ユダ書

 

 

「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」 ユダの手紙20,21節

 

 本書は、著者の「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」から、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たち」に宛てて差し出された書簡です。この宛名から見ると、全キリスト教会に向けて書かれたものという印象を受けます。

 

 著者について、「ヤコブの兄弟であるユダ」と自己紹介しています。ここに言う「ヤコブ」とは、主イエスの兄弟ヤコブを指していると考えられています。すると、ヤコブの兄弟であるユダも、主イエスの兄弟ということになるでしょう(マルコ福音書6章3節)。

 

 しかしこの著者は、主イエスの「兄弟」とは名乗らず、「僕(ドゥーロス:奴隷の意)」と言います。本書が見事なギリシア語で書かれていること、ユダヤ教の黙示文学に由来する表現が用いられている(6,7,14,15節『エノク書』、9節『モーセの昇天』)ことなどから、主イエスの兄弟ユダの名を借りた偽書であろうと考えられています。

 

 ただ、主イエスの兄弟ユダに関して、分かっていることは殆どありません。ユダは使徒ではありませんでしたし、エルサレム教会の柱として重んじられた兄弟ヤコブ(ガラテヤ書1章19節、2章9節、使徒言行録15章13節以下など参照)とは違い、教会で重要な役割を担っていたという記録もありません。

 

 17節の言葉から、本書の著者は「使徒」に敬意を持っている人物と考えられます。その意味で、本書を権威づけるものとして、使徒たちの名ではなく、主の兄弟ユダの名を借りることにしたのは何故か、納得のいく説明を得るのは容易ではありません。

 

 この手紙も、偽教師たちについて警告するために記されています。偽教師たちについて、「裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」(4節)と言います。

 

 「ひそかに紛れ込んで来」たということから、彼らはキリスト者で、他所からやって来た巡回伝道者だったようです。彼らのことを、霊の働きによって獲得したと主張する「知識」(グノーシス)によって諸教会を惑わしたグノーシス主義者と確定出来るかどうか分かりませんが、それでも、本書がグノーシス主義者たちとの戦いに有益な働きをしたことは、事実です。

 

 17節以下に、読者に対する「警告と励まし」が記されます。先ず注目させたのは、著者が尊敬の意を示している主イエス・キリストの使徒たちが語った言葉で(17節)、「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう」(18節、使徒言行録20章29,30節、第一テモテ4章1節以下、第二テモテ3章1節以下参照)というものです。

 

 「あざける者ども」について、「分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者」(19節)だと言われます。「この世の命のままに生き」は、「プシュキコイ(生まれながらの肉に属する人)」という言葉です。そのように偽教師たちを非難しているということは、彼ら自身は「霊の人(プネウマティコイ)」と自称し、他の人々を「プシュキコイ」と嘲っていたのでしょう。

 

 彼らが「霊の人」でないこと、霊を持たない者であることは、彼らの生活ぶりを見れば分かります。彼らは神の霊の導きに従って生きているのではなく、自分の欲望の赴くままに動いています。だから、自らを「霊の人」であるというのは、教会を惑わし、分裂を引き起こすための嘘言だというのです。

 

 そして冒頭の言葉(20節)で「最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい」と語ります。「聖なる信仰」とは、聖なる者たちが伝えた信仰、使徒たちが前もって語った言葉のことです(3,17節)。それを、「神聖にして侵すべからざる教え」という意味で、「最も聖なる信仰」と語っているのです。その信仰に土台して、神の御心に適う真の教会が建てられるからです。

 

 このことについて、エフェソ書2章20~22節に「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」と語られています。

 

 このような信仰を土台として、神の御心に適うキリストの体なる教会を建て上げて行くのです。信仰生活の拠り所として使徒たちが語ったのは、三位一体の神のことです。著者は、ここに「聖霊の導きの下に祈りなさい」(20節)、「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(21節)と記しています。

 

 ここで「神の愛によって自分を守る」が主文です。「守れ(テーレーサテ)」というのは、「守る、見張る(テーレオー)」のアオリスト(不定過去)時制の命令形です。アオリスト時制の命令形とは、ギリシア語文法の約束として、継続的な命令ではなく、点的、一回的な命令だということです。

 

 つまり、守り続けなさいというのではなく、人生に一度なすべきこととして「自分を守れ」と命じられているので、これは、神の救いに与りなさいということでしょう。救われた者が神の愛から漏れることはありませんが、しかし、自ら神に背いて神の恵みを損なうことがあり得るので、自分を守れと言われるのです。

 

 そのために、聖霊において祈ることと、イエス・キリストの憐れみを待望することが語られます。「祈りなさい」、「待ち望みなさい」は、現在分詞が用いられています。これは、ギリシア語文法で継続的な動作を表します。現在進行形と言ったらよいでしょう。

 

 つまり、「聖霊において祈りながら」、「イエス・キリストの憐れみを待ち望みながら」、「神の愛によって自分を守りなさい」と命じられていることになります。祈ること、そして主を待ち望むことが、自分を守ることになるわけです。

 

 あらためて、「聖霊の導きの下に祈れ」と言われます。聖霊の中で、聖霊との交わりのうちに祈りが導かれ、神の恵みに与ります。そして、「主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」と言われます。これは、主イエスが再臨されるとき、憐れみによって救いを完成してくださるという希望を堅く持ち続けるとき、永遠の命の恵みに導かれるのです。

 

 三位一体なる神に祈りをささげ、救いの完成を待ち望みつつ、神の愛の内を歩ませていただきましょう。

 

 主よ、御子がこの地上にこられ、十字架によって神の愛を示されました。ここに、私たちの拠り所があります。いつも信仰の原点を見つめ、主の御言葉を聴きます。あなたの愛から離れることがありませんように。御言葉に背くことがありませんように。聖霊の助けと導きをお願いします。主の豊かな憐れみを待ち望みながら。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設