第一テモテ書

 

 

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」 テモテへの手紙一1章15節

 

 今日から、テモテへの手紙一を読み始めます。この手紙とテモテへの手紙二、そしてテトスへの手紙の三通を「牧会書簡」と呼びます。そのほかの手紙が、教会に宛てられたものであるのに対し、この三通は、教会の指導者に宛てられており、そして、教会をどのように組織し、教会員をいかに指導すべきかということを教える内容となっているからです。

 

 第二の手紙1章5節にテモテの祖母ロイスと母エウニケの名が記されていますが、父の名はありません。使徒言行録16章1節に「信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた」とあって、母エウニケはクリスチャンでユダヤ婦人であること、ギリシア人の父親はクリスチャンではない、あるいは異教徒かも知れないということが分かります。

 

 信仰がまず祖母に宿り(第一世代)、それが母に引き継がれ(第二世代)、そしてテモテに手渡されました(第三世代)。信仰が世代を超えて引き継がれていく祝福を、このテモテに見ることが出来るように思います。牧会書簡は、第三世代、さらに第四世代に宛てて記されたものといってよいでしょう。

 

 パウロがテモテを右腕とし、自分の信仰の財産を彼に引き継がせようとしているのも、彼のその純真な信仰によるのです。テモテはこのとき、エフェソの教会の指導者として働いていたようです。そこは、かつてパウロが3年余り滞在して教会を整え、周辺を伝道するための拠点としたところです(使徒言行録20章31節)。最愛の教会を最愛の弟子に託しているわけです。

 

 パウロはテモテについて「信仰によるまことの子テモテ」(2節)と呼んでいます。この表現で、彼が信仰に入る決断をしたのは、パウロの導きであることが分かります。血のつながりはありませんが、血よりも濃い信仰による子としてテモテが与えられたことが、本当に大きな喜びであるということを、「まことの子」という言葉で示しているようです。

 

 12節以下にパウロが自分の信仰経験を紹介しながら、感謝の言葉を記しています。パウロとテモテの間で、あらためてこのようなことが記される必要はなかったと思われますが、この手紙は、ただテモテに宛てられた私信、個人的な手紙ではありません。テモテが指導している教会において朗読されることを目的としている、公文書だということです。

 

 パウロの手紙から教えられることは、教えや勧め、警告などを語りながら、神への感謝と賛美を記していることです。12節から17節までの言葉がなくても、つまり11節に18節を直接つなげて読んでも、意味が通じます。けれども、パウロは教えや勧め、警告を語るときに、神に感謝する心で、神を賛美しながら、それをしているのです。

 

 12節に「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」と記されています。それは、主イエスがパウロを「忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」。パウロの務めとは、「キリスト・イエスの使徒」(1節)となることです。

 

 「使徒」(アポストロス)とは、主イエスによって「派遣された」(アポステッロー)使者という意味です。復活された主の福音を委ねられて、彼が主イエスによって遣わされるところはどこででも、その福音を語り伝えるという使命を授けられたのです。

 

 それが感謝であるのは、自分に使徒となる資格があるとは思っていないからです。それは13節で「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」と語っている通りです。そういうパウロに使徒としての務めが与えられたのは、神の憐れみなのです。

 

 神の憐れみがなければ、使徒とされるはずがありません。いえ、神を冒涜して、キリストの教会を迫害し、キリスト者たちに暴力を振るった者ということで、神の呪いの刑罰を受けなければならなかったはずです。

 

 14節に「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました」とあります。「キリスト・イエスによる信仰と愛」とは、「キリスト・イエスの真実と愛」ということでしょう。主イエスの真実と愛のゆえに、パウロのみならず、私たちも恵みによってこの信仰に導かれたのです。

 

 だから、その福音を告げ知らせる使徒とされたことを喜び、感謝しているわけで、だからこそ、「異なる教えを説いたり、作り話やきりのない系図に心を奪われたりしないように」(3,4節)と警告するのです。

 

 その真実は、冒頭の言葉(15節)の通り、「罪人を救うために世に来られた」と言われる主イエスによって、明らかにされました。主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)、「人の子は、失われた者を探して救うために来たのである」(ルカ19章10節)と言われました。

 

 そして、この「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ということを、パウロ自身、ダマスコ途上で経験しました(使徒言行録9章、ローマ書5章6節以下参照)。だから、この「言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と語るのです。

 

 その上、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と語ります。「最たる者」(プロートス)とは「第一の者、かしら」という言葉で、これは、自分以上の罪人はいない(worst)という自覚の表明です。そんな罪人の第一人者を自認するパウロが救われるのは、キリストの限りない忍耐と憐れみのゆえです。

 

 しかも、パウロがそのように語っているのは、彼が以前、彼が神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者だったからというのではありません。過去形で「かつては罪人の中で最たる者でしたが、今はそうではありません」と語っているのではないのです。現在形で、「罪人の中で最たる者です」(I am the worst of sinners)と言っているのです。

 

 これは、パウロが依然として、以前と同じ神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者であるということではありません。そのような罪過は主イエスの死によって贖われ、清められました。既に新しい人生に入れられています。

 

 彼が現在形で語っているのは、罪人を救う主イエスの真実と愛、神の恵みが、彼のうちに現在進行形で働いているということなのです。主イエスの真実がなければ、パウロのような罪人は救われないということです。ここに、自分を憐れみ、恵みを与えてくださる神の前に徹底的に謙り、主の使命に忠実に生きようとしているパウロの信仰の姿勢を、はっきりと見ることが出来ます。

 

 ですから、「罪人の中の最たる者である」というのは、言い換えれば、主イエスの恵みなしには生きられない者、主の憐れみによって生きている者であるいうことです。絶えず神の恵みを求めて、憐れみを求めて祈り、そして、その恵みを頂いていつも喜び、感謝しているのです。

 

 そして、罪人の中で最たる者、罪人の第一人者を自認しているパウロにキリストの真実と愛、神の恵みが授けられたということは、キリストの真実と愛、神の恵みから漏れる者は一人もいない、誰もがその恵みと憐れみを受けて、神の救いに与ることが出来るということです。16節で「わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」と語っているのはそのことなのです。

 

 私たちも主の前に「罪人の中で最たる者」という自覚をもってひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて賛美をささげましょう(フィリピ書2章10,11節参照)。

 

 主よ、パウロの受けた恵み、キリストの真実と愛が私たちにも注がれています。私たちの主の深い憐れみによって救いの恵みに与り、永遠の命に生きることが許されました。それは、すべての人に神の愛が注がれるという、キリストの真実と愛の証明です。この信仰に堅く立ち、絶えず感謝と賛美という唇の実を主に捧げながら、福音を周囲の人々に語り伝えることが出来ますように。 アーメン

 

 

「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」 テモテへの手紙一2章8節

 

 新共同訳聖書は2章に「祈りに関する教え」という小見出しをつけています。祈りに関して1節で「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」と勧めます。ここで、祈りには、願い、祈り、執り成し、そして感謝を含むものであることが明示されます。

 

 そしてまた、すべての人のために祈ることが勧められます。それは、主イエスはすべての人のために贖いの供え物となってくださったからであり、神の憐れみは、すべての人に及ぶものだからです。4節に「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」とあります。すべての人が救われなければなりません。それが神の望みだというのです。

 

 神が望まれて、そのとおりにならないことがあるのでしょうか。神に逆らえるほど、力のある人間はいないでしょう。神がそのように希望を持っておられるのですから、私たちも、私たちの家族はみな救われて、真理を知るようになると信じましょう。御旨がなるように、祈りましょう。

 

 2節では、「王たちやすべての高官のためにも」祈りをささげなさいと勧められていました。これは、ローマ書13章1節以下の教えと呼応していると考えられます。「王たちやすべての高官」というのは、あらゆる政治的な指導者たちのことを指しています。ということは、わが国の首相や役人、国会議員などのために祈りなさいと命じられていることになります。

 

 それは、国家体制や政治権力の維持のためなどではあり得ません。そうではなく、彼らが救われて真理を知るようになるためです。そして、真理に基づき、正義と公正をもって政治を行うためです。権力の座にある者が真理に背き、誤った道を歩むなら、それに対して否を言うことが、彼らのために真実な祈りをささげている証しとなるでしょう。

 

 また天皇と皇族がたのためにも、救いを祈りましょう。現在、天皇や皇族がたに信教の自由があると思えません。しかし、信教の自由こそ、基本的人権の中心です。天皇がキリスト者になる決断に導かれれば、日本人の人権意識に大きな影響を与えることになるでしょう。そのためにというわけではありませんが、天皇と皇族がたも、神によって救いが望まれている対象なのです。

 

 「真理を知る」(4節)というのは、知識の獲得以上の、体験的に真理を味わうことを指します。その真理について、5,6節で示します。新共同訳は散文として訳していますが、原文で5,6節は韻文です。教会の信仰告白のようなものではないかと思われます。これを憶えて唱えさえすれば救われるというのではありません。まさしく、知識の獲得以上の体験が求められるところです。

 

 それは、2000年前のエルサレムで行われた主イエス・キリストの処刑、十字架の死と復活が、現在の自分と深い関係があること、自分と神との仲介者として、私たちの贖いのため、主イエスがご自身を献げられたことであると悟ることです。

 

 どうして、2000年前の人間が自分と関わりがあると了解することが出来るのでしょうか。主イエスが信じられるのは、そして主イエスの贖いが分かるというのは、確かに聖霊のお働きです。聖霊の導きなしに、この信仰理解を持つことは出来ないでしょう。

 

 じっとしていれば、主イエスが神であり、自分の救い主であることが分かるようになるというものではありません。神は唯一であり、神と私との間の仲介者も主イエス・キリストおひとりで(5節)、すべての人の贖いとして御自身を献げてくださったということを(6節)、すべての人が信じて救いに与り、真理を知るように、ここに勧められているとおり執り成し、祈らなければなりません。

 

 こうして、すべての人々のために祈るべき理由を挙げた後、冒頭の言葉(8節)で、「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです」と言います。

 

 ここに「男は」(アネール)とありますが、それを「キリスト者は」と読み替えたいと思います。というのは、私たちがキリストを信じて神の子とされたとき、キリストを着せていただいたのであり、そこでは、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もなく、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤ書3章26節以下)。

 

 岩波訳に「祈りは男だけの義務ではない。なぜここで祈りが男たちへの指示として言及されているかは不明」という注釈がつけられています。ならば、「キリスト者は」と読むというのは、正しいあり方だと思われます。

 

 そして、「清い手を上げて」(エパイロンタス・ホシウース・ケイラス:lifting up holy hands)祈れと言われます。手を上げて祈るというのは、当時のユダヤ教徒やキリスト者たちの祈りの姿勢です。それが祈りの姿勢として常のことであれば、わざわざ「手を上げて」と記される必要はないでしょう。

 

 これは単に祈りの姿勢をいうのではなく、上げている手の聖さを問う言葉なのです。祈りのかたちではなく、上げているその手で何をしてきたのか、あるいは、その手で何をしようとしているのかを問うているわけです。神のために働く「手」を持ちたいと思います。

 

 「手」は複数形、つまり「両手」を上げてということで、それは神をほめたたえる「バンザイ」のかたちであり、そしてまた、神に降参する「ホールド・アップ」の姿でもあります。神の御業に感謝し、その手にすべてを委ね、神に従うという姿勢です。祈る際にそれを神に示そうということです。

 

 「怒らず争わず」と言われているのは、怒りや争う思いが礼拝の場、祈りの場を支配することがあるからでしょう。そういう思いが支配するのは、私たちの心が正しく主イエスに向かっていないからではないでしょうか。感情を誤魔化したり、押さえ込んだりしなさいというのではなく、私たちがどこに立ち、どこを向いているのか、いつも確認したいと思います。

 

 私たちの手は清められているでしょうか。自分で自分の手を清めることは出来ません。清めてくださるのは、すべての人の贖いとして御自身を献げられたキリスト・イエスただお一人です。目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ福音書18章13節)と祈った徴税人に倣って神の憐れみを請いましょう。

 

 そして、私たちが常に新人と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため、両手を上げて、すべての人々が救われ、真理を知るように、願いと祈りと執り成しと感謝をささげましょう。

 

 主よ、どうか、私たちの手を清めてください。御業のために、私たちの手を用いてください。怒らず争わず、御前に祈る心をもって働かせてください。私たちの家族をはじめ、すべての人々を救いに導くことが出来ますように。特に、上に立つ人々に神を畏れる心を与えてください。政治的指導者たちが、真理を悟ることが出来ますように。 アーメン

 

 

「信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」 テモテへの手紙一3章16節

 

 3章には、教会の監督(指導者=牧師、1節以下)、奉仕者(執事、8節以下)の資格について、取り上げています。監督と奉仕者について、その資格に違いを見ると、目につくのは、監督には「よく教えることができなければならない」という規定があることです。

 

 使徒言行録で、食事の分配のことで苦情が出て、それに対処するのに、奉仕者を立てました(6章1節以下)。使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念し、選んだ7人の奉仕者にその仕事を委ね、適正に行わせるということでしたが、ここでの監督と奉仕者の関係は、それを踏襲しているというところでしょうか。

 

 もっとも、使徒言行録の記事には、選ばれた7人が食事の分配についての苦情への対処、公平公正な分配に従事している様子などは、何も記されていません。むしろ、もっぱら伝道者の務めをしているように見えます(6章8節以下、8章4節以下参照)。

 

 それに対して、監督と奉仕者の資格について、双方の共通点は「品位のある人」ということです。確かに、教会を代表する務めに立つ人は、その品格が問われます。到底尊敬できないという人を指導者にすることは出来ません。それが奉仕するすべての人にも問われているということです。

 

 また、「監督は、信仰に入って間もない人ではいけません」(6節)とあり、奉仕者に関しては「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」(9節)と言われています。教会の監督であり、教会に仕える奉仕者、執事なのですから、当然のことながら信仰が問われるわけです。

 

 「信仰の秘められた真理を持っている人」と言われています。「秘められた真理」は原典ギリシア語で「ミュステーリオン」といい、「秘密、奥義」という意味です。口語訳、新改訳は「信仰の奥義」としています。新共同訳は「ミュステーリオン」を一般に「秘められた計画、神秘」と訳しています。

 

 「秘密、奥義」を持っているというのは、特別な知恵を持っているように思われますが、しかしこれは、特別なことではありません。というのは、この信仰の奥義が隠されたものであったのは、神の御子キリストがこの世に来られるまでのことで、今や教会を通して、すべての人々に説き明かされているのです(エフェソ書3章3節以下など参照)。

 

 15節に「神の家」という言葉があります。監督や奉仕者の資格に、自分の家庭をよく治めるという項目があります(4,12節)。自分の家庭をよく治められない人が、神の教会の世話をすることは出来ないと言われています(5節)。信徒の集まりを神の家族、神の家庭として、監督や奉仕者が父親のような、また母親のような役割を果たすことが期待されています。

 

 さらに「真理の柱であり土台である」(15節)という表現で、建物のイメージをここに持ち込んでいます。生ける神の教会は、この地上に神によって、真理を証しするために、柱として立てられ、あるいは土台として据えられたものであると解釈出来ます。

 

 そして、その教会を支配しているもの、教会を満たしているのも、真理です。真理とは、主イエスのことです。主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命なのです」(ヨハネ福音書14章6節)と仰いました。ゆえに、真理を主イエスと読み替えて、主イエスが神の教会の柱であり、土台であるといって良いでしょう。

 

 パウロは第一コリント書3章9節以下で、神の建物というイメージを語っています。そこでは、土台はイエス・キリストで(11節)、その家には神の霊が住んでいるゆえに、それは神の神殿である(16節)と言われます。

 

 また、エフェソ書2章19節以下にも、神の家族、神の住まいという表現が出て来ます。その住まいは、使徒や預言者という土台の上に建てられ、キリスト・イエスはかなめ石であると言われます(20節)。

 

 このように、少しずつその表現は異なってはいますが、いずれも、主イエスとの密接な関係、その交わりが示されており、そして、聖霊の働きにおいて、神の教会=神の家族の交わりが、神の建物、神の住まわれる神殿となることを教えています。

 

 冒頭の言葉(16節)に「信心の秘められた真理は確かに偉大です」とあって、その内容が、肉と霊、天使と異邦人、世界中と栄光という、2行ずつ3対の交読形式で、キリストを天と地の出来事をもって描いています。

 

 「信心の秘められた真理」は「ト・テース・エウセベイアス・ミュステーリオン the mystery of godliness 敬虔の奥義」という言葉です。ここに、信心の秘められた真理とは、キリスト・イエスのことであると歌い上げます。

 

 即ち、地上で「キリストは肉において現れ」と歌うと、天上で「霊において義とされ」と歌う。続いて、天で「天使たちに見られ」と言われると、地上で「異邦人の間で宣べ伝えられ」と言われる。そして、地上で「世界中で信じられ」と読まれ、天上で「栄光のうちに上げられた」と読まれるというわけです。

 

 天と地との交読形式になっていることで、キリストが神であって人となられた方、天と地とを十字架において結ぶ仲介者であられることを示します。本来、天と地の間には大きな淵があって誰もそれを超えられないものでした(ルカ福音書16章26節参照)。けれども、神の御子キリストがこの淵を乗り越えて、人間となって地上においでくださったのです。

 

 そして、救いの御業を成し遂げ、再び天に上げられました。それが「秘められた真理」(ミュステーリオン)と言われていて、キリストを通して、天と地、神と私たちとの間に交わりの道が開かれたということです。上記の通り、主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのも、それを示しています。

 

 ですから、「秘められた真理を持つ」というのは、特別な信仰の知識を持つことではありません。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(1章15節)と告げられる神の福音を受け入れ、キリスト・イエスを私たちの主、私たちの神として信じ、日々主イエスに聴き従う生活をすることです。

 

 キリストがそのようなお方として、教会の柱、土台であられるということは、神の教会も、キリストにおいてこの地上と天の御国とを結ぶ働きをしていることになります。であれば、確かにこの信心の秘められた真理は偉大です。私たちの理解を超え、想像を超えています。教会はたんなる人間の集まりではないということです。

 

 教会の頭なる主キリストに絶えず心の目を向け、主の御言葉に心の耳を傾けましょう。心を尽くし、思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして主を愛し、主にお従いしましょう。

 

 主よ、御子キリストを地上に遣わし、秘められた真理を私たちにも明らかにしてくださり、感謝します。どうか、主の御業を行うため、御言葉をもって御心を示し、その導きに喜んで従わせてください。委ねられている賜物を用いて、全力で主の御業に励む者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「あなたのうちにある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。」 テモテへの手紙一4章14節

 

 12節に、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」とあります。殉教前のパウロは60歳代であろうと思われます。それに対して、テモテはこのとき30代でしょうか。

 

 ただ、年が若くて軽んじられるというのは、テモテ自身の責任ではありません。年若い者に対して、「まだくちばしが黄色い」などと年長者が言われることがあります。確かに経験の差などは、いかんともしがたいところです。けれども、誠実な奉仕、そして語る言葉と行動が真実であれば、人は次第に耳を傾けてくださるようになるでしょう。

 

 「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」(12節)とはそのことです。あらゆる点で誰よりも優れているということが可能だとは思いません。それでも、どんなに言葉や業が拙くても、主に委ねられた務めを誠実に果たし続けることを通して、その忠実さ、守り続ける姿勢が人々の模範になります(15節も参照)。

 

 指導者に権威を与えるのは、神ご自身です。指導者は自ら神の権威をカサに着ることなど出来はしません。神の子の権威は、仕えられることにではなく、仕えるところに表されるからです(マルコ福音書10章45節参照)。教役者は、神の言葉をもって人々に仕えるように召された主の僕です。召してくださった主への畏れをもち、主に委ねられた群れのために忠実に仕えなければなりません。

 

 モーセは優れた指導者で、彼の右に出る者はいないと思いますが、一度失敗しました。それは、イスラエルの民を連れて荒れ野を旅しているときのこと、飲み水がないと不満を言われて、彼が主の命令に従って岩から水を出すところです(民数記20章1節以下)。

 

 神はモーセに、「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」(同8節)と言われました。ところがモーセは「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(10節)と言い、持っていた杖で岩を二度打ちました(同11節)。すると、水は出ました。

 

 けれども神は「イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導きいれることはできない」(同12節)と言われました。神が命じたとおりに忠実に従わなかったと責められ、それで、約束の地に入れることは出来ないというのです。これが、御言葉に忠実に従うべき指導者の使命の厳しさです。

 

 モーセは前に一度、メリバで岩から水を出したことがあります(出エジプト記17章1節以下)。そのとき神は、杖で岩を打って水を出せと言われました。そのとおりにすると、水が出たのです。その経験が、彼を主の御言葉に忠実に従うことを妨げました。彼は、岩に命じるべきところを、岩を杖で打ってしまいます。

 

 彼は、御言葉に従うよりも自分の経験に基づいて行動したほうが確かであると考えていたのでしょうか。それとも「岩を打って水を出せ」と言われたと早合点して行動してしまったのでしょうか。私などはそのクチかも知れません。いずれにせよ、かつての経験が主の御言葉を注意深く聞き、素直に従おうとする思いを鈍らせたのです。

 

 13節で「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」と言われています。「聖書の朗読」(アナグノーシス)とは、礼拝の中で聖書が朗読されることです。そして「勧め」(パラクレーシス)は、礼拝の中で行われる説教です。「教え」(ディダスカリア)は、信徒を整えるための、またバプテスマ志願者に対する教育訓練を指します。

 

 聖書の朗読と勧めと教えに「専念しなさい」(プロスエコー)と命じられるということは、テモテがそれを疎かにしているということではないと思いますが、それが御言葉をもって教会を指導する教役者の使命であり、彼の働きの中で最も大切にされるべきことであると教えます。

 

 もちろん、訪問したり、手紙を書いたりということも大切ですし、集会の準備のための事務的な働き、集会所・礼拝堂の管理的な働きも、しなくてよいわけではありません。けれども、先ず神の御前に出て御言葉を聴き、祈り、そして委ねられた神の御言葉、キリストの福音を語り、信徒を教え、訓練することに打ち込みなさいというのです。

 

 そして冒頭の言葉(14節)のとおり、「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」と言われます。

 

 「恵みの賜物」(カリスマ)とは、神から主イエスを信じる者それぞれに分け与えられた様々な職務、あるいはその職務を果たすために与えられる霊的な力を意味しています(ローマ書12章6節以下、第一コリント書12章4節以下、同28節以下など参照)。

 

 ここで「長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」と言われますが、第二テモテ書1章6節には「わたし(パウロ)が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」とあります。長老たちと共にパウロも長老の一人として按手二加わり、テモテを教職者の務めに任じ、神の祝福を祈ったということを指していると思われます。

 

 「恵みの賜物を軽んじてはなりません」(メー・アメレー・トゥー・エン・ソイ・カリスマトス)と言われるのは、神に委ねられた職務、それを果たすために授けられた知恵と力を軽んじるなということです。これは、ひとりテモテに語られているのではありません。

 

 恵みの賜物は、上に示したとおり、神によってすべての人々に与えられているのです(第一コリント書12章11節)。主イエスが、ある人が僕たちの力に応じて、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預け、商売をさせるという例え話をしておられます(マタイ25章14節以下)。

 

 1タラントンは6000デナリオン、少なく見積もっても3000万円ほどという高額です。それを資本に、どういう商売が出来るでしょうか。主人の期待は、小さくありません。それに恐れをなして、1タラントンを地の中に埋めて隠しておいた者は「怠け者の悪い僕」(同26節)と言われてしまいました。

 

 そうならないために、日々神の前に静まり、御言葉に聴く時をもつ、そのような親しい神との交わりなくして、神の御心をわきまえ、実行することは出来ません。神を畏れ、御言葉に真剣に耳を傾けましょう。信仰をもってその導きに従いましょう。それこそ、パウロがテモテを通して、教会の信徒たちを教え導こうとしていることなのです。

 

 主よ、あらためて御言葉に聴く姿勢を教えてくださり、有難うございます。いつの間にか、経験に頼り、人と比べたりして安心しようとしてしまいます。いつも畏れをもって御前に進ませてください。委ねられた使命を、畏れの心をもって、誠実に忠実に果たしていくことが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」 テモテへの手紙一5章1,2

 

 5章には、若い指導者テモテが教会の信徒たちを指導する要諦が記されています。

 

 冒頭の言葉(1,2節)には、二つの命令形の動詞があります。一つは「叱る」(エピプレーッソー)という動詞、もう一つは「諭す」(パラカレオー)という動詞です。新共同訳で「叱るな」と言われているのは老人だけのように思われますが、「叱ってはなりません。むしろ、諭しなさい」という言葉遣いで、老人だけでなく、若い男や年老いた婦人、若い女性に対しても同様に語られているのです。

 

 即ち、「若い男を叱ってはなりません。むしろ、兄弟と思って諭しなさい。年老いた婦人を叱ってはなりません。むしろ、母親と思って諭しなさい。若い女性を叱ってはなりません。むしろ、常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」と語っているのです。

 

 ここに、教会全体を一つの家族とみなすよう示されます。主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました(マルコ福音書3章35節)。こうしたことから、お互いを、「兄弟、姉妹」と呼び交わすようになったのです。そう呼ぶだけではなく、実際に神による家族として相対せよ、家族としての関係を正しく作るようにと勧めているわけです。

 

 パウロは、若いテモテを「まことの子」(1章2節)と呼んでいました。また、ルフォスの母(おそらくキレネ人シモンの妻)を「わたしにとっても母」(ローマ書16章13節)と記しています。キリストを信じる信仰に立つ仲間を、実際の家族のように考えていた証左です。

 

 しかし、あらゆる人を諭すこと、特に若い者が年老いた方を諭すのは、易しいことではありません。両親を諭すことが出来るでしょうか。生意気に、理屈を言うなと言われてしまうでしょう。4章12節に「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」とありました。

 

 若い指導者が年配者をどのように諭したらよいでしょうか。叱らなければならないような状況があるので、何らかの行動を起こすことが求められるところですが、長い人生経験に対する尊敬の念、相手に対する敬愛の念をもって、謙遜に話をするほかはありません。

 

 「諭す」(パラカレオー)という言葉について、「パラ」は「傍らに」、「カレオー」は「呼ぶ」という意味ですから、「パラカレオー」は、「傍らに呼ぶ」という言葉です。1章3節では「頼む」、2章1節、6章2節では「勧める」と訳されています。

 

 これは通常、「慰める、励ます」という意味で用いられます。第二コリント書1章4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」とありますが、ここで「慰める」というところが「パラカレオー」なのです。

 

 高齢者に希望を与える、慰めに満ちた言葉を語る、若者に勇気を与える、励ましの言葉を語る。私たちは、お互いに慰めを必要とし、励ましを必要としている存在です。そして、お互いが慰めを与え、励ましを与える存在なのです。

 

 神が、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)と言われました。助ける者がいない状態というのは、神の御心ではない。人は助ける者を必要としている。誰かが私の助けを待っている。そして私自身も、誰かの助けを必要としている存在です。そこで、相手を諭すには、励ましや慰めに満ちた言葉を用いるようにということです。

 

 私たちの間に宿られる聖霊は、ヨハネ福音書14章16節で「弁護者(口語訳では「助け主」)」(パラクレートス)と呼ばれ、これは「慰める」(パラカレオー)と同根の名詞なのです。つまり、聖霊は、私たちの傍らに来て助け、慰め、励ましてくださるお方、即ち慰め、励ましの源なるお方なのです(ローマ書15章5節)。

 

 同じ「弁護者」(パラクレートス)が第一ヨハネ書2章1節では、キリスト・イエスのこととして語られています。上述のヨハネ14章16節も「別の弁護者」が父なる神から遣わされるとあって、主イエスが弁護者としての役割を全うして天に帰った後、別の弁護者が天から送られるということです。即ち、聖霊は主イエスと同じ「弁護者」という役割を与えられているのです。

 

 かくて、聖霊が私たちにお与えくださる豊かな慰めや励ましによって、互いに慰め合い、励まし合うことが出来ます。信仰で結ばれた神の家族として、互いに尊敬し、信頼し合う関係を、聖霊の導きと助けによって築くことが出来るのです。

 

 第二コリント書13章11節に「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」とあります。

 

 「励まし合いなさい」には、「パラカレオー」の受身形の動詞(命令形)が用いられています。新改訳、岩波訳は「慰めを受けなさい」と訳しています。他者を慰めよというのではなく、他者から慰められなさいというのです。上に述べた、私たちは「助ける者」を必要としている存在であることを示す言葉遣いです。

 

 励まし合うところに、愛と平和の神が共にいてくださいます。「完全な者になれ」と言われていますが、これは、全能の神に信頼して、自分を完全に明け渡すこと、すべてを神に委ねることです。そして、私たちが神の導きを求め、聖霊の力を求めて手を上げて祈ると、互いに喜び、励まし、一つになり、平和を保つために、愛と平和の神が共にいてくださるというのです。

 

 主こそ、平和の源です(ローマ書15章33節)。主イエスは嵐の海の船の中で、独り安心して眠ることの出来る平和を、心に、魂に持っておられました(マルコ福音書4章35節以下、38節)。平和の主は、荒れ狂う風と波を叱り、凪にすることが出来ました(同39節)。

 

 共にいてくださる愛と平和の神にすべてを委ね、そのために絶えず主の御前に手を上げて主の慰め、励ましを祈り求めしょう。主は私たちを聖霊で満たし、互いに慰め、励ましを与える力を授けてくださいます。

 

 主よ、聖霊の導きにより、互いに尊敬し合い、信頼し合う麗しい家族の関係を築かせてください。神の家族、信仰者同士の間に、愛と信頼の関係を築くことが出来ますように。信徒一人一人を祝してくださいますように。そのために、愛と平和の神である主が、常に共にいてください。すべて約束通りにお与えくださることを信じて感謝します。 アーメン

 

 

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」 テモテへの手紙一6章12節

 

 11節に「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」とあります。ここで、避けるべき「これらのこと」というのは、3節以下に記されている欲望に支配された生き方のことです。

 

 そして、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」と列挙されて、いわば信仰の心、心の姿勢において重要なことがここに示されます。そして、それを追い求めなさいと語っているのです。

 

 その初めに「神の人よ」という呼びかけの言葉があります。新共同訳聖書に「神の人」という言葉が、合計76回用いられています。そのうち75回は旧約聖書にあって、新約聖書ではこの箇所だけです。原典ギリシア語で見ると、実はもう一箇所、第二テモテ書3章17節にも「神の人」と記されているのですが、新共同訳はそこを何故か「神に仕える人」と訳しています。

 

 旧約聖書で、モーセ(申命記33章1節など)、サムエル(サムエル記上9章6節など)、ダビデ(歴代誌下8章14節)、預言者シェマヤ(列王記上12章22節)、エリシャ(列王記下5章8節)などが「神の人」と呼ばれています。即ち、神の人とは、神に託された使命を果たすために、神の特別な霊感を受け、権威を授けられた人のことをいう表現であると言えます。

 

 新約聖書では上記の通り、用例がこの箇所と第二テモテ書3章17節の2箇所だけです。ここで「神の人」と呼ばれているのは、言うまでもなくテモテのことですが、教会の指導者として立てられた人々のことを、そのように呼んでいると考えられます。

 

 教会の指導者たちを「神の人」と呼んでいるのは、彼らが神の使命を果たすために選ばれた者であることを示し、その自覚をもって働くように促すと共に、彼らに指導される教会の人々に、彼らを神によって選び立てられた指導者として愛し敬うべきであることを教えているのです。というのは、避けるべき内面的な事柄だけでなく、外に厳しい戦いがあるからです。

 

 13節の「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス」という言葉で、「神の人」の直面する戦いが、「命」の危機をもたらす、殉教覚悟の戦いであることを暗示しています。

 

 第二テモテ書1章7,8節にも、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と言われています。

 

 だから冒頭の言葉(12節)で「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と命じています。「戦い」(アゴーン)は「競技、組み打ち」という言葉ですが、「苦闘、努力、苦心」という意味で用いられます。英語のアゴニー(agony)は、ここから出たものでしょう。

 

 定冠詞をつけてジ・アゴニー(the Agony)というと、受難前のゲッセマネでの主イエスの苦悩の意味になると、辞書に書いてありました。使命のために起こる苦しみ、迫害や試練などの苦しみを指しているわけです。

 

 私たちには、信仰生活上担うべき痛みや苦しみがあります。負わなければならない十字架があります。主イエスが十字架におかかりになる直前、ゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ福音書14章36節など)と祈られたのは、この十字架が悲しく辛いものだったからです。

 

 けれども、十字架を負うことが神の御心であるならば、「わたしが願うことではなく、御心に適うことができますように」(同36節)と祈られるのです。つまり、受ける苦しみに打ち負かされず、神の使命を全うする、それが、「信仰の戦いを立派に戦い抜」くということなのです。

 

 「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)とパウロが語っていましたが、苦しみを通して与えられる神の恵みと栄光が絶大なので、それを恵みの賜物と語っているわけです。

 

 第二コリント書4章17節に「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」とあり、またローマ書8章18節でも「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と述べています。

 

 私は20年前、持病から体調を壊して2ヶ月半ほど教会からお休みを頂いたことがあります。その後、体調も含めて色々なことに自信を失うという、精神的にも不安定な状態になりました。何をやっても、どんなにやっても、これでよい、大丈夫という思いにならず、他人の視線が気になり、何か批判されると、必死にそれに対応しようとしていました。

 

 色んなことをやろうとして、結局すべて中途半端になってしまうというようなことで、いつしか、牧師を辞めたいという気持ちが芽生え、次第に大きくなりました。いつ辞めようか、どうやって辞めようか、教会に迷惑をかけずに牧師を辞する方法はないかなどと、始終考えているような状態でした。

 

 神様はそんな私に、一つのメッセージを与えてくださいました。それは、超教派の牧師の集いで頂いた、ルカ福音書5章からの説教です。一晩中漁をして一匹もとれず、疲労困憊していたペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(同4節)と主イエスが言われ、それに従うと、大量に漁れたという話です。

 

 完全に自信を失い、疲れ果てているペトロが、やっても無駄としか思えないときに、「お言葉ですから、やってみましょう」(同4節)と言えたのは何故か。それは、主イエスの足もとにすわり、主イエスの語られた話を聞いたから(同3節)、というのがそのメッセージの鍵でした。

 

 考えてみれば、魚が漁れなかったのは、ペトロの腕が落ちたからではない。主イエスの言葉に従って大漁になったのも、当然のことながら、ペトロの腕が上がったからではありません。漁れるはずの時に何も漁れず、漁れないはずのときに大漁になったのは、いずれも神の御業です。主の御言葉に従う恵みをペトロに教えるために、何も漁れない夜と大漁となった昼を経験させられたのです。

 

 私たちが神に召されたのは、私たちの知恵や能力、経験、努力で実を豊かに結ぶからというようなことではなくて、いかに神の御言葉が真実で力のある確かなものであるかということを、まず私たち自身が知り、その喜びをお伝えするためなのです。

 

 「人間をとる漁師になる」(同10節)というのは、私たちの能力や経験が問われるのではなく、私たちを漁師とされる主イエスに対する信頼の心を私たちが持って、いつでも「お言葉ですからやってみましょう」と答えられるように心が整えられているかどうか、そのために、いつも主イエスの足もとに座って、主イエスの言葉を聞いているかどうか、それが鍵だと教えて頂いたのです。

 

 「信仰の戦いを立派に戦い抜き」(12節)と言った後、「永遠の命を手に入れなさい」(同節)と語ります。この「永遠の命を手に入れなさい」というのは、少し意外な言葉です。パウロが命との関連で「獲得する」という言葉を用いることは、この手紙以外にはありません。パウロは、命は獲得するものではなく、賜物として与えられるものと教えているからです(ローマ書6章23節など)。

 

 ここで「永遠の命を手に入れなさい」と言われているのは、福音を宣べ伝えた者が、自ら失格者になるなという意味ではないかと思われます(第一コリント書9章27節参照)。パウロは、自分が主イエスを信じて救われたことと、使徒としての使命が授けられたことを、表裏一体の関係として捉えています。使徒となるために救いの恵みを受けたというわけです。

 

 テモテも、神に召されて多くの証人、キリスト者たちの前で信仰の表明をしました。教会の指導者として、いつでも人々の前で福音を宣べ伝える使命を果たすこと、それが命の恵みに与っているしるしであると言われているのです。

 

 今、私たちが果たすべき最も大切な使命は、神を礼拝することだと思います。それは、日曜日、教会で行われている礼拝に出席することだけではありません。いつでもどこでも、どんな時でも、神を仰ぐ。主こそ神である。私たちに語りかけられる主イエスの御言葉を聴く、その御言葉に従うことです。そのときに、神の御心がはっきり示されます。

 

 御言葉に従って生きる、生活をすることを通して実を結ばせていただきましょう。能力に応じ、賜物に応じて、主の業のために共に励みましょう。

 

 主よ、御言葉を通して主の御心を悟り、あなたの恵みに支えられて、委ねられた使命を果たすという信仰の戦いを立派に戦い抜くことが出来ますように。あなたの憐れみに応え、私たちの体をあなたに喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げさせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設