第二テモテ書

 

 

「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」 テモテへの手紙二1章8節

 

 本日から、テモテへの手紙二を読み始めます。冒頭の言葉(8節)に「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と言い、12節に「恥じてはいません」、16節には「恥とも思わず」と、「恥」という言葉が1章で3度も語られます。

 

 6節の「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように」、7節の「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」という言葉と合わせ、ローマ帝国の迫害を恐れ、「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論」(第一テモテ書6章20節)などに惑わされて福音を恥とする思いに捕らわれないよう、励まそうとしているようです。

 

 使徒パウロは、「わたしは福音を恥としない」(ローマ書1章12節)と言います。こういう言い方をする背景には、福音が恥とされることがあるということです。かつてパウロは、キリストの福音を恥と考えて、キリスト教会の撲滅を図り、キリスト者に迫害の手を伸ばしていた者でした。

 

 ところが、パウロは復活の主イエスと出会ってキリストを主と信じる信仰に導かれ、迫害者であったものが基督の福音を宣べ伝える伝道者となりました。「恥としない」というよりもむしろ「誇りとする」という者になっているのですが、あえて「恥としない」という言い方をして、自分の経歴を滲み出させているように思われます。

 

 恐れや不安に脅かされている指導者たちを励ますのに、まず、どのようにして信仰の道に入ったのかを思い起こさせます(5節)。テモテは、パウロの伝道を通して主を信じる者となったのですが、その信仰は祖母ロイスと母エウニケから受け継いだものです。信仰が受け継がれていて、テモテもその素晴らしさを知っていたのです。

 

 私たちも、自分がどのようにして信仰の道に導かれたか、思い出してみましょう。生まれつきクリスチャンという人はいません。また、初めからクリスチャンになりたいと思っているいた人もいないでしょう。色々な人や出来事との出会いを通して、主イエスを信じる信仰に導かれました。そして、それらの出会いの背後には、神様のお導きがあったのです。

 

 そして、祖母ロイスの信仰が母ユニケに、そしてテモテにも受け継がれたように、私たちの信仰も子に孫に受け継がれていく必要があります。また、テモテがパウロの伝道によって信仰に導かれたように、周りにいる知人や友人に福音を告げ知らせる責任が、私たちにはあります。そのため、主の導きを真剣に祈りましょう。

 

 ついでパウロは、神の賜物が与えられていることを思い起こさせます(6節以下)。「わたしが手を置いたことによって」(6節)とは、テモテを伝道者に任命し、その働きのために祝福の祈りをすることです。ということは、神の賜物とは、伝道者としての使命が与えられたこと、そして、その使命のために必要な霊的な知恵や力が授けられたことを示しています。

 

 「賜物を、再び燃え立たせなさい」(6節)と言われているということは、今それが十分に燃えていない、くすぶっていて、そのまま放置すれば消えてしまうような状態になっているということではないでしょうか。かつては熱く燃えていた信仰が、だんだん生温くなり、いつしかその火が消えかかってきているとすれば、問題でしょう。

 

 ヨハネ黙示録3章14節以下のラオディキア教会のように、主から、「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(同16,17節)と言われてしまいます。

 

 それでは、どうすれば賜物を再び燃え立たせることが出来るというのでしょうか。パウロは、神が私たちに聖霊を与えてくださったと言います。そしてその霊は、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」(7節)と言われています。臆病にさせる霊ではなく、力と愛と思慮分別を与える霊をお与えくださったというのです。

 

 「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」と使徒言行録1章8節に約束されています。そして、同2章1節以下で、約束の聖霊が降ったとき、弟子たちは力を得ました。それまで、ユダヤ人たちを恐れて鍵を厳重にかけて部屋に閉じこもっていたのに、聖霊の力を受けるやいなや 、いつの間にか部屋の外に飛び出して主イエスの復活を力強く証言していました(同4節)。

 

 そして、彼らの様々な国の言葉で語り出した神の偉大な御業の証言、使徒ペトロが語り告げた説教(同14節以下)を通して、3000人もの人々が主イエスを信じて群れに加わりました(同41節)。彼らは互いに愛し合い、すべての持ち物を共有にするという生活をしたと報告されています(同44,45節)。

 

 かまどの中でよく燃えている薪でも、一本だけ取り出してよそに置けば、すぐに火が消えてしまいます。しかし、もう一度かまどの中に戻せば、再び燃え始めます。テモテも、神から召されて「多くの証人の前で立派に信仰を表明」(第一テモテ書6章12節)することが出来ました。しかし一人遣わされて奉仕を続ける内に、臆病風に吹かれて火が消えかかるようなことがあったのです。

 

 また、私たちはいつも側にいる人、側にあるものに影響されます。短気な人や神経質な人の側にいて、暢気で鷹揚にしているのは易しくないでしょう。いつの間にか自分もイライラしてきます。嫌な気分になっています。臆病のオーラを放っている人の側にいたら、自分も心配性になるでしょう。反対に、どんなときにも落ち着いている人が側にいれば、私たちも落ち着くことが出来ます。

 

 あなたの側にいるのはどなたですか。その方は、臆病な方ではない、力と愛と思慮分別に満ちている聖霊なる神様なのですと、パウロが教えてくれます。これは、パウロ自身が今、心で体で味わっていることでしょう。パウロの内に力と愛と思慮分別に満ちた聖霊がおられ、彼に、力と愛と思慮分別を与えてくださっているのです。

 

 だから、殉教の死を前にしているパウロが、臆病になっているテモテを慰め、励ましているのです。4章9節に「急いでわたしのところへ来てください」とあります。それはパウロ自身の必要でもあることでしょうけれども、一緒にいて苦しみを共にしながら、その苦しみに打ち勝つ「力と愛と思慮分別の霊」(7節)の強さをも、共に味わいたいのです。

 

 私たちも臆病です。ですから、与えられている信仰、私たちに与えられた召しと賜物のことを、そして、私たちの内に、私たちと共におられる聖霊なる神のことを絶えず思い起こし、祈りと御言葉を通して、ほかの人々をも慰め励ますことの出来る力と知恵をいただきたいと思います。

 

 力と愛と思慮分別の霊に満たされて日々御言葉に耳を傾け、委ねられている主の御業に共に励みましょう。主にあって、私たちの労苦は決して無駄になることがありません。

 

 主よ、どうか私たちの心の眼、信仰の目を開かせてください。御言葉と祈りを通して、主をさらに深く知ることが出来ますように。信仰に立って、委ねられた賜物を主のために用いることが出来ますように。力と愛と思慮分別の霊に満たしてください。そうして、慰めと励ましに溢れる愛の教会を共に建て上げることが出来ますように。 アーメン

 

 

「そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」 テモテへの手紙二2章2節

 

 1節に「あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」とあります。ここで、「強くなる」(エンドゥナモオー)というのは、体力的に強くなるということではありません。精神的な強さとも少し違います。「エンドゥナモオー」は「ドゥナモオー(強める:コロサイ書1章11節)」に「エン」という接頭辞をつけて、意味を強くした言葉です。

 

 この言葉は、牧会書簡の中で3回用いられています(一テモテ書1章12節、二テモテ書2章1節、4章17節)。第一テモテ書1章12節では、伝道者の務めに就かせて頂いたということと同じ意味で用いられています。第二テモテ書4章17節では、福音があまねく宣べ伝えられるために力づけられたと語られています。

 

 つまり、「強くなる」(エンドゥナモオー)という言葉が、牧会書簡では伝道者としての使命が与えられ、その使命を全うすることが出来るようにするという意味で用いられているわけです。ですから、ここでもパウロはテモテに、神の御言葉に従い、伝道者としての使命を全うすること、それ故に苦しみをも喜んで受けることを命じているわけです(3節参照)。

 

 また、「強くなりなさい」というのは、自分の意志や努力で強くなることではありません。「キリスト・イエスにおける恵みによって」と言われます。私たちを強くするのは神の恵みなのです。そして、「キリスト・イエスにおける」とは、「キリスト・イエスの中にいる」(エン・クリストー・イエスー:in Christ Jesus)という言葉です。

 

 パウロはローマ書5章6節で「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに、不信心な者のために死んでくださった」と語っています。そこにある「弱かったころ」という言葉を、同8節では「わたしたちがまだ罪人であったとき」と言い換え、そして同10節では「敵であったときでさえ」と言います。

 

 パウロが考えている弱さとは、罪のゆえに神の敵となっていることです。そこで「強くなる」とは、御子キリストの死によって罪赦され、その血によって義とされ、神と和解させて頂いたということで、今や、神が自分の味方となってくださったということになります(同8章31節)。自分で自分の罪を赦し、神に味方していただくようにすることなど、出来はしません。神様にしていただくほかないのです。

 

 神の御子キリスト・イエスが私たちの罪のために十字架で贖いを成し遂げてくださり、私たちの罪が赦されました。そして神は、私たちのために、私たちの内に聖霊を遣わしてくださいました。聖霊を通して、私たちの心に神の愛が注がれています(同5章5節)。こうして神は、主イエスを信じる信仰を通して、すべての人に神の恵みを注ぎ与えてくださっているのです。

 

 すべての人が神の恵みを味わうのは何のためですか。その恵みに強められて、神の御業、その使命を全うするためです。

 

 冒頭の言葉(2節)で「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人にゆだねなさい」と言います。パウロがテモテに教えたことを、忠実な人に委ねると、彼らはそれを他の人々に教えます。ここに、テモテのなすべきこととして、三つのことが語られています。

 

 まず、パウロの教えを注意深く丁寧に聞くことが上げられます。人に何かを教えるためには、何を教えるのか、教師自身が学ばなければなりません。私たちもそうです。御言葉を伝え、証しするために、まず神の御言葉を聴きましょう。礼拝で、教会学校で、そして、朝ごとのデボーション、清聴の時間に御言葉をいただきましょう。

 

 そして、その教えをほかの人に伝えることが示されます。教会学校や家庭集会、また個人的な交わりの中で証しすること、御言葉の恵みを分かち合うことです。私たちは他の人に教え、伝え、語ることを通して、さらに強く深く、御言葉を学び、恵みを味わいます。

 

 それから、聞くこと、伝えることにおいて他の人の模範になれる人を見出して、その人に教える仕事を委ねるようにと指導しています。模範になれる人の要件とは、その人の有能さや賢さではなく、忠実さです。「忠実」(ピストス)は、「信頼できる」とも訳されます。主に信頼される忠実さを持ちたいものです。

 

 それは、主の御言葉を聴く忠実さ、そして、聴いたことを実行する忠実さですが、ここでは、聴いたこと、学んだことを他者に教える忠実さが語られています。パウロは、テモテにその忠実さを見出したわけです。

 

 パウロは、「多くの証人の面前で」と言っています。これは、テモテが伝道者に任命されたときのことを想像させる言葉です。パウロ自身が大切なこととして受けた教え(第一コリント書15章3節以下)を、忠実なテモテに与えました。その教えを広く告げ広めるように按手の祈りがなされて、テモテは伝道者に任命されたわけです。

 

 そして今度は、テモテが伝道者を生み出す教師として、忠実な人にその大切な教えを委ね、福音宣教の働きが広げられるようにと命じているのです。

 

 これは、弟子作りといわれる部分です。パウロが殉教した後、テモテが自分に代わって使徒の務めを果たすことを期待し、使徒としての働きをテモテに委ねようとしているのです。こうして、パウロの受けた教えがテモテに受け継がれ、テモテが受けた教えが忠実さを認められた人に受け継がれ、そしてその人々からさらに他の人々に告げ広められます。教えが鎖のように受け継がれ、広げられるように指導しているわけです。

 

 8節で「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」と語ります。原文を文字通り直訳すると、「思い起こしなさい、イエス・キリストを、復活された、死の中から、子孫から出た、ダビデの、わたしの福音によれば」となります。

 

 つまり、言葉の順序として、ダビデの子孫として生まれたということよりも前に、死者の中から復活されたということが語られているのです。「イエス・キリストが死者の中から復活された」ということこそ、「わたし(パウロ)の福音」なのです。主イエスは生きておられます。十字架にかかって死ぬという苦難の道を歩まれました。そして、復活され、神の栄光を受けられました。

 

 キリスト者たちは日曜日に礼拝します。それは、主イエスが「週の初めの日」(マルコ福音書16章2節など)、つまり日曜日に甦られたことを記念しているのです。「キリストが甦られた」という福音を、記念としていつも思い起こすのは、思い出として忘れないためなどではありません。

 

 キリストは苦しみと十字架の死を通して、神の栄光を表されました。主イエスに従う者も、主イエスの辿られた道を歩むのです。そこには苦難があるでしょう。意気消沈し、臆病になることもあるでしょう。しかし、苦難の向こうには、神の栄光が輝いているのです。そのその喜びに満ちた輝かしい希望を忘れないように、この福音をいつも思い起こすのです。

 

 キリストが復活され、今も生きておられることが、どれほど大きな喜びであり、希望であるかということを、パウロは自らの死を前に、深く味わっています。このキリストの福音を告げ知らせる務め、御言葉を教える務めを、テモテに委ねます。9節で「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」と語っています。

 

 これは、自分の体は鎖につながれていても、口は動く、神の言葉を語ることが出来るという意味もあります。パウロは、留置所であろうが法廷であろうが、いつでもどこでも堂々とキリストの福音を告げ知らせたことでしょう。その福音は、パウロの作り話などではありません。神の言葉です。だから、鎖でつなぎ止めることは出来ないのです。

 

 さらに、神の言葉がつながれていないというのは、パウロが福音をテモテに教え、次いでテモテがそれを忠実な人に伝え、忠実な人がさらに他の人に告げ広め、それを聴いた人がキリストを信じる信仰に導かれるということで、テモテの仕えているエフェソの教会から、やがて全世界で福音を伝える働きが展開されるようになることを、そう語っているのです。

 

 「わたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい」という命令は、今日も変更されてはいません。私たちにも伝えられ、実行するよう命じられているのです。日毎に主の御言葉を聞き、豊かな恵みを受け、その恵みに強められ励まされて、周りの人に御言葉の恵みを証ししましょう。

 

 主よ、絶えず御前に謙り、朝ごとに御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けさせてください。あなたが光の内におられるように、私たちも光の内を歩ませてください。主との親しい交わりの内に強められ、委ねられている使命に忠実に、喜びと感謝をもって励むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」 テモテへの手紙二3章16節

 

 これから困難(1節以下)を経験するであろう、テモテをはじめとする教会の指導者たちに、10節以下で「最後の勧め」として励ましを与えます。パウロが殉教を目前にしているからです(4章6節以下)。その意味では、これはパウロの遺言とも言えるものです。その中心メッセージは、14節の「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」ということです。

 

 信仰によって生きる者には、迫害が待ち受けています(12節)。また、信仰の道から離れさせようとする惑わしもあります(13節)。当時、様々な教えに振り回されて真理からそれて行くキリスト者が少なくなかったのです。特にグノーシス主義(霊的な知識を重んじるグループ)には、どちらが正統であるか分からなくなるほどの影響を受けていました。それと戦わなければならないわけです。

 

 パウロは、「自分が学んで確信したことから離れるな」(14節参照)と命じる根拠を二つ挙げています。一つは、それを「だれから学んだか」(同節)、思い出すことです。だれからかといえば、勿論パウロから学んだのです。1章13節にも「わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と語られていました。パウロから学んで得た確信に、堅く立てと言われているわけです。

 

 しかし、「だれから」(パラ・ティノーン)というのは、「だれ」(ティス)の複数形が用いられています。即ち、「教師」はパウロ一人ではないわけです。そこで想定されているのは、テモテの母エウニケや祖母ロイスでしょう(1章5節)。母たちから純真な信仰を学び、受け継いだのです。それは、15節の「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っている」という言葉からも窺えます。

 

 ユダヤ教では、5歳になると聖書を読むように教えられたそうです。テモテの場合、父親がギリシア人ですし(使徒言行録16章1節)、生後八日目の割礼も受けていなかったことから(同3節)、それを厳格に行うことが出来たかどうかは不明です。それでも、テモテが幼いときから聖書に触れる環境にあったことは事実でしょう。

 

 二つ目の根拠は、その聖書です。主イエスが聖霊によって荒れ野に導かれ、悪魔の試みに遭われたとき(マタイ福音書4章1節以下)、申命記の御言葉をもって、それらの誘惑を退けられました。ここに「聖書」([タ]・ヒエラ・グランマタ)と記されているのは、旧約聖書のことです。パウロがこの手紙を記した頃、まだ福音書も執筆されていなかったからです。

 

 旧約聖書を指して、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(15節)と記されていることを、しっかりと受け止めましょう。旧約聖書からキリストの福音を聞くことが出来るということですし、キリストを信じる信仰によって、律法主義的な旧約聖書理解から離れ、神の御心を確かに知ることが出来るのです。

 

 なぜならば、 冒頭の言葉(16節)に言うとおり、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」たからです。神の霊は、主イエスが話したことを思い起こさせ(ヨハネ福音書14章26節)、真理をことごとく悟らせ(同15章13節)、主イエスについて証しをされます(同26節)。だから、神の霊の導きの下に書かれた旧約聖書に、キリストの福音が記されているわけです。

 

 主イエスご自身が、[あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」(同5章39節)と仰っています。主イエスを証しする書物として、旧約聖書を読むように教えられます。

 

 また、神の霊は「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(同16章8節)と言われています。神の霊の導きの下に書かれた聖書が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)と言われる所以です。

 

 「導く訓練」(パイデイア)というのは、[子ども」(パイディオン)に関係があり、「教え育てる」という意味の言葉です。何でもインスタントに手に入れるというわけにはいきません。子どもが様々なことを学びながら成長するように、時間をかけて学びます。

 

 「義に導く訓練」ということは、神との正しい関係に導く訓練、神との正しい関係における教育ということです。人と交わり、関係を深めるには、時間がかかります。神と交わり、その関係を深めるのにも、時間が必要なのです。

 

 絶えず御言葉に聴き、御言葉が示す主イエスを信じる信仰の道に歩み、その真理に堅く立ちましょう。

 

 主よ、今日も私たちを御言葉で養い、導きをお与えくださって有難うございます。世の惑わしから、悪の誘いから、私たちを守ってください。聖書の真理に目を開かせてください。目を覚まして、信仰によって歩ませてください。主に仕える者として善い業を行うことが出来るよう、十分に整えてください。 アーメン

 

 

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」 テモテへの手紙二4章2節

 

 1節以下の段落は、パウロが自分の殉教の死と最後の審判を展望しながら、テモテに任務の遂行を命じるという箇所です。パウロの使徒としての使命が終わりの時を迎えており(6節以下参照)、そのバトンをテモテに手渡そうとしているところです。

 

 「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス」(1節)というのは定型句のようで、バプテスマ(洗礼)にあたって用いられた信仰告白の一句だろうと考えられます(使徒言行録10章42節、第一ペトロ書4章5節参照)。「出現」(エピファネイア)はこの場合、終末のキリストの「再臨」を意味しています(第一テモテ書6章14節、第二テモテ書4章8節)。

 

 冒頭の言葉(2節)は、40年前の婚約式で交換した聖書の扉に、家内が書いてくれていた御言葉でした。御言葉の教師として献身し、牧師となって35年目の夏を迎えています。あらためて、この御言葉が迫って来ました。

 

 ここに、五つの命令形の動詞があります。まず、「御言葉を宣べ伝えなさい」(ケールクソン・トン・ロゴン)と言います。何を語るのか、何を宣べ伝えるのか。それは「御言葉」(ホ・ロゴス)です。御言葉とは、神の言葉です。聖書の言葉の知識を語るのではありません。

 

 ですから、語るべき御言葉を神に求めます。神が告げられてもいないことを、神の御言葉として人に語り伝えることは出来ないからです。どんなに教理的に正しい話であっても、キリスト教の教理で人が救われるわけではありません。生ける神の御言葉が人に力を与え、人を救いに導きます。なすべきことを教えます。

 

 私たちは、神が自分に語りかけている言葉として、聖書の言葉を読みます。そこから自分に対する神のメッセージを聴くため、心の耳を澄まします。ときには、御言葉を通して感謝が心を満たします。喜びが来ます。ときには、罪を示され、悔い改めを迫られます。

 

 ときには、何が語られているのか分からず、一日悩むこともあります。けれども、そのように御言葉にしがみつき、御心を求めていくと、次第に御言葉が慕わしいものとなり、私たちの生活になくてはならないものとなってきます。

 

 ヨハネ福音書15章4節で主イエスが「わたしにつながっていなさい」と命じられましたが、それは、御霊の導きを求めつつ、神の御言葉を聴くことです。だから、同7節で「あなたがたがわたしにつながっており」に続けて「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言われているのです。

 

 次に、「折が良くても悪くても励みなさい」(エピステーシ・エウカイロース・アカイロース)とは、時や場所、場面など、その状況の如何にかかわらず、そうすることが相応しくても、そうでなくても、委ねられている任務を遂行できる覚悟、準備をしているようにという勧めです。

 

 医者は、患者を治療する時間を選びません。急を要する場合、患者の都合や自分自身の状況を脇へ置いて、治療を施します。主の福音に仕えている伝道者たちにも、そのような心構え、準備、覚悟を求めているのです。というのも、私たちはしばしば、今が時でないなどという事情、都合を思いつこうとするからです。

 

 勿論それは、相手に非常識になっても執拗に宣教しなければならないということではありません。相手の状況に配慮し、相手の都合を尊重するということは、紛れもなく宣教の一形態です。天使たちの言葉で語ろうとも、愛がなければ、それはただ騒がしい銅鑼ややかましいシンバルと同じで(第一コリント書13章1節)、何も伝わらないからです。

 

 続いて矢継ぎ早に三つ、「とがめ、戒め、励ましなさい」(エレンクソン・エピティメーソン・パラカレソン)と言います。非のあった人にそれを指摘し、非を認めようとしない人を叱責し、正しい道を歩むよう励ますのですが、それは、聖書が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」(3章16節)なものだから、それに基づいて行うわけです。

 

 その際、「忍耐強く、十分に教えるのです」と但し書きがあります。原文は、「すべての忍耐において、そして、(すべての)教えにおいて」(エン・パセー・マクロスミア・カイ・ディダケー:with all long suffering and doctrine)という言葉遣いです。私たちは、他者を裁く裁判官ではありません。相手への愛と尊敬をもって、忍耐強く謙遜に関わることが求められています。

 

 「だれも健全な教えを聞こうとしない」(3節)とき、そのような人々に真心から寄り添い、健全な教えを伝えるというのは、なかなか出来るものではありません。それでも、そこであせらず、慌てず、希望を失わずに、文字通り忍耐強く神に尋ねましょう。私たちの心が十分に満たされるまで、恵みを求めましょう。求め続けましょう。

 

 「(いかに幸いなことか、)主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩編1編2,3節)と詩人は詠いました。

 

 主の教えが生ける水の流れで、それを愛し、口ずさむ人は、「することはすべて、繁栄をもたらす」と言われます。命の水につながっていると、私たちは活き活きと成長し、時が来れば、豊かに実を結ぶことが出来るのです。流れのほとり、命溢れる神の御言葉を自分の側近くに置きましょう。

 

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とローマ書10章8節に言われるのも、このことです。御教えを慕い求め、御言葉を口ずさみ、心に豊かに宿らせましょう。

 

 主なる神様、いつもあなたの教えを愛して、昼も夜もその教えを口ずさみます。どうか、私たちの心にキリストの言葉を豊かに宿らせてください。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から主をたたえさせてください。御言葉に従って歩み、宣教の業に励む私たちの生活を通して、主の栄光が豊かに表されますように。 アーメン

 

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