マタイ福音書

 

 

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」 マタイによる福音書1章1節

 

 今日から、新約聖書の1ページ目、マタイによる福音書の1章を読み始めます。ここから1日1章ずつ、今年10月までの8ヶ月半ほどで新約聖書を読み通します。ご一緒に、通読してみませんか。

 

 マタイ福音書は、マルコ福音書を下敷きとして、マタイとルカの共通資料に、マタイ独自の資料を加えて執筆編集されました。執筆されたのは紀元80年代のパレスティナか周辺のシリアで、ユダヤ的特色が多く見られることから、著者はギリシア語に堪能なユダヤ教出身のキリスト者と推定されています。

 

 伝統的には、イエスの弟子たちの中で十二人(使徒)の一人に選ばれた、徴税人であったマタイが著者だと信じられてきました。 ここでは便宜上、著者をマタイと呼ぶことにします。

 

 なお、マタイを徴税人とするのはマタイ福音書だけで(10章3節)、マルコ、ルカにはその記述はありません(マルコ3章18節、ルカ6章15節)。また、マルコとルカが徴税人レビを弟子としているのに対し(マルコ2章13節以下、ルカ5章27節以下)、マタイは、弟子とされたのはマタイとしています(9章9節以下)。

 

 どう考えて良いのか分かりませんが、マタイとレビが同一人物なのであれば、レビが出身部族、マタイが本名といったところでしょう。レビ族は、神の幕屋で主に仕える役割を与えられた宗教者一族です。

 

 ユダヤの民から尊敬を受けるべき宗教者一族の一員が徴税人となっているのは、衝撃的です。神殿での役割は世襲ですが、それをよしとせず、むしろ人々から後ろ指を指され、罪人扱いを受ける徴税人となっているからです。そして、その人物が主イエスの招きに応えてその弟子となり、さらに12人に選任されました。

 

 主イエスにとって、出自、生業などは何ら問題にならず、ただ、主に信頼し、その招きに従順に従う者、子どものように主を受け入れる者であるかどうかが問われるのです。マタイは収税所に座っていたとき、「わたしに従いなさい」(9章9節)と招かれて、すぐに立ち上がって主イエスに従いました。私たちがマタイと同様に主に従う者となるよう、福音書を記したのです。

 

 話をもとに戻して、冒頭の言葉(1節)のとおり、初めにイエス・キリストの系図が記されています。聖書は神様からのラブレターと言われますが、カタカナの名前が羅列されているこの部分を読んで、神の愛を理解するというのは、易しくないかも知れません。むしろ、これが聖書かと幻滅して、読むのを辞めてしまったという話を聞いたことがあります。

 

 マタイが福音書の書き出しに系図を置いたのは、主イエスが歴史上の人物であることを明らかにするためであり、イスラエルの歴史の頂点に立つお方であること、主イエスの誕生が、決して突然の思いがけない出来事などではないことを明らかにするためでしょう。

 

 主イエスはイスラエルが歴史を貫いて待望してきたメシア=キリストであり、イスラエルの歴史は、主イエスが登場されるのを目標に積み重ねられてきということ、ゆえに、主イエスの誕生は決して思いがけない偶然の出来事などではないということが、この系図を通して示されています。

 

 あらためて、冒頭の言葉(1節)を原文で見ると、文頭に「系図」(ビブロス・ゲネセオース:「系図の本」の意)と記されています。この言葉は、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)に2度(創世記2章4節、5章1節)登場します。それは、単なる系図ではなく、天地創造、人間創造の過程を示す箇所です。

 

 18節で「誕生」と訳されているゲネシスは、1節の「系図」と同じ言葉です。ということは、福音書の最初にこの言葉を置いて、イエス・キリストの誕生によって新しい時代が創造されるということを示そうとしているといってもよいでしょう。

 

 アブラハムは、旧約聖書の創世記12章以下に登場して来る、今からおよそ4000年前の人物で、イスラエルの父祖と言われます。彼は、主なる神によって「祝福の基」として選び出されました(創世記12章2節)。

 

 祝福の基とは、彼が神に祝福されて大いなる人物となること、そして、アブラハムの祝福を通して、地上のすべての氏族が祝福に入るようにされることです。主イエスがアブラハムの子であるということは、主イエスを通して、すべての氏族が祝福に入るようになるということを意味します。

 

 ダビデ王は、サムエル記上16章以下に登場する、今から3000年ほど前に現れた、イスラエル史上最も尊敬されている王です。彼は少年時代、羊を飼う仕事をしていました。また、竪琴を巧みに奏する名手でした。また、たくさんの詩を作った詩人でもあります。詩編の多くの詩にダビデの名がついています。

 

 主イエスがダビデの子というのは、どういうことでしょうか。預言者イザヤは、ダビデの子孫からメシアが生まれるという預言を語っています(イザヤ書11章1節以下)。ここから、メシアをダビデの子と呼ぶ習慣が生まれました。

 

 マタイは、主イエスこそイザヤの預言していたメシア=キリストであるということを明らかにしようとして、ダビデの子と呼んでいるのです。メシアとは、油注がれた者という意味です。そして、メシアをギリシア語に訳すとキリストになります。つまり、メシアとキリストは同じ意味なのです。

 

 2節以下、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と系図が記されています。ここに一人ずつを取り上げていく暇はありません。これを一纏めにして、17節に、「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」と記されています。

 

 これによると、アブラハムからキリストに至るイスラエルの歴史が、三つに区分されています。アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロンへの移住まで、そして、バビロンに移住してからキリストまでという区分です。そしてそれぞれが14代ずつであるというのです。これは単なる数字ではありません。「14」は、「7」という完全数の倍数です。

 

 それからもう一つ、昔、イスラエルではヘブライ語のアルファベットを数字代わりに用いていました。Aが1、Bが2といった具合です。「ダビデ」はヘブライ語でDWDと書きます。その数字は、Dが4、そしてWは6です。4+6+4で、合計は14になります。

 

 完全数「7」の倍数であり、ダビデというアルファベットの数である「14」で、イエス・キリストの系図が三つに区分されるということですから、この系図も、主イエスが神によって立てられたダビデの子・メシア=キリストであるということを明示していることになります。

 

 今、イスラエルの歴史が三つに区分されていると申しました。一つ目の区切りはダビデ、二つ目の区切りは、バビロンへの移住です。

 

 アブラハムからダビデまでという最初の区分は、神がアブラハムに約束した祝福が実現するイスラエル王国が形成されるときです。次の区分は、ダビデの子ソロモンからバビロン捕囚までで、絶頂から転げ落ちる王国崩壊の時期です。そして、捕囚からキリストが登場するまでの、いわば暗黒のときがありました。

 

 この三つがいずれも14代であるということは、そのすべてが神の全き支配の中にあったということを示しており、こうして、神の救いの計画が実現したのだという表現であるということが出来ます。

 

 この系図が人為的なものであるということは、特に第二区分の「ヨラムはウジヤを」(8節)、「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた」(11節)と記されているところで分かります。というのも、ヨラムとウジヤの間に、アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの三人が省略されており、ヨシヤとエコンヤの間にも、エルヤキム改めヨヤキムが省略されているからです。

 

 そのように省略しなければ、14代になりません。ヨラムの子孫が系図から省かれることになったのは、彼の妻アタルヤのゆえでしょう。アタルヤは北イスラエルの王アハブの娘で(列王記下8章16節)、オムリの孫娘(同26節)です。

 

 イエフの謀反で北イスラエルの王ヨラムと皇太后イゼベルが殺され、そして南ユダの王でアタルヤの子アハズヤが殺されましたが(同9,10章)、息子アハズヤの死を知ったアタルヤは、王族を滅ぼして自らユダの支配者となろうとしました(同11章)。その咎で、アタルヤの子孫3代が系図から外されたかたちです。

 

 一方、ヨヤキムが外された理由はよく分かりません。父ヨシヤがメギドで戦死した後(同23章29節)、王として選び出されたヨシヤの子ヨアハズが(同30節)、エジプトのファラオ・ネコによって3ヶ月で退位させられ(同33節)、代わって王となったのがヨヤキムでした(同34節)。

 

 神の意に背いてヨシヤが戦場で討たれたこと(歴代誌下35章22節)、また、エジプトの傀儡で王となったような者は認めないという考え方から、省略されることになったのでしょうか。

 

 神の救いの計画は、上り調子に実現したのではありませんでした。むしろ、ダビデ王朝最後の王ゼデキヤの王子たちが殺され、王をはじめ主だった者が奴隷としてバビロンに連れて行かれて、イスラエルが滅亡したところで、ダビデの子孫からメシアが誕生するという神の救いの計画が潰えてしまったかに思われました。

 

 悪魔サタンにしてみれば、これでメシア誕生を阻止出来たというかのごとき出来事だったわけです。しかしながら、それによって神の計画を妨げることは出来ませんでした。

 

 むしろ、暗黒だからこそ、その暗黒の中で主を尋ね求め、その救いを祈り求める者が起こされます。そして、主なる神はその祈りに応えて、救いの道を開くためにメシア=キリストを送ってくださったのです。ここにも、万事をプラスに変えられる神の御業を見ることが出来ます。

 

 どんなときにも、まず第一に神の国と神の義を求めましょう。今自分が置かれているところに神のご支配があることを信じましょう。聖霊の導き、その力を受けて主の御心を行う者と慣らせていただきましょう。

 

 主よ、主イエスこそ、道であり、真理であり、命であられます。私たちも主イエスが開かれた御国への道を歩む者としてくださり、感謝致します。聖霊と御言葉によって私たちを御旨に適うように取り扱い、あなたの深い御愛を証しするキリストのよき薫りとしてください。御心がこの地になされますように。 アーメン

 

 

「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」 マタイによる福音書2章18節

 

 2章には、ユダヤ人の王として生まれた主イエスを拝むため、東方の占星術の学者たちがベツレヘムを訪れたこと(1節以下)、ヨセフ一家がヘロデ王の手を逃れてエジプトへ行ったこと(13節以下)、帰国してナザレという町に住むようになったこと(19節以下)が記されています。そしてそれは、旧約聖書の預言の実現だと説明されています(6,15,18,23節)。

 

 エジプトへの逃避行について、勿論それは手放しで喜べる状況などではありません。ヘロデの暴虐な行為から難を避けるための行動です。したくないからといってすませることは出来ません。主イエスが生まれたベツレヘム周辺の2歳以下の男児が、一人残らず殺されました(16節)。天使の御告げ(13節)に従わなければ、主イエスが殺されていたでしょう。

 

 この悲劇について、エレミヤの告げた預言が実現したと言われています(17節)。冒頭の言葉(18節)がエレミヤの預言とされるもので、エレミヤ書31章15節からの引用です。エレミヤ書31章は、イスラエルの民が味わうバビロン捕囚(紀元前597年~538年)の苦しみからの解放、特に、主なる神とイスラエルの民との「新しい契約」が語られています。

 

 新約の教会は冒頭の言葉を、主イエスの受難に関する預言の言葉として聞き直したわけです。預言がなされていたということは、しかし、神が悲劇を起こすように予定していたということではありません。神の計画が進むためには、このような犠牲がつきものということでもないでしょう。だから、預言されていたことだから、仕方がないということでもないのです。

 

 もし自分がそこで殺された子どもの親であれば、神を呪うことさえするでしょう。どんな説明を受けても、到底納得することは出来ないでしょう。そんなことは起こってよいはずがありません。誰であれ、そのようなことをしてよいはずもありません。

 

 そこに起こった出来事は、神がなさりたくて起こしたものではありません。むしろ、神の救いの計画を妨げようと悪しき力が働き、御子イエスを亡き者とするために起こされた事件です。神は御子イエスが悪しき力によって取り去られることがないように、守り導いてくださったのです。

 

 それは、御子イエス一人を守るためではありません。ヘロデの犠牲となった2歳以下の男児たちやそれを悼む母親たちをはじめ、主なる神の恵みを証しするよう選ばれたイスラエルの民、そして地上のすべての民を救う神の救いの計画が実現するためです。

 

 マタイが引用したエレミヤの預言の次の節に記されているのは、「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる」(エレミヤ書31章16節)という言葉です。

 

 やがて主イエスは、すべての民を救う命の道を開くため、十字架で贖いの死を遂げられます。なぜ、罪のない神の子が十字架で死ななければならないのでしょうか。それは、その方法以外に、全世界のすべての民に神の愛を示し、救いの御業を完成する道がなかったからです。

 

 ヘロデほどではないにせよ、自己中心で神に背き、罪を繰り返す私たちを救うためには、キリストの死による贖い以外に道がなかったのです。救い主が私たちの罪のために苦しみを受けること、木にかけられ、呪いの死を受けられることも、預言されていたことでした。神は、御自分の独り子を犠牲にして、すべての人々を救うご計画を立てられ、実行されたのです。

 

 この贖いの業を実現するため、即ち十字架で私たちの罪のために犠牲の死を遂げるために、主イエスはそのときまで守られているのです。なぜ神は、多くの幼子の命を守ってくださらず、慰めを拒むほどの悲しみを親たちに与えることを許されたのか、その理由を説明することは出来ません。

 

 けれども、その苦しみは、十字架に死なれた神の御子キリストと、独り子を十字架に架けられた父なる神、私たちのうちに働いてその真実を証しする聖霊によって深く慰められ、その魂は主イエスによって救われたと信じます。そして今、様々な苦しみの中にある方々のためにも、このキリストのもとに癒しがあり、慰めがあり、苦しみから解放される道が用意されていると信じます。

 

 東方の占星術の学者たちが星に導かれて主イエスと出会いましたが(9節)、彼らは別の道、即ち占星術に頼るのではなく、神の御言葉に従って生きる道を選んで家路につきました(12節)。それにより、悪しき権力者ヘロデのところに戻らないようにされました。

 

 私たちも、インマヌエルと唱えられる主イエスと共に、御言葉に従って生きる道を歩むため、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従いましょう。

 

 主よ、御子イエスは私たちの苦しみを担い、病いを知っていてくださいます。キリストを通して、平和・平安が与えられ、癒しを頂きました。なお苦しみの中にある人々に平安を与え、解放を与え、癒しを与えてください。主とともに、命の道、真理の道、救いの道を歩ませてください。全世界の救主キリストによる平和と喜びが、すべての人々の上にありますように。 アーメン

 

 

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」 マタイによる福音書3章11節

 

 主イエスのメシア=キリストとしての働きが始まる前に、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が登場して来ます(1節)。彼は、らくだの毛衣に革の帯を締めていました(4節)。そのいでたちは、旧約時代の偉大な預言者エリヤのようです(列王記下1章8節参照)。

 

 エリヤは、アハブ王に仕える450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者をカルメル山に集めて対決し、勝利しました(列王記上18章)。主なる神がエリヤの祈りに応えて、天から火を降らせたのです。

 

 エリヤはその対決の前にアハブ王に旱魃を預言し、3年もの間、イスラエルには一滴の雨も降らず、露も降りませんでした(同17章1節,18章1節)。対決後、旱魃が終わりを迎えました(同18章41節以下)。それによって、主なる神こそイスラエルに雨と実りをもたらすお方であるということが、はっきりと示されたのです。

 

 3節にイザヤ書40章3節が引用されていますが、よく似た言葉がマラキ書3章1節にもあります。さらに同3章23節に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。マタイは洗礼者ヨハネのことを、ここに語られている預言者エリヤの再来として描いていると言ってよいと思います。

 

 洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ります(2節)。「悔い改める」(メタノエオー)とは、「思いを変えるchange one's mind、方向を転換する」という意味です。

 

 「天の国は近づいた」と語られていますが、ユダヤの人々は、主なる神への畏れから、また、「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という十戒の規定から、神という代わりに天と言ったり、天の国と言ったりします。

 

 そして、聖書で語られる「天の国」とは、人が死んでから行くところというのではありません。神が支配しているところ、神の支配が及んでいるところを天の国、神の国と言っています。つまり、天の国が近づいたというのは、神の支配が近づいたということです。神を信じる者にとって、神の支配が近づいたということは、神ならぬものの支配が終わり、その縄目から解放されることです。

 

 ヨハネは、どこに天の国、神の支配を見つけたのでしょうか。それは、冒頭の言葉(11節)にいう、彼の後から来られる方の存在です。それは誰のことでしょうか。14節の言葉から、それは主イエスのことだと分かります。主イエスがメシアとして登場されることで、「天の国は近づいた」と語ったわけです。

 

 ということは、「悔い改めよ」というのは、主イエスの方を向きなさい、主イエスの言葉を聴いて思いを変えなさいと言っていることになります。それは、冒頭の言葉(11節)で「わたし(洗礼者ヨハネ)の後から来る方(主イエス)は、わたしよりも優れている。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」と言われているからです。

 

 主イエスが授けるという「火のバプテスマ」は、前後の文脈から、神による裁きを意味しています。一方、「聖霊によるバプテスマ」は、神による救いを示しています。キリストが最後の審判者として、悔い改めた者には聖霊のバプテスマ、悔い改めなかった者には火のバプテスマを授けるというわけです。

 

 「バプテスマ」とは、水に浸すという意味のギリシャ語の動詞「バプティゾー」から出た言葉で、文字通りには「水に浸す儀式」ということになります。因みに、私たちバプテスト教会は、水に全身を浸すという方法でバプテスマを施すことを選び取ったことで、その名で呼ばれています。

 

 バプテスマについて使徒パウロが、「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ書6章4節)と語っています。

 

 つまり、主イエスを信じ、主イエスに従う者たちは、古い自分に死んでキリストと共に葬られ、聖霊による新しい命を与えられて主イエスと共に生きる者とされたことを、水に全身を浸すバプテスマを通して、目に見えるかたちで証言しているのです。

 

 「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(ローマ書6章12,13節)。 

 

 主よ、私たちを主イエスを信じる信仰に導いてくださり、感謝致します。信仰により、聖霊によるバプテスマを授けられたことを感謝します。いつも聖霊に満たされ、感謝と賛美に溢れた生活をおくらせてください。聖霊の力を受けて主イエスの証人としての使命を全うすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言われた。」 マタイによる福音書4章7節

 

 バプテスマを受けて(3章13節以下)公生涯(メシア=キリストとしての歩み)に入られる主イエスを待ち受けていたのは、悪魔の誘惑でした(1節以下)。そこで、神の子とはいかなる者であるかということが試されました。悪魔は、神の子であれば、これくらいのことは出来るだろう、本当に神の子であるかどうか、証拠を見せろと迫ったわけです。

 

 第一の誘惑は、空腹となった主イエスに、石をパンに変えて食べるがよいというものでした(3節)。全能の神の子ならば、それくらいのことは朝飯前だろうということです。また、40日に及ぶ断食の後の空腹という非常事態なのだから(2節)、食物を得るのに手段を選ばず、奇跡を行うということも許されるだろうという考えでしょう。

 

 第二のものは、神殿の屋根から飛び降りて、御使いが足を支えるかどうか試せというものでした(6節)。この誘惑には、とても巧妙な罠が仕掛けられています。それは、聖書の言葉が用いられているからです。悪魔は、詩編91編11,12節を引用しながら、この御言葉が真実であるかどうか、そしてまた、この御言葉を信じているかどうか、証拠を見せるようにと迫るのです。

 

 第三は、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて(8節)、ひれ伏して悪魔を拝むならば、それを与えようというものです(9節)。力と富を手に入れて、神の国を作れということでしょうか。あらゆる国を支配する力や富は、悪魔のものということなのでしょうか。 私たちが権力や富を追い求めるなら、悪魔の誘惑に陥ってしまうことでしょうね。

 

 また、悪魔がまるで義の試験官でもあるかのように、私たちを試すことがあると示されます。そこでは、悪魔は悪の権化といった姿を全く見せてはいないのです。

 

 主イエスが悪魔の誘惑に従って、神の子たる証拠を見せることが出来たとして、そこで何が起こるでしょうか。それを目撃した人々は、主イエスの力を賞賛し、どうすればそのような奇跡が行えるのかと考えるでしょう。信仰が必要だと言われると、自分もそのような信仰の確信を持つことが出来るだろうかと考えるでしょう。それはあたかも信仰的なことのように見えます。

 

 しかし、考えて見ましょう。その奇跡を行ってみせることが出来なければ、神が神でなくなるのでしょうか。神の子は、悪魔に奇跡を行って、神の子である証拠を示さなければならないのでしょうか。私たちは、奇跡が行えるかどうかでその信仰が問われるのでしょうか。神は、私たちがそのような信仰者となるように期待しておられるのでしょうか。

 

 悪魔は、主イエスが神の子として、神のみ言葉に従うことを求めているのではなく、自分の言葉に従うことを求めています。だからこそ、第三の誘惑で、ひれ伏して自分を拝めと言うのです。それが、悪魔の本音です。しかしながら、言うまでもなく、悪魔に従い、悪魔をひれ伏し拝む者が神の子であるはずがありません。

 

 また、第二の誘惑で悪魔が引用した詩編の御言葉は、確かに御使いが守ることを約束しています。しかしながら、御使いが本当に守るかどうか、屋根から飛び降りて試すというのは、信仰の行動ではありません。

 

 試さなければ不安であるというのは、むしろ自分の不信仰を表明していることでしょう。やれば出来るというところを示そうというのは、神の栄誉を求めることではなく、自分自身の力を誇示しようとすることでしょう。

 

 主イエスはここで、天使が自分の足を支える奇跡が起こるかどうか試す必要はありませんでした。主イエスは確かに父なる神を信頼し、その守りの中におられたのであり、神の子として人々から崇められるためではなく、人の子として世を愛し、人々に仕えるためにこの世においでくださったのです。

 

 だから、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節、申命記8章3節)、「あなたの神である主を試してはならない」(7節、申命記6章16節)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(10節、申命記6章13節)という神のみ言葉をもって悪魔の誘惑を退けられました。

 

 これらの誘惑が一番力強く迫ってきたのは、十字架上でのことでした。悪魔が祭司長たちをして、「お前が神の子なら、十字架から降りて見せろ」と嘲り、ののしらせたのです(27章40節以下)。主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(27章46節)。罪と死の力の前に打ちのめされた絶望の叫びと見えます。

 

 しかし、主イエスが十字架で死ぬことが父なる神のみ心だったのです。それが、神が神であられること、神の子が神の子であるということを示すことでした。ゆえに、十字架を目撃した百人隊長らが、「本当に、この人は神の子だった」(27章54節)と、告白しているわけです。

 

 十字架の上では、特に何の奇跡も起こされませんでした。けれども、主イエスの十字架の死を通して、私たちの罪を赦し贖う救いの御業を完成するという、最も大いなる奇跡がなされたのです。ここに、神の愛があります。ここに、私たちに対する神の愛の奇跡が示されました。

 

 私たちは、重い病の癒し、回復、大きな夢の実現などのために神の奇跡を期待し、熱心に祈り求めることがあります。そのこと自体が悪いこととは思いません。しかしながら、神は私たちの願望の僕ではありません。私たちの必要をご存じであり、最善をなしてくださる主を信頼すること、謙って全能の主に聴き従うことが求められています。

 

 主イエスは、公生涯の初めから十字架の死に至るまで、父なる神に信頼され、御心に従順に歩まれましたから(フィリピ書2章8節)、「天使たちが来てイエスに仕えた」(11節,マルコ1章13節)、つまり、食事の世話を含め、あらゆる奉仕をもって父なる神がどれほど神の子に配慮しておられるかを示したのです。

 

 御自分の命を捨てて贖いの業を成し遂げるためにこの世においでくださった主イエスを信じましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。聴き取ったところに従って歩みましょう。主なる神がその一歩一歩を守り支えてくださいます。主の恵みと平安に与ることが出来るでしょう。

 

 主よ、絶えず御名を崇めさせてください。御心をこの地に行ってください。私たちの心を占領してください。あなたは愛だからです。私たちに与えられた聖霊によって,あなたの愛が心に注がれています。その恵みのゆえに、苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを経験させていただくからです。キリストにある喜びと平和が、全世界に拡げられますように。 アーメン

 

 

「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」 マタイによる福音書5章8節

 

 5章から、「山上の説教」(5~7章)と呼ばれる、主イエスの御言葉集が始まります。その最初の部分に、八つの「幸い」(マカリオス)が語られていて、「八福の教え」と呼ばれています。ギリシア語原典では、「幸い」(マカリオイ[複数形])が最初に語られています。それを強調して、「おめでとう、心の貧しい人々」と訳すことも出来るでしょう。

 

 ところで、ここで祝福の言葉が告げられているのは、「心の貧しい人々」(3節),「悲しむ人々」(4節)、「柔和な人々」(5節)、「義に飢え渇く人々」(6節)、「憐れみ深い人々」(7節)、「心の清い人々」(8節)、「平和を実現する人々」(9節)、「義のために迫害される人々」(10節)です。

 

 これを見て、自分のこととして嬉しくなった方、感動をもってその祝福を受け止めたという方が、どれほどおられるでしょうか。「心の貧しい人々」や「悲しむ人々」、「義に飢え渇く人々」のどこが「幸い」なのでしょう。どうしてその人々に「おめでとう」などと言えるのでしょうか。

 

 中でも、冒頭の言葉(8節)は、6番目に語られた「幸い」の言葉ですが、この言葉を聞いて、これは自分のことだと言える人がおられるでしょうか。むしろ、人前でそのように胸を張って主張することが出来る人は、ほとんどいないと言った方がよいのかも知れません。

 

 しかしながら、主イエスが、この祝福を受けるのはとても難しいと思われながら語られたはずはありません。むしろ、すべての人がこの祝福を受けるようにと思っておられるはずです。

 

 ローマ書3章9節以下で、詩編14編1~3節を引用しながら、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあると語っています。ユダヤ人に、ギリシア人に代表される異邦人を「罪人」として蔑む資格はありません。聖書は明確に「正しい者はいない。一人もいない」と言っています。そうすると、「私の心は清い」と自ら言う者は嘘つきということになりますね。

 

 けれども、ローマ書3章22~24節に「即ち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と記されています。

 

 イエス・キリストがご自身の命をもって贖ってくださったので、私たちは清い存在とされたわけです。ですから、主イエスの十字架の前に、「私は清くない」と思っているというのは、かえって不信仰ということになるでしょう。

 

 「清い」というのは、罪を犯したことがないということではありません。火で精錬して不純物を取り除いたり、アルコールで消毒して汚れを清めるという言葉です。私たち人間の中で、過ちを犯さない人などいません。そう考えれば、清さとは、神の御前での素直さということでしょう。罪が示されたときに、それを素直に悔い改めること、恵みが差し出されたときに、それを喜んで受け取ることです。

 

 あらためて、心の清い人は神を見るという祝福の言葉が語られていますが、これは、神から見られるということでもあるでしょう。神は絶えず私たちをご覧くださっています。私たちが過ちを犯している暗闇も、神の御前に隠れてはいません。

 

 しかし、暗闇の中にいる私たちには、神が見えません。そして、神も見ておられないかのように思い違いをしているわけです。しかし、心清められて、心すすがれて神を見たとき、神はずっと見ておられたということに気づかされました。そして、主のまなざしの意味を悟ります。

 

 ルカ福音書22章61節に、三度主イエスを知らないと否んだペトロを、主が振り向いて見つめられたと記されています。そのまなざしはしかし、ペトロに対する憐れみに満ちていたと思います。決して怒りや嘲り、蔑みというようなものではなかったでしょう。「あなたの信仰がなくならないように祈った」(同22章31,32節参照)と言われた主イエスの深い御愛が込められたまなざしでした。

 

 主の目は、鶏が二度目に鳴いてペトロの方を振り向かれる前から、ペトロの心に向けられていました。だからこそ、鶏が鳴いたとき、正しくペトロの方を向かれたのです。そして、ペトロが主のまなざしに気がつくために、鶏が鳴くように図られたのです。

 

 主の計らいどおり、鶏の鳴き声でペトロの目が覚めました。ペトロは、主イエスの御言葉を思い出したのです(同61節)。そして、主の御愛が胸に迫りました。ペトロが外に出て激しく泣いたのは、そのためでしょう(同62節)。

 

 御自分を否んだペトロを贖うために、主は十字架にかかられました。亡くなられ、葬られましたが、三日目に甦られました。そして、主はペトロにもう一度使命を授けられました(ヨハネ福音書21章15節以下)。

 

 三度の否定に対して、三度、「わたしを愛しているか」と問いかけ、そして、「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。ここに、赦しと愛が示されます。ペトロはそれを受け取って立ち上がったのです。

 

 私たちも、同じ恵みに生かされています。主は私たちのすべてをご存じです。絶えず共におられ、私たちに目を注いでいてくださいます。そのまなざしは、愛と恵みに満ちています。そのことに気づくとき、私たちは恐れと不安から解放されます。

 

 そもそも、三度とは、文字通り3回というより、何度も何度もということではないでしょうか。私たちは、言葉と振る舞いで、どれだけ主を否んで来たことでしょう。主に背いたことでしょうか。そういう私たちに、主イエスはその都度、わたしを愛しているかと問うてくださり、そして、改めて、役割を与えてくださるのです。

 

 聖霊を通して、御言葉によって心すすがれ、いつも目をあげて主を仰ぎましょう。主のご愛に感謝しましょう。導きに従い、主の御業のために用いられる者となりましょう。

 

 主よ、御子キリストの十字架の死によって私たちを贖い、心を清めてくださり、感謝致します。いつもあなたから見守られていることを知り、私たちも瞬間瞬間、主を拝することが出来ますように。そして、委ねられた使命に励む者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」 マタイによる福音書6章12節

 

 6章の始めに、「善行」(1節)についての教えが記されています。イスラエルにおいて、「施し」(2節以下)、「祈り」(5節以下)、「断食」(16節以下)は、律法の枠を超えた善行と考えられていたようで、これらの善行を行うことで、その人は信心深い者であると、人々が評価してくれるという面があったわけです。

 

 ここに「善行」と訳されているのは、「義(ディカイオシュネー)」という言葉です。これは、関係を示す用語で、神との関係、隣人との正しい関係という表現です。日本語でも、「義父、義母、義兄弟」などと、関係を示すために「義」という言葉を用いることがあります。

 

 ただ、ヘブライ語で「義」を意味する「ツェデク、ツェダカー」という言葉が、70人訳(セプチュアギンタ:ギリシア語訳旧約聖書)において「エレエモシュネー(施し)」(2節参照)と訳されることがあります。それを反映してか、1節の「ディカイオシュネー」を「エレエモシュネー」と置き換えている写本があります。

 

 であれば、1節は18節までの表題ではなく、4節までの「施し」についての表題だったということになりそうです。それが、「偽善者」をキーワードに「祈り」と「断食」についての教えもここに集められることになり、1節の「エレエモシュネー」が「ディカイオシュネー」に置き換えられて、全体の表題となったという解釈も成り立ちそうです。

 

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(1節)という言葉で、天の父の前でする善行によって、天の父の報いをいただくことが出来るということが示されます。

 

 しかしながら、注意しないと、その報いが受け取れないことになるというわけです。それは、「見てもらおうとして、人の前で善行を」した場合です。主イエスは、善を行うことを問題にしているのではありません。善行の動機が、人に「見てもらおうとして」、即ち人の好評価を期待するという偽善的なものでないかということを問うておられるのです。

 

 「施し」(2節)が偽善的にならないように、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(3節)と言われています。これはどういうことでしょうか。実際には、右手が何かを知っているわけではありません。手が何をしているのか、知っているのは自分自身です。

 

 その意味で、右の手のしていることを左の手が知らないということは、自分が無意識でしている、習慣的に行っていて、いちいち認識しないというようなことでしょう。施しは困窮者の支援のためになされるのであって、そのことで自分に見返りがあるとは考えない、報いを全く期待しないということです。

 

 「義」なるものは、主の恵みです。私たちは、恵みなしに生きることが出来ません。何が出来るからといって、それを自分の手柄として誇るわけにはいきません。それは、神の恵みであり、賜物なのですから、ただ、神に感謝して栄光を神に帰し、「しなければならないことをしただけです」(ルカ17章10節)と報告するのみです。そうすることで、ますます主の恵みに与るのです。

 

 冒頭の言葉(12節)は、「主の祈り」(6章9~13節)と呼ばれる祈りの一節です。主イエスが、「こう祈りなさい」と言われて教えてくださったので、主の祈りと呼ばれています。あるいは、主イエスがいつも祈っておられたご自身の祈りだから、そのように呼ばれているとも考えられています。

 

 冒頭の祈りは、主の祈りの中で、5つ目の祈りです。そして、14,15節に、この祈りを解説するように、人の過ちを赦すと、天の父もお赦しくださる、赦さなければ、天の父もお赦しにならないと語られています。これは、解説されなければ分からないほど、解釈困難な言葉とも思われませんし、誤解を生むような微妙な言い回しとも考えられません。

 

 他の祈りの言葉にはこのような解説がつけられていないということから、この5番目の「罪の赦しを祈る祈り」が、主の祈りの中で最も心を込めて祈られるべき祈り、主の祈りの鍵ともなる祈りであるということを示していると考えてよいでしょう。

 

 しかし、この祈りには、心に引っかかるものを感じさせるところがあります。それは、「自分に負い目のある人を赦しましたように」という部分です。これは、他者を赦すことが、神に赦される条件だということなのでしょうか。神は私たちを無条件に赦してくださるということではないのか、という疑問が生じるのです。

 

 「赦しましたように」というのは、原文のギリシア語ではアオリスト(不定過去)形ですが、主イエスが用いておられたアラム語には過去形と現在形の区別はないので、私たちも赦しますから、私たちの罪をお赦しくださいという、少し受け取りやすい言葉になるという解釈もあります。神が赦してくだされば、私たちも赦しますという意味に受け取ろうということです。

 

 しかし、さらに正直にいうならば、神の赦しが前であれ後であれ、私たちは他者の罪を赦すことが出来るのだろうかという疑問があります。神が私たちの罪を赦すという福音は、既に受け取りました。しかし、私たちは友の罪を赦すことが出来ないのです。赦さなければならないということは分かっています。そうすべきだと思っています。けれども、感情がそれを許さないのです。

 

 だから、この祈りを素直に祈ることが出来ないということが起こるのです。実際に、この言葉を祈れずに、口をつぐんでしまうと言われるのを聞いたことがあります。どうすればよいのでしょうか。どう考えればよいのでしょうか。

 

 神は、私たちの思いをよくご存じです。いかに赦せない者であるかをご存知です。そして、私たちの必要が何であるのかもご存じです(8節参照)。だからこそ、主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださったのです。私たちの友を赦せない罪を、赦してくださいと祈るのです。

 

 主イエスは、赦さなくてよいと仰っているわけではありません。私は友の罪が赦せませんが、私の罪は赦してくださいと祈るのではありません。主の祈りを通して、友の罪を赦すという奇跡に導かれることを願うのです。赦せるようにしてくださいと祈るのです。

 

 主イエスはこの祈りによって、神との関係と隣人との関係が別々のものではないということを教えておられるのではないでしょうか。まさしく、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛することと、自分のように隣人を愛するということは、表裏一体の関係にあるのです。だから、神の赦しを祈り求める心で、隣人を赦す心をも祈り求めるのです。

 

 ゴスペル・シンガーソングライター岩渕まことさんの「願い」という歌に「愛することを学びながら、赦せる心育てながら、言葉遊びにならぬように、真実と呼ばれる小道をずっと歩いてゆきたい、それが願い」という歌詞があります。アーメンです。

 

 私たちが自分で力んで、歯軋りしながらというのではなく、神の愛の奇跡が私たちの心に起こることを祈り願いましょう。そうして、神の義が私たちの内に実を結ぶ恵みに与らせて頂きましょう。

 

 主よ、あなたは私たちの心をご存じです。人の評価を気にして、善いところを人に見せようとします。そして、友の負い目、過ちを赦すことが出来ません。主イエスが神との正しい関係に生きること、友を赦すことが必要なことを教えていてくださいます。どうぞ主の恵みのうちを歩み、友の赦しを実現させてください。友を赦し、友に赦されることを通して、神の赦しの真実、真の恵みに豊かに与らせてください。 アーメン

 

 

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 マタイによる福音書7章12節

 

 冒頭の言葉(12節)は、「黄金律(golden rule)」と呼ばれる教えです。黄金律とは、人が生きていく上で最も大切な教えという意味だと思いますが、国語辞典で「黄金律」を引くと、字句の説明なしに「新約聖書にあるイエスの山上の垂訓の一節を指す」とあって、冒頭の句が記されていました。英和辞典で「golden rule」を調べても同様でした。

 

 アレキサンダー大王を尊敬していたというAD3世紀初めのローマ皇帝セヴェルスが、この言葉を金のレリーフにして自分の部屋の壁にかけていたと言われています。セヴェルスはクリスチャンではなかったようですが、彼はこの言葉を最高の倫理、道徳訓と考えていたのでしょう。そこから、「黄金律」と呼ばれるようになったのかも知れません。

 

 「律法と預言者」とは、旧約聖書という言葉がまだなかった時代に、それを言い表すための表現です。旧約聖書は、「律法(トーラー)」、「預言者(ネビーム)」と「諸書(ケスビーム)」から成っています。「律法、預言者、諸書」というのが完全な表現ですが、「律法と預言者」の二つでも、旧約聖書を指す言い方だったのです。

 

 主イエスが「律法と預言者」と口にされたとき、当然のことながら、新約聖書各署はまだ1ページも記されていなかったわけですから、旧約聖書が聖書そのものだったわけです。ということは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ聖書そのものである」と仰ったことになります。

 

 5章17節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語られていました。これも、「わたしが来たのは、聖書を廃止するためだと思ってはならない」ということですね。この言葉の後に、様々な教えを述べられた上で、この山上の説教のまとめのようにして、「黄金律」が語られているわけです。

 

 「黄金律」の最初に、「だから」と言われます。「だから」というのは、前の言葉を受けて語られる接続詞です。この言葉の前に記されているのは、「求めよ、探せ、門をたたけ」(7節以下)という、祈りについての教えです。

 

 そして、誰でも、求めた者は受け、探した者は見つけ、門をたたいた者には開かれると約束されています。これを聞いて、どんなわがままな要求でもかなえられると考えるのは、山上の説教を学んでいない者でしょう。主イエスは、私たちがどう祈るべきかを教えておられるからです(6章9節以下)。

 

 11節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」と言われています。

 

 私たちがこの山上の説教を聞くとき、自分がいかに神の御心から遠い「悪い者」であるかを知らされて来ました。しかし、父なる神はこの悪い者にも、求めれば良い物をくださると仰るのです。

 

 神が私たちにくださる良い物とは、悪い者の自己中心的な欲望を満たすような物ではありません。本当に良い物とは、聖書でしょう。聖書という本をくださるというのではなく、聖書に記されている神の御言葉を実現し、そこに示されている神の御心を私たちの生活の中に完成してくださるということです。それが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということです。

 

 してもらいたいと思う欲求には際限がありません。無限にしてもらいたいとさえ思っています。それを、人にしてあげなさいというわけですから、これは、隣人を愛することに限界を設けない、徹底的に愛し仕えることを教え、命じているわけです。

 

 そんなことが出来るでしょうか。出来るはずもありません。それでは、しなくてもよいのですか。いえ、しなければならないのです。では、どうすればよいのですか。聖書の教えが自分の生活に実現するように求めるのです。主の教えが完成する道を探すのです。神の御心が完成している御国の門をたたくのです。

 

 悪い者である自分には、他者に与える良い物など持ち合わせがありません。それこそ、その良い物は、私自身が与えて欲しいと願っているものです。

 

 神の御前にあ必要なものが示されたとき、同様にそれを必要としている隣人の存在に気づくでしょう。しかしながら、前述のとおり私は隣人の必要を満たすものを持ち合わせていないので、隣人にその必要なものが与えられるよう、父なる神に祈ります。ここに、執り成しの祈りの要点があるわけです。

 

 主を信じて求めましょう。探しましょう。門を叩きましょう。主は与え、見出させ、門を開いてくださいます。 

 

 主よ、これぞ聖書と語られた大切な御言葉を頂きました。どうか、私たちの生活に聖書が実現しますように。あなたが私たちに良い物をくださると約束してくださっていることを感謝します。御言葉が私たちの身に成り、御心がなされますように。そうして御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った。」 マタイによる福音書8章27節

 

 「山上の説教」(5~7章)を語り終えて山を下りられた主イエスのもとに、重い皮膚病を患っている人(2節以下)、中風を患う百人隊長の僕(5節以下)、ペトロの姑(14節以下)、悪霊に取り憑かれた大勢の人々など(16節)、病む人々が次々と訪れ、皆それぞれの病気を癒していただきました。

 

 そして主イエスは、ご自分を取り囲んでいる群衆をご覧になって、ガリラヤ湖の向こう岸へ行くよう命じられ.ます(18節以下)。「人の子には枕する所もない」(20節)というような状況だったので、静かな場所に退くための船出だったのかも知れません(マルコ6章31,32節参照)。

 

 舟に乗り込まれる主イエスに、弟子たちも従いました(23節)。前段(19節以下)との流れで、弟子たちは絶えず主イエスに従うために召されているということを示しているようです。とはいえ、主イエスに従う道は、安全や幸福が保証されているというわけではありません。

 

 24節に「そのとき、湖に激しい嵐が起こり」と記されています。ガリラヤ湖は、東西を高い山に挟まれた谷底に位置し、しかも湖面は海抜下213メートルという低いところにありますので、時折、湖に吹き下ろしてくる突風に見舞われることがあるそうです。

 

 ただ、「激しい嵐」は「巨大な地震」(セイスモス・メガス)という言葉です。マルコ4章37節の「激しい突風」(ライラプス・メガレー)を「地震」に変えたかたちで、船が大揺れに揺れて壊れそうなほどの状況をそのように表現したのではないでしょうか。

 

 弟子たちは湖に漕ぎ出して、激しい嵐に見舞われたわけです。舟が波に飲み込まれそうになり、生きた心地がしなかったでしょう。こうなることが分かっていたら、主イエスに従って来るんじゃなかったと、後悔したかもしれません。

 

 ところが、主イエスは、舟の中で眠っておられました。弟子たちは眠っている主イエスを起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」(25節)と助けを請います。弟子たちの中にはガリラヤ湖の漁師たちもいましたが、激しい嵐の前に全くなす術なく、眠っている主イエスだけが頼みという状況だったのです。

 

 苦しいときの神頼みと言いますが、頼みに応えてくださる神がおられるのは、幸いです。眠りから醒めた主イエスが起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になりました(26節)。主イエスは、私たちの助け、確かな拠り所です。

 

 ただ、主イエスはそのとき、弟子たちに対して「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」(26節)と言われています。こういうときに、落ち着いていられるでしょうか。怖がらないでいられる人がいるでしょうか。怖がって当然という状況です。

 

 また、弟子たちは、パニックを起こし、慌てふためいてとんでもないことをしたというわけではありません。唯一の希望である主イエスに助けを乞うたのです。むしろ、「よくぞ私を起こした、祈り求めた」とほめてもらいたいというところではないでしょうか。

 

 ここで、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われたのは、信仰とはどういうものかを教えようとされたのでしょう。「信仰の薄い者たち」というのは、原文では「信仰が小さい者たち」(オリゴピストイ)という言葉です。

 

 その意味では、あなたたちの信仰は小さい、信仰があるように見えないと言われたとも考えられます。これは、信仰があれば怖がらずにいられた、信仰があれば、主イエスを起こす必要がなかったということです。

 

 主イエスはしかし、あなたたちの信仰が認められないので、願いに応えないとは言われませんでした。気合いが足りないぞ、気合いだ、気合いで乗り切れ、などとも言われませんでした。「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と仰りながらも、風と湖とを叱り、凪にしてくださったのです。

 

 冒頭の言葉(27節)で、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と弟子たちが言っていますが、その答えは記されていません。しかし、明らかでしょう。それは、「言」(ロゴス)によって天地万物を創造された神の御子(ヨハネ1章1,3節)、真の権威ある者です(7章29節)。

 

 敢えて言うならば、私たちの信仰が小さいこと自体が問題なのではありません。少しのことで怖がるのが悪いということでもないでしょう。臆病さ、気の弱さも神がお与えになったものだ、とさえいうことが出来ます。しかし、私たちの臆病さで、主イエスが見えなくなることが問題です。

 

 弟子たちが「いったい、この方はどういう方なのだろう」と言ったとき、彼らの目に主イエスはとてつもなく大きな存在に映っていたのだと思います。理解をはるかに超えた大きさだったことでしょう。

 

 ところが、嵐の船の中ではどうだったでしょうか。とても小さく見えたのではないでしょうか。吹き下ろしてくる突風、荒れ狂い、打ち寄せてくる波を見て、その強さ、大きさに、およそ太刀打ちできない、一緒に飲み込まれてしまうとしか思えなかったことでしょう。

 

 私たちを舟に乗せて、向こう岸へ渡ろうと言われたのは主イエスなのに、この嵐の中で眠られたまま、何もなさらないのか、私たちがここで溺れ死んでもかまわないのか、という思いで一杯だったことでしょう。信仰が小さいというのは、私たちが大きな問題を前に主イエスの力を小さく役に立たないものと見ているということです。

 

 そう考えると、「なぜ怖がるのか」というのは、弟子たちのだらしなさを叱っている言葉などではなく、助けを求めた弟子たちに「怖がる必要はない」という励ましの言葉ではないかと思われます。そして、彼らの信仰の目を開かせた後、風と湖を叱って凪にされ、ご自身の権威、力の大きさを表してくださったわけです。

 

 信仰の目が開かれたならば、主イエスは嵐の中でどうして眠っておられるのだろうかと考えるようになるでしょう。そして、眠っておられる主の姿に平安を見出すことでしょう。また、向こう岸へ行くようにと主が命じられたのだから、必ず向こうへ渡ることが出来ると、主の御言葉に信頼して、一所懸命漕ぐ努力を続けることが出来るようになるでしょう。

 

 信仰の目が開かれるために、私たちは何をすべきでしょうか。苦しいときの神頼みではなく、常日頃、平安無事なときに、私たちの目を開いてください、信仰の目が開かれて、主イエスの力、権威の大きさを悟ることが出来るようにしてくださいと祈り求めることです。

 

 主よ、どうか私たちの心の目を開いてください。嵐の中で眠ることが出来、一言で風も海も従わせられた主イエスにいつも目を留めさせてください。権威ある御言葉に絶えず耳を傾け、御心をわきまえさせてください。聖霊の力を受けて、御心を行う者となることが出来ますように。 アーメン

 

 

「また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」 マタイによる福音書9章36節

 

 35節の「イエスは、町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と4章23節の「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とは、用いられている原文ギリシア語のレベルにおいても、非常によく似ております。

 

 これらの言葉を、まるでかぎ括弧でもあるかのように用いて、二つの言葉の間に書かれている出来事の見出しとしているのです。つまり、主イエスの活動を、御言葉を教えること、神の国の福音を宣べ伝えること、そして、病気を癒すことという三つにまとめているわけです。

 

 しかし、主イエスがガリラヤ中のあらゆる町や村を巡り歩いてそれらの働きをなさったとき、よい仕事が出来てよかったという思いに満たされていたわけではありません。むしろ、深い痛みを覚えておられたようです。

 

 主イエスが見られたのは、冒頭の言葉(36節)のとおり、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ガリラヤの民の姿でした。この言葉は、モーセが主なる神に、「主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください」(民数記27章17節)と、後継者が立てられることを願った言葉に語られています。

 

 また、エゼキエルもイスラエルの牧者(王たち)に対して、「牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛をまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。・・彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆるのの獣の餌食となり、ちりぢりになった」(エゼキエル書34章2,3,5節)と語っていました。

 

 福音書にこの言葉が記されているということは、弱い者を強め、病める者を癒し、傷ついた者を包む牧者たる「真の王、祭司、預言者」がいないということでしょう。そこで、神が主イエスをお遣わしになり、み言葉を教え、神の国の福音を宣べ伝え、あらゆる病をいやす働きが始められたのです。

 

 主イエスは彼らのことを見て、「深く憐れまれた」と記されています。ここに用いられている「憐れむ」(スプランクニゾマイ)という言葉は、「内臓」(スプランクノン)という言葉から出来た言葉です。辛いことがあると胃が痛むでしょう。内臓が愛や憐れみの産み出される「心」と直結していると考えられたわけです。

 

 第一ヨハネ書3章17節に、「同情しない」(クレーセー・タ・スプランクナ)という言葉があります。直訳すると、「内臓を閉じる」という言葉です。ここから、口語訳のように「憐れみの心を閉ざす」という訳語が生まれ、そして、「同情しない」という表現になったわけです。

 

 日本語でも、「断腸の思い」という表現があります。主イエスが「深く憐れまれた」ということは、それこそ、「腸(はらわた)」の痛む思いをなさったということです。ということは、痛み苦しんでいるイスラエルの民を、ご自分の家族のように、さらには、ご自身のように思われているということでしょう。

 

 主イエスが、良い羊飼いはどなたか、どのようなことをするか、語られたこともあります。それは、ヨハネ福音書10章に記されています。主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました(同10章11節)。

 

 ここで、「わたしは~である」というのは、ギリシア語原文で「エゴー・エイミ」といいます。「エゴー」は人称代名詞で「わたし」、「エイミ」は所謂「be動詞」で1人称単数現在形を表わします。

 

 つまり、文法的には人称代名詞がなくても、「エゴー・エイミ」が「I am」であることは分かるのです。そこに人称代名詞がつけられているということは、そこに強調点があるということで、それをきちんと表現すれば、「わたしこそ~です」という訳文になります。

 

 そこで、「わたしは良い羊飼いである」とは、「わたしこそ良い羊飼いである」という文になります。つまり、良い羊飼いと言えば主イエスのこと、主イエスのほかに良い羊飼いなどいないということを示しているのです。

 

 主イエスは、私たちの良い羊飼いとして、私たちが豊かな人生を歩むことが出来るように配慮し(同10章10節)、命をかけて悪しき者から救い出してくださったのです。この羊飼いの深い愛から漏れる人はいません。

 

 この羊飼いのもとに身を寄せようとして、憐れみの門が閉ざされることはありません。誰もが、主イエスと深い交わりを持つことが出来ます。その深い親密な交わりに招かれているのです。

 

 「収穫は多いが、働き手が少ない」(37節)と仰っている「収穫」とは、弱り果て、打ちひしがれている飼い主のいない羊のような群衆のことでしょう。そしてそれは、私たちのことです。私たちすべての者が主の教えを聴き、神の国の福音によって招かれ、病、患いがいやされる恵みに与ることが出来るのです。

 

 そして、その恵みに与った者が、さらなる収穫のために収穫の主に働き手を送ってくれるように祈り願うのです(37節)。山上の説教(5~7章)を学んだ私たちには、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(7章12節)という言葉が響きます。働き手を送ってくれるように願った者に、主が、あなたが働き手になりなさいと言われるというかたちです。

 

 そこで、真の良い羊飼いなる主に、収穫のために必要な良きものを与えてくださるように求め、探し、門を叩きましょう。主はその願いに応え、良きものを賜るでしょう。

 

 天のお父様、私たちに真の牧者をお与えくださって、本当に有難うございます。主の深い御心の中で癒され、包まれ、愛されています。働き人が少ないと言われた主イエスの言葉を聴きました。どうか、私たちを用いてください。御言葉を教え、福音を宣べ伝え、病む人々を癒すことが出来ますように。 アーメン

 

 

「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」 マタイによる福音書10章13節

 

 主イエスは弟子の中から「十二人」(1節)を選び、「使徒(アポストロス)」(2節)として立てます。これは、9章37節の「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と仰った言葉に基づいて、主イエスが祈られた結果ということでしょう。

 

 そして主イエスは十二人の弟子に、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気を癒す権能を授けました(1節)。「権能(エクスーシア)」は、7章29節、8章9節、9章6節などで主イエスについて語られた「権威」と同じ言葉です。主イエスがご自分の働きをさらに進めていくために、主イエスの権威を弟子たちにお授けになったということです。

 

 そして彼らを使徒として「派遣(アポステッロー)」(5節)します。主イエスが町や村を巡って諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気を癒やされたように(9章35節)、十二使徒も国中を行き巡り、主イエスの権能によって委ねられた使命を果たすのです。

 

 それは、イスラエルの家の失われた羊のところへ行って(6節)、「天の国は近づいた」(7節)と宣べ伝えること、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払うことです(8節)。主イエスにとって、天の国の到来を宣べ伝えることと、病気を癒し、悪霊を追い払うこととは、コインの表裏のようなものでした。

 

 天の国が到来したということは、病人が癒され、汚れが清められ、悪霊が追い払われるということなのです。つまり、神の力が及ぼされる場所、神のご支配が表されるところが天の国であり、神の御心を十全に受け入れるところに神の御業が表されるのです。

 

 12,13節も、この関連で理解することが出来ます。まず、「『平和があるように』と挨拶しなさい」と12節に記されています。平和があるようにというのは、ユダヤにおける通常の挨拶です。

 

 だからでしょうか、シナイ写本など重要な写本に「(この家に)平和があるように」という言葉はあるものの、ギリシア語原典の定本では、この言葉は後に挿入されたものとされています(岩波訳参照)。新共同訳が「平和があるように」を訳出した理由は不明ですが、それが通常の挨拶であり、時節とのつながりを考えてそのようにしたのでしょう。

 

 そして、冒頭の言葉(13節)によれば、神の御心を十分に受け入れる用意があるところでは、神の平和がその家に訪れる。もしその用意がなければ、その平和はそれを告げた者に戻って来る、その家に神の平和が留まらないというのです。つまり、神の平和があるようにと伝えることで、その平和がそこに実現するというわけです。

 

 イザヤ書55章11節に「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われます。いったん神の御言葉が発せられると、神の思いのとおりに実現するというのです。しかしながら、それを受け止める人がいなければ、むなしいものになってしまいます。 

 

 この言葉で、二つのことを示されます。一つは、神の御言葉を語る者に委ねられている権威の大きさです。家の人々が告げられた祝福にふさわしいものであれば、そこで御言葉が現実となって働くというのです。「平和があれ」というと、平和が訪れる。これはまさしく、神が「光あれ」と言われると光があったという、天地創造を思わせる表現です。そのような働きを人間に委ねられたということです。

 

 主から御言葉を語る使命が与えられるというのは、恐るべきことです。主に委ねられた使命について、もっと真剣に受け止めなければなりません。まさに、教会はキリストの体であり、私たちはその一部分を担っているわけです。

 

 もう一つは、神の言葉を語る者自身が、それにふさわしい者でなければならないということです。平和にふさわしい者であれば、それが与えられるというのですから、それを語ろうとする者自身がふさわしくなければ、自分のうちに平和が留まっていないわけです。

 

 語られている祝福を受けるにふさわしい態度とは、御言葉の前に謙り、その恵みを十全に受け取ろうとすること、つまり、神を信じる者でなければならないということでしょう。その信仰が、祝福を受け取る者に求められており、そして当然のことながら、祝福を告げる者にも同様に求められているわけです。

 

 祝福を受け入れるに相応しい態度という点では、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(8章8節)と語って、僕を癒して頂いた百人隊長の信仰を思い起こします。彼は、自分が語ったとおりになるその言葉の重さ、権威に対して、恐れを抱いていました。だから、「癒されよ」とひと言頂けば、それで僕はよくなると信じていたのです。

 

 私たちがしているのは、単なる聖書の知識や神学の勉強などではありません。神の御国の到来にかかわる救いの福音の宣教なのです。語る者が神の御言葉を告げる者にふさわしく語り、聞く者もそれを神の御言葉としてふさわしく聞くとき、そこに神の御心が実現されるのです。

 

 語る者も聞く者も、共に神の御業がなされることを期待しつつ、お互いのために、神の祝福を受け入れることが出来るように心を込めて祈りましょう。教会で福音のメッセージを聞いた者は、それぞれの家に、隣人に、福音のメッセージを告げる者として遣わされます。主の福音は広く告げ知らされるために語られるのです。隣人に告げ知らせるために主に聴く者とならせていただきましょう。

 

 主よ、今日、私自身の御言葉を聴く姿勢が問われていることに気づかされました。私が御言葉を信仰をもって聴くとき、その祝福が私のうちに留まることを信じます。主が平和があるようにと仰ってくださると、そこに平和が作られます。この平和の挨拶を送る使命を授かった者として、信仰をもって祈り働くことが出来ますように。 アーメン

 

 

「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」 マタイによる福音書11章10節

 

 主イエスのガリラヤでの伝道活動は、洗礼者ヨハネの捕縛から始まりました(4章12節参照)。そのヨハネが捕らえられている牢の中でキリストの活動を耳にしたので、自分の弟子を送って、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の人を待たなければなりませんか」(3節)と尋ねさせました。

 

 ヨハネは、後から来る方は自分より優れておられ、聖霊と火でバプテスマを授けられる方であり(3章11節)、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる方だと告げていました(同12節)。神の怒りによる裁きは差し迫っており(同8節)、主イエスの到来はその実現と考えていたのです。

 

 一方、主イエスは諸会堂で教え、福音を宣べ伝え、病を癒すなどの働きをしておられますが(9章35節など)、ヨハネには、期待した終末のメシアとしての働きをなさっているようには思えなかったのでしょう。そのうえ、自分は領主ヘロデの結婚について異議を申し立てたために投獄され、いつ処刑されるかもしれないという状況に置かれています(14章1節以下参照)。

 

 あるいは、メシアが自分の後ろ盾となり、ヘロデの手から救い出してくれると期待しての、ヘロデに対する行動だったかも知れません。ところが、主イエスはそのような行動を起されませんでした。そこで、来るべき方、つまり、自分たちが待ち望んでいるメシアとは、あなたのことなのかと、直接主イエスに確認することにしたのでしょう。

 

 この質問について、主イエスはヨハネの弟子たちに「イエス」とも「ノー」とも答えず、「行って、見聞きしているところをヨハネに伝えなさい」(4節)と言われます。これは、主イエスのなさっていることを見て聞いて、自分で判断しなさいということです。

 

 判断材料として、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(5節)という情報が提供されました。それは即ち、主イエスの行動に示された権威と(8~9章参照)、御言葉を語る権威(5~7章)を示すものです。

 

 これは、イザヤが「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(イザヤ書35章5,6節)と預言していたことが、主イエスによって実現されているものと見ることも出来ます。

 

 とすれば、直前の同35章4節に「見よ、あなたたちの神を。敵を討ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」と記されており、病を癒し、様々な「障害」から解放される主イエスの御業は、まさに神の到来を示しているということになります。

 

 2節に「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」と記されています。「キリスト」とは、「メシア(「油注がれた者」の意)」というヘブライ語のギリシア語訳です。つまり、マタイは先に述べたとおり、5~7章の主イエスの説教、8~9章の主イエスの御業によって、主イエスが来るべきキリスト=メシアであることがはっきり示されていると記しているわけです。

 

 この後、主イエスは洗礼者ヨハネのことを、預言者以上の者と語られ(9節)、続けて冒頭の言葉(10節)のとおり、マラキ書3章1節で「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と預言されている人物だと紹介します。

 

 ここで、「わたし」は主なる神、「使者」(アンゲロス)は洗礼者ヨハネ、「あなた」は主イエスのことです。洗礼者ヨハネは神からの使者として、メシア=キリストの前に先立って行き、メシアのために道を備えるというのです。それは、メシア=キリストの到来を告知するということでしょう。また、メシア=キリストとはどなたであるかということを、人々に教えるということでしょう。

 

 そのことを舌鋒鋭く人々に語り聞かせたということだけではなく、洗礼者ヨハネの死に様もメシアの道備えになっています。ヨハネは神の御言葉を大胆に語ったため、為政者によって捕らえられ、処刑されました(14章1節以下)。そして、この後、メシア=キリストが、ヨハネと同じ道を辿られることになるのです。

 

 世の人々は、メシアが捕らえられ、殺されるなどとは考えないでしょう。ヨハネも、そうは考えていなかったと思います。しかし、神の計画は、洗礼者ヨハネのみならず、私たちのの思いをはるかに高く超えています(イザヤ書55章8,9節参照)。それは、彼を牢から解放するという程度ではありません。すべての人々を罪と死の呪いから解放するという計画です。

 

 そして、そのことのために、メシアが苦しみを受けるということです(イザヤ書53章など)。ヨハネは、キリストのさきがけとしてその道を備えました。そして、主イエスはご自身の受難を通して、すべての人の救いの道を完成されたのです。

 

 主イエスをメシア=キリストと信じることの出来る方は幸いです。皆でその幸いに与りましょう。 

 

 主よ、神の使命に生きたヨハネの苦しみを見ます。なぜ、自分がこのような最期を遂げるのかと苦しんだかもしれません。しかし、それが主イエスの救いの道を備えるものであると知ったら、彼はどんなに光栄に思ったことでしょう。今は分からないが、後で分かるようになるという信仰の世界を、そこに見せていただきました。私たちも主に委ねられた使命を果たすことが出来ますように。それによって、栄光が表されますように。 アーメン

 

 

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休み場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。」 マタイによる福音書12章43,44節

 

 12章は、ファリサイ派の人々が主イエスとの対決姿勢を露わにして来た様子を描いています。その最初の論争は、安息日を巡ってのものでした(1~14節)。ここに、主イエスの安息日に対する態度が明瞭に示されています。

 

 15節からの段落は、イザヤ書42章1~4節を引用しつつ、「争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」(19節)という言葉を地で行くかのように、ファリサイ派の人々との争いを避け(14,15節)、ご自分のことを言いふらさないように戒められた(16節)と記しています。

 

 もしかすると、マタイは第二イザヤの「主の僕」の預言をここに引用することで、四つの「主の僕」の預言(42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、52章13節53章12節)に描かれているのが、主イエスの「苦難の僕」の姿なのだと示そうとしているのかも知れません。

 

 そこに、悪霊に取り憑かれて目が見えず口が利けなくなっていた人が、主イエスのところに連れられて来て、主イエスが彼を癒やされて、ものが言え、目が見えるようになりました(22節)。

 

 それを見た人々が主イエスを「この人はダビデの子ではないだろうか」(23節)と表しました。「ダビデの子」とは、当時の人々が待望している「メシア」のことです。それを聞いたファリサイ派の人々は、「悪例の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)と言いました。

 

 それに対して主イエスは、①サタンがサタンを追い出すのは内輪もめで、それではサタンの国は成り立たない(25,26節)、②私がベルゼブルの力で悪霊を追い出しているというなら、あなたたちファリサイ派の仲間は何の力で悪霊を追い出しているというのか(27節)と反論されます。

 

 むしろ、神の霊によって「強い人」(29節)すなわちサタンを縛り上げて、「家」即ち悪霊に縛られていた人をサタンから奪い取り、解放してくださったのです。それによって、そこに神の国が到来していることが明らかにされています(28節)。

 

 この話と関連して述べられたのが、冒頭の言葉を含む43節以下の段落です。この段落の話は、様々な印象を与えてくれます。一つは、自分の生活を見るような思いです。私は片付いた部屋が好きですが、片付いた部屋で過ごすという能力が足りないようで、いつの間にか部屋には荷物が散乱し、足の踏み場がないという状態になります。

 

 しかし、部屋が掃除され、片付けられるときがあります。それは、来客があるときです。それまで、部屋を占領していた荷物は、とりあえず押入れに押し込まれます。見えないところに積み上げられます。しかし、きちんと片付けられたわけではないので、押入れを開いたとたん、押し込んだ荷物が飛び出てきます。

 

 何かの拍子に、積み上げた荷物が倒れ、あっという間に、元の部屋に戻ります。そのうち、来客を別の部屋に通すようになり、自分の部屋は片付けられるときを失います。そうすると、ますます散らかっていきます。その部屋を絶対他人には見せたくない、見せられないという状況です。

 

 そこで、自分でも何とかしなければと思って、一大決心、大掃除を決行します。見事に片付いて、気持ちよくなります。ところが、やがてまた、もとの部屋の状態になっていきます。それは、その部屋の主人が、生活の仕方を変えることが出来ない私だからです。

 

 この段落は、律法学者、ファリサイ派の人々との論争の中で語られています。ここで主イエスが仰っているのは、人が自分の努力で、律法に従う生活をしたいと思って、悪霊を心から締め出し、掃除をしたつもりでも、心の主人を迎えない限り、その場所はまたもとのように、あるいは前よりももっと悪い状態になるということだと思います。

 

 つまり、誰も自分で自分の心を律することはなかなか出来ないということでしょう。あるいは、自分の力で悪霊の支配を脱することは出来ないということでしょう。他の人のことは分かりませんが、私にとってこれは本当だと思える言葉です。

 

 律法は神の言葉です。ですから、神に従おうとするとき、悪霊はそれを妨げることが出来ません。でも、私の心は、常に神に従おうとしない、別の思いに占領されることがしばしばです。「心は丸く、ころころと動くから、心(こころ)と言うんだよ」という話を、なるほどと思ったことがありますが、そんな言葉で納得していても、何の助けにもなりません。

 

 冒頭の言葉(43,44節)で面白いのは、悪霊が休み場所を探して砂漠をうろつくというところです。なぜ、休み場をオアシスに求めないのでしょうか。砂漠で休み場が見つかるはずはないだろうと思ってしまいます。

 

 水がないところ、しかも、照りつける太陽を遮るものがないようなところでは、誰も生きられません。けれども、私たちも同じようなことをしているのではないかと示されます。神のもとに行けば安息できるのに、そうだと分かっているのに、敢えてそうではないところに休み場がないかと探してはいないでしょうか。

 

 「砂漠」は原文で、「アヌドロス」という言葉です。ギリシア語で「水」はフドールと言います。そこに「ない」を表す接頭辞「ア」がつけたのが、「アヌドロス(水がない)」という言葉です。水がないところは砂漠だということで、新共同訳はこの訳にしたのだと思いますが、パレスティナはいわゆる砂漠地帯ではないので、荒れ野、荒地の方がよかったかもしれません。

 

 新約聖書において、聖霊(ヨハネ福音書7章38,39節)や神の御言葉(エフェソ書5章26節)の比喩として、水が用いられます。聖霊のおられないところ、神の御言葉が語られないところでは、私たちが休み場を求めても得られないということでしょう。

 

 それはまた、悪霊は、そのようなところを好むということでしょう。本当に水がなく、住む者が誰もいないところでは、休み場にならないかも知れませんが、聖霊のおられない、神の御言葉を聞くことのない人の心は、悪霊の絶好の休み場となるのでしょう。

 

 ゆえに、真の安息を得るため、神の御言葉を聴き、聖霊の満たしに与りましょう。主イエスをまことの主人として、いつも心の中心にお迎えし、親しい交わりを頂きましょう。

 

 主よ、潤いのない荒れ野のような私たちの心に御子イエスをお送りくださり、そこをベテル(神の家)としてお住まいくださったことを感謝します。今、聖霊の宮としてのキリストの体なる教会が設けられ、神の言葉のメッセージを聴くことが出来ます。いつも聖霊に満たされ、福音宣教の力に与らせてください。 アーメン

 

 

「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」 マタイによる福音書13章4節

 

 13章には、主イエスが語られた「たとえ話」がまとめて記録されています。たとえ話は、話を分かりやすくするために「たとえ」が使われるという向きもありますが、ときには、謎解きをしなければならないなぞなぞのように、真実を隠して語られることもあります。主イエスのたとえ話は、後者の性格が強いと思います。

 

 「たとえ」は、ギリシア語でパラボレーといいます。「パラ」は傍ら、「ボレー」は投げるという意味の合成語で、「傍らに投げる」という意味になります。そばに投げられたボールをしっかりキャッチするのか、転がっていく先をただ見つめているのか、捕って投げ返すのか、はたまたバットで打ったり、蹴飛ばしたりと、様々な対応が考えられるでしょう。

 

 そのように、主イエスがその「たとえ話」を通して何を語り伝えようとされているのか、各自が思い巡らし、その御心を聴き取る必要があります。そして、めいめい聴いたところに従って主に応答するのです。

 

 最初に語られているのは、種蒔きのたとえです。大多数の種はよい土地、つまりよく耕された畑に落ち、ある一粒の種は道端(畑のあぜ道のことでしょう)、ある種は石だらけの所(石が多くて耕すことが出来なかった場所)、またある種は茨の間(茨が人の手の入るのを妨げているのでしょう)に落ちたと言われています。

 

 そして、畑に落ちた種は30倍、60倍、100倍の実を結びましたが、それ以外のところに落ちた種は、実を結ぶことが出来ませんでした。そうして、「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)と言われています。この話から、何を聞けばよいのでしょうか。あなたは、どう思われますか。

 

 種を蒔く人は、仕事がすべて上手くいくわけではない。数々の失敗、挫折を味わう。それで蒔くのを辞めてしまえばそれまでだけれども、諦めずに蒔き続ければ、多くの実りに与ることが出来るということから、神の国の業は、困難や挫折を味わった後にその栄光を見ることになるという解釈があります。 

 

 主イエスご自身による解説が、18節以下で語られております。特に、23節の「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」という言葉で、蒔かれた種が神の御言葉で、良い土地は、それを聞いて悟る人として説かれています。御言葉をしっかりと受けて、多くの実を結ぶために、良い心を備えるようにと読めます。

 

 そこから遠く逸脱したことを読み取るのはどうかとも思いますが、今日は冒頭の言葉(4節)に目が留まり、空想の翼が広がりました。あるいは、妄想というべきでしょうか。

 

 道端に落ちた種も、畑に落ちた種も、同じ命を宿した種です。良い畑に落ちて多くの実を結び、人がそれを収穫して食べても、道端に落ちた一粒の種を鳥が食べても、命あるものを生かすために、一粒一粒の命が犠牲となることに違いはありません。

 

 たくさんの実を結ぶことの出来る命を宿した種が、食べられて他の命を生かすために用いられるわけです。小さな鳥が食べる種の数は少量です。人は、鳥に比べると大量の種を食べなければ、命を支えることが出来ません。

 

 畑に落ちた種は、その数を飛躍的に増やすことが出来ます。誰もその命を食べなければ、無限に殖えていきます。その命を頂いて、私たちは生きているのです。「頂きます」というのは、まさにそのこと。食物の命を頂いているのです。単なる食事開始の挨拶なのではなく、まさしく感謝の言葉であり、そして、命を粗末にしないという誓いでしょう。

 

 道端に落ちた種を鳥が食べました。それによって、鳥は命が支えられました。鳥が食べる種の中には、りんごや柿のような、堅い皮を持った種もあります。きっと、そのような種は鳥の胃で消化されずに、糞と一緒に排出されます。その種は、鳥の糞を養分にして、落ちた場所で芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶようになります。

 

 消化されて、鳥に命を与える種もありますが、実を結ぶために鳥を利用する種もあるということです。自分では動くことの出来ない草木は、風や動物の力を借りて種を遠くに運び、子孫を増やすわけです。

 

 強い風で枝がゆすぶられて種が飛び出すとき、あるいは鳥が実をついばんで種ごと飲み込んだとき、種自身にとってはとんでもない出来事と思われるかも知れないけれども、それによって豊かな実を結ぶところに持ち運ばれるという神の計らいがあるのです。

 

 私たちの命は、多くの命によって生かされています。それはまた、他のものを生かすために用いられるべき命なのです。そのために、聖霊の風に持ち運ばれることがあるでしょう。聖霊が鳩のように降ってきて、私たちを導くことがあるでしょう。

 

 主を信頼し、その導きに身を委ね、御用のために主に用いていただきましょう。主に用いられるために、信仰により、御言葉と祈りを通してよい準備をさせていただきましょう。

 

 主よ、命の恵みを感謝します。御言葉という命の種をたくさん食べて生い育ち、祈りを通して主の御心、自分に委ねられている使命を悟らせてください。聖霊の力を受けて主の御用に用いられる器となることが出来ますように。 アーメン

 

 

「そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群集に与えた。」 マタイによる福音書14章19節

 

 13節以下の段落には、「五千人の食べ物を与える」という小見出しがつけられています。パンの奇跡について、福音書中に合計6回記されています(15章32節以下、マルコ6章30節以下、8章1節以下、ルカ9章10節以下、ヨハネ6章1節以下)。それだけ印象に残る、重要な意味を持つ出来事として、弟子たちに受け止められていた証拠です。

 

 主イエスの周りには、いつも大勢の人々が集まって来ました。主イエスは、洗礼者ヨハネ殺害の報告を彼の弟子たちから聞いて(12節)、舟に乗って人里離れた所へ退かれたのですが、それを聞きつけた群衆が主イエスの後を追って来ました(13節)。「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された」(14節)とあり、様々な願いや要求をもってやって来たことが分かります。

 

 人里離れた所とはどこのことか明示されてはいませんが、この後で向こう岸に舟で渡ったところがゲネサレトだということから(22,34節)、人里離れた所はガリラヤ湖の東岸ないし南東岸といったところでしょう。 人々は徒歩(13節)で主イエスを追って来たので、5㎞、10㎞という距離を歩いてやって来たわけです。

 

 夕暮れ時になって、群衆を解散させ、めいめい自分で食べ物を調達させようと言い出した弟子たちに(15節)、「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」(16節)と命じられます。それに聞いた弟子たちは、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」(17節)と答えます。自分たちの持ち物で、群衆の空腹を満たすことなど到底出来ないという返答です。

 

 弟子たちの返答に対して主イエスは、「それをここに持って来なさい」(18節)と言われます。そして、群衆を草の上に座らせ、賛美の祈りを唱えてパンと魚を割き、それを弟子たちに渡して、群衆に分け与えさせられます(19節)。すると、驚くべきことに、すべての人がそれを食べて満腹になったと、20節に報告されています。

 

 21節には、「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」と記されています。「女と子供を別にして、男が五千人ほど」というのですから、その食事に与ったのは、一万人以上ということになりそうです。

 

 五つのパンと二匹の魚でそれほどの人々を満腹させたというのがよほど素晴らしく、印象に残ったのでしょうか。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に記されている奇跡で、すべての福音書に記されている奇跡は、主イエスのご復活を除けば、これが唯一のものです。

 

 さらに、パンの屑を集めると、12の籠がいっぱいになりました(20節)。12の籠とは、12人の弟子たちが各自で持っていた旅行鞄のことではないかと思われます。旅行鞄がパン屑で一杯になったのですから、弟子たちは、次の食事を心配する必要がないという状況になったわけです。

 

 こういう奇跡を行う人が一緒にいてくだされば、もう食いはぐれることはないでしょう。その力を上手に使えば、大儲け出来るかも知れません。出来ることなら、どこまでもこの人について行こうという世界です。しかしながら、今日の御言葉は、そのようなこととは全く違う道を示しています。

 

 冒頭の言葉(19節)において、五つのパンと二匹の魚を群衆にお与えになるとき、主イエスは、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」とあります。これは、私たちが最後の晩餐の物語で読む、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えられた」(26章26節)という言葉に、非常によく似ています。

 

 まるで、成年男子だけで5000人、女子供を合わせると1万人以上という大群衆と、ここで晩餐式を行っておられるかのようです。勿論これは、彼らの空腹を満たす食事です。しかし、それ以上のものであることを示そうとしているようです。即ち、主イエスは、私たちの体の必要を満たされるように、魂の必要を満たされるお方、まったき救いをお与えくださるお方であるということです。

 

 この出来事の前に、洗礼者ヨハネが領主ヘロデに殺され(1節以下)、上述のとおり、その報告がヨハネの弟子たちによって主イエスにもたらされました(12節)。その報告を聞かれてのこの物語です。読み込み過ぎではないかと思いながら、敢えて言うならば、ヨハネの殉教死によって、この晩餐式が引き起こされたわけです。つまり、ヨハネの殉教が、主イエスの贖いの死を予め表しているということです。

 

 さらに言えば、ヨハネの死を通して、5000人以上の人々が主の福音の恵みに与ったことになります。12の籠にパン屑が余ったのは、12弟子の必要を満たすだけに留まらず、神の民イスラエル12部族の必要を満たすというしるしでしょう。

 

 そして、十字架において主イエスの贖いの死が成し遂げられたとき、全世界のあらゆる世代のすべての人々にこの恵みが広げられました。救いの恵みを受けられない人は一人もいません。すべての人を満たすことが出来ます。

 

 弟子たちは、主イエスからパンを渡されて、それを群集に与えました。勿論、弟子たちも満腹したでしょう。これはまた、命のパンである主イエスの福音を受け取り(ヨハネ福音書6章35,68節)、その恵みを味わった弟子たちが、聖霊の力をうけて人々に福音を告げ知らせることを示します(使徒言行録1章8節参照)。

 

 大群衆に対してパン五つと魚二匹しか持ち合わせていないような弟子たちが、しかし、主イエスの賛美の祈りをもって祝福されて遣わされると、そこに、使徒言行録2章に記されているような、驚くべき救いの御業がなされたと見ることも出来ます。

 

 私たちも、取るに足りないものです。しかし、主は敢えて無きに等しい者を選び、主の業のために立てられます(第一コリント書1章26~28節)。ゆえに、主の御力に依り頼み、主ご自身が御業を行ってくださることを願い求めて祈るほかありません。そして、主が命じられたとおりにします。そこに、私たちの働きではない、主の御業が表されるからです。

 

 主の御言葉を聴きましょう。その導きに従いましょう。主がなせと言われたことを成し遂げるとき、主がご自分の御業を行い、栄光を現してくださるでしょう。 

 

 主よ、今日も私たちに命の言葉をお与えくださって、有難うございます。絶えず聴く耳をもって御言葉を受け止めさせてください。人々にこの恵みを分かち与えることが出来るように、聖霊の知恵と力を授けてください。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がこの地になりますように。 アーメン

 

 

「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。」 マタイによる福音書15章24節

 

 21節以下に、「カナンの女の信仰」という小見出しのつけられた段落があります。この物語の舞台は「ティルスとシドンの地方」、即ちイスラエルの隣国フェニキアの人々が住む町、地方のことです。

 

 ファリサイ派の人々、律法学者たちとの議論を終えた後(1~20節参照)、主イエスが異邦人の地を目指された理由、その目的は記されていませんが、「手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」(20節)という主イエスの言葉が、イスラエルの民として異邦人との関わり方はいかにあるべきかという問題と密接に関係しているようです。

 

 フェニキアは「紫色」という意味です。紫色の染料や、その染料で染めた紫色の布を輸出していたところから、その名で呼ばれました。22節に「この地に生まれたカナンの女」と記されています。カナンというのは「紫色」を意味するヘブライ語です。つまり、フェニキアとカナンは、国、言葉は違えど、同じ意味ということです。

 

 このカナンの女性が主イエスに「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)と叫び求めました。「主よ、ダビデの子よ」という呼びかけは、イエスをメシアであると認識している人の言葉遣いです。

 

 主イエスの評判が、遠くフェニキヤの地にも及んでいて、そこに住むカナンの女性が、異教的環境から「出て来て」(エクセルコマイ come out of:22節)、メシア=キリストである主イエスに憐れみを乞うたというかたちです。

 

 けれども、なぜか主イエスは何もお答えになりません(23節)。それでも、女性は必死です。そのように無視されても執拗に叫び続けていたのでしょう。弟子たちが、「この女を追い払ってください」(23節)と主イエスに願っています。

 

 女性が叫びながらつきまとって来て、とても五月蝿かったのでしょう。また、異邦の女性が仲間になることを拒否する姿勢を示しているようです。

 

 主イエスは冒頭の言葉(24節)のとおり、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。何という言葉でしょうか。本当にこれが主イエスの言葉でしょうか。

 

 主イエスはなぜ、こんなに冷たい答えをされたのでしょう。そもそも、主イエスは自ら、その地方に行かれたのです。「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というのは、矛盾というものではないでしょうか。

 

  このような拒絶の言葉を聞きながら、それでもめげずに「主よ、どうかお助けください」(25節)とひれ伏し懇願する女性に対して、さらに追い討ちをかけるように、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と主イエスが言われます。とどめの一発です。

 

 最初の無視と言い、次の拒絶と言い、およそ私たちが知っている主イエスらしくない振る舞いですが、女性を小犬呼ばわりして追い払おうとされるのは、およそ信じられないというところです。どうして、ここまでこの女性を拒絶されなければならないのでしょうか。

 

 確かに主イエスの言葉ですが、私にはその理由は分かりません。しかし、思い出したことがあります。それは、イスラエルの家とはどういうものかということです。

 

 イスラエルの父祖にヤコブという人物がいました(創世記25章26節)。ヤコブには双子の兄エサウがいます。彼は、兄から長子の特権を豆の煮物で買い取り(同25章27節以下)、父親の祝福の祈りを偽り奪いました(同27章18節以下)。事の顛末に気づいた兄エサウは、弟ヤコブを殺そうと謀ります(同27章41節)。それでヤコブは逃げ出します。

 

 ところが、神はこのヤコブを祝福したのです(同28章14節)。ここに、神の憐れみがあります。兄エサウは、長子の特権を軽んじて、それを一杯の煮物で売り渡すような人物でした。ところが、弟ヤコブは神の祝福がどうしても欲しいと考えている人物だったのです。神はヤコブのその願い求める祈りに応えられました。

 

 さらに、祝福を求めるヤコブに、イスラエルという名を与えました(同32章29節)。それは、「神と人と闘って勝った」という意味であると説明されています。つまり、イスラエルとは、祝福を受ける資格のある者が当然のように祝福されたというのではなく、神と人と闘って祝福を勝ち取ったという意味なのです。

 

 カナンの女性は、侮蔑とも思えるような言葉をぶつけられながら、娘を助けてくれるまで、あなたを離しませんといわんばかりに、主イエスの憐れみを求めました。極めつけは、主イエスの徹底的拒絶に対して、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)という答えです。

 

 私は、無視されることに耐えられません。拒絶されると、二度と頼むものかと思います。まして侮辱されれば、どういうことになるでしょうか。その点、この女性の信仰は驚嘆すべきものです。

 

 彼女は、それらのことに晒されながら、主イエスの恵みの豊かさを堅く信じているがゆえに、悪意を持ちませんでした。むしろ、主イエスの拒絶と侮辱を、主イエスが言われた「小犬」という差別的な表現を取り込み、主人であるイスラエルの食卓に与りたいのではなく、彼らが食卓の周りにこぼしたもので十分、それほどに主の恵みは豊かだと応答しました。

 

 まさしくここに、主イエスの語られていた「イスラエルの家の失われた羊」(24節)がいます。この女性は、主が探し求めておられた、迷い出た一匹の羊なのです。女性のうちに、主の祝福を求めてやまない一途な信仰を見ることが出来ます。主イエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)と祝福され、その娘の病気を癒されました。

 

 この後、4千人の給食の奇跡がなされます(32節以下)。七つのパンで4千人の空腹を満たし、残ったパン屑は7つの籠にいっぱいになりました。14章の五つのパンで12籠に残りを集めたのは、イスラエル全部族の必要を満たすというしるしだったのと同様、7籠は全異邦の民の必要を満たすというしるしという解釈が提案されています(使徒言行録6章1~7節参照)。

 

 フェニキヤの女性の信仰に驚嘆され、それを祝福された主イエスが、救いの恵みをユダヤの民から異邦の民へも広げられたという物語配置になっているということです。その恵みは確かに、今この聖書の御言葉を読んでいる私たちのところにも広げられています。

 

 恵みを溢れるほど豊かに注ぎ与えてくださる主に信頼し、その信仰を言い表しましょう。

 

 天のお父様、あなたの憐れみによって救われ、今もその憐れみによって生かされています。いつも、ああたの恵みの内に留まらせてください。主の御顔を求め、御言葉に聴き従うことが出来ますように。信仰の恵みが私たちから周囲の人々へ拡げられますように。恵みをもたらす器として、私たちを用いてください。 アーメン

 

 

「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」 マタイによる福音書16章21節

 

 12章38節以下に続く「天からのしるし」を求めるファリサイ派とサドカイ派の人々に(1節)、主イエスは前回より簡潔に、ヨナのしるしのほかには与えられないと答えられます(4節)。それは、ヨナが大魚の腹の中で三日を過ごしたように、主イエスも死んで葬られた後、三日後に甦られることになっているということです(21節)。

 

 その後、主イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリアの地方に行かれ、そこで弟子たちに、ご自身の評判についてお尋ねになりました(13節)。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ」という人や、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」という人もいると答えます(14節)。

 

 続けて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)と問われると、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と答えました。「メシア」とは、ギリシア語の「クリストス(キリスト:油注がれた者の意)」という言葉です。ここで初めて、主イエスが弟子たちによってメシア、キリストと呼ばれたわけです。

 

 そして、「生ける神の子」という言葉が加えられます。14章33節で既に「本当に、あなたは神の子です」と表明されていました。ここで改めて、主イエスが生きておられる神から生まれた真の子どもという信仰が示されています。

 

 主イエスはこの信仰の表明を喜ばれて、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)と言われました。パウロが、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(第一コリント書12章3節)と記していたことと合わせ、信仰は神によって授けられるものということです。

 

 そして、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天上での鍵を授ける」(18,19節)と言われました。「ペトロ」は「岩」(ペトラ)の男性形です。それは、ペトロの性格や体格などのことではなく、天の父がシモンにお与えになった信仰をそう呼んでいるのです。

 

 「この岩の上にわたしの教会を建てる」とは、信仰を言い表す人々によって教会が形成されるということで、主イエスはその教会を「わたしの教会」と呼んでおられます。つまり、生ける神の子である主イエスは、ご自身の教会を形成されるために、メシアとしてこの世においでくださったということです。

 

 4つの福音書の中で「教会」(エクレシア)という言葉は、マタイに2度(ここと18章17節)出るだけで、他の福音書には登場しません。そこで、主イエスは本来、「教会」という言葉を口にされたことはないという学者がいますが、キリスト教会は、「教会」の頭は主イエスであり、主イエスの御心によって「教会」が形成されてきたと信じています。

 

 ギリシア語訳旧約聖書(70人訳:セプチュアジンタ)でエクレシアは、「カーハール」(集会)の訳語として、たとえば申命記9章10節に用いられています。それはイスラエルの全会衆のことで、それがここに用いられて、主イエスは「教会」を、ご自分の真のイスラエル、新しいイスラエルとして「教会」を興されると言われたのです。

 

 そして主イエスの教会は、天国の門を開く働きをするということが、ここに示されます。何という幸いな働きでしょうか。そう言われたペトロを初め、弟子たちはどんなに喜びに溢れたことだろうかと思います。どんなに誇らしく感じただろうかと思います。

 

 ところが、事態はこれから、思いがけない方向に展開し始めます。ここが、マタイ福音書の分水嶺、折り返し地点と言って良いと思います。冒頭の言葉(21節)で、「このとき」というのは、前述の、主イエスがメシアであるという信仰が弟子たちに与えられたときです(16,17,20節参照)。

 

 そして、その信仰が与えられた弟子たちに対して、冒頭の言葉のとおり、ご自分が苦しみを受けて殺され、復活されるということを打ち明け始められました。主イエスが受難予告をし始められたわけです。「打ち明け始められた」ということは、主イエスは前からそれを知っておられたけれども、これまで隠しておられたということでしょう。

 

 しかし、それを公然と誰にでも分かるように語られた、というのではなさそうです。「打ち明け始められた」というのですから、弟子たちにだけこっそりと語られたのでしょう。ということは、主イエスがメシア、生ける神の御子であるという信仰が与えられた者にだけ、受難の予告がなされたということになります。

 

 当時のユダヤでは、かつてのモーセのように自分たちを支配しているローマの国から救い出して、神聖イスラエル王国を築いて下さるメシアが現れると期待されていました。ペトロの主イエスに対する信仰の表明の中にも、その期待があったと思います。けれども主イエスは、ご自分が彼らの期待しているようなメシアではないことを、ここに明らかにされたのです。

 

 また、「打ち明け始められた」ということは、繰り返し、打ち明けられたということです。実際、マタイ福音書の中には3回(17章22節以下、20章17節以下)、受難予告がなされています。予告が繰り返されたのは、それが本当であること、極めて重要であることを示そうとされたからでしょう。

 

 あるいはまた、弟子たちが主イエスの言葉を理解出来ていなかったからと見ることも出来ます。生ける神の御子、油注がれたメシア、救い主なる主イエスが、なぜ苦しめられて殺されなければならないのか、理解出来る方が不思議というものかもしれません。

 

 ペトロは、主イエスの言葉が理解出来なかっただけでなく、メシアがそういう目に遭うはずはないと考えて、主イエスの発言の撤回を求めました(22節)。それを主イエスは、「サタン、引き下がれ」(23節)と厳しく咎められます。

 

 勿論、ペトロはサタンではありません。なぜ自分が主イエスから「サタン」と決めつけられたのか、合点がいかなかったのではないでしょうか。しかし、主イエスの激しい剣幕、それこそ悪しき霊を追放する神の御子の恐るべき権威の前に、ペトロは言い返す言葉がなかったばかりか、全く震え上がってしまっていたのです。

 

 ここに、主イエスのメシアとしての使命の厳しさが如実に描かれています。当時の指導者たちに捉えられ、多くの苦しみの後、殺されなければならないのです。それが、メシアとしての務めなのです。回避するわけには行かないのです。メシアの死によって、罪の贖いの業が完成し、救いの道が開かれるからです。

 

 その受難予告に続いて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という招きの言葉が語られます。十字架へと歩まれる主イエスを、生ける神の御子、メシアと信じ、己を捨て、おのが十字架を背負って従うことが出来ますか。そのために苦しみを味わわなければならないとしても、従い続けることが出来ますか。そんな覚悟が問われているようです。

 

 誰が、自分はそれに答えることが出来ると答えられましょうか。誰にその覚悟があると言えるでしょうか。しかし、主イエスの十字架が私たちに罪の赦しを与える贖いのためであると知ったとき、主イエスの招きに従うことは、悲壮な覚悟というのではなく、むしろ喜びとなりました。死への招きではなく、罪が赦され、永遠の命に与り、神の子とされるという救いへの招きだからです。

 

 しかも、自分の力で、それが出来る人はいません。ただ、主の憐れみにより、その恵みに支えられての歩みです。瞬間瞬間、主を信じ、主を仰ぎつつ、その御言葉に従う歩みをさせて頂きましょう。 

 

 主よ、神のことを思わず、人間のことを思っているのはペトロだけではありません。私もそうです、いつもそうです。主イエスの十字架が私たちの罪の故であることを忘れるとき、主に従う喜びも感謝も失われてしまいます。そのたびに、「サタン、引き下がれ」と語り、私たちの目を覚まさせてください。いつも主の御足跡に従わせてください。 アーメン

 

 

「すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」 マタイによる福音書17章5節

 

 メシアの受難予告から「六日の後」(1節、16章21節以下)、主イエスは、ペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登られました(1節)。もしかすると、これは出エジプト記24章16節の、モーセが契約の石の板を授かるために山に登り、七日目に主が雲の中からモーセに呼びかけられたという記事と関連しているのかも知れません。

 

 また、受難予告から6日を、贖罪日(7月10日)から仮庵祭初日(7月15日)とする解釈もあります(レビ記23章27,34節参照)。この解釈を支えるのが、4節の「仮小屋」を建てようという提案です。仮庵祭のときは7日間、仮庵に住めと規定されているからです(レビ記23章42節)。

 

 これらのことは、マタイが主イエスを、主なる神によって選び立てられたモーセのような預言者としての存在だということを、確証しようとして記したかのようです。申命記18章15節に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」とあるからです。

 

 モーセのような預言者として油注がれた、メシア=キリストである主イエスによって、主なる神と主イエスを信じ受け入れた者との間に、新しい契約(カイネー・ディアセーケー)が結ばれるのです。新約聖書とは「新しい契約の書」というもので、神と民との間に結ばれた契約が記されています。

 

 ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、3人だけを連れて山に登られた主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました(2節)。それは、モーセがシナイ山で十戒を授かったときに、顔の肌が光を放っていたという出来事を思わせます(出エジプト記34章30節)。

 

 しかし、顔の太陽のような輝き、服の光のような白さとは、主イエスがモーセ以上の存在であるという表現と見ることが出来ます。それはまさに、天上におられる主イエスの栄光の姿です(ヨハネ黙示録1章12~16節、21章23節も参照)。

 

 すると、そこにモーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合いを始めます(3節)。モーセは、モーセ五書と言われる律法の書(トーラー)を代表し、エリヤは、預言者(ネビーム)を代表する人物です。旧約聖書を構成し、それを代表する二人と話し合っているということは、主イエスは、旧約聖書に証しされ、それを成就するお方ということを表わしているかのようです。

 

 また、モーセもエリヤも、ホレブの山で主の前に立ち、主なる神と語り合いました(出エジプト記3章1節以下、19章1節以下、33章11節など、列王記上19章8節以下)。モーセとエリヤが主イエスと語り合っているということで、主の顕現、神が主イエスにおいてご自身を啓示されたということを表わしているということも出来ます。

 

 さらに、エリヤは火の戦車に乗って天に上って行きました(列王記下2章11節)。モーセはネボ山で息を引き取り、ベト・ペオルの近くの谷に葬られ、誰もその場所を知らないとされていますが(申命記34章5,6節)、モーセも天に移されたという伝説が残っています。

 

 モーセとエリヤの最期は、主イエスのそれを思わせます。つまり、十字架で死なれた後、三日目に甦られた主イエスが天に上って行かれる情景が思い浮かぶのです(使徒言行録1章9節)。

 

 三人が語り合っている光景を見たペトロは、上述のように「主よ、ここに仮小屋を三つ建てよう」(4節)と提案します。「仮小屋」は、「幕屋、天幕」(スケーネー)という言葉です。これが、上述の仮庵祭、即ち出エジプトで40年間荒れ野を旅した時に仮小屋生活したことを記念して祝う祭りを思わせるということです。

 

 また、「主よ」とは、旧約では神に対する呼びかけの言葉ですし、モーセに幕屋といえば、神を礼拝するための幕屋を思い起こします。つまり、ここに住もうというより、神の御子、主イエスの栄光を拝する幕屋を建てようという表現とも思われます。

 

 しかし、ペトロが語り終えないうちに、雲が彼らを覆いました(5節)。それは、「光り輝く雲」でした。ということは、この雲は神の臨在を表すものと考えられます(出エジプト記13章21節、19章9節)。

 

 臨在の幕屋が完成したときに、雲が臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちました((同40章34節)。ソロモンの神殿が完成したとき、雲が主の神殿に満ち(列王記上8章10節)、主の栄光が神殿に満ちて、祭司たちが奉仕を続けることが出来なくなりました(同11節)。

 

 雲は、神の栄光を現すと同時に、すべてのものを覆い隠してしまいます。大いなる見物であった主イエスの栄光の姿も、モーセとエリヤの姿も、雲に遮られて見ることが出来なくなりました。

 

 そこに、声がしました。それが、冒頭の言葉(5節)です。それは、主イエスの声ではありません。モーセやエリヤの声でもありません。それは、雲の中から語られた父なる神の声でした。

 

 そこで語られたのは、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた時に語られた天の声をなぞるものです(3章17節)。ただし、今回は、「これに聞け」という言葉が付け足されています。主なる神が求めているのは、主イエスやモーセ、エリヤに目をとめるのではなく、また、モーセやエリヤの声に耳を傾けるのでもなく、主イエスに聞くことだというのです。

 

 「聞く」とは、ただ耳に入れればよいということではありません。マタイが主張しているのは、聞いて行うこと(7章24,26節)、即ち、主イエスに従うことです。従わない者は、主イエスの声を聞いたことにはならないのです。

 

 こうして、終わりの日の主イエスの栄光の姿を垣間見させて、それによって主イエスに聞き従う者に与えられる栄光をも見させて、「これに聞きなさい」と招いているわけです。キリストに従うとは、自分を捨てて十字架を負うことですから(16章24節)、その十字架を担うことにおいて、キリストの栄光を見ることが出来ると語られていることになります。

 

 英語で、No cross, no crown ! (苦難なくして栄光なし)というのは、このことではないでしょうか。十字架の主を仰ぎつつ、その御言葉に従って歩みましょう。

 

 主よ、日々主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けさせてください。聴くだけでなく、聴いて行う者、十字架を負って主に従う者とならせてください。かくて、キリストの言葉が私たちの心に豊かに宿りますように。しかして、心から主をほめたたえさせてください。御名があがめられますように。 アーメン

 

 

「これらの小さな者の一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」 マタイによる福音書18章10節

 

 冒頭の言葉(10節)に「小さな者」とあるのは、1節以下の段落では子供のことです。そして、子供のようにならなければ、天の国に入ることは出来ないと言われます(3節)。さらに、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(4節)と語られました。それはしかし、もう一度幼くなれ、などということではありません。

 

 子供は、ものの数に入れられない、無力で無価値なものだと、イスラエルにおいて軽んじられている存在でした。才能があっても、力があっても、それが認められ、正当に評価される子は殆どいません。ですから、親の庇護のもとにいます。その謙虚さ、虚飾のなさ、地位への無頓着さのゆえに、「いちばん偉い」と評価されているのです。

 

 そこで、子供のようになるというのは、自分を完全に神の御手に委ね、その導きに従うということを言っているわけです。貧しくてよい、小さくてよい、ありのまま、そのままで主なる神に頼り、その恵みを喜ぶのです。

 

 その者が一番偉いのであれば(4節)、その人は、無価値とされている子供のような人を受け入れるでしょう。そして、そのような一人を受け入れる人は、主イエスを受け入れる人だと言われています(5節)。言い換えれば、神の御国は、そのような人を受け入れるところであり、主ご自身がそのような人を受け入れることを喜びとされているのです。

 

 そう考えると、低くされること、小さくされることも、神の恵みの賜物ということになります。私たちは、低くされること、小さくされること、それが強要されることを決して喜べません。自分が正当に評価されないと、それを不当だと感じますし、時には、侮辱とさえ思います。

 

 しかし、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章6節)と言われます。「神の力強い御手」とは、だれもそれに抵抗できない圧倒的な力を言い表すものかも知れません。自分を不当に低く見た評価、小さい存在とする侮辱的な扱いが、憐れみ深き神ご自身によるものと考え、一切を御手にお委ねせよということです。

 

 だれでもすぐに出来るとは思いませんが、神はその人を高められると約束されています。それだけでなく、神の前に自らを低くされた「小さい者」は、神の庇護の下にあります。6節以下に、小さな者をつまずかせる者は、火の地獄に投げ込まれるとありますが、神が小さい者の味方をしておられるという表現です。

 

 さらに、冒頭の言葉(10節)です。「小さい者を一人でも軽んじないように」と言われます。最初に申し上げたように、彼らは軽んじられている存在です。神はそのことをご存知の上で、一人でも軽んじないようにと言われるのです。

 

 それは、「小さい者」とされている存在こそいちばん偉いものだと、主なる神が評価しておられるから、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ書43章4節)と仰っているからです。

 

 神が小さい者に味方して、いつも見ておられると仰っているのですが、ここには面白い表現があります。それは、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」という言葉です。「彼らの天使たち」とは、「小さい者」を守る天使のことです。

 

 ヘブライ書1章14節にも、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」とあります。

 

 小さい者を守る天使たちが天上にいて、「天の父の御顔を仰いでいる」とは、どういうことでしょうか。心の清い者は神を見ると言われていたように(5章8節)、彼らの天使たちは、神の御顔を拝するところに今いるのです。

 

 つまり、「小さい者」は、天において神の御顔を仰ぐことの出来る存在として、受け入れられているということです。そのように、神の目は小さい者の上に絶えず注がれているということです。

 

 この段落では、迷い出た一匹の羊が問題になっています。迷い出た一匹とは、特に価値が高いというものではありません。むしろ、群れに迷惑をかける、厄介な存在でしょう。効率性とか価値観で言えば、いないほうが群れのためになるのではないかと考えられる存在です。あの人さえいなければ、万事うまくいくのにという存在と言えばよいでしょうか。

 

 しかるに主イエスは、迷わずにいた99匹よりも、迷い出て見つけ出すことの出来たその一匹のことを喜ぶだろうと言われ(13節)、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)と結ばれました。だから、小さな者を探しに行くことが、神の御旨を行うことであり、その者を群れに迎えて共に喜ぶことを、神は喜ばれるのです。

 

 私たちも主イエスによって見出された「小さな者」であることを喜び、私たちが神の御旨を喜び行う群れとなるように、御声に聴きつつ歩んでまいりましょう。

 

 主よ、私たちは人から軽んじられることに耐えられません。少しでも大きく見られたいと、無駄にプライドをひけらかします。そしてそれが、集団の和を乱します。しかるにあなたは、人の前に低く小さくされた私たちを、御前に価高き存在として受け入れてくださいました。私たちも互いに、主に愛されている存在であることを認め合い、愛し合うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 マタイによる福音書19章23,24節

 

 一人の男が、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)と、主イエスに質問しました。この男について、20節では「青年」と言われており、22節には「たくさんの財産をもっていた」とも記されています。新共同訳はこの段落に「金持ちの青年」という小見出しをつけています。

 

 金持ちの青年の質問に対して主イエスは、「なぜ善いことについて、わたに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)と言われました。父なる神だけが善い方であり、永遠の命へと導く神の御心が、その掟に啓示されているということです。

 

 男が「どの掟ですか」(18節)と尋ねると、主イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」(18,19節)と答えられました。これらは「十戒」(出エジプト記20章1節以下)と呼ばれる掟の後半部の規定です。

 

 守るべき掟について、マルコ福音書10章19節では、十戒の第5~10戒が挙げられているのに対し、マタイは第5~9戒とレビ記19章18節、そしてルカは第5~9戒を挙げています。

 

 またマタイは、「隣人をむさぼるな」という第10戒を「隣人を愛せよ」という戒めに置き換え、22章39節に、律法全体と預言者を支える規定として、レビ記19章18節を再び取り上げています。

 

 それを聞いた青年は、「そういうことはみな守って来ました」(20節)と胸を張り、「まだ何か欠けているでしょうか」(同節)と質問します。ここに青年は、その生活に自信を持っていたのだろうと思われます。「まだ何か欠けているでしょうか」と言ってはいますが、「欠けたところはない」という答えが返ってくると考えていたことでしょう。

 

 ところが、その質問に主イエスは、青年の期待に反して「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)と言われました。

 

 彼には本当に思いがけない言葉だったのでしょう。青年は悲しみながら立ち去りました(22節)。自分の生活が自分の期待通りには評価してもらえず、主イエスの「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」という言葉に従うことが出来なかったのです。

 

 青年が従い得なかった理由を、マタイは上述のとおり、「たくさんの財産を持っていたから」(22節)と説明しています。確かに、財産を全部売り払って貧しい人に施し、無一物になって主イエスに従うというのは、誰にとっても容易く出来ることではありません。青年は、全財産を貧しい人に施し与えるのは、永遠の命を得る代価として高すぎると考えたのです。

 

 退場していく青年の後ろ姿を見送るようにして語られたのが、冒頭の言葉(23,24節)です。23節で「天の国」といった言葉を、24節では「神の国」と言っています。このつながりで、「天の国」と「神の国」が同一であることが分かります。主イエスはこれらの言葉で、永遠の命を得ることと天の国に入ることを同義として語っておられます。

 

 主イエスは、天の国に入る難しさは、らくだが針の穴を通る以上のことだという言葉で、事実上、それは不可能と言われていることになるでしょう。その言葉を聞いたとき、弟子たちは非常に驚いて、「それでは、だれが救われるだろうか」と言います(25節)。

 

 ここで、主イエスが「天の国に入るのが難しい」と言われたのを、「だれが救われるだろうか」と受けていて、弟子たちが救いを天の国に入ることと同義で考えているわけです。そして彼らは、「自分たちは金持ちではないから救われるだろう」などとは考えなかったようです。

 

 その背景には、豊かさが神から祝福されているしるしと考える考え方があるように思われます。そこで、貧しいのは、神に祝福されていないということになるわけです。ですから、神に祝福されて豊かにされている金持ちが天の国に入れなければ、いったい誰が入れるだろうかという言葉になるのでしょう。

 

 主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(26節)と言われました。つまり、救いを人が自分の知恵、力、振る舞いなどによって獲得するのは不可能だということです。ということは、青年に対して出来るはずもないことを要求されたということになるのでしょうか。それはそうかもしれません。人には出来ないということを教えたかったということでしょう。

 

 私たちが救われるのは、善い行いが出来たからではなく、神の憐れみを受けたからです。青年は、「善い方はおひとりである」(17節)という言葉を聞いたとき、気づくべきでした。それは、自分は善い者ではありませんし、善い者になることも出来ないということです。

 

 そのことは冒頭の、「らくだが針の穴を通る」の言葉からも確認されます。エルサレムには、「針の穴」と呼ばれる通用口があるそうです。外敵から町を守るために城門が閉じられた後、夜になってキャラバンが到着すると、そのために城門を開くのではなく、その通用口から中に入れるそうです。

 

 しかし、「針の穴」という名が示すように、この入り口は小さいので、らくだが荷を乗せたままでは通れません。すべての荷を下ろし、体を低くしないと通れないようになっています。そのことから、自分を誇らせるすべての物、持ち物や才能、プライドなどをおろし、すべてを主の御手に委ねるように謙るとき、はじめてその門をくぐることが出来るということです。

 

 そこで、私たちに出来るのは、主イエスに頼ること、主イエスに従うことです。そのために、持ち物をみな売り払わなければならないということではありません。持ち物の有無などは救いを保証しません。同様に、善行が救いを保証するわけでもありません。主への信頼、信仰があるかどうかが鍵なのです。

 

 主イエスが語られる言葉に耳を傾けましょう。出来ないことは出来ないと、素直に申し上げましょう。神が出来るようにしてくださるからです。

 

 主よ、あなたは私たちのことをすべてご存じです。御前にありのままで立ちます。私たちをあなたが望まれるような者に変えてください。そうして、御旨を行う者とならせてください。主の御旨だけが固く立つからです。御名が崇められますように。御国が来ますように。キリストの平和と喜びが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。」 マタイによる福音書20章14節

 

 1節以下の段落は、「ぶどう園の労働者のたとえ」と呼ばれる、主イエスのたとえ話です。このたとえ話の結びに、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)と記されています。これは、19章30節の「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉を説明するために、このたとえ話が語られたことを示すかたちになっています。

 

 このたとえ話には、不思議なことが書かれています。というのは、ぶどう園の主人が労働者を雇うために、夜明けの6時、朝9時、昼12時、3時に出かけて行き、そして夕方5時にも出て行って、人を連れて来たというのです(2,3,5,6節)。

 

 そして夕方6時、賃金を支払うときが来ました(8節以下)。そのとき、夕方5時に雇われた者たちから支払いを始めて、その日雇われた労働者全員に1デナリオンずつ支払ったというのです(9,10節)。不思議なことというのは、支払った報酬が全員同額の1デナリオンだったというところです。

 

 朝6時に雇われた者たちは、夕方5時に雇われた者たち、即ち1時間しか働かなかった者たちが1デナリオンの賃金を受けたのを見て、朝6時から働いてきた自分たちは、よほど沢山もらえるだろうと期待したのに、同じ賃金だったので、文句を言ったとあります(11,12節)。

 

 それに対する主人の答えは、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか」(13節)というものでした。確かに、その通りではあります(2節参照)。

 

 そうして、冒頭の言葉(14節)の通り、雇った全員に同じだけ支払ってやりたかったのだと言い、続く15節で、「自分のものを自分のしたいようにするのは、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と問い返されます。

 

 「気前のよさ」には「善(アガソス)」という言葉、「ねたむ」には「邪悪な(ポネーロス)目(オフサルモス)」という言葉が用いられています。主人の「善」(気前のよさ)と最初に雇われた者の「よこしまな目」(ねたみ)が対比されているのです。

 

 それは、確かにそうです。しかし、どうも合点がいきません。なぜ、12時間働いても、1時間しか働かなくても、賃金が同じなのでしょうか。それなら、自分も1時間で1デナリオンの約束をするんだったと思うでしょう。5時に雇われたらよかったと思うでしょう。これは、どう考えればよいのでしょうか。

 

 この話は、「天の国は次のようにたとえられる」(1節)で始まるたとえ話です。天の国というのは、神が支配しておられるところ、神の王国という意味です。神の王国で、王たる神が御自分のしたいことをなさる、つまりその御心のままに振舞われるというのは、当然のことでしょう。

 

 そして、神の御心は「気前のよさ=善(アガソス)」なのです。私たちはその御心が、この地上のどこででも行われることを願っています。主イエスは、このたとえ話の中で、神の御心がどこにあるかという話をされているわけです。

 

 一方、最初に雇われた者は、働きに対する報酬を考えています。それは当然のこととして、この話の前提になっています。主人はどの労働者に対しても、報酬として1デナリオンを支払いました。最初に雇われた者は、労働時間と賃金を比較したのです。労働時間と賃金を比較し、主人の「気前のよさ」に対して文句をいうことを、「ねたみ=よこしまな目(ポネロス・オフサルモス)」と言っています。 

 

 主人として語られる神は、すべての人を天の御国に招きたいのです。ぶどう園の話から、天の御国に招かれるというのは、何不自由なく遊び暮らすということではなく、そこでなすべき務めが与えられると読みたいと思います。生き甲斐というのは、なすべき務めがあって生まれるものだと思われるからです。

 

 早くから天の国に招かれて務めを与えられた者と、最後にようやく招かれて少ししかその務めを果たすことが出来なかった者と、あなたはどちらになりたいですか。どちらがよいと思いますか。天の国で本当にやりがいのある仕事が出来るのであれば、早く雇われた方が幸せだとは思われませんか。

 

 そのとき、報酬がいくらであるかは、それほど大きな問題ではないでしょう。食べることが出来るなら、自分の望む働き甲斐のある仕事を選ぶでしょう。賃金が多少多くても、望まない仕事をする気にはならないでしょう。

 

 天の国とは、死後の世界ではありません。ぶどう園はイスラエルを意味する表象です(イザヤ1節以下、エレミヤ12章10節など) 。主なる神は、よいぶどうを実らせるぶどう園として、ご自身の善=気前のよさによってイスラエルを恵みで満たしたいのです。 

 

 私たちが神の気前のよさ=善を受け取るなら、私たちの生活は神の恵みが支配するところとなるでしょう。私たちの心に天の国が設けられるのです。私たちの家庭も天の国となるでしょう。何より、教会が天の国であるべきでしょう。

 

 教会で沢山働く者も、少ししか働けない者も、同じ報酬です。でも、早く招かれ、長く奉仕をすることが出来る者は幸いです。それは何より、主とお交わりする喜び、主が共におられる平安、主の御心を行う充実感を味わうことが出来るからです。そしてそれは、他では得られない恵みなのです。

 

 であれば、一番最後に雇われた人々が、最初に主なる神の恵みに与る者として呼び出されたとき、ほかの者たちも主の気前のよさを喜ぶことが出来たでしょう。それに対して、先に雇われて長時間働いていたとはいえ、主人に不平を言う者は、最後に廻され、恵みに与り損ねてしまうかも知れません。

 

 私たち日本人は、まさに最後の者として主の福音に触れました。主の気前のよさを味わった者として、その恵みを無駄にしないよう、日毎に主の御声に耳を傾けましょう。主の使命を全うできるよう、聖霊の満たしと導きを求めましょう。

 

 主よ、最後の者として私たちを憐れみ、御国の恵みに与らせてくださったことを心から感謝致します。召しに与った者として、恵みを無駄にしないよう、聖霊に満たされ、力を頂いて、主の使命を精一杯果たさせてください。この地に、御心がなされますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」 マタイによる福音書21章7節

 

 フィリポ・カイサリアでペトロの信仰告白を受けた後(16章13節)、受難を予告し始められた主イエスが(同21節以下)、いよいよ、エルサレムの都に到着されます。マタイ福音書では、主イエスがエルサレムに来られるのは、これが最初で最後です。

 

 そのことで、主イエスの公生涯は、通常、ヨハネ福音書の記事に基づいて、3年半ほどと考えられています。けれども、共感福音書と呼ばれるマタイ福音書やマルコ福音書、ルカ福音書の記事から、主イエスのエルサレム訪問がただ一度だけだったとすれば、公生涯はおよそ1年ほどだったのではないかと想定する学者もいます。

 

 いずれにしても、決して長い期間ではありません。1年ないし3年半という短い期間の宣教活動、公生涯によって、主イエスは世界の歴史に今も影響を与え続けているわけです。このことも、主イエスが神の子メシアであることを証ししていると思います。

 

 主イエスは、エリコから(20章29節)オリブ山を越えて東からエルサレムに近づきます。オリブ山の南麓に「ベトファゲ」(「いちぢくの家」の意)村があります(1節)。その村からろばを引いて来させ(2節)、それに乗ってエルサレムに入城されます(7節)。

 

 大勢の群衆が、自分の上着や木の枝を切って道に敷き(8節)、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(9節)と叫びながら主イエスを迎え、その後について行きました。

 

 「ホサナ」は「ホーシーアー・ナー」というヘブライ語のギリシア語音写で、「どうか、救ってください」という言葉です。詩編118編25節の「わたしたちに救いを」と訳されているのが、その言葉です。詩編では「救ってください」という願いに続けて、「わたしたちに栄えを」(ハツリーハー・ナー)という祝福祈願をしています。

 

 同26節に「祝福あれ、主の御名によって来る人に」とあることから、「ダビデの子にホサナ」は、原語の意味が自分たちの救いや祝福を求める祈願から、「ダビデの子に祝福あれ」と歓呼する言葉に変化してしまっているようです。

 

 ところで、主イエスのエルサレム入城を描く際、マタイは不思議なことを記しています。それは、他の福音書とは異なり、2頭のろばを登場させているところです。

 

 二人の弟子がろばを探しに行くと、主イエスの言われたとおり、ろばと子ろばがつながれていました(1~6節)。それで、冒頭の言葉(7節)のとおり、二人は上着を脱いで、2頭のろばにかけました。主イエスはその上にお乗りになったというのです。

 

 この情景を想像してください。エルサレム入場の際に、小さいろばがその背に主イエスを載せてよろよろ進む、子ろばにとってそれは大変な仕事ですが、しかし、とても光栄な仕事といった印象があります。

 

 そこに親ロバもいたとなると、親子2頭のろばに主イエスはどのようにお乗りになったのでしょうか。両方にまたがられたのでしょうか。親ろばに乗られて、子ろばに足をかけたというようなことでしょうか。あるいは、2頭のろばにかけた上着をハンモックのようにして、そこに乗られたということでしょうか。

 

 いずれも、ちょっとあり得ない感じではないでしょうか。強いて考えれば、最初に親ろばに乗り、その後、子ろばに乗られた、あるいはその逆順に乗られたというのが、一番ありそうなことでしょう。注解書には、子ろばが大群衆の中を落ち着いて歩くことが出来るように、親ろばを一緒に連れて来たのだろうと記されていました。

 

 ただ、「ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」というのを、注解書のように解釈できるでしょうか。「その(上に)」(アウトーン)も、「服」(ヒマティア)も、そして、「それ(にお乗りになった)」(アウトーン)も、原文は複数形なのです。素直に読めば、二人が自分の服をそれぞれのろばにかけ、主イエスが2頭のろばにお乗りになったということになるでしょう。

 

 これは、旧約聖書の預言に従ったという表現で(4節)、5節に「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」という、ゼカリヤ書9章9節からの引用があります。これで、「ろばに乗り」、さらに「子ろばに乗って」と言われているので、2頭のろばが登場し、そしてそれらに乗られたということなのです。

 

 実は、ヘブライ語の詩文の形式で、同じ事柄を二重に表現する並行法というのがあります。ですから、「ろばに乗り」と「子ろばに乗り」の二つをつなぐ接続詞は、「そして」ではなく、「即ち」なのです。つまり、「ろばに乗り、それは即ち、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と読むのです。

 

 ところがマタイは、そうしたヘブライ語の文法を考えずに、文章どおり、「ろばに乗り」、そして「子ろばに乗って」と解釈して、2頭のろばを登場させたのです。しかしこれは、マタイの勘違いなどではないかも知れません。

 

 ある学者は、マタイが母ろばを登場させているのは、ヘブライ語の並行法を誤解したからではなく、子ろばの未熟さを強調する手段で、子ろばを母ろばから離すことが出来ず、近いところにいさせなければならなかった、それほど小さなろばだったのだと説明しています。

 

 また、マタイの信仰に基づいて、敢えて2頭を登場させたかったのではないかという考え方もあります。というのは、この直前の20章29節以下の「二人の盲人をいやす」という記事も、他の福音書の並行箇所を見ると、盲人は一人ですが、マタイは二人にしているのです。

 

 二人ということで思い出されるのは、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という主イエスの言葉です(18章19,20節)。

 

 盲人二人が心を合わせて主イエスに呼ばわり、憐れみを願ったとき(20章30,31節)、主イエスは彼らの願いに応えられました(34節)。それと同様、二頭のろばが主のために奉仕しています。そこに主が共におられ、それを喜んでくださっているというわけです。

 

 このメッセージを伝えたくて、マタイが敢えてこのように記しているのではないかと考えるのです。そして、これが一番確かなのではないかと思われます。確かに、私たちが、夫婦で、親子で、家族で、友だち同士、近所仲間で心を合わせて祈ることが出来れば、力を合わせて主のためにご奉仕出来れば、どんなに幸いでしょうか。主はそのような祈りに応え、そのような奉仕を喜んでくださるからです。

 

 どんなに未熟であろうと力が足りなかろうと、「お入り用なのです」とお召しくださる主に応えるなら、その姿が他者の目にどのように無様に映ろうと、その応答を私たちの信仰として喜ばれ、必要な力を授けてくださるでしょう。それによって、主の救いのみ業は着実に進められていくのです。

 

 主よ、私たちは、まだ荷を運んだことがない子ろばのように、役に立つ知恵も力も経験も足りない者です。しかし、二人が地上で心を合わせるなら、かなえてあげよう。二人三人が主の御名によって集まるなら、わたしも共にいると約束してくださいました。私たち皆で心を合わせて祈ります。どうか、私たちの願いを聞き届けてください。主よ、私たちをあなたの御用のために用いてください。そして、御名の栄光を表してください。 アーメン

 

 

「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」 マタイによる福音書22章37節

 

 21章23節から22章46節までの間、主イエスとイスラエルの宗教指導者たちとの間に五つの問答が交わされ、三つのたとえ話が語られています。

 

 問答の四つ目までは、宗教当局者たちから投げかけられたもので、主イエスを捕らえ、処罰する口実を得ようとするものでした。それに対して三つのたとえ話(21章28節~22章14節)は、指導者たちによる主イエスの拒絶という主題に基づいて、主イエスによって語られた三部作でした。

 

 四つ目の問答(34節以下の段落)には、「もっとも重要な掟」という小見出しがつけられています。ファリサイ派の人々の一人、律法の専門家が主イエスに「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(36節)と尋ねました。

 

 そのとき主イエスは、冒頭の言葉(37節)を引用され、「これが最も重要な第一の掟である」と言われました(38節)。この言葉は、申命記6章5節にあります。

 

 それに続けて、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(39節)と言われました。この言葉は、レビ記19章18節にある御言葉です。よく知られている重要な御言葉ですが、この「隣人愛」の規定が、献げ物や安息日などが規定されているレビ記にあるのは意外という方がおられるかも知れませんね。

 

 主イエスはこのように、最も重要な掟として第一、第二の掟二つを挙げ、そして、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(40節)と結ばれました。「律法(トーラー)」と「預言者(ネビーム)」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書は、神を愛することと、隣人を自分のように愛すること、この二つの教えに基づいて書かれた、つまり、この二つが聖書の中心だと、主イエスは仰ったのです。

 

 「神様を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」、どちらも「愛しなさい」という命令です。けれども、愛は命じられてするというものではないでしょう。愛しなさいと命令されて、それで愛せるようになりますか。どうでしょう。

 

 なぜ、愛しなさいと命令されているのでしょうか。それは、聖書に記されている「愛する」というのが、感情ではなく、対象者を大切にするという意志を持つことを意味しているからです。そして、その命令は、だれに対してその意志を持つべきなのかを明示しています。

 

 そして、私たちに愛を命じておられる神は、私たちを限りなく愛しておられます。私たち一人一人を本当に大切な存在だと思っていてくださいます。その愛を受けて、その応答として神を愛する、大切に思うということです。

 

 そして、隣人を愛しなさいと言われることで、神が私たちだけでなく、私たちの周りにいる人々のことも愛しておられるということに気づかされます。神が大切にしておられる人を私も大切にしたいと思う、それが神を大切にすることでしょう。その意味で、隣人を愛することと神を愛することは、コインの裏表ということです。

 

 こういう面白い話を聞いたことがあります。

 

 一人の男の子がある日、夢を見ました。なぜか、町中の人の両腕が、ナイフとフォークになっていました。食事に好都合な腕です。ところが、町の人はみんな、おなかをすかしてプンプンと腹を立てています。理由を尋ねると、ひじが曲がらないので、フォークの先の食べ物が口に運べないというのです。確かに、ひじが曲がらなければ、腕を伸ばしたままの状態で食事をすることは出来ません。

 

 困ったなあと思いながら、男の子は、別の町に行ってみました。その町の人もやっぱり、両腕がナイフとフォークでした。でも、その町の人たちは、ニコニコしています。理由を尋ねてみると、その町の人々はちゃんと食事をしているそうです。この町の人も、同じようにひじは曲がらないのです。どうしたら食事が出来るのでしょうか。

 

 鍵は、愛です。愛があれば、問題を解決することが出来ます。確かに、一人では食べられません。けれども、人から食べさせてもらうことは出来ます。自分も他の人に食べさせてあげることは出来ます。その町の人は、みんなで仲良く食べさせてあげて、おなかいっぱいだから、ニコニコしていたわけです。

 

 もしも、自分の嫌いなものばかり、差し出されたら困ります。他の人に嫌いなものばかりあげたら、嫌われてしまいますね。そうならないために、どうしたらいいんですか。食べたいものを食べさせてもらえばいいんですね。そうして、お互いが気持ちよくなるように、相手のことを考えて、助け合うんです。

 

 助け合う気持ちを忘れて、皆がわがままをしたら、けんかになってしまいます。国と国とがけんかをしたら、戦争になります。戦争はイヤです。皆が仲良くしてほしいと思います。世界中が愛し合って、助け合って、皆が幸せになれるように、気持ちよくなれるように、努力してほしいと思います。

 

 神が私たちを愛してくださったように、私たちも愛の神を愛し、そして、お互いに愛し合う者にならせて頂きましょう。 

 

 天のお父様、私たちを神の子とするために、どんなに大きな愛を与えてくださったことでしょうか。考えてみると、ただただ感謝のほかありません。本当に有難うございます。私たちも、神様から愛されているその愛で、神様が愛しておられる隣人、私たちの周りにいる人たちを心から愛する者とならせてください。神様の恵みと導きが、いつも豊かにありますように。 アーメン

 

 

「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 マタイによる福音書23章39節

 

 23章には、先ず律法学者、ファリサイ派の人々を非難する言葉が語られます(1~36節)。このとき主イエスは、ファリサイ派の人々に向かって直接これを語っているわけではありません。聞き手は「群衆と弟子たち」です(1節)。つまり、イスラエルの民とその指導者たちを非難・攻撃しているのではなく、守り行うべき教え、聞き従うべき指導者は誰かを提示しているのです。 

 

 それに続いて、「エルサレムのために嘆く」主イエスの言葉が記されています(37節以下)。この言葉を繰り返し読んでいると、この非難の言葉は、エルサレムの町に対するものというよりも、イスラエルの民全体のことを指していて、特にその指導者に対する非難であるということが伝わって来ます。

 

 21章1節以下のエルサレム入城の記事以前に、主イエスがエルサレムの町に来られたことを示す記事は、マタイにはありません。16章21節以来、まっすぐにエルサレムを目指して進んで来られました。そこに記されていたのは、主イエスがエルサレムで祭司長、律法学者らによって多くの苦しみを受けて殺されるという受難予告でした。

 

 それまで主イエスは、ガリラヤ地方において、弟子たちと共に町々村々を巡り歩きながら権威をもって神の国の福音を語り(5~7章)、人々の病いを癒し、悪霊を追い出しておられました(8~9章)。

 

 そのような主イエスの善き業を伝え聞いていたので、エルサレムの人々は、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(21章9節、15節も)とほめ讃えながら、主イエスの入城を迎えたのです。

 

 けれども、彼らは主イエスがどなたであられるのか、正しく理解していたわけではありませんでした。ですから、何日もしないうちに、宗教指導者たちに扇動されて「十字架につけろ」(27章22節)と叫び出し、そして、主イエスが十字架につけられると、「今すぐ十字架から降りるがよい、そうすれば、信じてやろう」(同42節)と嘲笑するのです。

 

 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(37節)というのは、神がその民を守るという表現です。しかし、民は主イエスの招きを拒絶してしまいます。神の守りを拒否するのですから、その結果は、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(38節)ということになるわけです。

 

 「お前たちの家」(ホ・オイコス・フモーン:the house of you) とは、「家」が冠詞つき単数形で語られているので、エルサレムの神殿を指すと考えられます。神殿が見捨てられるとは、主なる神が神殿におられないということであり、イスラエルの民の祈り、献げ物を主がお受けにならず、むしろ見捨てられ、その結果、荒れ廃れてしまうというのです。

 

 それはエゼキエル書10章18,19節に「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まったイスラエルの神の栄光は高くその上にあった」と語られていた言葉を思い起こさせます。

 

 これは、主なる神の栄光が神殿から去り、バビロンのケバル川の河畔に飛んで行ったという言葉です。主の栄光が去った後、エルサレムは主なる神の加護を失ってバビロン軍によって陥落(列王記下25章6節以下)、神殿は破壊され、町もろとも焼き捨てられてしまいました(同9節以下)。

 

 しかしそれは、主が神殿を見捨てたからというより、イスラエルの民が主に背き続けたことのゆえに、彼らは既に主の民ではなかった、主の民としてのイスラエル全家は、もはや体をなしていなかったということになります。

 

 そうして新約の時代、天の父が遣わした神の御子イエスを拒絶することで、再び、神殿の崩壊、国の滅亡を味わうことになると、ここに告げられているのです。確かに、この後イスラエルはローマとの戦いに敗れ、神殿は壊され、国は滅びてしまいました。紀元70年のことです。

 

 冒頭の言葉(39節)で、「今から後、決してわたしを見ることがない」というのは、主の栄光が神殿から飛び去ったように、主が姿を隠される言葉と見ることが出来ますが、しかしそれは、十字架で殺され、墓に葬られるということです。

 

 しかも、殺そうとする者に向かって語られた言葉なのですから、恨めしや、呪ってやる、たたってやるという表現のように聞こえます。そういう意味が全くないとは言えないようにも思いますが、しかし、決して呪いではありません。というのは、彼らが主の姿を見ないのは、「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで」と言われているからです。

 

 「主の名によって来られる方に、祝福があるように」というのは、「ダビデの子にホサナ」と、歓呼の声をもって主イエスのエルサレム入城を歓迎した言葉です。主イエスを十字架につけて殺そうとしている者たちが、それを言うようになるということは、主イエスがもう一度、エルサレムにやって来られるということになります。

 

 即ち、これは、主イエスがこの世を審くために再びおいでになるという預言でしょう。そのとき、「十字架につけろ」、「十字架から降りたら、信じてやろう」と言っていた者たちが、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、歓呼の声をもって迎えるようになるというのです。

 

 それは、主イエスが十字架の死と復活、昇天によって、人々の罪の呪いをご自分の身に受けられ、あらゆる人々を罪の呪いから解放し、救う命の道を開かれたからです。人の子が神の栄光をまとい、天から再びおいでになるとき、人々は、王、裁き主、世界の主としてメシア・イエスを迎えることになるのです。

 

 救い主イエスを喜びをもって絶えず心の王座に迎え、その御言葉に従って歩みましょう。

 

 主よ、私たちはかつて、あなたを知らず、わがまま勝手に主に背く者として過ごしていました。しかし、あなたは私たちを愛して、その罪の呪いから解放してくださいました。どうか私たちの心の王座におつきください。そして、私たちの人生の主、王として私たちの人生を導き、御心のままに主の御業のために用いてください。主の御名によってこられる方に、世々限りなく栄光がありますように。 アーメン

 

 

「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」 マタイによる福音書24章46節

 

 24章には、主イエスによる神殿崩壊予告と(1,2節)、「そのことはいつ起こるのですか」(3節)という弟子たちの問い、その問いへの主イエスによる答えが語られています(4節以下)。

 

 「人に惑わされないように気をつけなさい」(4節)、「その日、そのときは、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(36節)という言葉に示されるように、主イエスは私たちに、熱狂的な終末待望に陥らないよう、落ち着いた生活をさせようとしておられます。

 

 この段落で興味深いのは、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40,41節)と語られている部分です。同じ仕事をしていて、連れて行かれる者と残される者があるというのです。

 

 分けられる規準は明記されていません。しかし、文脈から、そのときに何をしていたかということが問題ではないのです。目を覚ましていたか、世の終わりの到来をわきまえていたか、主人の帰りを待っていたか、その心構えが問われているわけです。

 

 ということは、23章ではイスラエルの民とその指導的立場にいる律法学者、ファリサイ派の人々に対する警告が語られていましたが、24章では教会に集う者たちに対する警告が語られていると読むべきだということになります。教会堂という建物が私たちを守ってくれるわけではありません。教会の一員であるということが、救いを保証しているわけでもありません。

 

 同じ仕事をしながら、同じ場所にいて、一人は連れて行かれ、一人は残されるというのは、そのことです。私たちは主イエスが語られた言葉を信じて、世の終わりの到来と、主イエスによる最後の審判に向けて、心備えをしていなければならないということになります。

 

 ですから、「目を覚まして」とは、文字通り24時間寝ないでということではありません。今日か明日、主イエスが再臨されるというならともかく、1年後、2年後、10年後、もっと後かもしれません。それまで寝ないでいることなど、誰にも出来はしません。たとえそれが明日であっても、はたまた、自分の死後であってもよいように備えることです。

 

 その心構えについては、「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と冒頭の言葉(48節)で語られているとおりでしょう。この僕は、主人が留守の間、主人から言われたとおりの仕事をしていました。ということは、この僕は、主人がいつも家にいると思って仕事をしていたのです。

 

 主人が家にいないとなれば、仕事が疎かに、いい加減になるのが、私たちの常でしょう。この僕がそうしなかったのは、主人に命じられた仕事をすることが楽しかったのではないかとも思います。言われたとおりに仕事を果たすのが楽しみであれば、それを命じた主人がいるかどうかは、問題ではなくなります。

 

 その上、それを命じた主人が、やがて戻って来て、その仕事の出来栄えを見てくれるのです。そう思えば、心を込めて丁寧によい仕事をするでしょう。つまりこれは、主人と僕との間の信頼関係ということです。主人が留守の間の仕事が託されたというのを、主人の自分に対する信頼であると受け取り、その信頼に応える仕事をするということです。

 

 私は、自分が24時間監視されて、神が命じられたとおりの生活をしているから大丈夫と胸を張れる人間ではありません。しかし、主が私と共にいて、私を見ておられるのは、私を監視して仕事振りをチェックするためではなく、私の必要を満たし、助けを与えてくださるためです。その愛と恵みを味わう度に、不十分ながら、なんとかして主の使命を果たしたいと思うのです。

 

 無に等しい者を敢えて選ばれ、宣教の使命をお与えくださった主に感謝しましょう(第一コリント書1章28節)。それは、私たちの知恵や力で行えるものではありません。それこそ、取るに足りない、無に等しい、世において卑しめられ、見下げられている子どものような存在だからです。ゆえに、主に頼ります。主を信じます。精一杯行って、結果は主に委ねます。

 

 使徒パウロが、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」(第一コリント書1章30,31節)と語っています。 

 

 私たちを愛し、私たちのために購いの業を成し遂げられ、神の子としてくださった主を誇り、主を喜ぶ生活をしましょう。

 

 主よ、取るに足りない私たちをも神の子として愛し、そして大切な使命をお授けくださいました。主の御心がなされるよう、必要な知恵と力を絶えず授けてください。何よりも、忠実と従順、喜びをもって主にお従いすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に壺に油を入れて持っていた。」 マタイによる福音書25章4節

 

 天の国のたとえ話として、「十人のおとめがそれぞれともし火をもって、花婿を迎えに出て行く」と1節に記されています。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と2節で言われますが、その賢さ、愚かさは、学歴やIQなどで測れるものではなさそうです。ここでは、花婿を出迎えるために油を用意していたかどうかが問われているのです(3,4節)。

 

 油を用意するのが普通なら、それを忘れることはないでしょう。もしも、花婿の到着が遅くならなければ、壺の油は必要なかったと思われます。ところが、その「もしも」が起きてしまいました。花婿の到着が遅れたために、おとめたちは皆眠り込んでしまい(5節)、いつの間にかともし火が消えかかっています。

 

 そこに、「花婿の到着だ、迎えに出なさい」(6節)という声がします。ときは「真夜中」、そこで慌ててともし火を整えます(7節)。油を用意していなかった者が、用意していた者に油を分けてくれるよう頼みますが(8節)、分けてあげるほどはないと断られました(9節)。

 

 店に買いに走っている間に花婿が到着し、賢いおとめたちも婚礼の間に共に入って、戸が閉められてしまいました(10節)。遅れて戻って来た五人は閉め出されしまい、「御主人様、御主人様、開けてください」(11節)と願いますが、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」(12節)と言われてしまいます。花婿の出迎えも出来ないような者に用はないと言わんばかりです。

 

 ここで、「天の国」とは、花婿を迎えて婚宴の席を整えるところ、そこで開かれる宴を楽しむところと考えられます。この話は、その交わりから閉め出されることがあるという、警告になっているわけです。だから、そうならないよう「目を覚ましていなさい」(13節)というのです。

 

 話の中では、賢いおとめたちも眠り込んでいたわけですから、花婿の到着前に眠りに落ちていたことが「愚か」と言われているのではありません。これは、持っていたともし火の油が切れて、消えそうになっていることに気づくのが遅れるという舞台設定ですね。

 

 この話の要点は、花婿がいつ到着するのか、知らされていないというところにあります(13節)。そのために、いつ来られてもよい備えをしなさいということです。その備え、即ち、油の用意が出来ている者を「賢い」と言い、また、「目を覚まして」(13節)いると表します。そして、油の備えのない者を「愚か」と言っているわけです。

 

 たとえば、客がいつ来るのか知っていれば、掃除を済ませて迎える用意が出来ますが、分かっていなければ、突然やって来た客に散らかったままの部屋を見られてしまいます。だから、いつも掃除をして、誰がいつ来られてもよい備えをしなさいということになります。

 

 賢い、愚かといえば、「山上の説教」(5~7章)の最後に、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(7章24節)、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(同26節)と語られていました。

 

 24章46節の言葉とあわせて、常に主の御言葉を聞いて行う姿勢を持っている者は、賢い者として宴会の喜びに招き入れられ、聞いても行わない者は愚か者として閉め出されると考えられます。どうせ宴会には迎えていただけるのだからと高を括らないで、この警告の言葉に心して耳を傾けるべきでしょう。神を畏れるべきです。それ以上に、主の到来を喜び待つ心備えをしたいものです。

 

 あらためて、油の「壺」という漢字をよく見ると、何とそこに、十字架が入っているではありませんか。パウロが、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(第二コリント書4章7節)と言っています。

 

 確かに、油を入れるための「壺」は、土の器でしょう。私たちは、「宝」に相応しい宝箱などではなく、もろく無価値な「土の器」でしかないかも知れません。けれども、主なる神はその「土の器」に「宝」を入れてくださいました。「キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」(同6節)を委ねてくださったのです。

 

 それはまた、福音宣教の力といってよいでしょう(同5,6節)。そしてそれは、聖霊によって与えられるものです(使徒言行録1章9節)。そうすると、壺に油を入れて持っておくということは、主イエスの十字架から注がれる聖霊の油を持ちなさいということになるのではないでしょうか。

 

 それはまた、キリストの言葉を豊かに宿らせるということでもあります(コロサイ書3章16節、エフェソ書5章18節との関連で)。聖霊の導きを祈りつつ、日々主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。 

 

 主よ、愚かで怠惰な者をお赦しください。いつも目覚めていて、主を迎えるよい備えが出来るよう、日々御言葉をお与えください。御言葉を悟る光、聖霊の導きをお与えください。キリストを私たちの心の中心、生活の真ん中にお迎えします。 アーメン

 

 

「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」 マタイによる福音書26章12節

 

 1節に「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」とあります。「語り終える」は、「テレオー(終わる、完了するの意)」のアオリスト(不定過去)形が用いられています。アオリストは、ギリシア語文法で一回的な出来事があるとき生じたということを示すものです。主イエスの御言葉を聞くべきときは、ここで終わりを告げたのです。

 

 主イエスはそこで、「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(2節)と言われました。これまで三度、受難と復活を予告して来られましたが(16章21節以下、17章22,23節、20章17節以下)、いよいよそれが実現するときがやって来ました。

 

 その日、ベタニアで重い皮膚病の人シモンの家に招かれました(6節)。彼は、主イエスに重い皮膚病を癒していただいたという人ではないでしょうか。重い皮膚病を患った人は宗教的に「汚れた者」とされ、他者と交わりを持つことは許されませんでした(レビ記13章)。主イエスに癒しを願ってのことらならば、そう記されたはずでしょう。けれども、ここには、それをほのめかす言葉もありません。

 

 癒されてなお、「重い皮膚病の人」という病名で紹介されるというところに、この病気を患った人に対する差別を見ることが出来ます。彼は、重い皮膚病を患ったことだけでなく、このような差別によって傷つけられ、苦しませられていたことでしょう。しかし、主イエスによって病気が癒され、喜んで一行を食事に招いたのです。

 

 そこに、一人の女性が極めて高価な香油の入った壺を持って来て、主イエスの頭に注ぎかけました(7節)。それは、思いがけない出来事でしたが、それを見た弟子たちは、何という無駄遣いをするのかと憤慨します(8節)。マルコは、この香油が300デナリオン以上もする高価なものだと言います(マルコ福音書14章5節)。

 

 確かに、一度に全部注ぎかけるというようなことをしなくても、数滴垂らすだけで十分よい薫りがしたと思います。残りを主イエスに差し上げて、お使いくださいということもできたでしょう。また、彼らが言うように、貧しい人に施すというのも(9節)、神に喜ばれるよいことでしょう。

 

 しかし、主イエスご自身は彼女を咎めた弟子たちに、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(10節)と言い、女性の行為を「良いこと」と受け止められました。それは、「わたしを葬る準備をしてくれた」(12節)という、良いことだというのです。死者に香油を注ぐ行為は、ユダヤにおいて、良い業と考えられていたようです。

 

 葬りと香油ということでは、主イエスが十字架から下ろされた後、急いで葬られたので、香油を塗ることができませんでした。そこで、安息日の翌日、女性たちが香油を持って墓に急ぎましたが、既に主は甦っておられ、やはり、香油を塗ることができませんました。そう考えると、この女性がここで香油を注いだのは、摂理的な葬りの準備だったのです。

 

 この女性がどういうつもりでそれをしたか、ここには明言されておりません。しかしながら、少なくとも、女性が主イエスの葬りの準備をしようなどと考えていたとは思えません。女性がどういう素性かも記されませんが、病気を癒していただいたシモンの家族、彼の母親、もしくは姉妹と想像してもよいでしょう。

 

 そう考えてみれば、それは、感謝のしるしということになります。それも心ばかり、ほんのちょっぴりというのではなくて、それこそ家の宝をすべてささげるというような感謝の表し方だったわけです。一度に全部注いだということで、それが計算づくではない、むしろそうせずにはおれないという行為だったと思われます。

 

 良いことをしようと考えて行ったわけではないその行為を、主イエスが自分に対して良いことをしてくれたと評価されたのは、6章3,4節の施しの精神を、彼女がここで実行したからと見ることも出来ます。御言葉を実行することを、確かに主は喜んでくださるのです。

 

 さらに、油を注ぐというのは、主イエスがメシア、油注がれた者であるという表現です。十字架につけられるというときに、そのお方こそ油注がれた王の王、主の主であるというのが、彼女の示した信仰の表明と見られたわけです。ですから、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(13節)と評価されるのです。

 

 それは即ち、この女性のしたことが、主イエスの死と復活を明言する最初の告知になったということです。女性の名も知らされず、その後、彼女がどのような運命をたどったのかも全く不明ですが、しかし、確かにこの女性のしたことは、マタイのほか、マルコ、ヨハネの福音書にも記されて、世界中で語り伝えられています。

 

 主イエスは、私たちが自覚しないままでなした感謝の行為を、このように最大級の評価をもって喜んでくださるお方なのです。主に感謝のいけにえ、御名をたたえる唇の実を絶えず献げましょう。

 

 主よ、私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を賜ったことでしょうか。そればかりか、私たちはいつも数えきれないほどの恵みに与らせていただいています。心から感謝します。そして、どんなときにも主への感謝を忘れない者とならせてください。心から唇の実、感謝と賛美のいけにえを献げます。主の御名があがめられますように。 アーメン

 

 

「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」 マタイによる福音書27章5節

 

 3節に「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が降ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」とあります。これは、イスカリオテのユダの自殺について報告する段落の初めの言葉です。4つの福音書の中で、ユダの自殺を報告しているのは、マタイだけです。使徒言行録は、神の呪いを受けて命を落としたように表現しています(同1章18節参照)。

 

 イスカリオテのユダがなぜイエスを裏切り、祭司長たちに売り渡したのかということについて、銀貨30枚が欲しかったからというのが(26章14節以下参照)、一番分かりやすい理由の説明です。銀貨30枚は、出エジプト記21章32節によれば、奴隷一人の値段でした。 

 

 ヨハネ福音書12章6節に、ユダは金入れを預かっており、そして、その中身をごまかしていたと記されています。金銭に関係する誘惑から完全に自由な人はいません。ですから、誘惑に陥らないように自らを律していかなければなりません。

 

 しかし、主イエスに有罪判決が出たことを知って、ユダは後悔しました。「後悔する」とは「心を変える」(メタメロマイ)という言葉で、ユダはそのとき、主イエスに有罪判決が降るなどとは、考えていなかったのです。ユダは祭司長たちにイエスの身柄を引き渡す協力をしましたが、取り調べを受けて無罪放免になるはずと思っていたのでしょう。

 

 ところが、ユダが考えていたようには、ことは進みませんでした。むしろ、思いもしない方向へ転がり出してしまったのです。それで、自責の念に駆られたのでしょう。受け取った銀貨三十枚を祭司長、律法学者たちに返そうとして(3節)、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4節)と言います。

 

 これは、二つの裁判を行ってくれるようにという申し立てです。一つは、主イエスの裁判のやり直しを求めるものです。主イエスは、罪を犯したことのない方なのだから、有罪になるのはおかしい。自分は主イエスを祭司長たちに売り渡したけれども、主イエスが罪のない方であることをよく知っているというわけです。ですから、裁判をやり直して、主イエスを無罪放免して欲しいというわけです。

 

 そしてもう一つは、ユダ自身を裁く裁判です。ユダは、主イエスが無罪であることを知りながら、主イエスを売り渡すようなことをしました。だから、お金に目がくらんで罪のない方を罪に定めるよう手引きしたユダ自身の罪を裁くようにと求めるのです。

 

 しかし、祭司長、律法学者たちは、主イエスの裁判をやり直すことも、そしてユダのための裁判をすることも、「(それは)我々の知ったことではない。お前の問題だ」(4節)といってはねつけます。祭司長たちは、主イエスを亡き者にしようとしか考えていないのです。そのために、ユダが利用されたのです。

 

 取り返しのつかないことをしたと悟ったユダは、祭司長たちによる裁判を待つまでもなく、自らに死罪を課し、首をつって死んでしまいました。これより千年ほど前、ダビデを裏切ってその子アブサロムの軍師となったアヒトフェルが、首をつって死にました(サムエル記下17章23節)。

 

 アヒトフェルは、ダビデの護衛兵エリアムの父であり(同23章34節)、ダビデの妻となったバト・シェバの祖父でもあります(同11章3節)。ところが、アブサロムが父ダビデに反逆した時、ダビデの顧問であったアヒトフェルがアブサロムの側についたのです(同15章12節)。

 

 アヒトフェルがアブサロムに授ける策はとても優れていて、「神託のように受け取られていた」(同16章23節)と言われています。ところが、いよいよダビデを追い詰め、その首を上げるというところで、アヒトフェルの優れた提案が退けられ、密かにダビデと通じているアルキ人フシャイの策が入れられてしまいます。

 

 その背後に主の計らいがあったと、同17章14節に記されています。自分の提案が入れられなかったことを知ったアヒトフェルは、前述のとおり、首をつって死んでしまいました(同17章23節)。ダビデを討つチャンスをみすみす逃し、体制を整えて反撃される暇をダビデに提供するアブサロムに失望したのでしょう。 

 

 主イエスを裏切った弟子の最期を、預言の成就というかたちで描いているのは(9節、エレミヤ書32章9,20,25節、ゼカリヤ書11章12,13節参照)、それゆえにユダには罪がないなどと言いたいのではありません。むしろ、この出来事がいかに歴史的に重大な事件であるのかということを示しているのです。

 

 けれども、この問題の重大さは、自分で自分に判決を下し、処刑したというところにあります。勿論、ユダの心情は察して余りあるものがあります。主イエスを裏切って後悔したということでは、主イエスを三度否んだペトロも同様です(26章69節以下)。けれどもペトロは、自分で自分の罪を償おうとしませんでした。イエスを捨てて逃げ去った他の弟子たちも同様です。

 

 ただ、自分の振る舞いについて完全に責任のとれる者などいません。自分の命を絶つことは、自分の罪の償いにはなりません。命は主なる神のもので、私たちが自分で思うようにしてよい代物ではないからです。罪を償うつもりで命を絶った者は、それが最大の罪であることを思い知ることになるのではないでしょうか。

 

 ペトロら11人の使徒たちはこの後、ユダの代りにマティアを加えて12人となり(使徒言行録1章21節以下、26節)、エルサレムの教会の柱として立てられて行きます(ガラテヤ書2章9節参照)。ここに救いがあります。キリストが私たちの罪を身に負い、贖いの供え物として死んでくださったのです(ローマ書3章24,25節、5章6節以下)。

 

 神の御子キリストの贖いのゆえに、私たちの罪が赦されました。永遠の命が授けられました。神の子となる資格が与えられました。キリストにあって新しく創られた者となりました。すべてが主の深い憐れみのゆえ、豊かな恵みのゆえです。 

 

 神の恵みによって救いに与った者として、委ねられている知恵、力、賜物を主の御業のために用いるべく、主の御教えに耳を傾けましょう。聖霊の導きに従いましょう。

 

 天のお父様、私たちを試みに合わせず、悪しきものから絶えず救い出してください。弱く小さな私たちですが、あなたの御言葉に日々耳を傾けます。聖霊によって御心を弁えさせてください。耳の開かれた者、心の開かれた者としてください。主イエスの導きに対し、常に感謝と喜びをもってお従いすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」 マタイによる福音書28章19,20節

 

 28章には、主イエスの復活を巡る出来事が記されています。最初の段落(1~10節)は墓が空で、主の天使が主イエスの復活を告げたこと、すると主イエスが現れたことを語ります。次の段落(11~15節)では、番兵たちの報告を、イエスの遺体が弟子たちに盗まれたと言い広めるよう唆します。そして最後の段落(16~20節)は、弟子たちへの顕現の様子が記されています。

 

 マタイは、復活された主イエスの顕現の弟子たちへの顕現を、ガリラヤの山での出来事として記します(16節)。マルコはガリラヤでの顕現をほのめかすだけで終わり(マルコ16章7,8節)、ルカとヨハネは、エルサレムとその周辺でそれが起こったように伝えていました。

 

 主イエスと出会った弟子たちは、そこで「ひれ伏し」(17節)ます。これは、「礼拝する」(プロスキュネオー)という言葉です。復活された主イエスは、弟子たちから礼拝される対象、即ち神として彼らの前に姿を現されたということが分かります。

 

 ところが、そこに「疑う者もいた」と言われます。復活の主とお会いすることは、疑いを許さない類いのものではないということであり、礼拝する者は、主を信じる中で疑いの心を持つことがあるということを示しているようです。その意味で「疑う者もいた」は、疑わずにいられる者はいないのでは?ということを暗に示しているように思われます。

 

 そういう弟子たちに対して、十字架の死という苦しみ、辱めを味わわれた主イエスが、天と地のすべての権能を授けられたお方として(18節)、使命を授けます。つまり、彼らが主に使命を授けられたのは、疑いなど一切持たない理想的な弟子だったからというのではなく、ご自分を裏切って逃げ出し、何度も関係を否定した弟子たちをご自分の権能で主の業のために用いられるためなのです。

 

 冒頭の言葉(19,20節)は、「大宣教命令」(Great Commission)と言われる、マタイの記す主イエスの遺言ともいうべきものですが、原文では一続きの文章です。主文は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マセーテウサテ・パンタ・タ・エスネー:make disciples of all the nations)で、「弟子にする(マセーテウオウ)」という動詞が命令形で記されています。

 

 そして、三つの現在分詞形の動詞があります。最初に「行く」(ポレウセンテス)、次は「バプテスマを授ける」(バプティゾンテス)、そして「教える」(ディダスコンテス)という言葉が、それぞれ現在分詞形で記されています。これらは、日本語訳の聖書では命令形になっていますが、文法に即して訳せば、「行きながら」、「バプテスマを授けながら」、「教えながら」ということになります。

 

 つまり、すべての民を弟子にするというのは、①出て行くこと、②バプテスマを授けること、③教えることを通してなされるということです。ここで、「出て行く」とは、伝道するということでしょう。「バプテスマを授ける」とは、パンを裂くことと共に、礼拝の中心です。そして、「教える」とは文字通り、教育することです。

 

 一方、「弟子とする」という動詞は不定過去(アオリスト)時制で、これは一回的な出来事であることを示します。それに対して、三つの分詞は現在形ですから、これは継続的な働きかけということになります。つまり、弟子となるというのは生涯一度の出来事だけれども、そのためには、伝道と礼拝と教育は欠かすことが出来ない、これを継続しなければならないということになります。

 

 今日は特に、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉が迫って来ました。主イエスが、山上の説教を初め、この福音書を通して命じられたことはすべて守られなければならない、それを教えなさいと言われているわけです。

 

 「せよ」、「してはならない」と命じられていることは数々あります。主イエスが山上の説教を語られたとき、それを権威ある者としてお教えになったと記されていました(7章29節)。「権威ある者として」とは、それを実行、実現する力ある者としてということです。つまり、主イエスは、説教を語り、民をお教えになっただけではなく、自ら、それを実行、実現された方でした。

 

 であるならば、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主が言われるとき、律法学者のようにではなく、権威ある者として、御言葉を実行するように教えなければなりません。そしてその権威は、自らそれを実行、実現するところに示されなければなりません。

 

 山上の説教の中に、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」とも言われています(5章19節)。

 

 しかしながら、いったい誰がこの務めをきちんと果たすことが出来るでしかょう。これを、自分の力でやり遂げよと言われるのであれば、みんなお手上げでしょう。それは、出来る相談ではありません。私たちが自分の力で神の御言葉を実行、実現できるはずがないからです。

 

 当然のことながら、主の助けが必要です。否、主がしてくださらなければ、私たちに何が出来るでしょう。だからこそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっているのです。主が共にいて、私たちを慰め、励まし、助けてくださいます。私たちが主にまったく信頼し、委ねて歩むとき、主が御力をもってそれを成し遂げてくださるのです。

 

 まさに、天と地の一切の権能を授かった(18節)権威あるお方として、私たちと共に行かれ、すべての者を礼拝へと導き、かつてガリラヤで弟子たちを教えられたように、今も私たちの守るべきことを教えてくださるでしょう。

 

 主よ、今日も命の言葉に与らせてくださり、感謝いたします。すべての民を弟子とするため、私たちを用いてください。誰よりもまず私たちが、主イエスの弟子にふさわしい者となりますように。御言葉と御霊によって絶えず取り扱ってください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

日本バプテスト

静岡キリスト教会

〒420-0882

静岡市葵区安東2-12-39

☏054-246-6632

FAX    209-4866

✉shizuokabaptist★gmail.com

★を@に変えて送信してください

 

 

facebook「静岡教会」

 

 

当教会のシンボルマーク
当教会のシンボルマーク

当サイトはスマートフォンでもご覧になれます。

 

当教会のYouTubeのチャンネルが開きます。

 

 

2014年8月6日サイト開設