の諭し(八)」ということは、わが子を諭す父の教えという設定の段落で、ここで8回目になるいうわけです。子どものことを思って繰り返し、冒頭の言葉(20節)の通り、「わが子よ、父の教えを守れ。母の教えをおろそかにするな」と語り続けているのです。

 

 こういう高圧的な表現には、「偉そうに、父親風吹かすな」という反発する思いが湧いて来るかもしれません。そして、そういう思いもまた、子どもが成長する段階で必要なことかもしれません。

 

 しかしながら、誰がなんと言おうと思おうと、親は親、子は子です。そこに理屈はありません。親だからこそ、言わなければならないことがありますし、子がそれをどう思おうと、分かっていてもらいたいと思うことがあります。だから口うるさくなりますし、くどくもなります。

 

 「百聞は一見にしかず」という言葉があります。象がどのような姿をしているか、目の見えない人が、ある人は足、ある人は尻尾、ある人は耳、ある人は腹をさわって、象はこういうものだと百回語って聞かせるよりも、全身を一回見せる方が正確に伝えられるといった説明がなされます。

 

 確かに、一面の真理を表してはいます。見せて伝えた方が分かり易い情報というものもあるでしょう。しかし、それで分かるのは外観だけです。足の質感、耳の皮膚などは、触ってみなければ分かりませんし、鳴き声などは、聞いてみなければ分かりません。

 

 象を写真やテレビなどで一度見せて、それで象について分からせたつもりになっている人と、象のあちこちに触れた感触について、その臭いについて、百回も繰り返し語って聞かせる人の気持ちと、どちらが真に子どもの心を動かすでしょうか。答えは、明らかでしょう。

 

 全身を見たこともないくせにと馬鹿にされようが、触っただけで分かったつもりなのかと言われようが、それを何とか伝えたくて何回も何十回も語ろうとする思いにまさるものは、何もありません。

 

 親が子を思って語ることもそうでしょう。子どものことが全部分かるわけでもありませんし、これから子どもと自分の身に何が起こるのかなど、殆ど何も分かりません。しかしながら、どうしても伝えておきたいと思うことは、どんなにうるさがられても、嫌がられても、きちんと伝える、それが親です。

 

 主イエスは、祈るとき、神様を「天の父」と呼ぶように、教えてくださいました(マタイ福音書6章9節)。「父」とは、名前ではありません。関係です。私たちが神の子であり、神が私たちの父であるということです。

 

 キリストがこの世に来られたのは、私たちを神の子とするためだというのです。そして、私たちが子であることは、神が「アッバ、父よ」と呼ぶ神の御子の霊を私たちに心に送ってくださった事実から分かると言われています(ローマ書8章15,16節、ガラテヤ書4章5,6節)。

 

 聖書中に、「愛」という文字が500回以上、「慈しみ」という文字も200回以上出て来ます。愛や慈しみという言葉の数以上に、独り子キリストを私たちのもとに遣わし、十字架に贖いの供え物とされるという仕方で、神は私たちに対する思いを示されました。罪人を救うために愛する独り子を犠牲にするなど、考えられないことですが、しかし、真実です。

 

 主イエスは、全身を私たちにあずけるようにして、愛と慈しみを示されました。そして、私たちに与えられたのが、ご自身が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うようにという戒めです(ヨハネ福音書13章34,35節、15章12,17節、第一ヨハネ書3章11,23節など)。

 

 改めて、冒頭の言葉(21節)で「それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ」と言われています。神が父として、時には母のように、繰り返し語りかけてくださる愛の言葉、恵みの言葉を、心に結び、首に巻きつけるように、いつも思い浮かべ、口ずさむようにして、神の御心を心として歩む者とならせていただきたましょう。

 

 主よ、御名を崇めて賛美します。私たちには、あなたからそのように愛を注いでいただく値打ちも資格もありません。そして、そのように熱い、深い豊かな愛にこたえる術もありません。ただ、あなたが語りかけてくださる言葉に耳を傾け、御心を行わせてくださいと祈るだけです。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「知恵に『あなたはわたしの姉妹』と言い、分別に『わたしの友』と呼びかけよ。」 箴言7章4節

 

 7章は、「父の諭し」という小見出しがつけられた最後のもので、「よその女」に惑わされないよう忠告しています。このことについては、2章16~19節、5章1~23節、6章20~35節でも取り扱われていました。

 

 「よその女」はここに、「意志の弱そうな若者」(7節)を誘い、姦通する者として登場します(6節以下)。 この女性は、異教の神に仕える者のようです。14節で「和解の献げ物をする義務があったのですが、今日は満願の供え物も済ませました」と言っています。

 

 願掛けをしてそれがかなえられたとき、満願の供え物を献げます。神への献げ物と祭司の取り分が採られた後、献げた者自身も自分の取り分を受け取り、それを自宅に持ち帰ります。そして、客を招き、性的な交わりを含む宴を催すのです。

 

 女性に惑わされ、共に食事を行い、性的な交わりをした若者は、屠り場に引かれ行く雄牛のように、矢で肝臓を射貫かれる獣のように、罠にかかった鳥のように、命の危機がその行く手に待ち受けています(21~23節、26節以下)。

 

 その道に迷い込まないように、その誘惑から守られるように、「わたし(父=知恵)の言うことを守り、戒めを心に納めよ。戒めを守って命を得よ」(1,2節)というのです。

 

 戒めを守ることについて、「わたしの教えを瞳のように守れ」(2節)と言っています。「瞳」というのは、「目の中の小さい人」という言葉です。目を覗き込むと、瞳に自分が映ります。あたかも、そこに小さい人がいるかのように見えるので、そのような表現になったのでしょう。

 

 「瞳のように守る」とは、大切なものとして守るということでしょう。けれども、じっと注目しなさい、目に留めておきなさいという意味にとることも出来ると思われます。

 

 私たちは、大事なことを忘れないようにという工夫で、指に糸を巻いたり、掌にメモを書いたり、カレンダーに印をつけたりします。3節の「それを指に結び、心の中の板に書き記せ」とは、そのことです。

 

 「シェマー・イスラエル(聞け、イスラエルよ)」で知られる申命記6章4節以下でも、「(主の言葉を)子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(同6節)と言い、さらに「これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけ、あなたの家の戸口にも柱にも書き記しなさい」(8,9節)と命じています。

 

 さらに冒頭の言葉(4節)の通り、「知恵に『あなたはわたしの姉妹』と言い、分別に『わたしの友』と呼びかけよ」と言います。「姉妹」について、雅歌4章9,10節などに「わたしの妹、花嫁」という言葉があります。実の妹を花嫁にすることは、出来ません。ここでは、「妹」という言葉を「愛する者」という意味で用いていると思われます。

 

 知恵を花嫁=妻とするというのは、5章15節以下にもあった教えです。妻との真実で愛情豊かな交わりにより、あらゆる誘惑から逃れるよう教えていると読むことが出来るでしょう(5節以下参照)。

 

 また、「友」(モーダー)という言葉は、この箇所とルツ記2章1節にしか出ません。ルツ記では「親戚」と訳されています。同4章では、親戚の果たすべき責任として、家系が途絶えないよう、またその嗣業が損なわれないように保護することを教えています。そこで、分別を友とするというのは、分別によって家系と嗣業を守るようにすることと教えているということになります。

 

 私たちの心が、神の知恵たるキリストの教え(第一コリント1章24,30節)、愛と真実で満たされているならば、確かに、悪しき者の誘惑に陥ることはないでしょう。御言葉に基づく分別をもって行動すれば、私たちの家庭や生業はそれによって守られるでしょう。

 

 「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木、時が巡りくれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩編1編1~3節)と言われているとおりです。

 

 山上の説教(マタイ5~7章)で「一切誓いを立ててはならない」(同5章33節)と言われています。それは、どうせ守れないのだから、誓っても無駄だという意味ではありません。また、それを金科玉条として、従わない者を厳罰に処すということでもありません。

 

 誓いが必要なのは、約束したことをしっかりと守らせるためです。そうしなければならないほど、私たちの日常の言葉が真実でないということです。なにしろ、「かたる」といえば、話をするという意味と共に、「騙(かた)る」つまり「だます」という意味もあるほどだからです。

 

 常日頃、誰もが真実な言葉を語り、自分が口にしたとおりに行動しているならば、あらためて誓ったり、契約書を交わしたり、保証人を立てる必要はなくなります。また、言葉通りに実行出来なかったときでも、それを素直に謝罪すれば、関係を損なわずにすむでしょう。

 

 主イエスが「誓いを立ててはならない」と言われたのは、誓いを必要としないほどに、偽りを捨てて真実な言葉を語り、互いに真実に行動することを求めておられるのです。

 

 愛も真実も、私たちの内にはありません。愛と真実は、主のものです(詩編40編11,12節など)。ゆえに、主に目を留め、主の御言葉を忘れることなく絶えず口ずさみ、あるいは心に刻み、主の花嫁として主を愛し、その保護の下にいつも身を寄せるのです。そのために、主の御言葉を求め、主の御前に謙り祈るのです。

 

 愛と真実の主の御前に謙り、御言葉に絶えず耳を傾け、その教えを瞳のように守りましょう。それを指に結び、心の中の板に書き記しましょう。知恵を愛し、分別で日々の生活を守っていただきましょう。

 

 主よ、あなたは私たちの弱さ、貧しさを良くご存知です。私たちの必要を良くご存知のあなたに、ありのまま求め、訴えると、あなたはその必要を満たしてくださいます。どうか私たちに、あなたの望まれる愛と真実の人生を歩ませてください。あなたの御言葉で私たちの心と思いを満たし、お守りください。主イエスこそ、道であり、真理であり、命であられるからです。 アーメン

 

 

「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。」 箴言8章22,23節

 

 8章には、1章20節以下、3章13節以下に続いて3度目の「知恵の勧め」という小見出しがつけられています。

 

 ここでは、知恵を擬人化して、知恵自身が教師となって人々を教えるという表現をとっています。知恵が声を上げ(1~3節)、浅はかな者らに呼びかけます(4~11節)。12節から知恵による支配について語り、22節以下ではさらに、天地創造における知恵の役割が告げられます。そして最後に、知恵に聴き従うように、すべてのものを招きます(32~36節)。

 

 10,11節に「銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない」と語り、知恵こそが最高の宝であることを示しています。

 

 冒頭の言葉(22節)で「主は、その道の初めにわたしを造られた」と、最初に「知恵」が創造されていたことを記しています。それは、「いにしえの御業になお、先立って」と、天地の創造に先立つものであることを明示します。

 

 岩波訳は、「ヤハウェは、その道のはじめとして私を造った」とし、脚注に「マソラ本文のカーナーニーの解釈については論争が続いている。『私を造った』のほかに『私を得た』『私を〔子として〕もうけた』の意味にもとれる」と記しています。

 

 27節の「主が天をその位置に備え、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という言葉は、創世記1章2節の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という言葉を思い出させます。混沌とした大地、闇に覆われた深淵ということですから、そこには何の法則も秩序も働いていない、まさに混沌と闇が支配している状態です。

 

 そのような太初の混沌と闇の世界に、神は「光あれ」(同3節)と光を創造され、大空を造って深淵を上の水と下の水に分けられ(同6,7節)、下の水を一箇所に集めて乾いた陸地を造られました(同9,10節)。かくて、自然の秩序が設けられ、そこに生命が息吹きます(同11節以下、20節以下)。

 

 このような天地創造の御業が始められる前に、知恵が生み出されていたというのです。ということは、神が天地を創造するためには、知恵が必要であった。それぞれは偶然の産物ではなく、神が知恵を尽くして一つ一つのものを設計し、バランスを考えて配置されたということでしょう。

 

 地球は一日に一回自転しながら、一年かけて太陽の周りを公転します。しかも、地軸は公転面に対して23.5度傾いていて、その傾きを保ったまま公転するので、四季の移り変わりのある地域が生まれました。

 

 一方、月は27.3日をかけて地球の周りを一周公転します。その間、自転もしているのですが、地球から月の裏側を見ることは出来ません。それは、月は公転と同じ27.3日という周期で自転しているので、いつも地球に同じ面を見せることになるのです。

 

 地球も月も、動力をつけていたり、何かでぶら下げられたりしているわけでもないのに、どうして止まらないのでしょう。落っこちてしまわないのでしょう。

 

 また、地球が少しでも太陽に近づけば、暑くなり過ぎます。遠ざかれば、氷の星になってしまうでしょう。地球の現在の位置、バランスが、生物が生育するのにちょうどよい環境になっているわけです。

 

 30,31節に「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」とあります。

 

 これは、天地万物を巧みに創造された方が、主の御もとで主の心に適う者として過ごしておられたこと、そして、主から遣わされてこの世に来られ、地上の人々に神の御心を教え、共に楽しむようにされたことを物語っています。

 

 24,25節の「生み出された」(フール)という言葉は、知恵が神の子として誕生したような表現です。キリスト教会はこの箇所を、「知恵」とはこの世においでくださった主イエスのことを示していると解釈してきました。

 

 ヘブライ書1章2,3節に「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになりました」と記されているとおりです。

 

 前にも引用しましたが、第一コリント書1章24節に「神の知恵であるキリスト」という言葉があります。即ち、天地万物が創造される前に産み出されていた知恵とは、主イエスのことで、主イエスがその知恵で天と地と、そこに住むすべてのものを創造されたということを、パウロは語っているわけです。

 

 天地万物を創造し、その知恵によってすべてに秩序を与えておられる主イエスは、贖いの供え物として御自分を十字架につけられました。私たちを神の子とするためです。神の知恵たる主イエスは、私たちの罪を赦し、永遠の命を与え、神の子とし、御霊の賜物を授けてくださいます。そうして、日々、平安と喜びをもって導いてくださいます(34,35節参照)。

 

 朝ごとに神の知恵たるキリストの言葉に耳を傾け、その教えを心に刻み、命の恵みに与りましょう。聖霊に満たされ、心から主をほめ讃えましょう。その力を受けて、主の恵みを証しましょう。

 

 主よ、私たちはあなたによって創られました。あなたは私たちの主、私たちの神です。あなたの御声に耳を傾けます。あなたの計らいはいかに貴いことでしょう。どうか私たちを究め、私たちの悩みを知ってください。私たちの内に迷いの道があるか試し、私たちをとこしえの道に導いてください。全世界に、私たちのただなかに、新しい年も命の喜びと平和が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。」 箴言9章10節

 

 9章は、不遜な者と知恵ある人を対比する「格言集(二)」(7~12節:第二部)を挟んで、「知恵の勧め」(1~6節:第一部)と「愚かな女」(13~18節:第三部)を提示し、知恵と愚かさを擬人化して対照しています。

 

 第一部で知恵が家を建て、宴席を用意して、町の高い所にはしためを遣わし、「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」(1節以下、4節)と呼びかけさせます。さらに「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」(5,6節)と語らせます。

 

 一方、第三部で愚かさという女も、道行く人に「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」(13節以下、16節)と同じ言葉で呼びかけ、「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ」(17節)と言います。

 

 ここで、「町の高いところに席を構えたりして」(14節)とは、「席」(キーセイ)が「玉座」を意味する言葉ですから、愚かさが町を支配しているという皮肉が、ここに込められているのかも知れません。

 

 さて、知恵のはしためと愚かさという女、どちらの声に耳を傾けますか。この二者択一の問いに、当然、知恵のはしための声に従うと答えることでしょう。しかしながら、現実には、ホー、ホー、ホータル来い、こっちの「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンは上手い」ぞ、という誘惑に負けてしまうことが少なくありません。

 

 以前、大牟田で幼稚園の正門から中に入った玄関の傍に設置していた蛙のブロンズ像が盗まれました。子どもたちが登降園の際に目につく場所に置かれているものです。いつ誰が何の目的でそのようなことをしたのか、分かりませんでした。蛙の像が欲しかったのでしょうか。それともブロンズが欲しかったのでしょうか。

 

 いずれにせよ、それは子どもたちのことも、勿論幼稚園のことも二の次、自分のことしか考えない、自分さえよければよいという、全く身勝手きわまりない犯罪です。怒りを通り越して、本当に情けなくなってしまいました。

 

 自分の利益だけしか考えられないという悪の道に誘う誘惑の罠が、そこらじゅうに仕掛けられていて、隙あらば私たちを陥れようとしています。だからこそ、「浅はかさを捨てて、命を得るために、分別の道を進むために」(6節)、知恵の声を聞かなければなりません。招きに従って、知恵の整えた食卓に着かなければなりません。

 

 知恵の建てた家には、7本の柱が立てられているとあります(1節)。「7」は完全を表す数字ですから、完全な柱で建てられた完全な家ということになります。完全な家とは、神のおられる神殿のことではないでしょうか。そこで、獣が屠られ、酒が調合されて、食卓が整えられました(2節)。招かれた者はだれでも、その食事を楽しむことが出来ます。

 

 神殿に、獣が屠られて、食卓が整えられると言えば、それは、主の晩餐式を示しているようです。神の御子キリスト・イエスが、私たちの罪を取り除く神の小羊として、御自分を贖いの供え物とされました(ヨハネ1章29節、ローマ書3章25節)。

 

 キリストの十字架を記念して、裂かれた肉を象徴するパンと、流された血を象徴する杯をいただきます(第一コリント書11章23節以下など参照)。まさしく、キリストの命によって私たちは生かされているのです。となれば、完全な柱とは十字架で、完全な柱が立つ家とは、教会のことと言えます。

 

 そうすると、知恵なるキリストがはしためを町の高い所に遣わすというのは、私たち主に仕えるクリスチャンが、遣わされて、キリストの十字架の福音を人々に証しすること、ということになります。「浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために、神の御言葉を聴き、キリストを信じませんか」と人々に語りかけるのです。

 

 ところで、誰が私たちの語る言葉に耳を傾けてくれるでしょうか。もしも私たちが、聖霊と知恵に満ちた評判の良い人になっていれば、神の言葉はますます広まり、弟子の数は非常に増えていくでしょう(使徒言行録6章3,7節)。

 

 冒頭の言葉(10節)に「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」とあります。「聖なる方」は、原文は複数形ですが、「主を畏れること」と「聖なる方を知ること」との並行関係から、この複数形は尊厳を込めた表現で、「最も聖なる方」という意味になります。

 

 また、「知る」とは交わりを持つことです。神を聖なる方として知るということは、自分の罪を知るということでもあります。聖なる神と交わって自分の罪深さを知る、それこそ、私たちのなすべき礼拝ではないでしょうか。

 

 まず、私たち自身が主を畏れ、主の御前に謙って御言葉を聴きましょう。御言葉に従って歩みましょう。聖霊の満たしを求めましょう。そして、私たちの家族に、知人・友人に、主の愛と恵みを証ししましょう。共に信仰の恵みに与るように、御霊の導きを祈りましょう。

 

 主よ、いつも私たちが信仰に目覚めていることが出来ますように。耳を開いて、御言葉を聴かせてください。心を開いて、御心を悟らせてください。導きに従い、聖霊の力を受けて、主の福音を証しすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「諭しを守る人は命の道を歩み、懲らしめを捨てる者は踏み誤る。」 箴言10章17節

 

 10章1節から22章16節までは、「ソロモンの格言集」(1節)で、2行一対の格言がほぼ無作為に並べられています。新共同訳聖書は、1節から22章16節まで、小見出しがつけられていませんので、この格言集がテーマ別などに編集されたりはしていないということが分かります。

 

 「ソロモン」の名がありますが、それを証拠づけるものはありません。王国時代に集められ、宮廷や学校、家庭で用いられていた格言が、捕囚期後に編集されたものと考えられています。それをソロモンに帰したのは、格言を集めることにソロモンの指示があったということでしょう。

 

 この格言集は、全部で375節あります。これは、ソロモンの名前の数字の合計と一致します(シン:300、ラメド:30、メイム:40、ヘー:5)。あるいは、ソロモンの格言集ということで、375節にしたのかも知れません。

 

 内容的に10章15章までが第一部、16章以下22章16節までが第二部という二部構成になっています。第一部は、「知恵ある子=神に従う人」と「愚かな子=神に逆らう者」を対する格言が集められています。第二部は、その対比が姿を消して、主(ヤハウェ)の格言や王や宮廷についての格言が目につきます。

 

 10章には、口、言葉に関する格言が目につきます。適切な言葉を語るかどうかで、生命を育むことにも、破滅を招くことにもなります。8節に「知恵ある心は戒めを受け入れ、無知な唇は滅びに落とされる」とあります。言葉を適切に用いるためには、戒めを受け入れること、神に従うことが肝要です(11節参照)。

 

 「知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き」(1節)と語り始めて、両親が授けた知恵に聴き従う子は親の喜び、従わない愚かな子は嘆きとなることを示します。その知恵は、神を畏れることを基礎としているのですから(1章7節、9章10節)、神と神の御言葉を信じる信仰と言い換えてもよいでしょう。

 

 神を信じる信仰を土台として、知恵を授けるということは、親自身が神を信じる信仰の基礎の上にしっかりと立っていなければならないということになります。親と子の人間関係というものは、互いに選ぶことが出来ません。それは、神から恵みとして与えられたものです。

 

 親は、神から授けられた子どもを大切にし、子は、神が備えてくださった親を、尊ばなければなりません。そして、親子ともども、この関係を与えてくださった神を畏れ、御言葉に喜んで聴き従うのです。

 

 ソロモンは、この知恵、神を畏れ、その御言葉に従う信仰を、父ダビデから受け継いだでしょう(列王記上2章2節以下)。さらに、イスラエルの王として、民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、聞き分ける心、その知恵を神に求めました(同3章1節以下、9節)。

 

 神はその願いを喜ばれ、世に並ぶ者がないと言われるほどの知恵に満ちた賢明な心を彼に与えられただけでなく(同12節)、彼が求めなかった富と栄光、さらに長寿も、祝福として与えると言われました(同13,14節)。

 

 その結果、イスラエルはソロモンの知恵によって見事に統治され、豊かに繁栄します(同4,5章)。それを背景に、神殿と王宮の建築に取り掛かり(同5章15節以下、20年の歳月をかけて見事に成し遂げます(同9章10節)。それにより、ソロモンの名声はいよいよ高まり、絶頂期を迎えます(同10章)。

 

 ところが、「好事魔多し」のことわざの通り、ソロモンの名声に影が差します。それは、ソロモンが、ファラオの娘の他に、モアブ人、エドム人、ヘト人など外国人女性を愛したことです。彼には王妃が七百人、側室が三百人いました。同11章4節で「彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」と断じています。

 

 カナンの住民と関係を持ってはならないという戒め(同2節、出エジプト記34章12節以下、16節)を破り、妻たちの願うままに異教の神々の神殿、礼拝場所をエルサレムに築いたのです。

 

 ソロモンの死後、その子レハブアムが王となりましたが(列王記上11章43節)、彼は長老たちの勧めに従わず、北イスラエルの代表ネバトの子ヤロブアムに厳しい回答をしたため(同12章1節以下、14,15節)、王国が分裂してしまいます(同16節以下)。それは、ソロモンが神に背いた結果、神がイスラエルに対して計らわれたことでした(同15節)。

 

 ソロモンは、冒頭の言葉(17節)にある通り「諭しを守る人は命の道を歩み、懲らしめを捨てる者は踏み誤る」という格言を知ってはいました。そして、実際にその両方を体験することになりました。諭しを守って豊かに繁栄する道と、諭しを捨てて国を分裂させる道です。

 

 かくて、ソロモンは父の喜びでしたが、母を嘆かせる者となりました(1節)。そして、その子レハブアムもソロモンに倣い、親を嘆かせる道を進みます。神に知恵を求め、あらゆる人に勝る知恵、知識を与えられたソロモンにして、この有様です。

 

 どんなに知恵に満ち、あらゆる知識に通じていても、それを正しく生かすことが出来なければ、宝の持ち腐れです。「腐っても鯛」とは言いますが、腐った鯛は、本当は始末に困るでしょう。だから、諭しに聴き従い、懲らしめを素直に受けなければなりません。そのとき、知恵が生き、説得力も増すのです(9章9節)。

 

 神を畏れ、御言葉を日々頂きましょう。人を豊かにするのは、主の祝福だからです(22節)。

 

 主よ、あなたの御言葉は私たちの道の光、私たちの歩みを照らす灯火です。御言葉のとおり、命を得させてください。あなたの定めはとこしえに私たちの嗣業、私たちの心の喜びだからです。御言葉の光によって、無知な私たちに理解を与えてください。人間となってこの世においでくださったキリストこそ、私たちの希望の光です。私たちの心に豊かにお宿りください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。」 箴言11章2節

 

 冒頭の言葉(2節)で、「高慢」(ザードーン)については、箴言の別の箇所でも、「高慢に振舞えば争いになるばかりだ」(13章10節)、「躓きに先立つのは高慢な霊」(16章18節)などと語られています。もともと「高慢」の語源は、沸騰することを示す言葉から来ているそうで、常に自分が中心でなければおさまらない人間の心の状態を表しています。

 

 高慢、自惚れの心に支配されているときは、周りが見えなくなります。自分が他の人よりも一段上手だと考えているので、自分の業績を吹聴し、賛辞を受けることを好みますが、批判には耳を傾けません。自分よりも下だと思っている人を軽く見ているからです。つまり、高慢と他者への軽蔑が同居しているわけです。

 

 そうすると、自分よりよいものを認めることが困難になりますし、自分自身の弱さを認めようとしません。しかし、そうであるならば、その高慢は、自分の実像を正しく反映しておらず、すべての者が自分を高く評価してくれるはずだという錯覚に陥っているため、逆に、それらの人々から軽蔑されることにもなります。

 

 つまり、高慢に軽蔑が伴うのは、高慢になる者自身が他者を軽蔑するという意味であると同時に、高慢な者が他者から軽蔑されるということでもあります。22節の「豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている」というのも、女性が美しさを鼻にかけている様子が、豚が金の鼻輪をしているようで、それは知性の欠けた高慢な姿だと軽蔑する表現です。

 

 他者と比較して優越感に浸る心が高慢につながるとすれば、他者と比較して劣等感に苛まれ、自己嫌悪に陥るのは、同じ心の裏表のようなものです。自分より優れたものを持っていると思う者に対して妬みを持ち、卑屈にもなります。いずれも、自分や周りを正しく見ることが出来ない心の様の表われです。そしてそれは、自分を愛し、この世を愛しておられる神が見えていないことです。

 

 それに対して、冒頭の言葉に用いられている「謙遜」(ツァヌーア)という言葉(形容詞・複数形:「謙遜な人々」)は、この箇所の他には、動詞形(ツァーナー:「へりくだる」)で一回しか出て来ないという、きわめて希な単語です。

 

 それはミカ書6章8節で、「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と記されています。

 

 ここで、「正義を行い、慈しみを愛し」とは、一人の生活でなすものではありません。それは、隣人との関わりにおいて発揮されるものです。そして、その心は「へりくだって神と共に歩む」ことを喜びます。そのような人を、主が求めておられるというわけです。

 

 今日の箇所では、「謙遜には知恵が伴う」と言われています。「知恵」の土台は主を畏れることですし(1章7節など)、真の知恵と知識の宝を有しておられるのは主イエスです(コロサイ書2章3節)。十字架において贖いを成し遂げてくださったキリストこそ、神の知恵であると、第一コリント書1章24,30節に記されています。

 

 謙遜に歩む者のために、知恵に満ちた主イエスが共に歩んでくださるという意味に解すれば、ミカ書で言われていた、「へりくだって神と共に歩む」という言葉と同じことが語られていることになります。つまり、謙る者のところに神の知恵であられる主イエスがおいでくださり、共に歩んでくださるので、謙遜には知恵が伴うことになるわけです。

 

 インマヌエル(「神は我々と共におられる」の意)と呼ばれる主イエスは、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました(マタイ1章23節、フィリピ2章6,7節)。主イエスの謙りにより、私たちの救いの道が開かれたのです。

 

 主を畏れ、主の御前に謙る者は、自分の弱さを知り、罪深さを知って、憐れみ深い主の御名を呼び、常に救いと導きを求めることでしょう。そうして、主の御名を呼び求める者はみな救われ(ローマ書10章13節)、神のお与えになる良い物、聖霊に満たされます(マタイ福音書7章11節、ルカ福音書11章13節)。

 

 主イエスは、インマヌエルと唱えられるべきお方です。絶えず主を求め、謙って御言葉に耳を傾け、常に聖霊に満たされて、心から賛美と感謝を主にお献げし、力強く主の愛と恵みを隣人に証ししましょう。

 

 主よ、あなたは真によいお方で、私たちに良い物を与え、良い物で満たしてくださいます。真に良い物とは、聖霊、霊なる神ご自身です。いつも聖霊に満たされて、詩と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心から賛美の歌を歌わせてください。御心を行わせてください。ただ、主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。意志の弱い者は空を追う。」 箴言12章11節

 

 28章19節にも、冒頭の言葉(11節)と非常によく似た格言が記されていて、いずれも、勤勉に働くことを勧めています。ここに、「自分の土地を耕す」とありますが、畑を耕して作物を得ることは、神が初めの人アダムに授けられた仕事でした(創世記2章15節)。そこから、農耕に限らず、各自、自分に与えられた仕事に励みなさいと言われていると読むことが出来ます。

 

 マタイ福音書25章14節以下に、主イエスが語られた「タラントン」のたとえが記されています。それは、主人がひとりの僕に5タラントン、別の僕に2タラントン、もう一人の僕には1タラントンを預けて商売をさせたというものです(同15節)。

 

 1タラントンは当時のローマの貨幣で、6千デナリオンになります。1デナリオンは、当時の労働者の1日の賃金ですから、1タラントンは、およそ20年分の賃金と言ってよいほどの大金です。仮に、1デナリオンを5千円とすると、1タラントンは3千万円になります。

 

 現在、日本の企業の資本金を調べてみると、資本金3千万円以上の企業は、全体の11.1%、1億円以上の企業は、2.9%に過ぎません。つまり、1タラントンあれば、十分に商売が出来るということです。

 

 ところで、5タラントン、2タラントン、1タラントン、合計8タラントンは、およそ2億4千万円という巨額になります。それを僕たちに預けて商売させることのできるこの主人は、どれほどの資産家なのでしょう。

 

 その主人の期待に応え、きちんと結果が出せる僕たちもまた、どれほどの力の持ち主なのでしょうか。5タラントンを預けられた僕はそれを元手に10タラントン稼ぎました。2タラントンの者も同様でした。二人に預けた7タラントンが、14タラントンになって主人のもとに返ってきたのです。

 

 ところが、1タラントンの者は、商売に失敗して資本を減らすことになってはいけないと考え、地の中に隠しておきました。主人は、先の二人を忠実な僕と呼び、喜びました。しかし、最後の者には、怠け者の悪い僕と呼び、預けたものを取り上げて外に追い出してしまいました。

 

 ここで主人が期待したのは、主人の意を汲んで商売に精を出すことです。儲けを出すためには、いかによいものを安く仕入れ、それに付加価値をつけていかに高く売るかということですよね。どこによいものがあるか、お客はどのようなものを喜ぶか、日ごろから情報収集に努めなければならないでしょう。そのような工夫や努力を惜しんでいて、よい仕事は出来ません。

 

 1タラントンの者は、「失う恐れ」を理由に、何の努力も工夫もしませんでしたので、完全に主人の期待を裏切り、捨てられることになったのです。

 

 与えられた務めに喜びや誇りを感じられないというのは、悲しいでしょう。不平不満を持ちながら働くと、創意も工夫も生まれてきません。どんな仕事でも誇りを持って全力投球すれば、生き甲斐ともいうべき充足感、満足感を得ることでしょう。

 

 豊臣秀吉が百姓から太閤にまで出世することが出来たのは、時のひと、織田信長に取り立てられたからということですが、草履取りにせよ、厩番にせよ、台所の賄にせよ、与えられた仕事で主人の気に入られるように精一杯の努力と工夫を惜しまなかったからです。

 

 マタイ福音書13章44節に、天の国は畑に隠された宝のようなものというたとえがあります。宝を探そうとして、畑を掘ることはないでしょう。畑に隠された宝を見つけるのは、畑を耕す人です。

 

 その話では、畑を耕したのは、畑の持ち主ではありませんでした。つまり小作人だったわけです。その小作人は、宝を自分のものにするため、全財産をはたいて畑を買います。小作人に畑を売ってしまうということは、主人はその畑にたいした価値があるとも思っていないわけです。

 

 汗して畑を耕し、苦労して作物を育てた者だけが見出す宝があるのです。委ねられた仕事に喜びと誇りをもって誠心誠意努力する者が報われる世界、それが天の国だということも出来ます。それを見つけた人の心は喜びに溢れます。全財産を売り払っても、それを手に入れることを喜びとするというほどのものです。

 

 「はかり縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」と語った詩人のように(詩編16編6節)、神から与えられた土地、委ねられた務めがどのようなものであろうと、それを麗しい地、輝かしい嗣業と喜び、それを与えてくださった主に感謝と賛美をささげましょう。

 

 豊かな収穫を得ることが出来るように、必要な知恵も力も神が授けてくださいます。私たちが躓き倒れるようなことがあっても、必ず助け起こしてくださる神に信頼し、主を待ち望みましょう(詩編145編14~16節)。

 

 主よ、私たちはあなたの慈しみとまことにより、絶えず慰められ、励まされています。その御愛のうちを日々生かされて、平安と喜びに満たされています。主の御名はほむべきかな。ハレルヤ、アーメン!

 

 

「富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある。」 箴言13章7節

 

 冒頭の言葉(7節)は、その文字面を眺めていると、確かに「人は見かけによらない」という思いが伝わって来ます。ぼろを着てても、大金持ちかもしれません。きらびやかな服を着て、すごい高級車を乗り回していても、台所は火の車かもしれません。ところが、私たちはその外見で人を判断します。そして、私たちも外見を飾ろうとします。だから、自分の内面の貧しさに気づかないでいたりします。

 

 経済のことでなく、精神的なこと、霊的なこととして考えて、自分が内面の貧しさに気づけば、豊かになろうとして努力するでしょう。謙虚になり、謙遜になって学ぼうとすると、どんなことからも豊かに学ぶことが出来ます。貧しさを自覚するからこそ、熱心に学ぼうとし、そうすると、本当に心豊かに生きることが出来るでしょう。

 

 水戸黄門は、ちりめん問屋のご隠居という姿で世直しの旅をします。そうして、行く先々の悪を懲らしめます。「この紋所が目に入らぬか」と印籠を出したところから、ちりめん問屋のご隠居が、天下の副将軍に戻ります。その圧倒的な権力の前に、悪人が平伏します。勧善懲悪の単純なドラマが視聴率を稼ぐというのは、世の中に様々な悪が、それも権力者による悪がはびこっているからでしょう。

 

 権力を持っている者が、将来を見通す見識を持って、正しい政治を行い、経済を導き、幼子、若者たちによい教育を施すならば、黄門様はいなくてもよいということになるでしょう。ところで、権力者だけじゃなくて、私たちは、明日が見えるでしょうか。明後日が見えるでしょうか。

 

 私たちが、自分の持っているもので幸福か不幸かが決まるなら、誰もが幸福になれるものを手に入れようと躍起になるでしょう。それを手に入れ損なった人は、不幸が確定するというような図式になりますね。でも、私たちに幸福を約束してくれる「モノ」など、ありません。

 

 確かに、欲しいと思っていたモノが手に入ったとき、嬉しいです。長い間待ち続けてやっと手に入れたときなど、その喜びは一入です。けれども、そんな喜びや感動は、時とともに失せ去ります。モノが与えてくれる喜びは、その程度のものでしょう。

 

 人間関係を考えて見ましょう。お互いに生きている者同士ですから、自分の思い通りになる関係などあり得ません。互いに山あり、谷ありです。順風のときもあれば、逆風のときもあります。笑うときや涙するとき、悲しいとき、憤るときなど、様々な思いや感情をその時々に共有しながら、共にすごした長い年月が、やがて思い出となり、かけがえのない宝となります。

 

 聖書が語る豊かな「命」とは、まさにそのような、呼べば答え、打てば響く、生きた関係を指しています。呼んでも返事せず、反応しない。相手を無視してしまうなら、その関係は死んでいます。命がないわけです。お互いの関係を喜び合うために知恵を出し、我慢したり忍耐したり、時には少し諦めたりしながら、工夫して共に過ごすことをしなければ、深い豊かな関係、喜びや満足は生まれて来ません。

 

 そのことで、今は亡き日野原重明氏が、命とは私たちが持っている時間で、人が生きていく上で大切なのは「こころ」。自分以外のために、自分の時間を使おうとすることだと仰っていました(日野原重明『いのちのおはなし』講談社刊)。

 

 そう考えてみると、神様は、私たちを神の子として喜び迎えるために、独り子キリストを犠牲にして、なんと長い間我慢を重ね、忍耐していてくださることでしょうか。神様の深い愛と憐れみがあればこそ、その強い思いがあるからこそ、私たちは今、主イエスを信じる信仰に導かれ、救いの恵みをいただくことが出来たのです。

 

 神ご自身が、とことん自分のものを与え尽くして貧しくなられたお蔭で、私たちは豊かさを味わわせて頂いているわけです(第二コリント書8章9節)。

 

 神様との関係をいよいよ豊かにするために、絶えず主の呼びかけに応答出来るよう、御言葉を聴き、信仰の祈りと賛美をささげたいと思います。

 

 主よ、私たちはあなたによって人生の真の目的を知らされ、希望と平安に与り、キリストにある悔いのない生涯を歩ませて頂いています。そのためにあなたが払われた犠牲を思うと、どれほど感謝しても、感謝しきれるものではありません。ただ、あなたが望まれる人生を、右にも左にも曲がらずまっすぐ歩み通すことが出来るように、日々御言葉に耳を傾けます。導いてください。 アーメン

 

 

「知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれを壊す。」 箴言14章1節

 

 冒頭の言葉(1節)で「知恵ある女は家庭を築く」という言葉は、9章1節にも「知恵は家を建て」とありました。原文で比較すると、「女」という言葉を除けば、二つは全く同じ文章です。

 

 岩波訳に「原文では、『知恵』の次に来る『女たち』は、後代の挿入語で、『ハクモート(知恵)』を複数形にとり説明したものらしい。この語を削除すると、9章1節前半と同一の文」という注釈がつけられています。岩波訳の注釈が正しければ、冒頭の言葉は「知恵は家を建て、無知は自分の手でそれを壊す」ということになります。

 

 「家庭」とは「(彼女の)家」という言葉で、それはまず建物のことを指していると思われます。地震などでも壊れない丈夫な家を建てるのには、確かに知恵が必要でしょう。そして、その知恵を正確に用いないのであれば、意味がありません。

 

 以前起こった耐震強度の偽装事件、最近の会社ぐるみ不適切な建材使用や不正な工法での建築指示などは、まさに知恵を正しく用いようとしなかった、その意味で無知なる者の仕業と言わざるを得ません。また、それをきちんと3見抜けなかったチェック機構にも、大きな問題があります。

 

 丈夫に建てられた家に住まう家族の憩いの場が「家庭」です。それは、男と女が結婚すれば夫婦になりますが、「夫になる」ことと「夫である」ことは、必ずしも同じではありません。夫になることは簡単ですが、夫であり続けるためには、努力や工夫が必要です。

 

 子どもが出来れば、父となり、母となります。しかし、父であり、母であるためには、子どもを育てる知恵が必要です。知恵をもって共に住まう努力や工夫をしなければ、「無知な男、女は、自分の手でそれを壊す」という結果を招いてしまいます。

 

 親が離婚した結果、子どもたちは、両方の親から見捨てられる不安を持ち、学業成績が悪く、成人してからの社会的地位も低く、自分の結婚も失敗に終わりやすいなどの影響を与えてしまうといったことが、多くの国の調査で確認されています。つまり、家族間、世代間に、悪影響が連鎖してしまうわけです。

 

 共に住み、共に生きるためには、苦労や犠牲はつき物です。しかしそれは、豊かな恵みを生み出す苦労です。4節に「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」とあります。畑を耕したり、麦を脱穀して粉に挽くのに、牛の力は重宝です。しかし、生き物は世話をしてやらなければなりません。それは苦労を伴います。苦労なしに、牛は飼えません。

 

 家族の関係、友達との関係、職場などの人間関係など、皆そうでしょう。お互いに深入りしないように適当に付き合うことにすると、面倒なことも少ないかもしれませんが、それで深い信頼関係を築き、真実な交わりを作るというのは、困難です。そして、ちょっと難しい問題が生じれば、その関係は崩れてしまいます。苦楽を共にするからこそ、共感が生まれ、その関係が豊かなものになるのです。

 

 9節の「無知な者は不遜で互いをなじる。正しい人は互いに受け入れる」も、そのことを言っているのでしょう。 問題を相手の所為にしてなじり合っているだけで、関係をよくすることは不可能です。

 

 ここで、「不遜で、互いをなじる」というのは、「賠償・償いの供え物」(アーシャーム)を「嘲る」(ヤーリーツ:「ルーツ」ヒフィル・未完了・3人称単数)という言葉です。関係を回復しようとする行為、そのための供え物を嘲るのは、確かに愚かと言わざるを得ないでしょう。

 

 また、「互いに受け入れる」は、「喜び、恵み、好意」(ラーツォーン)という言葉です。岩波訳は「実直な者たちの間には、満足がある」とし、「祭儀の場における神と人、人と人との出会いの喜びがある、の意味であろうか」という注を付けています。 

 

 23節の「どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす」という言葉も、4節と同じ意味に受け止めることが出来ます。さらに言えば、苦労してこその利益というものがあるでしょう。

 

 冬が来なければ、春も来ないと言いますか。英語に「no cross, no crown」(十字架なしに、王冠なし=苦難なくして栄光なし)という諺があります。苦労が報われたとき、その感動は何にも変えることは出来ません。その感動を得んがために、今の苦労を耐え忍ぶのです。

 

 私たちは、主が語られる御言葉を聴き、主に信頼して、信仰生活を歩みます。今日は聖書を読む気分になれない、今日は気持ちが乗らないので祈れない、賛美しないというのは、信仰の態度ではありません。それは、自分の感情を主とし、神としていることです。

 

 家を建てるための知恵とは、何よりも主を畏れることです。それは、神の前に自分の弱さや愚かさを認め、おのれを空しくして、何事も神に尋ね求めるという姿勢をとることです。その時、御自分の内に知恵と知識のあらゆる宝を隠しておられる主イエスが、聖霊によって必要な知恵と力をお与えくださり、その知恵と力によって、丈夫な「家庭」を築き上げさせてくださるのです。

 

 真の知恵である主イエスに信頼して日々御言葉に耳を傾け、常に聖霊の導きに従いつつ歩ませて頂きましょう。 

 

 主よ、あなたは、「知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。どうか私たちに、真の知恵を与えてください。あなたの知恵によって、立派な家庭、社会、そして教会を、築き上げることが出来ますように。 アーメン

 

 

「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。」 箴言15章15節

 

 ソロモンの格言集(10~22章)の第一部(10~15章)の最後の章です。ここまで、知恵ある者の正しさと愚かな者の邪悪さ、知恵ある者の祝福と愚かな者に対する罰が、対照的に語られていました。

 

 ここでは、第一部を包括するように「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる」(1節)といって、知恵をもって語り(2,7節)、父祖の言い伝えを守り(5,31~33節)、親切な言葉を用いるように教えています(26節)。

 

 7節に「知恵ある人の唇は知識を振りまく。愚か者の心は定まらない」とあって、「知恵ある人の唇」と「愚か者の心」が対比されています。唇で語る言葉とその心には密接な関係があること、それゆえ、語る言葉によってその人の心が判断出来ることを示しています。

 

 主イエスが「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」(ルカ福音書6章43,44節)と言われています。確かに、実によってそれが何の木であるのかが分かります。

 

 主イエスは続けて「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(同45節)と語られました。

 

 実で木が分かるように、語る言葉でその人が分かるということで、箴言の知恵がここに示されます。知恵をもって、柔らかく親切な言葉で隣人に良い知らせをもたらす者になりたいものです。 

 

 また、言葉と同様に、顔の表情も、その人の心のうちを表します。13節に「心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ」と言われています。喜んでいる人の顔は明るいです。そして、沈んでいる顔は、その人の心の痛みを示しています。その痛みが癒されなければ、「霊は沈み込む」と言われるように、体と心の健康を害してしまうでしょう。

 

 12章25節の「心配は人をうなだれさせる」、17章22節の「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈み込んでいると骨まで枯れる」、18章14節の「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう」という言葉なども、それを示しています。

 

 殉教目前のステファノが、最高法院に引き出されて証言台に立たされたとき、その顔は、決死の覚悟で強張っていたというのでなく、天使の顔のように見えたと言われます(使徒言行録6章15節)。

 

 その心境は、同5章41節の「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」というところでしょう。そして、主に委ねられた使命を果たし終え、意気揚々と天に凱旋しようという、気分の晴れ晴れとしたステファノの様子を思い浮かべます。

 

 そのときステファノは「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(同7章56節)」と言っています。その顔の輝きは、神の右に立つ人の子イエス・キリストの姿をはっきりと見ていたからだったというわけです。

 

 そして、神の右に座しておられる主イエスが(ローマ書8章34節、コロサイ書3章1節など参照)、そのとき立ち上がっておられたということは、最高法院で福音のメッセージを命懸けで語っているステファノを、主が立ち上がって賞賛しておられた(スタンディングオヴェーション)ということではないでしょうか。

 

 冒頭の言葉(15節)に「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」とあります。これは、心を暗くさせるような災いに襲われても、心が朗らかならば、いつも宴会のような喜びがあるということでしょう。

 

 原文を直訳すると、「貧しい人はすべての日々が悪、しかし、心がよい人は絶えず祝宴」となります。「貧しい人」(アーニー)には、「悩む、弱い」という意味もあり、口語訳、新改訳、岩波訳は「悩んでいる者」と訳しています。また、岩波訳の注に「単に経済的な事柄が問題なのではない。人生の様々な困難の中で打ちひしがれている人をいう」と記されています。

 

 打ちひしがれている人を立ち上がらせるのは、容易に出来ることではありません。どのようにすれば、災いに襲われても打ちひしがれず、心が朗らかでいられるでしょうか。それは、自分の力で出来るものではありません。主が私たちを支え、力づけてくださるからこそ立ち上がることが出来、万事を益となるようにしてくださるからこそ、災いの中でも、心が平安で朗らかにしておられるのです。

 

 かつて、松江で伝道しておられた英国人宣教師バックストン先生が、いつもにこやかな顔をしておられるのを見て、仏教の僧侶が感銘を受け、それがもとで道を求めてキリスト教の信仰に入るという出来事があったそうです。

 

 ステファノやバックストン先生とまでは行かなくても、主イエスから与えられた信仰の喜びを、顔色でも証し出来るような者にならせていただくことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。そのために、いつも主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って恵みのうちを歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、私たちの生活には、憂いが満ちています。思いがけないことで喜びが奪われます。どうか、いつも私たちの心に、喜びと平安を与えてください。主が共にいて、私たちを助けてください。キリストの言葉が、私たちの内に豊かに宿りますように。そのために、御子を、そして聖霊をお遣わしくださった父なる神の御愛を感謝します。 アーメン

 

 

「主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。」 箴言16章4節

 

 16章から、ソロモンの格言集(10~22章)の第二部(16~22章)になります。第一部(10~15章)が、知恵ある者と愚かな者を対照する格言が集められていたのに対し、第二部では、そのような対照をほとんど見ることが出来ません。

 

 ここで目についたのは、王についての格言(10,12~15節)です。ソロモン以後、王がその知恵をもって主を畏れ、神に従って歩んでいれば、王座は堅く立てられたのでしょう(12節)。しかし、彼らは神に背く道を歩み、その怒りを招いてしまいました。捕囚期後、改めて大切な指針としてこれらを採用したのでしょう。

 

 冒頭の言葉(4節)で「御旨」(マアネ)という言葉は、1節で「答えるべきこと」と訳されています。「御旨にそって」を直訳すれば「彼(主)の答えに対して」となり、そこから新改訳、岩波訳は「ご自分の目的のために」と訳しています。つまり、すべて目的があって創造されたということで、神に逆らう者さえも、その目的に従って創られたというわけです。

 

 創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。「極めて良かった」とは、完璧であると訳してもよいところでしょう。それは、当然のことながら、造られたものが完全性を有しているということではありません。それぞれが神の御心に従い、創造の目的に完全に適合するように造られたという意味です。

 

 それにしても、何故、逆らう者を造られたのでしょうか。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ福音書13章7節)と主イエスがペトロにお語りになったように、今は分からなくても、やがてその意味をはっきりと悟らせて頂くときが来るのでしょう。

 

 このことについて、コヘレトの言葉3章1節に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と言われ、そして、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(同11節)と語られています。

 

 そこに「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」(同2~8節)と、相反する「時」を対にして列挙しています。

 

 それらはすべて、神の計画によって定められているので、それを変えようとするのは無駄なこと、骨折り損のくたびれ儲けということだというのです(9節)。そしてその時々に、「永遠」という神の世界、神のタイミングを思う心が、私たちに与えられているというわけです。

 

 考えてみれば、確かに順風のときよりも逆風のときに、上手く行っているときよりも行き詰っているときに、私たちは神を思い、その助けを求めます。考えられないような悲劇に見舞われたときには、「神も仏もあるものか」とさえ思います。

 

 何故、愛の神がそのような悲劇を許されるのか、理解に苦しむことがありますけれども、神がおられるからこそ、その悲しみの淵から救い出され、慰めを受け、癒されるという恵みをも味わうのです。そのようにして私たちの心は鍛えられ、強くされていきます。

 

 ハバクク書1章6節に「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する」、とあります。このカルデア人とは、バビロン帝国のことで、彼らによってイスラエルの国は滅ぼされ、民は捕囚となりました。

 

 けれども、エレミヤ書32章37,38節の「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という預言通りに、ペルシア王キュロスによってイスラエルの民は捕囚から解放され、エルサレム神殿の再建が許されます(歴代誌下36章22節以下)。

 

 バビロン捕囚という荒れ野を通らなければ、イスラエルの高慢を砕くことが出来なかったということであり、その苦しみを味わったからこそ、もう一度神の御言葉に従順に聴き従うという信仰の態度を学ぶことが出来たわけです。「彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫とにとって幸いとなる」(エレミヤ書32章39節)というのは、そのことです。

 

 神は、どんなマイナス状況であっても、万事を働かせて益とすることのお出来になる方です(ローマ書8章28節)。神を信頼し、一切をその御手に委ねて歩むことが出来れば、災いの日はいつの間にか、幸いの日に変えられていることでしょう。

 

 主よ、天地万物を創造されたあなたが、一切を御手の内に統べ治めておられると信じ、感謝致します。苦難をも誇りとすると語ったパウロの信仰を私にも与えてください。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すからです。希望をもって絶えず祈り、賛美をささげることが出来ますように。 アーメン

 

 

「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる。」 箴言17章17節

 

 1節に「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりもよい」という言葉があります。「いけにえの肉で家を満たす」とは、神にささげられたいけにえの肉の一部が下げ渡されて食卓に乗せられることを示しています。「家」を神の家、神殿ととらえて、神殿をいけにえで満たすことが出来るほど豊かな生活をしている人のことを考えてもよいでしょう。

 

 ご馳走がテーブル一杯に並ぶ争いのある家庭よりも、一切れのパンを囲んで団欒のある家庭の方がよいということになります。ご馳走の並ぶ食卓で豊かな団欒のある家庭というのが一番よいのかもしれませんが、まず願うのは、ご馳走ではなく、家族が仲良く平安に過ごすことと教えているわけです(15章17節参照)。

 

 日本を代表する伝道者で二年前の春に召された羽鳥明先生は、ご両親の仲が悪くてケンカが絶えず、そのため親子の心も通わず、少年時代に人生を儚んで自殺を図られたことがあったそうです。そしてそのことが、主イエスを信じる一つの要因になったという話をなさったのを思い出します。

 

 先生は、学友に誘われて教会に行き、クリスチャンになられました。入信されたとき、お父様は厳しく反対されたそうです。けれども、後にご両親が信仰に導かれました。また、共産党に入り、会社を解雇されて地下活動をしていた弟さんも、導かれてクリスチャンになり、さらに牧師になられました。

 

 ケンカの絶えなかった寂しい家庭に歌が、笑いのなかった家庭に笑いが満ち溢れるようになった、今自分の親族には、35人の牧師、宣教師がいると言われていました。先生を変え、先生の家族を変えたもの、それは主イエスを信じる信仰であり、その信仰に先生を導かれた神の愛です。

 

 「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる」と、冒頭の言葉(17節)に記されています。友との関係についても、様々なことが言われています。16章28節の「陰口は友情を裂く」、17章9節の「前言を翻す者は友情を裂く」という言葉は、友情がいかに傷つきやすいか、また、誰にもそのように友情を傷つける言動をする傾向があることを示しています。

 

 また、「貧乏な者は友にさえ嫌われるが、金持ちを愛する者は多い」(14章20節)、「友の振りをする友もあり」(18章24節)などは、友を自分の利益のために利用しようという、下心のある様子を表しています。

 

 それに対して、冒頭の「苦難の時の兄弟」(17節)という表現は、真の友情とは、どのようなときにも、特に苦難のときに、友を兄弟のように愛することであると教えています。

 

 サウル王は、自分自身や息子の王位を危うくする存在は、取り除くべきだとして、ダビデを抹殺しようとするようになりましたが(サムエル記上18章8,9,15,17,28,29節、19章1節以下)、次期王位継承者たるヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛し(同18章1節)、父サウルに対し、ダビデをかばい続けます(同19章4節以下、20章27節以下)。

 

 父サウルがダビデの命を狙って出陣したとき、荒れ野にいたダビデのもとを訪ね、神に頼るようにダビデを励まし、「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ」(同23章16,17節)と語っています。ここに、「どのようなときにも、友を愛する」という実例を見ることが出来ます。

 

 苦しみを分け合ってこそ本当の友、兄弟というわけです。今日のように家庭や社会が様々な危機に直面し、互いの絆が弱く、希薄になりつつある時代には、一層この言葉に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。

 

 讃美歌中の讃美歌ともいうべき、新生讃美歌431番「慈しみ深き」の2節に、「慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈めるときも、祈りに応えて慰めたまわん」とあります。確かに、主イエスこそどんな時にも愛してくれるよき友です。

 

 主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)と言われ、そして、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(同15節)と仰ってくださいます。そして、その言葉の通りに、私たちを愛し、私たちの身代わりに命を捨てられ、贖いの業を成し遂げてくださいました。

 

 主イエスに罪を赦され、神の子どもとして頂いた者として、主を喜び、その御名を賞め歌いつつ、主のご愛に支えられて友を愛し、家族の交わりを大切にしましょう。 

 

 主よ、私たちのために御子イエスをこの世に遣わし、十字架の死によって、贖いの業を完成してくださいました。私たちに注がれている大きなご愛のゆえに、心から感謝します。愛と恵みに心満たされ、私たちも友を愛し、真実な神の家族の交わりを豊かにもたせて頂くことが出来ますように。 アーメン

 

 

「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう。」 箴言18章14節

 

 20節に「人は口の結ぶ実によって腹を満たし、唇のもたらすものによって飽き足りる」とあり、語る言葉が人生に与える影響の大きさを示しています。その場合、一般に「口は禍のもと」といったマイナス面を強調する表現が多く語られます。17章28節の「無知な者も黙っていれば知恵があると思われ、唇を閉じれば聡明だと思われる」という言葉も、それを示しています。

 

 一方、21節の「死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう」という言葉は、前節と併せて、言葉によって健康や幸福という実を結ぶ、その恵みに与ることも出来るということを示しています。

 

 箴言に示される、知恵をもって語る人の特徴は、まず、言葉数が少ない人でしょう。10章19節に「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する」と記されている通りです。その人は、語る前によく考えます。

 

 12章18,19節に「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬」とありました。害を与えるつもりはなくても、不適切な言葉で人を傷つけておいて、しかも自分が何を言って相手を傷つけたのか、思い出すことも出来ないというのが、ここでいう「軽率なひと言」です。

 

 それによって、人を癒すどころか、さらに問題を悪化させ、共に傷つくようなことさえあります。その意味で、言葉には「諸刃の剣」という面があります。

 

 また、知恵ある人は、「聞くに早く、話すに遅く」(ヤコブ書1章19節)をモットーにしているでしょう。13節の「聞き従う前に口答えする者、無知と恥は彼のため」という格言は、よく喋るけれども人の話は聞かないという、人の一般的な弱点を的確に示しています。

 

 特に、議論の中で自分の意見を強く主張する際に表れ、相手の言葉の途中に自分の言葉を挟むというような仕方で反論の機会を奪ってしまい、その結果、自分の意見が通ったとしても、皆の感情を害して協力的に物事を進めることが出来なくなってしまうということを、自戒をこめて記しておきます。

 

 ところで、唇は心にあるものを表現します。言葉遣い、表現の仕方によって、その人の心のありようを窺うことも出来ます。私たちはしばしば、置かれている境遇の苦楽と、心で感じる幸不幸を混同してしまいますが、マイナス状況にいるから不幸、豊かさの中にあるから幸福などとは、必ずしも言えません。

 

 「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合うほうがよい」(15章17節)、「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい」(17章1節)という言葉も、そのことを教えています。

 

 冒頭の「人の霊は病にも耐える力がある」という言葉(14節)は、重い病を患い、また重い障害があっても、それによく耐え、その重さに打ち勝っている人がいるということを示しています。

 

 15章15節に「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」という言葉があり、「貧しい人」とは、虐げられて貧しくされた人々のことでした。そんなマイナス状況に耐えて打ち勝つ勇気や力を、朗らかな心、即ち喜びや平安に満ちた心が与えてくれるというのです。

 

 順調にことが進むときには、特に知恵や力を必要としないかもしれませんが、困難な状況に陥ったときに、どのようにその状況に立ち向かい、困難を克服して前進することが出来るのか、工夫し努力する精神的な力、経験に基づく知恵が必要です。そのような知恵や力は、簡単に手に入れることが出来ません。

 

 「沈み込んだ霊」(14節)というように、むしろ、現実に押しつぶされ、立ち上がる力もないという状況に陥ることさえあります。肉体的な病にはよく忍耐することが出来ても、精神的な苦痛を耐え忍ぶのはとても難しいものです。主に依り頼み、そこから真に立ち上がる力を授けて頂きましょう(イザヤ書40章29~31節、エレミヤ書31章25節、マタイ11章28節)。

 

 パウロが、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤ書5章22,23節)と言っています。ここで、「(霊の結ぶ)実」(カルポス)は単数形です。これは、神の霊が与える実を人間の功績として数え上げることは出来ないという見解を示していると考えられます。

 

 また、ここに示される徳目が、神の霊の与えるものであるということは、そのような徳を私たちが身にまとうこと、心に持つことを神が望んでおられ、そのようにしてくださるということです。

 

 それはまた、この実が主イエスの心を示していて、その心を私たちが持つようにということでもあります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(同2章20節)もそれを表しています。

 

 自分の思うままに生きるのではなく、主を信じ、主に従って生きるとき、私たちの内に、私たちと共におられる主の御霊が豊かな実を結ばせてくださるというのです。私たちの心が絶えず朗らかで、困難な状況にも耐え、それを克服することが出来るように、聖霊に満たされましょう。主の御言葉と聖霊の導きに喜んで従いましょう。

 

 主よ、使徒パウロが、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを倣い覚えた」と言い、さらに、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。・・いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と語っています。私たちにもその知恵と力を授けてください。そして霊の実を豊かに実らせてくださいますように。 アーメン

 

 

「家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。」 箴言19章14節

 

 創世記2章18節に主なる神が、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われ、「助ける者」として人のあばら骨から女性を造られたことが記されています(21,22節)。「良くない」(ロー・トーブ not good)とは、神の御心ではないという意味です。神は人間を、絶えず「助ける者」と共になければならない存在として、創造されたわけです。

 

 「助ける者」(エゼル)とは、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助け(エゼル)はどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121編1,2節)という御言葉に典型的に示されるように、それは何よりもまず、主なる神ご自身のことを指しています。

 

 けれども神は、その役割を人にお与えになりました。人は伴侶を助ける者として存在しているのです。しかしそれはまた、伴侶の助けを必要としているということでもあります。助け、助けられる者として、神によって結び合わされ、一つ屋根の下に共に置かれたわけです。

 

 そして、私たちの内に助ける力や知恵があるのではなく、その助けは天地を創られた主からやって来ます。即ち、神が私たちを通して、お互いの間に「助け」をなされるわけです。ゆえに、私たちは互いに祈りつつその業をなすのです。

 

 神が造られた女性を見て、人は「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言いました(創世記2章23節)。

 

 ここで、「イシュ」はヘブライ文字の「アレフ(A)、ヨド(Y)、シン(S)」という3文字で出来ています。一方、「イシャー」は「アレフ(A)、シン(S)、ヘー(H)」の3文字です。つまり、男と女は「アレフ(A)」と「シン(S)」を共通に持ち、それぞれ「ヨド(Y)」と「ヘー(H)」という違いを持っているということです。

 

 男が女と結ばれて、二人が一体となるとき、「アレフ」と「シン」という共通項に加え、「ヨド」と「へー」が合体します。「ヨド、ヘー」は、ハレルヤというときの「ヤ(YH)」の文字で、これは主なる神を表わしています。つまり、二人が一体となるとき、そこに主もおられるというわけです。

 

 神が人を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(同1章28節)と言われていますが、心と体の交わりを通して一体となるとき、人は命を生み出す神の創造の業に参与しているということになります。

 

 箴言の記者は冒頭の言葉(14節)のとおり、「家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの」と言いました。これは、賢い妻は、先祖から受け継いだ家屋敷、財産以上のものという意味でしょう。

 

 では、賢くない妻、13節の「いさかい好きな妻」だと、どういう価値になるのでしょうか。18章22節では「妻を得る者は恵みを得る。主に喜び迎えられる」と語られており、結婚に対する肯定的な視点が示されています。それは、人が伴侶と共に生きることが、「人が独りでいるのは良くない」といわれる神の御心だからです。

 

 その意味で、新改訳聖書のように、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)に従ってその箇所を、「良い妻を得る者は」と、「良い」という形容詞を付けて訳すのは、良いことだとは思えません。

 

 そもそも、「いさかい好きな妻」がいるのでしょうか。喧嘩になるのは、夫と妻、双方にその原因があるからでしょう。妻が愚かに見えるのは、夫が妻を蔑ろにしているからではないでしょうか。「賢い妻は主からいただくもの」という言葉で、まず私たちが学ばなければならないのは、伴侶は主なる神がくださったものだということです。

 

 主イエスが創世記2章24節を引用しながら、「二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ福音書19章5,6節)と言われました。自分たちで愛し合って結婚したようでも、それは実は、神が結び合わせてくださったものなのです。

 

 神が私たちにくださった伴侶は、私たちにふさわしい「助ける者」です。であれば、愚かであるはずがありません。あらためて、互いに伴侶は神がくださった賜物であると受け止めましょう。そしてそれは、自分にとって賢い、良い存在であることを認めて、神に感謝しましょう。

 

 主よ、私たちに合う助けとして伴侶をお授けくださり、心から感謝します。夫婦で心を合わせ、一つになって祈り求めるところに主が共にいてくださいます。いつも、夫婦が互いに心を合わせ、家族が一つになるように、神の家族として一つにしてくださった教会の信徒同士が、御前に心を合わせ共に歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。」 箴言20章12節

 

 箴言において繰り返し語られる教えの一つに、怠け者について語って、勤勉を説く教えがあります。20章でも4節に「怠け者は冬になっても耕さず、刈り入れ時に求めるが何もない」とあり、13節には「眠りを愛するな、貧しくならぬために。目を見開いていれば、パンに飽き足りる」と言われています。

 

 「目を見開いていれば、パンに飽き足りる」とは、文字通り目を見開いてさえいればよいというのではなく、目覚めて勤勉に働けばということです。6章6節には「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ」と記されていて、蟻とキリギリスの話は、ここから作られたのではないかとも思わされます。

 

 もっとも、キリギリスは春に卵から孵り、6月末頃成虫になって、それからほぼ2ヶ月ほどで繁殖を終え、死んでしまいます。野生で冬を越すことはありませんが、それはキリギリスが怠け者で、夏の間遊び暮らしていて、冬の備えをしなかったからなどではありません。つまり、蟻は蟻なりに、キリギリスはキリギリスなりに、それぞれどんな虫でも、子孫を残すのに必死なのです。

 

 勤勉を教えるための最も効果的な方法は、親が子に、自ら勤勉に働いている姿を見せることでしょう。外の仕事ばかりでなく家事においても、マメに働いている親の姿は、子どもの目に美しく映ると思います。

 

 さらにもう一つ、親として、神の御前に忠実にひざまずき、御言葉に聴き従う姿を見せたいものですね。冬に耕し、春に種を蒔かないで、秋の収穫を期待する農夫はいないでしょう。私たちの信仰における恵みの収穫も、同じです。

 

 神の御心を悟ろうとして御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むとき、心が深く耕されて主の恵みが花を咲かせ、努力した100倍も豊かな実を稔らせるでしょう。そして、そのような親たちの信仰の姿勢を見て、子どもたちもまっすぐに信仰に導かれるでしょう。

 

 冒頭の言葉(12節)に「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」とあります。人間は主なる神によって創造されたのですから(創世記1章26節以下)、耳と目を主が造られたというのは、その通りだということになります。

 

 しかし、ここであらためてそれが言われているのは、この箴言に語られている知恵を得るための手段として、神が人に「聞く耳、見る目」を与えてくださったのだと教えているわけです。

 

 申命記29章3節に「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をお与えにならなかった 」という言葉があります。出エジプトの大いなる奇跡を見てはいるが、出来事に耳目を奪われて、それをなさった主なる神に目を向け、御言葉を聞き、御心を悟ることがなかったということでしょう。

 

 また、エゼキエル書12章2節に「人の子よ、あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは見る目を持っていながら見ず、聞く耳を持っていながら聞かない。まことに彼らは反逆の家である」と 記されています。これも、神を見ず、神に聞かないということです。

 

 ソロモン王が、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください」(列王記上3章6節以下、9節)と願ったとき、神はそれをとても喜ばれました。

 

 それゆえ、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」(同10節以下)と約束されました。

 

 イスラエルの民を救い出すために神がモーセを呼び出したとき、モーセは「ああ主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」(出エジプト記4章10節)と言いました。

 

 それに対して、「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(同11,12節)と言われます。

 

 私たちが見るべきものを見、聞くべきものを聞いていれば、そこから悟りを得ます。特にそれが神の御言葉で、神がほかの誰でもないこの私に語りかけてくださっている、その御言葉に耳を開くことが出来れば、私の語るべきこと、なすべきことがはっきりと示されます。そのために、耳を造り、目を造られたと言われているわけです。

 

 今日も憚らずに神の御前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。主イエスの後ろから、その背に目を向けつつ御足跡に踏み従って歩みましょう。かくて真の知恵に与り、主の御心を行う者とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちの耳を開いてください。あなたの御声をさやかに聴くことが出来ますように。主よ、私たちの目を開いてください。主の御顔を拝し、御足跡に従ってまっすぐに歩むことが出来ますように。真の知恵に与り、御心を行うものとなれますように。 アーメン

 

 

「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。」 箴言21章2節

 

 16節に「目覚めへの道から迷い出た者は、死霊の集いに入る」という言葉があります。箴言が説いている「目覚めへの道」、即ち、知恵の道、悟りの道から離れ、迷い出る者は、「死霊の集いに入る」ことになると言います。

 

 「死霊」(レファイーム)は、死者の霊、また死人のことです。2章19節に「彼女の家は死に落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている」とあり、9章18節にも「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」とありました。つまり、「死霊の国」とは、死者の集まる陰府のことを指しています。

 

 「死霊の集いに入る」とは、死ぬという意味になりますが、誰もが死を迎えることを考えれば、ここでは、神との交わりが断たれ、霊的に死んでいるようなものになるということを表わしていると思われます。

 

 ルカ11章24節に「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う」とあります。ここで、汚れた霊は、休む場所を探して、砂漠をうろつくと言われています。砂漠は、文字通り水のないところです(口語訳聖書参照)。

 

 水は、生きるために必要不可欠なもの、まさに命の水です。水がないところでは、生存が脅かされます。汚れた霊が休み場を求めて砂漠をうろつくのは、そのように命が危うくされる、死が支配しているようなところを休む場所とするということです。

 

 私たちにとって、命の水とは、神の口から出る一つ一つの言葉のことです(マタイ4章4節、ヨハネ4章14節参照)。私たちの内にキリストの言葉が豊かに宿っているならば、その心には神への賛美が湧き上がり(コロサイ3章16節)、主にある平安と喜びに溢れていることでしょう。主にある平安と喜びに満たされている心には、汚れた霊の入る余地はありません。

 

 けれども、心に喜びも平安もなく、不平不満が支配し、潤いのない渇いた砂漠のような状態になっていれば、命を潤す主の御言葉がなければ、汚れた霊が他の七つの霊を連れてきて住み着くとあるように、悪循環に陥る結果を招くでしょう。それはまさに、目覚めた道から迷い出て、死霊の集いに入ったという状況です。

 

 1節に「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」と言います。聖書で理想とされる王は、主の御旨に従う者だということでしょう。それは、ダビデ王朝の王たちに対する批判でもあります。この格言を集めたとされるソロモンも、二度までも主が彼に現れ、戒めを与えられましたが、それを守らず、神の怒りを招きました(列王記上11章9,10節)。 

 

 冒頭の言葉(2節)には「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」とあります。これは、人が自分の行動を正しいと判断しても、主は心の中を測られるということ、即ち、どのような動機で行動したのかを見られるということです。16章2節にも同様の言葉があります。

 

 私たちの一日の行動を振り返ってみて、主への信頼や感謝、喜びを表わす行動を取ったでしょうか。主イエスが十字架にかかられる前、蘇ったラザロのいるベタニアの家で食事の席に着かれました(ヨハネ福音書12章1節以下)。そのとき、マリアが高価なナルドの香油を主イエスの足に塗りました(同3節)。

 

 イスカリオテのユダがそれを咎めて、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(同5節)と言っていますが、それは、貧しい人々のことを思ってのことではなかったと、ヨハネは記しています(同6節)。ユダの心を支配していたのは、惜しげもなく主イエスに献げ物をしたマリアに対する嫉妬なのでしょう。

 

 そのとき、主イエスがユダに、「するままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」(同12章7節)と言われました。

 

 もっとも、マリアがそれをしたのは、主イエスを葬る準備をするというつもりではなかったと思います。そのために香油を取っておいたとは、到底思えません。兄弟ラザロを死者の中から甦らせてくださった(同11章1節以下)主イエスへの感謝と喜びの行動だったと思います。

 

 そのとき、家が香油の香りで一杯になったように(同12章3節)、主イエスをマリアの喜びと感謝の思いが包んだのです。そのとき、マリア以上に喜びと感謝を主イエスに示し得た者はいなかったのではないでしょうか。

 

 主イエスが十字架につけられたとき、上着が取られ、また下着も取られました(同19章23節)。神から捨てられ、人からも捨てられて、裸で、空し手で死に赴かれる主イエスですが、そのときも、香油の香り、その香りをまとわせたマリアの喜びと感謝が、主イエスを包んでいたことでしょう。

 

 マリアの喜びと感謝に送られて、贖いの御業を完成する道を進まれたと考えると、主イエスが言われたとおり、確かにマリアは、葬りの備えとして最高の餞を主イエスに贈ったのです。

 

 主が心を探られたとき、そこにキリストの言葉が豊かに宿り、主にある平安と喜びに満たされていたら、いかに幸いなことでしょう。主の恵みと導きを祈ります。

 

 主よ、わたしの心を探ってください。わたしの心に主を喜ぶ思いがあるか、はたまた、背く思いがないか、確かめてください。弱いわたしを憐れみ、助けてください。御言葉と聖霊の恵みに豊かに与り、いつも主を喜び、絶えず主に祈り、どんなことも主に感謝出来ますように。 アーメン

 

 

「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」 箴言22章6節

 

 

 22章は、16節までが「ソロモンの格言集」(10章1節~22章16節)、17節以下は「賢人の言葉(1)」(17節~24章22節)です。

 

 ソロモンの格言集の最後は、「名誉は多くの富よりも望ましく、品位は金銀に優る」(1節)と、知恵に基づく諸々の徳行が、あらゆる富に優る名誉と品位を与えると教えます。富者と貧者、いずれも主が造られたと語り(2節)、そして富と名誉と命は、主を畏れる敬虔と身を低くする謙遜とによる報いと言います(4節)。

 

 しかしながら、「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる」(7節)というように、富が人に権力を与え、経済だけでなく政治的な力も、富者が独占的に手にしがちです。「弱者を搾取して自分を富ませたり、金持ちに贈り物をしたりすれば、欠乏に陥る」(16節)とばかりはいえない現実があります。

 

 そこに、人の弱さ、神の意に背く罪の姿が如実に示されます。共産主義の国に権力闘争が絶えず、貧富の格差がひどいのも、人の弱さ、罪の故でしょう。主義や制度が如何にあっても、欲の支配から自由ではないのです。

 

 冒頭の言葉(6節)について、原文では、最初に「教育せよ」と訳されている「ハノーク」という言葉が記されています。「ハノーク」は「捧げる(dedicate,consecrate)、訓練する(train up)」という言葉です。

 

 「捧げる」という言葉が「訓練する」という意味も持ち合わせているというのは、なかなか意味深いことだと思います。つまり、子どもを神に献げるということは、その子どもが神のものであるということで、子どもを神のものとして訓練する、神から預かっている子どもとして養育するという思いが込められるようになったのでしょう。

 

 また、「歩むべき道の初め」と訳されている部分の原文は、直訳すると「彼の道の口の上で」(アル・ピ・ダルコー)という言葉です。ここで、「~の口の上で」(アル・ピ・~)は「~に従って(in accordance with~)」と訳される慣用句です。だから「ダルコー(彼の道)」に従って、といった訳になります。

 

 口語訳は「その行くべき道に従って」、新改訳は「その道にふさわしく」、岩波訳も「彼の道にふさわしく」と訳しています。新共同訳が「初めに」としているのは、「口の上」を上記のような慣用句としてでなく、「入り口、初め」と解釈したからでしょう。

 

 「道にふさわしく」について、岩波訳の脚注に「『人生において歩むべき道にかなって』の意味か。あるいは『彼の年齢にふさわしく』、すなわち両親のもとでの幼いときからのしつけ教育を意味するのか」と記されています。

 

 子どもの教育は、親に課せられた非常に重大な責務ですが、それは子ども一人一人の個性や才能、また、成長発達の段階に合わせて行われなければならないということでしょう。その時々に相応しい訓練の仕方、教育のあり方が求められるわけです。

 

 そのことが、特に「年老いてからもそこからそれることがない」との関連で、「初め」、即ち人生の初めの教育が重要だ、初めにきちんと教育すると、生涯その道を歩むことが出来るという訳文になっていると考えられます。

 

 「三つ子の魂、百まで」という言葉にも示されるとおり、幼児期の教育や躾が、その子どもの人生に大きな影響を与えます。13章24節に「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」、20章30節にも「打って傷を与えれば、悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て」と、善悪を弁えさせるために、子どもへの体罰を肯定する言葉が出て来ます。

 

 私は、体罰を全く否定するものではありません。わが子も、ときに叩いて教えました。しかし、昨今の児童虐待の現状を考えると、無条件にそれが肯定される言葉というわけにもいかないでしょう。まさに、親としての愛情、子どもを正しく育てるための知恵が問われていると思います。

 

 私たちが子どもに教えたいのは、親の鞭を恐れさせることではなく、親の愛に安らぎ、信頼することです。どれだけ自分が親から愛されているのかということを知ると、子どもは自分が大切な存在であることを悟ります。自分が大切な存在であることを悟った子どもは、自分の命を粗末にすることはないでしょう。そして、周囲の人々をも大切にする心優しい人に育つでしょう。

 

 また、子どもを愛するとは、欲しがるものを何でも与えるということではありません。今の子どもたちは、私たちが子ども時代には想像することさえなかったような、それもとても高価なものを、たくさん持っています。

 

 にも拘らず、親の愛に飢え、やがて親を憎むようになる子どもたちがいます。親が子どもたちに豊かさを味わわせようとしてあくせくしている間、子どもたちは親に遊び相手、話し相手になってもらえなかった寂しさをこらえて過ごしていなければならなかったからです。

 

 そのように、寂しくて悲しくて泣いている子どもに、泣くな、しっかりしろと鞭を当てるなら、後から何を買い与えたとしても、子どもは自分が親から愛されていると感じるようになるでしょうか。むしろ、親は自分より他に大切なものがある、お金やモノをもらったところで、自分が後回しにされたツケを埋め合わせすることなど出来ないと思うことでしょう。

 

 子どもの話を聞くこと、辛抱強く子どもの相手になること、一緒に仕事を手伝わせ、たくさん褒めてやること、必要な時には適切に叱ることなど、様々なことの積み重ねにより、子どもは親の愛を心と体で感じ、味わうのです。

 

 特に、信仰を持つ私たちにとって「歩むべき道」とは、主イエスに従う道です。私は、父が主の御前に畏み祈る姿を通して、神を知りました。私のために執り成す祈りによって、父の私に対する思いを知り、そして、キリストの十字架に示された神の愛と赦しが私のためのものであったことを知りました。

 

 父が日々の生活を通して、折りある毎に示してくれた信仰の姿、特にその祈りによって、今の自分がかたち造られたと思っています。既に天に召されましたが、今も、尊敬すべき父を与えてくださった神に、心から感謝しています。

 

 主を畏れ、謙遜に歩む者とならせて頂きましょう。主にあって清い心、新しい霊を授けて頂きましょう。 

 

 主よ、私たちに与えられている信仰の喜び、平安、その恵みを、確実に子や孫、隣人、周囲にいる人々に手渡していくため、御言葉どおり、歩むべき道の初めに、心を込めてしっかりと教えることが出来ますように。そのために必要な愛を、知恵や力をお与えください。清い心を愛し、節度を守って謙遜に語るものとしてください。 アーメン

 

 

「わが子よ、聞き従って知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ。」 箴言23章19節

 

 22章17節から24章22節までが、「賢人の言葉(1)」という小見出しの付けられた格言集となっています。その内容から、エジプトの『アメン・エム・オペトの教訓』という、宮廷の財産を管理する高官が息子ホル・エム・マア・ケルのために与えた教訓に基づいているものと考えられています。その『教訓』は、出エジプトの出来事以前に収集され、記録されたものです。

 

 箴言には、怠惰と飲酒、姦通を戒める言葉が繰り返し出て来ます。この三つが、社会生活や家庭生活を危うくする元凶と考えているのでしょう。

 

 23章は29節以下に、酒に酔う者の愚かさを描いています。酒の害悪について、創世記9章21節以下で、箱船を出たノアたち一家の別離の原因となっていますし、新約でも、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5章18節)と言われています。

 

 植木等が歌った「スーダラ節」(詞:青島幸男、曲:萩原哲晶)のレコードが1961年8月に東芝音楽工業から発売され、80万枚を売り上げる大ヒットとなりました。「♪チョイト一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらハシゴ酒。気がつきゃホームのベンチでゴロ寝、これじゃ身体にいいわきゃないよ。分かっちゃいるけどやめられねえ。ア ホレ スイスイ スーダララッタ スラスラスイスイスイ ・・・♪」。

 

 酒に競馬に女性、「飲む、打つ、買う」の三拍子といえば、男が道楽の限りを尽くすことです。ちょっとだけ、すぐにやめると言いながら、ブレーキが利かなくなってしまう人の弱さが歌われています。

 

 この歌には面白いエピソードがありました。植木等は当初、「こんなふざけた歌が歌えるか」といって怒ったそうです。関係者やクレイジーキャッツの他のメンバーから何度も勧められて悩んだ末、父親に相談しました。植木等の実家は真宗大谷派のお寺です。住職をしていた父親に相談したわけです。

 

 父親はその歌を聞いて、「これには浄土真宗の教えに通ずる。きっとヒットすると思うぞ」と言ったそうです。それを聞いて植木等はようやく歌う決心がついたというのです。もっとも、植木等は、スーダラ節のヒットに、こんな歌がヒットするなんて悲しいと言ったとか。

 

 浄土真宗の教えに通ずるというのは、この歌詞の最後の「分かっちゃいるけど、止められねえ」というところにあると考えられます。仏教では、何度反省しても同じことを繰り返す、自分の力で悪を断ち、善を行うことなど到底出来ない人間のことを、凡夫というそうです。

 

 その凡夫を救うという他力の本願を頼みとするほか、往生を遂げる道はないと悟ることを回心というと、浄土真宗では教えられているのです。他力の本願とは、西方浄土におられる阿弥陀仏がすべての凡夫を救おうとして立てた誓いのこと、往生とは死んで極楽に生まれることです。

 

 キリスト教と浄土真宗の教えは似ています。凡夫を罪人、他力を主イエス、本願を神の御心と読み替えれば、そのまま新約聖書の福音になりそうです。

 

 ただ、決定的な違いは、阿弥陀仏が架空の存在で、極楽往生の目的が悟りを開くことであるのに対し、主イエスは歴史に登場して、私たちの罪を赦すため、身代わりに十字架にかかって死んでくださった実在のお方で、その御業は、私たちを救うためのものです。

 

 主イエスについて、天からの声で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ福音書17章5節)と言われたことがあります。私たちは確かに、自分の知恵や力で罪と悪の力に打ち勝つことは出来ませんでした。

 

 しかし、「わたしに従いなさい」(同16章24節)と私たちを招かれる主イエスは、御自分の死と復活によって罪と死の力を打ち破られたお方です。この方の御言葉を聞くことによって信仰は始まります(ローマの信徒への手紙10章17節)。

 

 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ書2章3節)とありますから、キリストに聞いて従っていくとき、確かな知恵を得ることが出来るのです。冒頭の言葉(19節)で、「わが子よ、聞き従って知恵を得よ」とは、そのことでしょう。

 

 また、「あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ」というのも、同様に解釈することが出来ます。ヨハネ福音書14章6節に、主イエスこそが道であり、主イエスに従ってその道を歩んで行くと、真理と命に与り、父のもとに行くことが出来ると言われています。そこから右にも左にもそれることがないように、主イエスの御言葉と聖霊の導きに素直に聴き従うものでありたいと思います。

 

 主よ、酒に酔うのではなく、聖霊に満たされて、絶えず心から主を賛美し、信仰によって互いに教え、励まし合うことが出来ますように。心の中から新たにされて、神の御旨をわきまえ、喜びと感謝をもって御言葉と聖霊の導きに素直に従うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしはそれに心を向け、観察した。それを見て、諭しを得た。」 箴言24章32節

 

 22章17節以下、24章22節までが「賢人の言葉(1)」でした。23節から「賢人の言葉(2)」(23~34節)の段落です。段落冒頭の「これらもまた、賢人の言葉である」(23節)という言葉は、この段落の裁判に関する言葉(23~29節)と畑での労働に関する言葉(30~34節)を、前段「賢人の言葉(1)」の教えと結びつけるための編集者による挿入と考えられています。

 

 冒頭の言葉(32節)で「わたしはそれに心を向け、観察した」と言っていますが、ここで賢人が観察したのは、30節に記されている「怠け者の畑」、「意志の弱い者のぶどう畑」でしょう。そして、そこから得た「諭し」というものは、「(怠け者、意志の弱い者は)しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を取る者のように襲う」(33,34節)というものでした。

 

 この教訓は、6章10,11節にも記されており、そこでは、怠け者が知恵を得るように、蟻のところに行って見よと言われています(同6節)。

 

 確かに、教訓は書斎でだけでなく、人がその気になれば、どんな場所、どんなものからでも学ぶことが出来るものです。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て、そこから万有引力の法則を見出しました。私などは、それを何百回見たとしても、ただ、「リンゴが落ちた、それがどうした」と思うだけでしょう。

 

 作物が何も穫れないのを、天候のせいにしたり、環境のせいにするのは簡単です。雨が降らなかったから、日照りが続いたから、そして、灌漑の水を引こうにも場所が悪過ぎるからなどと言って何の工夫も努力もしなければ、永久に収穫を見ることは出来ません。

 

 8年前の震災と原発事故で、生活を破壊されたままの人々がおられます。震災がなければ、原発事故も起きなかったかも知れません。震災と津波に関しては、誰にも責任がないのかも知れませんが、それ以後、放射能汚染は続いています。

 

 昨年度上半期に白血病を発症された方は、例年の数倍に及ぶという報告があります。その多くが東北、関東地方、中でも福島県が最も多くなっているそうです。また、白血病と診断された方の半数以上が急性白血病で、統計を取り始めた1978年以来、そのような高率になったことはかつてなかったそうです。

 

 医師会会長は、白血病の増加と原発事故との因果関係は不明、原因が判明すれば発表すると語っているそうですが、原因が突き止められたら、病気の治療が出来る、予防が出来るようになるというものでもないでしょう。だれが被爆から守ってくれるのでしょうか。「アンダーコントロール」と強弁した首相、そして政府は、そのために何をしようとしているのでしょうね。

 

 昨年、大坂なおみ選手が女子テニスの全米オープンに第20シードで出場、決勝でセリーナ・ウィリアムズを破り、グランドスラム初優勝。世界ランキングも22位から7位に上昇しました。続く全豪オープンでも優勝してグランドスラム2連勝、世界ランキングも1位になりました。これは、アジア人初の快挙です。

 

 男子テニスの錦織圭選手は、2014年にメンフィスの大会を連覇、マイアミのマスターズでベスト4、バルセロナのATP500で優勝、マドリッドのマスターズで準優勝と立て続けに好成績を上げて、世界ランキングが9位となり、念願のトップ10選手の仲間入りを果たしました。以来、好調をキープして、現在のランキングは7位です。

 

 そのほか、世界で戦っている日本人選手の活躍を見るのは、本当に嬉しいものです。しかし、その陰には、素人には想像出来ないような練習や工夫が積み重ねられているのでしょう。誰もやらないようなことに挑戦しているからこその快挙というべきであり、ということは、人一倍失敗を重ね、それを成功のバネにしているわけです。

 

 誰もが、世界というフィールドで活躍し、優勝という輝かしい成果を上げることが出来るわけではありませんし、学問、研究の分野などで素晴らしい発見をしたり、目覚ましい業績を上げるようなことが出来るというわけでもありません。

 

 しかし、神は私たちがナンバーワンになろうとすることよりも、オンリーワンであることを自覚して、託されている賜物を互いに生かし合い、主の使命を全うすることを願っておられます。

 

 「知恵ある男は勇敢に振舞い、知識ある男は力を発揮する」(5節)と言われています。主なる神を畏れることが知恵の初めですから、主の御前に謙り、自分のなすべき務めは何か、それを如何になすべきか、主の御声に耳を傾けましょう。

 

 「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ書12章11,12節)とパウロが勧めています。これを記しているパウロ自身が、言葉だけでなく行動で、彼の生活を通して、かくのごとく歩んでいたわけです。

 

 私たちも、頻発する災害や事故などを他人事とせず、上からの知恵と力を頂きながら、怠らず励み、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る者とならせていただきたいものです。

 

 主よ、怠惰な僕をお赦しください。絶えず目覚めて主の御声に聴き従うことが出来ますように。聖霊に満たされ、力を受けて、主の御用に励むことが出来ますように。これから着実に歩みを進めるため、明確なビジョンを与えてください。計画を具体的に推進することが出来ますように。感謝と喜びの賛美を捧げて、御名を褒め称えさせてください。 アーメン

 

 

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」 箴言25章21,22節

 

 25章から「ソロモンの箴言(補遺)」(25~29章)という段落に入ります。1節はその表題で、「ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」と記しています。それを文字通り受け止めれば、紀元前716年から686年まで在位したユダの王ヒゼキヤに仕える人々や若者たちの教育のために集められたものといってよいでしょう。

 

 ヒゼキヤは、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされる以前から父アハズと南ユダを共同統治していました(紀元前729年頃から716年頃まで)。アハズはアッシリアに朝貢し、ユダに異教の慣習が導入されました(列王記下16章3節以下)。

 

 北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたのは、バアル礼拝など神の教えに背く行為のためと悟ったヒゼキヤは、アハズに代わって王となってから、国内に宗教改革を断行し(同18章3節以下)、神の助けを得てアッシリアを退けることが出来ました(同19章参照)。

 

 そのような背景の中で、国を治めるために必要なものとして、ヒゼキヤは富や武力ではなく、先人の知恵を求めたのでしょう。そして、その格言は「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節、9章10節、15章33節)と教えます。

 

 25章は、比喩的な格言のかたちで様々な話題が寄せ集められています。たとえば、3節に「王の心の極め難さ」を「天の高さと地の深さ」にたとえて示しています。確かに、ときの指導者の心中は、なかなか量りがたいものです。

 

 その中で、冒頭の言葉(21,22節)が目にとまりました。敵に食べ物、飲み物を与えよという勧告は、24章17,18節の「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう」という禁令にも通じるものがあります。

 

 使徒パウロが、冒頭の言葉を引用しながら、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書12章20,21節)と語っています。

 

 第一ペトロ書3章9節に「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」という言葉が記されていますが、これも同じ精神を示しています。

 

 ところで、「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む」とは、どういうことでしょうか。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ書12章19節)との関連で、私たちが敵に施しをすることで、かえって神は敵の罰を重くされるという意味だと解することも出来ます。そういう趣旨の話を伺ったこともあります。

 

 しかしながら、この文脈から考えれば、その解釈は明らかに誤りです。「善をもって悪に勝ちなさい」と教えていながら、私たちが敵に善を行えば、神が敵にもっとひどい罰を与えるということであるというならば、それはただ、自分の手を汚さず、神にきっちりと仕返しをしてもらうということでしょう。

 

 つまり、自分が相手に与えた施しは、相手に対する呪いの行為ということになります。そうすると、どうしてそれが、善をもって悪に打ち勝ったということになるのでしょうか。そのことについて、ドイツの信徒向けに著されたNTD新約聖書注解に、よい解説が記されていました。

 

 「復讐を神の御手に委ねるというのは、一見無力を示しているようであるが、それは内側に神の偉大な愛の力を頂くということだ。そして、その愛の力は、敵の心に、頭に積まれた熱い炭火のような耐え難い思いを与える。

 それは、神様からお灸を据えられたようなことだ。その熱さに耐えかねて、敵は兜を脱がざるを得ない。神の愛は、敵の心をいたく恥じ入らせ、それによって敵の内側から悪意を抜き去ってしまうという、驚くべき力を秘めている。

 こうして、報復を神の手に委ね、自らは善意で答えようとする態度は、安易な神頼みと現実逃避ではなく、驚くべき底力のある強さであり、悪を克服する善の力を信じて、善をもって悪に打ち勝とうとするすることである。

 これは、『あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておく、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい』(マタイ福音書5章38~41節)、『あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである』(同43~45節)と主イエスが山上の説教で教えられたことを、パウロなりの立場と方法で語ったものということができよう」。

 

 つまり、神の報復というのは、天から火を下して敵を滅ぼすという重い罰などではなく、圧倒的な愛の力によって敵愾心や悪意を打ち砕き、神の御前に恥じ入らせ、思いを転化させるというものだというのです。

 

 これは、頭で考えて納得出来るものではないかも知れません。きっと甘過ぎると感じることでしょう。 そう上手くことは運ばないと思うでしょう。けれども、それがキリストの教えに示された神の愛なのです。そしてそれは、キリストの十字架に示されるものです。神は、私たちの罪を御子キリストに負わせ、私たちに愛を示し続けてくださっています。

 

 そのことに気づかされたとき、私たちの内側に、己が罪ゆえに主イエスが苦しまれたことによる耐え難い痛みと、どう申し上げてよいのか分からない感謝が湧き上がって来ます。キリスト・イエスのお蔭で神との間に平和を得た私たちは(ローマ書5章1節)、与えられた聖霊を通して心に神の愛が注がれており(同5章5節)、それによって苦難をさえ誇り、喜びとすることが出来ます(同3節)。 

 

 そのように神の愛を受けた者として、主の教えに従い、聖霊の力と導きを受けて、その愛に生きるものとして頂きましょう。

 

 主よ、私たちが受けている考えられないほど大きな愛と赦しを、私たちの回りにいる人に少しでも示して行くことが出来ますように。苦々しい思いを持つ人にも、挨拶から会話を始めることが出来ますように。私たち自身の内に愛の奇跡を起こしてください。 アーメン

 

 

「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」 箴言26章12節

 

 26章は、三部に分けられます。第一部(1~12節)は「愚か者」についての格言、第二部(13~16節)は「怠け者」、そして第三部(17~28節)には「欺き」や「陰口」、「唇」、「うそをつく舌」など、発言に関する格言が並んでいます。

 

 第一部で、4節に「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな」とあり、続く5節には「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ」と記されていて、相矛盾した格言が肩を並べています。ということは、この二つは、絶対的な言葉ではないことを示しています。

 

 つまり、愚か者とされる人に対して、どんな場合でも一つの対応をとるというのではなく、ある時には、その無知にふさわしい答えをしてはならず、またある時には、その無知にふさわしい答えをしなければならないというわけです。であれば、ふさわしい答えをすべきなのか、そうすべきではないのか、いずれの対応をするべきかを弁える知恵を得る必要があるということになります。

 

 そうすると、ここに集められているその他の格言も、いずれも律法主義的に読まれるべきではなく、人を生かす言葉として、そのときどきに知恵をもって読まれなければならないわけです。

 

  「無知にふさわしい答えをするな」とは、「ネコに小判」、「馬の耳に念仏」といった言葉を連想しますが、「あなたが彼に似た者とならぬために」という言葉から、無知な人の相手をするな、愚か者の仲間になるなという意味になります。

 

 一方、「無知にふさわしい答えをせよ」とは、「彼が自分を賢者だと思い込まぬために」というのですから、彼の無知、言葉の誤りなどを正しく指摘してやりなさいという意味でしょう。

 

 「愚か者」シリーズの最後に、冒頭の言葉(12節)の通り、「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望を持てる」と記されています。賢者と思い込んでいる者よりも愚か者の方がまだましということは、「自分を賢者と思い込んでいる者」が、最上級の愚か者であるということになります。

 

 5節との関連で、愚か者の中には、自分の誤りや無知を指摘してくれる人の言葉を聞いて、自分が賢者だと思い込まないように出来る者がいると考えられます。であれば、自分が賢者だと思い込んでいる者は、他者の意見や忠告に耳を貸そうとしないということになります。それで、自分の無知を悟らず、その誤りを修正することが出来ないので、最も愚かな者ということになるわけです。

 

 16節にも「怠け者は自分を賢者だと思い込む。聡明な答えのできる七人にもまさって」とあります。「七人」は完全数ですから、すべての賢者を意味すると解することが出来ます。怠け者は、自分の賢さが聡明な答えの出来るすべての賢者に勝るというのですから、自分が世界で一番の賢者と思い込むということですね。

 

 つまり、聡明な答えをする訓練や努力を怠り、そうした賢者の言葉に耳を傾けないということは、自分が一番の賢者だと思い込んでいるだけの怠け者であり、冒頭の言葉との関連で言えば、怠け者でいるよりも、愚か者と呼ばれる者の方がまだ希望が持てるということになるわけです。

 

 というのは、自分の知恵が足りないと自覚すれば、知恵を得るために努力するでしょう。そして、賢者の言葉に耳を傾けることが期待されるからです。

 

 「(偶像に供えられた肉について言えば、)『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(第一コリント書8章1,2節)と、使徒パウロが語っています。

 

 即ち、真の知識は、神を愛する愛に基づくものであり(同3節)、しかもそれは、「神に知られている」という知識なのです。それに対して、他者を見下げておのが知識を誇る者は、高ぶっているということであり、神を愛さない者と断じられることになります。

 

 かくて、聖書が語る賢者とは、多くの知識を持っている者ということではありません。主を畏れ、神と隣人を愛する者を、賢者と呼んでいるのです。主を畏れる者は、自分の弱さ、愚かさ、罪深さを悟ります。ゆえに神の憐れみを求めて主の御前に進みます。他者の忠告に耳を傾けます。主の導きに従います。そして、主から愛されていることを悟り、主を愛する者となります。

 

 愚か者、怠け者とならないよう、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知って、主の十字架を拝しましょう。主の愛と恵みに与らせていただきましょう。そうして、主を愛する者とならせて頂きましょう。

 

 主よ、御言葉を感謝します。自分が、知らねばならぬことをまだ知らない、愚かな者であることを教えて頂きました。主を愛し、御言葉を慕い求めます。まことの知恵と知識の富をうちに持つ主イエスの御言葉に耳を開かせ、その御心を深く悟らせてください。 アーメン

 

 

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。」 箴言27章1節

 

 冒頭の言葉(1節)の「誇る」と、2節の「ほめる」は、語根(ハーラル)の同じ言葉が用いられています。「ハーラル」は「輝く」という意味の言葉で、「誇る」は、「自分自身を輝かす」(ハーラルのヒトパエル形)ということで、「自慢する、誇る」という訳になっています。

 

 「一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(1節)という言葉について、「明日のことを誇る」という言葉の関連から、ルカ福音書12章16節以下で主イエスが語られた「『愚かな金持ち』のたとえ」という話を思い出します。

 

 豊作で喜んだ金持ちが、蔵を大きく建て替えて、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(同19節)と語るのを、神が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」(20節)と言われました。何年先の保証を持ったつもりでも、明日の命の保証はどこにもないわけです。

 

 ヤコブも、「あなたがたには自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ書4章14,15節)と記しています。

 

 山室軍平聖書注解全集『民衆の聖書15』の箴言20章1~4節の解説に、「あさましや思えば日々の別れかな、昨日の今日にまたも会わねば」という沢庵和尚の言葉や、「明日ありと思う心の徒桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という親鸞聖人の言葉が紹介されています。明日のことは分からないというのは、聖書の専売特許ではないということですね。

 

 そうだからといって、明日に計画を持っていてはいけないとか、明日のことを考える必要はないということではありません。神が私たちに永遠を思う心をお与えになったわけですし(コヘレト3章11節)、神の霊が注がれると、「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル書3章1節)と言われます。夢や幻によって、神が御心を啓示されますが、それは明日を含む未来に関わることでしょう。

 

 また、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)という言葉もあります。神が私たち心に働きかけて望みを抱かせ、実現に向けて働かせられるということです。これらの言葉は、神が明日に計画を持ち、それを私たちに示されると教えています。

 

 しかしながら、私たちは明日に生きることは出来ません。私たちは過去の思い出を持っていますし、明日に夢幻を持つことは出来ますが、しかし、過去に留まって生きることも、未来に先駆けて生きることも出来ません。私たちは常に「今」を生きているのです。明日に夢を持ちながら、過去の様々な経験や知識に学びながら、今日を生きるのです。

 

 主イエスが、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ福音書6章34節)と言われたのは、そのことでしょう。

 

 明日のことまで思い悩むのは、明日に計画を持ち、私たちを生かしておられる主なる神を信頼していないからです。明日のことを誇るのは、明日に計画を持ち、啓示してくださった神の栄誉を自分のものにしようとすることなのです。

 

 あらためて、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」(3章5~7節)との御言葉に耳を傾け、神の御前に謙り、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」(マタイ福音書6章33節)て、御前に進みましょう。

 

 「『誇る者は主を誇れ』。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(第二コリント書10章17,18節)。

 

 主よ、私のうちに見張りを置き、唇の戸を守ってください。私の心が悪に傾くのを許さないでください。主よ、造られたものがすべてあなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたを称え、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。主はすべての者に恵みを与え、造られたすべての者を憐れんでくださるからです。 アーメン

 

 

「貧乏でも、完全な道を歩む人は、二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。」 箴言28章6節

 

 冒頭の言葉(6節)は、19章1節の「貧乏でも、完全な道を歩む人は、唇の曲がった愚か者よりも幸いだ」に非常によく似ています。「貧乏でも」という言い方がなされるということは、貧しいということが人々に忌み嫌われる要因であったことを伺わせます(19章7節)。

 

 ここで、「完全」(トーム)と訳されている言葉には、「誠実」という意味もあり、口語訳は「正しく」、新改訳は「誠実に」、岩波訳は「まっとうに」と訳しています。誰が、完全な道を歩むことが出来るでしょうか。完全無欠の生活など、誰にも出来はしないでしょう。ではなぜ、新共同訳は「完全」という訳語を選んだのでしょうか。

 

 主イエスが山上の説教の中で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)と言われました。不完全な私たちが、どうすれば完全な者となれるというのでしょうか。

 

 人間の知恵や力では、不可能でしょう。けれども、主イエスは私たちに、実行不可能な無理難題を押しつけて、弱り果てた私たちを嘲笑うというようなお方ではありません。であれば、主イエスは、本当に私たちが完全な者となるように願っておられ、そして、なれるとお考えになっているわけです。

 

 太宰府天満宮に祀られている菅原道真が、「心だに 誠の道にかないなば 祈らずとても 神や守らん」(「金玉抄」)という歌を遺しています。心さえ誠実であれば、祈り願わなくても神は守ってくれるというわけです。

 

 ここに、一般的日本人の神観があるといってよいでしょう。はっきり言って、道真は神の守りを当てにしてはいないのです。神の助けや守りがなくても、自分の心を清く、誠実に守ることが出来ると考えているのです。だから、「祈らずとても」と言うのです。しかしながら、現実はそうではありません。

 

 ヨブ記は、神の前に正しく歩んでいる者がなぜ不幸のどん底に突き落とされ、苦しめられるのかという問題を扱った書物です。ヨブは神から、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と評価される人物でした(ヨブ記1章8節)。そのヨブが苦しみを味わうと、死を願い始めます(同3章)。

 

 それを見ると、無垢で正しいというのは、ヨブ自身の実力などではないことが分かります。神の守り、支えがあってはじめて、正しく歩むことが出来る、汚れなき生活が出来るというものだったのです。

 

 アブラハムは75歳のとき、主の言葉に従ってカナンの地に移り住みました(創世記12章1節以下)。主なる神は「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える」(同13章14,15節)と約束されました。

 

 しかし、アブラハムには子がありませんでした。祝福される神にアブラハムが、「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(同15章3節)と言いますと、神はアブラハムに天の星を仰がせ、「あなたの子孫はこのようになる」(同5節)と言われました。

 

 すると、不思議なことにアブラハムは主を信じました。それは、御言葉を心に留め、繰り返し星を見上げているとき、それが自分の子孫の顔に見えて来たということでしょう。主の御言葉を聞き、主が見せてくださったビジョンに心を留めたとき、アブラハムの心は主への信仰に満たされたのです。その信仰を神は義と認められました(同6節)。

 

 「完全な道」とは、神に至る道といっても良いでしょう。それは、主イエスご自身のことです。主イエスが、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)と言われている通りです。

 

 人の誠実さによって、父なる神のもとに到達することは出来ません。主イエスに信頼し、その導きに従って歩む時に、父なる神のもとに至るまったき道を行くことが出来るのです。ここに、新共同訳聖書が、「完全」という訳語を選んだ理由を見ることが出来ます。

 

 日々主の御顔を仰ぎ、御言葉に従い、父なる神を目指して歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、あなたは全能の神であられ、不完全な罪人の私を完全な者とすることがお出来になります。主と主の御言葉に信頼し、すべてを御手に委ねて歩みます。どうか私をあなたの望まれるとおりの者にしてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」 箴言29章18節

 

 冒頭の言葉(18節)で、「幻」(ハーゾーン)は「見る」(ハーザー)という言葉から派生したものですが、これは特に、預言者に啓示と託宣を与える手段として用いられるものです(サムエル記上3章1節、イザヤ書1章1節、ナホム書1章1節。ハバクク書1章1節など)。その意味では、口語訳のように「預言」と訳してもよさそうです。

 

 また、「堕落する」(パーラー)という言葉は「自由にさせる、抑制が効かない」という言葉です。そこから、「自分勝手に振舞う、わがままになる、滅びる」といった意味に解されています。

 

 そこで、口語訳は「預言がなければ民はわがままにふるまう」とし、新改訳は「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」、岩波訳は「幻がないと、民は統制がとれなくなる」、KJV(英欽定訳)は「Where there is no vision, the people perish(幻がなければ、その民は滅びる)」と訳しています。

 

 初代の王サウルの時代には、サムエルという預言者がいました。ダビデの時には、ナタンやガドという預言者がいました。ソロモンに油を注いで王としたのは預言者ナタンですが、彼の治世に預言者は姿を見せなくなります。預言者は、神の代弁者として神の御言葉を語るのですが、その職務の一つは、政治指導者に託宣を告げること、罪を示して悔い改めを迫ることです。

 

 ソロモン王の御世に預言者の姿が見えないのは、あらゆる知恵知識に通じていたので、預言者を必要とはしなかったということかも知れません。しかしながら、国王としての圧倒的な権力によって、預言者の働きを排除していたというのであれば、それは、聖書が求めている、神を畏れる知恵を持つ者の姿ではありません。

 

 ですから、「幻(預言)がなければ民は堕落する」という言葉が、ソロモンの第三格言集(25~29章)に語られているというのが、興味深いところです。あらゆる知恵知識に通じていたソロモンが、娶った千人もの女性たちに惑わされて、主の戒めに背き(列王記上11章1節以下)、その結果、イスラエルの国が分裂する原因を作ってしまいます。

 

 主なる神はソロモンに「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す」(同11節)と仰せになりました。まさに、神の幻、預言の言葉がなかった、否、ソロモンが聞こうともせず、自ら堕落してしまったのです。

 

 私たちは、神の御言葉を「聖書」として、手に持っています。いつでも、御言葉に触れ、それを目にすることが出来ます。御言葉がないわけではありません。けれども、自分に語りかけられた神の言葉として御言葉を聞こうとしないならば、それは、わがままに振舞っていること、信仰が堕落していることと言えるのではないでしょうか。

 

 アモス書8章11節に「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」と記されています。神の御言葉を聞こうとしないから、また、聞いてもそれを行いに表そうとしないから、霊が、魂が飢えと渇きに苦しむことになるというわけです。

 

 一方、ヨエル書3章1節に「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」と記されています。聖霊が注がれると人々は預言をし、夢と幻を見るというのです。

 

 聖霊について主イエスが、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26節)と教えておられます。

 

 パウロは、私たちが聖霊に満たされること(エフェソ書5章18節)と、キリストの言葉を私たちの内に豊かに宿らせること(コロサイ書3章16節)との間に、密接な関係があることを教えています。それによって引き起こされる行動が全く同様だからです。

 

 真理の御霊、弁護者なる聖霊に満たされ、キリストの言葉を絶えず思い起こさせて頂き、かくて、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ者となって、その人のすることはすべて、繁栄をもたらすという祝福に与らせて頂きましょう。

 

 主よ、私たちに幸いを授け、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道に留まらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人にならせてください。私たちはあなたに依り頼み、御言葉と聖霊の導きに従って歩み、心から主を褒め称えます。 アーメン

 

 

「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。」 箴言30章5節

 

 30章は「ヤケの子アグルの言葉」(1節)とされています。残念ながら、アグルもその父ヤケも、どのような人物なのか、皆目見当もつきません。箴言がソロモンの作と考えられているところから、アグルとはソロモンのこと、ヤケとはダビデのこととみなす人もいないわけではありませんが、それではなぜ、ここでソロモンをアグルといい、ダビデをヤケというのか、説明がつきません。

 

 新共同訳は、30章全体を「アグルの言葉」としていますが、70人訳、フランシスコ会訳は14節まで、岩波訳は9節までがアグルの言葉と解釈しています。それ以後は、また別の格言集と考えるわけです。

 

 次の「託宣」(マッサー)という言葉を、固有名詞で地名を示しているという解釈も出来ます(口語訳、新改訳、岩波訳など)。そうであれば、マッサーは、創世記25章14節にイシュマエルの息子(マサ)として記されており、これは、イシュマエル族が住んだアラビア半島の地名を指しているものと考えられます。

 

 また、「神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた」(1節)も、原文では「イティエルに、イティエルとウカルに」という人名に読めます。口語訳、新改訳は、その読みを採用しています。

 

 けれども、これでは全く意味不明なので、単語の区切り方などを変えて、新共同訳のように訳しているのです(岩波訳も同様)。即ち、アグルは神の知恵を得ようとあれこれ尋ね、探し求めたが、満足の行く結果は得られず、疲れ果ててしまったというわけです。

 

 4節の「天に昇り、また降った者は誰か。その手の内に風を集め、その衣に水を包むものは誰か。地の果てを定めたのは誰か。その名は何というのか。その子の名は何というのか。あなたは知っているか」という言葉は、ヨブ記38章4節で「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」と語られている主の御言葉などを思い起こします。

 

 理解出来ない悲しみや苦しみを味わって、ヨブはその理由を神に尋ね、自分の無実を認めて災いを撤回し、苦しみから解放されることを求めました。けれども、納得のいく回答は得られず、いよいよ疲れ果てたのです。しかるに、ヨブ記38章以下の主なる神の言葉は、ヨブの問いに答えるものではなく、質問に質問で返すといった形式になっています。

 

 けれども、主なる神の御言葉を聞いたヨブは、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』。その通りです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(同42章2,3節)と答えました。

 

 そして、「あなたのことを、耳にしてはおりました。今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(同5,6節以下)と続けました。神の圧倒的な迫りを受けて、自らの小ささ、無知を思い知らされ、御前に平伏したのです。

 

 あるいは、ヤケの子アグルもヨブと同じような境遇で、同じような信仰体験をしたのではないでしょうか。そしてこれは、シモン・ペトロが主イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5章8節)と告げた心境にも通じていることでしょう。

 

 アグルは冒頭の言葉(5節)で、「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる」と言います。ペトロは主イエスから、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われて、その言葉に従ったとき、魚が大量に漁れました。ペトロはその現実に驚くと共に、主イエスが神であることを悟り、恐れ戦いてただ御前にひれ伏すほかなかったわけです。

 

 もしも、「主イエスのお言葉とはいえ、私たちは夕べ夜通し働いて何も漁れず、疲れ果てていますし、大体、今ごろ網を降ろしても無駄です」と答えていれば、そのような大漁を見ることはできませんでした。そして、主イエスの御前にひれ伏すことはおろか、主イエスが神であられることに気づきもしなかったことでしょう。

 

 その恵みは、主エスの御言葉に聞き従ったからこそなのです。「身を寄せればそれは盾となる」というのは、そういうことです。私たちも常に自分の罪を認め、主の御前にひれ伏して、その御言葉を聴きましょう。日々、聴いた御言葉を実行しましょう。

 

 主よ、あなたは私たちの前に灯火を輝かし、闇を照らしてくださいます。あなたの道は完全で、あなたの仰せは火で練り清められており、御許に身を寄せる人の盾となってくださいます。絶えず御言葉に聴き従うことが出来ますよう、あなたの平安で私たちの心をお守りください。 アーメン

 

 

「有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。」 箴言31章10節

 

 箴言の最後の章には、二つの段落があり、最初の段落(1~9節)は、マサの王レムエルに彼の母(おそらく太后)が授けた諭しの言葉です(1節)。マサとは、30章1節の「託宣」(マッサー)と同じ言葉ですが、ここでは固有名詞ととり、イシュマエル族の住むアラビア半島にある町のことと考えられています。

 

 岩波訳の傍注によれば、王に対する教訓という文学形式は、古代オリエントではよく用いられていたそうですが、皇太后による諭しというのは、他に例を見ないもののようです。

 

 そして、最後の10~31節は、「有能な妻」に関する格言集です。各節の最初の文字がヘブライ語のアルファベット順に22きれいに並べられているので、「アルファベットによる詩」という註がついています。

 

 12節以下に記されている有能な妻の条件を読んでみて、働き者で、家事だけでなく畑仕事、紡績、機織りなどを巧みにこなし、さらに商売上手、その上に気品があり、知恵を持つという、このすべてに当てはまる女性がいるとしたら、あなたはこの女性を妻に出来ると思いますか。

 

 勿論、そのような女性が結婚してもよいと言ってくれれば、話は別かもしれませんが、私のような者には、到底釣り合いの取れない、有能過ぎる相手のように思われます。すべてというのではなくて、どれか一つでも当てはまるものがあれば、それは「有能な妻」ということではないでしょうか。

 

 有能な人がその力を発揮しやすい環境と、力を出し切れない、もしくは、力を無駄に使ってしまうという環境もあります。働きが認められ、期待されるところでは、時には力以上の働きが出来ます。

 

 28,29節に「息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。『有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる』と」という言葉があります。このようにほめられ、感謝されて、困る人はいないでしょう。

 

 そして、彼女はそこで、期待に応えて素晴らしい働きをすることでしょう。かくて、有能さというのは生来持っているものでしょうけれども、環境によって開発されるものでもあるということが出来ます。

 

 アブラハムが独り息子イサクの嫁選びを、一人の年寄りの僕に託しました(創世記24章1節以下)。僕は命じられるまま、アブラハムの故郷アラム・ナハライムのナホルの町に向かいます(同4,10節)。

 

 ナホルの町に到着して、僕は嫁の条件を考え、神に祈ります。それは、泉の傍らで水を汲みに来る女性に「水を飲ませてください」と頼み、彼のためだけではなく、らくだにも飲ませてあげましょうという女性を、イサクの嫁に決めさせてくださいというものです。

 

 らくだのこぶには脂肪が詰まっていて、渇きに強い動物ですが、水が与えられれば数分間に50~100リットルも飲むそうです。この僕は、らくだを10頭連れていました(同9節)。ということは、500~1000リットルも飲ませなければなりません。

 

 水の重さは1リットルで1キログラムです。つまり500キロから1トンの水を汲まなければなりません。一度に井戸から汲み上げる水の量は知れています。大変な重労働といってよいでしょう。

 

 それを頼まれもしないのに申し出るというのは、その女性が、僕の喉が渇いている様子だけでなく、その家畜にも気を配っている証拠であり、そのように相手を思いやり、周囲に気配りの出来る女性、しかも骨身を惜しまず、むしろ喜んでとばかりそれを買って出る働き者を主人アブラハムの息子イサクの嫁にと、この僕は神に願ったわけです。

 

 神はその願いに答えて、リベカを嫁として連れて行くことになります(15節以下)。そして、イサクはリベカを迎えて妻としました。そこに、「イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(同67節)と記されています。まさに「真珠よりもはるかに貴い妻」を迎えることが出来たのです。

 

 「妻を得る者は恵みを得る」(18章22節)、「賢い妻は主からいただくもの」(19章14節)とありましたが、妻がそうであれば、夫も同様です。すべてを夫と読み替えて、神が恵みを与えるために夫をお与えくださったと受け止めれば、その夫は、賢い者、真珠よりも貴い夫なのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。アーメン

 

 主よ、私たちにふさわしい助け、助ける者を備えてくださり、感謝します。主がお与えくださった伴侶と共に主を仰ぎつつ歩めるということが、なんと平安を与え、慰めを与えてくれるものでしょうか。そこに主が共にいてくださり、恵みを与えていてくださるからです。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設