コロサイ書

 

 

「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」 コロサイの信徒への手紙1章27節

 

 今日から、コロサイの信徒への手紙を読み始めます。この手紙は、パウロがエフェソで拘束されているときに執筆されました。この手紙の用語法や文法の特徴などから、パウロが執筆したものではなく、パウロが語った内容を書き取ったテモテにこの手紙の執筆を委任して(1節)、それをティキコに届けさせたのではないかと思われます(4章7節)。

 

 コロサイは小アジア中西部の小さな町で、近くにラオデキアとヒエラポリスの町があります(4章13節)。使徒パウロは、コロサイ教会に行ったことがなかったようです。というのは、「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」(7節)と記されているからです。

 

 コロサイ教会にはフィレモンがいましたし、彼の家に仕える奴隷のオネシモも、コロサイの教会員でした(4章9節)。この手紙は、コロサイ教会に忍び込んできた異端の教えに脅威を感じたエパフラスが、獄中のパウロに助けを請い、それに対して福音の真理を明らかにするため、記されたものです。

 

 そのような事情を考えると、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)と記されているのは、なるほどと理解できます。どのような境遇にあっても、教会のことを思い、伝道の進展を願って使徒の使命を果たし続けるパウロの姿勢を、ここに見ることが出来ます。

 

 ここに「福音の希望」と記されていることについて、5節に「あなたがたのために天に蓄えられている希望」という言葉があります。「天に蓄えられている」ということは、その希望の根拠や内容が、人間の側の条件に左右されないこと、また、すべてが神によって準備されたものであることを表しています。

 

 また、「あなたがたが聞いた福音の希望」というのですから、私たち自身が望み、願っているというものではありません。私たちに届けられた福音を通して、神が私たちに与えようと望んでおられる希望です。

 

  第一ペトロ書1章4節に「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」とあり、それを同5節では「終わりの時に現されるように準備されている救い」と言い換えています。ということから、「天に蓄えられている希望」とは、「救いの希望」を指していると考えてよいでしょう。

 

 「天に蓄えられている希望」(5節)、「あなたがたが聞いた福音の希望」(23節)と「希望」(エルピス)を語るパウロは、冒頭の言葉(27節)で「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と告げます。ここに三番目の希望が「栄光の希望」として語られています。

 

 ここで「異邦人にとって」は「異邦人の中で」(エン・トイス・エスニシン among the Gentiles)という言葉です。これは、また「秘められた計画」というのは「ムステーリオン」というギリシア語で、英語は「ミステリー(mystery)」、日本語では「奥義、神秘」などと訳されてきました。

 

 通常、「奥義」は誰にも分からないように隠してあるものですが、それが異邦人に対して明らかにされました(27節)。その奥義の中身は、キリストが私たちの内におられるということで、このキリストこそ、これまで繰り返し語られて来た「希望」、それも、「栄光の希望」なのだというわけです。

 

 「あなたがたの内」(エン・ヒューミン in you)とは、黙示録3章20節との関連で、「あなたがた」と呼びかけられているコロサイの信徒たち、そしてまた、今この箇所を読み学んでいる私たち一人一人の心の中と考えられます。主イエスを信じたとき、私たちは心の扉を開いて、主イエスを心にお迎えしました。それ以来、主イエスは私たちの内におられるのです。

 

 しかし、それだけではありません。キリストは私たち一人一人の内におられるだけではありません。「あなたがたの内」、つまりコロサイ教会の内、そして私たち読者集団の内ということです。私の内におられるキリストは、私の隣の人の内にもおられます。そしてさらに、私と隣人との間にもおられるのです。

 

 ルカ福音書17章21節に「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」という言葉があります。私と隣人との間にキリストがおられ、そこに、神の国が造られているのです。ユダヤ人の間にも、異邦人の間にも、そして、ユダヤ人と異邦人との間にもキリストがおられ、そこに神の国があるということです。

 

 キリストが内におられて、そこに神の国が造られるとき、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ書14章17節)という御言葉のとおり、そこには神の義と平和と、そして喜びが聖霊を通して支配する場所となるのです。

 

 それが、「神の聖なる者たち」(26節)、即ちクリスチャンに対して、明らかにされたのです。具体的には、エパフラスの宣べ伝えた福音をコロサイの人々が受け入れたことにより、神の救いの計画が異邦の民にも及んでいること、また、彼らの間で聖霊が働かれていることが、誰の目にも明らかになったわけです。

 

  これらの希望は、「福音という真理の言葉を通して」与えられたものです(5節)。ということは、福音という真理の言葉を離れて、希望の実現、救いの完成を見ることは出来ないということです。だからこそ、パウロやテモテ、エパフラスは、この福音を宣べ伝えるのです。そのために、労苦しているのです。

 

 しかしそれは、空しい労苦ではありません。福音を受け入れて、信仰と愛と希望に生きている聖なる者たちの存在により、絶えず喜びと感謝、励ましを与えられているからであり(3節以下)、彼らの内に力強く働くキリストの力によって強められているからです。

 

 キリストは私たち一人一人の心に住まわれて平安を与え、私たちの間におられて平和を造り出し、そこに神の国の栄光を見せてくださいます。心の平安と兄弟姉妹の間の平和をもって、キリストの福音を証ししてまいりましょう。

 

 主よ、私たちは御子キリストによって、贖い、即ち罪の赦しを得ました。その十字架の血で平和を打ち立て、万物を御子によって和解させられました。私たちのうちにキリストが共に住まわれ、私たちの間に神の国が作られますように。家庭が、職場が、学び舎が、神の国となりますように。聖霊によって与えられる義と平和と喜びで、絶えず私たちを支配してください。 アーメン

 

 

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」 コロサイの信徒への手紙2章3節

 

 1~5節は、1章24~29節で語っていた使徒としての務めを、コロサイの人々に対するものとして描写しています。1章27節で「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内にいるキリスト、栄光の希望です」と、異邦人一般に対するものとして語っています。

 

 それを「わたしがあなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して戦っているか、分かって欲しい」(1節)と言い、続けて「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです」(2節)と告げます。

 

 使徒として世界に福音を宣べ伝えるというのは、様々な人々と実際に出会い、そこで多くの困難や苦労、苦痛、苦悩を味わいながらも、しかし喜び多き務めです。ここに「あなたがた」というコロサイの信徒たちに並んで「ラオディキアにいる人々」に対しても語られているということは、二つの教会が距離的に近いこともあり、同じような問題に直面しているということなのでしょう。

 

 パウロは冒頭の言葉(3節)のとおり「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と語ります。ということは、知恵と知識の宝が欲しい人は、キリストに注目し、キリストに関心を寄せ、その御言葉に耳を傾けなければならないということです。

 

 「キリストの内に隠れている」ということは、人間が自分でそれを獲得しようと思っても、それで自分のものにすることは出来ないということです。一方、キリストは、ご自身が内にもっておられるこの宝を、自由に与えることが出来るのです。そして、キリストを信じる信仰によって、その宝をいただくことが出来ます。キリストが私たちの内に住まわれるからです(1章27節)。

 

 パウロがこのことをここに書き記したのは、コロサイ教会の信徒たちが、「巧みな議論にだまされないようにするため」(4節)です。「巧みな議論」(ピサノロギア)とは、「説得力がある」(ペイソス)と「言葉」(ロゴス)との合成語です。

 

 コロサイ教会の指導者エパフラスは、危険な異端の教えが教会に侵入してきたとき、それに脅威を感じて、獄に囚われている使徒パウロに指導を仰ぎました。ということは、教会内に「巧みな議論」の罠に落ちた人が少なくなかったものと考えられます。それによって、彼らはキリストの言葉から離れ、説得力のある魅力的な指導者の言葉に耳を傾けるようになったのでしょう。

 

 しかし、いかに説得力があり、魅力的であっても、そこに命がなければ、それが真実でなければ、結果は空しいものになります。「巧みな議論」を8節では「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまりむなしいだまし事」と言います。それは人の言い伝えにすぎず、また人が思索を重ねた「哲学」であって、キリストに根ざした真理では有り得ないのです。

 

 かつて、神の造られた野の生き物のうちで最も賢い蛇が、人を惑わしました(創世記3章1節以下)。女は蛇の語った「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」(同4,5節)という言葉を真に受けて、取って食べるなと命じられていた善悪の知識の木の実を食べ、男にも渡して食べさせました(同6節)。

 

 その結果、彼らは裸であることを知り、腰を覆うためにイチジクの葉を綴り合わせました(同7節)。そして、主なる神の足音を聞いて、神を恐れて身を隠しました(同8節)。そのことを神に問われて、「恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(同10節)と答えます。それが、「目が開け、神のように善悪を知るものとなること」なのでしょうか。

 

 パウロは、異端の「巧みな議論」によって神の顔を避け、キリストの御言葉に背いて信仰から離れるような空しい結果にならないように、むしろ、キリストの内に隠されている知恵と知識の宝を、キリストを信じる信仰により、恵みとしてしっかりと受け取るように、教え諭しているのです。

 

 そもそも、異邦人であったコロサイの教会の信徒たちが主イエスの福音を信じることが出来たのは、神の愛、キリストの恵み、聖霊の導きの賜物でした。神が私たちにお与えくださるものが、私たちにとって最善の宝物であると信じ、受け止めることの出来る人は、本当に幸いです。

 

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)と言われます。神の御言葉こそ、私たちに命を与え、力を与える生きたパンなのです。御言葉によって、私たちの必要の一切が創造され、豊かに注ぎ与えられるのです。

 

 御前に謙り、日ごとに主の御言葉の恵みに与らせていただきましょう。御言葉を通して、主イエスを信じる信仰に、さらに深く進ませていただきましょう。私たちの内におられるキリストこそ、栄光の希望だからです。

 

 主よ、弱い私たちを憐れんでください。御言葉と霊の恵みをもて、日々養ってください。主イエスに堅く結ばれ、御言葉を信じて前進させてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」 コロサイの信徒への手紙3章16節

 

 パウロの手紙には、前半に教理的な事柄、そして、後半は実践的なことが記されるという特徴があります。本章にも、私たちのすべきこと、あるいは、すべきでないことが具体的に出て来ます。たとえば9節に「互いにうそをついてはなりません」とあります。これは、特別な言葉ではありません。ごく一般的な勧めといっても良いでしょう。つまり、言葉の真実が求められているのです。

 

 自分の子どもに嘘のつき方を教える親などいません。むしろ、正直、素直であることを願うでしょう。そおれなのに、嘘をついたことがないという人はいません。勿論、今日は上手に嘘をつこうと思って一日を始める人もいないでしょう。それなのに、思わず知らず、真実でないものが口をついて出て来ます。

 

 主イエスが、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ12章34節)と言われました。心に真実があれば、心から溢れて来る言葉は、真実なものであるはずです。真実でいられない何かが、私たちに偽りを語らせるのです。

 

 心を真実で満たすこと、そこから真実を語ることは、私たちの努力や精進によっては到達し得るものではありません。8節で「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」と言われています。これらは、真実な交わりを阻害するもの、壊してしまうものですが、捨てなさいと言われて、そう簡単に捨て去ることが出来ないのです。むしろ、不可能でしょう。

 

 ただ、「無理、そんなこと出来ない」ということは簡単ですが、そういえばすむという話でもありません。そして勿論、パウロはここに、無理なことを要求しているわけではないでしょう。

 

 そのことで、私たちに心の姿勢の基本を教えているのが、1~4節です。1節に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」とあり、続く2節に「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と言われています。上にあるものを求め、それを心に留める生活をせよというわけです。

 

 ここで、上とは、単純に真上というようなことではありません。私たちの真上は、裏側のブラジルの人々には真下ということになってしまいます。1節後半に「そこでは、キリストが神の右の座についておられます」と記されています。つまり、上とはキリストが座しておられるところという意味です。

 

 そこで、「上にあるものを求める」とは、玉座に着いておられるキリストの支配、キリストによる統治を追い求めるということになります。それは、一度キリストに従うと言えば、それでよいということではありません。瞬間瞬間、キリストを私の主、私の神とするということです。

 

 主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)と言われました。「神の国」とは「神の支配」を、「神の義」は「神の救い」を表わします。常にキリストを私の主とするということは、祈りなしには出来ません。だから、神の国と神の義を求めよ、求め続けよ、と命じているのです。

 

 「心に留める」(フロネオー)という言葉には、「注目する、関心を払う、愛情をもって心に抱く」という意味があります。神の右に座しておられる主イエスを、私たちの心の中心にお迎えする、私たちの心を主イエスに明け渡し、支配して頂くと言えばよいでしょうか。そうすれば、地上のものに心引かれることはないでしょう。

 

 冒頭の言葉(16節)で「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と命じられています。キリストの言葉が豊かに宿るとは、キリストの言葉をたくさん憶えるということではありません。勿論、御言葉を憶えることも大切なことですが。

 

 ここで、「言葉」(ホ・ロゴス the word)は単数形で、定冠詞がついています。ヨハネ福音書1章1節以下の「言(ことば)」が「ホ・ロゴス」です。つまり、「キリストの言葉」とは、キリストのご人格そのもの、キリストご自身のことであるということです。

 

 「豊かに宿るようにしなさい」と言われていますが、キリストは私たちの内にあって、豊かに宿っておられるのでしょうか。それとも、貧しく宿っておられるのでしょうか。それは、主ご自身が豊かなのか、貧しいのかということではありません。私たちが主の働き、臨在を豊かに期待し、信頼し、味わおうとしているのか、否かということです。

 

 それは、感覚の問題ではなく、信仰の問題です。私たちの心がどちらを向いているのかということです。キリストの御顔を仰ぎ、御言葉を慕い求めているのでしょうか、それとも、キリストから離れ、「巧みな議論にだまされ」(2章4節)て、自分勝手に「何の価値もなく、肉の要望を満足させるだけ」(同23節)の道を歩んでいるのでしょうか。

 

 私たちが、キリストに顔を向け、その御顔を拝し、御言葉に耳を傾けることに集中しているならば、私たちの心には、聖霊を通して神の愛が注がれて来るでしょう(ローマ書5章5節)。その愛によって、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」(12~14節)ることが出来るでしょう。それは、キリストが私たちの内にあって、豊かにお働きくださるからです。

 

 エフェソ書5章18、19節にもよく似た言葉が記されています。そこでは、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」というところを、「霊に満たされ」るようにしなさいと言っています。キリストの言葉、キリストのご人格が私たちの間で豊かに働かれることを、エフェソ書では「聖霊に満たされ」ることと言い換えているわけです。

 

 キリストが豊かに働かれると、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合」うことになります。そこに、キリストの平和があり、忍耐や赦し合いがなされています(13,15節)。また、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえ」ることになります。

 

 「感謝して」は、「恵み」(カリス)という言葉です。冠詞がついていれば、神の恵みという意味になります。写本では、冠詞のついたものとついていないものがあります。現代の日本語訳(口語訳、新改訳、新共同訳)は、冠詞がついていないものを選んだかのように、「感謝して、感謝にあふれて」と訳しています。

 

 ただ、賛美は神の祝福に対する応答ですし、キリストが豊かに働かれるとは、神の恵みの内を歩ませていただくことであると考えて、「神の恵みにおいて、心から神をほめたたえなさい」と読むことも、とても意味深いことでしょう。岩波訳は「〔神の〕恵みにあって、あなたがたの心でもって神に向かい歌いなさい」と訳していました。

 

 主が私たちの内に共にいてくださる恵みを絶えず覚えながら、心から感謝して主を賛美しましょう。

 

 主よ、私たちの内にあなたの御言葉が生きて働きますように。いつもあなたの御顔を求めます。あなたを賛美する心で、兄弟姉妹が互いに教え、諭し合い、愛し合い、助け合い、祈り合うことが出来ますように。私たちの内に働かれるキリストを通して心から賛美のいけにえ、主の御名をたたえる唇の実を献げさせてください。 アーメン

 

 

「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」 コロサイの信徒への手紙4章2節

 

 この手紙は、用語法や文法の特徴から、パウロが語った内容を聞き取ったテモテがこの手紙の執筆し(1章1節)、最後にパウロが署名をして(18節)、それをティキコに届けさせたものでしょう(7節)。ティキコはアジア州出身で(使徒言行録20章4節)、エフェソはアジア州の中心都市でした。ここでパウロと出会い、同労者となったわけです。

 

 ティキコにオネシモが同行します(9節)。オネシモは、フィレモン書で知られる人物で、フィレモンのもとから逃げ出してパウロのもとに身を寄せ、信仰の道に入り、コロサイのフィレモンのもとに送り返されました(フィレモン書12節)。そこから再びパウロのもとに遣わされ、今度はパウロの使者として、ティキコを連れてコロサイに戻るのです。

 

 10節に「バルナバのいとこマルコ」の名があります。第2回伝道旅行の際に、マルコのことでパウロとバルナバが衝突したという、いわく付きの人物でしたが(使徒言行録15章38節、13章13節参照)、長い年月を経て、このマルコがパウロにとって有用な協力者になったことを示しています(フィレモン書24節参照)。

 

 そしてアルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」(17節)と書き送ります。フィレモン書1,2節の宛名から、このアルキポはフィレモンの子なのではないかということと、コロサイ教会で伝道者として重要な役割を担っていたのではないかということが窺えます。

 

 「ゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と語るということは、アルキポが意気阻喪しているか、あるいは、その務めを軽んじているという様子を想像させます。それに対して、「主に結ばれた者として」それを行うようにと諭しているのです。

 

 7節のティキコを「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と紹介し、17節でアルキポに「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い」と語っています。かくて7節以下の段落は、最初と最後に「主に結ばれた」(エン・キュリオー)という言葉が出て来て、括弧で括ったような形になっています。

 

 これは、ティキコとアルキポだけのことでなく、「主を信じる者」(3章18節:エン・キュリオー)すべてが主に結ばれた者であり、各自が「主に結ばれた者として、ゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と語られているということを表しています。

 

 私たちが十字架につけられた主イエスを、私たちの救い主、神の御子であると信じることが出来たのは、聖霊の導きです。聖霊が私たちの内に満たされるというのは、キリストが私たちの内に宿られるということであり、それは、イエスこそ私たちの主であるという信仰に堅く立つことです。

 

 冒頭の言葉(2節)で「目を覚まして」というのは、聖書では通常、終末との関連で用いられます。「世の終わりが近づいているから気をつけて」という意味になります。「十人のおとめ」のたとえ(マタイ福音書25章1節以下)が、「目を覚ましていなさい」(同13節)という警告で締め括られていました。

 

 朝が来て陽が上り、明るくなると目が覚めます。私たちの心の目、信仰の目を覚まさせるのは、神の御言葉です。御言葉が開かれ、命の光に照らされると、心の目が開かれて来ます。詩篇119編130節に「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」と詠われています。

 

 そして、今がどのようなときなのか、何をすべきなのかを教えてくれるのです。御言葉に耳を傾けず、祈りもしないというのは、それは信仰的に「とき」を弁えていない、霊的に眠り込んでいるということになります。目を覚ますことが祈ること共に語られているのは、ひたすら祈ることが、目を覚まして主を待つ正しい姿勢だからです。

 

 「ひたすら祈りなさい」というのは、「祈りに専念しなさい、絶えず祈り続けなさい」ということです。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)という言葉もあります。どうすれば、ひたすら祈れるようになるのでしょうか。24時間365日、不断の祈りが出来るでしょうか。それは、人間には無理なことのように思われます。

 

 けれども、もしそれが不可能なことであるならば、どうして「ひたすら祈れ」、「絶えず祈れ」と命じているのでしょうか。少なくとも、手紙の著者はそれが出来ると考えているのです。どうすればよいのでしょう。

 

 一つは、私たち弱い者のために、私たちの内におられる聖霊が、私たちのために執り成しの祈りをしておられることを覚えましょう(ローマ書8章26,27節)。私たちを守る神は「まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)お方ですから、不断の呻きの祈りをささげて、万事が益となるように働いておられるのです。

 

 さらに、もう一つ。これはバークレイ先生(西南学院大学宗教部長、神学部教授、福岡ベタニヤ村教会協力牧師)から教えていただいたことです。不断の祈りを一人の人間が行うのは無理かもしれませんが、他の人に祈りの応援を頼んだらどうでしょう。一方が眠っている間、他の人が目を覚ましてお互いのために祈るのです。

 

 パウロも「ひたすら祈りなさい」と言った後に、「わたしたちのためにも祈ってください」(3節)と祈りを要請しています。お互いに祈り合うことを通して、そのような祈りの交流を通して、不断の祈りが神の前にささげられることになるのです。

 

 神に心を向けて祈ろうとするとき、私たちのために不断に執り成し、万事を益としてくださる聖霊の働きを思い、また、お互いのために祈る信仰の仲間のあることを思うと、心に感謝と賛美が湧き出して来るでしょう。パウロがここに「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」というのは、そのことではないでしょうか。

 

 絶えず主を仰ぎ、御言葉を求めて祈りましょう。そうして感謝と喜びに満たされましょう。主は、求める者に必ず良いものをくださいます(マタイ福音書7章11節)。そう信じるからこそ、目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈るのです。

 

 主よ、毎日の慌しい生活の中で祈りはしますが、いつの間にかその祈りから、神を慕い求め、喜びをもって御言葉に聴き従う思いが失われています。やがて、祈らずに忙しく走り回っている自分を見出します。御言葉と祈りを通して、いつも目覚めさせてください。主の御心を心とすることが出来ますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設