ヨハネ黙示録

 

 

「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、さらに、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」 ヨハネの黙示録1章4~5節

 

 今日からヨハネの黙示録を読み始めます。本書は、旧約聖書のダニエル書と同様、黙示文学と呼ばれる文学形式や思想的内容を持っています。「黙示」とは「啓示」(アポカリュプシス)という言葉で、神の力によって隠されていたものが露わにされることです。

 

 本書は、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも怒るはずのことを、神がその下織部たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」(1節)だと言います。

 

 本書の著者は「僕ヨハネ」と自己紹介し、2節で「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」と告げています。ヨハネ福音書やヨハネの手紙一、二、三に、署名はありません。また福音書や手紙は誤りのないギリシア語で記されていますが、黙示録は文章が粗野で文法違反が多々あり、およそ同一人物の著述では有り得ません。

 

 本書は、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」(4節)宛てられた手紙という体裁をとっており、著者が七つの教会で指導的な立場にいることが分かります。その言葉遣いから、ユダヤ人キリスト者でパレスティナ出身の人物と考えられます。聖書学者の佐竹明先生は、「ヨハネ」は本名だろうと仰っています。

 

 本書が書かれたのは、ローマ皇帝ドミティアヌスの統治時代(紀元81~95年)の終わり頃であったと、イレナエウスの著書『異端者たちへの反論』に記されています。帝国中のすべての民に皇帝礼拝を要求したのはドミティアヌスが最初でしたが、ヨハネは激しく圧迫されている小アジアの諸教会に宛てて、慰めと警告の言葉としてのメッセージを書き送ったのです。

 

 黙示録の中に「幸い」(マカリオス)という言葉が7回出て来ます(1章3節、14章13節、16章15節、19章9節、20章6節、22章7,14節)。「7」が完全数であることから、神が授けてくださる「幸い」、お与えくださる祝福は、完全なものだという表現でしょう。

 

 言い換えれば、私たちは主なる神が告げられる「幸いなるかな」という祝福の宣言を聞くために、本書を朗読し、その中に書かれていることを守り行うのです。不従順によって「災い」(黙示録中に16回)を収穫するのではなく、真理に従って祝福と力に与りましょう。

 

 あらためて1節に「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」と記されています。

 

 本書は、この表題にも拘らず、ずっと誤解されてきました。最大の誤解は、これが遠い未来の終末を見通して預言した書物であるという誤解です。ヨハネは非常に近い未来、「すぐにも起こるはずのこと」というキリストの啓示を、主イエスが遣わされた天使から受けたと言っているのです。

 

 上述のとおり、本書の執筆当時、ローマ皇帝ドミティアヌスが帝国中で皇帝礼拝を強制していました。キリスト教徒は皇帝を神として礼拝することを拒否して、大変厳しい迫害を受けていました。男性は処刑され、女性はアフロディテの神殿で娼婦として売春を強要され、子どもは奴隷に売られるという酷い目に遭わされたようです。

 

 そのような時代に、最後に神が勝利を取られるという信仰のメッセージ(18章1節以下)を伝えて、迫害下にある信徒たちを、最後まで主に忠実たれ、命の冠を勝ち取れと励しているのです(2章10節など参照)。

 

 2節に「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とあります。「神の言葉とイエス・キリストの証し」とは、ヨハネに伝えられた啓示の内容を示しているとも考えられますが、神の語られた言葉がイエス・キリストにおいて実現した、神の言葉をキリストが証明されたとも解釈出来ます(ルカ福音書1章20,45節、イザヤ書55章11節)。

 

 主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(ヨハネ福音書18章37節)と言われましたが、その証しをこの世は受け入れず(同1章1節)、十字架につけられました(同19章17節)。けれども、三日目に死を打ち破って甦られたのです(同20章9節など)。

 

 十字架にかかられる前、主イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と仰っていました。世に勝ち、罪と死に打ち勝たれたこの主イエスをあらためて思い起こし、信仰を最後まで固く守ろうと励ましているわけです。

 

 冒頭の言葉(4,5節)のギリシア語原文は、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」と言ったあとに「恵みと平和があなたがたにあるように」と語られ、それから「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、その御座の前の七つの霊から」と記されています。ここまでが4節です。

 

 そして5節に「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから」となっています。このままではあまりに直訳的なので、4節と5節をあわせて、新共同訳にあるような訳文になっているわけです。

 

 ここで「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4節)とは、黙示録において父なる神のことを言い表したものです(8節、4章8節など参照)。これは、出エジプト記3章14節の「わたしはある」という言葉を展開したもので、神が過去、現在、未来に存在されるということと共に、不動不変というのではなく、働き続けておられるお方であるという宣言です。

 

 「七つの霊」とは、完全な神の霊、つまり聖霊を指しているものと考えられます(4章5節参照)。また、7という数字で、聖霊の働きの多様さ、あるいは教会に与えられた聖霊の賜物の完全さ、また教会に聖霊が満ちている有様を示しているとも考えられます(5章6節も参照)。

 

 そして、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」として、イエス・キリストを紹介します。主イエスは、再臨によって、神が「やがて来られる方」であることを見える形で具現されます。

 

 また、「(小羊の)七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」という5章6節の表現で、完全な神の霊とはキリストの霊であることを示します。こうして、ヨハネは絵心たっぷりに三位一体の神を描き出しています。

 

 ヨハネは黙示録が私たちに祝福を告げる書であることを、その初めから示しているわけです。これらのことを心に留めて冒頭の言葉を言い換えてみれば、「ヨハネから、全世界の主にある教会へ。父なる神と、玉座の前におられる聖霊と、真実な預言者、祭司、王として君臨されるイエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」という祝祷になります。

 

 あらためて、三位一体なる神の恵みをいつもどのように感じているだろう、味わっているだろうと思いました。神はありとあらゆる方法を通して、私を祝福しようとしてくださっています。

 

 それは、楽しいこと、嬉しいことばかりではないでしょう。しかし、どんなときにも主を仰ぎ、主の祝福を信じたいと思います。今の苦しみも主の恵みに変えられる、いえ、苦しみも主の恵みのうちと信じることが出来れば、本当に幸いです。

 

 主よ、私たちに真実な助け主として主イエスをお遣わしくださり、さらに、聖霊をお遣わしくださって、私たちの信仰を導き助けていてくださることを感謝します。すぐに御言葉に背いてあなたの愛から離れようとする私たちです。日々御言葉を聴き、御旨に従う幸いを絶えず味わわせてください。 アーメン

 

 

「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ヨハネの黙示録2章10節

 

 2,3章には、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)に宛てた手紙が書き記されています。ヨハネの指導している教会がアジア州に七つあり、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(同11節)という神の御声を聴いたのです。

 

 ラオディキアの近くにコロサイがあり、そこにも教会がありますが(コロサイ書参照)、それがここに数えられていないのは、ヨハネの指導する教会ではないからです。そういう点では、「エフェソにある教会」(1節)も、パウロが設立した教会とは別のものと言ってよいでしょう。

 

 「七」は完全数で、これで全世界の教会を代表しているのではないかという説もありますが、それは上記の通り、コロサイが挙げられていないなど、問題があります。アジア州の七つの教会がヨハネの指導するすべてであり、ヨハネが、それらによってこの世における完全な教会を形成しているものと考えていたのでしょう。

 

 エフェソ、スミルナ、ペルガモンは地中海沿岸の港町で、南から順にその名が挙げられています。そして、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアは内陸部の町で、ペルガモンから南東にのびる街道沿いにあり、北から順に並べられています。

 

 パトモス島から一番近いところにエフェソがあり、ここから時計回りに七つの教会を巡ることが出来ます。七つの教会がこの順番に並べられているということは、本書がこの順序で回覧されることを念頭に置いているということでしょう。

 

 七つの教会に宛てて書かれる手紙には、共通の特徴があります。それは、最初に語り手の神の御子キリストのことが、様々な言葉で紹介されます。次いで「知っている」(2節など)という言葉で綴られる、教会に対する賞賛の言葉が記されます。

 

 次に、「しかし、あなたに言うべきことがある」(4節など)と、叱責の言葉が述べられます。ただし、初めから二番目のスミルナと、終わりから二番目のフィラデルフィアの教会への手紙には、叱責の言葉がありません。

 

 その次は、悔い改めを勧告する言葉です。ただ、叱責の言葉が記されなかった二つの教会のうち、スミルナには、苦難を恐れず、死に至るまで忠実であれと命じ(10節)、フィラデルフィアには、持っているものを固く守れと勧めています(3章11節)。

 

 そして、悔い改めないときの裁きの言葉が語られます。勿論、スミルナとフィラデルフィアには、これはありません。それから最後に、「勝利を得る者には」(7節など)で始まる祝福の約束が告げられます。

 

 これらのことから、黙示録において神が教会に望まれること、そして、神に裁かれないよう教会が避けるべきことを学ぶことが出来ます。

 

 冒頭の言葉(10節)は、「スミルナにある教会」(8節)に書き送られた手紙の一節です。スミルナはエーゲ海に面した港町で、現在はイズミルと呼ばれています。ギリシアの植民地として建設された後、リュディア王アリュアッテスによって滅ぼされましたが、紀元前290年頃、アレキサンダー大王の後継者リュシマコスにより、現在の位置に再建されました。

 

 スミルナは、紀元前195年にローマの女神のための神殿を建設するなど、ローマに忠誠を尽しており、ローマが東部地中海沿岸で権力を持つ以前から、忠実な同盟国としてその保護を受けていました。発展した科学とぶどう酒の貿易などで繁栄し、小アジアで重要な、美しい商業都市の一つとなりました。現在でも、アジアの宝石と評されると聞いたことがあります。

 

 スミルナにある教会の信徒たちは、苦難と貧しさの中にいたと、9節に記されています。ローマ時代、多くのキリスト者は下級の貧しい階層に属していました。そして、ローマによる弾圧、異教徒による迫害などの苦しみを受けていました。

 

 黙示録が書かれた当時、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスは自分を神として拝むよう、帝国中で皇帝礼拝を強制していました。スミルナでも皇帝礼拝が盛んになされるようになっていました。皇帝を拝まない者は、不忠者として迫害されたのです。キリスト教会にとって、大変な受難の時代が始まったわけです。

 

 パウロの時代には、上に立つ権威に従えといった勧めがなされていますが(ローマ書13章1節など)、黙示録でははっきりとローマ帝国、皇帝と戦う姿勢が打ち出されてきます。戦うといっても武器を取るというのではなく、帝国の命令に不服従、皇帝礼拝に加わらないという戦いです。

 

 そのため、厳しく迫害されたようです。にも拘らず、そのような弾圧の苦しみの中でも、スミルナ教会の人々は信仰を失うことはありませんでした。むしろ霊的に豊かであり、賞賛に値する信仰生活を守り通したのです。

 

 どのようにして、スミルナの人々は苦難と貧しさを克服することが出来たのでしょうか。それはまず、彼らの上に主イエスの目が注がれていたからです。9節に「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と記されています。主が「知っている」と仰っているのです。私たちの苦しみ、悲しみ、困難な状況を、主が知っていてくださるのです。

 

 主はそれをどのように知られたというのでしょうか。それは、単なる情報としてではありません。8節に「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」と言われます。「最初の者にして、最後の者」というのは、初めから終わりまでずっとおられる方、歴史全体を支配しておられるお方ということです。歴史の支配者として、私たちのことを知っていてくださるのです。

 

 それだけではありません。「一度死んだが、また生きた方」です。肉体の死を味わわれ、そして甦られたのです。その死も、尋常なものではありませんでした。主イエスは、十字架で肉を裂き、血を流されました。イザヤ書53章3~5節の預言の通り、主イエスが御自分の体で私たちの痛みを負い、病を知られ、そして死なれたのです。

 

 私たちの苦難を知り、貧しさを知っておられる主イエスが、冒頭の言葉で「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と語られました。「恐れてはいけない」と言われるのは、私たちが苦難を恐れているからです。「恐れるな」というのは、聖書の中で繰り返し語られるメッセージです。

 

 そう言われて、恐れずにいられる私たちではありません。主イエスがそう言われるのは、主イエスが常に私たちと共にいて、不安や恐れから解放してくださるということです。さながら、怖がって泣いている子どもをあやす母親のような、不安で顔を見合わせている子どもたちの前で毅然としている父親のような、平安と希望をお与えくださる主イエスの言葉です。

 

 スミルナの教会は、信仰に堅く立って試練に立ち向かい、勝利することが出来ました。ドミティアヌス帝の時代に、教会は信徒の数を3倍にしたという記録もあるそうです。ということは、試練にじっと耐えた、じっと我慢の子であったということではありません。むしろ迫害に毅然と立ち向かい、大胆に主イエスの福音を告げ知らせたのです。

 

 ところで、スミルナとは没薬という意味です。没薬は、ミルラというカンラン科の潅木の樹幹から滲み出る黄色の樹液を乾燥させて作ります。できあがった没薬を砕き、磨り潰します。すると素晴らしい薫りを放つ没薬になるそうです。そして、良い香りを放つミルラの粉は、没薬として葬りのときに用いられます。

 

 これは、私たちのことを語っているのではないでしょうか。私たちの中に強い圧迫を感じている人、プレッシャーに押し潰されそうになっている人はいないでしょうか。粉々に打ち砕かれたように感じている人はいないでしょうか。あるいは、死に対する恐れのようなものを感じている人もいるかもしれません。

 

 なぜ、そのような苦しみを味わわなければならないのでしょうか。どうして神は、そこからすぐに救い出してくださらないのでしょうか。その理由のすべてを知ることは出来ませんが、一つ大切なこととして、私たちがキリスト者としてのよい香りを放つためであるということが示されます。

 

 第一ペトロ書5章6節に「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」という御言葉があります。神の強い腕で無理やり頭を抑えられるということです。しかし、それを神の御手の業と信じて、抵抗しないで自らを委ねましょう。神がその御手をもって私たちを高く挙げてくださるからです。

 

 日ごとに、聴くべき主の御言葉に耳を傾けましょう。御言葉を通して自分に語りかけられている主の御心を弁え、それを忠実に守り行うことができるよう、聖霊の導きを祈りましょう。 

 

 主よ、黙示録の御言葉をして、初代のキリスト者がどのような境遇におかれていたか、そこでいかに戦い、勝利したかを学ぶことが出来ます。私たちも聴いた主の御言葉に固く留まり、どんなときにも苦難を恐れず忠実に歩んで、命の冠を授けられる勝利者とならせてください。 アーメン

 

 

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 ヨハネの黙示録3章20節

 

 3章には、「サルディス」、「フィラデルフィア」、「ラオディキア」という三つの町にある教会への手紙が記されています。14節以下は「アジア州にある七つの教会」(1章4節)の7番目、「ラオディキアにある教会」(14節)に宛てて書き送られた手紙です。

 

 ラオディキアは、小アジア西部フリギア地方の主要都市の一つで、フィラデルフィアの南東70㎞、エフェソ東150㎞に位置し、メアンデル川の支流リュコス川に面した町です。リュコス川流域には、コロサイ(東約15㎞)とヒエラポリス(北約10㎞)があります。

 

 紀元前3世紀半ば、セレウコス朝シリアのアンティオコス2世セオスが、ディオスポリスまたはロアスと呼ばれていた町をヘレニズム文化の中心都市として整備し直し、自分の妻のラオディケにちなんでラオディキアと改めました。「ラオディキア」は「ラオス」(民)と「ディケー」(正義)を合わせた「国民の正義、正義の民」といった意味になります。

 

 ヨセフスによれば、アンティオコス3世が多くのユダヤ人をフリギア、リディア地方に移住させました。ラオディキアの町にも、かなりのユダヤ人が住むようになったと考えられます。紀元前1世紀には、この地方のユダヤ人には宗教の自由が保障され、エルサレムへ献金を送ることも許されていたようです。

 

 一時、ペルガモン王国の支配下に移りましたが、紀元前133年以降、ローマの支配下に入り、エフェソからシリアへ至る通商路に沿っていたこともあって、商業都市として発展しました。また、ラオディキアは金融都市としても知られ、その経済力は、紀元前60年の大地震で町が崩壊した時、他の町のように皇帝の援助を受けず、市民だけの富で復興したほど豊かでした(17節参照)。

 

 黒羊毛と毛織物の産地としても有名であり(18節参照)、また、郊外のアットゥダの町で生産されていた「フリギアの粉末」と呼ばれる目薬でもよく知られていました(18節参照)。

 

 ラオディキアの教会のことについては、コロサイ書2章1節、4章12~16節に既に言及されています。それによれば、コロサイ教会と同様、エパフラスという人物の特別な関心の対象となっています。同1章7節によれば、エパフラスがコロサイ教会の創設者であることが分かります。とすれば、ラオディキアの教会もエパフラスによって創立された可能性が小さくないでしょう。

 

 パウロがラオディキアの教会に手紙を書いていますが(同4章16節)、それが現在のエフェソ書のことであると考える学者もいます。ただ、黙示録のエフェソにある教会が、パウロによらず、ヨハネの指導によって立てられたと考えられるように、ラオディキアにもパウロやエパフラスたちの働きによらない、ヨハネによる教会があったと考えてよいでしょう。

 

 ラオディキアには、4世紀までフリギアの司教座がおかれていましたが、中世に入ってイスラムとの戦いで破壊されました。現在のエスキ・ピッサルという小村(トルコのデニズリの西)が、ラオディキアに当ると考えられています。

 

 他の町の教会への手紙と異なり、ラオディキア教会宛の手紙にだけは教会を賞賛するがなく、「わたしはあなたを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15,16節)と言われます。

 

 ラオディキア教会の信徒の信仰の「なまぬるさ」に失望したという表現です。そのなまぬるさは、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)と言われるほどです。生活の上で不足がないこと、むしろ豊かに富んでいることに満足して、霊的なこと、信仰のことが全く分かっていないというのです。

 

 冒頭の言葉(20節)は、現代のキリスト教会の集会などでは、まだ信仰の道に入っていない方々に、主イエスを信じましょう、主イエスとの親しい交わりに入りましょうと勧める言葉として、よく読まれます。しかし、この言葉は、ラオディキアにある教会の信徒たちに向かって語られているのです。これは、どういうことなのでしょう。

 

 「戸を叩く」のは、受け入れてくれることを求める意思表示ですが、これは、キリストが再臨される合図のことでしょう。「食事を共にする」とは、最も親密な交わりの表現です。キリストが、御声を聞いて従う者たちと食事を共にするという約束をお与えになるということは、やがて来るべき栄光の座に、キリストと共に座に就くことが出来るという約束にほかなりません(21節参照)。

 

 ここで重要なことは、再臨されるキリストの声を聞き分けて、戸を開くことが出来るように、常日頃から備えておくことです。言い換えれば、忠実な信仰生活を守り続けることが重要だと言われているのです。となれば、「戸を開く」というのは、再臨されたキリストを迎え入れる行為ですが、主の再臨を待ち望みながら忠実な信仰生活を送ることを、そう表現しているということでしょう。

 

 その備えとして、「火で精錬された金」、「身に着ける白い衣」、「目に塗る薬」をキリストから買うようにと勧告されています(18節)。これは、17節に挙げられたラオディキアの人々の問題を、神の助け、導き、恵みによって解決するためのものです。

 

 「買う」というのは代価を支払うことですが、キリストに支払う代価とは、キリストを信じること、御言葉に聴き従うことでしょう。キリスト者として歩むことによって、迫害を受けることになるかも知れません。それに耐え忍ぶことも、代価の支払いといって善いでしょう。それはしかし、嫌々の支払いではなく、神の恵みに対する感謝の応答なのです。

 

 神から離れてどっちつかずの生ぬるさの中にいては、自分の姿をはっきりと知ることが出来なくなります(ヤコブ書1章23,24節参照)。自己満足と怠惰の中に眠り込んでしまいます。だから「熱心に努めよ。悔い改めよ」(19節)と言われるのです。

 

 再臨される主を待望することを忘れ、戸を叩いておられる主の御声が分からず、扉を開き損なった者は、やがて天の扉が閉ざされるとき、締め出される者となってしまいます。絶えず目覚めて主の御声を聴き、悔い改めて主の御言葉に聴き従いましょう。主との親しい交わりのうちに、主の祝福が注がれてきます。主に栄光を帰し、御名を高らかに賛美しましょう。

 

 主よ、あなたの深い恵みと憐れみを心から感謝します。戸を叩かれる主の御声を聞き逃すことがないよう、日々あなたの御言葉に耳を傾けます。聖霊の導きのもと、御言葉の恵みを味わいます。そして、祈りと賛美をささげます。弱い者ですが、主を知る者とされたことを喜び、その恵みを証しし続ける者とならせてください。 アーメン

 

 

「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」 ヨハネの黙示録4章11節

 

 4章で場面は天上に移り、開かれた門が見えます。ヨハネは「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう」(1節)という声を聞きます。それは「あの最初の声」というので、1章10節で聞いた声のことでしょう。「ラッパのように響く」というのがその声の特徴で、声の主は、同12節以下の描写から、神の右に座す御子キリストでしょう。

 

 ヨハネは霊に満たされ、玉座の前に出ます(2節)。玉座に座しているのは、碧玉や赤めのうのような方です(3節)。碧玉、赤めのうは、旧約以来宝石として尊重されていました(出エジプト記28章17節以下、エゼキエル書28章13節など)。ここでは、神の高貴さを表現するために用いられているのでしょう。

 

 玉座に座しているお方について、イザヤ書6章1節以下、エゼキエル書1章26節以下に前例があります。特にエゼキエルでは、王座がサファイアのように見え(同1章26節)、腰のように見えるところから上は琥珀金が輝いているように見えたとあります(同27節)。これも、神の高貴さの表現でしょう。

 

 玉座の周りにエメラルドのような虹が輝いているというのは、創世記9章13節の契約のしるしとしての虹を思い出させますが、エゼキエル書1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」とあり、ヨハネもそれを考えての表現でしょう。「エメラルドのよう」というのも、同様に神の高貴さを表しています。

 

 玉座から稲妻、様々な音、雷が起こったというのは(5節)、出エジプト記19章16節などにある、シナイ山における神顕現の描写を思い起こします。モーセは、角笛の音が鳴らされたのに応えて山に登りました。ヨハネを天に招くラッパのような声は、それに対応していると見ることが出来ます。

 

 玉座の前の七つのともし火は(5節)、聖所に置かれた七つ枝の燭台(出エジプト記25章31節以下、40章4節など)を思わせます。また、玉座の前の水晶に似たガラスの海のようなものは、ソロモンが神殿の祭司の庭に置くために作らせた青銅の海(列王記上7章23節以下)を思い起こします。いずれも、神を礼拝する場所に置かれていたものです。

 

 ただ、「七つのともし火」は、「神の七つの霊」(5節)と説明されます。1章7節にも「玉座の前におられる七つの霊」とあり、これは、聖霊の表現と考えられます。ゼカリヤ書4章2節以下にも七つ枝の燭台の描写があり、それは「ゼルバベルに向けられた主の言葉」(同6節)で、それを「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(同6節)と説明します。

 

 玉座の周りの白い衣を着た24人の長老は(4節)、星座を神々とするバビロンの占星術と関係があるとする説や、神殿の祭司が24組に分けられていたことや(歴代誌上24章)聖歌隊も24組に分けられていたこと(同25章)に基づいているとする説、また、旧約の12部族、新約の12使徒の数を合わせた旧・新約聖書の代表者という説などがあります。それらが皆影響しているかも知れません。

 

 ネヘミヤ記9章6節には「天の軍勢はあなたを伏し拝む」と歌われており、玉座の周りに座しているのは、神に仕える天使たちと見ることもできそうです。また、イザヤ書6章2節以下、エゼキエル書1章5節以下によれば、玉座の周りの「四つの生き物」とは、セラフィムのことといってよいでしょう。そうすると、いずれも天的な生物ということになります。

 

 かくて、ここに描かれているすべてのものは、ヨハネを呼び出した神の御子キリストと玉座の前の「神の七つの霊」と言われる聖霊、そして玉座に座す御父なる神の権威、力、栄光を、天の玉座の前で賛美する表現ということになります。

 

 セラフィムなる四つの生き物が8節で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と歌います。イザヤ書6章3節でセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌った出来事の再現のようです。

 

 そして、24人の長老が玉座の前にひれ伏し、冠を投げ出して(10節)歌ったのが冒頭の賛美の言葉(11節)です。「ひれ伏す」のは相手への最大限の敬意を表す姿勢で、特に神礼拝を言い表すものです。「冠を投げ出す」のも、王に対する尊敬と服従を表す当時の習慣でした。

 

 ここで、「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時の賛歌の形式の一つだったと言われます。主なる神が賛美を「受けるにふさわしい方」として讃えられるということは、この地上の誰も、その栄誉を受けることは出来ないと言っていることになります。

 

 また、9節に「栄光と誉れをたたえて感謝をささげると」と言われていましたが、ここでは「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい」と、感謝が力に置き換えられたようになっています。「力」は全能の神、万物の支配者としての力です。

 

 栄光と誉れと力とは、いずれも神に属するもので、神にそれらを与えることができるような者は、どこにも存在しません。「受けるにふさわしい」とは、「栄光と誉れと力」の唯一の所有者であるとの告白、賛美を受けるにふさわしい方だということです。

 

 唯一賛美を受けるに方である根拠として、「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」と歌います。万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる方だからこそ賛美すべきであり、そのお方に信頼し、従うべきだというわけです。

 

 万物が神によって存在し、創造されたと天の玉座の前で歌われたこの歌が、地上ではどのように歌われるでしょうか。万事が順調に運んでいるときには、高揚した思いで歌うことが出来るでしょう。しかし、八方ふさがりのとき、抵抗できない力でねじ伏せられているとき、すべてが神によって造られ、神の支配の中にあると歌うのは、思うほど易しいことではないと思われます。

 

 けれども、ローマ帝国の圧倒的な権力と支配の前に、八方をふさがれ、ねじ伏せられているようではあるけれども、今ヨハネは、天において、万物は神によって創造されたものであり、すべて神に支配の下にあると歌う24人の長老の姿を見、その歌声を聞いています。そしてヨハネ自らも、この歌を共に歌っているわけです。

 

 ヘブライ書12章1,2節に「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉があります。

 

 旧約の証人たち、そして先に召された信仰の先達が、私たちにエールを送っていてくださるのです。常に主を仰ぎ、主に信頼して歩むとき、天の歌声を聞くことが出来るでしょう。そして、私たちも信仰によってその歌声に和すのです。

 

 逆に、私たちがどのような境遇にあっても主イエスを仰ぎ、賛美を歌うとき、天の軍勢もそれに和して天上と地上で主を讃える賛美の交換がなされるということも出来そうです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰をもって、主をほめ歌いましょう。 

 

 主よ、ステファノは殉教直前、天が開かれて、立ち上がっておられる主イエスを見たと言いました。確かにあなたは、信仰の戦いの中にある私たちのために、立ち上がって応援していてくださると信じます。弱い私たちを助けてください。あなたをいつも見上げることが出来ますように。すべてを委ねて主をほめ歌うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「泣くな。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」 ヨハネの黙示録5章5節

 

 ヨハネの黙示録を読み、理解する一つの方法は、天上の出来事と地上の人々の状況を対比して考えてみることです。たとえば、4,5章には、天上の玉座の間で行われている礼拝の様子が描かれていますが、地上では、ローマ皇帝ドミティアヌスを神として崇めさせる皇帝礼拝が、皇帝自らの発令で帝国内の民に強要されていました。

 

 2章13節に「サタンの王座」という言葉がありますが、皇帝礼拝を強要し、それを拒否する者を殺すというのは悪魔的な所行であり、それを命じた皇帝を神として拝ませているという非難の思いを込めた表現です。このような言葉遣いで、皇帝を神として礼拝することを拒否する姿勢を鮮明にしています。

 

 そして、4章11節で「あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と賛美をささげて、本当に賛美されるべき方、信じて従うべき方は、天地を創られた唯一の神のみであるという信仰の宣言をしているのです。

 

 5章では、一つの巻物が話題になります。その巻物は、玉座に座っておられる方の右の手に握られており、表にも裏にも文字が書いてあると、1節に述べられます。そこに何が書かれているのか、本章では明らかになりません。巻物は「七つの封印で封じられて」(同節)いるので、巻物の表裏両面に文字が書かれていると分かったのは何故か、不明と言わざるを得ません。

 

 6章以下に、巻物の封印を一つずつ解く度に、起こる出来事が描写され、事態が進展していきます。そのことから、本章はその導入の場面として、非常に重要な位置を占めているということになります。

 

 玉座に座す神の右の手に握られた、表にも裏にも文字が記されている巻物について、エゼキエル書2章9,10節にその表現があり、ヨハネがここにそれを援用したわけです。エゼキエル書の巻物に書かれているのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(同10節)で、それはイスラエルの反逆の民に対する神の裁きを意味しています。

 

 その点は黙示録も同様で、封印が解かれるにつれて、不信の者たちに下される災いが現れます。一方、神の裁きは、信仰者にとっては、救いに近づくしるしとなります。その意味で、神の手に災いの記された巻物が握られているというのは、迫害下にあるキリスト教会にとっては、大いなる希望であり、励ましです。

 

 ところが4節に、封印された巻物を開くことの出来る者が見当たらないというので、「(著者の)わたし(ヨハネ)は激しく泣いた」という言葉があります。その巻物を封じている七つの封印は(1節)、玉座に座しておられる方の権威の完全さ、だれもそれを犯すことが出来ないということを示しています。

 

 封印を解いて巻物を開く者がいないことを嘆き悲しむのは、巻物が開かれないので、そこに記されている神の業が現実化しないということだからでしょう。ということは、ローマ皇帝によって迫害されているクリスチャンたちの苦難が、今後も続くことになると考えられ、ヨハネは全信徒を代表するかのようにして、泣いているのです。

 

 しかし、それは神の権威をもって封じられているのですから、人間がそれを勝手に開くことは許されていません。人間が神の計画を手に入れることは出来ませんし、言うまでもないことですが、神に代わってそれを実現することなど、とうてい出来はしないのです。

 

 ところがそのとき、冒頭の言葉(5節)のとおり、長老の一人がヨハネに「泣くな」と言いました。「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」と言われるメシア・主イエスがその巻物を開くことが出来ると言われたのです。

 

 長老は「ユダ族から出た獅子」と言いましたが、そこに登場して来たのは「屠られたような小羊」(6節)でした。世の中は「獅子」を期待したのですが、「屠られたような小羊」の登場、それが神の計画でした。力で屈服させる王ではなく、人々を罪と死の恐れから解放するために、自らを犠牲とされる愛の王です。

 

 その愛の力は、死に打ち負かされたりしません。十字架で潰えてしまいませんでした。墓を打ち破って甦られました。このお方が、神の御手にある巻物の封印を解き、救いのご計画を進められる救い主として、私たちに与えられたのです。

 

 上述の通り、「獅子」ではなく「小羊」が登場してくるところに、この箇所のメッセージがあるでしょう。最も弱いと見えるものが、実は獅子よりも強いものなのです。

 

 四つの生き物と24人の長老たちは、聖なる者たちの祈りである公を入れた金の鉢と、竪琴を持って、小羊の前にひれ伏し(8節)、新しい歌を歌い始めます(9節)。主イエスのなされた業をほめ讃える賛美の歌です。

 

 この歌を記しているヨハネは、「彼らは地上を統治します」(10節)と言われているこの地において大変な苦難を味わっています。伝説に従えば、ヨハネはパトモス島に収監されている身で、喜んで歌を歌える、自由に主を礼拝することが出来るという環境にありませんでした。

 

 けれども、彼はこの地上において自分たちを苦しめているローマの支配の向こうに回し、天上の神の玉座と小羊なる主イエスを見て、罪と死に打ち勝ちって私たちを信仰に生かしてくださる主を、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(12節)と、高らかに賛美しているのです。

 

 私たちもこのヨハネの信仰に倣い、イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

 

 主よ、私たちに信仰をお与えくださって、心から感謝します。あのベートーベンが、耳が聞こえないというハンディキャップに打ち勝って交響曲第9番「歓喜の歌」を生み出したのは、このような信仰に学んでのものだと思います。私たちにも常に主を仰がせ、絶えず御名をたたえる新しい歌を神に献げさせてください。 アーメン

 

 

「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」 ヨハネの黙示録6章10節

 

 玉座に座しておられるお方の右手にある、表にも裏にも文字の記されている、七つの封印で封じられた巻物(5章1節)を、御前に進み出た小羊が受け取り(同7節)、その封印を開き始めます。最初の封印が開かれると(1節)、白い馬が現れました(2節)。騎手は弓を持ち、冠が与えられて勝利の上に勝利を得ようと出て行きます(同節)。

 

 二番目の封印が開かれると(3節)、赤い馬が現れました(4節)。騎手には地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力、大きな剣が与えられます(同節)。

 

 三番目の封印が開かれると黒い馬が現れ、騎手は手に測りを持っています(5節)。すると、「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな」(6節)という声がありました。

 

 小麦一コイニクスは約1.1リットルで、大人一人が一日で食する量と言われ、それが一デナリオンとは、かなり高価になっていることを意味します。飢饉や戦乱などによって小麦などの収穫が落ち込み、穀物の値段が高騰しているわけです。

 

 四番目の封印が開かれると(7節)、青白い馬が現れました(8節)。その騎手の名は「死」といい、陰府を従えていました(同節)。死と陰府には、「地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威」(同節)が与えられます。

 

 剣や飢饉、疫病による裁きは、エレミヤ書14章11節、エゼキエル書5章12節、14章13節、33章27節などにも預言されています。また、主イエスも終末の徴として、戦争、地震、飢饉、信者の迫害などが起こると教えられました(マルコ福音書13章7節以下など)。

 

 白馬の騎手に冠が与えられて、勝利の上に勝利を得ようと出て行ったという出来事は(2節)、続く三頭の騎手たちが殺し合いや飢餓などの災いをもたらすために現れたというものと、趣を異にしています。白馬の騎手について様々な解釈がなされていますが、聖書学者の佐竹明先生が、忠実な信徒たちの象徴と見る解釈を提案しておられます。

 

 信徒たちの勝利とは、艱難の中にあっても最後まで信仰を忠実に守ることによって実現します(2章10節)。忠実な信徒たちの中に既に勝利を味わった者がいます(同13節、6章9~11節)。そして、更にその数が増し加えられ、満たされることが待ち望まれます(11節)。それで、「勝利の上に勝利を得ようと」(2節)と言われていると考えるのです。

 

 ここに、終末を来たらせる神の御業が始まったわけです。そのとき、信徒たちは塗炭の苦しみをなめていました。信仰のゆえに殉教した人々の魂が祭壇の下から叫んだというのが、冒頭の言葉(10節)です。これは、彼らの魂が陰府に捨て置かれず、神の御前にあることを表しています。

 

 彼らには「白い衣が与えられ」(11節)ました。3章5節に「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」とあります。彼らは殺されるという苦しみを受けても、忠実に信仰の証しを立てたのです。だから、神の御前で身にまとう白い衣が与えられたわけです。

 

 既に勝利を得た者たちが「いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(10節)と叫んだというのは、今もなお戦いの内にあり、自分たちと同じように殺されようとしている信徒たちために、執り成して叫び祈っているわけです。

 

 これは、迫害され殺されることは、敗北ではなく勝利だということを味わった人々の祈りです。ということは、主イエスの祈りであるとも言えるでしょう。勝利であるから、苦しんでもよいなどとお考えになっているのではないのです。迫害される者の苦しみをご自分のものとして受け止めながら、いつまでですかと、神の御心を尋ねられたのです。

 

 それに対する答えは、「殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なおしばらく静かに待つように」(11節)というものでした。その苦痛は永遠のものではないこと、もうすぐ終わるということです。

 

 試練の内に、苦しみの中にいる人々にとって、この答えは満足出来るものではないでしょう。納得のいく答えであるとは思われません。しかし、この答えにおいて最も苦しんでおられるのが、神ご自身であると思います。ご自分を信じる者が苦しんでいるのです。殺されているのです。

 

 なぜ、神は待っておられるのでしょうか。なぜ、すぐに裁きを始められないのでしょうか。御国の福音が全世界に宣べ伝えられるのを待っておられるのです(マタイ福音書24章14節)。神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるわけです(第一テモテ書2章4節)。

 

 この神の憐れみにより、迫害者であったパウロが伝道者に変えられました。そのパウロも迫害を受け、殉教しました。パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)と語り、艱難を恐れないで絶えず主を仰ぎ、信仰に生きよう教えています。

 

 私たちも神の憐れみに与った者です。絶えず主を信じ、常に主の御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、どうか今苦しみの中にいる方を慰め、励ましてください。私たちが互いに愛し合い、主のご愛を証しすることが出来ますように。あなたから頂いた恵みがいかなるものであるか、いつも思いこし、救われた原点をしっかりと見つめ、主の御声に従って前進させてください。主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「この後、わたしが見ていると、身よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊に前に立って、(大声で叫んだ。)」 ヨハネの黙示録7章9節

 

 巻物の六つの封印が開かれ、様々な災いが起こりました(6章)。その後ヨハネは、大地の四隅に4人の天使が立っているのを見ます(1節)。彼らは、「大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて」います。天使たちには、大地と海を損なうという災いを下すことが許されており(2節)、四隅からその風を吹かせるタイミングを計っているのです。

 

 そこに、神の刻印を持ったもう一人の天使が登場します(2節)。彼は四人の天使たちに「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(3節)と大声で呼びかけます。彼は、イスラエルの子らの全部族の中から、14万4千人に刻印を押しました(4節以下)。

 

 この後、8章には七つ目の封印が開かれて、七人の天使が七つのラッパを持って、新たな災いの舞台の幕が上がります。7章は、巻物の七つの封印のうち六つが開かれ、残り一つとなったところで、幕間劇が始まったという場面です。そこで、上述のとおり14万4千人が神の「刻印」を受けたということでした。

 

 材木や家畜などには、屋号や飼い主を示す焼印が押されます。神の刻印を受けた人は、神が所有者であることを示すのです。9章4節の言葉から、額に神の刻印を押された者は、世を襲う災いから神によって守られるということが示されます。エゼキエル書9章1節以下、特に4節で語られているのも、このことでしょう。

 

 また、「刻印」はギリシア語で「スフラギス」と言います。ローマ書4章11節「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」という言葉の「印」が「スフラギス」です。また、第一コリント書9章2節「あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」では「証拠」と訳されています。

 

 また、「刻印を押す、封印する」という意味の「スフラギゾー」という動詞が、マタイ福音書27章66節、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、黙示録7章3,4,5,8節などにあります。

 

 これらの言葉遣いの中で、「神の刻印」と同様な表現として、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、4章30節に、聖霊で証印を押されるという表現があります。それは、アブラハムが信仰によって義とされた証しとして割礼という「印」を受けたように(ローマ書4章11節)、キリストを信じた者が救われて神の子とされ、新しい命が与えられた「印、証拠」を意味しています。

 

 第一コリント書12章13節に、一つの霊によって、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったという言葉があります。キリストを信じてバプテスマを受けた者たちは、聖霊によってキリストという一つの体になり、めいめいが聖霊を受けたということです。聖霊の証印を受けた者たちは、聖霊によってキリストの体という教会を形成するという表現でしょう。

 

 また、刻印を押された人の数は、とても象徴的です。14万4千人はイスラエル12部族から選ばれました。12は完全数です。キリストを信じる者の集い、つまりキリストの教会こそ、神によって選ばれた真のイスラエルだということです(ガラテヤ書3章26~29節、6章16節など)。

 

 そこに挙げられている部族名を読むと、笑ってしまいます。通常、レビ族(7節)が数えられることはありません。むしろ数えてはならないと言われていました。ヨセフ族(8節)があるのに、マナセ族(6節)が出るのは妙です。そして、ダン族がありません。

 

 ダン族がここにないのはしかし、単なる記憶違いではありません。士師記17,18章の影響だと思いますが、後期ユダヤ教の教えによれば、ダン族から反メシヤの頭が出て来ると考えられていたのです。

 

 そうしたことから、ヨハネがここに言う「イスラエル」というのが、正当なユダヤ民族に属する12部族というのではなく、主イエスを信じるすべての人々を「12部族」として、キリスト者こそ真の神の民イスラエルであると言い表しているわけです。

 

 1部族1万2千人ずつというのは、12の1000倍です。1000は完全数「10」の3乗です。つまり12も10も完全数なので、完全数に完全数の3乗を掛け合わせるということで、これは、考えられないほど大きな数という意味です。

 

 ということなので、キリストを信じる者の中から、より忠実な信仰者14万4千人を厳選したというようなことでは、決してありません。むしろ、神の愛と憐れみから漏れる者は一人もいない、キリストを信じる者は皆、一人残らず神のしるしが与えられているという宣言といってよいでしょう。

 

 即ち、冒頭の言葉(9節)の「だれにも数え切れないほどの大群衆」というのが、刻印を押された14万4千人のことでしょう。この大群衆は「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった」と言われており、まさに全世界のすべての主を信じる民、だれにも数え切れないほどの大群衆が、神と御子キリストの前に立っているというのです。

 

 また、「白い衣を身につけ」(9節)ていると記されています。それは、信仰の戦いを雄々しく戦って勝利を得た者であると、3章5節などに記されておりました。この人々のことについて、14節では「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言われています。

 

 大きな苦難とは、黙示録が書かれた当時、ローマ皇帝ドミティアヌスによる、キリスト教徒が味わっていた迫害の苦しみを指します。それはしかし、彼らが自分の力で戦いに耐え、勝利を得た、それにより白い衣を獲得したというのではありません。それは、「小羊の血で洗って白くした」と言われているからです。

 

 「小羊の血」と言えば、過越の出来事を思い起こします。それは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際、エジプトに下された最大の災いでした。エジプト中の家の長子が神の御使いに打たれて亡くなりました。ただ、主なる神の命令に従い、小羊の血を家の柱と鴨居に塗っているところは、御使いがパスした、過ぎ越したというので、それを記念して過越祭を祝うのです(出エジプト記12章)。

 

 ということで、「小羊の血で洗って白くした」とは、小羊の血によって大きな災いから守られたという意味があります。ローマ皇帝による厳しい迫害という苦しみを味わっているキリスト信者が小羊の血で守られる、即ち主イエスが十字架に死なれ、そこで流された血潮によって救われただけでなく、その苦難の中で神に守られ支えられて、信仰を全うすることが出来るということです。

 

 白い衣を着た大群衆が大声で、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)と叫び、天使たちが、「アーメン、賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」(11,12節)と賛美したとありますが、信仰を全うして玉座の前で神を礼拝する群れに加わることが出来ると、ここに予め約束されているのです。

 

 この世には様々な苦難があります。なぜこのような苦しみを味わわなければならないかと思うことがあります。そういう中で、主イエス・キリストを信じる信仰に導かれているのは、それこそ主の恵みであり、神の祝福なのだとあらためて思います。

 

 ヨハネが様々な苦難の中で天上を仰ぎ、約束された神の守りを信じ、天使たちと共に凱歌を歌っているように、私たちも絶えず主を仰ぎ、日々御言葉に耳を傾け、常に聖霊の導きに従って前進しましょう。

 

 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちを選ばれました。それは、私たちが行って実を結ぶため、その実がいつまでも残るため、そして、皆による祈りがかなえられるただと言われました。あなたの御心を行うことが出来ますように。そして、御名の栄光を表すことが出来ますように。そのために必要な力と知恵、助けを聖霊をとおして絶えず与えてください。 アーメン

 

 

「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。」 ヨハネの黙示録8章4節

 

 小羊が巻物の第七の封印を開きます(1節)。第七の封印は、巻物が開かないように封じていた最後の封印です。封印が開かれたとき、すぐに終末が到来することが期待されましたが、訪れたのは「半時間ほどの沈黙」(1節)でした。「半時間ほど」というのですから、その沈黙は長い時間ではありません。

 

 天において、その沈黙が起こったというのですから、それまでそこには、騒がしい物音があったということです。それは、次々と封印が開かれて、戦争や飢饉、疫病、地震や雹、火による災いなどが起こっていたからです。けれども、そこに沈黙が起こったのは、最後の封印が開かれたら何が起こるのかと、だれもが固唾をのんでそれを見ようとしたということなのでしょう。

 

 ヨハネも、天が沈黙に包まれている中で、これから何が起ころうとしているのか注目していたようです。すると、神に仕えている天使たち7人が、神の御前に立ちました。そして、彼らに七つのラッパが与えられました(2節)。

 

 聖書の中で、ラッパは喜びの表現や(王上1章34節、王下9章13節)、神を賛美するため(詩編47編6節、81編4節、150編3節など)、また警戒信号や(ネヘ4章12節、エレ4章5節など)戦闘開始の合図としても(ヨシュア6章5節、士師3章27節、7章18節など)用いられています。

 

 ここでは、神に敵対するものに対して、神の裁きが始まる合図として、ラッパが用いられています。そしてそれは、その裁きが始まることを願っていた殉教者たち(6章10節)、そして、選ばれた聖徒たちにとっては(7章3節以下)、神の救いが完成される喜びの表現として受け止められたことでしょう。

 

 第七の封印が開かれて、七つのラッパの災いが始まるということは、その災いが巻物に記されていたものということであり、小羊によってその封印が開かれたのだから、この災いの主導権が小羊にあるということになります。

 

 けれども、ラッパが与えられた7人の天使とは「別の天使」(3節)が登場します。手に金の香炉を持っています。そして祭壇のそばに立ちます。これは、「香をたく祭壇」(出エジプト記30章1節以下)です。この天使に多くの香が渡されました。それは「すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるため」(3節)です。

 

 ヨハネは冒頭の言葉(4節)のとおり「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」と記します。5章8節に「四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」と記されていました。

 

 金の香炉を手に持つ天使に、聖なる者たちの祈りという多くの香が手渡され、それを玉座の前にある金の祭壇に献げようとしています。香の煙が、神の御前へ立ち上ったというのですから、それは聖なる者たちの祈りが神に届いたということを示しています。

 

 祈りの内容はどちらの箇所にも明示されていませんが、5章では長老たちが巻物の封印を開く小羊に対する賛美の歌を歌い、6章で封印が開き始められました。8章では七つのラッパの災いが起こされています。これらのことから、恐らく聖なる者たちを苦しめたこの世の悪に対する「血の復讐」(6章10節)を願い求める祈りといってもよいでしょう。

 

 続いて「天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上に投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こり」(5節)ました。雷や稲妻、様々な音などについて、4章5節に「玉座からは、稲妻、さまざま音、雷が起こった」と記されていました。

 

 これらのことについて、モーセがシナイ山に登って神とお会いしようというとき、同じような出来事が起こっています(出エジプト記19章16節以下)。ということは、雷鳴や稲妻、厚い雲、角笛の音、地震は、神が顕現されたしるしということです。

 

 祭壇の火を香炉に満たして、それを地上に投げつけたというのは、「火」がしばしば神の裁きの手段として用いられているので(創世記19章24節以下、イザヤ書66章15,16節、エゼキエル書38章19節など)、聖なる者たちの祈り(3,4節、5章8節)や殉教者たちの「血の復讐」を求める叫び(6章10節)に応えて、いよいよ神の裁きが地上に下ることをあらわしているわけです。

 

 ラッパが吹かれて起こる災いは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、モーセを通して表された災いに似ています(出エジプト記7章14節以下)。

 

 第一のラッパで血の混じった雹と火が地上に投げ入れられ、木や青草を焼きました(7節)。これは、出エジプト記9章13節以下の「雹の災い」に似ています。第二のラッパでは、火の山が海に投げ入れられ、海の水が血に変わって海に住む生き物が死にました(8,9節)。これは、出エジプト記7章14節以下の「血の災い」に似ています。

  

 第三のラッパでは、燃える星が川の水源の上に落ち、水が苦くなって多くの人が死にました(10,11節)。この星の名は「苦よもぎ」(11節)と言います。これは、出エジプト記にはない災いの表現ですが、エレミヤ書9章14節に「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」という言葉があり、神に背き、バアルに従って歩む頑なな者の裁きが預言されています。

 

 因みに、1986年4月26日(土)に、「苦よもぎ」という意味の名前を持つ町で大変な事故が起こりました。事故が起きるまで、その町の名を聞いたことはありませんでした。その名前は、ロシア語で「チェルノブイリ=苦よもぎ」と言います。

 

 原発事後当時、黙示録との関連を語る人が随分たくさんおられました。勿論、その事故は、黙示録の預言の成就などではありません。しかし、原発事故の恐ろしさ、被爆の深刻さという点で、無軌道な原子力開発に警鐘を鳴らしたのは確実です。

 

 第四のラッパでは、天体が損なわれて暗くなりました(12,13節)。これは、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」を思わせます。かくて、出エジプト記のときの災いを模して裁きが描かれていますが、その規模はずっと拡大されていて、地と海と天体の三分の一を損なうまでになっています。

 

 このような災いから、何を学びますか。それは、私たちが神の声に耳を傾けるべきだということでしょう。それは、神ならぬものに寄り頼んできたことを悔い改めなさいということではないでしょうか。エジプトのファラオが心を頑なにして聞くことを拒んだような愚を、繰り返してはなりません。それは、なお大きな災いが地上に臨み、破滅が人類の上に落ちかかるからです(13節)。

 

 今一度、神の前に静まりましょう。神の御言葉に耳を傾けましょう。御心を悟り、その導きに従いましょう。それこそ、悔い改めて福音を信ずることです。

 

 主よ、どうして自然災害が頻繁に起こり、さらに福島の原発事故のようなことが起きるのでしょうか。これらが黙示録の成就だとは思いませんが、重大なメッセージが語られているように思います。幸せを追求して地球規模で自然を破壊し、進歩を追及して心も体もゆとりを失っています。どうか、眠りから目覚めさせてください。何が本当に大切なものなのか、立ち止まって静かに見つめ直し、悔い改めることが出来ますように。 アーメン

 

 

「これらの災いにあっても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。」 ヨハネの黙示録9章20節

 

 第五の天使がラッパを吹きました(1節)。すると、一つの星が天から落ちて来ました。その星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられたと言います。穴を開くと、煙が立ち上り(2節)、その中からイナゴの群れが地上に出て来ました。このイナゴは、さそりが持っているような力が与えられました(3節)。

 

 イナゴながら、草木を損なうことは許されず、ただ「額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」(4節)と言い渡されていました。それも、五ヶ月の間、殺してはいけないが苦しめることは許されたというのです(5節)。

 

 ここで、天から落ちて来た星は神の使い、底なしの淵は「死者の世界」(陰府:ローマ書10章7節)、あるいは悪霊の牢獄(ルカ福音書8章31節)と考えられます。神の使いが底なしの淵の穴を開くと煙が立ち上って太陽も空も暗くなり、その煙の中からイナゴが出て来て、神の刻印を押されていない人、即ち不信者に害を加えます。

 

 「五ヶ月間」(5節)という期間は、他に例を見ませんが、比較的短い期間という意味でしょう。「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」(6節)というのですから、その苦しみは、死をさえ凌駕するほどのものだったと言われていることになります。

 

 イナゴの「顔は人間の顔のよう」(7節)だと言います。これは顔かたちのことではなく、人間のような知恵を持っているということでしょう。「髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のよう」(8節)というのは、イナゴの荒々しさ、猛々しさの表現でしょう。

 

 11節に「いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている」と言います。「使い」(アンゲリオン)は、不信者を滅ぼすイナゴの王ということで、1節などと同じく「天使」と訳してよいでしょう。また、天から落ちてきた一つの星を「天使」と捉え、彼が穴を開いてイナゴを呼び出したとすると、1節の星と11節の使いは同一の天使と考えてもよさそうです。

 

 いなごの名を、ヘブライ語でアバドン、ギリシア語でアポリオンと紹介しています。「アバドン」は「アーバド(滅ぶ)」の名詞形で、ヨブ記26章6節などで「滅びの国」と訳されています。「アポリオン」は「アポルミ(滅ぼす)」の名詞形で、「アバドン」をギリシア語訳したものです。イナゴが与える苦しみが、滅びに定められた人々への神の罰に他ならないことを示しているようです。

 

 注解書に「アポリオンは皇帝ドミティアヌスが自らに対して好んで用いた神の名「アポロ」をもじったものである。その上、イナゴはアポロ心の象徴であった」と記されていました。ということは、イナゴがローマ皇帝を頂点とするローマ帝国を象徴していて、個々に神は、ローマを神の裁きの対象ですが、彼らをも神の裁きの道具として用いられることが示されます。  

 

 いなごの災いについては、出エジプト記10章1節以下に記されていました。出エジプトのときには、多くの災いがエジプトに臨みましたが、イスラエルの民はその災いに遭うことなく守られました。同様に、これらの災いは不信者の上に臨み、そして神の刻印を押されたキリスト者たちは、この災いから守られるということなのです。

 

 12節でいなごの災いを「第一の災い」と呼び、「この後、更に二つの災いがやって来る」と言います。つまり、六番目、七番目のラッパによって、あと二つの災いがやって来るというのです。ただ、第一から第四の天使のラッパによってもたらされた災い(8章6節以下)がここでカウントされないのは何故か、よく分かりません。

 

 第六の天使がラッパを吹くと(13節)、神の前にある金の祭壇の四本の角から声が聞こえました。それは、「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ」(14節)という言葉でした。そして、ユーフラテスのほとりの四人の天使が、人間の三分の一を殺すために解き放されます(15節)。

 

 「金の祭壇」は8章3節にもあり、それは聖所に置かれている香をたく祭壇のことでした(出エジプト記37章25節以下、40章26節)。その四本の角の声は、すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げた香(8章3節)に対する応答ということになります。

 

 ユーフラテスは、イスラエルに与えられた約束の地の東の端です(創世記15章18節、出エジプト記23章31節、申命記1章7節、ヨシュア記1章4節など)。なお、この川はローマ帝国の東境でもありました。この大河が国境の天然の防護壁となっているのです。そこから四人の天使が解放され、災いがやって来るということになります。

 

 解放された天使たちのことを、「その年、その月、その日、その時間のために用意されていた」(15節)と言います。これは、私たちの歴史が神の計画に従って進行しているということ、その計画はとても緻密になされているということです。 

 

 天使が解放された結果、2億というおびただしい数の騎兵隊が出て来ます。詩編68編18節に「神の戦車は幾千、幾万」とあり、ソロモンが「戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千」(列王記上5章6節)を持っていたことなどと比べても、2億は殆ど天文学的な数字です。これだけの天の軍勢に攻撃されては、だれ一人として生き残れないでしょう。四人の天使が騎兵隊になったわけです。

 

 これは、メソポタミア東方のパルティア人を想定しているのだろうと言われます。ローマ軍は幾度もパルティアの騎兵隊に破れており、彼らを恐れていたのです。それで、ユーフラテスからのおびただしい数の騎兵隊の出現という表現になったのかも知れません。

 

 けれども、17節以下に語られているのは神による裁きで、火と硫黄はソドムとゴモラを滅ぼしました(創世記19章24,25節、ルカ福音書17章29節など)。黙示録でも神が悪を罰する手段として用いられます(14章10節、20章10節、21章8節など)。

 

 騎兵隊の出現により、人間の3分の1が殺されたということは(15,18節)、第一の災いが「殺してはいけない」と言われていたのに対し、災いの度合いが高まったといってよいでしょう。

 

 ヨハネは冒頭の言葉(20節)と続く21節で、殺されずに残った人間について報告しています。ここで、これらの災いが、悔い改めへの神の招きとして理解されるべきこと、にも拘らず悔い改めようとせず、神ならぬ偶像、見ることも、聞くことも、歩くことも出来ない、人間によって作られたものに頼み続ける人間の愚かさが示されます。

 

 これも、出エジプト記7章3,4節などで、モーセの前に頑なになったファラオを思い出させます。悔い改めが出来ない、方向転換をすることが出来ないところが、神でないものに拠り頼んでいる者の特徴と言ってよいのかもしれません。

 

 それに対し、私たちを導いておられる神は、絶えず私たちを平安へ、希望へ、命へと導こうとしておられるのです。そこで必要なのは、悔い改めることです。悔い改めとは、神に心を向けることです。目に見えず触れることも出来ない神に心を向けるとは、神の御言葉を聞くことです。教会で、聖書から語られる説教を聞きましょう。聖書日課に従って聖書を読みましょう。

 

 そして祈ることです。神は、求める者に良いものをくださると約束されました(マタイ福音書7章11節)。私たちに良いものをくださる神様に心を向けて祈りましょう。そうすれば、神様がよいお方であることを味わうことが出来ます。

 

 主よ、ヨハネは、苦難の中で神に祈りをささげ、その応答の言葉を聞きました。困難な現実の向こうに、あなたの御手を見ることが出来ました。あなたの勝利を信じることが出来ました。私たちも、信仰に立ち続けることが出来ますように。御言葉に耳を傾け、その導きに従い続けることが出来ますように。感謝をもって祈りをささげ、よいもので満たしていただくことが出来まように。 アーメン

 

 

「わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜ように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。」 ヨハネの黙示録10章10節

 

 7つの封印が解かれるとき、6番目(6章12節以下)と7番目(8章1節以下)の封印の間に、幕間劇ともいうべき物語の展開がありました(7章)。同様に、第六の天使のラッパで災いが生じた後(9章13節以下)、第七の天使がラッパを吹く(11章15節以下)前に、幕間劇が挿入されてます(10章1節以下)。

 

 封印にしろラッパにしろ、災いが神に従わない者たちに対して臨むのに対し、挿入されている幕間劇では、神の刻印を押された、神の僕たるキリスト者たちは、どうなるのかということが、物語られています。

 

 ヨハネは、地上に一人の力強い天使が天から降って来るのを見ました(1節、5章2節、18章21節参照)。雲をまとって天から降って来たこと、頭に虹、顔は太陽、足が火の柱と光り輝く様(1節)は、天的な栄光をあらわしています。

 

 その手には、巻物を持っていました(2節)。それは「開かれた小さな巻物」と記されていますので、小羊が玉座に座っておられる方の右の手から受け取り(5章7節)、7つの封印を解いた巻物のことを言っているのでしょう(6章1節以下)。ということは、「もう一人の力強い天使」とは小羊のこと、即ちキリスト・イエスのことを指しているようです。

 

 この天使が、右足で海、左足で地を踏まえ(2節)、獅子がほえるような大声で叫びました(3節)。ホセア書11章10節に「獅子のようにほえる主」という言葉があり(アモス書3章8節も参照)、この天使が神のような存在であることを示しています。

 

 その天使の叫びに対して、「七つの雷がそれぞれの声で」(3節)語ります。雷が語るというのは、他に例がありません。ただ、ヨハネ福音書12章29節に「そばにいた群衆は、これ(天からの声:同28節)を聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは、『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った」とあるので、雷を神の声と考えてもよさそうです。

 

 その声を書き留めようとすると、天から「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」(4節)という天の声がありました。8節にも、天から語りかけられた声が記されています。すべての神の言葉が秘められるのではなく、明示される天の声もあるわけです。神の言葉はすべて、解き明かされる「時」があるというメッセージなのでしょう。

 

 すると、かの天使が「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する」(6,7節)と、神にかけて誓いました。この後の記述を見ると、天使がラッパを吹いてすぐに世の終わりが来て救いが完成するわけではありません。キリスト者がまだしばらく艱難のときを過ごさざるを得ないということも、「秘められた計画」の中に入れられているということでしょう。

 

 そうすると、天からの声があり、「天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ」(8節)とヨハネに告げます。そこで天使に巻物をくださいと言うと、天使は「受け取って、食べてしまえ」(9節)と言います。ヨハネが言われたとおりに食べると、口には甘かったけれども、腹が苦くなったというのが、冒頭の言葉(10節)です。

 

 これは、どういうことなのでしょうか。以前、辞書の英単語を片っ端から暗記して、暗記したページは食べてしまったという人がいました。それで記憶力が増すということはないと思いますが、何が何でも憶えるのだという気迫が伝わってきます。英語を自分のものにするということですね。同じようなことを、ここに見ることが出来ると思います。

 

 著者がその巻物を食べたのは、11節によれば、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちについて、預言するためです。そうするとこれは、エゼキエル書2章8節~3章3節に記されている預言を敷衍したものということが出来そうです。

 

 エゼキエル書3章1節に「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」という言葉があり、そして同2節に「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と言われています。エゼキエルは、神の御言葉が真の食物であることを味わったわけです。

 

 しかし、差し出されても口を開かなければ、味わうことが出来ません。語られる言葉に耳を傾けなければ、その意味を受け止めることが出来ません。神は、「イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに彼らはわたしに聞こうとしない者だ」(同7節)と言われています。聞こうとしない、反逆する者に向かって語るのは、辛いこと、空しいことです。

 

 その上、預言者が語るのは、聞き手が嬉しくなるような祝福の言葉ではなく、むしろ聞き手を怒らせ、乱暴されるような神の裁きの言葉なのです(同2章6節)。神は聞き手に悔い改めを求めているのだけれども、相手が聞く耳を全く持っていないわけです。

 

 そういうわけで、著者ヨハネにとって、教会を迫害する者の裁きを語るのは、教会の解放と救いの実現につながるのですから、口に甘いということになるわけですが、しかしながらそれが腹に苦いというのは、預言が成就するためには、ヨハネを含めて教会がなお苦難を経なければならないということを示しているのです。

 

 それでも、ヨハネたちが苦難に耐えてこの預言の言葉を語り続けているのは、自分たちを救いに導いてくださった主イエスの愛があるからです。主イエスの愛は、主イエスの十字架の犠牲を通して示されました。私たちは主イエスが犠牲となってくださったことを、主の晩餐式を行うたびに覚えます。

 

 あのパンと杯が、私たちに差し出された巻物ということでしょう。それは、口に何と甘いことでしょうか。しかし、それがキリストの裂かれたお体、流された血潮であることを考えたとき、甘くて美味しいだけのものではなくなります。私たちがキリストの愛の証人となることを、それは求めているからです(第一コリント書11章26節参照)。

 

 主の深い憐れみによって救われ、召し出された者として、その使命を自覚し、聖霊の力をいただいて、役割を全うすることが出来るよう祈りつつ励みましょう。

 

 主よ、あなたは無に等しい者をご自分の民として選ばれました。あなたの深い愛と憐れみがなければ、選ばれることのなかった私たちです。そして、あなたが力と知恵をもって助けてくださらなければ、何をすることも出来ません。あなたが命じられるとおりに従いますから、どうか助け導き、御業のために用いてください。 アーメン

 

 

「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上ってきて彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。」 ヨハネの黙示録11章7節

 

 ヨハネに物差しが与えられ、神殿と祭壇、そして、そこで礼拝している人々を測るように言われます(1節)。新共同訳、岩波訳は「そこで礼拝している者たちを数えよ」と訳しています。人々を測るとは、「数える」ということだと解釈したわけです。その目的は、サイズを測ることなどではなく、神殿の外の庭と神域とを区別することです。

 

 神殿の外側は異邦人に与えられ、聖なる都エルサレムが42ヶ月の間踏みにじられます(2節)。42ヶ月は3年半で、ダニエル書7章25節の「聖者らは彼の手に渡され、一時期、二時期、半時期がたつ」(同12章7節も参照)と関係があり、シリアのアンティオコス・エピファネスがユダヤを圧迫した期間(紀元前167~164年)に一致しています。

 

 また、3年半は完全数「7」の半分ということで、異邦人の支配は一定の期間で、やがて過ぎ去るものだということでしょう。

 

 黙示録においては、ローマ軍によるエルサレムの占領を指していると考えられます(AD70年)。そのとき、熱心党という抵抗勢力が、エルサレムの神殿を本拠地としてローマ軍と戦いました。ユダヤ人たちは、敵が都を占領しても、神殿だけは神によって守られると期待していたのです。ところが、その期待は裏切られ、神殿も廃墟となってしまいました。

 

 ヨハネはそのことも知っていたはずです。そうすると、ここで言われているのは、神殿という建物のことではなく、キリストを信じるクリスチャンたちの集まり、教会のこと、あるいはその信仰のことを語っているのでしょう。どんなに苦難が襲ってきても、迫害されても、教会は守られる、信仰が奪われることは出来ない、神が守ってくださるということです。

 

 ということは、ヨハネに与えられた物差しとは、クリスチャンの信仰を測る基準、つまり神の御言葉ということではないでしょうか。だからこそ、「そこで礼拝している者たちを測れ」と言われていたのです。

 

 基準のことをギリシャ語でカノンと言いますが、英語でキャノンといえば、教会法という意味であり、また聖典、つまり聖書のことを指します。それによって自分たちの信仰が揺らいではいないか、真理の道から外れてはいないかを測るのです。

 

 そして天の声は、「わたしは二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」(3節)と告げます。「千二百六十日」は30日の12ヶ月分を3.5倍したものです。つまり3年半ということで、2節の「四十二ヶ月の間」と同期間です。「粗布」をまとうのは、悲しみや悔い改めのしるしです。それは、彼らの預言の内容を示しているのでしょう。

 

 この二人の証人のことを、「地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」(4節)と説明します。オリーブの木も燭台も、油に関係があり、神に油注がれた王や祭司、預言者を示しているようです(ゼカリヤ書4章3,11節参照)。

 

 この二人は、モーセやエリヤのような神の選びの器でしょう。二人が預言しようとしている間、二人に害を加えようとすると、彼らの口から火が出て、敵を滅ぼしてしまいます(5節)。雨が降らないように天を閉じる力もあります(6節)。エリヤは三年半の干ばつを預言し(列王記上17章1節以下)、バアルの預言者との戦いで天から火が降り、預言者らは殺されました(同18章16節以下)。

 

 また、「水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる」(6節)というのは、出エジプト記7章14節以下でモーセがナイル川の水を血に変えた後、様々な災いがエジプトに降ったことを思わせます。

 

 ところが、冒頭の言葉(7節)のように、「底なしの淵から上って来」た「一匹の獣」という悪魔的な存在が、証しを終えたこの二人を殺してしまいます。二人が預言するために与えられていた力も、限定的なものだったということです。この獣のイメージの背景に、ダニエル書7章3,7,21節があるといってよいでしょう。

 

 二人の死体は「大きな都の大通りに取り残される」(8節)と記されます。これは、さらし者にされるということです。「たとえて」は「プネウマティコース:霊的に」という言葉で、岩波訳の脚注に「その霊的な力によって、その都の正体を言い当てる仕方によれば、の意味」と記されています。

 

 「ソドムとかエジプトとか」について、ソドムはゴモラと対にして語られる滅びの町ですが(創世記19章24節以下)、ここでは神の民を奴隷として苦しめたものとして、エジプトが選ばれています。キリスト者たちを苦しめた都、滅びを刈り取る都ということで、これはエルサレムの町を指しており(イザヤ書1章9,10節参照)、そこで殺された預言者たちがさらし者にされたというのです。

 

 「この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」(8節)というのは、主イエスが十字架に磔にされて殺されたことを言い表していて、この都がエルサレムであることを、更に明確にしています。

 

 地上の人々は、預言者たちの死を喜びます(10節)。死体を墓に収めさせず(9節)、嘲笑したのでしょう。彼らの預言に苦しめられていたからです。しかし、それは恐れに変わります。「命の息(プネウマ・ゾーエース:「命の霊」の意)」が神から出て二人に入り、二人が立ち上がったからです(11節)。

 

 二人は葬られなかったため(9節)、死体を眺めていた人々の面前でこの出来事が起こったということになります。葬ることが許されなかった三日半は、本来、ずっとそれを許すはずのないことだったのでしょうけれども、三日半して二人が甦ったので、嘲笑される期間が終わりを迎えたのです。

 

 二人は、「ここに上って来い」という声に従って雲に乗り、天に上りました(12節)。すると、大地震が起こって町の十分の一が倒れ、七千もの住民が死に、残った人々は恐れを抱いて神の栄光をたたえたと言います(13節)。「死ぬ」は「アポクテーノー(殺す)」の受身形が用いられていて、直訳すれば、「殺された」という言葉になります。

 

 「七千人」は当時のエルサレムの全人口に相当するという注解者がいます。6番目の天使のラッパで引き起こされた「第二の災い」に遭っても、残った人間は悔い改めることがなかったと言われていましたが(9章20,21節)、エルサレムに住む殆どの民が自身で自身で殺されるという災い、神の裁きを目にして、生き残った人々は神を畏れ、その栄光を讃えます。悔い改めたということでしょう。

 

 これは、当時のクリスチャンたちが、苦難の中でも大胆に福音を語っていたことを示しています。彼らには特別な神の守りもあったのでしょう。しかし、多くの人々が殉教しました。キリストが十字架につけられたエルサレムで、どれだけのクリスチャンが犠牲となったことでしょうか。

 

 しかし、彼らは天に凱旋しました。死は敗北ではありません。最後までキリストに忠実に生きた勝利の証しなのです。彼らは、苦しみの向こうに神の栄光を見ていたのです。パウロが、苦難をさえ誇ると語っているのも、そのことでしょう(ローマ書5章3節)。彼らの心に神の愛と平和が満ちているのです(同5節、同15章13節など)。

 

 同じ信仰に生かされている者として、私たちも信仰の物差しである聖書、神の御言葉を固く持って、聖霊の導きのままに歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちにいつも御言葉をくださって有難うございます。あなたは私たちの弱さをご存じです。自分一人でしっかり立つことなど出来ません。どんなときにも主を見上げ、主に頼り、御言葉に従って歩むことが出来ますように。御名を崇めさせてください。 アーメン

 

 

「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」 ヨハネの黙示録12章11節

 

 12章から14章は、黙示録全体の中核をなしています。ここでは、神の民が被っている苦難の意味が、神話的な表現を用いて表され(12章)、神に逆らう勢力の圧倒的な力に対し、死に至るまで忍耐をもって信仰を堅持すべきことが示されます(13,14章)。というのは、最後の勝利は神と小羊のものだからであり、神に逆らう者たちは裁きを受け、滅ぼされるからです(14章)。

 

 本章の最初に、一人の女が登場します。「太陽をまとい、月を足に下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(1節)とあり、創世記37章9節以下でヨセフが見た夢を思い出させます。これは、真のイスラエル、新しい神の民を象徴していると考えられます。

 

 そして、男の子が生まれるというのは、メシア(キリスト)として主イエスがお生まれになることです(5節)。そこに、主イエスの誕生を妨害するために竜が登場します。「七つの頭と十本の角があってその頭に七つの冠をかぶっていた」とあり、7も10も完全数ですから、知恵も力も完全な神のような存在、地上の支配権を持っている、神に敵対する闇の力の象徴です。

 

 マタイ福音書2章のヘロデ王の行動や、同26章57節以下の大祭司たち、同27章11節以下のローマ総督ピラトの行動の背後に、このような存在があることを思わされます。主を亡き者にしようとして、一時、竜が勝利したように思われました。しかし、神は主イエスを甦らせ、天に上げられました(5節)。竜の企ては失敗したのです。

 

 7節以下に、ミカエルと竜の戦いが記されます。ミカエルは大天使長の一人で(ダニエル書10章13節など)、天の軍勢を指揮してイスラエルを守ります。この戦いで竜は敗北し、血に投げ落とされます。そして、この勝利を喜び歌う賛美が天に響きます。

 

 歌の中で、竜は「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の前で彼らを告発する者」と呼ばれています(ヨブ記1章6節以下、ゼカリヤ書3章1節以下など参照)。ここに、竜の告発は退けられました(ローマ書8章33,34節)。

 

 冒頭の言葉(11節)の通り、小羊の死と殉教者たちの立てた証しの言葉が、教会に不退転の力を与え、それによって、竜の激しい攻撃にも揺るぐことなく耐えることが出来るのです。

 

 12節に「残されているときは少ない」と記されていて、まだ救いの完成には至っていないことを示します。しかし、天における勝利の賛美を、共に和して歌うようにと招かれています。闇の力がどのように恐ろしく振舞っていても、その運命は既に定まっているということです。

 

 地に落とされた竜は、その怒りを女に向け、滅ぼそうとします(13節)。女は神の力を受けて荒れ野に行きます。「鷲の翼」は、神から与えられた新しい力を示します(出エジプト記19章14節、イザヤ書40章31節など参照)。

 

 「荒れ野」は、かつてイスラエルの民が神の真実と恵みを味わい、信仰が養われた場所です(出エジプト記~民数記)。命を脅かす危険がある場所で、神の守りと養いをもう一度経験するのです。厳しい戦いを戦わなければなりませんが(17節)、主イエスを信じて、この戦いを耐え忍ばなければなりません。

 

 この戦いは全世界の教会と信徒たちに関わるものです。しかし、竜として描かれているサタンは既に失脚し、その怒りも最後のあがきに過ぎないことが知らされているのです。

 

 私たちは、生きていく中で様々な苦しみを味わい、厳しい現実に出会います。自分の願い通りのことが起こらず、道が開かれないということもしばしばです。けれども、主はいつも信じる者と共におられ、私たちの思いをはるかに越えたよい道を備えておられます。

 

 奇跡とは、「奇」しい「跡」と書きます。今は分からないけれども、振り返ってみれば、神の御手がそこに働いていたこと、神の御業がなされていたことを悟るのです。「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし」(聖歌539番)と、栄光の主を仰ぎ、賛美しつつ歩みましょう。

 

 主よ、苦難のに私たちは無力です。打ちのめされてしまいます。しかし、あなたが私たちと共にいて私たちを守り、力づけ、立ち上がらせてくださいます。ただあなたに依り頼みます。永遠の命の言葉を持っておられるのは、主よ、あなただけだからです。 アーメン

 

 

「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」 ヨハネの黙示録13章16節

 

 13章では、竜に仕える獣の攻撃という表現で、教会が皇帝礼拝を強要するローマ帝国に対して、苦闘する様子が描かれます。獣には、しばらくの間活動する権威が与えられ、また聖徒たちと闘って勝つことが許されているからです。

 

 これは、当時の教会と信徒たちが、神以外のものには信頼出来ないという絶体絶命の危機にあったことを伺わせます。ローマ帝国の圧倒的な権力の前に、クリスチャンたちが武器を持って戦うということなどが出来たわけではありません。

 

 10節に「捕らわれるべき者は、捕らわれていく。剣で殺されるべき者は剣で殺される」と記されており、続けて「ここに、聖なるものたちの忍耐と信仰が必要である」と言われています。たくさんの信徒たちが、このローマの迫害によって投獄され、殉教することを余儀なくされていたわけです。

 

 わが国でも、450年ほど前、キリスト教が伝えられて、多くの人々が信仰を持つようになりました。今よりもずっと多くのクリスチャンがいたのではないでしょうか。その教えの広がり方に恐れをなした当時の支配者たちは、禁教に踏み切ります。

 

 この静岡でも、クリスチャンたちの迫害、殉教の跡を見ることが出来ます。大御所の膝元として、どこよりも徹底的な弾圧、キリシタン迫害が行われたようです。1613年2月に「伴天連追放之令」が発布されますが、それは駿府からまず幕府直轄領に布告され、キリシタン信仰が禁止されたのです。

 

 国家権力という圧倒的な力の前に、クリスチャンたちはどのように立ち向かうことが出来たのでしょうか。それは、最後まで自分たちの信仰を守り、その信仰を証しして死んで行くということでした。どんなに苦しめられても、信仰を捨てない、それが彼らの出来た最高の抵抗でした。

 

 踏み絵、それはただの絵です。踏めば罰(バチ)が当たるというわけではないでしょう。けれども、そこに描かれている主イエスの像、聖母マリアの像を踏むことが出来ない。踏んで刑を免れるよりも、踏まずに信仰を証しして、教えに殉ずる方を選ぶ。そういう形で信仰を貫いたのです。

 

 12章10、11節に「わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった』」と記されていました。

 

 ここで「告発する者」(カテーゴール)とは、サタン悪魔のことです。神の救いと力と支配が現れ、神のメシアの権威が現れて、告発者が神の御前から投げ落とされ、兄弟たちは既に勝利したという宣言がここになされているのです。そのように、勝利は私たちのものなのだから、最後まで信仰を守り通そう、信仰の証しを貫こうということです。

 

 現実には大変厳しく弾圧され、信徒たちは迫害に苦しめられています。「打ち勝った」と言われても、それは本当ですかと言いたいような状況です。そもそも、主イエスが捕らえられ、一方的な裁判で死刑が確定し、茨の冠を被せられ、手足に釘を打たれて十字架に磔になり、全く何の抵抗もされないまま、殺されておしまいになりました。どこにメシアの権威が現れたというのでしょうか。

 

 むしろ、これでキリスト教はおしまいだ。イエスを葬ることが出来た。やがてこの教えは全世界から消え去ってしまうと誰もが思ったのではないでしょうか。権力の前に全く抵抗出来ない現実と、黙示録が宣言しているクリスチャンたちの勝利、相当にギャップがあるように見えます。

 

 けれども、聖書は私たちに勝利を語ります。天上において既に勝利が保証されていると宣言し続けて来ました。十字架にかかられる前、これから当局に捕らえられ、死んでいこうとされている主イエスが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)と言われたのです。

 

 全く無抵抗で、弱さ、苦しみの極限とも思われる十字架上で主イエスがなさったこと、それは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と祈られることでした。自分を殺そうとしている者を赦してくださるよう、神に執り成しているのです。

 

 私たちにとって、それは感動的なことです。しかしながら、主イエスを殺そうとしている人々は、この祈りをどのように聞いたことでしょう。打ちのめされて殺されようとしている人の「彼らを赦してください」という祈りを聞いても、何をたわごと言っているのかという世界ではなかったでしょうか。

 

 しかし、現実の世界、そこに見える姿がどんなに弱々しくても、私たちが想像することも出来ないような偉大な御業を進めていくことが出来る。これ以上悲惨な姿はないという現実の中で、神様は、最も偉大な御業を前進させていくことがお出来になるのです。

 

 その中で、私たちはまことの神を信じ、まことの神に頼るということを学ぶのです。私たちが、自分を誇るのではなくて、ただひたすら、神を誇るということを学ぶ、信仰の世界がそういう形で開かれているということが出来るのではないかと思います。

 

 竜が第一の獣を海から呼び出しました(1節以下)。獣には「十本の角と七つの頭があった」。七つの頭に十本の角がどのようについていたのかと詮索しても、答えはありません。これは、七つの頭で、完全な知恵を持ち合わせ、十本の角で、あらゆる権威を有しているということを表わしているわけです。

 

 12章3節の赤い大きな竜にも七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていたとありましたされていますから、竜が持っていた知恵と権威が、第一の獣に授けられたということになります。この獣はローマ帝国を、そしてその頭や角がローマ皇帝を表わしていると考えられています。

 

 5節以下を読めば、地上に生きる信徒たちにとって、獣と表現されたローマ帝国と皇帝の権威、権カがいかに恐るべきものであったかが分かります。まさにこれが、「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」(10節)といれる所以です。

 

 更に、竜は第二の獣を地中から呼び出しました(11節以下)。12節に「この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた」と記されています。

 

 竜、第一の獣、第二の獣、さながら、三位一体の神のようです。竜が第一の獣におのが知恵と権威を授けたというのは、甦られた主イエスが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ福音書28章18節)と言われたことに通じます。第二の獣は、第一の獣を拝むように働くのですが、それは、聖霊の働きに似ています(ヨハネ福音書15章26節など)。

 

 かつてイスラエルは、神の救いの御業を記念し、主を愛するしるしとして、右手と額に御言葉の印を付け、覚えとしました(出エジプト13章、申命記6章)。この黙示録において、神の僕たちの額に神の刻印を押すという表現が出て来ます(7章2節以下)。それは、額に刻印を押された人には害が及ばないようにするためです(9章4節)。

 

 悪の勢カはこれを、地上の民を支配する方策として真似、冒頭の言葉(16節)のとおり、「その右手か額に刻印を押させ」ました。そして、「この刻印のある者でなければ、ものを買うことも、売ることもできないように」(17節)しました。

 

 「この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である」(17節)といい、「数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である」(18節)と告げます。ヘブライ文字で「皇帝ネロ」と書いてゲマトリア法で数字化すると「666」になります。

 

 ローマ帝国は、皇帝を神として拝ませるという政策を採るようになりました。この皇帝礼拝は、帝国によって推進されただけでなく、トラの威を借りたい周辺諸国の権力者たちによって、積極的に推進されたのです。

 

 その際、皇帝礼拝を徹底するために、住民の右手か額に刻印を押し、その印がない者には、売り買いに代表される市民生活、社会生活が出来ないようにしたのです。それは、皇帝の神殿が発行するお札やお守りを持たせるということだったのかも知れません。

 

 モーセが出エジプトの指導者に立てられた時、彼が神から授けられたのと同様の力を、ファラオに仕える魔術師たちも見せることが出来ました(出エジプト記13章)。このように、悪の勢カは絶えず神の真似をして人身を引きつけ、惑わしています。

 

 ここには、神の国の方策を学び、それに従うと祝福に与ることが出来るという真理があるように思われます。悪魔がこの真理を利用して、神の子らが受けるはずの力や祝福を盗んでいる、我がものにしていると言えるのではないでしょうか。

 

 また、悪魔が神の真似をするのであれば、それが神の導きか悪魔の惑わしか、見分けがつき難いとも言えます。悪魔は、主イエスを誘惑するのに御言葉を使うことさえしました(マタイ福音書4章6節)。どのようにして、それを見分けることが出来るでしょうか。主イエスがなさったように、神は何と仰ったか、どう教えておられるか、私たちも御言葉から確かな導きを得なければなりません。

 

 今日、キリストを信じているから、聖書の教えを信じているから、社会生活が脅かされるということはありません。そういう社会情勢ではありません。しかしながら、私たちも、様々な苦しみを味わい、厳しい現実に出会います。自分の願い通りのことが起こらず、道が開かれないということがしばしぱです。色々なことで混乱させられ、惑わされています。

 

 だからこそ、信仰に目覚め、自分のすべきことをはっきりと意識していなければならないのではないかと思います。そこで私たちの信仰を守る砦は何かといえば、神の御言葉である聖書、そして神と交わる祈りしかありません。

 

 その御言葉が、苦しみ、悩みのときにどう働くでしょうか。御言葉の知恵をどのように生かすことが出来るでしょうか。それは、私たちが日ごろ、どれだけ御言葉と祈りを通して知恵と力を頂いて来たかにかかっています。だからこそ、聖書日課が推奨され、礼拝、祈祷会への出席を奨励しているわけです。

 

 主はいつも信ずる者たちと共におられ、私たちの思いをはるかに超えたよい道を備えていてくださいます。神の御手がそこに働いていると信仰を働かせ、現実がいかにあっても、栄光の主を仰ぎ、賛美しつつ歩みましょう。そのようにして、私たちも勝利の人生を歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、私たちに恵みを与え、力を与え、希望を与え、平安を与えてくださって感謝します。日々信仰によリ、御言葉に従って歩みます。どんなときにも主への感謝と賛美で心が満たされてありますように。苦しみの中にある人々に、主の恵みの力が豊かに注がれますように。主の平安が働きますように。 アーメン

 

 

「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」 ヨハネの黙示録14章13節

 

 14章の最初の段落(1~5節)に「14万4千人の歌」という小見出しがついています。14万4千人とは、「大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」(7章14節)人々、つまり、主イエスに救われ、大きな苦難の中でも神に守られて、信仰を全うした人々です。彼らが今、小羊と共にシオンの山に立っているとあります(1節)。

 

 小羊は、5章6節に登場して以来ずっと、天上にある神の玉座の前にいると記されていました。この小羊とは、人としてこの世に来られ(第一ヨハネ書4章9節)、十字架で贖いの業を成し遂げて(同10節)、天に上げられた(ルカ福音書24章51節など)、主イエスのことです(ヨハネ福音書1章29,36節)。それが今、「シオンの山」、エルサレムに立っているというのです。

 

 そこには「大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響」(2節)いていました。それは、主なる神がシナイ山に降られた情景を思わせます(出エジプト記19章16節)。エレミヤ書10章13節にも「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される」という言葉があります。

 

 雷鳴などは、神の力や権威を表すものです。ということは、この箇所でシオンの山に立っている小羊は、主イエスが神としての権威をもって地上に降られたということを表しているといってよいでしょう。

 

 14万4千人の「額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されて」(1節)います。7章2節では「生ける神の刻印」と記されていました。ユダヤ教のメシア待望思想によれば、メシアがエルサレムを救い、敵を裁くために現れると言われます(ヨエル書3章5節など)。そこに、小羊とその父の名の刻印を受けた人々が集められて、獣の刻印を受けた人々と区別されます(13章16節以下)。

 

 小羊の権威を示す「大水のとどろくような音、また激しい雷のような音」はまた、「琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった」(2節)とも言われます。3節で「彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった」と言われていますから、琴の奏者は竪琴を爪弾きながら、新しい歌をうたったわけです。

 

 それは詩編95編1節以下に「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びを上げよう。御前に進み、感謝をささげ、額の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王」と詠われるごとく、賛美の轟、ジョイフル・ノイズ、喜びのざわめきとなっているのです。

 

 ただ、「この歌は、地上から贖われた14万4千人の者たちのほかは、覚えることが出来なかった」(3節)と言われており、ここに歌詞が記されてはいません。それは、神の完全な勝利、完全な救いは、未だ実現していないということを示しています。けれども、賛美の轟き、喜びのざわめきによって、神の勝利がここに先取りされているのです。

 

 6節以下に3人の天使が登場してきます。「別の天使」というのですから、8章6節以下に登場して来た、七つのラッパを吹いて、災いを地上にもたらした天使とは別ということでしょう。

 

 第一の天使は、「地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て」(6節)、そして大声で「神を畏れ、栄光をたたえなさい。神の裁きのときが来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」(7節)と告げました。

 

 悔い改めて神を賛美し、礼拝せよと呼びかけ、招いています。正しく神の方を向くこと、それが信仰の第一歩です。私たちが賛美をささげ、また祈りをささげるとき、心は主に向けられます。神は私たちの賛美を喜ばれ、また祈りを喜ばれます。そして、私たちの心を喜びに満たしてくださるのです。

 

 続く第二の天使は、「倒れた、大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が」(8節)と告げます。大バビロンとはローマ帝国のことで、ここにローマ帝国の滅亡が語られます。

 

 第三の天使は、「だれでも獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。その苦しみは、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない」(9~11節)と語ります。

 

 ここで、獣とはローマ皇帝のことで、獣とその像を拝むとは、ローマ皇帝とその肖像を神として礼拝するということです。そのようにローマ皇帝を礼拝する者に対する裁きが、ここに告げられています。

 

 かつて、神に背く重い罪のゆえに、ソドムとゴモラの町が天から降った硫黄の火によって滅ぼされました(創世記19章1節以下、24,25節)。それと同様、神に背くローマ帝国に「火と硫黄」(10節)に示される地獄の苦しみを味わわせようというわけです。

 

 これらの御言葉を聞いたときに、ローマ帝国の厳しい迫害に苦しめられていた当時のクリスチャンたちは、どんなに慰めを得、励ましを得たことだろうかと思います。

 

 しかしながら、「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」(12節)とヨハネは記し、最後まで神の御言葉に従い、信仰を守り続けるようにと勧告しています。ということは、天使の告げた「神の裁き」が今すぐ実行されるわけではない、ということが分かります。

 

 そして冒頭の言葉(13節)のとおり、天からの声で「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と」と言われます。「書き記せ」と記録が求められるのも、それがすぐに実現せず、やはり、忍耐を必要とする時間の経過があるからです。忍耐を通して従順を学ばせられるし、忍耐する中で私たちの信仰が試されていくのです。

 

 「主に結ばれて」(エン・キュリオウ)とは、「主にあって、主イエスの中で」(in the Lord)という言葉です。それは、主イエスを信じるクリスチャンとして、という意味です。「主に結ばれて死ぬ」とは、クリスチャンとして天に召されるということです。

 

 12節の「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける」という言葉との関連で、最後まで神の御言葉に従い、信仰を守り通して召される人、死に至るまで忠実であった人(2章10節)は、これから「幸いな人」(マカリオイ)と呼ばれることになります。

 

 その幸いについて、13節後半に「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」と記されています。「労苦を解かれて、安らぎを得る」とは、神のもとに憩いの場を与えられ、もはや苦しみを味わうことなく、全き安息に入れられるということです(ヘブライ書4章3節参照)。

 

 そして、「その行いが報われる」と言われるのは、パウロが、「主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(第一コリント書15章58節参照)と語っているのと同様でしょう。

 

 神がくださる報いがどのようなものか明示されてはいませんが、それは何よりも、十字架の贖いによって私たちの罪を赦され、それが思い出されることもないということであり(ヘブライ書8章12節など参照)、永遠の命が与えられ、神の国に入ることが出来るということであり(ヨハネ福音書3章5,16節)、そこで完全な安息が与えられるということになります。

 

 また、そこには私たちの愛する人々が大勢いるということでしょう。先に召された方々が私たちのために執り成し祈りながら、私たちが神の御国に凱旋するのを待っていてくださいます。

 

 救いの恵みに与っている者として主の御業を褒め称え、他者のために執り成し祈る者とされていくことが、私たちに与えられる大きな報い、神様の祝福ではないでしょうか。確かに、今から後、主に結ばれて生き、歩み、死ぬ人は、本当に幸いなのです。

 

 神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続けて、幸いな者としていただきましょう。

 

 主よ、私たちには大きな希望があります。私たちは主イエスを信じて御国の民として頂きました。ゆえに、主の御顔を親しく拝することが出来ることが出来ます。また、先達と再会できます。そう信ずることが出来ることは、本当の喜ばしいことです。感謝です。私たちも、死に至るまで忠実に信仰を守ることが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。」 ヨハネの黙示録15章2節

 

 1節に、七人の天使が登場して来ます。地上の悪を裁く最後の七つの災い(神の怒りの盛られた七つの鉢)を携えています。彼らが出て行く前に、天上でなされている礼拝の様子が、2節以下に記されています。

 

 2節に「火が混じったガラスの海のようなもの」という言葉が出てきます。聖書で「海」とは、神に敵対する獣の住家と考えられています(イザヤ書27章1節、51章9節など)。強い波風というような恐ろしい力で、人を船もろとも死の淵へと引きずり込んでしまうということです。

 

 ガラスの海の傍らに「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」がいます。獣に勝ったとは、実際に戦ったということではなく、皇帝の像を拝むように強要されてもそれに屈せず、最後まで信仰を守り通したという意味です。特に、黙示録において「勝った者」とは、殉教者を指しているということが出来ます。彼らはまさしく命を懸けて、信仰を守ったわけです。

 

 3~4節に、彼らの歌う「神の僕モーセの歌と小羊の歌」とが記されています。海と勝利者と歌と言えば、出エジプト記14章に記されている、エジプトのファラオとその軍勢を滅ぼした紅海の出来事を思い出します。

 

 かつてイスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦役を強いられました。その嘆きを聞かれた神がモーセを立てて、この民を苦難から救い出されました。そのために、災いが繰返しエジプトに起こり、ファラオはようやくイスラエルの民を解放します(出エジプト記3~13章)。

 

 解放された民の行く手を葦の海が遮ります。後ろから、ファラオの軍勢が追いかけて来ます。絶体絶命の時、神は葦の海の水を分け、向こう岸に渡れることが出来ました。そして、追いかけてきたエジプト軍は、もとに帰った海に飲み込まれてしまいました(同14章)。イスラエルは完全に解放されたのです。そこで、モーセとイスラエルの民は、主を賛美して歌を歌いました(同15章)。

 

 ヨハネはこうした出来事になぞらえて、この箇所を描いているのです。七つの災いを携えた7人の天使や火の混じったガラスの海、その火は神の裁きを象徴しています。この裁きの海で、エジプトならぬローマは完全に滅ぼされてしまうのです。そして、モーセとイスラエルの民が主をたたえたように、神の勝利を喜ぶ賛美の歌が歌われます(3,4節)。

 

 出エジプト記15章2節に「主はわたしの力、主はわたしの歌、そしてわたしの救いとなられた」と歌われています。これは、私たちが主の御言葉に励まされ、主を歌うとき、主は私たちを救ってくださると教えられます。

 

 今日、私たちにとって、私たちを飲み込もうとする海、私たちを海に引きずり込んで虜にしようとして追いかけてくる神の敵対者とは何でしょうか。それは、まず第一に、罪の力です。かつては罪に支配され、自分でその罪に打ち勝つことは出来ませんでした。イエス・キリストが罪の刑罰を身代わりに負うてくださり、私たちはその呪いから解放されました。

 

 そして、死の力です。誰も、死に立ち向かうことは出来ません。まさに絶体絶命です。けれども、私たちは死に飲み込まれてしまうのではありません。甦りの命に包まれているのです。主イエスを信じて神の子とされたとき、主イエスの命、永遠の命をいただきました。

 

 「火の混じったガラスの海のようなもの」には、文字通りの「海」という意味のほかに、もう一つの意味があります。それは、神の幕屋と祭壇の間におかれていた洗盤のことです。洗盤は、祭司たちが身を清めるために用いるものです(出エジプト記30章18節以下)。

 

 ソロモンの神殿には、大洗盤が置かれていました(列王記上7章23節以下)。ソロモンは、この洗盤を「海」と呼びました。神殿の庭に祭壇と「海」が置かれています。祭司は、祭壇にいけにえを献げた後、「海」(洗盤)で身を清めてから聖所の中に入り、神に仕える働きをします。つまり、真の礼拝は、祭壇を通り、海で身を洗った者によってなされるのです。

 

 今日、祭壇は主イエスが贖いの供え物としてご自身をささげられた十字架を現します。それによって私たちの罪は赦され、解放されます。海は、祭司が身を洗い清める場所で、それは、主イエスを信じる者が古い自分に死に、主イエスに従う新しい人生に生まれ変わるバプテスマを現します。

 

 マタイ福音書3章11節を見ますと、主イエスは私たちに、「聖霊と火でバプテスマをお授けになる」と記されています。火が混じったガラスの海のようなものとは、そのことではないでしょうか。

 

 祭壇と海を通って、聖所に入ります。十字架の主イエスを信じ、バプテスマを通して聖霊の力と恵みに与るところから、真の礼拝が始まったのです。

 

 今、自分たちの置かれている状況がいかにあっても、天で歌われている勝利の歌、主への賛美に和して、常に喜び、絶えず祈り、どんなことでも感謝して、主を誉め称えましょう。

 

 主よ、私たちに主イエスを信じる信仰をお与えくださり、感謝します。裁かれるべき私たちがキリストの贖いによって罪赦され、主を礼拝する者とされました。いつも聖霊に満たされ、どんなときにも御言葉に従って互いに愛し合い、赦し合い、支え合いつつ、共に御名をほめ讃えさせてください。主イエスが罪と死に打ち勝たれたように、私たちにも勝利が約束されているからです。 アーメン

 

 

「汚れた霊どもは、ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所に、王たちを集めた。」 ヨハネの黙示録16章16節

 

 16章には、7つの封印(6~8章)、7つのラッパ(8~11章)に続く、第三の災いのグループ(7つの鉢)が登場してきます。災いの種類は、それぞれよく似ていますが、その規模が順々に大きく拡大されています。ヨハネは、世の終わりに起こるこれらの災いを、神の義による裁きとして描いています。神に逆らって悔い改めようとしないものは、苦しめられ、滅ぼされます。

 

 それは、何度災に見舞われても、頑なになって悔い改めようとしなかったエジプトのファラオが、過越の事件と紅海の出来事を通して、最終的に滅ぼされたことを思い出させます。出エジプトの出来事になぞらえて、クリスチャンたちを苦しめているローマ帝国による迫害にも、やがて神による裁きがなされ、教会があらゆる苦しみから解放される時が来るという希望を示しているのです。

 

 黙示録が著されてから200年後のAD313年、皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発布して、キリスト教がローマ帝国の公認宗教となりました。弾圧するよりも公認して利用した方が得策と考えたということのようですが、いずれにしても、教会は確かに、厳しい弾圧の中でじっと我慢というのではなく、キリストの勝利を信じて福音宣教に励んでいたわけです。

 

 冒頭の言葉(16節)の「ハルマゲドン」は、聖書を読まない人でも耳にしたことあるものでしょう。ただ、地球滅亡とか宇宙大戦争というイメージで捉えられていて、正しい意味で用いられてはいません。1998年に「アルマゲドン」というSF映画が作られていますが、大きな惑星が地球に衝突して、そのために地球が消滅するという危機を、この題名で表現しています。

 

 「ハルマゲドン」とは、「ハル」が「山」、「マゲドン」が「メギド」という地名です。つまり、「メギドの山」という意味になります。ただ、「メギド山」はイスラエルには存在しません。なぜ、ヨハネは汚れた霊どもが「ハルマゲドン」に全世界の王たちを集めると記しているのでしょうか。

 

 まず考えられるのは、汚れた霊どもが世界の王たちを集めるのは、最後の抵抗の戦いのためでしょう。古来、メギドは何度も戦場になりました。中でも特に、バビロンに破れたアッシリアを救援するために北上するエジプトを阻止するため、南ユダの王ヨシヤ王が迎え撃とうと出て行き、メギドでの戦いに敗北し、戦死しています(列王記下23章29,30節、歴代志下35章20節以下)。

 

 ヨシヤ王は、申命記の御言葉に従って宗教改革を断行し、それが祝されて国力を増大することが出来ました(列王記下22章8節以下)。しかし、その成果に思い上がったのが、メギドでの敗北の原因だったと思われます。汚れた霊どもは、メギドで神の民イスラエルに対する勝利を再現したいと考えたかのようです。

 

 しかし、上述のとおり「メギドの山」は実際には存在しません。存在しない地名が記されているということは、汚れた霊どもと天の軍勢の戦いはもはや起こらないという意味になるのではないでしょうか。

 

 実は、メギドの北西20kmの距離にカルメル山があります。そこは、エリヤがバアルとアシェラの預言者たちを打ち負かした所です。主が神か、バアルやアシェラが神かという戦いで、主が神であることが明らかにされたという出来事がありました(列王記上18章16節以下)。そのためか、ハルマゲドンとはカルメル山のこととする学者もいます。

 

 そうであれば、汚れた霊どもは、エリヤのときの報復戦を挑もうとしていることになります。ところが、戦いが始まる代わりに、17節に「事は成就した」(ゲゴネン:it is done)という大声が、神の玉座から聞こえたとあります。これは、主の勝利宣言です。

 

 それで大地震が起こり(18節)、ローマが引き裂かれ、諸国の方々の町が倒れたと言われます(19節)。結局、メギドでの戦いは起こらずじまいでした。汚れた霊どもによって集められた全世界の王たちは、最後の闘いを戦う前に、あの大きな都バビロンが裁かれたのを見て、嘆き悲しむことになるのです(18章9節参照)。

 

 つまり、ヨハネがこれを記したのは、どこで最終的な戦いが起こるか、どのような戦いになるか、予告するようなことではありません。主イエスが十字架で罪の贖いをなし遂げ、死の力に打ち勝って甦り、天に上げられたことで、既に主の勝利と悪しき勢力の裁きは確定しています。それゆえ、クリスチャンたちが汚れた霊どもに惑わされず、最後まで主イエスの勝利を信じるよう、求められているのです。

 

 そのことを、15節に挿入されている言葉が示しています。これは、主イエスがルカ福音書12章37節で「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と語られた言葉を模しています。

 

 ここに「幸い」という言葉があります。黙示録中、これが3度目です(1章3節、14章13節)。「目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」(15節)ということは、キリスト者たちに目を覚まして備えているよう勧告しているのです。

 

 衣を身に着けているというのは、3章4節の「白い衣を着てわたしとともに歩くであろう」という表現などから、キリストを信じている、キリストに従って歩んでいることを指しています。目を覚ましているとは、悪しき霊に惑わされないこと、キリストの勝利を信じて信仰を守ることです。

 

 「身に着ける」と訳されているのは「テーレオー:守る」という言葉で、黙示録にも11回用いられ、殆ど「守る、守り続ける」と訳されています。「着物を守る」という訳ではおかしいので、「身に着ける」と訳されていますが、「キリストを信じる信仰」を「守る」ことが、「衣」を「身に着けること」ということです。

 

 ローマ皇帝の圧倒的な権力の前にまったく無力に見えるクリスチャンたちが、勝利の主の御手の内に守られていること、そのご支配の中に生かされているということを、この御言葉によって確信し、大いに励ましを受けたのです。

 

 ヨハネは、厳しい現実から逃れるためにおとぎの世界を描いたのではなく、厳しい現実に立ち向かうために、信仰による勝利を描きました。夢にまどろむのではなく、目を覚ましているためです。そして、勝利の主に対して賛美の歌を歌います。

 

 15章にも、全能の神を讃える歌が記されていました。既に勝利を得たから歌っているのではありません。勝利を信じているから歌うのです。ここに信仰があります。賛美の歌を通して勝利に導かれると言ってもよいでしょう。

 

 詩編46編11節に「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。私たちが自分の知恵や力に頼ることをやめ、主に頼るとき、この手ごたえを味わうことが出来るのです。

 

 どんな問題があっても、神を賛美してみましょう。歌を歌う気分でなくても、御名を崇めましょう。問題があるからこそ、苦しみを味わっているからこそ、歌うのです。そこに主がともにいてくださいます。そこで主が働かれます。

 

 聖霊を求めて祈りましょう。約束どおり、主は御霊に満たしてくださいます。聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれます。

 

 主よ、マイナスと見える現実にではなく、私たちに勝利を与えてくださる主に目を留めます。御名を呼び求めて祈ることが出来ることを感謝します。聖霊も弱い私たちのために呻きをもって執り成してくださり、万事を益としてくださることを感謝します。御言葉と祈りを通して、絶えず正しい道へと導いてください。 アーメン

 

 

「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいるもの、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」 ヨハネの黙示録17章14節

 

 17章には、赤い獣にまたがった一人の女が出てきます(3節)。それは1節で「多くの水の上に座っている大婬婦」と言われ、また5節で「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」と呼ばれています。

 

 女の座っている「多くの水」について、古代バビロンは、ユーフラテス川が分岐している多くの運河に接していました。15節に「あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である」と説明されています。また、「大バビロン」と呼ばれた女について、18節で「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」と言われます。

 

 しかし、黙示録が執筆されている時代、既にバビロンは滅ぼされてしまっています。その当時、様々な民族、種族、国民の上に君臨し、その王たちを支配している都とは、ローマ以外にあり得ないでしょう。ローマの都には、多くの川や海港などはありませんが、すべての道はローマに通ずというほどに、海外の国々と交易する頂点に君臨していました。

 

 女がまたがっている「赤い獣」(3節)の「七つの頭」(同節)について、9節に「七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである」とあります。ローマの都は、ティペル河畔の「七つの丘」の上に築かれていました。

 

 「そして、ここに七人の王がいる」(9節)は、口語訳、岩波訳と同様「また(それは)七人の王のことで(も)ある」と解するべきでしょう。ただ、黙示録執筆当時のドミティアヌスまで、ローマ皇帝は12人いました。そのうち7人とは誰のことを指すのか、詳しいことは分かりません。

 

 ただ、11節に「以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる」と言われる八番目の皇帝のことが問題です。「以前いて、今はいない獣」、「先の七人の一人」とは、既に死んだ人物でありながら、次代の皇帝として再び登場してくるということです。

 

 このことについて、研究者たちが「ネロの再来」伝説との関連を指摘しています。キリスト教徒の迫害者として知られるネロは自殺して果てましたが、後に、彼は死んだのではなく遠方に雌伏していて、ローマの宿敵パルティア人を率いて戻って来るとか、死人の世界から復活して来るという伝説が生まれたのです(13章3節参照)。

 

 「みだらなこと」、「みだらな行い」(1節)とは、ローマ帝国の繁栄による腐敗、退廃を示すような用語です。けれども、旧約以来の伝統では、神に対する敵対、神を神としない不信、そして異教の神々を拝む偶像礼拝を指しているといってよいでしょう。即ち、「この女のみだらな行い」(2節)とは、ローマ帝国の偶像礼拝、即ち皇帝礼拝のことをいうのです。

 

 ローマ皇帝が神として崇められているときに、皇帝礼拝を拒むクリスチャンたちは、圧倒的な帝国の力の前にまったく無力な存在でした。けれども、冒頭の言葉(14節)の通り、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」とヨハネは語ります。小羊が獣とどのように戦うのでしょう。どのように勝利するのでしょう。

 

 小羊には、獣を引っかき、捕らえる爪はありません。獣を突く角もありません。噛みつき、引き裂く牙もありません。運動能力が優れているということでもないでしょう。小羊の戦いは、そのような武器や力、強さによるものではないということです。

 

 ゲッセマネの園で主イエスを捕らえにきた大祭司の手下どもに対して、弟子の一人が剣を抜いて切りかかったとき、主イエスは「剣を鞘に収めよ、剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26章47節以下など)と言われ、無抵抗のまま捕らえられました。自分を裁く不当な裁判の中でも、何もお答えにならなかったと言われます(同27章12節)。

 

 そのまま死刑が確定して(同26章26節、27章15節以下など)、十字架に磔になり(同35節など)、そこで息を引き取られました(同50節など)。これを見る限り、小羊なる主イエスは、権力者の前に敗北してしまったとしか考えられません。主イエスを殺した者たちは、その日、勝利の美酒に酔ったことでしょう。

 

 ところが、小羊が彼らに打ち勝つと言われるのは、主イエスの死によって、神の救いの御業が完成したからです。つまり、悪の力は、神の救いの御業を阻止することが出来なかったということです。主イエスを信じる者は罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子となる資格が授けられます。

 

 神の子とされた者たちは、この世のものに力で対抗しません。「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた」(14節)、同じように権力の前に無力です。しかし、権力を恐れず福音宣教の働きを進めます。それが神の救いの業だからです。そして、歴史上どんな権力も、福音宣教の働きを阻止出来ませんでした。まさしく、小羊が主の主、王の王だからです。

 

 キリストは、ダビデの子と呼ばれました。ダビデは、勿論キリストではありません。罪多き人物でした。けれども、一つその理由を挙げるとすれば、彼は権威に対して力で立ち向かいませんでした。ダビデは、サウル王から命を狙われて逃亡生活に入ります(サムエル記上19章11節以下)。

 

 その中で二度、ダビデがサウルを手にかけるチャンスがありました。けれども、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけるのを、主は決して許されない」(同24章7節、26章11節)と、そうする意思のないことを示します。ここに、父なる神に完全に服従された主イエスの姿を見ることが出来るというわけです。

 

 私たちの勝利も、主の御言葉に対する従順さ、忠実さをもって示されるのです。それは、世の人々に対して無力さを示すことかもしれません。しかし、私たちが語る福音の言葉だけが永遠に残るのです(第一ペトロ書1章25節)。

 

 主よ、御言葉に服従するというのは、確かに戦いです。服従することを妨げようとする力が、様々な形で働きかけてきます。自分との戦いということもあります。小羊なる主イエスが主の主、王の王として、いつも私たちの心の王座に君臨してください。そして、主ご自身が勝利を収めてください。私たちはあなたにお従いします。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。」 ヨハネの黙示録18章4節

 

 18章には、バビロンが倒れたという宣言(2,3節)に続き、大きな災いが臨むので、バビロンから逃れるようにという勧告(4~8節)、バビロンとつながりのある王や商人たちの嘆き(9~20節)、バビロン消滅宣言(21節以下)が記されています。

 

 ここには、旧約聖書を背景とした表現が多く見られます。9~19節の背後にはエゼキエル書26~27章、その他の部分にはエレミヤ書50~51章があり、また、多くの表現がイザヤ書とも関連しています。

 

 これらの表現を援用して、バビロン=ローマが冨と贅を尽くして神をないがしろにし、また神の民を虐待してきた報いを受けることが告げられます。ここに、ローマの都が滅びる様子は描写されてはいませんが、つながりがあった者たちの嘆きの言葉と天使の告げるバビロンに対する裁きの言葉で、雄弁に物語っているのです。

 

 現代に生きる私たちは、このメッセージをどのように聞くべきでしょうか。私たちとは無関係の世界だから、聞かなくてもよいと言えるでしょうか。そうは思いません。神に従おうとしない人々や、国から離れなさいと言われているので、キリスト教国というところに行かなければならないのでしょうか。そうも思いません。

 

 当時も今も、神に従わない人々から離れよ、挨拶もするなということになるなら、この世で生活出来なくなります。当時のクリスチャンたちの中には、奴隷という身分の人も沢山いたと思います。彼らは、移動の自由を持っていません。彼らに町を離れよと言っても、出来る相談ではなかったと思います。

 

 これは、文字通り、町を離れ、国を離れることではありません。社会生活を捨てて、クリスチャンだけの隠遁生活を送ることなどではないはずです。「彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ」(4節)というのは、皇帝礼拝をするなということです。神ならぬものを神とはしないという、信仰の旗印を明確にすることです。

 

 今日の日本でも、クリスチャンであるというだけでマイナスとなるために、自分の信仰を公に出来ないというようなところもあるそうです。そうしたところで自分の信仰を表明するのは、戦いでしょう。

 

 ヨハネ黙示録は、そのような環境の中で信仰を表明したために苦しみを受けている人々に向けて、御言葉に忠実に聴き従い、主イエスへの信仰を守っている「あなたは幸いだ」というメッセージを送り(1章3節、22章7節)。最後までその姿勢を守り続けるようにと励ましているのです。

 

 日本を代表する伝道者、ラジオ牧師で、3年前に召された羽鳥明先生が、信仰に入られるきっかけを話されたのを伺ったことがあります。戦時中、中学校の軍事教練の教師は大のヤソ嫌いで、いつも「ヤソは国賊だ」と言っていたそうです。

 

 ある日、先生のおられた教室に軍事教練の教師がやって来て、「ここにヤソがおるなら、手を上げよ」と尋ねました。だれも手を上げないだろうと思っていたところ、おとなしい一人の少年が、手を上げて立ち、「僕はクリスチャンです。僕はイエス・キリストを信じています」と答えました。

 

 その少年の真実な毅然とした態度に強く心打たれ、先生はその少年と友だちとなりました。やがて、その少年に導かれて教会に行き、2度目に教会を訪れ、集会に参加したときにクリスチャンになる決心をされたのだそうです。

 

 私たちは、様々な苦しみから解放されるために神の翼の下に安息の場所を求めました。そして、罪の呪いから、死の恐れから、解放していただきました。心に、魂に、そして生活に神の平和が与えられました。

 

 その平和が脅かされるとき、つまり、私たちを罪の呪いと死の恐れから解放してくださった主イエスに対する信仰を妨げ、奪おうとする力に対して、力で対抗して平和を守ろうということではありません。信仰を表明することでマイナスを被るとしても、私たちには、神の御翼の下、主イエスの懐という逃れ場があることを信じることです(第一コリント書10章13節)。

 

 そう言いながら、自分がそういう場に立たされたら、足が震えるだろうと思います。しっかり信仰を守り、主イエスを証しすることが出来ると胸を張れない臆病さを感じます。だから、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ福音書6章13節)と祈ります。そう祈りながら、御言葉に従おうとする信仰に立たせていただきたいと思います。

 

 主よ、御子イエスが「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ福音書17章15節)と祈ってくださいました。主よ、この世にあって私たちがあなた以外のものを神とすることがありませんように。罪から離れ、災いに巻き込まれることがありませんように。いつも私たちを守り導いてください。 アーメン

 

 

「それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、また、『これは、神の真実の言葉である』とも言った。」 ヨハネの黙示録19章9節

 

 19章で、大群衆が登場し、「ハレルヤ」と勝利の歌を歌い始めます(1節)。これは、18章20節の「天よ、この都のゆえに喜べ。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ」という呼びかけに対して、応答しているのです。黙示録を貫いている賛美が、この歌に要約されるのです。バビロンが倒れ、神の僕たちの血の報復がなされたからです(2節)。

 

 その賛美の中で「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(7,8節)と歌われます。

 

 花嫁とは、キリスト教会のことです(第二コリント書11章2節、エフェソ書5章25~27節、マタイ福音書25章1節以下など参照)。ここに、バビロンの淫婦として皇帝礼拝を強要するローマと、キリストの花嫁なる教会が対照されています。

 

 大淫婦は裁かれますが(2,3節、17章1節)、花嫁は婚礼の席、主のもとへ進みます(7節)。大淫婦が紫と赤の衣を着、金と宝石と真珠で実を飾り、忌まわしいものや淫らな行いの汚れで満ちた金の杯を持っているのに対して(16節、17章4節)、小羊の花嫁は輝く清い麻の衣をまとっています(8節)。

 

 清い衣は、聖なる者たちの正しい行いであると言われます。それが花嫁に与えられたということは、キリストに忠実に従って信仰の道を歩んで来たこと(3章4,5節)、キリスト者たちは神の御心に従って正しく生きることが出来るのです。

 

 この賛美に続いて、天使がヨハネに語りかけ、祝福の言葉を書き記すように命じます。それが冒頭の言葉(9節)です。黙示録の中で「幸い」(マカリオイ)を告げる言葉は、これで4度目です(1章3節、14章13節、16章15節)。

 

 この祝福の言葉は、小羊の婚礼に招かれたすべての者のために書き留められ、伝えられています。婚礼に招かれた者とは、教会に連なるすべての者のことです。私たちは、主イエスが「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」(マタイ福音書26章29節)と言われたように、終わりの日の天の御国における晩餐の宴に招かれているのです。

 

 ということは、今、キリストを信じるように招かれ、その導きに従って歩み続けている者は幸いだと言われていることになります。それは、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2章10節)と言われた言葉に通じます。

 

 こうしてみると、2,3章に記されていた七つの教会について、キリストの小羊の婚礼への招きが告げられて、その招きに応ずる者の幸いが語られているわけです。ということは、それぞれの教会に対して語られていた警告と勧告の言葉に耳を傾け、どのような迫害と誘惑の嵐が襲ってきても、この信仰の戦いに勝利するようにと、あらためて奨励していることになります。

 

 そして、彼らが勝利するよう、清い衣が用意されたのです。これを、聖霊の力を着せられたと読むことも出来るでしょう。聖霊は、信じる者たちに働きかけて御言葉が真実であることを悟らせ(ヨハネ福音書16章13節など)、救いの確信に導かれます(エフェソ書1章13,14節)。

 

 また、聖霊を通して神の愛が私たちの心に注がれ、苦難をさえ「誇る」(カウカオマイ:口語訳、新改訳「喜ぶ」)ことの出来る信仰が与えられます(ローマ書5章3~5節)。弱い私たちを助けてくださり、霊自ら、言葉に表せない呻きをもって執り成し(同8章26節)、万事が益となるように共に働いてくださいます(同28節)。

 

 日毎に御言葉を聴き、その導きに従って信仰の道筋をまっすぐ歩き通すことが出来るように、聖霊に満たしと導きを祈りましょう。日々、主の御顔を拝し、御言葉を慕い求めましょう。

 

 主よ、私たちを教会に招いてくださって感謝致します。私たちがあなたを選んだのではなく、あなたが私たちを選ばれたと言われました。それは、主の使命を果たすためでした。私たちに委ねられている使命を悟り、御霊の導きと力によって全うすることが出来ますように。日々、聖霊に満たしてください。 アーメン

 

 

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。いくつかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」 ヨハネの黙示録20章12節

 

 1節以下の段落には「千年間の支配」という小見出しが付けられています。いよいよ悪の勢力が滅ぼされ、神が勝利されるときが近づきました。地上に投げ落とされたサタンが(1節)、天使に縛られて底なしの淵に投げ込まれ、鍵をかけられ、千年の間封じ込められて、諸国の民を惑わすことができないようにされました(2,3節)。

 

 そして、イエスの証しと神の言葉のために殉教した者たち、即ち、皇帝礼拝を拒否し、獣の刻印も受けなかった者たちが生き返り、キリストと共に千年の間地上を統治するときがやって来ます(4節)。刻印を受けないことは、物の売り買いが出来ないなど、この世の生活を著しく困難にすることでしたが(13章16,17節)、キリスト以外のものに従うことをよしとしなかったのです。

 

 第一の復活に与り、神とキリストの祭司となって千年の間統治することを(5節)、「千年王国」と呼びます。この千年王国については、昔から様々な議論がなされて来ました。ただ、考えるべきことは、これが黙示録に記されたものであるということ、黙示録以外にこのような記述はないということです。ヨハネは、何の目的で千年王国というユニークな情景をここに記したのでしょうか

 

 千年は10の3乗という年数です。「10」は完全数と言われます。10を3乗するということは、「完全×完全×完全」ということで、十分な長さを表現しています。一方、サタン悪魔の支配は42ヶ月、三年半と短く限定的でした(13章5節以下)。殉教者たちが千年間支配するというのは、主の力がサタン悪魔とは比較にならない、圧倒的な勝利であるという表現であろうと思います。

 

 ただ詩編90編4節に「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません」とあり、第二ペトロ書3章8節に「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と記されています。長く生きられない私たち人間にとって、千年は永遠にも等しい時間の長さですが、神様にとっては、千年といえども一日のようなもの、言い換えれば、一時的なものであるということです。

 

 ということは、千年王国というけれども、それは王国と呼べるような組織、制度が完成したなどというものなどではありません。一時的に「悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜」(2節、12章1節以下)を縛り、底なしの淵に閉じ込めますが、その後、再び解き放たれるということです。

 

 これはちょうど、天地が創造された折、神が六日働いて七日目に業を休まれたように、世の終わりに新天新地が完成するときにも、千年=1日の休みを取られたことといえるでしょう。そして、この神の安息に、死に至るまでキリストに忠実に従った者たちも共に与らせて頂くことが出来るというのが、この箇所の一番のメッセージではないでしょうか。

 

 千年が経過してサタン悪魔が解き放たれると、彼らはゴグとマゴグを惑わし、神と戦うために召集します(7,8節)。このゴグとマゴグというのは、エゼキエル書38~39章を見ると、神の民に敵する国がマゴグ、その国の首長がゴグです。ですから、ゴグとマゴグは、神に従わない勢力の代表ということになります。

 

 召集された者の数は「砂のように多い」(8節)と言われているように、多くの人々が現実の見える世界に惑わされます。見えない永遠の世界を見出すことが出来る者は、いつの時代にも多くはありません。しかしながら、彼らはついに滅ぼされます。そもそも、悪魔が天使に取り押さえられ、縛られるということは(2節)、既にこの戦いに主なる神が勝利しておられることを表しています。

 

 だから、解放された悪魔が再び戦いを挑もうとしたとき(7,8節)、天からの火に焼かれ(9節)、火と硫黄の池に投げ込まれた、即ち、戦いにもならなかったと記されているのです(10節)。こうして、サタンの陣営の敗北が確定し、陣営のすべてのものが火の池に投げ込まれるという、最後の裁きがなされるわけです(14,15節)。

 

 かくて、黙示録において勝利は既に高らかに宣言されたわけですが、今はまだ、それが実現してはいません。ただ、一時的にせよ、天使がサタン悪魔を取り押さえ、縛り上げ、深い淵に閉じ込めるというのですから、私たちを苦しめる悪魔を今縛り、この苦しみから解放してくださいと神に願いなさいというメッセージを受け止めることが出来ると思います。

 

 さらに、この千年王国のとき、天上で統治すると言われているのは、天使たちなどではありません。「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち」(4節)、即ち、殉教したクリスチャンたちがキリストと共に統治すると言われています。これは、殉教した者たちを労い、褒賞を与えるという意味に捉えることが出来ます。

 

 天で統治するというのは、仕える者となることです。千年の間、キリストと共に仕える者となり、その働きによってすべての人々を安息させます。厳しい迫害で苦しんでいるキリスト者たちに、最後までキリストに忠実に歩むように励ましを与え、受ける報いは大きいと希望を与える者となるのです。それは、神は苦しんでいる者たちをお見捨てにはならないというメッセージでもあります。

 

 11節以下の段落に「最後の裁き」が記されます。ここに、古い世界が神の御前から姿を消してしまいます(11節)。そして、冒頭の言葉(12節)のとおり、死者が裁かれるために復活します。海の中、死と陰府の中の死者も、神の前に呼び出されます(13節)。そして、死者を閉じ込めていた死と陰府が火の池に投げ込まれます(14節)。死の世界が滅ぼされてしまったということです。

 

 冒頭の言葉(12節)に、「命の書」という言葉があります。「命の書」について、詩編69編29節に「命の書から彼らを抹殺してください」とあり、これは「彼らを裁いてください」という意味です(出エジプト記32章32節参照)。

 

 ということは、命の書に名が記されるということは、神に裁かれない、救いに与ることが出来るということになります。15節の「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」という言葉も、同じことを示しています(3章5節参照)。

 

 13章8節では「屠られた小羊の命の書」と呼ばれています。「屠られた小羊」とは、イエス・キリストのことですから、「屠られた小羊の命の書」とは「イエス・キリストの命の書」ということになります。つまり、命の書の所有者、あるいは、命の書を書き記した著者がイエス・キリストであるということです。

 

 それはまた、イエス・キリストの命を授けられた人の名が記されている本ということでもあるでしょう。主イエスを受け入れ、その名を信じた人には、神の子となる資格を与えたと言われますから(ヨハネ福音書1章12節)、主イエスを信じ、永遠の命が授けられた人の名が記されているといって良いでしょう。

 

 この書に名が記されていない者は、獣を拝むということですから(黙示録13章8節)、この書に名が記されている者は、屠られた小羊なる主イエスを信じ、玉座に座しておられる真の神を礼拝するということになります。

 

 主イエスが弟子たちに「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ福音書10章20節)と言われました。この御言葉も、命の書について述べたものと考えると、「天に書き記されている」という表現で、命の書に名が記された者は、天の御国に迎えられることが約束されていると読めます。

 

 主イエスを信じる信仰に導かれること、罪赦され、神の子とされること、永遠の命に与り、神の御国に迎えられること、これらすべては神の恵みによることです。とすれば、命の書に名が記されるのも、神の恵みといってよいでしょう。私たちの行いは神に裁かれるほかないものですが、神は私たちの名前を命の書に書き込み、恵みをもって救ってくださるのです。

 

 深い憐れみによって私たちを救いに導いてくださった主に感謝しつつ、日々主の御言葉に耳を傾け、その導きに従い、信仰に堅く立たせていただきましょう。

 

 主よ、御言葉を感謝致します。今、苦しみの中にある方々に、あなたの平安と慰めを授けてください。癒しと解放をお与えください。希望と勇気を与えてください。信仰の恵みをいつも味わうことが出来ますように。主に従う者たちが喜びをもって愛し合い、仕え合う世界を築くことが出来ますように。聖霊のみ足しと導きに与らせてください。 アーメン

 

 

「その時、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共にすみ、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」 ヨハネの黙示録21章3,4節

 

 1節に「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」と記されています。最初の天と最初の地は去って行ったから、天地が新たになるということです。20章11節に「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」と言われていました。

 

 「もはや海もなくなった」と言われています。13章1節以下に見るように、海は人を死に引きずり込む獣を、その内に潜ませているところでした。海がなくなったとは、神に敵対する勢力が完全に消滅したということを言い表しているわけです。

 

 これまで、この地上のものが皆なくなり、天体など、すべてのものが失われて、新しい完全な天と地が造られるものと考えていました。確かに、これまでとは違う新しい天地となるということだとは思いますが、しかしそれは、この地上にあるものは何ひとつ意味がなく、私たちクリスチャンは、この地にあるものすべてに何ら責任を持つ必要がない、ということではないでしょう。

 

 ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われています。神が愛されたと言われるこの世のものと一切関わりを持たないように、ただ、新しい天と新しい地を目指しさえすれば、それでよいということになるはずはありません。主が私たちに願っておられること、私たちがこの箇所から聞くべきことは、そういうことではなかろうと思います。

 

 なぜ、ヨハネが新しい天と新しい地を見たのかというと、天と地が全く新しくなったというよりも、むしろ、天と地を見る「私」が新しくなったのです。今までと同じものを見ていながら、そこに新しい天地を見ているというのが、私たちの聞くべきメッセージではないでしょうか。即ち、神が私たちの目や耳、思いを新しくして、天と地を全く新しいものとしてくださるということです。

 

 私たちが主イエスと結ばれ、主イエスにつながり、主イエスと共に歩むことを経験するならば、今日が昨日と同じはずはありません。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント5章17節)と言われるとおりです。

 

 神が私たちの歩みを新たにしてくださり、新しい天と新しい地を見ることが出来ると言われるのです。勿論、「裸の王様」のように、見えないものを見えると言い張るわけにもいきませんが、神を信じ、神の御言葉に従って信仰の告白をするということは、とても大切なことです。

 

 私たちは自分の感覚に頼って生活するのではなく、御言葉に立ち、信仰によって歩んでいくのです。神が私たちに見せてくださる新しい天と新しい地を見つつ、主にあって新しく造られた者として生きていきたい、絶えず信仰の目をもって歩ませていただきたいと思います。

 

 ヨハネは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降って来るのを見」(2節)ます。「聖なる都、新しいエルサレム」とは、紀元70年にローマ軍によって滅ぼされたエルサレムの町が再建されるというようなことではありません。

 

 「着飾った花嫁のように」というのは、ドレスアップしてということではありません。キリストと教会とは夫婦の関係で語られるところがあって(エフェソ書5章21節以下)、神の愛と義をもって互いに愛し、仕え合うことをそのように表現していると言えます。

 

 つまり、私たちが連なっているキリストの教会が、「聖なる都、新しいエルサレム」となるということです。「天から下って来る」とあって、キリストの教会は人が造るものではなく、神によって創られたものであるということが分かります。

 

 「教会」(エクレシア)は、神によって呼び集められた人々の集まりのことで、人のいない教会というものはあり得ません。しかし、クリスチャンが集まりさえすれば、教会になるというのでもありません。夫のために着飾った花嫁のごとく、主イエスを花婿としてお迎えするために、神がキリストの花嫁たる教会を整え、建て上げてくださるというのです。

 

 そのことを、玉座からの大きな声が明言します。それが冒頭の言葉(3節)です。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」というのは、旧約の時代から語られていた神の約束を思い出させます(出エジプト記25章8節、29章44,45節、エゼキエル書37章27節)。

 

 かつて、人は神と共に「エデン」(創世記2章8節以下)、神のパラダイスに生きることの出来るものでした。なぜ人は、神と共に住まなくなっているのでしょうか。それは、神の言葉から離れ、自分勝手に神が禁じられていた善悪の知識の木の実に手を伸ばしてしまったからです(同3章1節以下)。

 

 そして、その罪を責められると素直に悔い改めたというのではなく、人は妻に、妻は蛇に責任を転嫁するのです(同8節以下)。それで彼らは、エデンの園から追い出されてしまいました(同23節)。そして、主なる神はエデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれて、エデンの園に入る道を守らせました(同24節)。

 

 今や、人を罪に誘った蛇が火と硫黄の池に投げ込まれ(20章10節)、海も消滅してしまいました(1節)。主なる神はもう一度、キリストを信じる者たちのためにエデンの園を回復し、神が人と共に住み、人が神の民となるという約束を実現してくださるのです。

 

 目の涙が拭い取られるというのは、罪を悔いる悲しみの涙がぬぐわれること、つまり、罪が赦されたことを示しています。神によって罪が赦されるというのは、本当に素晴らしい恵みです。

 

 ドミティアヌス皇帝時代に始まった皇帝礼拝の強要のため、大変な苦しみを味わっていた当時のクリスチャンたちにとって、このメッセージは大きな希望となりました。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もないというときが来るからです。

 

 そう信じることが出来るのは、神の助け、御霊の導きがあったからです。主は御名を呼び求める者に救いを与え(ローマ書10章13節)、賜物として聖霊をくださるのです(ルカ福音書11章13節、使徒言行録2章38節)。この聖霊は、私たちが神の御国を受け継ぐための保証であり(エフェソ書1章14節)、私たちが神の子であることを証ししてくださいます(ローマ書8章16節)。

 

 栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえてくださる主の霊の働きによって(第二コリント書3章18節)、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えられる者にならせていただきましょう(ローマ書12章2節)。絶えず主を仰ぎ、御言葉に従って歩みましょう。

 

 主よ、あなたは私たちの罪を赦し御国の民とするために、御子の命をもって私たちを贖ってくださいました。そのことは、どんなに感謝しても、感謝し尽くすことは出来ません。絶えず主を仰ぎ、御言葉に耳を傾け、御心をわきまえて、どんなときにも喜びと感謝をもって主にお従いすることが出来ますように。主の道をまっすぐに歩ませてください。 アーメン

 

 

「霊と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい。『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」 ヨハネの黙示録22章17節

 

 1節に「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」と言い、続く2節に「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる」とあります。

 

 これは、エゼキエル書47章1節以下、ヨエル書4章18節などの預言とともに、創世記2章8節以下に記されている「エデンの園」が回復され、アダムの堕罪によって呪われた地が(創世記3章17,18節)、毎月実を実らせる祝福された地に変えられたことを表しています。

 

 「両岸には命の木があって」ということは、当然「命の木」が複数あるということになりますが、原文の「木」(クシュロン)は単数形です。これは、ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)のエゼキエル書47章12節で「あらゆる果樹」(パーン・クシュロン・ブローシモン every fruit tree)が単数形で表現されているのと同様、集合的複数の意味になっているわけです。

 

 さらに、命の「木の葉は諸国の民の病を治す」(2節)と記されていますが、「もはや死はなく、もはや悲しみも労苦もない」(21章4節)という世界には、必要ないようなものです。新しい神の都は、命に満ちた世界、命が満ち溢れている永遠の世界であると語っているわけです。いつも病や苦しみ、死の不安や恐れの中にいる私たちにとって、そこはなんと光り輝いていることでしょうか。

 

 ペトロは、高い山の上で主イエスの姿が変わったのを見ました(マルコ福音書9章2節以下など)。その服は、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほどに白く輝いていました。まさにペトロは、あらゆる呪いが取り除かれた、死も悲しみも労苦もない、神の子の真の栄光の姿を見たのです。

 

 パウロが、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ書1章23節)と言っています。第三の天にまで引き上げられて、人が語ることの出来ない言葉を聞き、その世界を垣間見たパウロとしては(第二コリント書12章参照)、苦しみ多きこの世で過ごすよりも、御国はよほど素晴らしいところであったに違いありません。

 

 ですから、御霊の導きで神の都の幻を見ているヨハネも、心を躍らせて筆を執ったのではなかろうかと思われます。何より、そこには私たちの救い主、主イエスがおられるのです。そのお方の御顔を親しく拝することが出来るのです。

 

 「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、私たちに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださいますように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださいますように。アーメン」(エフェソ書1章17~18節参照)。

 

 13節に「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」とあります。「アルファ」はギリシア語アルファベットの最初の文字、「オメガ」は最後の文字ですから、最初と最後、初めと終わりと、同じ意味の称号が3種類並べられていて、その意味を強めているということが出来ます。

 

 この称号は、21章6節、イザヤ書41章14節、44章6節、48章12節などでは、神ご自身のものでしたが、ここではそれが、「わたし」と語る主イエスに与えられています(16節参照)。これは、父なる神と子なる主イエスが一つである(ヨハネ10章30節)ということを証言していると考えることが出来ます。

 

 この「初めであり、終わりである」という称号は、初めと終わりに登場されて、途中は遠く離れておられるということではありません。初めからおられ、最後までいてくださる。初めから終わりまでずっと変わらず、すべての歴史を貫いて、どこにも主はご存在くださるお方である、主が存在されなかった時などない、という宣言でしょう。

 

 主イエスは、神の全権と尊厳を身に受けて再臨されます。そのとき、主イエスは裁きを行い、それぞれの行いに応じて報いられます(12節、2章23節、第二コリント書5章10節、マタイ福音書16章27節など)。 

 

 「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(14節)と言われますが、衣を洗って白くするように、罪に汚れた心、魂を自分で清めることが出来る者など、どこにもいません。

 

 アダムとエバの罪の姿を覆うために、神は動物を屠られ、その皮で衣を作って与えられました(創世記3章21節)。それは、主イエスが私たちの罪をご自分の身に負って十字架に死なれること、私たちは主イエスを着せられて(ガラテヤ書3章27節)罪赦され(エフェソ書1章7節)、神の子として生きることが出来ることを示しています(ヨハネ福音書1章12節、フィリピ書2章15節)。

 

 ヨハネがこの黙示録が執筆していた時、クリスチャンたちは大きな苦難の中にいました。黙示録のメッセージを初めに受けた7つの教会の人々は、激しい迫害を経験していました。彼らに対してヨハネは、祈りを教えます。それが冒頭の言葉(17節)に記されている「来てください」(エルクー:エルコマイの命令形・2人称単数)という言葉です。

 

 「霊と花嫁」が「来てください」というのですから、呼んでいるのは花婿なるキリストのことで、「花嫁」はキリストの教会を表します。「すぐに来る」(12節)と言われるキリストに、「来てください」と祈り求めるのです。「霊」が「来てください」というのは、「花嫁」のために、執り成しの祈りをささげておられるのです(ローマ書8章26,27節)。

 

 主イエスが来られて、救いの業を完成してくださる時が来ます。だから、じっと待ってなさいというのではなく、「主イエスよ、来てください」と祈れというのです。即ち、神の救いの御業が完成し、栄光の主イエスを拝することが出来ますようにと求めるのです。そのとき、私たちは神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、満たされることが出来ます(エフェソ3章19節参照)。

 

 「来てください」という祈りに「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」という応答の言葉が続いています。21章6節で「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」と言われていましたが、「来てください」と求めた者には「(命の水を)価なしに飲むがよい」と、今ここで分け与えられるのです。

 

 仮庵祭の最終日に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と言われました。それは、主イエスを信じる人々が受けようとしている霊のことだと説明されています(同39節)。

 

 主は求める者に、よいものとして聖霊をくださいます(マタイ福音書7章11節、ルカ福音書11章13節参照)。聖霊を通して神の愛が注がれてきます(ローマ書5章5節)。私たちのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか(同8章32節)。

 

 御言葉を信じ、期待して祈りましょう。信じるからこそ祈る。希望があるからこそ祈るのです。

 

 「アーメン、主イエスよ、来てください。」主よ、御言葉が私たちの身に実現しますように。私たちに永遠の命の泉として、主の御言葉と御霊の導きをお与えくださり、感謝します。命の水の流れから離れず、豊かな命の実に与ることが出来ますように。主の恵みが、すべての者と共にありますように。 アーメン

 

日本バプテスト

静岡キリスト教会

〒420-0882

静岡市葵区安東2-12-39

☏054-246-6632

FAX    209-4866

✉shizuokabaptist★gmail.com

★を@に変えて送信してください

 

 

facebook「静岡教会」

 

 

当教会のシンボルマーク
当教会のシンボルマーク

当サイトはスマートフォンでもご覧になれます。

 

当教会のYouTubeのチャンネルが開きます。

 

 

2014年8月6日サイト開設