ハガイ書

 

 

「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると、主は言われる。」 ハガイ書1章8節

 

 今日から、ハガイ書を読みます。1節に「ダレイオス王の第2年6月1日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ」と記されています。

 

 「ダレイオス王の第2年6月1日」とは、紀元前520年の8月末ごろのことです。ということは、ハガイが預言者として活動しているのは、ゼファニヤより100年ほど後、バビロン捕囚から解放され、イスラエルへの帰還が許されて18年後ということになります。

 

 紀元前587年にエルサレムの都が陥落し、主だった者は皆、捕囚として連れて行かれました。そして半世紀後の紀元前539年にバビロニア帝国が新興ペルシャ帝国によって滅ぼされ、その翌年、ユダヤ人のイスラエル帰還が許されます。

 

 帰国を果たした者たちは神殿再建に立ち上がり、その基礎を据えることが出来ましたが(エズラ記3章8節以下、10節)、異国の宗教に寛容な政策をとったキュロスが戦死し、そのあとを継いだカンビュセスは、父キュロスとは違って非寛容な政策をとったため、再建工事中止のやむなきに至りました。

 

 カンビュセスが紀元前522年に自殺、あとを継いだダレイオスは、広大な帝国のあちらこちらで起こる謀反に対処するのに,治世の初めの一年余りを費やさなければなりませんでした。「ダレイオス王の第2年6月1日」というのは、帝国の統治を安定させるのに腐心している時期のことでしょう。 

 

 その頃、バビロンから帰国したイスラエルの民は、荒れ放題になっていた故郷の家を再建し、以前の生活を取り戻すのに忙しく、また干ばつに見舞われるなどしていたため、帰国から20年近くたっても、ソロモンの神殿に次ぐ第二神殿を完成する余裕がありませんでした。神殿の建築工事が中断したままであることが分かってはいても、どうしようもないという状況だったわけです。

 

 預言者ハガイについて、ハガイ書以外では、エズラ記5章1節、6章14節に、「預言者ハガイ」として登場して来ます。ハガイ書にいくつか日付がありますが(1,15節、2章1,10,18,20節)、いずれもダレイオス王の第2年、即ち、バビロン捕囚から帰還を果たして18年後、紀元前520年のことです。

 

 エズラ記の記述から、ハガイの活動はダレイオス王の第2年だけに限られていたわけではありません。ただ、この時期に非常に大切な役割が与えられたわけです。それは、冒頭の言葉(8節)にあるとおり、「神殿を建てよ」という言葉を、ユダの総督シェアルティルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに対して(1節)語り告げることでした。

 

 2節に「この民は、『まだ、主の神殿を再建するときは来ていない』と言っている」とあります。自分の家を建て、その生活を立て直そうとすることに忙しく、今はまだ、神殿を建てているような余裕はないと考えているイスラエルの人々に、順序が間違っていると神が言われているのです。

 

 9節で「お前たちは多くの収穫を期待したが、それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき、わたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃墟のままであるのに、お前たちが、それぞれ自分の家のために、走り回っているからだ」と言われるのも、礼拝より生活を優先させていて、主の恵みは期待出来ないということです。

 

 冒頭の言葉(8節)で、「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ」と言われています。神殿は、主なる神が私たちの祈りを聞かれるところです(列王記上8章27~30節、9章3節)。かつて主がモーセに「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出エジプト記25章8節)と言われ、神の幕屋が造られました(同40章)。

 

 今、主なる神の神殿は、私たちのうちに、私たちの間にあります。私たちが主の名によって集まる時、そこに主がおられます。そこで、私たちの祈りと賛美を受け止めてくださるのです(第一コリント3章16節、6章19節、第二コリント6章16節、マタイ18章20節、詩編22編4節)。

 

 「山に登り、木を切り出して」という言葉を、主の山から恵みの御言葉の木を切り出してと聴きました。恵みの御言葉で心を飾りなさい、御言葉の恵みで心を満たしなさい、御言葉を語ってくださった主のご愛で満たされなさい。私たちの神殿が主の御言葉で満たされたとき、私たちの生活は神の恵みで潤されるのです。

 

 これこそ、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)と、主イエスが教えてくださったことです。神の恵みの御言葉を思い出してみましょう。御言葉の恵みで心を満たしていただきましょう。恵みの主を信じましょう。

 

 主よ、命の御言葉を聴かせてください。キリストの言葉を絶えず心に豊かに宿らせます。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。恵みの地境が広げられますように。天幕を場所を広く取り、住まいの幕を広げ、惜しまず綱を延ばし、杭を堅く打ちます。私たちを右に左に増え広がらせてください。 アーメン

 

 

「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。」 ハガイ書2章4節

 

 1節に「ダレイオス王の第2年、7月21日」と記されています。1章1節の期日から一ケ月半余、第二神殿の建築作業が再開されて(1章14,15節参照)、4週間が経過しました。7月21日は、仮庵祭と呼ばれる祭の最終日に当たります(レビ記23章34節参照)。

 

 3節に「お前たち、残った者のうち、誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか」と言われています。ソロモンの神殿を見たことがあるのは、既に70歳を超えた老人たちです。

 

 このことで、預言者ハガイはおよそ80歳ではないかと考える学者があります。特に、ハガイは「祭り」(ハグ)に由来する名前なので、神殿で仕えていた祭司だったのではないか、だから、神殿再建に熱心なのではないかという説もあるのですが、それらを確かめる術はありません。

 

 第二神殿の基礎が築かれたとき、「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き」と、エズラ記3章12節に記されています。それは、規模の違いを思ってのことでしょう。据えられた礎石の差もあるでしょう。その後、様々な妨害が入り、建築が中断されてしまいました(エズラ記4章参照)。

 

 そして、ようやく建築工事が再開されて4週間。その間、7月1日に大贖罪日、15日から仮庵祭が始まりました。工事が出来たのは3週間に満ちません。祭りに集まって来た人々が再開された工事の進捗状況を見たとき、どれほども進んでいないことに、落胆したかも知れません。特に老人たちがそれを見ると、「目に映るのは無に等しいものではないか」と慨嘆したことでしょう。

 

 また、かつて神殿に置かれていた契約の箱は、失われてしまいました。律法の刻まれた石の板も、マナを入れた壺も、芽吹いて花を咲かせ、実を結んだアロンの杖も所在不明です。七つ枝の燭台、金の香壇などもありません。貧しい生活、資材も乏しい中でどれだけのことが出来たでしょうか。

 

 しかし、冒頭の言葉(4節)には3度、「勇気を出せ」と語られます。それは、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、そして、祭りに集まって来ていた民に対する言葉です。その仕事がどのようにみすぼらしく、無に等しいように見えても、それは、主を礼拝する場所を造る業です。「働け、わたしはお前たちと共にいると、万軍の主は言われる」のです。

 

 確かにソロモンの建てた神殿は確かに立派なものでした。しかし、神殿に栄光を与えるのは、建物の壮麗さ、威風堂々とした佇まいや技巧を凝らして作られた美しい調度品などではありません。「諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国の太すべての民の財宝をもたらし、この神殿を栄光で満たす」(7節)と言われる主が共におられるか、主の御声に聴き従うかどうかが問われます。

 

 実際、ソロモンの建てた神殿は、シェバの女王をしてその麗しさ、豪華さに息も止まるような思いにさせるほどのものでしたが(列王記上10章4節以下)、しかし、ソロモン以後の王たちが主に背き、御言葉に耳を傾けず、礼拝を疎かにしたので、ついにダビデ王朝は途絶え、神殿,王宮は焼き払われ、エルサレムの都は破壊されてしまったのです(列王記下25章参照)。

 

 今、イスラエルの民に求められているのは、万軍の主に依り頼み、勇気を出して仕事を完成させることです。民の依って立つべきところは、「勇気を出せ」と語り、「働け、わたしはお前たちと共にいる」と言われるインマヌエルなる主のご臨在なのです。

 

 神殿を建てるということは、主なる神が共におられ、主を礼拝する信仰生活の基礎を築くということを意味します。勇気を出して働けということは、イスラエルの民にとって、生活を再建するためには、まず主を礼拝する場所や時間、そしてその心を整えることが重要だということを示しているようです。

 

 神殿建築がいかに困難で、手に余るものと思われても、主が共にいてくださるので、それを成し遂げることが出来ます。主は「銀はわたしのもの、金もわたしのもの」と言われ(8節)、すべて必要なものは主が満たされることを示されました。主が用意されたものをもって建て上げる神殿に主が栄光を満たされるので、「新しい神殿の栄光は、昔の神殿にまさる」(9節)と言われるのです。

 

 その時、ハガイの告げる主の言葉を聴いている人々にとって、その仮庵祭は、かつてのエジプトからの解放に加え、第二の出エジプト、バビロンからの解放を祝い、自分たちと共にいて、第二神殿の工事を完成させてくださる主を喜び祝う祭となったことでしょう。

 

 主イエスが、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって、流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章38節)と、仮庵祭の終わりの日に宣言されました。

 

 主イエスを信じるとき、「生きた水が川となって流れ出」ます。「川」(ポタモイ)に用いられているギリシア語は複数形です。とても豊かな流れだということでしょう。私たちの心を神殿として聖霊がお住まいくださり、私たちを命の恵みで満たし、そして、私たちを通して聖霊が私たちの思いを遙かに超えて豊かにお働きくださるのです。

 

 日々、十字架の主を仰ぎ、感謝をもって主を賛美し、主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きと力を受け、主のために働かせて頂きたいと思います。

 

 主よ、御心を行うことが出来るように、私たちに御声を聴かせてください。御言葉を行うために、どうぞ私たちに勇気を与えてください。委ねられた使命を信仰によって果たすことが出来ますように。主の恵みと聖霊の導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

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