コヘレトの言葉

 

 

「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ。すべては空しい。」 コヘレトの言葉1章2節

 

 今日から、コヘレトの言葉を読み始めます。本書の題名「コヘレトの言葉」は、ヘブライ語本文の冒頭に、「コヘレトの言葉」(ディブレイ・コーヘレト、1節)と記されているのを、そのまま題名としたものです。

 

 「コーヘレト」は、「集める」(カーハール)に関係する言葉で、人々を集める指導者、また、格言を集めた教師という意味合いに解釈されます。英語訳の聖書も、コーヘレトを「preacher(説教者)」、「teacher(教師)」と訳しています。口語訳では「伝道の書」となっていましたが、この言葉の意味合いを考えると、新改訳のように「伝道者の書」とすべきでしょう。

 

 「コヘレト」について、1節で「エルサレムの王、ダビデの子」と言い、12節にも「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」と記されています。しかし、イスラエルには「コヘレト」という名の王はいません。

 

 エルサレムの王でダビデの子といえば、ソロモンです。13節、16,17節との関連でも、ソロモン王が示唆されていると思われます。とすれば、「コヘレト」はソロモンのペンネームとでも考えればよいのでしょうか。

 

 ただ、箴言1章1節、10章1節、25章1節や雅歌1章1節では、著者としてソロモンの名が上げられています。本書でコヘレトとはソロモンのことではないかと仄めかす表現を1,2章で用いていますが、3章以下には、そのような表現は見当たりません。

 

 本書で用いられているヘブライ語が、紀元200年頃に編纂されたミシュナー(口伝律法を含む律法の注解、議論)の言語に近いこと、議論の傾向、思想などからも、バビロン捕囚後かなり遅い時期の紀元前3世紀、ギリシア・ヘレニズムの支配を受けていた時代と考えられています。

 

 冒頭の言葉(2節)で、「なんという空しさ」というのは、「ハベル・ハバリーム」という言葉で、「ヘベル」という言葉の変形が二つ重ねて記されています。「へベル」は、「蒸気、息」という言葉です。そこから空虚、空しさといった意味に訳されます。この言葉は、本書中に37回出てきます。

 

 「ハベル・ハバリーム」を、口語訳が直訳調で「空の空」としていたものを、新共同訳が「なんという空しさ」と訳しているのは、同じ言葉を重ねて意味を強調するという文法の約束があるからです。

 

 その表現を2度用い、最後に「すべてはむなしい(ハ・コール・ハーベル)」と言っています。12章8節にも同じ表現が出て来ますので、これが本書の主題であることを示しています。「人のやること、なすこと、すべて空しい」と言われてしまうと、なんだか体中の空気が抜けてしまうような思いがしますね。

 

 創世記4章2節に「アベル」という名前があります。実は、ヘブライ語原典には「ヘベル」と記されています。アベルは羊を飼う者となり、その群れの中から肥えた初子を神に献げました。神がそれに目を留め、受け入れて下さったのですが(同4節)、彼の兄カインの農作物の献げ物は神に顧みられなかったので、兄は弟アベルを妬み(同5節)、ついに殺してしまいます(同6節)。

 

 この箇所を読むかぎり、アベルには何の落ち度もありません。また、なぜカインの献げ物が神に顧みられなかったのかという理由も、不明のままです。神の気まぐれにも似た選び方が、カインに妬みの心、ひいては殺意を抱かせてしまったように見えます。

 

 どんなに熱心に働き、それを神が評価してくださったとしても、それが人生を成功に導き、幸せな生涯をまっとう出来るとは限りません。神に受け入れられたアベルは、兄カインに殺されてしまったのです。

 

 カインは神に呪われ、放浪者とはなりましたけれども、しかし、子孫を持つことが許されています。正直者が馬鹿を見るとは言いませんが、「アベル」の生涯は確かに蒸気のようなもの、これで終わりならば、まさにその名のごとく、「空しい」と言わざるを得ないのかも知れません。

 

 けれども、ヘブライ書11章4節に「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」と記されています。

 

 ここで、死んだアベルは何を語っているのでしょうか。信仰によって語るアベルは、決して、「空しい、恨めしい」と言っているわけではないと思います。そうではなく、「父よ、カインをお赦しください。何をしたのか、分からずにいるのです」と語っているというのではないでしょうか。

 

 創世記4章11節で「今、お前(カナン)は呪われる者となった。お前が流した弟(アベル)の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」と語られていましたが、ヘブライ書12章24節に「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」とあります。

 

 「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」とは、主イエスが十字架で流された血のことです。主イエスはまさに、呪い、恨みではなく、赦しを祈り、語られました。信仰によって語っているというアベルの血も、その主イエスの血の故に、呪いや恨み言ではなく、赦しを語り祈るものとなったのではないでしょうか。

 

 このアベルの執り成しの祈りのゆえに、カインが生きることを許されたのだと思うのです(創世記4章15節以下参照)。そして、私たちはアベルの血よりも立派に語る注がれた血によって、罪赦され、神の子とされ、永遠の命に与る恵みを得ました。今、私たちは主イエスにあって活かされています。

 

 ゆえに、思うに任せない現実に直面して疲れ果て、すべて空しいと思われる状況にあっても、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがた(私たちと読み替えましょう)を満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ書15章13節)と祈りつつ、万事を益に変えてくださる主に信頼して歩みましょう。

 

 主よ、私たちがただ地上に生きるだけの存在であるならば、「すべては空しい」と言わなければならないかもしれません。しかし、あなたは私たち貧しい者に、天国はあなたのものと言い、悲しむ者に、真の慰めを与えて、あなたは幸いだと言われます。希望の源である主を仰ぎ、常に希望に満ち溢れさせてください。驚くばかりの恵みのゆえに、心から感謝します。 アーメン

 

 

「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。」 コヘレトの言葉2章24節

 

 著者は、知恵を追い求めて幸いを得ようとしましたが(1章13節)、結局「風を追うような」(同17節)空しさしか得られなかったので、次には、快楽を追求して幸いを得ようとします(1,3節以下)。大きな果樹園を造って(4,5節)、たくさんの奴隷を働かせ(7節)、様々な財宝を集め(8節)、あらゆる快楽に身を投じますが(10節)、得られたのはこれも、風を追うような空しさでした(11節)。

 

 次に、知恵と愚かさとを比較します(12節)。箴言で学んだように、確かに知恵は愚かさにまさります(13節)。けれども、次の事実は、著者を愕然とさせます。その事実とは、賢者にも愚者にも平等に死が訪れ(14節)、そして、知恵と力によってどんなに功績のあった人物も、永遠に記憶されることなどはなく、やがて忘れられてしまうということです(16節)。

 

 しかも、自分の労苦の結果を、労苦しなかった者が受け継ぎます(18節)。受け継ぐ者が賢者なら、まだ救いもありますが、それが愚者となればどうしましょう(19節)。

 

 実際に、というべきでしょうか。ダビデ王の跡を継いだソロモンは、その知恵によって国力を増大させました(列王記上4,5章)。壮麗な神殿や豪奢な宮殿を建設しました(同6,7章)。やることなすこと、みな上手く行き、繁栄を極めました(同10章)。

 

 しかしながら、それで心が奢ったのか、1000人もの女性を正妻、側室として王宮に入れ、彼女たちに心惑わされて、政治が乱れてしまいます(同11章)。そうして、ソロモンの跡を継いだレハブアムは、長老たちの良い勧めを捨て、同年輩の愚かな進言に従って行動したために、国を南北に分裂させてしまいました(同12章)。

 

 やがて、北王国はアッシリア(列王記下17章)、南王国はバビロンによって滅ぼされてしまいました(同24,25章)。南には、ヒゼキヤ(同18~20章)やヨシヤ(同22,23章)という優れた王も出ましたが、結果を見れば、それもまた空しいと言わざるを得ません。

 

 ただ、著者は自分が歴史の記憶から忘れ去られることを恐れていたわけですが(16節参照)、その思いに反して、彼の苦悩、魂の悶え、そしてその結論は、ここに「コヘレトの言葉」として記録され、今も人々に読み継がれ、教訓を与え続けています。

 

 何をしても空しいという結論に達した著者ですが(17,23節)、しかし、絶望してしまったわけではないようです。それは、冒頭の言葉(24節)で「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」と語り、今を楽しもうと告げます。

 

 人生を楽しむことについて、この箇所を含め、本書中に7回勧めています(3章12~13節、22節、5章18~20節、8章15節、9章7~10節、11章9~10節)。ここで著者が勧めているのは、刹那的に快楽を追い求めることや、利己的な虚栄心を満足させることなどではありません。その楽しみは、飲むこと、食べること、そのために労苦することなど、日常生活で味わうものです。

 

 それを著者は、「神の手からいただくもの」と言います。つまり、神が私たちの日常生活に、労苦することも含めて様々な喜び、楽しみを与えてくださっているということです。それを、自分の思いや計画で先を急ぐあまり、日常にある当然のことと軽々しく考えたり、その楽しみを見逃してしまってはならないということです。

 

 26節で著者は、一つの皮肉を語っています。彼の名は「コヘレト」、つまり集めることでした。神は人に、知恵や知識、飲み食べする楽しみを賜物としてお与えになっている、それを楽しむことなく、ただ集め、ため込もうというのは悪しき者のすることで、彼が集めたものは取り上げられて、空しくなるというわけです。

 

 集め積むのは、明日に備えてのことでしょう。それがいつしか集め積むのが目的になり、ただ集めることにあくせくし始めます。どれだけ積んでも、安心することが出来ません。

 

 神が私たちにくださる恵みは、集め積むためにあるのではなく、活かして用いられるためのものであり、楽しみを味わいつつ、さらに豊かにされるものであると教えられます。日々のあらゆる出来事、労苦をも、私たちを楽しませるために神がくださった賜物だと受け取ることが出来る人は幸いです。

 

 主よ、あなたは明日を思い煩わないように、空の鳥を見よ、野の花を見よと教えてくださいました。鳥を養い、花を装わせておられる神が、私たちの今日を備え、楽しみを与えていてくださることを知りました。主を畏れ、御言葉に耳を傾けながら、そのときをしっかりと歩む者であらせてください。 アーメン

 

 

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」 コヘレトの言葉3章11節

 

 1節に「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とあり、2節以下に14組の「時」が示されます。それは、一組ずつ、「生まれる時」と「死ぬ時」(2節)、「戦いの時」と「平和の時」(8節)など、様々な場面の両局面を登場させています。

 

 完全を象徴する数「7」の2倍の組を掲げていること、そしてそれは「泣く時、笑う時」(3節)、「求める時、失う時」(7節)などと両極端の組み合わせとして整えられているということで、両極の間に存在するすべてのものを含んでいると考えられることから、私たちの人生のあらゆる出来事、場面がここに描き出されていることを示しています。

 

 著者は、私たちの「時」というものは、過去から未来に直線的に動いているのではなく、それぞれの「時」を行ったり来たり、ちょうど振り子が振れるように行きつ戻りつする、あるいは円運動のように、様々な「時」を巡る軌道をぐるぐる周回していると考えているわけです。

 

 だから15節でも、「今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと」と語っています(1章9節)。ということは、コヘレトにとって重要なのは、どこから来て、どこへ行こうとしているのかという方向性や到達目標などではなく、今はどういう「時」なのかということを正しく判断することということになります。

 

 12節に「わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と」と言っています。この発言には、素直に肯けます。その言葉に続いて、「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と」(13節)と言います。

 

 これは2章24節に似ています。「飲み食い」を喜び楽しむというのは、贅沢をするということではないでしょう。毎日、三度の食事を喜び楽しむということです。「労苦に満足する」というのは、働く苦しみを喜び楽しむということでしょう。

 

 ですから、「喜び楽しんで一生を送る」というのは、刹那的に快楽を追い求めて生きる生き方とは無縁です。むしろ、「笑う時」だけでなく「泣く時」も、あらゆることをその時々に喜び楽しむということ、今自分が置かれているところで、自分に与えられた時、その状況を精一杯味わい楽しむということです。

 

 そしてそれは、起こって来る出来事、その事柄に誠実に向き合う、誠心誠意関わるということでしょう。直面している問題に抗い、排除しようと労苦するというのではなく、今がどういう「時」かを判断し、今必要なこと、今すべきことを一所懸命行うということです。

 

 9節に「人が労苦してみたところで何になろう」という言葉がありますが、これを12節との関連で考えれば、労苦した結果、得られるものに期待するなということになります。別の言い方で言えば、今このときを楽しみながら、精一杯働き、歩んでいるのならば、その結果がどうなってもよいではないかと言っていることにもなります。

 

 著者は冒頭の言葉(11節)で、「神はすべてを時宜にかなうように造」られると言います。「造る」(アーサー)は「(天地を)創造した」(バーラー:創世記1章)と、過去形で語られているような言葉ではありません。これは、神がその時々にふさわしいことを行ってくださっているということです。

 

 たとい苦難が襲って来ていても、それは神の定められたときで、その背後に神の御計画、隠された意図があるのです。恵みの神を信頼し、すべてが神の御手の中に握られ、すべての時が神によって定められていると信じているからこそ、今このときを精一杯楽しむことが出来るというわけです。

 

 パウロが、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを倣い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても空腹であっても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ書4章11~13節)と言っているのも、同じことでしょう。

 

 とはいえ、コヘレトやパウロのようにあらゆる時にあらゆることを喜び楽しめると言えるほど人生を達観し、いかなる場合にも対処する秘訣を授かっていると語ることの出来る人がどれほどおられるでしょうか。

 

 むしろ、到来する出来事に一喜一憂し、思いがけない事柄の到来にあたふたしてしまいます。激しい突風で打ち込んでくる波に怖じ惑う弟子たちが、眠っておられた主イエスを叩き起こして、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったと、マルコ4章35節以下に記されていますが、それはまさに状況に振り回される私の姿です。

 

 私自身の内に、恐れに打ち勝つ強さなどありません。ただ、そのような私の内に、私と共にいてくださる主イエスは、その嵐の中でも眠ることの出来たお方です。そして、弟子たちの訴えに、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」(同40節)と仰りながら、波風を静めてくださいました。

 

 時を定め、すべてを御手の内に握っておられる主の御前で、心静かに御言葉に耳を傾け、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と語られる主の助け、導きを祈り求めつつ、主の御業に励ませて頂きましょう。

 

 主よ、私たちの心の目を開いて、あなたをさらに深く知ることが出来るようにしてください。主にあって強められ、今この時、自分の置かれた境遇に満足し、委ねられた務めを一所懸命果たすことが出来ますように。ご自身の栄光の富に応じて、私たちに必要なすべてのものを豊かに満たしてくださる主に、栄光が世々限りなくありますように。 アーメン

 

 

「ひとりよりもふたりがよい。共に労苦すれば、その報いはよい。・・・ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」 コヘレトの言葉4章9,12節

 

 2,3節に「既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ」と記されていますが、3章22節で「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った」と語られていたことを思うと、ここにおいて著者の考えが少々後退しているように見えます。

 

 それは、「彼らを慰める者はない」(1節)と2度語られていて、権力者によって虐げられている人があり、その人を慰めたくても、権力者の横暴な力を思うと、近寄ることも憚られるというような状態なのでしょう。

 

 権力者の力、支配者の権威は、弱い人を守り、助けを必要としている人を支えるために神から与えられたものであるはずなのに(ローマ書13章4節、一ペトロ書2章14節)、それを私利私欲のために用いて、弱い人を虐げているとするなら、そこには、神の喜ばれる平和な秩序はありません。それは、悲しいことです。だから、「既に死んだ人を、幸いだと言おう」ということになるでしょう。

 

 ただ、ここで著者は、虐げられている人の側に立って、彼を助けよう、慰めようとは言いません。「エルサレムの王、ダビデの子」(1章1節)という著者が、自分の立場、役割を弁えているなら、傍観者のように、死者や、生まれて来なかった者は幸いだなどと、ニヒルに語っているわけには行かないのだと思いますが。

 

 7節以下では、友も息子も兄弟もなく、際限なく労苦して、富に飽くことがない一人身の空しさを取り上げています。仕事が好きで元気に働けるなら、一人が気楽なのかもしれません。しかし、実際に一人だけで生きられる人はいません。周囲にいる様々な人々から、有形無形の助けを受けています。

 

 また、労苦している者同士が心を通わせあうとき、その労苦を笑い話にすることが出来るでしょう。そして、明日も頑張ろう、もっとよい仕事をしようと思うことも出来ます。

 

 「友も息子も兄弟もない」(8節)というのは、「際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない」(8節)、つまり、何よりも富を貪欲に追い求めて労苦した結果、友のみならず、家族までも失ってしまったということではないでしょうか。それでは、およそ幸せになることは出来ません。

 

 著者は、「人の幸福は、喜び楽しんで一生を送ること」(3章12節)と言い、「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ」(同13節)と言いましたが、それは、共に労苦する者がいればこそだということです。

 

 だから、冒頭の言葉(9節)で「ひとりよりもふたりがよい。共に労苦すれば、その報いは良い」というのです。二人でいると、一人が「倒れれば、一人が友を助け起こす」(10節)でしょう。「ふたりで寝れば温かい」(11節)でしょう。そして、「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する」(12節)ことが出来ます。

 

 主なる神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)と言われました。神は私たちのために「助ける者」を造られます。それは、神ご自身が「助け主」(ヨハネ14章16節、第一ヨハネ2章1節、「パラクレートス」:弁護者、慰め主)であられ、私たちのために助ける者を造って、助けをお与えになるわけです。

 

 詩編の記者が、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121編1,2節)と詠っているのも、そのことを示しています。

 

 「ひとりよりもふたりがよい」と仰って助ける者を造り、お与えくださった主なる神が、そのふたりの間に、ふたりと共におられたら、確かにこの「三つよりの糸は切れにくい」でしょう。

 

 家族を大切にしましょう。友達を大切にしましょう。隣人を大切にしましょう。互いに愛し合いましょう。助け合い、励まし合いましょう。慰め合い、赦し合いましょう。

 

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18章20節)という主イエスの御言葉は、兄弟を得るために忠告し、また、罪を赦して仲間を憐れむことを教える文脈の中で語られています。主にあって、友や兄弟、家族を大切にすることを、主はお喜びくださるのです。

 

 主よ、私たちに互いに助け合う家族矢友達、隣人をお与えくださって、有難うございます。共にいてくださる主に支えられて、関係という宝を大切にし、苦楽を分け合いながら、さらに喜びを豊かにすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。」 コヘレトの言葉5章3節

 

 1~6節は、神の御前で言葉を慎むように勧めています。1節は、祈りのことです。このことについて主イエスが、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」(マタイ6章7,8節)と、山上の説教(同5~7章)の中で語られました。

 

 「神は天にいまし、あなたは地上にいる」(1節)とは、神は人間の知恵知識、経験、能力などをはるかに超えて高くおられる方だということでしょう。それを、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6章8節)と主イエスは仰っています。

 

 冒頭の言葉(3節)で「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない」というのも、山上の説教で主イエスが、「昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ』と命じられている」(マタイ5章33節)と語られたことを思い出させます。このような命令が記されているということは、誓いを果たさない人々がいるということです。

 

 神に誓願を立てることについて、レビ記27章、民数記6章などにその規定があり、それは、神が請願者の願いを聞いて恵みを授けてくださるお返しに、いけにえやお金を神にささげる約束をするというものです。ゆえに、誓いを果たさないと、神に罪を犯すことになります(申命記23章22節)。

 

 コヘレトは冒頭の言葉で、誓いを果たさない者、誓いの実行を遅らせる者のことを「愚か者」と呼び、それでは神に喜ばれないと言います。それはむしろ、神に罪を犯すことなので、怒りを買うということでしょう。だから、「誓いを果たさないなら、願をかけないほうがよい」(4節)とまで言っています。

 

 確かに、願かけをしてそれがかなえられたら、満願の献げ物として、これこれをささげますという約束をしておきながら、それを実行せず、神の怒りを買って罰を蒙るくらいなら、そもそも願かけをしないほうがよかった、誓わなければよかったということになるでしょう。

 

 ところで、主イエスは先の言葉(マタイ5章33節)に続けて、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」(同34節)と言われました。つまり、旧約聖書の命令の上を行って、「守れないなら誓うな」ではなく、「一切誓いを立ててはならない」と言われるのです。

 

 これは、どうせ皆約束を守れないのだから、守れない約束をするのは無駄なことだ、それならむしろ、一切誓ってはならないと仰っているということではありません。もともと、私たちが誓いを立てるのは、相手に対して約束したことが真実、確かであることを保証しようとするからです。

 

 もしも私たちが、いつも真実に語り、語ったことを常に誠実に実行していれば、それが信用されて、あらためて「誓う」などという必要はなくなります。誓約書を書くよう求められるということは、私たちの言葉が信用されていない証拠です。主イエスは私たちに、誓いを立てる必要がない、常に真実な言葉を用い、絶えず誠実に行動するようにと教えておられるのです。

 

 キリスト教会では、昔から婚約式、結婚式を大切に執り行って来ました。婚約式では、結婚式を挙げるときまで、互いに神の御前に清い交際を行うという誓いを立てます。また、結婚式では、死が二人を分かつまで、どんなときにも堅く節操を守ると誓います。聖書で、「一切誓うな」と命じられているのに、婚約式、結婚式で誓約をさせるというのは矛盾ではないかと言われそうですね。

 

 婚約式、結婚式は、神の御前での礼拝です。主の御前で、主に対して、「約束する、誓う」と言ったのだから、それは絶対果たさなければならないということではありません。

 

 私たちがどんなに誠実で、真剣に約束すると語った言葉であっても、どうしても守れなくなることがあります。どんな時にも伴侶を愛し、敬い、守り、助けると約束しても、そして、その言葉に嘘偽りはなくても、時と場合によって、その心を貫けなくなることがあります。

 

 だから、誓約など出来ないというのが正直なところかも知れませんが、それは、相手に対して誠実な態度ではないでしょう。生涯の伴侶となる相手を今愛していること、そして、その愛を貫きたいと思っていることを、「誓う」という言葉で言い表すわけです。それを神と会衆との前で語るのは、伴侶への愛、真心さえも、自分だけで忠実に守ることが出来ないということを知っているからです。

 

 だから、誓約の言葉を聞いた会衆には、二人のために、神の祝福と導きを祈り続ける責任があります。私たちは、互いに祝福を祈り合う祈りにより、その祈りを聞き届けてくださる神の御愛に守られ、支えられていくのです。

 

 結婚の誓約の後には、指輪の交換をします。この指輪は、新郎新婦入場の際、リングボーイによって司式者のもとに運ばれ、祭壇の上に置かれます。そして、指輪の交換というときに、祭壇から取り下ろして新郎新婦に渡すという形式を取ります。

 

 それはまさに、お互いを愛する愛が真実なものとなるよう、神に生涯支え続けていただくということ、二人の思いを神に祝福し続けていただくということを、象徴的に表現しているのです。つまり、主の御愛こそ、私たちを真実に生かす力なのです。

 

 主に信頼しつつ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めるところを神に申し上げましょう。そうして、神の平安をもって私たちの心と考えを守っていただきましょう(フィリピ書4章6,7節)。

 

 主よ、私たちの人生、様々な計算違いがあります。私たちの計画通りに事が進まないということが生じます。あなたはカナの婚礼で、ぶどう酒が足りなくなるという事態に、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行って、その結婚披露宴を祝福されました。どうか、あなたの恵みに依り頼みつつ、絶えず御前に真実に歩ませて頂くことが出来ますように。 アーメン

 

 

「ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」 コヘレトの言葉6章2節

 

 著者は5章18節で「神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ」と語っていました。それは、3章12,13節にも示されていた、神に与えられたものをもって今を喜び、楽しむようにということでしょう。

 

 ところが、同12節に「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている」と語り、それを受け継ぐように1節で「太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た」と言います。持ち主が損をする不幸が広がっているということです。

 

 そのことについて冒頭の言葉(2節)で「ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ」と記されています。

 

 一所懸命働いて財をなし、その働きが認められて栄誉を受けたけれども、重い病を得て、楽しみにしていた第二の人生を待つ間もなく亡くなって、営々と築いたものが皆他人のものになってしまったというような状況を考えればよいでしょうか。

 

 もっとも、富や財宝を自分で楽しむことなく、後の者に残したということが、即、空しく不幸だということにはならないと思います。本書の著者の価値観で、そう言われているわけです。「神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかった」と言われており、そこに、何かの罰のようなことを考えているのかも知れません。

 

 何が幸、不幸を分けているのでしょうか。5章では、富や財宝をいただいた人は皆、それを享受すると言われるのに、ここで神が彼にそれを自ら享受することを許されなかったというのは何故でしょうか。

 

 ここで、小さい一言に気づきました。それは、「この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった」という一文です。彼は、富や財宝を望み、また、名誉を望みました。多くのものを集め、多くのことを成し遂げたことでしょう。

 

 けれども彼は、それを享受し、喜び楽しむことを望まなかったのです。だから、望むものは何ひとつ欠けていませんでしたが、それを楽しむことは出来なかったわけです。もしも彼が、富や財宝、名誉よりも、日々を喜び楽しんで一生を過ごすことを望んでいれば、全く違う生涯を送り、著者は、それこそ幸福な人生だったと評価したことでしょう。

 

 かつて、ソロモン王は主なる神に「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(列王記上3章5節)と言われて、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください」(同9節)と願いました。

 

 それを聞かれた神は、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」(同10~12節)と喜ばれました。

 

 さらに、「わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(同13,14節)と祝福しておられます。

 

 ソロモンが、初心を忘れずに、聞き分ける心をもって神を畏れる道を歩み続けていれば、イスラエルをさらなる繁栄に導き、滅亡を防ぐことが出来たかもしれません。ところが、いつしか奢り高ぶって神から離れ、神の諫めにも耳を貸さないようになってしまいました(同11章1節以下、9,10節)。懸命な心を自ら捨ててしまったのです。

 

 神がお与えになった最も大切な恵み、聞き分ける心、知恵を疎かにした結果、富も栄光も、他人のものになってしまいます。彼の死後、すぐに国は分裂し、6分の5をヤロブアムに取られ、息子レハブアムの取り分は、残りの6分の1でした。

 

 そして、ヤロブアムが取った北イスラエルはやがてアッシリアに(BC721年)、レハブアムが受け継いだ南ユダは、バビロンによって滅ぼされました(BC587年)。そうして、一切のものが奪われてしまったのです。

 

 3節に「人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする」といい、子だくさんと長寿という神の祝福を豊かに受けている人物を描いていますが、しかし、その人物について、①「財産に満足もせず」、②「死んで葬儀もしてもらえなかったなら」と条件を付け、その人物よりも、「流産の子の方が好運だとわたしは言おう」と言います。

 

 ①「財産に満足もせず」は、コヘレトの欲しているものを、財産で満たすことは出来ないということでしょう。「財産」は「幸福、よいもの」(トーバー)という言葉で、子だくさんと長寿という幸福を受けたのに、人生を楽しむことが出来なかったということにもなります。

 

 ②「死んで葬儀もしてもらえなかったら」は、「墓に埋葬されなければ」(ガム・ケブーラー・ロー・ハーイェター・ロー)という言葉で、これは、有罪判決を受けた犯罪者のたどる運命なのかも知れません(列王記上21章23,24節、列王記下9章33節以下参照)。

 

 私たちは今、神に何を願い、何を望んでいるのでしょうか。神の御声が常に清かに聞こえ、その御心を正しく悟ることが出来るように、聞き分ける心を願いましょう。そして、日々、喜びをもって飲み食いし、委ねられた使命を果たし、その労苦に満足しましょう。それが、神の賜物だからです。

 

 主よ、御言葉に与る恵みを感謝致します。どうか、いつも共にいてください。私たちの心をあらゆる悪から守ってください。そして義の道、命の道に連れ帰ってください。私たちが置かれている場所をベテルとし、神の御言葉に喜んで耳を傾け、その導きに従って歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。」 コヘレトの言葉7章3節

 

 7章には、コヘレトの集めた格言が記録されています。ここには、「死ぬ日は生まれる日にまさる」(1節)というテーマが、取り上げられています。なぜ、死ぬ日が生まれる日にまさるのでしょうか。そのことと「名声は香油にまさる」(1節)というのは、どのように関わっているのでしょうか。

 

 ここで、「名声は香油にまさる」は、「トーブ・シェーム・ミッシェメン・トーブ」という言葉で、「名声」(シェーム)と「香油」(シェメン)という語呂合わせと、「まさる」(トーブ)と「良質の」(トーブ、なぜか新共同訳は訳出していない)という二つの「トーブ」が用いられています。

 

 これは、人の尊敬を受けることは、良質の香油がもたらす富よりも良いということでしょう。それに合わせるように、「死の日は誕生の日より」(直訳)と言っています。 

 

 ここには、人物の評価は、その死に様によって定まるという考え方があるのでしょう。生前に名声を得ることがあっても、それを保ち続けることは、決して易しいことではありません。けれども、死後に名声を獲得すれば、それは不変のものとなるでしょう。そこで、名声を名声たらしめる死の日は、将来が全く未知の誕生の日よりも歓迎すべきものと見ることが出来るのです。

 

 とはいえ、それによって「死ぬ日は生まれる日にまさる」ということになるわけではありません。すべての人が死を通して、あるいは死後に名声を獲得するはずもないからです。これは、知恵によって解釈されるべきもので、無条件に肯定される言葉ではありません。

 

 著者がかく語るのは、「弔いの家」には「人皆の終わりがある」(2節)からです。誰もが死を迎えます。死を免れる人はいません。それを誤魔化し、悲しみを忘れさせるような酒宴ではなく、死の悲しみに直面し、自分の終わりに死が待っていることを見据え、それを出発点として、おのが人生を考えよと教えているわけで、その教訓を与えるゆえに「死ぬ日は生まれる日にまさる」というわけです。

 

 冒頭の言葉(3節)で「悩みは笑いにまさる」(トーブ・カアム・ミッショーホーク)というのも、ここから類推出来ます。「悩み」(カアム)という言葉には、「苦痛、苛立ち」(vexation)、「怒り」(anger)という意味のほかに「深い悲しみ、苦悩」(grief)という意味もあります。いずれも、自分自身も含め、愛する家族などの病や死によってもたらされる感情と言えそうです。

 

 それが「笑い」(シェホーク)にまさるというのは、普通の感覚ではあり得ませんが、「艱難汝を玉とす」という言葉があるように、過酷な試練や艱難がその人を鍛え、それによって得がたい知恵や力を獲得することがあります。また、耐え難い苦しみや深い悲しみを経験をした人は、他の人の痛みに共感し、そのような人を慰めることが出来ます。

 

 さらに、主イエスが、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ福音書5章4節)、「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ福音書6章21節)と言われました。どうして、悲しむ人が、今泣いている人が幸いなのでしょうか。

 

 勿論それは、悲しみ自体が幸いなのではありませんし、そのような事態に立ち至って辛い思いをすることが幸いなのでもありません。悲しみが慰められるから、慰めてくださる方がおられるから、そのお方と出会わせて頂けるから、幸いなのです。

 

 自分の力で悲しみから立ち上がることが出来ず、自分の知恵で試練の渕から戻って来ることが出来なくても、絶望の中に屈み込まされ、倒れ込んでいても、私たちのためには、私たちの涙をぬぐい、身を起こさせ、立ち上がらせてくださる主が、私たちの傍らに、私たちと共におられるのです(詩編145編15節、黙示録21章3,4節、マタイ福音書1章23節、28章20節参照)。

 

 主イエスは、神の御子であるにも拘らず、多くの苦しみによって従順を学ばれました(ヘブライ書5章8節)。罪も汚れもないキリストが、私たちの罪と汚れをその身に負い、父なる神に呪われ、捨てられるという十字架の苦しみを味わわれました。死なれ、葬られる経験をなさいました。そして、三日目に死の力を打ち破って甦られたのです。そのお方が、私たちを慰め、笑わせてくださるというのです。

 

 悲しみ苦しみの中にいて、主の慰めを経験し、そこから立ち上がらせて頂けば、涙が笑いに変えられる経験をすれば、苦しみにあったことは、私にとって良いことでした、それによって主イエスを知り、その深い慰めを味わったからです(詩編119編71節、第二コリント1章3節以下など参照)と、喜んで語らせていただくものとなるでしょう。

 

 主イエスの慈しみはとこしえに絶えることがありません(詩編106編1節、107編1節、117編2節など)。ハレルヤ!

 

 主よ、私たちには、どんな試練にも耐えぬく力があるわけでも、困難を乗り越える知恵があるわけでもありません。むしろ、そんな壁に立ち塞がれると、希望も平安もすぐに失ってしまうような小さなものです。けれども、あなたが私たちと共にいて、私たちを守り、慰め、励ましてくださいます。あなたに依り頼みます。我が国を顧み、慈しみの御手をもって守り導いてください。 アーメン

 

 

「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。」 コヘレトの言葉8章12,13節

 

 冒頭の言葉(12,13節)だけを読めば、コヘレトは、幸、不幸を因果応報的に考えているように思われます。そして、幸福になるため、長生きをするために、神を畏れなさいというメッセージを語っているかのようです。

 

 しかし、続く14節で「この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う」と語ります。コヘレトの目には、神を畏れる人が必ずしも幸福にならず、むしろ神を畏れない人が幸福に長生きしているというように見えているのではないでしょうか。

 

 ということは、本来コヘレトは、神を畏れて生きることを大切にし、その生き方が報われることを求めているのでしょう。そのような社会を実現する指導者の出現を待ち望んでいるといっても良いのでしょう。

 

 ただしかし、幸福に見えるということと、幸福を味わっているということとは、同じではありません。外見と内情が一致していない例は、多々あります。一見幸福そうに見えても、現実には不幸のどん底を味わっているという人もいるでしょう。

 

 一流企業に務める管理職のご主人を持ち、豪華な家具や調度品の揃う家に住み、不安や悩み事など何もなさそうなご婦人が、「主人も子どもたちも信じられない、信じられるのはうちの犬だけだ」などと言われるのを聞けば、あらためて、幸福とは何だろうと思わずにはいられません。

 

 一方、幸福の条件を何ひとつ満たしていないように見える人でも、本当に自分は幸福だと言える人もいるのです。幼い時に病気で視力、聴力を失ったヘレン・ケラー女史は、「私は本当に幸せです(I am so happy)」と言いました。障害のゆえに不便なことがあっても、それで不幸なのではない、十分に幸せを味わうことは出来るというのです。

 

 主イエスが十字架につけられたとき、二人の犯罪人がその両側に十字架につけられました(ルカ福音書23章33節以下)。一方の犯罪人は主イエスを罵って、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました(同39節)。主イエスはその声には何も答えられませんでした。

 

 もう一方の犯罪人が初めの者に向かって「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(同40,41節)とたしなめ、それから「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(同42節)と言いました。

 

 神を畏れることを十字架の上で思い出したこの犯罪人は、御国で自分を思い出してくださるよう、主イエスに求めたのです。十字架に架けられる刑罰の故に神に呪われて捨てられる運命にある犯罪者にとって、神の御子キリストに覚えられることは、何にもまさる恵み、幸福と思われたのでしょう。

 

 その願いに対して主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同43節)と言われました。彼の心に幸福が訪れるとは、主イエスと一緒にいることだというのです。

 

 ここで、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われています。これは、息を引き取って十字架から降ろされ、葬られ、そして天国に行けば、幸福になると言われているのではないと思います。主イエスは「今日」と言われているからです。

 

 ルカは、主イエスの誕生を「今日」のこととして伝え(ルカ2章11節)、公生涯に入られた主イエスの働きによって、イザヤが預言していたことが「今日」実現したと宣言され(同4章21節)、徴税人ザアカイの家に「今日」泊まりたいと求め(同19章5節)、そして、「今日」救いがこの家を訪れたと告げられました(同19章9節)。

 

 たとい十字架の苦しみを受けていても、主イエスと心をつなぐことが出来るなら、主イエスを信じたその心に主イエスの愛と恵みが注ぎ込まれ、「いつか」ではない、「やがて」でもない、確かに「今日」、主イエスと一緒に楽園にいると感じることが出来る、その幸いを味わうことが出来るということです。

 

 そして、今日は楽園だけれど、明日は分らないというのでもありません。キリストは、昨日も今日もいつまでも変わらず(ヘブライ13章8節)、常に共にいてくださるのです(マタイ28章20節、ヨハネ14章18節)。ヘレン・ケラー女史が「私は本当に幸せです」と言われたのは、常に共にいてくださる主イエスの愛と恵みが、女史の心を満たしていたからなのです。

 

 神を畏れることを学びましょう。神を畏れるからこそ、幸福になれるのです。

 

 主よ、私たちは御前に、幸福を授けて頂けるような生き方をしてはいませんでした。あなたは罪に汚れ、小さくなっていた私たちに目を留め、深く憐れみ、ついて来なさいと招いてくださいました。畏れるべき神は、永遠に愛と恵みに富むお方でした。主を信じる者としていただいたことを、心から感謝致します。 アーメン

 

 

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」 コヘレトの言葉9章7節

 

 コヘレトは1,2節で「人間の前にあるすべてのことは、何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む」と語って、善人にはよい報いがあり、悪人には悪い報いがあるという、所謂、因果応報的な考え方を否定しています。

 

 たとえば、戦争では悪人だけが死に、善人は生き残るなどということはあり得ません。また、病気や事故、災害なども、誰にでも平等に襲い掛かって来ます。災害に見舞われるのは神の裁きだなどという考え方は、全く同意出来るものではありません。

 

 続く3節でも「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じ一つのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」と語っています。

 

 これは、どんな生き方をしても、どうせ同じところに行き着くのなら、好き勝手をしたほうがましだと考えるので心に悪が満ちる、それは狂った考え方だということでしょう。何故そうなるのか、ここに人はアダムの子孫であり、生まれながらの罪人だということが示されています。

 

 そのことで、ノアの洪水物語の「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8章21節)と神の語られた言葉を思い出します。勿論、心に思うこと、考えることが、完全に汚れと悪に満ち満ちているという人もいないと思いますが、全く善人、全く清い人もいないということです。

 

 詩編にも14編1~3節にも「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれも彼も背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と記されています。

 

 だからといって、コヘレトは自暴自棄になどなってはいません。そんなことなら、生きていても甲斐がないとか、清く生きようとすることは馬鹿らしいことだなどとは言いません。むしろ、「命ある者のうちに数えられてさえいれば、まだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ」(4節)と言っています。

 

 これまで、「既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ」(4章2節)、「死ぬ日は生まれる日にまさる」(7章1節)とも語っていましたから、ここまで思考を進めてきて、少々方向転換したかのようです。

 

 4節のように語る理由を、「生きているものは、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない」(5節)と言います。つまり、ここで著者は、「死」に究極の空しさを感じているわけです。死が究極の「へベル」(空しさ)であれば、この世の労苦も病気も、味わう価値があるということなのでしょう。

 

 しかし、死んで一切が空しさに飲み込まれ、やがて、自分の存在が完全に忘れ去られるときがやって来るとさえ考えているのに(5,6節参照)、それでも、生きることに価値があると言い得るのは、何故でしょうか。

 

 それはコヘレトが、「太陽の下に起こるすべてのこと」(3節)以外のものに目を向けているからなのです。地上にだけ目を向けていれば、絶望したかもしれませんが、彼は天に目を向けて神を拝していたのです。

 

 そして、たとい死によってこの世から取り去られ、やがて人々の記憶から忘れ去られるときが来ても、すべての業を受け入れていて下さる神がおられるという確信が、彼を支えているのです。それが、冒頭の言葉(7節)で著者が言おうとしていることです。

 

 ここで、「あなたの業」とは、私たちのなす善いことも悪いことも一切合切ということでしょう。著者は特に、「喜んでパンを食べ、気持ちよく酒を飲む」(7節)、「与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きる」(9節)、「手をつけたことは何でも熱心にする」(10節)というところに神が目を留めてくださるのだと教えます。

 

 主イエスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために来たのである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章10,11節)と言われました。私たちのために死んでくださった神の御子、主イエスの命を受けて、豊かに生きなさいと言われるのです。

 

 コヘレトの信仰に倣い、私たちのために命を捨ててくださった主イエスを見上げ、その御言葉に耳を傾けながら、一日一日、神がお与えくださる人生の労苦を楽しみたいと思います。

 

 主よ、私はコヘレトのように知恵を尽くして人生を究めた賢者にはなれませんが、主を畏れ、すべての業を受け入れていてくださると、全く主に信頼しているコヘレトの信仰に倣わせてください。そして、与えられた人生の日々、愛する家族と共に楽しく生きることが出来ますように。 アーメン

 

 

「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。わずかな愚行は知恵や名誉より高くつく。」 コヘレトの言葉10章1節

 

 10章は、まるで箴言を読んでいるかのように格言が並んでおり、これまでのコヘレトとは別人のような語り口になっています。9章18節の「知恵は武器にまさる。一度の過ちは多くの善をそこなう」という言葉に啓発されて、知恵の言葉をここに示しているようです。

 

 そのはじめに、「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする」という冒頭の言葉(1節)が記されています。香料を作っている工程のどこかで、一匹の蠅がそこに入り込み、死んでしまいました。早く気がついてそれを取り除かなければ、それがもとで高価な香油を全部台無しになってしまいます。

 

 ここで、香油が知恵や名誉、そして、死んだ蠅は愚かな行為を表しています。そしてその「愚行」は、私たちの内に生じるものと示されます。これくらいなら、かまわないだろうという小さな油断、堕落、落とし穴が、その人の一生のよい働きを台無しにしてしまうということです。

 

 2節の「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」は、古代において一般に、右と左が吉と凶を指すと考えられていたことから、これは以前から語られていた格言だったのでしょう。それがここに置かれて、「僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく」と並んで、愚かな者に臨む災い、罰、呪いを示しています。 

 

 以前、ある鉄道会社の駅長さんが釣銭をごまかし、それを着服したというニュースを見ました。最初はすぐに返すつもりだったのでしょうけれども、誰にも咎められず、そのままになってしまいました。それに味を占めたのか、そういうことを何度も繰り返しているうちに、ついに発覚。それが駅長の犯行と分かり、懲戒免職となりました。

 

 金額は本当に微々たるものだったのですが、それによって地位も名誉も、そして退職金もふいにしてしまったわけです。老後の計画なども、水の泡となってしまったことでしょう。なぜ、そんな馬鹿なことをしてしまったのでしょうか。全く割の合わない話と言わざるを得ません。

 

 それにもかかわらず、同様の話を時折聞きます。額が小さく、初めは着服するつもりでもなかったので、罪の意識も小さかったわけです。ごく少額の釣銭のごまかし、その罪意識の小ささがまさに凶と出て、知恵や名誉よりも高くついてしまったわけです。

 

 誰も、自分のことを自分で言うほどに愚か者だと考えている人はいないでしょう。自分の行いを愚行とは考えないでしょう。むしろ、賢いとさえ考えています。賢い自分がへまなことをするなんて思えないのです。

 

 3節に「愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分は愚者だと言いふらす」とありますが、これまで、「自分は愚者だ」と言いふらす愚者に出会ったという記憶はありません。しかしながら、自分で「私は知者だ」と言いふらす人や、「ほかの者は皆愚か者だ」と言いふらす人のことを、知恵の足りない人、愚かな人というのではないでしょうか。

 

 その意味で、自分は愚者だと言いふらすことにならないようにするためには、まさに、私は知恵が足りませんから、教えてくださいと、謙遜に語ることでしょう。思いあがっているときには、注意散漫になり、思わぬ失敗をするものです。

 

 私は口数が多く、言葉の上で何度も失敗しています(13,14節参照)。その度に、とても恥ずかしい思いをしてきました。そして、周囲の人々にも、どれだけ迷惑をかけたことでしょうか。確かに、私には知恵が足りません。もっともっと、身の程を知る必要があります。

 

 ヤコブ書1章5節に「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」という言葉があります。

 

 ここに言われている知恵とは、試練にあったときにどう対処したらよいのかというもので(同2節以下)、試練に遭ったことをこの上もない喜びと考え、忍耐を働かせるために、霊的な知恵が必要であること、その知恵は神の賜物であり、求めれば必ず与えられると教えています。

 

 箴言2章2~6節にも「知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」という言葉がありました。

 

 神の力、神の知恵なるキリスト・イエスに信頼し、憚ることなく主なる神の御前に進み、日々御言葉に耳を傾け、その口から出る一つ一つの言葉に従って生きる者とならせて頂きましょう。

 

 主よ、あなたは天地万物の創造者であり、すべてを形づくり、確かにされる方です。あなたは、「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」と言われました。絶えず、あなたを呼び求めます。御心を示し、それを実行する知恵と力とを授けてください。 アーメン

 

 

「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい。神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。」  コヘレトの言葉11章9節

 

 1節に「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」と記されています。これは伝統的に、一見無駄に見えても、他者に善行を施せば、いずれその報いを得ることになるという意味と解釈されてきました。

 

 さらに、2節の「七人と、八人とすら、分かち合っておけ」という言葉との関連から、物惜しみしないで、多くの人々に情けをかけることと解釈する立場もあります。

 

 また、パンを神の御言葉と見なし、伝道の勧めと解することもあります。一見効果的に見えないやり方で、しかしながら、それをやり続けるなら、決して無駄にはならないという理解です。

 

 また、海運業への投資という解釈があるそうです。海運への投資は、危険もあるけれども、長い航海の後、大きな利益をもたらすと解するわけです。2節の「国にどのような災いが起こるか、分かったものではない」という言葉との関連で、海外投資は国内の政情不安のリスクヘッジという見方も出来そうで、そこで7つ8つに物資を分けてリスクを分散するようにという理解にもなるのです。

 

 あるいは、水をナイル川、パンを種と見做して、川辺に種を蒔けば、川が氾濫して上流から肥沃な土砂が流れて来て、多くの収穫が期待出来るという解釈もあります。

 

 特に正解というものがあるわけでもありませんから、めいめいの心に響く解釈を取られたらよいと思いますが、これまで学んで来たことから考えると、自分の持てるものを友と分かち合い、今このときを共に喜び楽しむようにとの勧めではないかとも思われます。

 

 冒頭の言葉(9節)に「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい。神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると」と記されています。

 

 これは、自分のしたいことをせよ、でも、神が見ていることを忘れるなという格言のようです。ただ、「裁きの座」というのは、罰を与えるだけではなく、その人に褒美を与えるためのものでもあります。褒美を賜るために、神が見ていてくださると考えれば、楽しいですね。

 

 ところで、何をすれば、神に褒美をいただくことが出来るのでしょうか。著者は、「心にかなう道を、目に映るところに従って行け」と言っています。それは、今このとき、食べること、飲むこと、そのために労苦すること、即ち、人生を最大限に活かし用いることを喜び、楽しむということではないでしょうか。

 

 であれば、人生を活かし用いることを怠り、このときを喜び楽しまないことは、神の裁きを受けることになる、あるいは、人生を喜び楽しめないということが神の裁きだという解釈にもなります。

 

 確かにここには、主イエスがお与えくださった福音のメッセージが含まれています。徴税人ザアカイが主イエスを自分の家に招じ入れたとき、主イエスに対して、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ福音書19章8節)と言いました。

 

 徴税人は、私腹を肥やすためにローマの権力を笠に着て、決められた以上に取り立てることが常でした。財産の半分を貧しい人に施し、だまし取ったものを4倍にして返せば、破産するかもしれません。けれども、ザアカイにとって、それは問題ではなくなりました。主イエスが友となってくださったので、主イエスの喜ぶことを自分の喜びとしたのです。

 

 主イエスがザアカイの家に入られたとき、それを見た人々は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(7節)と言いました。それは、イエスが、ザアカイという罪深い男の仲間になったということです。主イエスは、自分への悪評をそのように受けても、ザアカイの友となることを選ばれたのです。それによって、ザアカイを救うためでした(9節参照)。

 

 主イエスは、神の独り子であられたのに、その立場を捨てて、人間となってこの世に来られ、そして、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げられました(フィリピ書2章6節以下)。主イエスこそ、まさに、自分の持てるすべてのものを、私たちのために与え尽くしてくださったお方です。ザアカイはこの主イエスの真心に触れたのです。

 

 私たちも、私たちを愛し、私たちに必要なものを与え尽くしてくださる主のために、自分に委ねられている神の賜物、神が私に預けてくださったものを、隣人と共に分かち合うことを喜びとし、楽しみとする者にならせていただきましょう。

 

 主よ、キリスト・イエスに結ばれているものとして、ひたすらその福音にふさわしい生活を送ることが出来ますように。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰で歩ませてください。弱い私たちの心と思いを、絶えずあなたの平和でお守りください。アーメン

 

 

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて。」 コヘレトの言葉12章13節

 

 11章9節以下の「若者」に対する格言の連なりで、著者は「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(1節)と語り始めています。そして、「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」と付け加えています。

 

 ここで、高齢になることを「苦しみの日々」と言い、「『年を重ねる事に喜びはない』と言う年齢」と語っていることから、著者は、高齢になると喜びが失せて苦しみの日々が来ると考えているようです。

 

 これは、「あなたの父母を敬え、そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト記20章12節)などといった言葉に示される、長寿は神から与えられる祝福とする立場とは対立するような考えです。これは、二者択一の問題ではなく、高齢というコインの表と裏の顔ということなのでしょう。

 

 喜び楽しんで今を過ごすことが最高の幸せと語って来た著者にとって(3章12節など)、喜びが失せるというのは、生き甲斐を失うことでしょう。それゆえ、「太陽が闇に変わり、月や星の光が失せ」(2節)といった表現から、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(7節)と結ばれているわけです。

 

 本書で、神を「(お前の)創造主」(ボーレイハー、1節)と呼ぶのはここだけです。少し読み方を変えて、これを「妻」や「井戸」と読んだり、あるいはまた「墓穴」と読み替える学者もいます。文脈を考えれば、「墓穴」即ち「死」について考えよという読み方は、一理あるところです。

 

 しかしながら、直前の11章9節で、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい」と語っていました。喜べと言った直後に、空しさをもたらす死を心に留めよと言うのは、矛盾しているように思われ、少々考え難いところです。

 

 ここではやはり、空しさが訪れる前に、苦しい日々がやって来る前に、創造主なる神に心を留めよと、コヘレトが語っていると考える方がよいのではないでしょうか。たとい高齢となって喜びが失せて苦しみがやって来ても、創造主に心を留めるならば、希望と平安に与ることが出来るでしょう。それは、創造主が私たちを心に留め、私たちの業を受け入れてくださるからです(9章7節参照)。

 

 そして、冒頭の言葉(13節)のとおり、「結論」として、「神を畏れ、その戒めを守れ」と命じています。「戒め」(ミツヴァ)を旧約聖書の「律法」(トーラー)と考えるならば、これは、コヘレトの思想にはなかったことと言ってよいと思います。

 

 8章5節では、「(王の)命令」(ミツヴァ)と訳されていますので、「飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」(2章24節)、「自分で食べて、自分で味わえ」(同25節)などといった、本書(コヘレトの言葉)に記されている命令を指していると考えられます。これは、私たちが聞くべき言葉ではないでしょうか。

 

 著者が探求して得た絶対確実な真理は、「人は死ぬ」ということでした。すべてを空しくする死が最も確実なことというのは、皮肉のようですが、しかし、人の死ぬ時を定められたのは、神です(3章2,11節)。神は、死をさえ支配しておられるのです。

 

 そして、死は私たちの終りを意味しているわけではありません。「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(第一コリント書15章54~57節)と、パウロは語っています。

 

 「死は勝利に飲み込まれた」とは、「(主は)死を永久に滅ぼしてくださる」(イザヤ書25章8節)ということであり、復活に与ることです。主は「死のとげ」である罪を主イエス・キリストの贖いの死によって滅ぼし、私たちを罪と死の呪いから解放してくださいました。

 

 キリストの贖いの死による復活の希望に堅く立つように、パウロは「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(同58節)と勧めています。

 

 主イエスを信じ、主に委ねられた賜物を用いて、今日なすべき務めに励みましょう。主は私たちの業をすべて受け止めてくださり、どんなマイナスも益に変えられ、死にさえ打ち勝たれたので、決して私たちの労苦が無駄になることはないのです。ハレルヤ!

 

 主よ、あなたの恵みと導きに感謝致します。主を畏れ、御前にひれ伏して御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことを喜び、楽しむことが出来ますように。絶えず目を覚まし、信仰に基づいてしっかりと立ち、何事も愛をもって行うことが出来ますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設