第二ペトロ書

 

 

「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちをご自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。」 ペトロの手紙二1章3節

 

 ペトロの第二の手紙について、宛名と祝福の祈りが一般的な言葉で述べられているので(1,2節)、本書の読者がはっきりと限定されているわけではありません。まさに公同書簡です。

 

 しかしながら、3章1節で本書が著者の二番目の手紙だと明言されており、そこで前提となっている最初の手紙が第一ペトロ書のことだとすれば、同じように小アジアの北部および西部にいる異邦人キリスト者の集会に宛ててローマから書き送られたものといってもよいでしょう。

 

 12~15節によれば、著者は殉教を覚悟しており、いわば遺言として本書を記しています。著者は本書で、私たちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に入る希望を絶えず想起させて(11節)、読者を励まそうとしています(13節)。

 

 本書の著者は「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロ」(1節)と言い、18節で「聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いた」と、「主イエスの変貌」(マルコ9章2節以下など)の目撃者として、自分が使徒ペトロであると主張しているようです。

 

 しかしながら、本書がペトロの手紙だと確認されたのは、4世紀末の370年代になってからで、それ以前は、真性のペトロの手紙とは見なされていませんでした。そもそも、使徒たちから直接教えを受けた使徒教父と呼ばれる指導者たちや、その次の世代の教会教父たちは、本書の存在に全く言及していません。今日、本書の真正性を支持する研究者は殆どいないと言われています。

 

 著者は、ギリシア・ローマの議論の慣習によく精通し、手紙に見られる議論の様式、言語から、そのルールについて教育を受けた人であることから、日常的にギリシア語を話す、教育を受けたユダヤ人の環境の出身だろうということ、そして、本書は紀元1世紀の終わりか2世紀の初めに執筆されたものと想定されています。

 

 そこには、「再臨の遅延」という問題があり、グノーシス派の異端の教師によって、初代教会の終末の希望は間違っていたという論拠に利用されました(3章4節参照)。その問題に対する正しい認識、信仰を持ち、偽教師に惑わされないよう警告するために、著者は筆をとったのです。

 

 1,2節に挨拶を記した後、冒頭の言葉(3節)で、自分たちに主イエスから与えられたものに注意を向けさせます。主イエスの持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものが与えられました。それはキリストを「認識」(エピグノーシス)することによって与えられたのです。

 

 5~8節に、8つの徳目が記されています。力を尽くして、主イエスを信じる信仰の上に徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、そして愛を加えよと言われます。この徳目は、ガラテヤ書5章22,23節の「霊の結ぶ実」に似ています。

 

 「霊の結ぶ実」は九つの徳目で表されています。しかし「実」は単数形です。それは、心を表現しているのです。霊の実とは、九つの徳が満ちているキリストのご人格を示しています。パウロはキリストのご人格を、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という九つの徳目で表現したわけです。そして、聖霊がキリストのご人格という実を私たちの心に結ばせてくださるというのです。

 

 その関連で考えると、この箇所で8つの徳目が掲げられているのは、著者がこれを主イエスのご人格と考えているのではないかと思われます。このキリストのご人格というのを、4節で「神の本性」と表現しています。私たちが神の本性に与らせていただくため、キリストの栄光と力ある業によって、素晴らしい約束を与えられているのだから、8つの徳目を備えなさいというわけです。

 

 「力を尽くして」(5節)と言われますが、どのくらい努力すれば、神の本性を身に着けさせていただくことが出来るというのでしょうか。言うまでもなく、人間が自分の努力で神の本性を獲得出来るはずがないでしょう。しかし、無理だから身につけなくてよいというのでもありません。

 

 神の本性に与るとは、「神の本性を分け持つ仲間、パートナーになる」(ゲネースセ・セイアス・コイノーノイ・フセオース:ye might be partakers of the devine nature)という言葉です。パウロが、教会はキリストの体であり、信徒一人一人はその部分であるといった言葉(第一コリント書12章12節以下、27節など)を思わせる表現です

 

 また、「わたしたちは皆、顔の覆いをのぞかれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(第二コリント書3章18節)という言葉もあります。教会を神の宮として、その内に宿られる聖霊の働きにより、キリストと似た者となるように造り変えられるのです。

 

 ヨハネも「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(第一ヨハネ書3章2,3節)と言います。

 

  そのことを、「神と私たちの主イエスを知る」(2節)と表現します。この「知る」も3節の「認識」と同じ「エピグノーシス」という言葉で、8節にも「キリストを知る」というところに用いられています。この用語法から、これが本書において重要な鍵言葉であることを表しています。そしてそれは、主イエスとの深い交わりを通して、神の本性を分与されるという仕方で体得した深い認識なのです。

 

 私たちも、命と信心に関わるすべてのものを与えてくださった主イエスの御言葉を信じ、さらに深く主を知るために、御言葉と祈りを通して開かれる主との親しい交わりに、聖霊の導きを祈り求めつつ力を尽くして努めて行きましょう。

 

 主よ、あなたの贖いのゆえに、心から感謝します。私たちはキリストの体の一部分として、その交わりの内に迎え入れていただきました。どうか信仰の歩みが怠惰に流れることがありませんように。サタンの策略に陥って主の恵みを見る視力を失うことがありませんように。聖霊によって心満され、キリストの本姓に与って委ねられた使命を全うさせてください。 アーメン

 

 

「ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。」 ペトロの手紙二2章16節

 

 2章には「偽教師についての警告」が記されていますが、その用語と内容、思想は、ユダの手紙3~13節の論述と一致しています。学者たちは、ユダの手紙の方が先に書かれたと見るべき十分な根拠があると言います。本書の著者が偽教師のことに関して、ユダの手紙を参考にして、ここに警告を記したということです。

 

 「偽教師」(1節)と言われているのは、放縦なグノーシス主義者と見做されています。「彼らは、滅びをもたらす異端を密かに持ち込み、自分たちを贖ってくださる主を拒否しました」(同節)、「しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています」(2節)、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします」(3節)などと記されています。

 

 そして、「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗やみが用意されているのです」(17節)と、ユダ書12,13節を援用しながら偽教師を描写します。彼らは、その見せかけと異なって人を欺き(箴言25章14節参照)、実を結ぶ働きをもたらせないので、深い闇が彼らに対する罰として迫ってくるのです(4節)。

 

 15節から、ユダの手紙11節に列挙されている旧約聖書の三つの例の中から「バラム」の例だけを取り上げています。バラムという人物が、偽教師のことを特徴づけるのにうってつけと、著者が考えたのでしょう。それは、偽教師が神に示された正しい道を捨て、迷いの道に入って行ったという点で、バラムと同じだと考えたということです。

 

 冒頭の言葉(16節)は、民数記22章22節以下の物語を指しています。バラムという預言者が、モアブ人のバラクという王様から、イスラエルに呪いをかけるように要請されました。最初は断りますが、二度目には神の承認を受けて行くことにしました。

 

 ところが、行く途中で主の使いが抜き身の剣をかざして道に立ちふさがっているのをろばが見つけ、道をそれようとします。バラムには主の使いが見えないので、ろばを叩いて道に戻そうとするのです。そのとき、ろばが口を開いて、バラムを諌めるという話です。

 

 「預言者の常軌を逸した行い」というのは、民数記を読む限り、何を指しているのか分かり難いところがあります。15節の「不義のもうけを好み」という表現から、バラクがバラムを厚遇し、あなたが言われることは何でもするという(民数記22章17節)、白紙の小切手に好きな金額を書けというような条件に心動かされたことを指しているのでしょう。

 

 バラムはそれに対して、確かに神に承認を求めたものの(18節以下、20節)、その心は神の前に白紙ではなかったということでしょう。それが、神の御言葉を取り次ぐべき預言者にとって、「常軌を逸した行い」になってしまうのです。それで、ろばには見ることのできた主の使いが、預言者バラムには見えなかったわけです。

 

 ろばに諌められて心が落ち着いたとき、神がバラムの目を開かれ、彼も主の使いを見ることが出来ました。そして、この出来事を通して、バラムは預言者としてもう一度、ただ神を仰ぎ、神が語らせるまま、その御言葉を語るということを学んだのです。

 

 しかし、バラムは馬鹿だなあと笑えばすむ、などという話ではありません。士師記18章に、エフライム族のミカの家に寄宿していたレビ人が、待遇面でダン族の祭司に乗り換えるという話があります。同30節に「モーセの孫でゲルショムの子であるヨナタンとその子孫が、その地の民が捕囚とされる日まで、ダンの部族の祭司を勤めた」と記されています。

 

 ソロモン王の後継者レハブアムの時にイスラエルが分裂し(列王記上12章1節以下)、北イスラエル王国の初代の王となったヤロブアムが(同20節)、金の子牛の神像を2体造り(同28節)、一つをベテルに、もう一つをダンに置きました(同29節)。ベテルは北王国の南端、ダンは北端です。神像を南と北の端に設置して、国全体の守り神としたかたちです。

 

 そして、やがてその罪が、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡と捕囚というかたちで裁かれるのです。この「ダン」という名前が、「裁き」という意味であるというのは、偶然で済ませるわけにはいかないものを感じます。神の祭司たる者が御言葉に立ってしっかり行動しなければ、民も神の裁きを免れない結果を生んでしまうのです。

 

 主イエスは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ福音書18章3節)と、(大人の)弟子たちに教えておられます。子供には見えて、大人に見えない世界があるのです。見えないものを見えると言い張るところに罪があるとも言われます(ヨハネ福音書9章41節:口語訳参照)。

 

 神ならぬものに目が眩まされていないか、心と思いを点検する必要がありそうです。1章9節に「これら(八つの徳目:信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛)を備えていない者は、視力を失っています」と記されていました。

 

 神の御前に謙り、謙遜に従順にキリストの御言葉に耳を傾けましょう。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から始まるからです(ローマ書10章17節)。

 

 主よ、どうか、御言葉によって心を清めてください。信仰の視力を与えてください。いつも主の御顔を仰ぐことが出来ますように。主の御言葉を慕い求めて御前に進ませてください。耳を開いて主の御声を聴かせてください。御心を悟り、喜んで従うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「神の日の来るのを待ち望み、またそれが来るのを早めるようにすべきです。」 ペトロの手紙二3章12節

 

 3章では、主イエスの再臨と世の終わりの到来がテーマになっています。しかしながら、当時の人々は、その到来が遅いために、あるいは、ないかも知れないと考え始めていたようです(4節参照)。そのことについて、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(8節)と言って、神と人間の時間の感覚が違うことを示します。

 

 また、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9節)と語り、神が世の終わりを待望しておられること、それはすべての人々の悔い改めのときとなることを期待しておられると言います。

 

 さらに、「主の日は盗人のようにやってくる」(10節)という言葉で、そのときは神が定めておられること、また、主の日の到来が次第に明らかになって来るというのではなく、突然訪れるということを教えます。

 

 そして、キリスト者として終末に臨む態度について、11節以下に記しています。その中で、冒頭の言葉(12節)に言われている「神の国の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべき」ということについて、考えてみましょう。まず、「早めるようにすべき」というのですから、著者はそうすることが出来ると考えていることが分かります。

 

 主イエスは、「神の国は近づいた」(マルコ福音書1章15節)という言葉で宣教を始められ、そして、「御国が来ますように」(マタイ福音書6章10節)と祈るように教えられました。それは、「主の祈り」といわれる祈りの一部です。

 

 キリスト者は、食前を始め、起床・就寝のおり、その他様々なときに、神に祈るという習慣を持っています。神の国の到来を待ち望み、「それが来るのを早めるようにすべき」だというのであり、「御国が来ますように」と祈るよう教えられているのですから、一日に一度は、「主の祈り」を祈るようにしてみてはいかがでしょうか。

 

 主の祈りは主イエスがいつも祈っておられたもので、それを私たちに教えてくださったという意味で、「主の祈り」と言われています。だから、私たちが主の祈りを祈ることはとても大切で、私たちの祈りの姿勢、信仰の姿勢を正しくしてくださいます。それによって、御国の到来を早めるようにすべきだという神の御心に応えることが出来るでしょう。

 

 「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ福音書24章14節)と言われました。つまり、神の国がやってくるためには、全世界に福音が宣べ伝えられなくてはならないということになります。

 

 聖書を読んだことがない、イエス様のことを聞いたことがないという人がいなくなるように、私たちには、主イエスの福音を伝える責任があるのです。神様は、私たちがすべての人に福音を宣べ伝え終わるのを待っておられるわけです。福音が伝えられれば、終わりの日が来る、神の御国を完成してくださるというのです。

 

 私たちには二つのこと、「御国が来ますように」という祈りと、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と周りの人、家族や友達に宣べ伝える責任があるのです。そうして終末の到来を待望し、その到来を早めるようにせよと語られている命令に応えることが出来るでしょう。

 

 主イエスがこれらのことを語られ、宣教の命令を与えられてから2000年、全世界にこの教えが広められて来ました。それは、神が私たち人間を愛しておられるからです。一人も滅びないようにと忍耐しておられる姿は、放蕩息子の帰りをひたすら待っている父親の姿です(ルカ福音書15章11節以下)。

 

 ヨハネ福音書3章16節では、神を信じる者が一人も滅びないように、独り子を遣わされた、と神様の御愛を表現しています。神は確かに、すべての人が救われることを望んでおられます(第一テモテ書2章4節)。

 

 聖書が書かれた時代、キリスト者たちはこの世では全く少数派でした。ローマ皇帝による迫害の前に、風前の灯といった有様でした。けれども、主の御旨を悟り、聖霊の力を受けた弟子たちは、福音宣教に邁進しました。迫害者であったパウロも復活の主と出会って伝道者となり、世界宣教の働きが開始されました(使徒言行録13章以下)。

 

 私たちにも宣教命令が与えられています(マタイ福音書28章18節以下など)。主イエスが再臨される日まで、主に委ねられた賜物を用いて、働かなければなりません(ルカ福音書19章11節以下、特に13節)。今は、主に命じられた福音宣教、世界伝道のときなのです。

 

 主よ、私たちもあなたを信じて救いの恵みに与りました。それは、あなたが私たちを愛して下さったからこそです。そして、私たちが救われるように祈っておられる方がおられたからであり、また主の御心を悟り、私たちに福音を伝えてくださる方があったからです。どうか私たちも、御言葉に従って生きることができますように。主の御旨を悟り、隣り人の救いのために祈り、また、福音を証しさせてください。 アーメン

 

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