フィリピ書

 

 

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」 フィリピの信徒への手紙1章21節

 

 今日からフィリピ書を読み始めます。フィリピは古来「クレニデス(泉の多い町)」と呼ばれていたのをマケドニア王フィリポス2世(アレキサンダー大王の父)の庇護下に置かれたとき、フィリピと改名されました。近傍に金鉱、銀鉱があり、土地も肥沃であったことから、町は豊かに繁栄していました。

 

 後に、ローマ皇帝のオクタヴィアヌスが退役軍人をフィリピに定住させたことによって、軍人植民都市として発展を遂げます。そのため、フィリピはイタリア本土並みに遇され、その市民の大部分はローマ市民権を有し、皇帝の直接的庇護を享受することが出来ました。

 

 ユダヤ人も住んでいましたが、それほど多くはなかったようです。というのも、使徒言行録16章13節の記述によれば彼らは町の中に独自の会堂(シナゴーグ)を持たず、町の西方2km程行ったところのガンギテス川のほとりに「祈りの場所」を設けて集まりをしているに過ぎなかったからです。

 

 同じく使徒言行録16章11節以下の記事によれば、フィリピは使徒パウロが小アジアからヨーロッパの玄関口マケドニアに渡って最初に福音を宣べ伝えた、記念すべき町です。それほど長い滞在ではなかったようですが、小さな集会が誕生しました。

 

 パウロが獄に囚われの身となったとの知らせを受けたフィリピの信徒たちが、パウロのために募金してそれをエパフロディトに託し、見舞いの贈り物も持たせてパウロのもとに届けました(2章25節、4章18節)。その贈り物を受け取ったパウロの感謝の便りが、このフィリピの信徒への手紙です。

 

 パウロはこの手紙を獄中から書き送っています(1章7,13,16,17節参照)。その場所は伝統的にローマとされて来ました。けれども、2章19節以下の記事から、互いに気遣い、フィリピ教会とパウロとの間で何度も往来があったことことがうかがえるので、パウロが獄に囚われていたとされるローマやカイサリアなどは遠過ぎます。

 

 今日では、第三回伝道旅行中にエフェソで執筆したものと考えられています(使徒言行録19章1節以下、10節参照)。そうであれば、この手紙は第一・第二コリント書とほぼ同時期の紀元55年ごろに執筆されたものではないかと思われます。

 

 本書は、上記のとおり獄舎の中で執筆された所謂「獄中書簡」(エフェソ書、コロサイ書、フィリピ書、フィレモン書)ですが、この手紙の全体の雰囲気は喜びに溢れているので、「喜びの書簡」とも呼ばれています。実際、この短い手紙の中に16回、「喜び」、「喜ぶ」という言葉が出て来ます。

 

 4節に「あなたがた一同のために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っている」と記されています。祈らなければならない状況があるのです。しかしそれを、しかめっ面をしてするというのではなく、喜びをもって祈るのです。

 

 それは6節の言葉どおり、神がフィリピの教会のために善い業を完成してくださると信じているからです。未だそれは、現実のものとはなっていないけれども、必ずそうなると信じているので、喜びが湧き上がって来るというのです。

 

 パウロは彼らのために祈っていた祈りが、9節以下に記されています。パウロはここで、「知る力と見抜く力を身に着けて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」と祈っています。

 

 ヘブライ語の用法に従えば、「知る力」と「見抜く力」には、殆ど差はありません。聖書で「知る」という場合、対象を把握するということではなく、信じることであり、愛することであり、また相手の求めに応えることです。

 

 ですから、知る力と見抜く力を身に着けて、賢く生きることが出来るようにとか、騙されず、誤魔化されずに生きられるようにというのではなく、それを身に着けてあなたがたの愛がますます豊かになるようにと祈るのです。

 

 ということは、「本当に重要なことを見分けられるように」という祈りは、何が神の御心に適う行動であるのか、愛を基準として判断することが出来るようにと解釈することが出来るでしょう。

 

 そしてその祈りの目的は、彼らが「清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができる」(10,11節)ためなのです。

 

 2章17節に「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」と記されています。これは、パウロが殉教を覚悟していることの表われです。

 

 エフェソで殉教しなければならなくなっても、私は喜ぶと言い切っています。パウロの死は、フィリピの人々に悲しみを与えることでしょう。パウロ自身にとっても、殉教は嬉しい話ではないでしょう。けれども、パウロは喜ぶと言います。それも、フィリピの人々と共に喜ぶと言うのです。

 

 12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と記されています。「わたしの身に起こったこと」とは、獄に監禁されていることです。普通に考えれば、投獄される、監禁されるというのはマイナスでしょう。少なくとも世間体のよい話ではありません。

 

 しかも、監禁されて自由に動き回ることが出来なくなるので、福音の前進どころか、後退しかねない状況でしょう。それなのに、「福音の前進に役立った」と言います。そこには常識では計れないことが起こり、福音が人々に伝えられていったのです。ここに、私たちが注目すべきポイントがあります。

 

 福音を伝えるのに必要なのは、世間一般の評価を得ることやそのために努力することとではありません。パウロは獄中にありながら、否むしろ、獄に監禁されているからこそと言わんばかりに、それが福音の前進に寄与したと言っているのです。

 

 そうであれば、私たちもそれぞれ今置かれている状況の中で、福音の前進のために用いて頂くことが出来るはずです。つまり、私たちがおかれている状況において神が働かれ、福音を前進させて下さることが出来ると、私たちが信じることが重要なのです。

 

 冒頭の言葉(21節)の「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」も、2章17節の言葉同様、パウロが獄中で「死」を覚悟せざるを得ない状況にあることを窺わせます。ここでパウロは、生か死かの二者択一を語っているのではありません。むしろ、どちらでも良いのです。

 

 パウロは、ローマ書14章8節で「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と言い、また、ガラテヤ書2章20節でも、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語っています。

 

 パウロは絶えずキリストに目を注ぎ続けています。キリストがパウロに使命を与え、生き甲斐を与え、そして喜びを与えているのです。これは、キリストの説く理路整然とした理屈に納得したというようなことではありません。

 

 たとえば、三浦綾子さんの「塩狩峠」という小説の主人公は、長野信雄という鉄道マンです。彼は、連結器が外れて坂を下り始めた客車を止めるために自分の体をレールの上に投げてブレーキになり、命をかけて乗客を守りました。これは実話で、長野政雄という鉄道マンの犠牲的な行動を、三浦さんが小説化したのです。

 

 「続氷点」という小説には、台風で青函連絡船の洞爺丸が沈没しそうになっている中で、泣き叫ぶ一人の女性に自分の救命具をはずして与えた宣教師のことを、陽子の父啓造が思い出すという場面があります。啓造をそれを思い出して、今まで、自分はいったい何をしてきたのかと考えるという設定です。この宣教師は実在の、カナダから来ていたストーンという宣教師です。

 

 このようにして死んで行った人の生き様には、私たちは本当に深い感動を覚えます。それが自分に関係のある人であったりすれば、その感動も一入です。そして、私たちもそのような生き方、死に方の出来る人間になりたいと思うのです。

 

 パウロが、「生きるとはキリスト」と言っているのは、彼が甦られた主イエスと出会い、その真心に触れたということではないでしょうか。キリストの十字架は、自分の罪の贖いのためだったと気づいた、悟ったということです。だから、キリストのために生き、キリストのために死にたいと考えるようになったわけです。

 

 「死ぬことは利益なのです」は、生きるよりも死ぬほうがよいという意味ですが、それは、死によって救いが完成し、常にキリスト共にいることが出来るからです(23節)。けれども、だから早く死にたいとは言いません。それは、生きていれば、「実り多い働きができ」(22節)るからです。

 

 「実り多い働き」は「働きの実」という言葉です。即ち、働くことが神からの賜物のように考えているわけです。また、フィリピの人々がパウロを必要としていることを知っています(24節)。それは、「信仰を深めて喜びをもたらす」(25節)ことです。パウロは、自己の願いを実現する生き方ではなく、主キリストと共に隣人のために自分をささげる生き方に価値を見出したのです。

 

 キリストを信じるとは、キリストが私たちのためにご自分を犠牲にされたことを素直に受け入れることであり、十字架を負うて我に従えと招く主の御声に従って、隣人に仕える使命に生きる生き方に真の価値、真の生き甲斐を見出すことなのです。

 

 私たちも、「生きるとはキリスト」と告白しながら、信仰の道筋をまっすぐに歩む者にならせて頂きましょう。

 

 主よ、私たちの愛が、知る力と見抜く力を身に着けて、豊かにされますように。それにより、何が本当に重要なことかを見分け、重要なことを守り行うことが出来ますように。今、イエス・キリストの恵みにより、主との平和が与えられていることを、心から感謝致します。この恵みと平和が、私たちの家族に、知人友人に豊かに与えられますように。この身を御手に委ねます。御業のために用いてください。 アーメン

 

 

「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」 フィリピの信徒への手紙2章17,18節

 

 1節に「キリストによる励まし」と「愛の慰め」と「霊による交わり」と並べられているのは、第二コリント書13章13節の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」を思い出させます。これは、教会の礼拝の中でなされる祝福の祈りの言葉です。二番目の「愛の慰め」が神から与えられることを考えると、これは、三位一体的な祝福の言葉と考えることが出来ます。

 

 コリント書では「キリストの恵み」ですが、ここでは「キリストによる励まし」と言われます。「励まし」もキリストから恵みとして与えられると考えられます。1章29節に「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあり、フィリピ教会が苦闘しているので、「励まし」と言われているのでしょう。

 

 そのこととの関連で考えれば、「神の愛」が「愛の慰め」という表現になっていることも、むべなるかなと思われます。これは、愛が豊かにされた信徒たち相互の慰め合いと考えることも出来ますが、しかし、その愛を豊かにお与えくださっているのは父なる神です。

 

 そして、「霊の交わり」と言われます。聖霊に満たされるという「霊との交わり」が示されますが、霊が信徒に与える交わり、霊において信徒たちに交わりが生まれると考えることも出来ます。「交わり」は「あずかる」と動詞のように訳されることもあります。実際、1章5節では「福音にあずかっている」と訳されていますが、直訳すれば「福音に入る交わり」です。

 

 そして、「慈しみや憐れみの心があるなら」と述べられています。三位一体的な祝福を受けるということが、隣人に対して慈しみや憐れみの心を持つということにつながると読めばよいでしょう。慈しみや憐れみの心で、その苦しみに対処しよう、勝利しようというわけです。

 

 「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみ」、これらが神の教会に一致をもたらす要素です。そして、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」(2節)と語られます。それが、一致の要素が満たされた結果、実現するものです。

 

 6節以下に「キリスト賛歌」と呼ばれる初代教会の賛美歌の一節が引用されています。 これは、教会の一致に向かう「へりくだり」(3節)、他人のことに注意を払う(4節)手本として語られています。それを教会に実現することがパウロの使徒としての喜びでした(2節参照)。

 

 12節以下の段落に「共に喜ぶ」という小見出しがつけられています。「だから」(ホーステ)と、これからの話をキリスト賛歌に結びつけ、また使徒としての喜びにつなげる形で始めます。最後の言葉が「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(18節)と結ばれています。

 

 冒頭の17節の言葉の中に、「たとえわたしの血が注がれるとしても」という句があります。ユダヤ教の礼拝では、牛や羊などをいけにえとして祭壇にささげるとき、その動物の血を祭壇の周りに注ぎました(レビ記1章5節など)。

 

 フィリピの信徒たちの礼拝の際に、パウロの血が注がれるというのは、実際にパウロをいけにえとしてささげるようなことが起こるというのではありません。これは、フィリピ教会の礼拝でこの手紙が朗読される際、パウロは既に殉教の死を遂げているかもしれないということです。

 

 現在とは違い、手紙を配達する制度はありません。誰かがエフェソからトロアスに行き、そこから海を渡ってフィリピ教会に届けなければならないので、時間がかかります。それまでの間に刑が執行されてしまう可能性があったわけです。

 

 それでも、自分は喜ぶと言い切ります。パウロの死がフィリピの人々に悲しみを与えないはずはないけれども、彼らが信仰に堅く立ち、ますます勇敢に御言葉を語り伝えるようになると確信しているからです。そして、私たちは死んでおしまいになるのではありません。私たちの本国は天にあり、キリストと同じ栄光ある体に変えてくださるのです(3章20,21節、第二コリント書3章18節)。

 

 子どもが喜んでいる姿を見ると、親も喜びを覚えるものです。子どもの成長には驚かされることしばしばです。心の成長を知る喜びはまた格別でしょう。心は、嬉しいことよりも苦しいことや辛いことを経験する中で成長するものです。「可愛い子には旅をさせよ」という故事は、そういう精神を教えようとしたものです。

 

 以前、「初めての買い物」という番組をよく見ていました。親から頼まれた買い物を幼い子どもがやり遂げるというものです。番組のスタッフが各所で見守っているからこそ出来ることではありますが、幼い子どもたちが一人で、時には幼い兄弟同士で、いくつもの困難を乗り越えながら、親から委ねられた仕事を成し遂げていく姿には、毎回、感動させられました。

 

 苦しみも悲しみも、イエス・キリストを通して喜びに変えられます。子どもが喜ぶ姿で親が喜びを覚えるように、神は、私たちが喜びをもって生きることを望まれます。そのために、キリストが私たちの傍に、私たちと共にいてくださるのです。キリストが共にいて、すべてを喜びに変えてくださる、それが、キリストにある喜びなのです。

 

 主よ、キリストが私たちのために己を無とし、へりくだって十字架の死に至るまで、従順であられました。それは、私たちにキリストにある喜びをお与えくださるためでした。心から感謝致します万事を益に変えてくださる主を信じ、常に喜び、どんなことも感謝する信仰に、堅く立たせてください。 アーメン

 

 

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」 フィリピの信徒への手紙3章8,9節

 

 この手紙は「喜びの書簡」といわれるほど、喜びに溢れています。1節にも「主において喜びなさい」と記されています。「主において」は「主の中で」(エン・キュリオー in the Lord)という言葉で、2章29節では「主に結ばれている」と訳されています。そして「主において喜びなさい」と命じています。

 

 喜びというのは、通常、命じられて出来るものではありませんけれども、パウロがここで「喜びなさい」と命じているのは、これから喜べることが起きるから、喜ぶ理由が与えられるから、喜べということではありません。また、生来の陽気な性格とか、そのときどきの気分、各人が置かれている環境などに左右されるようなものでもありません。

 

 「主において喜ぶ」というのは、主キリストこそが、喜びの源泉であり、その喜びはキリストとの親しい交わりの中から生じてくるということです。主キリストにある者は、どういうときにも、喜ぶことが出来るのです(4章4節、第一テサロニケ書5章16節)。そういう喜びを、パウロ自身が主において味わっているのでしょう。

 

 2節に「犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」という言葉があります。これは、救いの完成のためには、割礼を受け、律法を遵守することが必要だと説くユダヤ人キリスト者たちのことを警戒するようにということです。

 

 彼らを「犬ども」と呼んでいますが、ユダヤ人たちが割礼を受けていない異邦人のことを軽蔑して「犬」と呼んでいました。パウロはそれを逆手にとって、割礼を最重要視している人々こそが、神の救いからほど遠い「犬」にほかならないというのです。

 

 ユダヤ人でない者が割礼を受けることは、身体に切り傷をつけるだけのことで、それは「入れ墨」と同様、律法で禁止されていることでした(レビ記19章28節、申命記14章1節)。それで、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」という訳し方をしているのです。

 

 本来、割礼は神がイスラエルの民に与えた古い契約のしるしでした(創世記17章9節以下)。それに対してパウロは「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」(3節)と言い、それは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(同節)と、新しい契約のしるしをそこに示しています。

 

 パウロにとって、礼拝とは、全生活を通して神に仕えることと言ってよいと思います。それは、自分の力で、自分の思いによってというのではありません。神の力によって、神の霊の働きを通して可能になる新しい生活です。それゆえ、たとえば割礼を受けるというようなかたちで、人間の側の努力、働きなどに何らかの保証を求めようとする考え方を拒絶しているわけです。

 

 そして、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉は、「肉に頼らない」という言葉に対応する表現です。であれば、神の霊によって礼拝することを、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉で説明していると言ってもよいでしょう。

 

 「誇りとする」(カウカオマイ)という言葉には、「喜びとする、信頼する」という意味もあります。キリスト・イエスを信頼し、肉を頼りとしない生活は、神の霊の助け、神の霊の働きなしには可能とならないということになります。

 

 9節の「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」という言葉にパウロの信仰の確信が言い表されています。ここで、「律法から生じる自分の義」と、「キリストへの信仰による義」、「信仰に基づいて神から与えられる義」とが対比されています。

 

 この対比は、「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」という3節の言葉で、肉に頼ることと、キリスト・イエスを誇りとすることとの対比で既に示されていました。

 

 「肉に頼る」というのは、勿論、「肉体」のことではなく、生まれ持った性格や才能、また家柄、財産、あるいは、自分の力で獲得したもの、そのようなものに頼ることを指します。つまり、神の救いに依り頼まず、自分の力で何とかしようと考える、キリストを信じるだけでは不十分で、救いの完成のためには人間的な努力も必要だという生き方をすることです。

 

 それは、かつてのパウロの生き方でした。しかし、それが復活の主イエスと出会って一変しました。冒頭の言葉(8節)の「あまりの素晴らしさ」は「フペルエコー」という言葉で、「超越する、凌駕する、権力を持つ、権威ある」という意味があります。そこから「あまりの素晴らしさ」、「絶大な価値」(口語訳)、「卓越したすばらしさ」(岩波訳)という訳がつけられるわけです。

 

 ということで、主イエスを知ることはあまりにも素晴らしいこと、絶大な価値があることだと、パウロは語っているのです。パウロがキリストを知ったとき、それまでの価値観が逆転しました。キリストを知るとは、キリストについて勉強することではなく、キリストを信じることであり、キリストとの出会いと交わりを経験することです。

 

 神の冒涜者を殲滅するつもりで、真の神の御子キリストを迫害していたことに気づかされたとき、彼はどんなに驚いたことでしょうか。そして、慄いたことでしょうか。

 

 使徒言行録9章9節に「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と記されています。目が見えなくなっていたことも重なり、何も出来ず、神の裁きを待っていたのでしょう。しかし、パウロを待っていたのは裁きではありません。元どおり目が見えるようになり、聖霊で満たされて、主イエスの証人とされたのです。

 

 迫害者サウロは、異邦人に対する伝道者パウロとなりました。ベニヤミン族の出身で(5節)イスラエル初代の王サウルに因んで「サウロ」と名づけられているのに、手紙の中では一度も「サウロ」と名乗らないこと、また「パウロ」とは「小さい」という意味であることから、彼は確かにキリストと出会って、それまで自分が誇りとしていたものを捨てたのです。

 

 血筋を誇り、律法を守り行う熱心のゆえにキリストの教会を迫害することが(6節)誤りだったということは、そのような肉に頼ることが主イエスを信じる信仰を妨げるものだということになります。自分が誇りと考えていたものが、かえってマイナスだったわけです。ですから、それらを、「塵あくたと見なしています」(8節)とまで言うのです。

 

 信仰によって、肉の誇りを失いましたが、それとは比べものにならないものを得ました。それは冒頭の言葉の最後の言葉で、「キリストを得」と記されています。この「得る(ケルダイノー)」というのは、7節の「有利(ケルデー)」と訳されている言葉の動詞形です。それまで有利と思っていたものを捨てて、キリストを手に入れた、獲得したというのは、言葉遊び以上の面白さです。

 

 「キリストを得た」ということを9節で「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と言います。「神から与えられる義」(エク・セウー・ディカイオシュネー)とは、神がお与えくださる救い、神との正しい関係を意味します。人間が自分の働きで神の義を獲得することは出来ません。

 

 神からの義、神から与えられる義は、キリストを信じる信仰によって与えられるのです。パウロは、復活の主キリストと出会い、キリストを信じる信仰によって罪が赦され、主なる神との関係が正され、救われて、キリストのための使徒、伝道者とされたのです。

 

 10節で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と言います。キリストを得るとは、キリストと復活の力を知ることであり、そしてそれは、キリストの苦しみと死を知ることでもあります。「苦しみにあずかって」は「苦難のコイノニア」という言葉です。

 

 主イエスご自身、神の子としての身分、神と等しい者であることに固執されず、かえって自分を無にして、僕の身分になられました(2章6,7節)。そして、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(同8節)。

 

 パウロはここに、神の栄光を見ることが出来たのです。命の希望を持つことが出来たのです。キリストの十字架によって救われたのです。神の義が与えられたのです。そして、使徒としての使命が与えられました。その使命を果たすことがどれほど苦難に満ちたものであっても、それをパウロは「苦難のコイノニア」と呼び、まるで楽しい交わりであるかのような表現をするのです。

 

 パウロが持った復活の希望、永遠の命の希望は、長くいつまでも生き続けるというものではありません。自分を救い、使徒として召してくださった主イエスと交わり、主イエスのために働き、そうして主イエスと共に過ごすという希望です。そしてその希望は、儚いものではありません。キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わりに支えられた希望です(2章1節)。

 

 この希望のゆえに、彼は投獄という苦難の中でも、実際に喜びに溢れることが出来たのです。その喜びがフィリピ教会開拓のとき、獄吏とその家族を救い、そして今、問題に直面しているフィリピ教会を励まし続けているのです。

 

 主において、キリストに結ばれて、常に主を喜ぶ信仰に与り、日々主のみ言葉に耳を傾けながら、主と共に歩ませていただきましょう。

 

 主よ、御子キリストを信じる信仰により、罪の赦しと救いに与らせてくださり、有り難うございます。御言葉と祈りを通して、甦られた主イエスと出会い、交わり、主を知る恵みの豊かさを味わわせてください。希望と喜びをもって主に仕え、御業に励ませてください。 アーメン

 

 

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 フィリピの信徒への手紙4章6節

 

 1節に「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」という呼びかけの言葉があります。この言葉を見るだけで、パウロがいかにフィリピの信徒たちを愛していたか、パウロとフィリピの信徒たちの間に親密な関係があったかということが分かります。

 

 「冠」は「喜び」と併せて、勝利の栄冠を戴いて歓喜している姿を思わせる表現です。第二テモテ書4章8節の「義の栄冠」との関連で、世の終わりに主の前に出るとき、フィリピの信徒たちの存在のゆえに胸を張ることが出来る、つまり、パウロの誇りであるということです(2章16節)。

 

 呼びかけに続いて、「主によってしっかりと立ちなさい」と命じます。「主によって」は「エン・キュリオー in the Lord」、2節の「主において」と同じ言葉です。これには、主に立たせて頂くという意味も、また、主の中で立つという意味も含まれているようです。

 

 「しっかりと立つ」(ステーコー)という言葉は、1章27節でも用いられていました。そこでは「一つの霊によってしっかり立ち」と、聖霊による一致を勧めています。一致こそが、教会を教会たらしめるものだからです(ヨハネ17章21節以下、エフェソ4章3,4節、第一コリント1章10節など)。

 

 そして「しっかり立つ」とは、「心を合わせて福音の信仰のために共に戦」うことと説明されています。戦いのときに、内部に分裂や争いがあるようでは、勝利を望むことは出来ません。その意味で、信仰のための戦いとは、一致を脅かそうとするものに聖霊の力を受けて立ち向かうことであり、どこまでも主を信頼し、主とその御言葉に従っていくという戦いです。

 

 1章で用いた言葉を再び用いているのは、フィリピ教会の内部に問題があるからです。それが、2節の勧めの言葉に示されます。「主において同じ思いを抱きなさい」とあります。そのように勧められているということは、エボディアとシンティケが、パウロやフィリピの教会の人々と、同じ思いになれない問題があったわけです。

 

 どのような問題なのか、具体的に記されてはいませんが、もしかすると二人が、3章2節で「あの犬ども」、「よこしまな働き手たち」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と呼んでいた、割礼を最重要視し、救いの完成のために律法を守るように教えるユダヤ主義的キリスト者たちを、教会に招き入れるという働きをしていたのかも知れません。

 

 この二人について、「クレメンスや他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(3節)と紹介されています。二人は、フィリピ教会草創のとき、命がけでパウロを助け、働いてくれた大切な存在だったのです。

 

 そのことで、自分と親しい関係にある同労者に向かって「真実の協力者よ」と呼びかけ、二人の女性のことを心にかけて支えてやって欲しいと依頼しています。「真実の協力者」とは誰のことか、明示されてはいません。誰もが主を畏れ、神を神として同じ思いで働く「真実の協力者」となって欲しいという思いが、そのような呼びかけの言葉になったのではないでしょうか。

 

 そしてそれは、二人がもう一度、「他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたし(たち=パウロやフィリピ教会の人々)と共に戦って」くれる「真実の協力者」になってくれることを願う思いも、込められていることでしょう。

 

 そのように語る言葉に続けて、「主において常に喜びなさい」(4節)と言います。パウロは、獄に囚われの身で何時殉教することになるかも知れない状況の中で、これまでも喜びを語ってきました。どんなときにも神に愛され、神の御子キリストが最善をなしてくださるということを知る喜びを、パウロは身をもって示しているのです。

 

 主のある喜びの具体的な秘訣が、5節以下に示されています。冒頭の言葉(6節)に、祈りの勧めがあります。「何事につけ」は「万事において」(エン・パンティ in everything)という言葉です。あらゆることにおいて、くよくよ考えないで、あれこれ悩まないで、感謝の心で祈り、願いなさいというのです。

 

 そうすると、「あらゆる人知を超える神の平和があなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう」(7節)という神の祝福が約束されています。思い煩いの中にいた者が感謝の心で祈れるのは神の導きであり、それこそ、神の平和が彼の心に訪れているからこそのことでしょう。

 

 だから、パウロの喜びの勧めは、空元気を出して、喜べないときにも無理して笑顔を作れというのではありません。堅実な信仰生活を土台として、真実な神との交わりに生きること、神に愛され、命に招かれた者として、あらゆる隔ての壁を取り除いてくださる神に、感謝を込めて教会、家族、私たちの交わりの信仰による一致を求め、祈るのです。

 

 その祈りに応えて神が私たちの心に、思いに、平和、平安を授けてくださり、そうして、主において共に同じ平和、平安の思いになり、いつでもどこでも皆と一緒に主を喜ぶことを可能にしてくださるのです。

 

 「主はすぐ近くにおられます」(5節)というのは、主が私たちのすぐ傍らにいてくださるということです。そして、それと同時に、主の再臨が近いこと、神の御国の完成のときが近いことを指しています(ヤコブ書5章8,9節)。

 

 主にあって喜びをもって人々に寛容を示し、思い煩わず平和に生きるのは、主の再臨と御国の完成が近いからです。主の恵みに生かされている者として、常に主を仰ぎ、感謝の心をもって主の平和を祈りつつ、日々喜びのうちに歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、人間関係で問題を起こすのは私たちの常です。そのため、一致を乱してしまいます。そのときに、一致を乱すものを排除するのではなく、彼らを含めて共に主を仰いで祈りをささげ、喜びなさいというパウロの勧めに、目が開かれる思いがしました。いつも主を見上げ、主の御思いに触れさせてください。福音のために、主と共に働く者とならせてください。 アーメン

 

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