テトス書

 

 

「神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教を委ねられたのです。」 テトスへの手紙1章3節

 

 今日からテトス書を読みます。この手紙は、第一テモテ書とほぼ同時期に、パウロによって、ニコポリスで執筆されたものです(3章12節参照)。パウロはここで再び逮捕されてローマに送られ、獄中で第二テモテ書を記し(第二テモテ書1章16,17節)、その後、紀元67年頃殉教したと考えられています。

 

 この手紙の受取人とされているテトスは、第二コリント書、ガラテヤ書、第二テモテ書、そしてこのテトス書に、その名が記されています。けれども、不思議なことに、使徒言行録には全く登場して来ません。テトスがルカの兄弟なので、その活動が使徒言行録に記されなかったという説があるそうです。話として面白そうですが、その証拠を見出すことは出来るのでしょうか。

 

 ガラテヤ書2章13節によれば、テトスはギリシア人で、本書2章6~7節と第一テモテ書4章11節との関連で、恐らくテモテと同世代だと思われます。また、「信仰を共にするまことの子テトス」(4節)という言葉から、テモテと同様、パウロの伝道によってテトスも救いに導かれたということが分かります(第一テモテ書1章2節参照)。

 

 テトスは、パウロに連れられてエルサレムの使徒会議に出席しました(ガラテヤ書2章1節、使徒言行録15章参照)。であれば、使徒言行録16章の記事から、テトスはテモテよりも早くパウロと出会い、同労者となっていたということになります。

 

 また、パウロから手紙を託されてコリントに赴き、パウロとコリントの教会の関係を修復することに成功しました(第二コリント書7章5節以下)。さらに、苦闘しているエルサレム教会を援助するための募金活動を行っています(同8章6節以下)。このように、テトスはパウロの同労者として、その信任を受けて働いている様子を知ることが出来ます。

 

 5節に「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」とあります。「クレタに残してきた」ということは、パウロがテトスと一緒にクレタに行ったこと、そして今、テトスがクレタ島にいるということを示しています。

 

 使徒言行録によれば、パウロがクレタ島に行ったのは、エルサレムからローマに向かって護送されていく途中のことです(27章7節以下)。護送途中のパウロが、クレタで宣教活動を行うことが出来たとは考えられません。「町ごとに長老を立てる」必要があるほど教会の働きが進展しているのであれば、使徒言行録に記されていない働きがあったと考えざるを得ません。

 

 パウロがローマに護送されて、何年かの軟禁生活を送った後(使徒言行録28章16節以下)、自由の身になって第四回伝道旅行を行い、そのときにクレタ島での宣教がなされたのでしょう。そして、そこに設立された教会を指導するために、テトスをクレタに残したのであろうと考えています。

 

 その伝道旅行は、その全貌が明らかになりませんが、エフェソからマケドニアへ(第一テモテ書1章3節)、そしてクレタからニコポリスへ(1章5節、3章12節)、そこからやがてローマを経てイスパニアへと至るという計画だったのではないでしょうか(ローマ書15章24,28節参照)。しかし、その計画は上述の通り、適わなかったようです。

 

 上に述べたようなパウロとテトスの関係から、「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから」(1節)という挨拶が記されているのは、この手紙がひとりテトスのために書き送られたものではなく、テトスとクレタの教会の人々に読ませるためのものであることを示しています。

 

 特に「神の僕」(ドゥーロス・セウー a servant of God)という肩書きは、他のパウロの手紙では見ることが出来ません。新改訳は第二コリント書6章4,8節で「自分を神のしもべとして推薦している」という訳を記していますが、そこに用いられているのは「神の奉仕者、執事」(セウー・ディアコノス minister of God)という言葉で、新共同訳は「神に仕える者」としています。

 

 パウロがここで「神の僕」と自己紹介したのは、「不従順な者、無益な話をするもの、人を惑わす者」(10節)と呼ぶ異端的な教えを持ち込む者に対抗するために、「神の僕、イエス・キリストの使徒」と強調して語る必要があったためだろうと思われます。

 

 それは、彼が使徒とされた目的を「神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くため」(1節)と記しているところにも表れています。パウロはローマ書1章5節でも「御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くため」と言っており、福音宣教の使命があると見ることが出来ます。

 

 一方、「信心に一致する真理の認識に導く」(1節)とは、異端的な偽りの知識や教えから教会を守り、信仰の一致を保つように指導する信徒の教育・牧会にその使命があると読めます。キリストに立てられた使徒として、福音宣教によって多くの信徒を獲得すると共に、キリストを信じる信仰によって一致を保つよう信徒を教え導くため、特に誤った教えに惑わされないよう、心配りしていたわけです。

 

 それは、真理の認識、即ちキリストを信じる信仰によって、「永遠の命の希望」(2節)が与えられるからであり、この命は、偽ることのない神が、永遠の昔に約束されたものなのです(第二テモテ書1章9節、ローマ書1章2節以下)。

 

 冒頭の言葉(3節)で「定められた時に」というのは、イエス・キリストがこの世に来られたときにということです。そして、「宣教を通して御言葉を明らかにされました」とは、主イエスこそ神の御言葉そのものであり、その御言葉が人間となってこの世に現れたことを表しています(ヨハネ福音書1章1節以下、14,17,18節参照)。

 

 そして、神の御言葉なる主イエスの宣教により、神の御心が示されたのです。残念ながら、この世は主イエスの宣教を受け入れませんでした。かえって、主イエスを十字架につけて殺してしまいました。

 

 しかし、神は主イエスを死者の中から甦らせられました。神の御心は、死によって中断されません。むしろ死を打ち破られたのです。主イエスの死は、私たちの罪を贖うためのものであり、死に勝利された主イエスは、今も生きて私たちを導いてくださいます。

 

 そして主イエスは、宣教をご自分に従う者たちに委ねられました。パウロは「わたしたちの救い主である神の命令によって」と語って、キリストが神で、その命令で使徒となり、福音宣教の使命が与えられたと明言しています。

 

 私たちも同じ主によって贖われ、永遠の命を与えられました。主によって福音が委ねられています。それぞれの分と賜物を用いて、主の愛の証し人としての使命を果たしてまいりましょう。

 

 主よ、パウロに委ねられたキリストの福音は、宣教命令に従う者たちの言葉と行いを通して、現代の日本にいる私たちのところにまで宣べ伝えられて来ました。その福音が真理であった何よりの証拠です。私たちも、聖霊の力に与って委ねられた宣教の使命を感謝と喜びをもって全うさせていただくことが出来ますように。静岡の町に住む70万の人々に神の愛と恵みが届きますように。 アーメン

 

 

「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」 テトスへの手紙2章13節

 

 新共同訳聖書は、2章に「健全な教え」という小見出しを付けています。ここには、年老いた男(2節)、年老いた女(3節)、若い女(4,5節)、若い男への勧めがあり(6,7節)、そして、テトスへの勧めがあり、最後に、奴隷への勧めもあります(9,10節)。

 

 ここでは、教会の秩序を健全に保つということが念頭に置かれ、その秩序を乱すものを不健全な教えと考えていることが示されます。そもそも、1章5節に「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」といって、教会に指導者を立てること、その指導によって教会を整え、育てることを指示しています。

 

 秩序を守る、指導者の指示が行き届くように体制を整えるというのは、しっかりと安定した組織を作るためには必要なことと思われます。しかしながら、何のためにその体制が必要なのかと考えると、組織作り、体制作りというのは、神の御言葉、指導者の指導が行き届くためです。

 

 組織さえ出来ればよい、そしてその組織がしっかりと保たれるようにしなければならないということではありません。その組織を構成しているすべての人々、隅々に至るまでキリストの血が通い、神の恵みが皆に行き渡るように、生きた組織を作らなければなりません。

 

 既に、すべての人に救いをもたらす神の恵みは現れました(11節)。今から2000年前、ユダヤのベツレヘムに、ダビデ家の血を継ぐ救い主メシア=キリストとして、主イエスがお生まれになったのです。

 

 天使が、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章11,12節)と告げました。

 

 この知らせを聞いた羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」と聞いたとき、それはまさに自分たちのところに来てくれた救い主だと感じることが出来たことでしょう。その場所ならば、正装していなくても、野宿して羊の番をしていたそのままの格好で、気兼ねなく近づくことが出来ます。飼い葉桶の置かれている家畜小屋は、彼らの仕事場だからです。

 

 それに象徴的に示されているように、主イエスはすべての人々に救いをもたらしたお方なのです。教会は、キリストの体と言われます。この世に来られたキリスト・イエスの心を戴し、この世に対してキリストの御心を行う生きた体、それが教会です。

 

 キリストの御心は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ福音書28章18節以下)ということです。

 

 このことを1章3節で、「わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教を委ねられたのです」と語っていたわけです。

 

 「救いをもたらす神の恵み」を受けて、12節に「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と言います。ギリシア語原文は、「教える、懲らしめる」を意味する動詞「パイデウオー」の命令形で始まっています。子どもの養育、しつけを思わせる言葉遣いです。

 

 神の恵みは、信じる者を義とするだけでなく、親が子どもを養育するように、「思慮深く、正しく、信心深く生活する」ように教えるのです。「不信心と現世的な欲望を捨てて」というのは、キリスト者の生活の基準が世間的な常識などではなく、神の恵みにあることを示しています。そこでは、信仰により、御言葉と祈りを通して神の御前に正しく判断することが求められています。

 

 それに続けて語られるのが、冒頭の言葉(13節)です。ここで、「祝福に満ちた希望」(ヘ・マカリア・エルピス)を、新改訳は「祝福された望み」、聖書協会共同訳は「幸いなる希望」、岩波訳は「至福なる希望」としています。また、イエス・キリストを「偉大なる神であり、わたしたちの救い主である」と形容しているのは、聖書中ここだけでしょう。

 

 ここに、「祝福に満ちた希望」を「イエス・キリストの栄光の現われを待ち望む」ことと説明しています。それは、キリストが再び地上に来られるのを待ち望むということです。それが、「祝福に満ちた希望」と言われるのは、キリストの再臨によって悪が完全に裁かれ、滅ぼされて救いの御業が完成するからです。

 

 キリストの再臨によって救いの御業が完成するということは、今は未完成の状態にあるということです。ただ、この救いは徐々に完成に向かうというものではありません。世の中がだんだん清く明るく正しくなって神の国が完成するのではなく、この世が裁かれ、滅ぼされて、新しい天と地が創造されるのです(イザヤ書65章17節、第二ペトロ書3章12,13節、黙示録21章1節など)。

 

 いまだ救いの完成していないこの世を、思慮深く、正しく、信心深く生きることにより、その人の内に神の恵みが働いていることが証しされます。そうして、救い主キリストを正しく待望する生活が出来るのです。

 

 神の憐れみなしには何も出来ない私たちです。であればこそ、神の恵みに応えて、その使命を果たすことが出来るよう、日々主を仰ぎ、私たちを神の宮としてその内に宿っておられる聖霊に、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えていただきたいと思います(第二コリント書3章18節)。

 

 主よ、絶えずキリストの十字架を見上げさせてください。常に神の恵みを心に留めさせてください。再臨の主を待ち望ませてください。そのために、日々御言葉と祈りをもって生活し、主の使命に生きることが出来ますように。 アーメン

 

 

「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」 テトスへの手紙3章6節

 

 1節以下の段落に、新共同訳聖書には「善い行いの勧め」という小見出しがつけられています。この段落の4~7節は、ギリシア語原典では韻文(詩のかたち)になっています。ただ、岩波訳以外の和訳聖書でそれを確認するのは難しそうです。

 

 その韻文は、私たちを救うためになされた神の御業をたたえる内容になっており、当時の教会の中で用いられていた信仰の宣言文、あるいは讃美歌ではないかと思われます。讃美歌を手紙に引用している例としては、フィリピ書2章6節以下の「キリスト賛歌」などを上げることが出来ます。

 

 ここで「人間に対する愛」(4節、フィランスロピア:博愛)は、使徒言行録28章2節(「親切」と訳出)とここの2度しか用いられない珍しい言葉です。5節はパウロの思想をなぞっているようですが、用語はパウロのものではありません。「新たに造り変える」(パリンゲネシア)も、マタイ19章28節で「新しい世界になり」と終末の世界変革を意味する言葉として語られるのみです。

 

 6,7節では、神の救いの御業が主イエスと関連づけて語られます。4節で神に冠せられた「わたしたちの救い主」という言葉が、冒頭の言葉(6節)ではイエス・キリストに冠せられます。さらに、「イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」(6節)と、父、子、聖霊が関係づけられています。

 

 8節で「この言葉は真実です」と語っています。「この言葉」は、4~7節の言葉を指しています。それが重要な宣言ないし賛美の言葉であることを、このように明示しているのです。

 

 私たちは、讃美歌や祈りのあとに「アーメン」と唱和しますが、それは「それは真実です」という意味です。アーメンという決まりになっているから、そう言うというのではなく、讃美歌や祈りの言葉を受けて、それは真実です、私もそう信ずると和しているのです。ここで、引用された宣言文に「真実です」と言っているのは、それがパウロたちも体験したアーメンたる出来事だということなのです。

 

 5節に「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」と記されています。私たちは義の業をなし得なかったけれども、神は私たちを御自分の憐れみによって救ってくださったのです。神の憐れみなしには、だれも救いの恵みに与ることは出来ません。

 

 そして、「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」と言います。「洗い」(ルートゥロン)とは、バプテスマを指しています。

 

 ただ、罪過ちを洗いさえすれば、もとの清く正しい存在になるということではありません。全身を水に浸すことから「洗い」という言葉が出て来たのでしょうけれども、それは、古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わるという「新たに造りかえる洗い」なのであり(5節、ローマ書6章3節以下)、「聖霊によって新しく生まれさせ」(ヨハネ福音書3章3節以下)ることなのです。

 

 「新しく生まれさせる」(アナカイノーシス)という言葉は「アナ(再び)」と「カイノス(新しい)」の合成語で、「更新(renewal)」という意味で用いられます。ローマ書12章2節でも「(心を)新たにして」とあります。それによって「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」(同節)と勧められています。

 

 キリスト・イエスの贖いによって罪赦され、聖霊によって新しく生まれた者は、「無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし忌み嫌われ、憎み合っていた」(3節)生活を捨て、「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接」(2節)する生活を営まなければなりません。

 

 そこに、生活を通してなされる証しの業があります。それが、罪人の私たちを憐れみ、贖いの供え物となってくださったキリストに倣い、神の恵みに応える生き方であると、ここに教えられているのです。

 

 冒頭の言葉(6節)は、この聖霊によって新しく造りかえられることのために、キリストを通して聖霊が豊かに注がれたと読むことも出来るでしょう。しかしながら、ここは、聖霊によって新しく造りかえられた人々に、さらに豊かに聖霊が注がれると読むべきだろうと思います。

 

 それは、私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになりさえすれば、それでもう大丈夫ということではないからです。借金体質の会社の赤字をだれかが補填してくれて、負債がゼロになったとしても、翌日からまた借金の生活が始まり、負債額が膨らんでいってしまいます。体質そのものが改善されるように、テコ入れしてくれる人が必要なのです。

 

 それと同様、私たちが聖霊によって新しくされた信仰の生活をおくり続けていくために、どうしても絶えず聖霊の助け、導きが必要となっているということです。だから、神が私たちのために、主イエスを通して聖霊を、ちょっぴりではなく豊かに注いでくださるというのです(ヨハネ3章34節参照)。

 

 パウロはその力で絶えず励まされ、いつでもどこでも大胆に、キリストの福音を宣べ伝えました。パウロを殺せと叫んでいる人々に向かって(使徒言行録21章36節以下)、また最高法院で(同23章1節以下)、総督フェリクスに対して(同24章10節以下)、総督フェストゥスとアグリッパ王の前でも(同26章2節以下)、弁明と称して自分の信仰体験を語り継げました。

 

 聖霊の力と導きをいただいたからこその働きでしょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(キリスト)の証人となる」(使徒言行録1章8節)というとおりです。

 

 主なる神は、キリストを通して聖霊を豊かに注いでくださいますから、祈り求めてその力を受けましょう。そうして、主の証人とならせていただきましょう。主の栄光のために、委ねられている賜物を用いさせていただきましょう。主はそのことのために、私たちを極みまで愛して、十字架の死に至るまで、従順に歩んでくださったのです。ハレルヤ!

 

 主よ、おとめマリアが天使の告げる御言葉を信じて受け入れたとき、聖霊の力がマリアに臨みました。私たちも御言葉を信じます。日々十字架を仰がせてください。そして、絶えず聖霊に満たしてください。聖霊の力を受けて、主に命じられた宣教の使命を果たすことが出来ますように。宣教を通して、私たちの街にも神の愛と恵みが明らかにされますように。 アーメン

 

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