ホセア書

 

 

「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 ホセア書1章2節

 

 本日から、ホセア書を読み始めました。ホセア書からマラキ書までを「小預言者」と言います。「大預言者」とは、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書のことです。大預言者は、それぞれが一つの巻物に記されましたが、小預言者は、12の預言書をまとめて一つの巻物に記されています。それで、ユダヤ教の正典の中では「12預言者」と呼ばれています。

 

 ホセアは北イスラエル王国で活動した預言者ですが、その人物について、具体的なことはよく分かっていません。ホセアという名前は、「ヨシュア」の変形で、「主は救う」という意味があります。ヌンの子ヨシュアはもとはホシェアという名であり(民数記13章8,16節)、モーセが彼をヨシュアと呼びました。原語では、ホセアとホシェアは同じ綴りです。

 

 1節に列挙されている王のリストで、南ユダの王ウジヤの治世は紀元前783~742年、ヨタムは742~735年、アハズは735~715年、ヒゼキヤは715~687年です。そして、北イスラエルの王ヤロブアム2世の治世は786~746年です。

 

 ホセアは、ヤロブアムの治世の終わりの紀元前750年ごろから、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた722年ごろにかけて活動したと考えられます。王のリストで、南ユダの王の名が4人記されているのに対し、北イスラエルの王がヤロブアム以外取り上げられていないのは、そうするに価しないということなのでしょう。

 

 一方、南ユダの王に、ホセアの活動が終了したと考えられる時期の後に王位に就いたヒゼキヤの名まで記されているのは、アッシリアにより首都サマリアが陥落して北イスラエルが滅んだ後、ホセア書が南ユダで編集されたためだろうと考えられます。

 

 冒頭の言葉(2節)で主なる神がホセアに、「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」と命じました。淫行の女とは、カナンのバアル神に仕えていた神殿娼婦、つまりバアルの神を拝む礼拝儀式の中で男性に体を提供していた女性だったのではないかと思われます。

 

 イスラエルの律法に従えば、通常、そのような女性は生かしておくべきではないということになります。とすると、冒頭の言葉の主の命令は異常です。なぜ、主に従う預言者が、バアル神に仕えていた神殿娼婦を妻にめとらなければならないのでしょうか。

 

 その理由を、「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」(2節)と言います。全く理解に苦しむようなことですが、これがホセアに対する主の命令なのです。そして、ホセアはこの命令に従い、淫行の女性、ディブライムの娘ゴメルを妻としてめとりました(3節)。この女性のことも、名前以外のことはまったく分かりません。

 

 この夫婦の関係は、当時おかれていた北イスラエル王国とまことの神、主との関係を象徴しています。淫行の女が北イスラエルで、そのイスラエルを妻として迎えるホセアは、イスラエルを愛して恵みを与えようとしている主なのです。この関係はしかし、好ましいものではありませんでした。

 

 二人の間に三人の子どもが生まれて来ますが、最初の子は「イズレエル」と名付けられます。この地名は、将軍イエフがアハブ王の家族とその支持者たちを皆殺しにしたところとして、イスラエルの人々の心に刻み込まれています(列王記下9章30節以下、10章1節以下)。ですから、その地の名がつけられたということは、イスラエルの最後が迫っていることを意味します。

 

 二番目の子は「ロ・ルハマ」と名付けられました。それは、憐れまれないという意味だと説明されています(6節)。三番目は「ロ・アンミ」です。それは、わたしの民ではないという意味です(9節)。つまり、終わりのときが迫って来ているけれども、神はイスラエルを憐れまず、むしろ彼らはわたしの民ではないといって、見捨ててしまうということが、ここに示されているわけです。

 

 ホセアは、淫行の女性と結婚することや、産まれてきた三人の子どもにこのような名前をつけることで、イスラエルに対する主の裁きを預言しています。そうするように彼は召されたのであり、そして彼はその召しに忠実に歩んでいるわけです。

 

 イスラエルの民、特にホセアと親しい人々は、彼のこの奇異にも見える結婚、そしてその名づけを喜びはしなかったでしょう。しかしながら、これが主なる神の裁きの預言であるということを、人々は知らなければならなかったのです。

 

 もしも、異教の神との淫行を繰り返しているイスラエルの民が、この主の裁きの言葉に耳を貸さないなら、告げられているとおりの裁きをその身に引き受けることになってしまいます。しかし、主はこの民が裁きの言葉に耳を傾け、主を畏れて御前に謙り、「悔い改めに相応しい実を結」(マタイ福音書3章8節)ぶことを期待しているからこそ、ホセアを預言者として召したのです。

 

 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブ書5章8~10節)。

 

 憐れみ深く(イザヤ書54章7節など)、忍耐と慰めの源である主なる神(ローマ書15章5節)に信頼し、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きに与り、御言葉を行う者となりましょう。

 

 主よ、私たちはこの国の同胞に対して、何をどのように語っていけばよいのでしょうか。どのようにあなたの愛と恵みを伝えればよいのでしょうか。御言葉をください。従う知恵と力、勇気を与えてください。私たちを御霊に満たし、愛と平和の道具として用いてください。 アーメン

 

 

「そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコルの谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき、エジプトの地から上ってきた日のように。」 ホセア書2章17節

 

 2章では、イスラエルの背信の裁き(4~15節)が、回復の言葉(1~3節)と救いの言葉(16節以下)に挟まれて語られています。回復されたのにまた背き、もう一度救いが与えられると読むことが出来ます。

 

 また、現実には背信の罪を犯し続けているのだけれども、主はイスラエルを愛して、繰り返し回復と救いを与えようと招いていると読むことも出来ます。ここで示されるのは、回復と救いは、イスラエルの努力や懺悔によってなされるのではなく、一方的な主なる神の愛と憐れみによってなされているということです。

 

 ゴメルは、自ら愛人たちのあとを追いました(7節)。愛人たちが自分を豊かにすると誤解していました(7,10,14節)。本当に自分を愛し、必要のすべてを豊かに与えてくれる夫の存在を忘れているのです。

 

 15節で、妻の愛人が「バアル」であると明示されています。つまり、イスラエルが真の神を忘れてバアルを礼拝しているということです。「バアル」とは「主人、所有者」を意味する名前です。淫行の妻が、夫である真の神を忘れて、神ならぬ異教の偶像バアルを「わたしの主人」と呼ぶというのは、全く笑えない駄洒落です(18節参照)。

 

 主なる神は、背信のイスラエルを再び取り戻すため、愛人のあとを追う道をふさがれます(8節)。また、イスラエルの持ち物を取り上げ、裸にされます(12節)。そして、祭りの喜びを取り去られます(13節)。これは、アッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされるということを預言しているのです。

 

 しかし、それは完全な滅亡ではありません。「初めの夫のもとに帰ろう」(9節)というときが来ると言われます。もう一度、主なる神を「わが夫」と呼ぶ日が来るのです(18節)。主はイスラエルの裁きについて、16節で「わたしは彼女を誘って、荒れ野に導き、その心に語りかけよう」と言われ、続く冒頭の言葉(17節)で「アコルの谷を希望の門として与える」と言われました。

 

 アカンという人物が石打ちの刑を受け、その石塚が築かれた場所が、アコルです(ヨシュア記7章24~26節)。アカンは、滅ぼし尽くして主にささげるべきものの一部を、自分のものとして盗み取りました(同7章1節)。それがイスラエルにとっての災いとなりました(同1,10節以下)。

 

 主なる神は、「滅ぼしつくすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない」(同13節)と言われました。そして、アカンが主に打たれ、イスラエルの民の中から除き去られた後、その怒りはやみ(同26節)、敵に立ち向かうことが出来るようになりました(同8章1節以下)。

 

 アコルとは「悩み、苦悩」という意味の言葉です。アコルの谷を希望の門として与えるというのは、悩みこそが希望だということではありません。悩みを希望に変えてくださるお方がおられるのです。

 

 アッシリアに滅ぼされることは、イスラエルにとってアコルの谷に赴くことです。しかし、それが希望の門になるのです。なぜでしょうか。それは、アコルの谷で、自分の夫は誰か、夫が自分に何をしてくれていたのかを思い出すからです。そして、夫の助けを叫び求めるからです。

 

 親不孝で放蕩の限りを尽くした息子が、どん底で「我に返って」(口語訳「本心に立ちかえって」)、父の家を思い出したように(ルカ福音書15章17節)、悩みの谷でそのお方を思い出すことが、苦悩を希望に変える大切な鍵です。

 

 主は、かつてイスラエルをエジプトの苦悩から解放してくださったように、私たちをその苦しみから解放してくださると約束しておられます。アコルの谷が希望の門となるのは、神の憐れみが私たちに注がれているからです。

 

 「悔い改めるとは、懺悔するという意味もありますが、方向を転換することです。「罪を犯す」(ヘブライ語:ハーター、ギリシア語:ハマルタノー)という言葉は「的を外す、迷う、誤る」という言葉です。だから、迷い出たところに戻る、向きを正すのです。何よりもしっかりと神の方を向き、主の慈愛に満ちた御顔を仰ぐこと、その恵みの御言葉に耳を傾けることです。

 

 日々勇気をお与えくださる主の御言葉に耳を傾け、信仰をもって勝利の人生を歩ませて頂きましょう(ヨハネ福音書16章33節参照)。ハレルヤ!

 

 主よ、御言葉を感謝します。私たちの人生には、様々なアコルの谷があります。自分では、這い上がれないような深い淵を通ることがあります。御言葉どおり、私たちのアコルの谷を、希望の門にしてください。希望の門をくぐり、主イエスの道を歩んで、真理と命に与らせてください。 アーメン

 

 

「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 ホセア書3章1節

 

 冒頭の言葉(1節)のとおり、主の言葉が再び預言者ホセアに臨みました。同じような言葉が1章2節にもあり、そこで「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」と命じられていましたが、ここでは「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と言われています。

 

 1章と3章の間に15~20年という時間を想定し、離婚した妻をもう一度愛し受け入れよという命令だと解釈している学者があります。あるいはまた、1章の妻と離婚した後、別の姦淫している女性を愛せよとの命令だとする解釈もあります。

 

 いずれにせよ、ホセアがそう命じられるのは、「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛される」(1節)からです。ここで「干しぶどうの菓子」は、エレミヤ書7章18節にある天の女王のために献げられた菓子のように、異教の神々の礼拝と結び付いたものです。

 

 1章に言われた淫行の女、「ディブライムの娘ゴメル」の「ディブライム」について、岩波訳の脚注に「『二つの干し無花果の菓子』の意。干し無花果は干し葡萄と並ぶ菓子であった(サム上25・18,30・12,代上12・41参照)。売春婦の価が二つの干し無花果菓子の値であったという理解もあり、しばしば豊穣儀礼で使われたとされる」とあります。

 

 ホセアは、銀15シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って、その女性を買い取りました(2節)。シェケルは銀貨のことで、15シェケルは銀貨15枚です。また、1レテクは0.5ホメルですから、1ホメルと1レテクは1.5ホメルということになります。1ホメルは約230リットルと言われますので、1.5ホメルは345リットルとなります。かなりの分量です。

 

 列王記下7章1節に「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる」という言葉あります。1セアは7.7リットルですから、1.5ホメルは44セア、2セアが1シェケルで売られるのですから、1,5ホメルは22シェケルになります。

 

 女性が請願をかけて聖所に身をささげるときには、銀貨30枚を払いました(レビ記27章4節)。奉納した人がそれを買い戻すとき、その相当額に五分の一を加えて支払えという規定があります(同27章13節など)。

 

 銀15シェケルと大麦1.5ホメル=22シェケル相当で、合わせて37シェケル(銀貨37枚)になります。少々こじつけじみているかもしれませんが、これは、神殿にささげられた女性の買戻しの額に相当すると考えることが出来ます。

 

 2章18,19節との関連で、この女性は、バアル神殿に仕える神殿娼婦として、礼拝儀式の中で姦淫を行っていたと考えられます。バアル信仰では、神殿娼婦と交わることで、五穀豊穣が約束されると信じられていたのです。その女性は、異教の偶像に仕える誤った信仰と、それにまつわる淫行から、ホセアによって贖い出されたというわけです。

 

 ホセアが同じ女性のために2度、贖い代を払ったとすれば、それは単に主の命令に従っただけというのではなく、ホセアがその女性をいかに大切に思っていたかという確かな証しではないでしょうか。ホセアは彼女に「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」(3節)と告げました。

 

 自分を愛してくれる者のために犠牲を払うことは難しいことではありませんが、自分を愛さないで姦淫を重ねる者のために犠牲を払うというのは、一度でもノーサンキューNo,thank youでしょう。ところが、ホセアはそれを二度したわけです。そんなことが実際に出来るのでしょうか。ホセアは本当にそれをすることが出来たのでしょうか。

 

 ホセアという名は、「ヨシュア」の変形(短縮形)です。「ヨシュア」の正式な発音は、「イェホシュア」です。民数記13章16節に「モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ」とあります。いずれも「主は救いたもう」という意味ですが、ヨシュアと発音する方が、「主(ヤハ)」という意味が鮮明なのです。そして、ヨシュアをギリシア語で表記すると「イエス」となります。

 

 そして、私たちの主イエスというお方は、繰り返し罪を犯し、神に背き続ける私たちのために、本当にご自身を犠牲としてささげてくださったお方です。この主が私たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました(ヨハネ13章34節、15章12節など参照)。

 

 私自信にはそのような力はなく、そのような愛も持ち合わせておりませんが、主イエスの愛を頂きながら、主イエスの愛に支えられ励まされて、互いに愛し合う者にならせていただきたいと思います。

 

 主よ、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する者にならせてください。私たちの内にお住まいくださっている聖霊を通して、神の愛を心に注いでください。隣人と互いに愛し合うことを通して、主の僕とされている恵みを周囲の人々に証しすることができますように。 アーメン

 

 

「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる。」 ホセア書4章6節

 

 4章以降は、3章までとはうって変わって、イスラエルを裁かれる主の言葉が記されています。1節に「主の言葉を聞け」と記されていますが、「主の言葉」というのは、この箇所と、1章1節の2箇所に出て来るだけです。即ち、「主の言葉」が、3章までの第一部と、4章以下の第二部を始める合図、鍵言葉になっているわけです。

 

 第一部では、預言者ホセアの結婚生活に関係する言葉で、イスラエルの回復と救いを告げていたのに対し、第二部は、イスラエルの罪を法廷で告発するような言葉になっています。これは、回復と救いの言葉を告げたけれども、思い返して、やはり裁くことにしたということではありません。

 

 第一部で回復と救いの言葉が告げられていますが、イスラエルはいかなる罪を犯して神に裁かれたのか、そして、どんな罪の呪いから解放され、回復と救いが与えられるのかを明らかにするために、第一部を補足する目的で、第二部が記されていると考えるべきでしょう。

 

 主がイスラエルの罪を告発して、「この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもない」(1節)と言われます。誠実さと慈しみは、主と民との関係、民同士の関係の真実さ、愛情の深さを示すものです。「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」(2節)というのは、誠実さも慈しみもないことの明白な証拠です。

 

 冒頭の言葉(6節)でホセアは、「お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない」と語っています。ここに言われている「知識」とは、1節で「神を知ることもない」と言われているように、主を知る知識のことです。そしてそれは、主を畏れる知恵のことと言ってよいでしょう(箴言1章7節参照)。

 

 「わが民は知ることを拒んだので」と言われていますから、祭司には、主の御言葉を人々に教える務めがありましたが、民はそれを聞こうとしなかったということです。それだけでなく、「お前が知識を退けたので」と言われていますので、祭司自ら、主の御言葉を聞こうとしなかった、神への畏れを失ってしまっていると断罪されているのです。

 

 「知識を退けた」ということについて、8節に「彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている」と記されています。これは、サムエル記上2章12節以下で、シロの祭司エリの息子たちが犯していた罪と同様です。おのが腹を満たすため主への供え物を軽んじ、神を侮ったので(同2章17,30節)、エリの家に裁きが下りました。

 

 特に、「淫行にふける」(10節)という表現で、異教の神々を祀る偶像礼拝に民を巻き込む罪が告発されています。ネバトの子ヤロブアムの罪(列王記上12章28節以下、13章33節)が、彼に続く王たちから祭司、民に至るまで浸透していて、神が遣わされる預言者の声に耳を貸そうとしなかったということです(同17章7節以下)。

 

 それを「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う」(11節)、「淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり」(12節)、「彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね」(18節)、「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」(19節)という言葉で言い表しています。

 

 「沈黙させられる」(ダーマー:6節))と訳されている言葉は、「止める、止めさせる、破壊される、荒廃する」という意味の言葉で、口語訳は「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」、岩波訳も「あなたが知識を捨てたので、わたしの民は無知のために滅ぼされる」と訳しています。イスラエルが滅ぼされるのは、彼らが主の知識を退け、主の教えを拒んだからだというのです。

 

 それを「沈黙させる」(5節)、「沈黙させられる」(6節)と訳すのは、詩編の「国々の偶像は金銀に過ぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない」(詩編115編4,5節)、「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」(同8節)という言葉から、神の裁きを受けて、口のきけない偶像と同じようにされたと考えたらよいのでしょう。

 

 私たちは、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(第一ペトロ2章9節)。私たちには、主を知ること、すなわち神の子として主と深く交わることの出来る恵みと特権が与えられており(ヨハネ福音書1章12節参照)、そして、主の愛と恵みを証しする務めに立てられています。

 

 知識がないために滅ぼされるということがないように、知識を捨てたので退けられるということがないように、知ることを拒んで沈黙させられることがないように、御言葉を忘れて主に忘れられるということがないように、日々主の御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。

 

 主よ、私たちの歩みの上に、主の恵みと慈しみが絶えず豊かにありますように。御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことが出来ますように。御霊に満たされ、主の証人として御業に励むことが出来ますように。御心がこの地に行われ、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。」 ホセア書5章6節

 

 5章の前半(1~7節)には、北イスラエルに対する審判が語られています。後半(8節以下)には、南ユダと北イスラエル、両王国の罪を裁く言葉が記されています。ホセアは、北イスラエルの預言者として、主の言葉を語っているわけですが、南ユダも神の裁きから無縁でいられないのです。

 

 1,2節に、ミツパ、タボルの山、シッテムという地名が挙げられています。ミツパは「見張り所」という意味で、イスラエルに何箇所か、その名で呼ばれる場所がありますが、この箇所では、ベニヤミン族に割り当てられ(ヨシュア記18章26節)、サムエルが断食と祈りのために民を招集した(サムエル記上7章3節以下)、南ユダとの国境近くにある町のことでしょう。

 

 タボル山はガリラヤ湖の西方約20km、イズレエル平原の北東端にある標高588mの山です。周囲にこれに並ぶ山はなく、ヘルモン山などと並び称されることもあります。後に、主イエスの姿代わりのした山であるという伝説が生まれました。その伝説に基づいて、コンスタンティヌス帝の母ヘレナが教会堂を建てました。

 

 シッテムは死海の北東部、エリコの対岸に位置する町で、出エジプトの民がヨルダン川を渡って約束の地に入る前、最後に宿営したところです。宿営中、彼らがモアブの娘たちに従ってペオルのバアルを慕ったので、主が憤られて、背信の者たちを撃たせるという出来事がありました(民数記25章1節以下)。

 

 「シッテム」には「反逆者、反抗者」という意味があり、新改訳はこれを「曲がった者たち」、岩波訳は「反逆する者たち」と訳しています。神に従うように指導すべき者が、道を曲げ、主に逆らって異教の偶像礼拝に誘っていると解釈しているわけです。

 

 このように三つの地は、北イスラエルの南と北と東の場所を示しています。そして、罠、網、深く掘った穴という言葉で表現されているように、そこに異教の神々を祀る礼拝場所が設けられ、民を惑わし、陥れていたのです。そして、異教の礼拝がその三箇所だけでなく、東に南に北に広がり、北イスラエルの全地で行われていたことを示していると考えられます。

 

 冒頭の言葉(6節)に、「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが」とあります。異教の礼拝を行いつつ、主への礼拝も続けられていたのです。それは、国の安全を求め、家庭の平和を求め、生活の豊かさを得るため、手当たり次第、何でも拝むということです。イスラエルの主なる神を信じ頼リ切ることが出来ず、より確かな安全保障を得ようと、カナンの神々をも礼拝しているのです。

 

 主なる神は、「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出エジプト記20章3~5節)と告げておられます。

 

 それは、主なる神がエジプトで奴隷とされているイスラエルの民を憐れみ、そこから導き出され(同2節)、彼らをすべての民の中で主の宝とされたからであり、彼らが主の熱情(愛)に応えて、主の声に聴き従い、契約を守って、主にとって祭司の王国、聖なる国民となることが期待されているわけです(同19章5,6節、同20章5,6節)。

 

 けれども、イスラエルの民はその命令に背いて異教の神々の像を造り、神殿に祀り、拝んでいたのです。祭司たちや王の家の者たちも、それを止めさせるどころか、神に逆らって、自ら落とし穴を大きくするという役割を果たしていたわけです(1,2節)。

 

 そうしながら、羊と牛を携えて主を尋ね求めたということは、いけにえを献げれば、偶像礼拝の罪を赦してもらえるとでも思っていたということでしょうか。むしろ、そのように主なる神に頼りつつ、前述のとおり他の神々の御利益にも期待していた、あれもこれもに保険をかけたつもりなのではないでしょうか。

 

 主なる神を信じ、仕えるとは、羊と牛を携えて来ることではありません。主の御言葉を聴いて行うこと、主に従うことです(エレミヤ書7章23節)。ですから、主なる神は彼らの生け贄を喜ばれず、彼らから離れ去ってしまわれたのです(6節)。

 

 そのことが、8節以下「戦争の罪と罰」の段落において、「懲らしめの日が来れば、エフライムは廃墟と化す」(9節)、「エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる」と、具体的に告げられています。

 

 「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ。ベト・アベンで鬨の声をあげよ」(8節)とは、南ユダ王国との国境線から侵入してくる者たちのために警戒警報をならせということです。侵入してくるのは南ユダの軍隊で、10節の「ユダの将軍たちは国境を移す者となった」もそれを示しています。

 

 ホセアの活動中、南ユダと戦争を構える事態というのは、北イスラエルの王ペカがアラムの王レツィンと連合してユダを攻めようとしたときのことです(列王記下16章5節以下)。そのとき、ユダの王アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに援軍を求め、アッシリアの王はそれに応じてダマスコを占領し、イスラエルとアラムの連合軍は瓦解しました。

 

 ホセアの預言は、北イスラエル王国が北からアッシリアに、南からはユダに脅かされ、やがて滅ぼされることを告げていますが、その原因が北イスラエルの背信にあること、それゆえ、主なる神が真の敵となられたということを示しているのです。 

 

 しかし、主なる神は彼らを断罪し、滅ぼし尽くそうとしておられるわけではありません。16節に「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」と言われます。主は、彼らが悔い改めること、真実に主を尋ね求めることを願っておられるのです。

 

 私たちも、「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知らず」という者にならないように、御言葉を聞いても行わない者とならないように、日々御言葉に耳を傾け、主の御心に従って歩んで参りましょう。

 

 主よ、日毎にあなたを畏れることを学び、御言葉に耳を傾け、御心に従って忠実に歩ませてください。御霊の力を受け、その導きにしたがって御名の栄光を常に賛め称えつつ、周囲の人々に主イエスの恵み、神の愛を証しすることができますように。 アーメン

 

 

「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」 ホセア書6章2節

 

 1節に「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」という悔い改めの言葉が記され、3節で「我々は知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」(3節)と、信仰を表わす言葉を告げます。

 

 何がイスラエルの民に、悔い改めの言葉を口にさせたのでしょうか。これまで語られて来たイスラエルに対する裁きの言葉(4,5章参照)に恐れをなしたのでしょうか。それとも、「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」(5章15節)という御言葉に応答したということなのでしょうか。

 

 しかしながら、4,5節に「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを、預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる」(4,5節)と告げられます。

 

 新共同訳は、1節から6節までの段落に「偽りの悔い改め」という小見出しをつけています。3節までの悔い改めの言葉を真実と認めず、その場しのぎの口先だけの言葉だと断じ、その不実のゆえに滅ぼすと主なる神がつげでおられる言葉だと解釈するのです。

 

 ホセアが預言者として働いた時代、ヤロブアム2世を筆頭に、ゼカルヤ、シャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ、ホシェア、計7人の王たちの生涯が、列王記下14章27節以下に短く紹介されています。

 

 その治世が1ヶ月と短かったシャルムを除き、ほかの6人の王たちは「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と評されています(同14章24節、15章9,18,24,23節、17章2節)。

 

 主イエスが弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と話されたとき(マルコ福音書14章27節)、ペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同29,31節)と答えました。

 

 それは、本心であったと思います。けれども、弟子たちは、ゲッセマネで捕らえられた主イエスを見捨てて逃げてしまい(同50節)、ペトロも翌朝を迎えるまでに、「そんな人は知らない」と三度も、最後には呪いの言葉さえ口にしながら、主イエスとの関係を否定してしまい(同68,70,71節)、結果的に、ペトロの答えがその場しのぎの口先の言葉ということになってしまいました。

 

 そしてそれは、他人事ではありません。実際に口でそのように言うことはなくても、私たちの行動や態度で、およそ「イエスなど知らない」と語り続けているのではないでしょうか。そのような私たちのために主イエスが十字架に死に、私たちの信仰がなくならないように祈ったと仰せくださいます。その祈りと深い愛の御業によって守り、支えられている私たちです。

 

 イスラエルの人々は冒頭の言葉(2節)のとおり、「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」と語りました。なぜ二日の後に生かされると語り得たのでしょう。「三日目に立ち上がらせてくださる」とは、何を根拠にしたものでしょう。「苦しみの短からんことを」という期待を込めた言葉なのでしょうか。

 

 4節以下を見ると、主はこの言葉を民の真実な悔い改めと信仰の言葉として聞かれたとは思われません。にも拘らず、この言葉は重要な意味を持っています。パウロが、この言葉を念頭において、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(第一コリント15章4節)と記しています。つまり、この言葉を主イエスの復活の預言と解釈したわけです。

 

 主イエスの復活、それは主の贖いの業の完成であり、それにより、救いの道が開かれたということです。イスラエルの民の願い、偽りの悔い改めと断じられたその言葉が、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して成就したことになります。まさに、すべてのことは益となるということを明示している出来事です。そして、ここに主なる神の深い憐れみ、真実な愛があります。

 

 私たちに思いを起させ、実現に至らせてくださる主の御言葉に耳を傾け、その御心に従って歩む者とならせて頂きましょう。

 

 主よ、深い愛と憐れみをもって私たちを守り導いてくださることを感謝します。絶えず、「我々は知ろう、主を知ることを追い求めよう」と語らせ、全身全霊をもって真実に神を愛することを学び、実行させてください。弱い私たちを助け、常に信仰に立つことが出来ますように。 アーメン

 

 

「なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。」 ホセア書7章13節

 

 預言者ホセアは、淫行の女性を妻としてめとり(1章2節)、夫に愛されていながら姦淫を犯す妻を愛せよと、再び主に命じられました(3章1節)。そのようにして、神に背いて偶像礼拝の罪を犯し続けるイスラエルを愛し続けてくださる主なる神の、深い愛と憐れみを知ったのです。

 

 ホセアの目には、淫行を続ける妻と主に背き続けるイスラエルが、二重写しになっているのでしょう。そして今ホセアは、自分と主とを重ね合わせながら、1人称の「わたし」という言葉で、主のメッセージを語っています(6章11節以下)。主は繰り返し、イスラエルを御自分に立ち帰らせ、神の民を回復しようと働きかけておられます(6章11節、7章1,13,15節)。

 

 しかし、冒頭の言葉(13節)のとおり、イスラエルは主から遠く離れ去り、主の招きに応えようとはしません。応えても、それは偽りでした(6章1節以下、4節参照)。異教の神々の儀式を行い、主には背を向けています(14節)。悪事を企みます(15節)。ねじれた弓のように空しいものに向かいます(16節)。

 

 この預言がホセアによって語り出されたのは、紀元前733年頃、アッシリアの支配に対抗するため、北イスラエルはアラム(=シリア)と同盟し、親アッシリア政策をとる南ユダに侵略するという状況です(列王記下16章5節以下)。

 

 その危機にユダの王アハズはアッシリアに援軍を求め(同7節)、アッシリアの王ティグラト・ピレセルはすぐに援軍を送ってアラムの首都ダマスコを占領し(同9節)、北イスラエルにも攻め入って、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、住民を捕囚としました(同15章29節)。

 

 このようにイスラエルを取り巻く事態は確実に悪くなって来ているのに、民は主を尋ね求めようともしません。それは、高慢だからと言われます(10節)。また、鳩のように愚かで悟りがないからだと言われます(11節)。

 

 「鳩」(ヨナ)について、岩波訳の脚注に「鳩は愛の女神イシュタルの聖なる鳥で、その鳴き声が愛のささやきとも嘆きの声とも解釈されていたという」と記されています。異教の神や異国の力に頼ることの愚かさを言っているわけです。

 

 「悟り」は「心」(レーブ)という言葉ですが、口語訳は「知恵」、新改訳、岩波訳などは「思慮」と訳しています。鳩が思慮、知恵を持たない鳥かどうかは分かりませんが、あるイスラエルの王はアッシリアに頼って自国を強くしようとし(列王記下15章19節)、またある王はエジプトを後ろ盾にするといったように、一貫性を持ちません。

 

 そうして、結局、自ら滅びを招いてしまうのです。冒頭の「なんと災いなことか」という言葉からは、諦めにも似た主なる神の悲しい思いが伝わって来ます。

 

 確かに神は、イスラエルの民が自ら方向転換してご自分のもとに返ってくることは、諦められたのかもしれません。しかし、それで人を救うことを諦められることはありませんでした。神は、人が心に思うことは、幼いときから悪いということを承知の上で、ゆえに人を大地から消し去ろうというのではなく、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(創世記8章21節)と決心されるお方なのです。

 

 それはしかし、人の悪い行いには目をつぶり、人の悪を見ても見ないことにするということではありません。罪には裁きがあります。主は聖なる方、義なるお方です。罪を見過ごしにはなさいません。

 

 しかしながら、主なる神は、その裁きを私たち罪人に対してではなく、ご自分の独り子キリストの上に下し、十字架にかかられた主イエスの命の代価によって私たちを贖い、その罪を赦そうとお決めになったのです。贖いの血が流されることなしには罪の赦しはあり得ないからです(ヘブライ書9章22節)。

 

 ローマ書3章23,24節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあり、ガラテヤ書3章23節で「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は、皆呪われている』と書いてあるからです」と語られます。

 

 これは、まったく一方的に与えられた神の恵みです(エフェソ書2章8節)。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(第一テモテ書2章4節)。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ書4章10節)。

 

 キリストを信じる信仰とは、この神の愛を受け止めることです。そして、神に感謝することです。そして、神を愛することです。主が「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(6章6節)と告げられるとおりです。

 

 今日も、神は私たちを助け導いてくださいます。その神の御言葉を聞いたときに、心を頑なにせず、「はい」と答えて従いたいと思います。心の真ん中に主イエスを迎え、主の御心を絶えず中心に受け止めたいと思います。「愛」という漢字は、「心」を真ん中に「受ける」と書きます。神の愛を頂き、神を愛する者とならせて頂くのです。

 

 前からも後ろからも私たちを囲み、御手を私たちの上に置いていてくださる主に、いつも感謝しましょう。御手をもって私たちを導き、右の御手をもって私たちを捕らえてくださる主に従って歩みましょう。  

 

 主よ、絶えず御顔を慕い求め、主の御言葉に耳を傾けることが出来ますように。その深い御旨を悟ることが出来ますように。御言葉と御霊の御導きに従うことが出来ますように。そうして、主の御心がこの地になされるために用いられますように。 アーメン

 

 

「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。」 ホセア書8章7節

 

 1節で「角笛を口に当てよ」と言われます。角笛は、町に危険が迫っていることを警告する警笛として、城壁の上で吹き鳴らすものです。5章8節に「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ」と預言されていたので、ここに再度警告されたということでしょう。ということは、5章8節以下の預言からほど遠くない時期に語られたものと思われます。

 

 預言者ホセアはこのとき、櫓の上にいる見張り役として、「鷲のように主の家を襲うものがある」ので、警笛を吹き鳴せと主なる神から命じられているのです。申命記28章47~57節によれば、外敵の来襲を「鷲」に準えています。つまり、イスラエルに外敵来襲の危機が迫って来ているわけです。

 

 それは、彼らが主なる神の契約を破り、律法に背いているからでした(1節)。それにも拘わらず、「わが神よ、我々はあなたに従っています」(2節)というのは、主の恵みを自ら退ける偽善の罪です(3節)。「恵み」と訳されているのは、「善」(トーブ)という言葉です。だから、「敵に追われるがよい」と言われるわけです。

 

 また、主なる神によらず王を立て、高官たちを立てました(4節)。それは、主の指導には従わないということでした。そして、金銀で偶像を造りました。それは、主に禁じられた偶像礼拝を行っているということです(4~6節、出エジプト記20章3~5節)。

 

 「お前の子牛を捨てよ」(5節)とは、ヤロブアムがベテルとダンに金の子牛像を置いてそれを拝ませたことを思わせます(列王記上12章28節以下)。その後、アハブが北イスラエルの首都サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築きました(同16章31,32節)。ホセアはサマリアに子牛像が置かれていたことを明らかにしているのです(5,6節)。

 

 冒頭の言葉(7節)に「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」と記されています。イスラエルにおける種蒔きは、わが国のそれとはかなり違っています。畑を耕し、畝を起こして、一粒でも無駄にならないように丁寧に蒔くというのではありません。

 

 種の入った袋を振り回して一帯に種を蒔き散らした後、そこを耕すというやり方をするのだそうです。遠くまで種を蒔くためには、少々風が吹いていたほうが都合がよかったでしょう。「風の中で種を蒔き」とは、そのことです。

 

 そういう蒔き方をすれば、主イエスが種まきのたとえで語られたように(マルコ福音書4章1節以下)、あるものは道端に落ち、あるものは石地に落ち、またあるものは茨の中に落ちたというのは、さもありなんということになります。多くの種が蒔かれたところが耕されて、そこがよい畑となるわけです。よい地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びます。

 

 しかし、「嵐の中で刈り取る」ということは、せっかく種が芽を出し実っても、収穫前に嵐が来れば、すべてが無駄になってしまう、すべての労苦が水の泡となってしまうということでしょう。これは、イスラエルの人々は国際情勢の風を読みながら、うまく舵取りが出来ているように思っているかもしれないこと、しかしながら、それが一切無駄になってしまうということを示しているようです。

 

 ただし、原文を直訳すると、「彼らは風を蒔いて、嵐を刈り取る」という言葉になります(口語訳、新改訳、岩波訳も参照)。コヘレトの言葉1章14節に「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」という言葉があり、風を追うことは空しいことと言っています。

 

 「風」を蒔くことは、風を追うことと同様、何の助けにならない空しいことだということです。だから、「嵐」に象徴される「滅び」を刈り取ることになるのです。たとえ、「(麦粉を)作ったとしても、他国の人々が食い尽くす」ということで、自分たちの努力が無駄になるというより、他国に奪い去られることを明示しています。

 

 7章11節に「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」と記されていました。それは、真の造り主を忘れ、その保護をあてにしないことです(14節)。エジプトに助けを求め、アッシリアに頼ることは、まさに風を追っているようなもので何の力にもならず、最後は時代の嵐に飲み込まれてしまいます。

 

 かつて栄えたエジプトやアッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマ、また、蒙古、大英帝国など、どの国が人類の希望となれるでしょうか。どの国が究極的な救いを保障してくれるでしょうか。

 

 人の力に頼るのは空しいことです。人は誰も、自分ひとりを救うことさえ出来ません。あなたを、私を救ってくれるのは、主イエス・キリストだけです。真の主を信じ、真の主に依り頼みましょう。日々の生活の中で、主を仰ぎ、主に従う道を歩み、確かな実を収穫することが出来るようにしていただきましょう。

 

 主よ、導きを感謝します。私たちにはもはや、罪の償いの祭壇は必要ありません。主イエスの十字架という確かな祭壇が、主ご自身によって打ち立てられたからです。私たちは十字架の主を仰ぎます。御言葉に耳を傾けます。どうぞ、御霊に満たしてください。あなたの御言葉がこの身になりますように。 アーメン

 

 

「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。」 ホセア書9章15節

 

 1節に「イスラエルよ、喜び祝うな」とあります。5節の「祝いの日、主の祭りの日に、お前たちはどうするつもりか」という言葉で、イスラエル建国を祝う三大祭に、ホセアが「喜び祝うな」と叫んでいるということが分かります。それは、イスラエルの民が自分の神を離れて姦淫しているからです(1節)。

 

 それで、「彼らは主の土地にとどまりえず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリアで汚れたものを食べる」(3節)と告げられます。かつて、イスラエルはエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に来ました。エフライムがエジプトに帰るとは、再び奴隷とされるということ、アッシリアで汚れたものを食べるとは、アッシリアの奴隷とされて屈辱のパンを食べさせられるということです。

 

 ホセアのこのような宣告が、イスラエルの民に受け入れられることはなかったようです。むしろ、「預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う」(7節)と言われるように、彼は愚か者と言われ、はたまた狂人扱いをされたのです。それゆえ、裁きを刈り取ることになってしまいます。

 

 冒頭の言葉(15節)に「彼らの悪はすべてギルガルにある」とあります。「ギルガル」という地名が出て来たのは、本書中これが2回目です。初出の4章15節では「お前が遊女であっても―ユダは罪を犯すな―ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな」と言われていました。

 

 「ベト・アベン」とは「不義、邪悪の家」という意味で、そこに異教の神が祀られていることを示しています。あるいは、ヤロブアムが「ベテル(「神の家」の意)」に金の子牛像を置いて拝むようにさせ、歴代の王がその罪を離れなかったということから、ホセアはベテルのことを「ベト・アベン」といっているのかも知れません(10章5節も参照)。

 

 その関連で、「遊女」というのは、神殿娼婦のことでしょう。ギルガルとベト・アベンが並べられているということは、ギルガルにも異教の神が祀られ、神殿娼婦による淫行が行われていたものと考えられます。実際、12章12節(口語訳、新改訳は11節)に「ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている」と記されています。

 

 また、ギルガルはイスラエル初代の王サウルが、アマレクを滅ぼし尽くせとの命令に背いて上等のものを惜しんでとっておき、主への供え物としようとした場所(サムエル記上15章9,12節など)、それゆえ王位から退けられることになった場所です(同11,23節)。

 

 主の命令に背くことについて同23節に「反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい」と言われています。占いや偶像礼拝は主なる神の忌み嫌われることですから(申命記16章21節以下、18章9節以下など)、冒頭の言葉のとおり、「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」と言われるのです。

 

 ギルガルは、かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、モーセの後継者のヨシュアに率いられ(ヨシュア記3章1節以下)、祭司らの担ぐ契約の箱に先導されて(同6,11,14節)ヨルダン川を渡り(同16,17節)、約束の地カナンに入って最初に宿営した場所です(同4章19節)。

 

 主なる神はヨシュアにヨルダン川で12の石を拾わせ、宿営した場所に据えさせました(同3,8節)。それは、「ヨルダン川の乾いたところを渡った」(同22節)と子供らに教えるためであり、「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためで」(同24節)です。

 

 そして同5章9節に「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた」と主は言われていました。ここで、「取り除く」と訳されているのが「ガーラル」という言葉で、そこから「ギルガル」という地名が生まれたということになっています。

 

 そのような主の御業を記念する大切な場所に、イスラエルの民は異教の神々の祭壇を築いていけにえをささげ、神殿娼婦たちによる淫行を行っていたのです。「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」(15節)というのは、このことを言っているのです。イスラエルの恥辱が取り除かれた場所、救いの御業が実現した場所が、主の憎まれる場所、民が主に捨てられる場所となったのです。

 

 10節に「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見出した。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」とあります。バアル・ペオルは、モアブの地にある町です。ペオルは、モアブで礼拝されている神で、民数記25章3,5節に「ペオルのバアル」と記されています。

 

 エジプトを脱出した民が、モアブの娘たちと異教の神の儀式に加わり、主の怒りを招きました(同1節以下)。つまり、イスラエルの民は、エジプトを脱出し、約束の地に到着する以前から、主に背く者たちだったわけで、その意味で「彼らの悪はすべてギルガルにある」ということは、約束の地に入ったとき、その初めから彼らは偶像礼拝の罪を犯していたということでしょう。

 

 上述のとおり、ギルガルはイスラエルの初代の王サウルが即位したところです。そのこと自体に問題があるというわけではありませんが、イスラエルの民が王を立てるように求めたことについて、サムエルの目には悪と映ったと告げられておりました(同8章6節)。

 

 さらに、サムエルの祈りに主が、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」(同7,8節)と言われています。

 

 8章4節で「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない」と言われていましたが、それは、サムエル記上8章の出来事を指しているということも出来ます。

 

 私たちはどなたを王としているのでしょうか。どなたの言葉に耳を傾け、どなたの言葉に従って歩んでいるのでしょうか。絶えず心の王座を主イエスに明け渡して、王の王、主の主として拝し、その御言葉に聴き従って参りたいと思います。

 

 主よ、私たちは常にあなたの助けと導きを必要としています。あなたなしに生きることは、到底出来ません。あなたこそ私たちの神、あなたこそ私たちの王です。どうぞ私たちの心の真ん中においでくださり、瞬間瞬間、私たちの人生を導いてください。そうして、あなたの望まれるとおりの者とならせてください。 アーメン

 

 

「ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。」 ホセア書10章15節

 

 1節に「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい」と言います。イスラエルがいかに成長し、繁栄しているかを思い起こさせる言葉です。しかしながら、繁栄するにつれて異教の祭壇が増え、バアルを示す石柱がかしこに立てられていきました。

 

 イスラエルの民は、その繁栄をバアルを初めとする異教の神々のお蔭と考えているわけです。それゆえ、「彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」(2節)と、主の裁きが宣せられるのです。

 

 3節の「今、彼らは言う。『我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか』と。」とは、アッシリアに攻め込まれて首都サマリアが陥落し、ホシェア王が捕虜となることを預言したものでしょう(列王記下17章)。

 

 あるいは、王の名に値する者がいないということなのかもしれません。1章1節のホセアが生きた時代の北イスラエルの王の名が、ヨアシュの子ヤロブアムのほかには記されていないというのが、その証拠と言えます。実際には王はいましたが、彼らは主を畏れ敬わず、主の目に悪とされることを行い続けていたので、滅びを免れることはできなかったのです。

 

 14節に「シャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも撃ち殺したあの戦の日」という言葉があります。シャルマンという人物は他の箇所に出ませんが、ティグラトピレセルをプルと呼ぶ慣習から(王下15章19節)、列王記下17章3節等のシャルマナサル(5世、紀元前727~722年)か、同名のシャルマナサル3世(ティグラトピレセルの子、紀元前859~824年)とする意見があります。

 

 シャルマナサル3世の碑文によれば、紀元前853年にオロンテス地域のハマト北方で北イスラエルのアハブと対決しています。アハブは、アラムのベン・ハダド(両者の関係は列王記上20章1節以下を参照)に戦車2千両と兵士1万を提供してアッシリアに対抗したとされています。つまり、シャルマナサル3世はイスラエルに侵入して来た最初のアッシリア王ということになります。

 

 ベト・アルベルという町の名前も、ここ以外に記されてはいませんが、ヨルダン川東部ギレアドの町でガリラヤ湖の南東30㎞にある今日のイルビドのことであろうと考えられています。この町は交通の要衝にあって、軍事的にも重要な町であったことが知られています。

 

 聖書に記されていないこの戦いのことを、当時の人々はよく知っていたことでしょう。だから、ベト・アルベルの戦いを取り上げた上で、冒頭の言葉(15節)で「ベテルよ」と呼びかけているのです。そしてホセアは、「お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる」と言います。

 

 ベテルはイスラエルでよく知られた町です。かつてここは、イスラエルの父祖ヤコブが、兄エサウの祝福を奪ったことで、ベエル・シェバからハランの地まで逃れる旅をしている途中(創世記28章10節)、神と出会い、祝福を受けた場所です。

 

 そのとき神は、①この地を与える。②数が増し、四方へ広がる。③神が共にいる。④どこに行っても守る。⑤必ずこの地に連れ帰る。⑥約束が実現するまで見捨てないと約束されました(同13節以下)。そして、神の約束どおり、ヤコブは多くの財産を携え、ハランの地から故郷へ戻って来ました(同31章)。

 

 神の御言葉は信ずべきです。神の約束は必ず実現するのです。ベテルとは「神の家(ベト=家、エル=神)」という意味ですが、ヤコブは荒れ野で主なる神と出会い、主の祝福の言葉を聴いてその地をベテルと名づけたのです。

 

 主なる神と出会い、その御言葉を聴くところがベテルであれば、今日のベテルはどこにあるのでしょうか。そうです。どこにでもベテルがあります。私たちが神を慕い求め、御言葉を聴こうとするなら、どこでもベテルです。

 

 ところが、この町が滅ぼされ、「夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」と言われています。かつてイスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエルを治めた初代の王ヤロブアムは、金の子牛の像を2体作り、一つをベテルに、もう一つをダンに置きました(列王記上12章28節以下)。さらに、ベテルに異教の神の像を祀る神殿を建て、祭司を配置しました(同31節以下)。

 

 以後、北イスラエルの王は、神に背く罪を繰り返します。列王記の記者はそのことを、「彼は主の目に悪とされることを行って、ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」と語っています(同15章34節、16章19節、30,31節、22章53節など)。

 

 ところで、5節の「サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ」という言葉は、ベテルのことを語っているものと考えられます。「ベト・アベン」とは、9章で学んだように、「不義、邪悪の家」という意味です。ホセアはここで、イスラエルの民はヤロブアム以来、真の神と出会うべき「ベテル(=神の家)」を、「ベト・アベン(=邪悪の家)」にしてしまったと断罪しているわけです。

 

 ベテルの町、ベテルの神殿がイスラエルを祝福するのではありません。金の子牛がイスラエルを守ることもありません。イスラエルを祝福されるのは、生ける真の神です。イスラエルの民を守られるのは、真の主なる神のみです。

 

 異教の神を祀ってまことの神を怒らせ、その保護を失った北イスラエルは、ホセアが語ったとおり、アッシリアに滅ぼされ、民は捕囚となりました。そして、今に至るまで再び王が立てられたり、王国を再建したりすることなど出来てはいません。

 

 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)と言われます。主を信じ、愛しましょう。

 

 主よ、私たちの耳を開いてください。日々主の御言葉に耳を傾け、御旨を深く悟ることが出来ますように。主を信じ、謙ってみ言葉に従うことが出来ますように。全身全霊をもって主を愛し、主から愛された愛をもって隣人を愛し、神の家族として互いに愛し合うものとしてください。御心がこの地に行われますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」 ホセア書11章9節

 

 11章では、神とイスラエルとの関係が、親子関係に比して述べられます。

 

 1節に「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とあります。主なる神はエジプトの奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を憐れみ、養子縁組して、ご自分の子として迎えてくださったのです。

 

 そして、絶えず呼びかけ(2節)、手を取って立たせ、歩くことを教え、病のときに看病してやリ(3節)、また、食物を与えました(4節)。しかしながら、恩知らずにもイスラエルの民は主なる神から離れ、バアルにいけにえを捧げ、偶像に身を屈めました(2節)。

 

 申命記21章18節以下に、両親に反抗するわがままな息子は、町の長老に訴え出て、町の全住民によって石を投げつけられると規定されています。ということは、主はイスラエルの民を子とした親として、どんなに愛を注いでもご自分の御声に耳を傾けようとしないわが子イスラエルに石を投げつけ、この悪を取り除く義務があるわけです。

 

 「彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる」(5節)と言われます。いわば、エジプトやアッシリアが町の全住民であるかのように、主に背き、親に反抗するわがままな息子イスラエルに向かって石を投げつけることになるわけです。

 

 8章13節に「今や、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない」とありました。これは、エジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルが、元の奴隷状態に戻されるということで、神の救いが無効となったということを表わしています。

 

 5節で「彼らはエジプトの地に帰ることもできず」というのは、「彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」という言葉に対応しています。即ち、主なる神に立ち帰ることと、エジプトに帰ることが対比されているわけです。そしてその裁きは、エジプトに戻るということではなく、アッシリアによって滅ぼされ、奴隷とされるということなのです。

 

 しかし、主はイスラエルを愛し、憐れまれるがゆえに、イスラエルを裁くことを苦しまれました(8節)。愛することは、苦しみを担うことでもあると教えられます。主なる神がイスラエルの痛みをご自分の苦しみとして味わわれると言ってもよいでしょう。

 

 ギリシア語の「憐れむ」(スプランクニゾマイ)は、「腸(はらわた:スプランクナ)が痛む」という言葉です。沖縄の言葉で、「憐れむ」ことを「肝苦(ちむぐ)りさ」と言います。いずれも他者の苦しみを自分の内臓の痛みとして感じるという言葉で、それほどに相手のことを思っているという表現です。

 

 ヘブライ語には、「ラハミーム(憐れみ、compassion)」という言葉があります。これは、「子宮(レヘム)」の複数形です。おなかを痛めて産んだ我が子のことを愛する母親の思いが、そのような言葉になっているのでしょう。

 

 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き離すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか」(8節)と言われます。アドマ、ツェボイムは、ソドムとゴモラ同様、その罪ゆえに神が怒って滅ぼされた町です(申命記29章22節、創世記19章25節)。

 

 イスラエルに対して、アドマやツェボイムと同じ扱いが出来るかと自問され、ご自分の選びの民に対する憐れみが、主の御心の内に燃え上がります。憐れみゆえの苦しみを担われた主は、冒頭の言葉(9節)のとおり「もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない」と決心されました。主の憐れみが怒りを覆い、イスラエルの赦しを決意されたわけです。

 

 「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)とは、「神は愛です」(第一ヨハネ書4章8,16節)ということですが、罪の赦しは妥協ではありません。甘やかしでもありません。

 

 赦しの前には裁きがあり、罰があります。主は、罪の裁きと罰を曖昧にしたのではありませんでした。裁きと罰を主がご自分の身に受けられるのです。主が自らに裁きを課すのです。それが神の愛であり、それゆえの神の独り子イエス・キリストの十字架の死なのです。

 

 即ち、神の義と愛は対立する概念ではなく、同義と言ってよいでしょう。神の義は愛の内に打ち立てられ、神の愛は義を全うします。私たちは御子の贖いのゆえに罪赦され、愛ゆえに永遠の命に生かされているのです。

 

 私たちは、罪と死の奴隷の苦しみから贖われました。神の子として生きる道が開かれました。私たちのために、永遠に住むべき場所が用意されました。平安のうちに豊かに歩むことが出来ます。神の愛と憐れみに瞬間瞬間感謝しましょう。いつも喜んで歩みたいと思います。祈りを通して絶えず神と交わりましょう。どんなことにも神の導きと勝利を信じて感謝しましょう。

 

 主よ、あなたの深い愛と憐れみのゆえに、心から感謝します。絶えず主の慈しみの御手のもとに留まらせてください。弱い私たちを助け、御言葉と祈りによって義の道、平和の道、真理の道に導いてください。 アーメン

 

 

「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた。ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。」 ホセア書12章1節

 

 12章は、11章と打って変わって、厳しい裁きの言葉で終始しています。ここには、イスラエルの父祖ヤコブについての言及があります。それは、好意的なものではありません。むしろ、マイナス・イメージで語られています。

 

 冒頭の言葉(1節)で「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもってわたしを取り巻いた」と語ります。ここに、イスラエルについて語る言葉として「偽り」(カハシュ)、「欺き」(ミルマー)という言葉が出て来ました。

 

 続く「ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している」という言葉は、原文を直訳すると「ユダはなお神と共にさまよっていた、聖なる者たちと共に確かにされて」となります(口語訳、新改訳、岩波訳など参照)。

 

 つまり、新共同訳と他の訳では、意味内容が全く食い違っています。「神と共にさまよっていた」をどう解釈するのかというところで、新共同訳のような訳語が考えられたのではないかと想像します。

 

 ただ、エフライムの「偽り」、イスラエルの「欺き」に対して、ユダについて「信じる、信頼する」(アーマン)という言葉が用いられているということは、ホセアとしては、主はイスラエルに真実、信頼を期待していたのに、偽りと欺きで応えたと、より一層強くイスラエルを非難する言葉として、そのように告げたのではないかと思われます。

 

 そのことで、ホセアはイスラエルの父祖ヤコブについて、「ヤコブは母の胎にいたときから兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」(4,5節)と言います。

 

 ヤコブが兄エサウから長子の特権を奪い(創世記25章19節以下)、母リベカに促されて父の祝福を欺き取ったこと(同27章)、そして、ヤボクの渡しでの神の使いと格闘したことを(同32章23節以下)、そのように言っているわけです。

 

 そう考えると、9節の「エフライムは言う。『わたしは豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい」という言葉は、ヤコブがパダン・アラムの伯父ラバンの所(創世記28章5節)でたくさんの子どもや家畜などを持つようになったことを示しているようです(同30章25節以下、31章参照)。

 

 勿論、ヤコブが9節の言葉のように語ったという事実は、聖書の中に見出すことは出来ません。エフライムはヤコブの子ヨセフの次男です。つまり、ヤコブ=イスラエルの子孫の態度は、まるで主に向かってそのようにうそぶいているようなものだと、ホセアが語っているわけです。

 

 一方、イスラエルの偽りに対して、主の真実が示されます。父と兄を欺いて逃亡せざるを得なくなったヤコブを主なる神はベテルで見出し、彼に語られました(5節、創世記28章10節以下参照)。そして、「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」(7節)と招いています。

 

 「多くの預言者たちに言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示した」(11節)というのも、主の愛と真実の表れです。一人の預言者モーセを遣わして、イスラエルの民をエジプトの奴隷の地から約束の地へ導き上ったのは(10,14節)、彼らが、愛と正義によって生きることが出来るようにするためだと語っているのでしょう。

 

 このように、主なる神が愛と信実をもって語り続け、招き続けておられるのに、イスラエルは偽り、欺き、背き離れてさまよっています。そしてそれは、元来、ヤコブ=イスラエルが偽る者、欺く者だったからだと言われているわけです。

 

 具体的には、2節に「アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ」とあるように、真の王なる主に頼るのではなく、アッシリアとエジプトというイスラエルを挟んで南北に位置する大国に対する外交政策で国を守ろうとしています。

 

 また12節に「ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない」と言われ、ヤロブアムがベテルとダンに配置した金の子牛を拝ませた偶像礼拝の罪(列王記上12章28節以下)が、イスラエルの各地に広げられていることを示します。

 

 そして、そのような偽り、欺き、背く者を愛し、真実をもって「神のもとに立ち帰れ」と招き続けられた主が、ここでイスラエルの民に「エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し、その恥辱を彼に返される」(15節)と、最後通牒を突きつけておられるのです。

 

 主がイスラエルに求めておられるのは、自分の偽りと欺きを認めること、そして、自分自身を主の真実に委ねて従うことです。私たちは「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり」(エフェソ書2章3,4節)、救いの恵みに与らせてくださったのです。

 

 私たちが神の子と呼ばれることのために、父なる神が私たちをどれほど愛してくださっているか、考えて見ましょう(第一ヨハネ書3章1節)。主の恵みによって今日の私やあなたがあるのです。その恵みを無駄にせず(第一コリント書15章10節)、主の業に常に励みましょう(同58節)。

 

 主よ、どうか霊と真理をもってあなたを礼拝する者とならせてください。あなたは霊であられ、また真理であられるからです。霊のあるところに自由があり、また、真理は私たちを自由にします。主イエスの愛と恵みが、常に私たちと共にありますように。 アーメン

 

 

「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる。」 ホセア書13章15節

 

 エフライムは、ヨセフの2番目の息子であり、ヨセフは、イスラエルの父祖ヤコブの12人中11番目の息子です(創世記41章52節)。ヤコブが子らのために祈るにあたり、ヨセフに最大の祝福を与えました(同49章参照)。それに先立って、ヤコブはヨセフの息子たちのために祈りましたが、長男マナセよりも次男のエフライムを祝福しました(同48章12節以下)。

 

 出エジプトの民が約束の地を分配したとき(ヨシュア記13章以下)、マナセとエフライムは約束の地の中央部分を分け与えられています。エフライムとは、「実り豊かな地」という意味ですが、その名のとおり、エフライムは豊かな山林地帯でした。今でもぶどうやザクロ、オリーブなどが穫れます。

 

 特に、エフライムの嗣業の地は、宗教的、政治的に重要なところで、預言者サムエルは、エフライム山地のシロで祭司エリに仕えました(サムエル記上1章21節以下)。シロには、サムエルの時代までイスラエルの神の契約の箱が置かれていました(同3章3節)。

 

 また、エフライムの南境にあるベテルは、ヤコブが主なる神と出会った場所であり(創世記28章19節、31章3節)、イスラエルにとって神を礼拝する重要な場所です。士師時代には、ベテルに神の箱が置かれていて(士師記20章18節以下、27節)、イスラエルの人々は礼拝のため、また主の御旨を問うためにベテルを訪れました。

 

 また、モーセの後継者ヌンの子ホシェア(=ヨシュア)がエフライム族出身であり(民数記13章8,16節、27章15節以下)、イスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエルの最初の王となったのが、エフライム族出身のネバトの子ヤロブアムです(列王記上11章26節、12章25節)。

 

 かくて、ヤコブの祝福の祈りは、確かに適えられたのです。けれども、エフライムは今や、その祝福を失おうとしています。それは、彼らが満ち足りて高慢になり(6節)、恩を忘れて神の忌み嫌われる異教の神の像を造ることに没頭し、「子牛に口づけ」、即ち、偶像礼拝への愛を表してさえいるからです(1,2節)。

 

 主が国を二分され、北10部族をヤロブアムに預けられるとき、「あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目に適う正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする」(列王記上11章38節)と言われていました。

 

 しかるにヤロブアムは、王となると直ぐベテルとダンに金の子牛の像を置き、ベテルで自らいけにえを献げ、香を炊きました(同12章25節以下)。彼に続く北イスラエルの王たちは、その罪から離れませんでした(同15章25,33節など)。

 

 それゆえ、冒頭の言葉(15節)のとおり、イスラエルを裁く熱風が襲い掛かります。「主の風」(ルーアッハ・ヤハウェ)は、「主の息」と訳すことも出来、人を生かすためにその鼻から吹き込まれた命の息が(創世記2章7節)、ここでは、イスラエルを滅ぼす熱風となったわけです。

 

 熱風で水が涸れたということは、命を守ることが出来ないということであり、あとは荒れ廃れるばかりだということです。自然現象による東からの熱風は、イスラエルに干魃をもたらしますが、「すべての富、すべての宝は奪い去られる」ということから、荒れ野から吹き付ける熱風とは、アッシリアを指していると考えることが出来ます。

 

 エレミヤが「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたし(神)を捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることの出来ない壊れた水溜めを」(エレミヤ書2章13節)と預言していますが、それはホセアの預言と同じ消息を物語っているわけです。ということは、南ユダは北イスラエルの滅亡に学ばず、その罪から離れられなかったわけです。

 

 「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」(14節)とは、死の呪い、陰府の滅びがエフライムの上に早く来るようにということです。けれどもパウロが「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント書15章55節)というとき、それはどこにもないということを示しています。

 

 誰も自分で罪に打ち勝つことは出来ませんでしたが、主イエスによって神は私たちに勝利をお与えくださったのです。それは、一方的な神の恵みです。主イエスを信じるだけで、その恵みに与ることが出来ます。

 

 あらためて、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われるように、神の恵みを受けるほどに絶えず謙り、その神の恵みを無駄にしないようにしなければなりません。神に聴き、神に従いましょう。御声がかけられたら、いつでも「はい」と応答する者でありたいと思います。

 

 主よ、御名が崇められますように。御国がきますように。御心が行われますように。私たちは、主の贖いの御業のゆえに救いの恵みに与りました。、その深い愛と憐れみのゆえに心から感謝します。私たちを神の御霊に満たし、福音の前進のために用いられる器としてください。 アーメン

 

 

「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」 ホセア書14章5節(口語訳・新改訳聖書は4節)

 

 ホセア書最後の章でホセアは、「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は撃ち殺され、妊婦は引き裂かれる」(1節)と告げます。ついにサマリアがアッシリアの前に陥落します(紀元前722年)。背きの罪が主なる神に裁かれたのです。

 

 しかしながら、それで終わりというわけではありません。ホセアは続けて、「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」(2節)と招きます。それは、悔い改めへの招きです。悔い改めとは、罪の懺悔ということもありますが、方向転換して、何よりもまず心を主なる神に向けること、そして、主の御言葉に聴き従うことです。

 

 そしてホセアはイスラエルの民に、悔い改めの言葉を教えました。初めに「すべての悪を取り去り、恵みをお与えください」(2節)と、赦しを請う祈りの言葉を口にします。イスラエルの民にとって悔い改めとは、主なる神の前にいけにえを献げることではなく、主の恵みを慕い求める心からの祈りを捧げることなのです。

 

 そして、「この唇をもって誓ったことを果たします」(2節)と、誓いの言葉を口にします。その誓いは「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません」(4節)というもので、アッシリアやエジプトという大国の力に頼ることをやめ、戦車や騎馬など、軍事力に頼って国を守ろうとすることをやめるという宣言です。

 

 また「自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません」(4節)と言い、ダンとベテルに置かれた金の子牛の像を拝み、またバアルに仕えるという偶像礼拝と訣別することを宣言することで、主なる神の裁きを招いたヤロブアムの罪から離れ、主に信じ従うことを表明するのです。

 

 そこで主は、素晴らしい約束を与えてくださいました。それが冒頭の言葉(5節)です。主は、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」と告げられ、「まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った」と宣べられました。民の悔い改めに対する応答として、主の愛がここに示されています。

 

 その愛を「露のようにわたしはイスラエルに臨み」(6節)と、乾いた地を潤して草木に生命を与える「露」として表現し、「彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る」(6,7節)と言います。

 

 また「その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く」(8節)と、照りつける太陽から守る「陰」として、主の愛を表現します。主の愛の翼の陰(ルツ記2章13節)に守られたイスラエルの人々は「レバノンのぶどう酒のようにたたえられる」(8節)と言われ、主の良き香りを放つものとされています(第二コリント書2章14節)。

 

 このように、イスラエルの民に祈りの言葉を教え、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」(5節)と言われるのは、悔い改めを口にすれば赦してやるぞということではありません。既に主はイスラエルを赦しておられるのです。癒やしを用意しておられるのです。そうする以外に、イスラエルの民が主に立ち帰り、恵みを得る道はないからです。

 

 ここに、主なる神の深い憐れみが示されます。主は「咎につまずき、悪の中にいる」(2節)イスラエルの人々、裁かれてアッシリアによる首都サマリアの陥落、滅亡を招いたイスラエルの民に、悔い改めて主のもとに立ち帰るようにと招き、そして、帰ってきた民に豊かな恵みを与えようとしておられるわけです。

 

 しかしながら、この預言がいまだ実現していないことを、私たちは知っています。むしろ、アッシリアに滅ぼされて以来、北イスラエル10部族は完全に失われてしまいました。とすれば、この預言は当たらなかったということになるのでしょうか。悔い改めへと招いたのに、彼らがそれに従わなかったから、滅ぼされてしまっても仕方がなかったということでしょうか。

 

 そうかもしれません。けれども、これは、もっと広い約束なのではないでしょうか。神は石ころからでも、アブラハムの子たちを造ることがお出来になります(マタイ3章9節)。自らの背きの罪を刈り取らなければならなかったイスラエル、滅ぼされてしまった神の選びの民を、神は癒し、その繁栄を回復されるということであり、その希望が未来に置かれているのです。

 

 そればかりでなく、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民を憐れみ、ご自分の宝の民として選び出されたように(申命記7章6節以下)、罪の奴隷となっていた異邦人の私たちを、ご自分の民に加えることがお出来になります。そのために主なる神は、主イエスの十字架の贖いを通して、私たちが神の御前に進む道を開いてくだいました。

 

 だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づくことが許されるのです(ヘブライ書4章16節)。

 

 ヤコブ書4章8~10節に「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」と記されています。

 

 「喜んで彼らを愛する」と宣言される主を仰ぎ、神に従って「主の道」(10節)を歩ませていただきましょう。主に信頼し、大胆に恵みの座に近づきましょう。

 

 主よ、背き続けてきた私たちをも悔い改めへと招き、救いと癒しをお与えくださる御愛と御恵みに、心より感謝します。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。「アバ、父よ」と呼ぶ神の霊の導きにより、万事が益となるように共に働くという恵みに与らせてください。主に選ばれた者として、御旨を行う者としてください。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

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