ヘブライ書

 

 

「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」 ヘブライ人への手紙1章2,3節

 

 この手紙は、かつてはパウロによって書かれたと考えられました。それは、13章23節の「わたしたちの兄弟テモテ」という句から連想されたものです。それで、パウロ書簡の最後に配置されています。また、そう考えられたからこそ、新約聖書に取り入れられることになったのです。また、手紙の内容にもパウロを思わせるものがあります。

 

 しかし、手紙の通常の形式である冒頭の差出人の名前や宛名、宛先への挨拶や感謝の言葉などがありません。その他、用語法や旧約聖書の解釈の仕方などで、パウロとの違いが目立ち、最近の学者でこれをパウロの書いたものと考える人はほとんどいないようです。バルナバを著者とする立場もありますが、推測の域を出ません。因みに、宗教改革者ルターは、アポロだと言っています。

 

 表題の「ヘブライ人」について、この手紙がギリシア語で記されており、旧約聖書から引用するときも、ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)を用いていることから、パレスティナのユダヤ人ではなく、世界に散らされたディアスポラ(離散)のユダヤ人に宛てられているということでしょう。

 

 手紙の宛先について、13章24節の言葉からローマであろうと考えられています。だとすると、受取手はディアスポラのユダヤ人ばかりでなく、異邦人も少なからず含まれているローマの教会のキリスト者たちということになりそうです。執筆時期は、この手紙を引用しているクレメンス第一の手紙の成立(紀元95年頃)より前ということで、80年代と想定されています。

 

 この手紙は、旧約聖書を用いながら、イエス・キリストが神によって立てられた大祭司だということを論証しようとしています。その性格は、神学的論文というより勧告ないし説教というべきものです。構成は、例えばパウロ書簡では前半が教理的な叙述、後半が実践的な勧告となっているのに対し、本書では教理的叙述と実践ないし勧告の言葉が交互に現れています。

 

 1章は、4節までと5節以下の二つの段落に分けられます。文章の構成から、そのように分けられていますが、内容的には、4節の「御子は、天使たちより優れた者となられました」という言葉を、それ以下の文章で証明する形になっていて、3節までと4節以下に分けるというのもありそうです。

 

 新共同訳聖書は、最初の段落に「神は御子によって語られた」という小見出しをつけています。神は、御子イエスをこの世にお遣わしになる以前、様々な方法で「先祖」に語られました(1節)。「先祖」とは、父祖アブラハムに始まる旧約のイスラエルの民のことです。最もよく用いられたのが「預言者たちによって」語るという方法です。

 

 そして、最終的な手段として選ばれたのが、冒頭の言葉(2節)の「御子によって」語るという方法です。何故そのように様々な方法が用いられたのかといえば、イスラエルの民がその声に耳を貸さなかったからです。その意味で、旧約でも新約でも、主なる神は民に語りかけ続けておられることが分かります。

 

 2~4節には、神の「御子」とはどういうお方なのかということが列挙されています。まず、「御子は万物の相続者」(2節)、「御子によって世界を創造された」(同節)と言われます。この世にお生まれになる前、主イエスは創造者であられ、復活後40日して天に昇られた後、その一切を相続されたということです。

 

 主イエスは神の御子ですから、当然のことながら、神が所有しておられるすべてのものの相続者であられます。また、御子イエスが天地万物の創造者であるという信仰は、ヨハネ福音書1章3節、第一コリント書8章6節、コロサイ書1章16節などにも見られます。すべてのものを創られたお方として、それを所有されることになるというわけです。

 

 次に、「神の栄光の反映」(3節)、「神の本質の完全な現れ」(同節)と言われます。「反映」は「輝き」(口語訳)とも訳されます。神が光であられ、その光が御子を通して伝えられ、輝き出るということです。これは、御子に神の栄光があるということです。反映、輝きは、光源なしに存在し得ません。ここに、父と御子の密接な関係が示されます。

 

 「神の本質の完全な現れ」とは、まことの神が人間となってこの世に来られたということです。御子がまことの神であるということを、「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる」(3節)と説明します。これは、神に創造された世界が、主イエスの御言葉によって支えられていること(コロサイ書1章17節参照)、つまり、創造の業が御子の働きで継続していることを示しています。

 

 御言葉の力は、その真実さにあります。神の御言葉は必ず実現するのです(ルカ福音書1章45節)。特に、神の真実は、御子キリストによる贖いを通して示されました。御子がこの世に来られたのは、「人々の罪を清める」(3節)ためでした。その御業によって、私たちは今生かされ、支えられているのです。

 

 キリストは十字架に死んで葬られた後、三日目に復活され(第一コリント書15章3,4節)、40日後に天に上げられ(ルカ福音書24章51節、使徒言行録1章3節)、神の右の座に着かれ、私たちのために執り成しておられます(8章1節、ローマ書8章34節)。「天使たちより優れた者となられ」(4節)たことが、御子キリストが再び神の右に着座されたことで証明されたのです。

 

 ここに、人となられた神の御子イエス・キリストは、まことの神、主の主であられることを、あらためて確認させていただきました。神は今も、御子キリストを通して、私たちに語りかけておられます。

 

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と言われた主イエスの御言葉に日々耳を傾け、その真実に触れ、素直にその導きに従いましょう。

 

 主よ、すべての人々の罪を贖い、救いの道を開いてくださったことを心から感謝致します。御言葉の力をもって万物を支えておられる御子キリストが、完全な救いを成就するために再びおいでになるのを、待ち望んでいます。主イエスの福音に相応しく、日々歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」 ヘブライ人への手紙2章10節

 

 御子キリストは天使に勝る存在であるということが、1章から繰り返し語られています。2章でもこのテーマが引き継がれて語られています。その論拠として、6~8節に詩編8編5~7節の御言葉が引用されています。

 

 7節に「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが」とあります。神の御子イエス・キリストが人間の姿をとってこの世に来られたことを、天使たちよりも低い者とされたというのです。

 

 しかし、旧約聖書の詩編8編で語られているのは、キリストのことではなく、私たち人間のことです。同8編6~7節に「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」とあります。即ち、人間は神よりも僅かに低く造られたと言われているのです。

 

 これは、ヘブライ書の著者が訳し間違えたり、訳文を勝手に改変したりしたということではありません。ギリシア語訳旧約聖書(70人訳:セプチュアギンタ)を正確に引き写しただけです。新共同訳の旧約聖書はヘブライ語原典から翻訳されたもので、ヘブライ語原典とギリシア語訳旧約聖書の文章にその違いがあったのです。

 

 何故その違いが生まれたのか、明確に説明することは出来ませんが、しかし、ここに神の摂理があると思います。人は、すべての被造物と同様、神によって創造されました。そこには何の相違もありません。ただ、神が人をご自分のかたちに、ご自身に似せて創造されました(創世記1章26,27節)。

 

 それは、ただ単に外形のことではありませんでした。神は人に、「地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(同28節)と命じられ、地のすべての被造物を支配するという使命を授けられたとき、神よりも僅かに低い者、他の被造物にとって、人が神のような存在となったわけです。

 

 ところが、人間はその栄光を、呪いに変えてしまいました(創世記3章参照)。それが、神の禁止命令に背き、自ら神のように賢くなろうとした結果でした。しかるに神は、御子キリストを人間としてこの世に遣わし、その栄光を回復するための贖いの供え物とされました(第一ヨハネ書2章2節、4章10節)。

 

 主イエスは地上にあるとき、ご自分を絶えず「人の子」と呼ばれました(マルコ福音書2章10,28節、8章31,38節など)。そして、私たち人類の罪の呪いを引き受け、十字架の死によって贖いの業を成し遂げられました(ガラテヤ書3章13,14節)。

 

 9節で「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています」と言います。神の右に着座されたからというのではなく、自らを贖いの供え物として死の苦しみを通られ、私たち人間の救いの道、かつての栄光を回復する道を開かれたゆえに、栄光と栄誉の冠が授けられたというのです。

 

 冒頭の言葉(10節)は、その根拠、理由を説明します。ここに「救いの創始者」と言われるのは、主イエスのことです。主イエスは、万物の創造者にして相続者なるまことの神です(1章2節)。そして、人間となってこの世に来られ、十字架の死によって人々の罪を清めた後、天にお帰りになられました(同3節)。

 

 その主イエスが、十字架の死に象徴される様々な苦しみを味わわれたのは、苦しみを通して完全な者とされることが、万物の目標であり源である方にふさわしいことだったからです。神の御子であられ、まことの神であられる主イエスが、完全な者とされるために苦しみを通らなければならなかったというのは、どういうことなのでしょうか。

 

 著者は、「神の御子が苦しまれたのはなぜか」という問いを、自ら考えていたのではないでしょうか。あるいは、その質問をディアスポラのユダヤ人たちから突きつけられていたのかもしれません。

 

 その問いに対する回答として、主イエスが苦しまれたのは、万物の目標であり源である方が完全な者とされるためにふさわしいことだったから、そして、救いの創始者として、多くの子らを栄光へと導かれるために、苦しみを通られたのだと語っているのです。

 

 「完全な者とされた」というのは、「完成する、成就する」(テレイオオー)という言葉です。罪の苦しみの中にいる「多くの子ら」を栄光へと導く救いの業の完成のために、万物の源、創造者なる神の御子がその呪いを受けられました。

 

 その贖いの業を成し遂げて、神の右の座に着かれ、万物の目標となる道を完成されたのです。1章4節で「御子は、天使たちよりも優れた者となられました」と言われているのも、このことです。

 

 さらに17,18節で「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と言われています(5章7節以下も参照)。

 

 これは、単に同じ苦しみを経験しているので、同情することが出来るという意味ではありません。それ以上のことです。というのは、14,15節に「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」と言われているからです。

 

 逆に私たちの立場から言えば、キリストが私たちの罪のために神の呪いを受け、十字架で苦難の死を遂げてくださったことに比べれば、そして、それによって私たちに与えられる重い栄光を思えば、私たちが信仰のゆえに味わう苦しみは取るに足りないということになります(ローマ書8章18節、第二コリント書4章17節、第一ペトロ書4章13節など参照)。

 

 その光栄をどのように表現したらよいでしょうか。やがて、まことの救いが完成し、栄光が授けられるときを待ち望みながら、今このとき、主の御言葉に聴き従いつつ、委ねられた御業に励みたいと思います。私たちが主イエスを、自分の主とし、神とさせていただくことの出来た光栄を、心から神に感謝しましょう。

 

 主よ、御子キリストをこの世にお遣わしくださり、救いの道をお開きくださって心から感謝します。そのご愛が今も私たちに豊かに注がれています。私たちを栄光に導くための御子の受難であったことを覚え、私たちも信仰の道を全うしたいと思います。聖霊によって私たちの歩みを支え、導いてください。 アーメン

 

 

「さて、モーセは将来語られるはずの音を証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」 ヘブライ人への手紙3章5,6節

 

 1節に「兄弟たち」と呼びかける言葉が登場します。旧約聖書に291回「兄弟」という言葉が出て来ますが、それは、実の兄弟か、またはイスラエル同胞を指す言葉として用いられています。新約聖書中には311回登場します。

 

 福音書では、主イエスが御自分の前にいる聴衆に向かって「わたしの母、わたしの兄弟」(マルコ福音書3章34節)と言われました。そして、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(同35節)とも言われて、ユダヤ人であってもなくても、神の御心を行う者はだれでも、主イエスの家族であると言われていることが分かります。

 

 だから、使徒たちがその手紙の中で異邦人クリスチャンに対しても、神の家族として「兄弟たち」(ローマ書1章13節、第一コリント書1章10節、ガラテヤ書1章11節、フィリピ書1章12節、コロサイ書1章2節、第一テサロニケ書1章4節、ヤコブ書1章2節、第二ペトロ書1章10節、第一ヨハネ書3章13節など)と呼びかけているわけです。

 

 主イエスを信じる者たちのことが、「天の召しにあずかっている」(1節)と言われます。「天」とは主なる神のことで、天の召しとは、神に呼び出されることを意味します。これは、私たちがイエスを選び、主と信じたのではなく、主が私たちを呼び出し、信仰に導いてくださったという表明です(ヨハネ福音書15章16節参照)。

 

 神は、御自分の独り子をお与えくださるほどにこの世の人々を愛し(同3章16節)、御自分のものとしようとして、名前を呼んでくださいました。「聖なる」(1節)というのは、神のものとして区別されたという意味です。神に名を呼ばれてそれに応答した者たちを、「聖なる兄弟たち」というのです。

 

 読者に「兄弟たち」と呼びかけてから、「考えなさい」(カタノエオー)という命令が記されています。これは「熟慮する、見抜く」という言葉で、主キリストのご人格、ご本性をしっかりと見抜きなさい、捉えなさいということです。そして、読者が悟り、認めるべき主キリストのご人格、ご本性として、「使者であり、大祭司であるイエスのことを」と言います。

 

 「使者」(アポストロス)とは「遣わされた者」という意味で、新約聖書ではおおよそ、「使徒」と訳される言葉です。主イエスを「使者」というのは、ここだけです。そのようにいう背景に、ラビの「シャーリーアハ」(神から委ねられ、全権を与えられた者)の概念と関係しているという注解を読みました。

 

 また、「大祭司」(アルキエレウス)と言います。大祭司とは、「祭司」(ヒエレウス)の「首長」(アルケー)を指す言葉です。主イエスを「大祭司」と呼ぶのも、このヘブライ書だけです。父なる神から遣わされて来た神の御子・主イエスを、大祭司として受け入れなさいというわけです。

 

 主イエスが「大祭司」であるということについて、2章17節に「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」と語られていました。

 

 大祭司は年に一度、贖罪日に至聖所に入り、動物を捧げて贖いの儀式を行います(レビ記16章)。しかるに主イエスは、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(9章12節)。その苦しみをもって民の罪を償い、試練を受けている人たちを助けることが出来るというのです(2章17,18節)。

 

 3節に「イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました」と記して、御子イエスがモーセに勝る存在であることを示しています。その根拠として、冒頭の言葉(5,6節)のとおり、「モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」と言います。

 

 モーセは、神の家の中で「仕える者」(5節、セラポーン:「召使、随行員」の意)です。一方、キリストは神の「御子」です。モーセは、「神の家全体の中で(in)忠実でした」。そして、「キリストは御子として神の家を忠実に治められる」(6節)という箇所を直訳すれば、「キリストは御子として神の家の上(over)である」となります。

 

 また、モーセの務めは「将来語られるはずのことを証しする」(5節)ためのものでした。「将来語られるはずのこと」とは、御子イエスによる全人類の救いの御業のことでしょう。モーセは、御子イエスが「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ書2章8節)であられたことの雛形として、神に忠実に仕えたということです。

 

 つまり、モーセはキリストの忠実さを証しする存在であり、キリストは十字架の死を通して全人類の救いの御業を実現されたお方だということです。

 

 さらに、モーセが仕えた「神の家」とは、旧約の律法に従うイスラエルの民を指しています。一方、キリストが上に立って治められる「神の家」とは、「わたしたち」(6節)イエス・キリストを信じるすべての民のことです。そこには、民族や年齢、性別などによる制限や差別はありません。私たちは皆、「キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ書3章28節)。

 

 ただ、そこには「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」という条件が加えられています。このように語られているのは、モーセの時代、荒れ野を旅していたイスラエルの人々は、モーセの執り成しにも拘らず、その荒れ野の試練の中で神に背き、信仰を忠実に守ることが出来なかったからです。

 

 だから、私たちがこの世において出会うあらゆる試練に対して、救いの確信を持ち、永遠の命に与る希望に満ちた誇りにより、忍耐をもって立ち向かうようにと勧告するのです。

 

 ヘブライ書の中で「確信」と「希望」は、何度も繰り返し出て来る重要なテーマです。御子イエスが最善に導くために私たちの上にあり、御手をもって守り導いておられることに信頼して、その御言葉に耳を傾け、その導きに感謝をもって忠実に従いましょう。そうして、まことの神の家なる教会を、ここにしっかりと建て上げていただきましょう。

 

 主よ、あなたは私たちの弱さをご存知です。そして、神の力はその弱さの中で十分に発揮されると言われました。弱さの中で力を発揮してくださる主の御手のもと、導きに従って歩ませて頂きます。信仰と希望と愛によってお守りください。 アーメン

 

 

「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」 ヘブライ人への手紙4章2節

 

 3章7節以下4章13節までの段落に、新共同訳は「神の民の安息」という小見出しをつけています。この段落の冒頭(3章7~11節)に詩編95編7~11節が引用され、3章7,8節の「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」という言葉が、この段落のテーマとなっています。

 

 冒頭の言葉(2節)で「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした」と言われていますが、これは、「神の安息にあずかる約束」(1節)が無駄になったということです。イスラエルの民にとって、「神の安息にあずかる約束」とは、約束の地カナンに安住することを意味します(申命記12章9節、詩編95編11節参照)。

 

 彼らは、その約束の言葉を嬉しく聞いたと思います。そして、神がその御言葉を実現してくださることを楽しみにしていたと思います。しかし、苦難や試練が襲ってきたとき、それに耐え難くなって指導者に向かってつぶやき、自分でそこから逃れようとしてしまったのです。

 

 イスラエルの民は、葦の海の奇跡(出エジプト記14章)によってエジプトを脱出した直後から、水がないと文句を言い(同15章22節以下、17章1節以下)、パンがない、肉が食べたいなどと不平を言っています(同16章2節以下、民数記11章4節以下など)。

 

 特に、この段落で問題にされている、イスラエルの民が神の御言葉に対して心を頑なにした結果、約束された安息に入ることが出来なかった(3章11節、17~19節)というのは、民数記13,14章に記されている出来事のことでしょう。

 

 主の「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」(民数記13章1節)という言葉に従って、モーセは12部族からそれぞれ1名ずつ指導者を立て、カナンの地の偵察に遣わします(同3節以下)。

 

 モーセは、彼らを遣わすにあたり、「その土地がどんなところか、住民は強いか弱いか、人数が多いか少ないか、土地が良いか悪いか、町の様子はどうか、天幕を張っているのか、城壁があるのか、土地は肥えているかやせているか、木が茂っているか否か、調べて来なさい。土地の果物を取って来なさい」(同17~20節)と命じました。

 

 40日後、偵察から戻って来た12部族の指導者たちは、「そこは乳と蜜の流れる所でした」(同27節)といって、取って来た果物を見せましたが、続けて「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、たいそう大きく、しかも、アナク人の子孫さえ見かけました」(同28節)と告げます。それは、カナンの地に行くべきではないという進言です。

 

 それに対して、「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」(同30節)と口を挟んだ人物がいます。それは、ユダ族の代表、エフネの子カレブです。カレブは、神の御言葉に従うべきだと主張したのです。

 

 しかし、他の者たちは反対し、「我々が偵察してきた土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がイナゴのように見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない」(同32,33節)と言いました。

 

 イスラエルの民はこの報告を受けて、安息の地を与えるという主の約束の言葉や、カレブの進言を退け、「どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか、妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返したほうがましだ」(同14章3節)と文句を言い、「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」(同4節)と言い出しました。

 

 そこで、これまで忍耐と寛容をもって導いて来られた神が、「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聴き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない」(同22,23節)と語られました。

 

 このようなことから、冒頭の言葉(2節)で、「その(神の)言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかった」と言われているのです。「結びつく」(シュンケランヌミ)というのは、「一緒に」(シュン)と「混ぜる」(ケランヌミ)の合成語で、単に混ぜ合わせるというのではなく、一種の化学反応によって、質の違うものが出来るという意味合いを持っています。

 

 この箇所では、神の安息に与らせる約束の言葉と、それを聞いた人々とが、信仰という触媒によって結びついていれば、彼らの内に全く違った反応が起こり、約束の安息に招き入れられたということになるわけです。そうならなかったのは、神の約束の言葉と人々を結びつける「信仰」が働かなかったからです。

 

 これは決して、他人事ではありません。だからこそ1節のごとく、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょうと警告されているのです。それは、その心配が小さいからではなく、むしろ、だれもがそうなってしまいがちだからです。だれが苦難の前に、不安なく立つことが出来るでしょうか。

 

 あらためて考えるまでもなく、思うに任せない出来事に出会うと、それがどんなに小さな問題であっても、胃が痛みます。眠れない夜を過ごすこともあります。そんな時、自分の信仰のなさを思い知らされます。お前は何を信じているのか、誰に依り頼んでいるのか、と叱られている思いがします。それなら、お前を安息に入れはしないと言われれば、反論できません。

 

 「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」(マタイ福音書8章26節)と主がペトロたちを叱責された言葉を思いつつ、「いいえ、怖がりません。主を信じています」と強がるのではなく、ありのまま素直に「怖いです、信仰のない私たちを憐れみ助けてください」と主に求めましょう(マルコ福音書9章24節を参照)。

 

 弱いからこそ、しっかりと一人で立てないからこそ、助けを叫び求めるのです。主にすがるのです。御言葉に留まらせてくださいと願うのです。信仰のないペトロを水の中から引き上げ、嵐の海を凪に変えてくださる主に信頼しているからです。

 

 子どもが親の顔が見えなくて泣くのは、不安で悲しいからですが、しかしそれは、絶望しているのではなく、泣いていれば、きっと助けに来てくれると信じているからでしょう。絶望している者は、泣くことさえしないでしょう。

 

 泣きさえすればよいとは思いませんが、でも、泣けることも幸せだと思います。私たちの涙を皮袋に蓄え(詩編56編9節)、その一粒一粒の思いをしっかりと受け止めてくださる主がおられるのは、本当にありがたい、感謝なことです。

 

 心を頑なにせず、愛の主の御手の守りと導きを信じ、信仰が強められて主の支えの中で御言葉に立たせていただきましょう。そして、主の約束が成就する恵みに与らせていただきましょう。

 

 主よ、あなたの福音の御言葉、贖いの御業、恵みの出来事を無益なものとすることがありませんように。たえず、私たちの心を探り、御前にふさわしくない思いがないか探ってください。弱い私たちを顧み、憐れみ、助けてください。御言葉によって正しい道に導いてください。主を信頼する信仰に立つことが出来ますように。 アーメン

 

 

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」 ヘブライ人への手紙5章7節

 

 新共同訳聖書は、4章14節から5章10節までの段落に「偉大な大祭司イエス」という小見出しをつけています。大祭司は、祭司のリーダーとして選び立てられ、神に仕える務めを行います。その際、大祭司に求められるのは、人の弱さに同情出来ることです(4章15節)。そのため、人と同じように試練に遭い、苦しみを共にするのです。

 

 自分で大祭司の職につくことは出来ません。神に召されて、その任務が授けられるのです(4節)。「アロン」(4節)は、エジプトからイスラエルの民を導き出すときに、モーセに代わって語り、執り成すために神から選ばれた最初の祭司です(出エジプト記4章14節以下)。その後、祭司はアロンの家系から選ばれるようになりました(レビ記1章47節以下、3章1節以下など参照)。

 

 彼らは、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(2節)。また、「その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません」(3節)。

 

 主イエスも、自ら大祭司となられたのではありません。神の御子ならば必ず大祭司になるというものでもありません。神が御子イエスを大祭司とされたのです(5節)。そのことを、詩編110編4節を引用しながら「神は他の箇所で、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と言われています」(6節)と記しています。

 

 「メルキゼデクと同じような祭司」ということについては、7章に詳しく説明されていますが、神が御子を「永遠に、メルキゼデクと同じような祭司」として選ばれたというのです。

 

 そして、冒頭の言葉(7節)のとおり、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言います。

 

 これは、ゲッセマネの園での祈りに示された主イエスの祈りの姿、態度のことを指しています(マルコ福音書14章32節以下など)。「激しい叫び声をあげ」、「聞き入れられました」という表現は、詩編22編25節から来ています。これは、ゲッセマネの祈りのときだけでなく、生涯を通じての主イエスの祈りの姿だったのではないかと、この箇所から教えられます。

 

 「涙を流しながら」というのは、ベタニア村のマルタとマリアの兄弟ラザロの死に際し、「イエスは涙を流された」(ヨハネ福音書11章35節)と記されています。死を悼むマルタとマリアのために、そして、死ぬべき運命にある私たちのために、人間を深く愛して、涙されたわけです。

 

 また、十字架にかかられるためにエルサレムに来られたとき、その都のために泣いて、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前に見えない」(ルカ福音書19章41,42節)と言われました。

 

 これは、エルサレムがローマによって壊滅させられることを思っての言葉でしょう。平和への道をわきまえず、神の訪れをわきまえないエルサレムのために泣き、そうして人のすべての罪を担い、十字架にかかってくださったのです。

 

 「畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」というのは、もちろん杯が取り除けられ、苦難を受けずに済んだということではありません。「御心に適うことが行われますように」という祈りが聞き入れられたということです。どんな苦難があっても、それが神の御心であるならば、甘んじて受けますという祈りを、神を畏れ敬う態度だというわけです。

 

 続く8節で、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と言います(2章10節も参照)。神の御子として天に留まっておられたならば、苦しみを味わうことはなかったでしょう。

 

 しかし、御子は神の命に従い、人間となってこの世に来られ、私たちの身代わりに十字架で死なれました。それ以外に、罪深い人間を救う道がなかったからです。本来、ご自身が受けることになるはずがない、そうする必要もない、神に呪われて捨てられるという、想像を超える大変な苦しみを、キリストが御自分の身に負われました。

 

 父なる神に従われることは、苦痛そのものだったでしょう。それにも拘わらず、神に対して徹底的に従われました(フィリピ書2章7,8節参照)。それが、「苦しみによって従順を学ばれました」という表現になっているわけです。この言葉から、従順というのは、苦しみを通らなければ知ることの出来ない恵みであると教えられます。

 

 神を畏れ敬う態度の故に、また苦しみによって従順を学ばれたが故に、偉大な大祭司となられた主イエスの執り成しによって、私たちは支えられ、守られています。主の憐れみを受け、恵みに与って、時宜に適った助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づきましょう(4章16節)。

 

 主よ、御子イエスが私たちの罪の代価を支払うために十字架に死なれただけでなく、天にあって私たちの永遠の大祭司として執り成し、助けをお与えくださることを感謝します。はばからず大胆に御前に近づきます。常に私たちを命の道に導き、そこから離れることがないようにしてください。そして、主の使命に応えて生きることが出来るよう、守り導いてください。 アーメン

 

 

「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」 ヘブライ人への手紙6章1,2節

 

 5章11節から6章12節までの段落に、「一人前のキリスト者の生活」という小見出しがつけられています。冒頭の言葉(1,2節)の最初のところに、「だからわたしたちは」とあります。「だから」(ディオ therefore)とは、前の文章を受けて語られる言葉です。

 

 前の文章で5章11、12節に「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」と記されています。

 

 それを受けて、「だからわたしたちは」(1節)というのです。そしてここに、「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々のバプテスマについての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」と、学ぶべき項目が列挙されています。

 

 ということは、これらをしっかりと学ぶ必要があるということです。けれども、「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」といいます。成熟した信徒となるために、初歩の段階から第2段階に進みなさいということです。

 

 第2段階と言いましたが、それはどのような内容なのでしょうか。先ほど、5章11節を見ました。そこに、「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」と記されています。「このことについては」とは、その前の段落、即ち、4章14節以下の「偉大な大祭司イエス」についてということでしょう。

 

 イザヤ書50章10節に「お前たちのうちにいるであろうか、主を恐れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」とあります。順風のときだけでなく、逆境の中にいるとき、闇の中、光のない中を歩くようなときも、主の御言葉に従って歩む者がいるだろうかと、イザヤはここに問うています。

 

 この信仰について、しっかりと学ばせて頂き、少しずつでも成長させて頂きたいと思います。謙遜に、「いつまでたっても信仰が成長しなくて」と言われる方がありますけれども、実はそれは、謙遜でもなんでもありません。主なる神は、成熟目指して進みなさいと言われているのであり、そのようになろうとしないのは不従順で、それは神に喜ばれないことだということを、心に留めるべきです。

 

 成熟目指して進まなければ、「堕落した者」(6節)となってしまいます。4節以下に「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神の素晴らしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち返らせることはできません。神の子を自分の手であらためて十字架につけ、侮辱する者だからです」と語られています。

 

 ここで、「光に照らされ」は、「光を与える」(フォーティゾー)という動詞の受身形の過去分詞が用いられています。これは、10章32節と共に、キリストによる救いの認識だけでなく、バプテスマを受けたことをも表しています(第二コリント書4章6節、第一ペトロ書2章9節参照)。「一度」(ハパックス)という言葉も、それを指し示しています。

 

 バプテスマを受けてキリスト者とされたことで、天来の様々な恵みをいただきながら、「堕落した者」となり、神の恵みを無価値なものであるかのように表明する生き方をするならば、それ以上の値の高いものを提供することは不可能であり、その人をもう一度方向転換させることは極めて困難です。

 

 神は私たちを、キリストの贖いによってよい畑にしてくださいました。恵みの雨を受け、御言葉の種が芽を出して大きく成長し、収穫を得るならば、神の祝福を受けます(7節)。けれども、御言葉に聴き従わず、自分の思いに任せて生活をするならば、いつの間にか、茨やアザミが生えてきます(8節)。

 

 主イエスが「種まきのたとえ」(マルコ福音書4章1節以下)で語られたとおり、茨の中に落ちた種は、茨が延びて覆い塞いでしまうので、実を結ぶことが出来ません(同7節)。そして、茨やあざみだらけの畑は、役に立たないため、呪われ、ついには焼かれてしまうのです(8節)。

 

 けれども、そうは言いながら、ここで著者が本当に語りたいのは、堕落した者を神が裁かれる、再び悔い改めて神に立ち返ることは出来ない、ということではありません。

 

 9節に「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と言われます。神は実に憐れみに富み、慰めに満ちたお方です。

 

 10節に「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」と記されています。

 

 マタイ福音書10章42節にも、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と語られています。神のための労苦、主の僕を励ました水一杯を、神はお忘れにならない、報いから漏れることはないと言われるのです。

 

 だからこそ、怠け者にならず、恵みの主を信頼して信仰に固く立とう、最後まで希望をもって主に仕えよう、と勧めるのです。パウロも、「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(第一コリント書15章58節)と語っていました。

 

 主は完全なお方であられるので、主に従順なすべての人を、信仰の成熟へとお導きくださいます。主に信頼し、御言葉に従って目標めざし、前進しましょう。

 

 主よ、私たちが信仰の基本を身に着け、信仰の深みへと主と共に漕ぎ出し、その恵みを豊かに味わうことが出来ますように。信仰の導き手であり、完成者であられる主イエスに倣い、成熟を目指して進むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「そこでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」 ヘブライ人への手紙7章25節

 

 7章全体が一つの段落で、新共同訳はそれに「メルキゼデクの祭司職」という小見出しをつけています。5章6,10節に記されていた大祭司メルキゼデクについて、ここに詳しく説明されています。

 

 「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でした」(1節)。メルキゼデクとは、「義」(ツェデク)の「王」(メレク)という意味の名前です(2節)。また、サレムの王とは、サレムがエルサレムのことで(詩編76編3節参照)、またシャロームと同根の「平和」を意味する言葉なので、「サレムの王、つまり平和の王」(2節)と言われるのです。

 

 メルキゼデクは、何の前ぶれもなく、歴史の舞台に突然登場してきました(創世記14章17節以下)。3節で「父もなく、母もなく、系図もなく云々」と言われるのは、メルキゼデクの出自について、創世記の記事からは、何も分からないということでしょう。

 

 そして、いと高き神の祭司として、アブラム(=アブラハム)をパンとぶどう酒でもてなし(創世記14章18節)、「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。的をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように」(同19,20節)といって祝福しました。

 

 「神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(2節)と言われていますが、これは創世記の記事で裏付けることが出来ません。詩編110編4節に「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク』」という言葉があり、ここから、メルキゼデクが永遠に祭司であるという表現が出て来たのでしょう。

 

 あるいは、創世記に登場したメルキゼデクが、誕生のことも死亡のことも何も描かれないので、生まれもしなければ、死にもしなかったと結論され、そこから、メルキゼデクは神の子に似た、永遠の祭司だという考えが生まれたのかも知れません。つまり、神はメルキゼデクを、神の御子イエスに似せて造られたということです。

 

 主イエスはダビデの子孫ですから、ユダ部族に連なります(14節)。祭司職は、レビ部族のアロンの子孫に与えられた占有の職務でしたので(出エジプト記28章1,40節以下など参照)、制度に変更がなければ、ユダ族の子孫である主イエスが大祭司となることは、あり得ません(11節)。

 

 しかし、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(17節)と詩編の作者が記していることは、レビの子孫という血筋、アロンの系統によらない祭司が立てられるということを指します(15,16節)。

 

 かつて、祭司や王がその職務につくとき、頭に任職の油が注がれました。この油は、聖霊を象徴しており、油が注がれた者に神の知恵と力が授けられることを表します。この油が注がれた人のことを、メシアと言います。メシアをギリシア語に訳すと、キリストです。主イエスは、神に油注がれたキリスト、義の王にして平和の王、またいと高き神の祭司なのです。

 

 もう一つ、神の子に似た永遠の祭司であるメルキゼデクが、アブラハムを祝福するために「ぶどう酒とパンを持って来た」(創世記14章18節)というのも、意味深長です。ここに既に、キリストの贖いの業が予め表されているのではないでしょうか。

 

 冒頭の言葉(25節)で「この方は常に生きていて」とは、キリストが神によって「永遠に祭司」とされたことを指しています(21節、5章6節など)。詩編110編のメシア預言で、「とこしえの祭司メルキゼデク」(110編4節)を、キリスト・イエスのことと解釈したわけです。

 

 その解釈が生まれたのは、キリストは、死んで葬られた後、3日目に復活され(第一コリント書15章4節)、弟子たちの見ている前で天に上げられ(ルカ福音書24章51節)、神の右の座に着かれた(1章3節、8章1節)という真実に基づいています。

 

 祭司の務めは、神に供え物やいけにえを献げて、民のための執り成しをすることです(5章1,2節、4章14,15節)。祭司は、先ず自分の罪のためにいけにえを献げなければなりませんが(5章3節、8章27節)、キリストは神の御子であり、人間となられてあらゆる試練に遭われましたが、罪は犯されなかったので(4章15節、第二コリント書5章21節など)、その必要がありません。

 

 さらに、キリストが執り成しのために献げられたのは、ご自分の命です。十字架でご自分の肉を裂き、血を流されたのです。この贖いと執り成しの業により、「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13,14節)。

 

 ですからキリストは、「ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」と言われているのです。この王であり祭司であられるキリストが、贖いの御業を成し遂げて復活され、今も生きて私たちのために執り成し、万事が益となるように導き、恵みを与えていてくださいます。

 

 御言葉と祈りを通してはばかることなく大胆に主なる神に近づき、信仰の恵みを豊かに頂きましょう。

 

 主よ、信仰に基づく私たちの歩みを豊かに祝福してください。御言葉の学びと祈りに励み、伝道によって実を結び、感謝と賛美溢れる教会を形成することが出来ますように。私たちを執り成して、絶えず命の道、真理の道に導いてくださる主に感謝します。 アーメン

 

 

「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」 ヘブライ人への手紙8章13節

 

 8章全体が一つの段落で、新共同訳はここに「新しい、優れた約束の大祭司」という小見出しをつけています。7章で大祭司としての地位について語っていましたが、8章では大祭司として祭儀を行う場所に目を向けます。

 

 「わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(1,2節)とあります。つまり、主イエスは天の聖所、真の幕屋で主に仕えておられます。

 

 一方、律法に従って供え物を献げる祭司たちは(4節)、「天にあるものの写しであり影であるもの」(5節)つまり、シナイ山で主なる神に示された型どおりに作った、この地上にある聖所、「影」なる幕屋で仕えているのです。

 

 地上ではない、人間が建てたものでない聖所、真の幕屋で仕える大祭司が立てられたということは、この地上の、モーセが神に示された型どおりに作った聖所、「影」なる幕屋での務めが完全なものでなかったということです。そこで、オリジナルの、天の聖所、真の幕屋での大祭司としての役割が果たされるときが来たということです。

 

 パウロが「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(ガラテヤ書3章23,24節)と言っていますが、律法による祭司職は、神の御子イエス・キリストの大祭司職を指し示すためのものといってよいでしょう。

 

 8節以下は、旧約聖書エレミヤ書31章31~34節の引用です。8節に「新しい契約を結ぶ時が来る」という言葉があります。そのことを冒頭の言葉(13節)で「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです」と解釈して記しています。

 

 新しい契約があるということは、古い契約があったわけです。また、新しい契約が結ばれるということは、古い契約が破棄されるということになります。新約聖書は新しい契約が書かれている書物、旧約聖書は古い契約が記されている書物という意味です。ですが、旧約聖書の中に、既に「新しい契約を結ぶ時が来る」と預言されていたわけです。

 

 「契約を結ぶ」の原語は「カーラト・ブリート」です。「ブリート」が「契約」、「カーラト」が「結ぶ」と訳されています。「カーラト」は「切る」という意味です。それは、契約の際にいけにえの動物を殺し、その血によって契約を結びます。動物が裂かれ、血が流されて契約が結ばれるので、「切る」という言葉が使われるのです(創世記15章9節以下、出エジプト記24章1節以下参照)。

 

 また、もし契約を破るならば、いけにえの動物が裂かれたようにその身が裂かれて殺されるという罰、神の呪いが、この言葉で表現されているのです。これには、深い意味があります。

 

 古い契約が破棄されることについて、9節に「彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」と記されています。イスラエルの民が契約を忠実に守らなかったので、神がその契約を無効にされたということです。

 

 契約の主文は、10節の「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものです(エレミヤ書31章33節、出エジプト記19章5,6節も参照)。ですから、彼らは神をおのが神とし、自らを神の民として、神に忠実に仕えることが出来なかったというわけです。

 

 その結果、イエスラエルの民は、神の加護を失い、バビロンに滅ぼされ、捕囚の憂き目を見なければなりませんでした。約束の地から切り離される罰を受けたのです。

 

 しかし、神は契約を無効にしたまま、イスラエルを放置されてはおられませんでした。「新しい契約を結ぶ時が来る」(8節)と言われるのは、そのことです。そして確かにイスラエルの民は、バビロンでの捕囚生活、奴隷生活から解放されて約束の地イスラエルの地に戻り、神殿を建て直し、国を築きなおすことが出来ました。そのことを、エズラ記、ネヘミヤ記で学ぶことができます。

 

 新しい契約が結ばれるためにも、いけにえの血が流されます。新しい契約の血とは、主イエスが十字架で流された血です。第一コリント書11章25節に「また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」と記されています。

 

 ここに「わたしの血によって立てられる新しい契約」と言われています。罪を犯した私たちの体が裂かれたのではなく、御子キリストが御自分の体をお裂きになり、私たちが血を流したのではなく、主イエスの尊い血潮が流されました。それによって新しい契約が結ばれ、主との新しい交わりが開かれたのです。

 

 そして、契約の言葉である神の律法を、石の板にではなく、「彼らの思いに置き、彼らの心に書きつけよう」(10節)と言われます。かつて、十戒の言葉は石の板に書かれました、けれども今度は、契約の言葉が思いの中に置かれ、心に書きつけられると言います。それは、文字が頭の中に書きこまれるということではありません。御子キリストが信じる者の心の内に住まれるということです。

 

 古い契約に基づく律法を行うことによっては、神の国に入ることは出来ませんでした。そこで神は、主イエスを信じる信仰によって、神の国に入る道を開いてくださったのです。主イエスの血によって結ばれた新しい契約は、様々な点で古い契約よりも良いものであることが分かります。

 

 このことで、ヨハネ福音書2章の「カナでの婚礼」の記事を思い出しました。披露宴が続く中、ぶどう酒がなくなって、それで、主イエスが新しいぶどう酒を用意されるという記事です。しかも、そのぶどう酒は、最初に花婿が用意していたものよりも良いものだったと言われていました。主に問題を打ち明け、主を信頼してその導きに従うとき、主は後から良いものを用意してくださったのです。

 

 主イエスがその際、召し使いたちに水を汲ませました。その水がめは、ユダヤ人の清めに用いる石の水がめとありました。それは、古い定めに従って手を洗い、体を清めるためのものです。その水がめの水がぶどう酒に変えられました。

 

 このことをヨハネは、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光をあらわされた」と記しています(ヨハネ福音書2章11節)。しるしとは、神である証拠ということです。確かに、水をぶどう酒に変えるということは、人間には出来ませんから、主イエスが神である証拠ということになります。

 

 そして、水がぶどう酒になったということは、古い契約を新しい契約に変えたということでもあります。水は古い契約に基づくものであり、そしてぶどう酒は、主の晩餐式で語られるとおり、新しい契約を象徴しているからです。

 

 さらに、御子キリストは律法や預言者を廃棄するためではなく、完成するために来られたお方であるということも(マタイ福音書5章17節参照)、水がめの縁まで一杯に水を汲ませたということで示しています(ヨハネ福音書2章7節)。

 

 私たちの人生に、宴会の途中でぶどう酒がなくなるというような計算が狂ってしまう出来事、考えてもいなかったような出来事に遭遇することがあります。近年の大規模災害、原発事故などでその人生に決定的な影響を受けた方がどれほどおられることでしょうか。そして、その理由を説明できる人はいないでしょう。

 

 けれども、主は後から良いものを出してくださると信じます。苦難は決して良いものではありません。でも、苦しみにあったことは私にとって良いことだった、あの経験をしてよかったと言える日が来るように祈ります。まず被災された方々をはじめ、多くの人々の平安と慰めを祈ります。

 

 私たちの心の内におられる主は、悲しんでいる人々、苦しんでいる人々の心の呻きを聞いてくださいます。そして、永遠の大祭司として、必ずその呻きに応えてくださると信じます。主なる神は私たちを愛し、万事が益となるよう必ず働いてくださいます。

 

 主よ、あなたは世界のすべての民に救いの喜びをお与えくださいました。救いの恵みを味わう喜びは、言葉では表現出来ません。信仰によって主が私たちの内にお住まいくださり、その贖いによって罪赦され、神の子となり、命に与った恵みを心から感謝します。いつも、恵みの光のうちを主と共に歩ませてください。 アーメン

 

 

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」 ヘブライ人への手紙9章28節

 

 1節以下の段落に「地上の聖所と天の聖所」という小見出しがつけられています。前半(1~10節)に地上の聖所とされる旧約の規定が記されています。そして11節以下に、キリストの大祭司なる働きが記されています。

 

 15節に「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです」とあります。「こういうわけで」とは、「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(12節)ということでしょう。

 

 16節以下に「遺言」という言葉が出て来ますが、実はこれは、15節の「契約」と同じ「ディアセーケー」という言葉です。文脈から「契約」と「遺言」とを訳し分けているわけです。「遺言」が、遺言者の死によって成立する「契約」だということです(16節)。

 

 あるいは、「ディアセーケー」という言葉の成り立ちから、「遺言」という意味が入ってきたのかもしれません。というのは、「ディア」は「~を通して」、「セーケー」は「墓」という意味があります。併せて「墓を通して」ということで、死によって効力を発揮するものとして、「契約」また「遺言」という意味になったということなのでしょう。

 

 いずれにせよ、著者は新しい契約が、キリストが十字架で血を流され、命を落とされたことによって正式に締結されたということを、「遺言」という意味を引き合いにして、ここに示しているのです。聖書は、神との契約の書(「古い契約の書」と「新しい契約の書」からなる)なのです。

 

 「新しい契約」(カイネー・ディアセケー)が、神の御子キリストが十字架で血を流し、死なれたことによって成立したということは、「契約」は「遺言」という意味もあることから、新しい契約の書は、私たちへのキリストの遺言として記されているということになります。英語で新約聖書を「new covenant」ではなく「new testament」というのも、それを示しています。

 

 何が私たちのために言い遺されているのか、しっかり読む必要があります。特に「遺言」で連想されるのは、遺産相続です。ヘブライ書では「受け継ぐ」ものとして「救い」(1章14節)、「約束されたもの」(6章12,17節)と記しており、そして本章15節では「既に約束されている永遠の財産」と言います。11章7節には「信仰に基づく義を受け継ぐ」という言葉もあります。

 

 ということは、キリストが死なれて、その遺産を相続する者に与えられるのは、キリストの血の贖いによる罪の赦し(エフェソ書1章7節、コロサイ書1章14節)、神の義(神との正しい関係:第二コリント書5章21節)、キリストの持っておられた神の子たる身分や力(ヨハネ福音書1章12節)、そして永遠の命(同3章16節など)です。

 

 私たちは、神の相続人となる権利も資格も持ってはいませんでした。キリストが私たちのために死んでくださったお蔭で、その恵みに与りました。全く一方的な、無条件の神の恵みです。そのことを思うとき、感謝のほかありません。

 

 契約の成立に「血」が用いられたことから(20節、出エジプト記24章8節)、すべてのものが血で清められ、血を流すことなしには罪の赦しは有り得ないと(22節)、血の働きを解しています。そこから次の段落へ議論が引き継がれ、展開されて行きます。

 

 地上のものは「天にあるものの写し」で、動物の血をもって清める必要があることから、天にあるものは、さらにまさったいけにえで清められなければならないと言い(23節)、だから、神の御子キリストが神の御前に現れてくださったのだと説明します(24節)。

 

 冒頭の言葉(28節)で「キリストも」と言われているのは、27節の「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」という言葉を受けているからです。キリストが「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」のは、「人間が一度死ぬこと」と「裁きを受けること」が定まっていることと関連しているわけです。

 

 確かに、人間はだれでも死にます。死なない人間など、どこにもいません。「ただ一度死ぬことが定まっている」ということは、二度目の人生はないということです。ただ一度限りの人生です。大切にしなければなりません。

 

 死の原因も様々です。勿論、病死が多いのですが、しかし、事故死や自死も、決して少なくありません。死んでおしまいということならば、死んだほうがましということにもなるかもしれません。けれども、死んでおしまいということにならないのなら、いかに死ぬべきかを考えておくのは、とても大切なことでしょう。それは、いかに生きるべきかをきちんと考えることだからです。

 

 主イエスの死は、「多くの人の罪を負うために身を献げる」(28節)ことでした。4章15節などに「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と言われるとおり、罪のないお方が、私たちの罪のために、贖いの供え物としてご自分を献げられたのです。

 

 それは、罪ある人間に対する神の深い愛、憐れみです。そのように死なれたということは、主イエスの生前の生き方と無関係ではありません。主イエスの生涯は、人を愛し、人のために犠牲を負う生涯であり、最後に文字通り、自らの身を贖いの供え物、いけにえとして献げられたわけです。

 

 そして、「二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)と言われています。死後に神の裁きを受ける私たちのため、キリストが死なれ、そして、私たちに救いをもたらすために再び来られるとは、何と念の入った計らいでしょうか。

 

 キリストはその死によって救いの道を開き、そして、再臨によって救いを完成してくださるのです。さらに、罪赦され、救いに与ることが出来る保証のため、聖霊で証印を押されました(エフェソ書1章13,14節)。

 

 霊は目に見えません。ですから、証印も目には見えません。しかし、私たちが「イエスは主である」と信じていること、そう信じて主の御言葉に従って生きることにより、証印が押されていると確認することが出来ます(第一コリント書12章3節、エフェソ書1章13,14節など)。

 

 主を信じ、御言葉の導きに従って、自分の走るべき道程をしっかり走り通しましょう。そして、義の冠を被らせていただきましょう。

 

 主よ、私のためにキリストが死なれ、その救いの完成のために再びおいでくださること、その保証として聖霊の恵みに与っていることを感謝します。御子キリストが命を懸けて語ってくださった遺言ともいうべき御言葉を、しっかり聴くことが出来きますように。聴いたところに従って歩み、主の御業に励むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」 ヘブライ人への手紙10章35,36節

 

 1節に「律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」と言います。罪過の償いはできても、罪の性質を取り除き、清めることが出来ないので、毎年、贖いのいけにえが必要になるというのです(9章9節参照)。

 

 そこで神は、キリストを罪を贖う供え物とし、この「唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(14節)のです。「聖なる者」とは、神に選ばれた者、神のものとされた人という意味であり、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの恵みに与った者を指しています。

 

 キリストの贖いにより、私たちの罪が赦され、神の子とされる恵みに与ったのです。私たちが御子キリストを信じたとき、私たちの心にキリストが入って来られました。それが、「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思い鬼それを書きつけよう」(16節)という御言葉が示していることです。

 

 御子イエスは「インマヌエル」(「神は我々と共におられる」の意)と唱えられるお方です(マタイ福音書1章23節)。だから、私たちはいつも主イエスと交わりを持つことが出来ます。「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(20節)という言葉は、そのことを言っています。

 

 イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕が、上から下まで真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節など)。それは、キリストの死によって聖と俗とを隔てていた壁が取り除かれたことを示します。それにより、主イエスを信じる者はだれでも聖所に入り(19節)、神の恵みに与ることが出来るように、新しい生きた道を開いてくださったのです(20節)。

 

 それはまた、神が私たちに近づき、私たちと共にいてくださるという恵みが与えられたということでもあるわけです。私たちが意識して神に近づくときだけでなく、神は私たちと24時間、365日、いつでもどこでも共にいて、私たちを守り導いてくださるということです。

 

 それで、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(22節)、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」(23節)、「互いに愛と善行に励むように心がけ」(24節)ましょうと勧めています。ここに、いつまでも残る偉大な賜物である「信仰・希望・愛」(第一コリント書13章13節参照)が、具体的な勧告の言葉として表現されています。

 

 これは、大胆に神に近づいて礼拝することが出来るように、神が信仰、希望、愛の賜物をくださると読むことも出来ます。これが、冒頭の言葉(35,36節)にいう、「この確信には大きな報いがあります」という内容でしょう。

 

 永遠に残る偉大な賜物が与えられるということは、永遠の命に与るということです。永遠に神との交わりに生きる者とされることです。そして、その交わりの中に、私たちの愛する神の家族、教会の兄弟姉妹もいます。私たち神の家族の交わりも、主イエスにあって永遠のものなのです。

 

 その交わりの完成のため、救いの完成のために、キリストが再びおいでになります。それまでの間、忠実に信仰に励んでまいりましょう。キリストの再臨よりも、私たちが召されるほうが早いかもしれません。いずれにせよ、「死に至るまで忠実であれ」(ヨハネ黙示録2章10節)ということです。

 

 私たちが主に忠実に仕えて、約束された永遠の財産を受けようとする者には(9章15節参照)、忍耐が必要だと言われます(36節)。そこで信仰が試されます。それは、私たちがすぐに目に見えるもの、身の回りの環境に目を移してしまうからです。

 

 「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者」(39節)となるために、しっかりと主に目を留め、御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って一歩一歩着実に歩み続けましょう。

 

 主よ、 今日も御言葉の恵みに与り、憐れみ深い御心の一端に触れさせてくださって、有り難うございます。導きのまま憚らず大胆に御前に近づき、聖霊に満たされ、心からの賛美をささげさせてください。御言葉をいただくことを喜びとし、聴き従うことを楽しみとすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」 ヘブライ人への手紙11章6節

 

 新共同訳聖書は11章全体を一つの段落として、「信仰」という小見出しをつけています。1節で「信仰」について定義した後、4節以下にイスラエルの父祖たちが「信仰によって」(4,5,7,8,9,11節など)どのように歩んだのか、明らかにしています。

 

 1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この言葉を聴いて、何を思いますか。私はこれまで、自分の信念をしっかり持てば、望んでいることはなんでも実現するという具合に解釈していました。実現しないのは、自分の信念が弱いから、疑いながら信ずるからだと考えていたわけです。

 

 確かに、信念をしっかり持って最後まで励むなら、実現出来ないことはないかも知れません。少々問題が起こったくらいで信念が揺らぐようなら、何もなし得ないでしょう。だから、何事でもはっきりと目標を定め、実現した姿を思い描いて積極的に進もう、否定的な言葉は口にすまいということになります。いわゆる積極思考、肯定的思考ということです。

 

 こうした考え方が間違っているとは思いません。むしろ、この世で何かを成し遂げた人々は、多少なりともこのような考え方を持っておられたことでしょう。ただ、1節の御言葉は、そのような「信念」について語っているのではなく、「信仰」の定義を語っているのです。

 

 信仰の対象は、私たちが実現を望んでいる「事柄」や、その実現をまだ目にしていない「事実」などではありません。私たちの信仰の対象は、主なる神であり、神の独り子イエス・キリストです。ヨハネ福音書14章1節に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と主イエスが語っておられます。

 

 であれば、「望んでいる事柄」というのは、主ご自身が望んでおられる事柄ということになるのではないでしょうか。すると、その実現を約束された主なる神の御言葉を信じなさい、まだ実現していなくても、時が来れば必ず実現する神の御言葉を信じて祈り待ちなさいということになりますね。

 

 著者がここで語っている、イエス・キリストを信じる信仰において「望んでいる事柄」、「まだ見ていない事実」というのは、私たちの罪の贖いのために十字架に死なれた主イエスが、救いの完成のために再臨されることであり(9章28節)、天の故郷に迎え入れられるということです(16節)。

 

 私たちがキリストの再臨を待ち望むのは、それによって私たちの救いが完成され、神の子として天の御国に迎えられ、主なる神と相見えること、主と親しく交わることが出来るからです。神はそのような信仰を喜ばれます。

 

 それが、冒頭の言葉(6節)で語られています。神が喜ばれるのは、「神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であること」を信じる信仰です。神は、自分の願望の実現を求める者たちにではなく、神ご自身を求める者たちに報いてくださるお方なのです。

 

 無論、私たちは自分たちの願いの実現を求めて神に祈ります。願いを適えていただきたいと求めます。そのときに、私たちが実現を疑わずに願うから、真剣に熱心に願うから、それが適えられるということではないのです。繰り返しますが、神が喜ばれるのは、私たちが神ご自身を求めて神に近づくこと、私たちに良いものをお与えくださる神を信頼することです。

 

 主イエスが祈りについて、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ福音書6章7,8節)と語られました。

 

 それだから、祈らなくて良いというのではありません。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同33節)と言われます。私たちの必要をことごとくご存知の主を信頼して、自分の願いも、あるいはまた問題もすべて主に明け渡し、その主との交わりを喜び、楽しむことをまず求めよと言われているのです。

 

 上述のとおり、4節以下にアベルをはじめ、信仰者として例示される者の名前が列挙されます。その中で一番大きく扱われているのが、信仰の父アブラハムです。アブラハムは「信仰によって、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(8節)と言われています。

 

 そしてアブラハムは、息子イサクや孫のヤコブ(9節)、妻のサラも含めて(11節)、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(16節)と語られます。アブラハムが熱望していたのは、カナンの地ではなく、天の故郷で神と共に住むことだったのです。

 

 それで彼は、神の召しの言葉に服従して、行き先も知らずに出発しました。神と神の御言葉に信頼していたからです。そのことが、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」(16節)と言われて、それが神の喜ばれる信仰であることを示しています。

 

 主イエスは、新しい掟として、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節ほか)と命じられました。そう命じられたのは、主イエスがそれを望んでおられるからであり、それを行うことが、主イエスの弟子とされた私たちの使命だからです(同35節)。

 

 私たちも主を慕い求め、愛そのものであられる主イエスを心に迎えましょう。主との親しい交わりの内にいつも身を置かせていただきましょう。私たちの内におられる聖霊を通して、心に神の愛を注いでいただきましょう。神の御国は、互いに愛し合う愛に満ち溢れているところなのです。

 

 主よ、絶えずあなたを慕い求め、あなたの教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ幸いな人とならせてください。命の御言葉の流れの側から離れることがありませんように。そこを離れては何をすることも出来ず、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、裁きに堪えないからです。そうではなく、御言葉に従って神の愛に生きる者として頂くことができますように。 アーメン

 

 

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」 ヘブライ人への手紙12章2節

 

 1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。

 

 「こういうわけで」は、直接的には11章39,40節を受けているものです。それは、11章4節以下に記されているアベルやエノク、ノア、アブラハムとサラなど信仰の先達が、「その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れ」(39節)なかった、「わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかった」(40節)ということです。

 

 信仰の先達は、約束のものを実際に手にすることがなくても、信仰によってそれを望み続けて来たのだから、イエス・キリストの福音に生かされている私たちは、信仰の先達ら聖書に記されているおびただしい証人の群れに囲まれて、自分の競争を最後まできちんと走り抜こうというのです。

 

 「忍耐強く」(ディ・フポモネー with patience )という言葉から、この競争が短距離ではなく、長距離、マラソンのようなものであると想像されます。その際、この競技に参加する者に求められるのは、スピードよりも走り抜くこと、完走することです。

 

 だれが競争相手かというのではなく、自分自身との戦いといいますか、完走を妨げようとするものとの戦いです。だから、「気力を失い疲れ果ててしまわないように」(3節)というのです。2,3節にも「耐え忍ぶ」(フポメノー)という言葉が繰り返し用いられているということは、様々な困難が気力を失わせ、疲れ果てさせ、完走を妨げようとするということです。

 

 それに対して、その様々な困難が襲ってきたときに、それを、父が子を愛するために行う「鍛錬」(パイデイア)と考えるように勧めます。7節で「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい(フポモネー)。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない(ウー・パイデウオー)子があるでしょうか」と語られているのはそのことです。

 

 その根拠として、5~6節に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」という、箴言3章11,12節の御言葉を引用します。

 

 つまり、襲ってくる様々な困難は、競争を妨げる敵というより、私たちが完走出来るように私たちを鍛錬する神の愛の表現と考えて、忍耐せよというわけです。「十字架なしに栄冠なし」(17世紀に信教の自由のために戦ったウィリアム・ペン)「逆境に勝る教育なし」(19世紀の英国首相ディズレーリ)という言葉もあります。

 

 自分に定められた競争で完走するためのポイントは、冒頭の言葉(2節)の「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」というところです。これは、信仰生活の初めから完成まで、主イエスが導いてくださるということです。そして、主イエスこそ「御自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された方」(3節)で、どんな困難も乗り越えさせてくださるのです(第一コリント10章13節参照)。

 

 「信仰の創始者」というのですから、信仰生活にスタートがあります。そして「完成者」というのですから、ゴールもあるのです。信仰生活のスタートとゴールの間は、めいめいが自分の思い通りに走ってよいということではありません。「イエスを見つめながら」と言われているからです。

 

 新改訳聖書では「イエスから目を離さないでいなさい」と訳されていました。信仰を始め、完成させてくださる主イエスから目を離してはいけないということです。実際、イエスから目を離させるものが、私たちの周りに一杯あるのです。目を離すと、ゴールを見失ってしまうということです。

 

 これは、ボート競技のようだと思います。エイトと呼ばれる競技には、、漕ぎ手が8人乗ります。漕ぎ手はゴールを背に、ボートに後ろ向きに座ります。即ち、彼らはゴールするまで、ずっとスタート地点を見ていることになります。それによって、スタート地点から直線で進んでいるかどうか、分かるわけです。

 

 けれども、スタートから直線で進んでいるからといって、ゴールを目指していることにはなりません。正しくゴールに向かって進んでいるのでなければ、漕ぎ手がが頑張れば頑張るほど、ゴールから遠ざかってしまいます。

 

 エイトには、一人ゴールをまっすぐ見ているコックス(操舵手)と呼ばれるリーダーがいます。コックスの指導によって、ゴールを目指すのです。漕ぎ手がスタート地点を見ながら全力で漕ぎ、コックスがそれをゴールに導くわけです。

 

 私たちの競争で言えば、漕ぎ手は私たちキリスト教会の信徒=クリスチャンであり、コックスは導き手なる主イエスです。主イエスを信じる信仰を通して、主の御言葉により、私たちの信仰は完成へと導かれるわけです。

 

 ここで必要なのは、導き手に対する信頼です。コックスが信頼できなければ、全力で漕げません。漕ぎ手の息が揃わなければ、ボートはまっすぐに進みません。けれども、息を合わせて全力でゴールを目指している姿を見るのは感動です。競技者は息が合う快感を味わうために、そのしんどい競技に参加しているのです。

 

 どんな時にも主イエスに信頼し、主イエスに目を注ぐことが出来るのは、聖霊の導きがあるからです。使徒言行録2章25節に「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」とあります。これは、詩編16編8節からの引用です。ダビデが主イエスを見ることが出来たのは、聖霊の助け以外に考えることが出来ません。

 

 正確には、ダビデが主を見ていたのではなく、ダビデが主から見られていたのです。だから、どんな危機からも救い出されたのです。主がダビデの右にいて、彼が動じないでいられるように、支えておられたのです。それが、「弁護者」(パラクレートス)として傍らにいて慰めを与え、励ましを与えてくださる聖霊の働きなのです。

 

 どのような競技であれ、完走する体力や技術を身に着けるのに、常日頃の様々な鍛錬が欠かせません。一見、これは何の役に立つのかと思うこともあるかもしれません。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしい門ではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12節)というとおりです。

 

 自分を鍛えるコーチを鬼と思い、「きっと自分のことが嫌いなんだ」と結論することもあるでしょう。けれども、その苦しみが喜びに変わる瞬間が来ると、今まで鬼と思い、憎しみにも似た感情を持っていた相手に、どんなに感謝するでしょうか。その喜びと感謝を味わうために、その日まで頑張ろうと励ましているのです。

 

 私たちが主イエスと出会い、救われた原点を絶えず見つめ、主イエスの導きに従い、天の御国目指して、ともに助け合い、励まし合って、信仰の馳せ場を走り抜きましょう。

 

 主よ、悲しいとしか思えない現実の中に閉じ込められていると思い、主がどこにおられるのかと疑うこともあります。しかし、困難を通して神を見出したとき、その意味を理解することができます。どうか、今その困難の中におられる方々にあなたの慰めと平安、励ましをお与えください。そして、義という平和に満ちた実を結ばせてください。 アーメン

 

 

「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」 ヘブライ人への手紙13章15,16節

 

 新共同訳聖書は13章に「神に喜ばれる奉仕」という小見出しをつけています。ここには、人に親切にすること、結婚生活を重んじること、貪欲を避け、自分の持っているもので満足することなど、私たちが心して実行すべき生活の指針が列挙されています。

 

 4節以下に性欲と金銭欲の問題を取り上げています。性と金銭の問題を正しく管理しなければ、神に喜ばれないということです。4節に「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません、神は、淫らな者や姦淫する者を裁かれるのです」と記されていることから、当時の人々の間で、性的な混乱がいかに重大な問題であったかということを知ることが出来ます。

 

 10章22節に「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています」と語られているように、神の家を支配する偉大な祭司キリスト・イエスの血によって私たちの心と体が清められています。ですから、不品行や姦淫は、たんに夫婦の問題などではなくて、キリストの贖いの業を汚す行為であるということになります。

 

 だからこそ、「わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」(10章26節、6章4~8節も参照)と言われるのであり、神の裁きを免れないわけです。神が、夫婦の関係を大切にせよと言われていることに心を留めるべきです。

 

 金銭欲も、それに負けず劣らずの大きな問題です。5節後半に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という言葉が記されています。これは、申命記31章6,8節からの引用です。6節に「主はわたしの助け手、わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と記されています。これは、ギリシア語訳(70人訳)詩編118編6節からの引用です。

 

 これらの言葉と「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」という勧めの御言葉は、どのように結びついているのでしょうか。「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という神の約束に信頼する心と、「金銭に執着する生活」が対比されていると考えればよいのでしょう。

 

 つまり、神への信頼に立っていれば、金銭に執着する生活にはならないということです。金銭に執着するということは、自分の生活の基盤を「金銭」に代表される、目に見え、手で触れられる、形あるものの上に据えたいと考えているということです。

 

 形あるもので生活を保証したいと思うならば、より多くのものを手に入れたいとも思うでしょう。それが、「金銭に執着する」という姿勢になるわけです。それで、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て」(第一テモテ書6章10節)と言われ、また「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ書3章5節)と告げられるわけです。

 

 それに対して、主なる神が私たちの手をしっかり握って放さない、神は私たちを愛していてくださるという約束に信頼を置いているならば、6節の御言葉のとおり、あらゆる不安や恐れから解放されて、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と、堂々と語ることが出来るでしょう。

 

 勿論、私たちは小さい存在です。常に、また完全に主を信頼するというところに立ち切れません。大風が吹けば、足元が揺らぎます。心はすぐに恐れと不安に満たされます。打ちつける波風を恐れて「主よ、助けてください」(マタイ福音書9章25節)と叫び声を挙げます。

 

 しかし、私たちが神の手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手を握っていてくださいます。怯えて泣いている私たちの傍らにいて、背をさすり、頭をなで、「恐れることはない。平和を取り戻し、しっかりしなさい」(ダニエル書10章19節参照)と声をかけてくださるでしょう。その御手に触れ、その御声を聴きながら、日々を歩ませていただいています。

 

 私たちの主イエスは、どんなときでも変わらずに、私たちを愛し、守っていてくださいます。8節に「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と言われているとおりです。

 

 そして、冒頭の言葉(15,16節)に目を留めてください。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないで下さい。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」と記されています。

 

 神に喜ばれるいけにえのひとつは、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実」です。賛美すること、御名をほめ歌うことが求められます。それを「絶えず神に献げましょう」と言います。ポイントは「絶えず」というところです。勿論24時間いつも歌ってばかりはいられないでしょう。それに、歌えない、歌いたくない気分のときもあります。

 

 以前、お彼岸に仏壇に供える梨を売っているという話を聞きました。「仏様用なし」と書いてあって、他の梨と比べてずいぶん安いので、店の人に尋ねると、全然美味しくないそうです。それでも見た目は変わらないから、仏様に上げようということに。それ、仏様は喜ぶのでしょうか? そういえば、「仏様用なし」は、「仏様、用なし」と読めます。

 

 私たちの主イエス様には、最もよいものを献げたいと思います。歌えないとき、歌いたくない気分のときも。私たちは気分で神を信じ、気分で礼拝しているわけではありません。神様にそのときどき、歌えないような気分のときにも、歌えないほどの苦しみ、悲しみの中でも、その中で最もよいものを神に献げたいのです。

 

 だからこそ、「賛美のいけにえ」というのではないかと思います。いけにえとは犠牲です。犠牲を払うのは、痛みを伴うものです。痛みなしの犠牲などありません。痛みがあるから賛美が献げられないというのではなく、痛みの中でも犠牲を払ってその時自分が持っている最高のものを神に献げる、それが「賛美のいけにえ」です。

 

 もう一つのいけにえが、16節の「善い行いと施し」です。「施し」の原語は「コイノニア」で、「分かち合い、交わり」という言葉です。主イエスが山上の説教(マタイ福音書5~7章)の中で、「人前で善行をしないように注意しなさい」(同6章1節)と教えられましたが。そこで取り上げられた善行の一つが、「施しをする」(2節)ことでした。

 

 施しをすることは、旧約から一貫して奨励されているところです(申命記10章17節以下、イザヤ書1章17節など)。これが神に喜ばれるいけにえであると言われ、犠牲を払って行いなさいと私たちに命じられていることなのです。

 

 施しという言葉が、分かち合い、交わりという意味であることを心に留めて、どのような人とも真実に交わることが出来るように、助け合い、支え合うことが出来るようになりたいと思います。その鍵言葉は、相手の立場に立つということです。

 

 相手の立場に立つことを漢字一文字で「恕(じょ)」と言います。この文字の訓読みは「恕(ゆる)す」です。相手の立場に立って物事を考え、判断する、すべてを許し受け入れる、その精神に生きることが、今ここに求められています。私たちが真実に交わり、助け合い、支え合うことを、神が喜ばれるのです。

 

 7節に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と言われています。この書簡が書かれたのは、紀元80年前後と考えられています。それは、キリスト教徒を最も激しく弾圧迫害したドミティアヌス皇帝が君臨していた時代です。

 

 パウロやペトロといった指導者から、その後を担う人々も次々と殉教していった時代です。その殉教者の筆頭は、主イエス・キリストです。この「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。その最期を思い、また主の僕たちの最期を思い、その信仰に倣えと勧められます。

 

 主なる神は、その信仰の恵みと喜びを味わうように、その信仰に生きるように、私たちを招いておられるのです。主の助けと導きを頂きながら、精一杯、主の喜ばれる奉仕、信仰のいけにえを絶えず御前に献げさせていただきましょう。

 

 主よ、私たちに御子キリストの命をお与えくださり、永遠の御国に生きる希望と喜びを与えていてくださることを感謝します。御言葉に信頼して歩む私たちの手を取り、導き守ってくださる恵みを感謝します。たえず、唇の実、賛美のいけにえと、施しという善行のいけにえを、御前に献げさせてください。隣人との真実な交わり、助け合い、支え合うことを学ばせてください。御名が崇られますように。 アーメン

 

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