第一ペトロ書

 

 

「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」 ペトロの手紙一1章22節

 

 本日から、ペトロの手紙一を読み始めます。新約聖書の中で、ヤコブ書からユダ書までの七つの手紙は公同書館と言われ、本書もその一つに数えられています。

 

 本書の差出人は使徒のシモン・ペトロですが(1節)、実際に筆をとって記したのはシルワノです(5章12節)。それは口述筆記ではなく、書き送る内容をシルワノに告げて執筆を依頼し、それをペトロの名で発信したものと推定されます。執筆時期はペトロが殉教したとされる紀元64年ごろ、場所はローマということになるでしょう(5章13節にバビロンとあるのは、ローマのことと考えられます)。

 

 宛て先は「ポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビティニア」(1節)という、小アジア内陸の「各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」(同節)となっており、その意味では、公同書簡という言い方は当てはまらないことになりますが、その内容において、パウロ書簡よりも広範囲の普遍的な内容を取り扱っていて、公同書簡の範疇に入れられていると考えられます。

 

 「離散して」(ディアスポラ)という言葉は、一般にイスラエルから散らされて、異邦人の間に住んでいるユダヤ人のことを指します。ユダヤ人は、居住している都市で市民として受け入れられず、外国人としての扱いを受けました。

 

 本書では、異邦人改宗者を指しているといってよいでしょう。彼らは異邦人ながら、キリストを信じる信仰によって神に選ばれた民、イスラエルに与えられた祝福の継承者とされたのです。それは、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ書3章20節)と言えるということです。

 

 「天」が「わたしたちの本国」なので、この世の生活は「仮住まいをしている」(1節:パレピデーモス)というのです(2章11節も)。17節の「仮住まいする」(パロイキア)は「滞在する」という言葉ですが、口語訳は「宿っている」、新改訳は「しばらくとどまっている」として、その滞在が限定的なものであることを示しています。

 

 新共同訳聖書は、13節以下の段落に「聖なる生活をしよう」という小見出しをつけています。

 

 13節に「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」とあります。「心を引き締め」は、口語訳の「心の腰に帯を締め」というのが直訳に近い言葉です。実際、「腰」(オスフス)という言葉がそこにはあるのです。

 

 長い上着に帯をし、裾をその帯に挟む、裾を引き絡げるようにすると、動きが自由になる、動きの邪魔になるものを始末する準備、それが「心を引き締める」という言葉です。そのうえ、「腰」は複数形です。通常、腰は一つしかないものですが、私たちの動きを不自由にするもの、信仰の妨げになるものが幾つもあるという表現でしょう。

 

 続く「身を慎んで」という言葉は、「酒に酔わないで」(ネーフォンテス)という言葉です。永井訳と呼ばれる私訳聖書では、文字どおり「素面にて」としています。このことで、日本キリスト教団隠退教師の加藤常昭先生が、ドイツ語訳の「素面」という言葉の語源について、「修道士の夜の祈り」という言葉だと紹介しておられます。

 

 普通の人は夜、お酒を飲み、気持ちよい酔いに浸ります。酔って、その日一日の苦労を忘れ、ゆったりとした気分になるでしょう。そして眠りに落ち、夢を見ます。そのようにして、しばしの間、厳しい現実を逃れるわけです。

 

 一方、修道士たちは厳しい掟に従い、しばしば夜を徹して祈りました。そうでなくても、就寝前の祈りと起床して最初にする祈りの間は、4時間ほどしかなかったといいます。つまり、4時間眠るだけで、祈りを続けるということです。

 

 人々が酒に酔い、眠って夢を見ている間に、修道士たちは世の人々の救いのために素面で祈り続けていたのです。「身を慎んで」生きるというのは、そのように祈り続ける修道士の姿に表わされている生き方、即ち、現実に目を背けず、主の助けを祈り求める生き方なのです。

 

 世の人々が厳しい現実から目を逸らし、しばしそこから逃げ出すために酒に酔い、夢を見ようとするときに、修道士たちはどのようにして、その現実に目を留め、祈り続けることが出来るようになったのでしょうか。

 

 それが17節の「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」という言葉に示されているようです。ここに、神は「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」と紹介されています。

 

 「公平に」分け隔てなく「裁かれる方」、それが私たちの「父」なる神です。どうでしょう。神は、その独り子をさえ惜しみなく私たちにお与えくださるほどに、私たちを愛しておられ、私たちの罪を赦し、神の義を得させ、永遠の命を与えて、神の子としてくださいました。神を「アッバ、父よ」(ローマ書8章15節)と呼び得る存在になったのです。

 

 「父」と呼べるのは、その子どもだけです。私たちは明らかに神の子ではありませんが、神の御子が私たちの身代わりに神の裁きをお受けくださったお蔭で、私たちは主イエスの代わりに神の子とされたのです。一方的な神の恵みです。

 

 「本当にこれ、私がもらっても良いんですか、嘘でしょう」というほどに、もらう資格のない者が神から受けるもの、それが恵み、「Amazing Grace」だと話してくれた友がいます。確かに、ビックリ仰天するような、あり得ない神のご親切、御計らいです。決して、私たちの働きの結果、神から与えられた報酬のようなものなどではありません。だから、ペトロは、神を畏れて生活すべきだというのです。

 

 冒頭の言葉(22節)でペトロは「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」と言います。ここで、「真理を受け入れて」というのは、原文は「真理の従順において」(エン・テー・フポアコエー・テース・アレーセイアス in obeying the truth)という言葉遣いです。

 

 「真理」(アレーセイア)とは、パウロによれば、救いをもたらす福音の言葉であり(エフェソ書1章13節)、ヨハネは、キリストご自身が真理であると言います(ヨハネ14章6節)。つまり、何かを真理と認めたというのではなく、キリストを信じ、その福音の言葉に従うことが、真理だというのです。

 

 さらに、「従順」は「フポアコエー」という言葉ですが、「フポ(下へ→従う)」と「アコエー(聞く)」の合成語です。つまり「聞き従う」という言葉なのです。

 

 この言葉を「降伏」と訳す人もいます。即ち、真理を理解した、納得したから、それを実行するというのではありません。そうではなく、降伏です。否応なく、したくなくても無理矢理に従わせられるということです。信仰では、神の御前に常に「降伏、服従すること」が求められるというわけです。それが、神を畏れるということなのではないでしょうか。

 

 ところで、新共同訳聖書はこの「従順、降伏」(フポアコエー)を「受け入れる」と訳していますが、著者ペトロは、いつ真理を受け入れたのでしょうか。神の御言葉の前に、いつ降伏し、神に絶対服従を誓ったのでしょうか。

 

 人間をとる漁師にしようと招かれて従ったときでしょうか(マルコ福音書1章16節など)。それとも「あなたは、メシアです」と信仰を言い表したときでしょうか(同8章29節など)。あるいは、復活された主イエスにお会いしたときでしょうか(ルカ福音書24章34節、第一コリント書15章5節)。その時々に、主イエスに従うことで、真理を受け入れたのだと思います。

 

 しかし、最初からすべての真理を受け入れることが出来たというわけではありません。「あなたこそメシア」と信仰を言い表した後の出来事で、主イエスから「サタン、引き下がれ」(マルコ福音書8章33節など)と叱責されています。ペトロがサタンだという意味ではありませんが、無知、無理解のゆえに主イエスの働きを妨げようとして、叱られたわけです。

 

 そして決定的なのは、主イエスがカイアファの官邸で裁かれているとき、主イエスのことを三度、「知らない」と否定したことです(マルコ福音書14章66節以下など)。マルコは、「呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」(同71節)と、その徹底的な否定ぶりを伝えています。

 

 そのようなペトロの無理解、不信仰にも拘らず、主イエスは真実な愛でペトロを守り導かれました。その真実に触れたという意味では、十字架で亡くなられた主イエスが復活してペトロとお会いになったとき、ペトロはその深い真理を悟らせていただいたことでしょう。

 

 主イエスの生前、弟子たちは最後の晩餐のときまで、誰が一番偉いかと議論しあっていました(ルカ福音書22章24節以下)。しかし彼はここに「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです」と語ります。

 

 罪贖われ、清められたペトロは、十字架で神の愛を知りました。さらに、聖霊の力を受けて復活の福音を語ったとき、神に対する畏れと共に、信者たちが皆一つになってすべての物を共有にする愛の交わりが開かれました(使徒言行録2章43節以下)。

 

 あらためて、キリストに従うことによって「魂を清め」るというのは、14~16節の言い換えといって良いでしょう。神が聖なるお方だから、私たちも聖なる者となる、それは、聖なるキリストに聞き従うことによってであるというわけです。

 

 ここでペトロは、読者の目を「兄弟愛」へと向けさせます。「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」というのは、「偽りのない兄弟愛へと(魂を清め)」(エイス・フィラデルフィアン・アヌポクリトン)という言葉です。「~へと」(エイス)は英語のinto、中に入ろうとしているその方向を示す前置詞です。つまり、魂の清められる方向といいますか、その目標が「兄弟愛」だということです。

 

 神の家族、兄弟姉妹として互いを大切にし合う交わりのために、私たちはキリストにおいて召し集められたのです。互いに、清い心で深く愛し合いましょう。

 

 主よ、あなたの御言葉は永遠に変わることがないと記されており、私たちのあなたの御言葉を聞いて新たに生まれた者となりました。天に蓄えられている栄光の富を受け継ぐ者としてくださったことを心から感謝します。どんなときにも主を仰ぎ、心からその御言葉に従うことが出来ますように。生きた言葉によって魂を清め、互いに深く愛し合うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」 ペトロの手紙一2章10節

 

 1節に「だから」とあります。それは、前の段落で語られていたことを受けて、そのことを根拠として、その帰結するところを示す接続語です。「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」のは、その前段の22節の「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」という言葉を根拠としていると考えてよいでしょう。

 

 つまり、「偽りのない兄弟愛」に生きる者は、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」べきだというのです。逆に言えば、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」が「偽りのない兄弟愛を抱く」ことを妨げ、「真理」から離れて魂を汚させるのです。

 

 私たちは、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」が悪いものであることを知っています。それらが、汚れた心、悪い思いから出て来るものであることを知っています。であれば、それらをすべて捨て去るべきだという言葉に反論することはないでしょう。

 

 しかしながら、それを実行して、それらと無縁の自分になれたかと問われて、「はい」と胸を張って答えることが出来るかと尋ねられると、困ってしまいます。「わかっちゃいるけどやめられない」のです。すべきことをすることが出来ず、やめるべきことが止められないのです。それは、悪を行っているとき、気持ちが悪いわけではないからです。むしろ、人を困らせ、貶めて、愉快になるのです。

 

 いや、私のは悪口ではない、正しいことを言っているのだと思う場合があるでしょう。自分と考え方が違う、自分が正しいと思うことを行わない人を非難し、時にそれを愚かだと笑うことさえします。そのように、自分の正しさを誇り、正義感を満足させながら、人の振舞いを非難し、愚かだと言って笑う。それが本当に正しいことでしょうか。

 

 それが、偽りのない兄弟愛を抱いている人の姿でしょうか。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去った人のしていることでしょうか。確かにそうだと、主の前で胸を張ることが出来るでしょうか。

 

 私たちは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8章7節)と言われた主イエスの言葉で、自分の罪が示され、その場を立ち去らなければならない者なのではないでしょうか。そんな罪人の私が生きているのは、主イエスによって救いに与ったからです。

 

 3節に「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」と記されています。詩編34編9節に「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」という言葉があります。「味わい、見よ、主の恵み深さを」と詠った詩人の言葉を、ペトロはここで「主が恵み深い方だということを味わいました」と、過去形で語っています。

 

 主が恵み深いお方だということを、すでにこの手紙の読者たちは事実として経験したということです。そうです。主が私たちの罪を裁かれるなら、反論の余地はありません。主の裁きは真実です。主が私たちをどんなに非難されても、それは当然のものですが、私たちを非難する言葉を主から聞いたことはありません。むしろ、私たちを愛し、私たちのために救いの御業を完成してくださったのです。

 

 そのことを、使徒ペトロは確かに味わいました。三度も主を否定したペトロ、もはや弟子でもなんでもない、そんなペトロに、復活された主イエスが姿を現されたときのことです。ヨハネ福音書21章15節以下にその物語が記されておりますが、そこで主イエスは、「わたしを愛しているか」とお尋ねになりました(同15,16,17節)。

 

 主イエスに三度も「わたしを愛しているか」(アガパイス・メ)と尋ねられて、ペトロは「悲しくなった」(同17節)といいます。主イエスを三度否定したことが(同18章15節以下、25節以下)、改めて思い出されたからでしょう。自分には、主イエスを愛すると告げる資格もないと、ペトロは考えていたのではないでしょうか。

 

 同21章15,16節に「わたしがあなたを愛していることは、あなたはご存知です」と答え、同17節では「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と応じていますが、その愛は条件付きの、自分に具合が悪くなれば否定してしまう程度の「愛」(フィロス)だったのです。

 

 そして、「あなたはご存知です」と答えたとおり、あの大祭司カイアファの官邸で、三度も主イエスを否んだことは、主イエスが預言されていたことであり(マルコ14章30節など)、ルカによれば、三度主を否んで鶏が鳴いた時、主は振り向いてペトロを見つめられたと言います(ルカ22章61節)。自分の愛には偽りがあるということを思い知らされた瞬間です。

 

 そのペトロが、「主が恵み深い方だということを味いました」というのです。これは、本当に味わい深い言葉ではないでしょうか。主イエスは一度も、ペトロを責めることはありませんでした。よそで、ペトロの悪口を言い、陰口をたたかれることもありませんでした。再び立ち上がることが出来るように、その愛を貫かれたのです。その恵みを「あなたがた」も味わっただろうというのです。

 

 「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨て去れという1節の言葉と、「主が恵み深い方だということを味わいました」という3節の言葉の間に、2節の「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」という言葉があります。

 

 真理を受け入れて、魂を清めたクリスチャンに「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と勧めます(2節)。「霊の乳」(ト・ロギコン・ガラ)とは、ロゴスの乳つまり、御言葉の乳という意味です。「混じりけのない」(アドロス)とは、「ドロス(偽り、欺き、狡猾)がない」という言葉で、「人間の悪知恵などではない、純粋な」ということです。

 

 「霊の乳」という「乳、ミルク」がどこかにあるというわけではありません。乳飲み子が乳を飲んで成長するように、神の御言葉の恵みを受けて成長しなさいということでしょう。主イエスのもとで三年間、まさに混じりけのない霊の乳を受けて育ったペトロならではの表現だと思います。

 

 どこに行けば、その混じりけのない霊の乳を手に入れることが出来るのでしょうか。ペトロは4節で、「主のもとに来なさい」と言いました。「主」とはキリストのことです。キリストのもとに来るとは、主イエスを信じる者が「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるように」することです(5節)。

 

 「霊的な家」とは教会を指しています。教会に集い、そこで語られる神の御言葉を聞くことです。その霊的な家のかなめ、隅の親石という大黒柱を支える土台の石が主イエスです。そして、各自はその家の1ブロックです。でもその一つ一つのブロックは生きています。死んだ石ではなく、「生きた石」。命の温もりが伝わる、心が通じ合う集いなのです。

 

 生きた石によって造り上げられる霊的な家では、各自が聖なる祭司として、神に喜ばれるいけにえを献げます(5節参照)。9節にも「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と記されています。私たちが選ばれたのは、祭司としての務め、神に喜ばれるいけにえを献げるため、と読むことが出来ます。

 

 冒頭の言葉(10節)にあるとおり、私たちは、かつては神の民ではありませんでした。本来、「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章6節)と語られたのは、イスラエルの人々のことです。

 

 冒頭の言葉の中に二重かぎ括弧(『 』)があります。これは、引用文であることを表します。どこからの引用かというと、ホセア書2章25節からの引用なのです。これが、神の民でなかった者を神の民とするという根拠になっているわけですが、ホセア書を読めば分かるとおり、これも、イスラエルのことを指しています。

 

 神に背いて自分勝手に他の神々を拝むイスラエルに対して、神がもはやお前たちはわたしの民ではない(ロ・アンミ)と言われたのですが(ホセア書1章9節、2章1,25節)、しかし、神が苦しむイスラエルを顧みて、その憐れみのゆえにもう一度、わたしの民(アンミ)とするということでした(同2章3,19,25節)。

 

 しかし、ペトロ書ではその言葉を引用しつつ、これは小アジアにいる異邦人クリスチャンに対して語られていることと言っているのです。私はたちも神に敵対して歩んでいる者でした。そのままでは、神の怒りに触れ、裁かれるべき存在でしたが(エフェソ書2章3節)、今は神の憐れみを受けて、共に天の王座に着く神の祭司、聖なる民としていただいたのです(9節、エフェソ書2章4~6節)。

 

 私たちが祭司として献げる、神に喜ばれるいけにえとは、まず何よりも、私を憐れみ、愛してくださる神への感謝、主の御名をほめ讃える賛美です。

 

 また、裁かれるべき私が神の憐れみを受けて神の民とされたということは、すべての人が神の恵みによって神の民となることが出来るという福音です。この福音が告げ知らされなければなりません。ここに、福音宣教の務めがあります。

 

 そして、私の隣り人、家族や友人たちがその恵みを受け入れるように祈る祈りです。

 

 主よ、私たちに絶えず、混じりけのない霊の乳をお与えください。それによって成長させてください。そして、あなたに選ばれた者として、祭司の務めを果たすことが出来ますように。そのために必要な霊の知恵と力を授けてください。 アーメン

 

 

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」 ペトロの手紙一書3章9節

 

 2章13節に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と語った後、「召使いたちへの勧め」(同18節以下)、「妻と夫(への勧め)」(3章1節以下)と、いわゆる家庭訓が記されています。このような家庭訓は、エフェソ書5章22節以下、コロサイ書3章18節以下、第一テモテ書2章8節以下、テトス書2章2節以下にもあります。

 

 初代キリスト教会は、すべてのものを神の権威と秩序の下に置く、完全な神の支配が始まる日が来るまで、地上の諸秩序に対して、批判的ではあっても否定的立場をとらず、むしろ肯定し、それに従うべきものと考えていたわけです。

 

 1節に「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」とあります。ここで「同じように」というのは、2章18節の「召使いたち」と同じようにということです。即ち、「召し使いたちと同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と言っていることになります。

 

 これは、当時の女性の社会的、法的な立場を言い表しているとも思われます。様々な理由で、妻たちは夫に依存せざるを得ない弱い立場に置かれていたのです。けれども、ペトロがここで語っているのは、妻を召し使いと同じように考えなさい、召し使いのように扱いなさいというようなことではないでしょう。

 

 7節に「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」とあります。ここにも、「同じように」という言葉があります。「妻たちと同じように」と読めますし、さらに言えば、「召し使いたちと同じように」ということになります。

 

 つまり、主なる神の御前に、妻も夫も「主人に仕える召し使いたち」に倣うよう勧告されているわけで、であれば、妻に対する教えと夫に対する教えは交換可能ということで、妻に語られた言葉に夫も従うべきであり、夫に語られた言葉を妻も聞くべきだということになります。ということは、勧告文の長さの違いは、何ら問題にはなりません。

 

 10~12節は、詩編34編13~17節の引用です。これは冒頭の言葉(9節)で「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」と勧める根拠として、引用されています。

 

 ここに「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は」(10節)とありますが、そのように願わない人はいないと言ってもよいでしょう。誰もが願うことですが、だれもが幸せな日々を過ごしているでしょうか。毎日幸せを噛み締めておられますか。今日はよい一日だったと、毎日思いますか。

 

 また、幸せになろうとして、何かしていますか。お祈りでしょうか、供え物でしょうか。たくさんの供え物をすれば幸せになれると、お金で幸せを買うように説く現世利益の宗教も少なくありません。また、今日がよい日であるかどうかと、運勢判断をしたりします。運勢占いが載っていない雑誌は殆どないでしょう。ウラナイと言いながら、占いの本やグッズがたくさん売られています。

 

 聖書では、幸せな日々を過ごすために、何をせよと言っているでしょうか。それは「舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」(10,11節)ということです。前半は語ること、後半は行いです。

 

 「善を行い」と言われていますが、「善」と「幸せ」とは同じ「アガソス」という言葉です。言葉の上で、「幸せ」は私たちの「善い行い」と関わりがあり、「善」を行って幸せな日々を作り出せと言っているわけです。

 

 善行について、まず「舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず」(10節)と言います。私たちが誰かの悪口をいう場合、理由もないのに、人を悪し様に言うことはないでしょう。相手が悪いから、悪いと言うわけです。そこには、ちゃんと理由があるのです。

 

 しかしながら、正当な理由があれば悪口を言ってもよいと、教えてはいません。そうではなく、冒頭の言葉(9節)で、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならないと教えています。受けた悪に対して、悪を善に作り変え、侮辱に対して祝福を返しなさいというのです。

 

 そんなことをしたら、正直者が馬鹿を見るだけじゃないか、そんなことで幸せになれるものか。悪人はしっかり裁かれるべきだし、きっちり仕返ししないと気持ちがすっきりしないと考えます。そこで聖書は、「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」(12節)と語るのです。

 

 私たちに目を注ぎ、私たちの祈りに耳を傾けられる主イエスは、まさしく、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いられず、かえって、その呪いを祝福に変え、赦しと救いをもたらしてくださいました。それが、ペトロの味わった恵みの経験でした。三度知らないと主との関係を否定したペトロのために、信仰がなくならないように祈り、背きの罪を十字架で赦し、救いの道、命の道を開かれました。

 

 神の御子を十字架で殺すという私たち人類の悪に対して、主イエスは裁きで応酬されませんでした。むしろ、罪の赦しを祈り、福音を告げ知らせ、御国への道を開かれたのです。私たちが救いに与ったのは、この「祝福を受け継ぐため」(9節)、「命の恵みを共に受け継ぐ」(7節)ためです。

 

 主の祝福を受けて、この世に生きる他の人々、特に私たちに対して悪をなす者に主の祝福を届ける務め、命の恵みを受け継ぐように祈る務めが委ねられたのです。私たちは、神の御前に立てるような者ではありませんでしたが、主イエスの贖いの業により、祝福を受け継ぐ者として頂いたのです。

 

 ガラテヤ書4章5~7節にも「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」と記されています。

 

 また、エフェソ書1章13,14節に「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」と語られています。

 

 主の召しに従い、聖霊に満たされ、喜びと感謝をもって祝福を語り、命の恵みを受け継ぐ者となるよう、すべての人々のために執り成し祈りましょう。

 

 主よ、私たちは生まれながらの怒りの子であり、呪われるべき者でしたが、あなたの深い憐れみにより、神の子とされる祝福に与りました。あなたの御言葉を信じ、聖霊の力を受けて隣人に善を行い、祝福を祈る恵みを味わわせてください。絶えず御霊に満たされ、素直に御言葉に聴き従い、召しに相応しく御心に適う道をまっすぐ歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」 ペトロの手紙一4章7,8節

 

 殉教を目前に控えたペトロが、あとに残す教会に信仰の励ましを与えるために、自由の利かない牢獄から、シルワノの筆に託してその思いを書き残してくれました。「身にふりかかる火のような試練」(12節)とありますが、実際にクリスチャンが火あぶりにされていたときです。

 

 5章8節には「ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」とあります。クリスチャンが飢えたライオンと戦い、噛み殺されるところを見世物としたという記録があります。

 

 しかし、ペトロはそれを怖がっているとか、その試練から逃れなさいと言っているわけではありません。「火のような試練」は、1章7節で「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と語られていたものです。

 

 彼らに降りかかる迫害、そして殉教という苦難は、彼らの信仰が本物であることを明らかにし、永遠の命に与らせます(同6,7節、ヤコブ書1章2,3,12節)。それゆえ、彼らを襲う試練は、炉で精錬される金や銀のように、試練に遭うキリスト者たちの信仰から灰汁を取り除き、純化させる火なのです(詩編66編19節、箴言27章21節、ゼカリヤ書13章9節、マラキ書3章2,3節)。

 

 冒頭の言葉(7,8節)で「万物の終わりが迫っている」(7節)というのは、そういう厳しい迫害の中で語られた言葉です。使徒言行録12章で、ヘロデ王による迫害で使徒ヤコブが殉教した後、ペトロ自身も投獄され、処刑されそうになった体験なども、この背景にあるのでしょう。

 

 「万物の終わり」とは、主イエスの再臨と最後の審判を示します。それと共に、万物の終わりという表現で、私たち人間を始めすべてのものは有限の存在、永遠に存在するものではないことが示されています。

 

 私たちキリスト者も審判を受けるべき存在であることが、17節で「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」と語られています。クリスチャンを迫害した者は裁かれるが、クリスチャンは裁かれないなどと言われてはいません。むしろ、神の家から裁かれ始めるのです。

 

 このとき、何が裁きの目安となるのでしょうか。それが、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(8節)と語られた言葉に示されています。「愛は多くの罪を覆う」というのは、箴言10章12節からの引用のようです。

 

 今は互いに愛し合うこと、信頼し合うことが難しい時代です。このような時代の中で、神の愛を受けている私たちが、誰を愛し、誰の罪を覆うことが出来たでしょうか。私たちのこの愛の貧しさが裁かれるのです。

 

 しかしながら、それは私たちを断罪するためではありません。むしろ、私たちの罪を覆う神の愛、主イエスの恵みの豊かさがあらためて示され、御名が崇められるためなのです。

 

 「(万物の終わりが)迫っている」は「近づく」(エンギゾー)の現在完了形の動詞が用いられています。これは、主イエスが「(神の国は)近づいた」(マルコ福音書1章15節)と語られたのと同じ言葉です。完了形を訳に活かせば「近づいてしまった」となり、「既に来てしまった」とさえ訳せます。

 

 「思慮深くふるまい」(ソーフロネオー)を口語訳は「心を確かにし」、新改訳は「心を整え」、岩波訳は「節度を保ち」と訳しています。世の終わりが近づいて来ても、否、既にやって来てしまったとしても、そこで節度を失わず、物事を冷静に見極めるということで、「万物の終わり」をしっかり見定めるのです。

 

 「身を慎んで」(ネーフォー)は、精神的、霊的に「しらふでいる」ということだと、辞書に記されていました。第一テサロニケ書5章6,8節に「身を慎む」とあり、その言葉に挟まれた同7節に「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います」と記されています。それは、厳しい現実から目をそらさず、責任を持って対処するということです。

 

 「よく祈りなさい」(エイス・プロシューカス)は、「祈りのため(for prayers)」(新改訳、岩波訳)という言葉です。つまり、思慮深く振る舞い、身を慎んでいるのは、祈るためということです。私たちを滅びから救い、永遠の命に与らせるために十字架に死なれた主イエスの深い愛を思い、自らの愛の貧しさを知るからこそ、互いに愛し合うことができるよう祈るのです。

 

 私たちを祈りへと導かれる聖霊に常に満たされ、神の栄光に与る希望とともに、信仰のゆえに味わわされる苦難をも誇りとする信仰に(ローマ書5章2,3節)、堅く立たせていただきましょう。聖霊を通して、私たちの心に神の愛が注がれているからです(同5節)。

 

 主よ、私たちはあなたの深いご愛によって罪赦され、永遠の命に生かされました。あなたの恵みなしに生きることはできません。私たちが救いに与ったのは、委ねられた主の業に生きるためです。私たちが、いつも目覚めてあなたの愛に歩み、賜物を活かして互いに助け合い、主の使命を全うするために、常に聖霊に満たしてください。 アーメン

 

 

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」 ペトロの手紙一5章7節

 

 新共同訳聖書は、1~11節に「長老たちへの勧め」という見出しをつけていますが、内容を見ると、1~4節が「長老たち」、5~7節が「若者たち」、そして8節以下はすべての信徒への勧めになっています。

 

 「長老」(プレスビュテロス)という呼称は、年配者を連想させますが、聖書では群れの指導者の呼び名として用いられており、特に新約聖書では教会の指導的地位にいる者を指していて、今日の牧師と同様の立場といってよいでしょう。

 

 1節で、ペトロが「わたしは長老の一人」と言っていますが、これは、1章1節で「使徒」として自己紹介しているペトロが、各個教会の「長老」でもあるということではなく、教会の指導的立場にあることを、そのように表現しているといってよいでしょう。そして、その指導的立場にいるペトロが、教会の指導者に対して、同じ立場で勧めをするというかたちになっています。

 

 2節に「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と、長老の務めが語られています。教会は、神の羊の群れ、つまり、神により、神の働きの所存としてかたち作られた集まりであり、長老はその集まりの世話をするものだということです。ということは、その働きを委ねたのは、神御自身ということになります。

 

 となれば、神の羊の群れに何か異常があれば、長老は神にその責任を問われることになるわけです。ただ、教会の真の責任者は、「大牧者」(4節)という言葉で言い表されている神の御子・主イエス・キリストです。

 

 牧会をする際、自ら進んで、献身的にしなさいと言われており(2節)、「権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」(3節)と語られます。権威を振り回してはいけないと言われるのは、そうする指導者が少なくないからです。指図して従わせる権威者ではなく、自ら僕としての姿勢を示して、群れの模範になれということです。

 

 5節以下には、若い人たちへの勧めが記されています。それは、「長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい」(5節)というものでした。「若い人たち」は特に年齢的に若い人というのではなく、「長老」が教会の指導者なのですから、「若い人たち」は、長老に従うべき教会員のことと言ってよいでしょう。

 

 「長老に従いなさい」という勧めがなされる背景として、「若い人たち」と「長老」との間、即ち、教会員と指導者との間に、何らかの争いがあったのかも知れません。そこでペトロが、長老に従うよう勧めつつ、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と勧めているのです。

 

 「皆」ということですから、若い人だけでなく、長老も謙遜であるように勧められています。それは、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです(箴言3章34節「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る」、マタイ23章12節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」参照)。

 

 つまり、謙遜は道徳的な振舞いというのではなく、それが神の御心だということです。そもそも、長老に対して、群れの模範であれと勧め、若い人たちに、長老に従えということは、長老に対する勧めも、若い人たちに対する勧めも、どちらも同じもの、同じことが勧められているということになるでしょう。それを、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉で明確に言い表しているわけです。

 

 そして6節で、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かのときには高めていただけます」とすべての信徒に対して勧めます。

 

 ここで、「神の力強い御手」(6節)という言葉は、イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセの告げた、出エジプト記13章3節の「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」という言葉に示される、民を救う神の御業を表しています。

 

 また、詩編32編4節の「御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました」という言葉や、使徒13章11節の「今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないであろう」という言葉では、神の裁きや懲らしめを与える「手」として語られています。

 

 神の御手の下で自分を低くするということは、神によって、他者の前で低くされるということです。「自分を低くしなさい」(タペイノーセーテ)というのは、受動態・命令形の動詞です。丁寧に訳せば、「低くされなさい」ということになります。ということは、この表現は、ただ単に神様の前に謙るということではなく、むしろ、神の力で謙らされる、頭を抑えられるということでしょう。

 

 しかも、優しい愛の御手というのではなく、「力強い」神の御手です。これは、無理やり頭を抑えつけられたという状況を思い浮かべることが出来ます。なぜ自分がこんなところで、こんな相手に頭を下げなければならないのか、なぜこんな目に遭うのかと文句を言いたい、本当に神様は私のことを考えているのか、私のことを愛しているのか、疑いたくなるという状況です。

 

 そんな状況に陥っている私たちに、冒頭の言葉(7節)が語られます。「思い煩い」は、「心配」(メリムナ)という言葉ですが、この時代に心配や悩みとは無縁という人はいないでしょう。誰もが様々な心配を抱え、悩んでいます。総ストレス時代と言っても過言ではありません。

 

 自分で処理しきれないストレス、心配事を、神の力強い御手の下に低くされた者として、一切を神に委ねなさいと言うのです。「委ねる」(エピリプトー)は、「エピ(上に)」と「リプトー(投げる)」の合成語で、心配をすべて上に投げるとは、神の手の上に自分自身を置くことといってよいでしょう。

 

 8節に「身を慎んで目を覚ましていなさい。敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています」と言い、続く9節で「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と命じています。つまり、その苦しみ、悩みに対処する方法で思い煩い、神を疑っていると、悪魔にやられるよということでしょう。

 

 だから、信仰にしっかり踏みとどまれ、神様を信頼せよというわけです。「身を慎んで」というのは、「(精神的・霊的に)しらふで」という意味でした。悩みに埋没してないで、お酒に逃げたりしないで、目を開いてよく見てご覧。あなたの頭を押さえつけて、その状況にあなたを置いたのは、神だ。あなたは神の御手の中にある。そうするのは、理由があるのだと。

 

 「自分を押さえつけている状況の上に、神の力強い御手が働いている。神は今、私が謙るよう導いておられる、主イエスの謙遜と柔和を学ぶべきときなんだ」(マタイ福音書11章29節参照)と受け止めることができる人は、幸いです。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。

 

 神は私たちに耐えられない試練、苦しみをお与えにはならないし、逃れる道、乗り越える道も備えていてくださると言われます(第一コリント書10章13節参照)。そして、神は、低くされた私たちを、その力強い御手によって高く引き上げてくださると約束されているのです(6節)。

 

 思い煩いを神にお任せするというのは、どうすればよいのでしょうか。祈りを通して、賛美を通して、主の御名を崇めることです。神を崇めると、私の中で神の存在が大きくなります。そもそも「崇める」とは、この上もないものとして尊ぶことですし、「崇める」と訳される英単語の一つ「magnify」は「拡大する」という意味です。

 

 私たちが思い煩衣、悩んでいるとき、神は見つけることが難しいほど小さくなっています。そのとき、信仰を働かせ、祈り、賛美すると、神が私たちの心で拡大され、神はこの問題を解決できると信じられるというわけです。

 

 常に私たちと共に、私たちの内におられる主イエスを頭として仰ぎ、日々主の御言葉に耳を傾け、聖霊の導きを祈り、賛美の生け贄、主の御名を誉め讃える唇の実を、絶えず神に捧げましょう。

 

 主よ、私たちが悪魔の策略に陥らず、信仰にしっかり踏みとどまり、勝利することが出来ますように。問題の上に主の力強い御手が働いていることを悟らせてください。御子が十字架の死に至るまで従順であられたことに倣い、御前に低くされることを喜ぶことが出来ますように。そして、互いに仕え、従う者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設