イザヤ書②

 

 

「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」 イザヤ書40章8節

 

 40章からは、第二イザヤと呼ばれています(さらに、56章以下を第三イザヤと呼んで区別することもあります)。39章までは、主に紀元前700年頃、ヒゼキヤの代に預言者イザヤによって語られた、イスラエルの裁きが預言されているのに対し、第二イザヤには、バビロンにいる捕囚の民に希望と慰めを与える預言が記されます。

 

 第二イザヤの最初の章(40章)、最初の段落(1~11節)は、「帰還の約束」という小見出しが示す通り、捕囚の民に故国への帰還を約束する内容になっています。そしてこの段落は、第二イザヤ全体の序章でもあります。

 

 1節に「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」と記されています。原文には「ナーハム」(「慰める、憐れむ」の意)という動詞のピエル命令形が複数形で二度繰り返し用いられていて、意味を強めています。「ナーハム」という動詞がイザヤ書に17回用いられる中で、40章以降に14回用いられていて、第二イザヤの預言の基調を示すものとなっています。

 

 ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」は、三部構成の第一部「メシア到来の預言と誕生」において、最初にテノールが「Comfort ye comfort ye(慰めよ、慰めよ)」と歌い出します。この段落が、メシア=救い主の到来を預言したものだと考えられているわけです。

 

 ここで神が「わたしの民」と呼ぶのは、2節に「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ」と言われているので、捕囚とされているイスラエルの民のことです。

 

 イスラエルの民に慰めを与えよというのは、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」から、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」(2節)からです。つまり、50年に及ぶバビロン捕囚の苦しみは、イスラエルの背信の罪が神に裁かれたゆえであり、捕囚の苦役をもって賠償させられていたというわけです。

 

 ここで神は、誰に向かってイスラエルの民を「慰めよ」と命じておられるのでしょうか。それは、イザヤではありません。というのは、「あなたたちの神は言われる」(1節)と、複数の人々に呼び掛けているからです。これはおそらく、天上における御前会議で主なる神が御使いたちに向かって語っておられるのを、イザヤが聞いたということでしょう。

 

 しかしながら、それはただ単に、立ち聞きをしたということではありません。御前会議を傍聴していて、「呼びかけよ」(5節)という神の声を聞いた預言者をして、「なんと呼びかけたらよいのか」(6節)と答えるよう、神が仕向けられたのです。ということは、6章と同様、この箇所は、神が第二イザヤを預言者として召し出された物語と言ってよいでしょう。

 

 預言者に与えられたのは、冒頭の言葉を含む6~8節の「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉でした。

 

 これは、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわ。奢れる者は久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ」という平家物語の一節を思わせるような言葉です。

 

 けれども、ここにいう草や花とは、人の儚さというよりも、国や都を表す表現でしょう。即ち、いかに富み栄えている国も、いかに堅固な町も、それで永遠に繁栄を誇ることは出来ないということです。

 

 イスラエルは、神の民として選ばれましたが、神に背き続けて滅びを刈り取ることになりました。エルサレムは神の都と呼ばれましたが、バビロンの前に陥落し(列王記下25章1節以下)、壮麗な主の神殿は王宮や町のすべての家屋とともに焼かれ(同9節)、城壁も破壊されてしまいました(同10節)。町や国の力は、繁栄の保証とはならないのです。

 

 それはまた、イスラエルを滅ぼしたバビロン帝国がいかに武力や経済力に優れていても、それで永久に立つことは出来ないと語られていることになります。確かに、やがてバビロン帝国はペルシア帝国によって、そして、ペルシア帝国はアレキサンダー率いるマケドニア帝国によって、滅ぼされることになるのです。

 

 預言者はしかし、冒頭の「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)という言葉を与えられました。神の言葉こそ、私たちが拠って立つべき永遠の基礎であるというわけです。ということは、イスラエルが滅ぼされ、捕囚の苦しみを味わうことになったのは、神の御言葉という基礎の上に、堅く立たなかったからということになります。

 

 そして、確かにイスラエルの民は、亡国の憂き目に遭い、半世紀に及ぶ捕囚の苦しみを味わわされましたが、今再び、「慰め」を呼びかける神の声を聞いています。まさに、「神の言葉はとこしえに立つ」というわけです。

 

 この言葉が、第一ペトロ1章24,25節に引用されています。第一ペトロ書が書かれた当時、クリスチャンたちは、ローマ帝国において厳しい迫害を味わっていました。「身にふりかかる火のような試練」(同4章12節)、「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(同5章8節)という言葉が、それを示しています。

 

 しかし、いかに繁栄を誇り、強力な軍隊をもって地中海世界を支配し、全ての道はローマに通ずと言わしめたローマ帝国も、決して永遠のものではないこと、だから、主なる神に信頼し、永遠に確かな神の御言葉にしっかり立とう、御言葉によって生きようと、冒頭の言葉を引用しながら、ペトロが励ましの言葉を告げているのです。

 

 私たちも、主イエスの贖いの死によって罪赦され、神の子とされました。その恵みに感謝し、いよいよ篤く主を信じ、日々み言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みましょう。聖霊に満たされ、力を受けて、救いの喜びを告げ知らせる主の証人にならせていただきましょう。

 

 主よ、まことの神を信じ、その御言葉に耳を傾けることの出来る幸いを心から感謝致します。どのようなときにも、御言葉に戻って主の御心を求め、御言葉に土台して、信仰に堅く立つことが出来ますように。主が私たちを慰めてくださったその慰めをもって、今悲しみの中にある方々を慰め、励ましてくださいますように。 アーメン

 

 

「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」イザヤ書41章10節

 

 41章には、「恐れるな、恐れることはない」という言葉が3度(10,13,14節、いずれも原語は「アル・ティーラー」)記されています。ということは、イスラエルの民が恐怖に戦いている現実があるわけです。そして、その都度、「あなたを助ける」と神が語られます。恐れないでいられる根拠は、主なる神の助けが与えられるということです。

 

 そのとき、イスラエルの民が恐れていたのは、ペルシアの王キュロスのことでしょうか(2節以下参照)。キュロスはエラムの出身ですが、メディア、リディアをはじめ周辺諸国を征服しました。当時、バビロンの奴隷となっていた民は、次第に迫ってくるペルシアの脅威に、恐れを抱かずにはいられなかったのです。

 

 北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、アッシリアを滅ぼしたバビロンによって南ユダが滅ぼされました。バビロンがペルシアに滅ぼされるようであれば、バビロンに捕囚とされているイスラエルの民の運命はどうなるのでしょうか。

 

 しかし、キュロス王を奮い立たせて 、「国々を彼に渡して、王たちを従わせた」(2節)のは、主なる神です。即ち、キュロスは神の手先として用いられている器なのだから、恐れる必要はないのです。キュロスはバビロンに無血入城し、そして、イスラエルの民を解放しました。イスラエルの民にとって、全く思いがけない展開になったのです。

 

 40章27節に「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と」と告げられていました。50年にも及ぶ捕囚生活は、帰国の希望を失わせるほど耐え難いものであり、長いものでした。だから、イスラエルの民は、神に見捨てられた、忘れ去られたと嘆いていたわけです。

 

 けれども、神はイスラエルを見捨ててはいなかったのです。神は、「あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」(9節)と言われます。即ち、彼らはバビロン捕囚から解放されたというだけではなく、神の使命のために再び選ばれ、立てられたと語られているのです。

 

 希望を失っていた捕囚の民に何が出来るのでしょうか。14節に「虫けらのようなヤコブよ」という言葉があります。かつて、出エジプトの民が、カナンの地を偵察した際、そこに住む先住民に恐れをなして、彼らを巨人と言い、そして自分のことはイナゴのように見えたと言いました(民数記13章32,33節)。

 

 イスラエルにとっては、バビロンやペルシアの人々はカナンの先住民とは比較できないほどの巨人で、その力の前に自分は虫けらのような存在と考えていたことでしょう。しかし、その「虫けらのようなヤコブ」を、主なる神は捕囚の地から呼び出し、御自分の使命のために選んで立てました。

 

 パウロが、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」(第一コリント1章26節)と語って、コリント教会の構成メンバーに、自分たちの「召されたときのこと」(クレーシス「召しcalling」の意)に目を向けさせています。

 

 そして、「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力なものとするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(同1章27~29節)と語っています。

 

 ギリシアの人々にとっては、知恵や学識、力、地位があることなど、質量共に持っているものの豊かさが重要であったけれども、神は、学のない者、力のない者、無きに等しい、身分の卑しい者、見下げられている者を選んで義とされたのだということです。このように異邦人が神の民、キリストの者として選ばれたことは、出エジプトの民がイスラエルとして選ばれたことに通じます(申命記7章7節参照)。

 

 知恵ある者、力ある者に恥をかかせ、地位のある者を無力にするとは、具体的にどういうことなのか、何も記されてはいませんが、あるいは、コリント教会において、少数の知恵者、有力者、地位のある者たちがはばを利かせて教会内に問題を生じさせ、そのことをパウロが指摘、糾弾しているのではないかと思われます。

 

 話を元に戻して、「恐れるな」と言われて、それで恐れが消え失せるわけではないでしょう。だから、繰り返し「恐れるな」と言われるのです。そして、何度も神の助けを経験するのです。神がイスラエルと共におられ、恐れる民に平安と導きを授けてくださるのです。

 

 主イエスは、「インマヌエル」と唱えられるお方です(マタイ1章23節、イザヤ書7章14節)。それは、神が私たちと共におられるという意味です。主イエスがいつも私たちと共に、私たちの内におられて、弱い私たち、無力な私たちを慰め、励ましていてくださいます。

 

 希望と平和、慰めの源なる主に信頼し、日々その御言葉に耳を傾け、絶えず御霊の導きを祈りつつ、御心に従って歩みましょう。

 

 主よ、あなたの導きを感謝します。私たちを贖い、神の民の一員としてくださいました。私たちの体を、神に喜ばれる聖なる生ける供え物として、あなたにささげます。それこそ、日毎に私たちのなすべき礼拝だからです。絶えず聖霊の導きにより、真理なる主イエスを通して、主なる神を崇めさせてください。御心がこの地になされますように。御業のため、私たちをも用いてください。 アーメン

 

 

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」 イザヤ書42章1節

 

 バビロン捕囚期に記されたと考えられている第二イザヤ(40~55章)と呼ばれる預言の中に、「主の僕の歌」と呼ばれる歌が4つあります(42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、52章13節~53章12節)。42章は、この「主の僕の歌」で始まっています。

 

 ここに語られている「主の僕」とは、誰のことでしょうか。それは第一に、イスラエルの民のことでしょう。既に41章8節で、「わたしの僕イスラエルよ、わたしの選んだヤコブよ」と語られていました。

 

 また41章2節に「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き、国々を彼に渡して、王たちに従わせたのは誰か」と言い、同25節で「わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ」と語られていて、このように神に奮い立たされたのは、その内容から、ペルシア王キュロスのことだろうと思われます。

 

 そこで、キュロス王のことを主の僕と考えることも出来ます。44章28節の「キュロスに受かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う」という言葉や、45章1節の「主が油を注がれた人キュロスについて」、同4節の「わたしの僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼び、称号を与えた」などという言葉も、この解釈を支持するものでしょう。

 

 あるいは、冒頭の言葉(1節)で「見よ」と呼びかけられているのは、40章1~9節と同様、天上の会議に列席している御使いたちでしょう。ということは、神が御使いたちに語りかけ、「見よ、わたしの僕」といって指し示されたのは、預言者イザヤのことではないかと考えられます。「彼の上にわたしの霊は置かれ」という言葉も、相手が預言者としての働きをなす者であることを想像させます。 

 

 さらに、「主の僕の歌」に歌われている主の僕とは、メシア、救い主のことを語っていると解釈することも出来ます。キリスト教会は、伝統的にこの解釈を採用して来ました。それは特に、4番目の「主の僕の歌」(52章13節~53章12節)が、主の僕の苦難と死を語っていて、それが、主イエス・キリストの受難を予告していると考えられたからです。

 

 冒頭の言葉(1節)で「わたしが選び、喜び迎える者」は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ福音書3章17節)という言葉を思い起こしますし、「彼の上にわたしの霊は置かれ」は、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」(マタイ3章16節)という言葉を思い出します。

 

 また、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(2節)とは、「イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」(マタイ12章15,16節)という言葉を思わせます。

 

 そして、マタイ12章17節に「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と記されて、冒頭の言葉を含む「主の僕の歌」(1~4節)を引用しています。マタイ福音書の著者は、イザヤが歌っている「主の僕」とは、実に主イエスのことである、と解釈した初代のキリスト者であるわけです。

 

 「主の僕」は、「民の契約、諸国の光として」形づくられました(6節)。人が「民の契約」として形作られたというのは、とても珍しい表現ですが、キリストが血を流されたことによって、すべての民と主なる神との間に新しい「契約」が結ばれるという預言と考えればよいでしょう。

 

 「諸国の光」とは、「見ることの出来ない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」(7節)働きをするということです。主イエスが洗礼者ヨハネに対して、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、云々」(同22節)とご自分の働きを述べられたことがあります。

 

 また、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20章26,27節)と教えられたとき、その例証として御自分を引き合いに出して、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(同28節)と言われました。

 

 「主の僕」なる主イエスは、真の神であられましたが、遣わされて人の僕となられ(フィリピ書2章6,7節)、多くの人の身代金として、御自分の命を献げられ(マルコ10章45節、第一コリント7章23節)、その贖いの代価によって私たちは縛られていた罪の牢獄から、死の恐れの縄目から解放されたのです。

 

 そしてペトロは、「あなたがたが召されたのこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と記しています(第一ペトロ書2章21節)。「足跡に続く」とは、主イエスが歩まれた足跡に自分の足を乗せて、主イエスが歩まれたとおりに歩むことを指します。

 

 それが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスが言われていたことなのです(ルカ福音書9章23節)。

 

 主イエスに従う主の僕として、常に目を開いて十字架の主に目を注ぎ、耳を開いて主の御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。委ねられている主の業に励む者とならせていただきましょう。 

 

 主よ、御子キリストの命の恵みに与り、罪と死の縄目から解放していただきました。主イエスに倣い、仕えられるより仕えることを喜びとし、神に喜ばれる道を主と共に歩ませてください。御旨をわきまえ、御業に励む者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」 イザヤ書43章19節

 

 かつてイスラエルは、エジプトを脱出して、約束の地カナンにイスラエルの国を建設しました。その折に、イスラエルの民は、40年という長い荒れ野の生活を通して、神の民としての試練を味わいました。

 

 初めの試練は、前は葦の海、後ろからエジプト軍の追手という絶体絶命のピンチでした(出エジプト記14章10節以下)。神はそのとき、葦の海を二つに分けて海の中に道を設け、この危機を逃れさせてくださいました(同19節以下)。それが、2,16,17節に記されていることです。

 

 そして今、冒頭の言葉(19節)の通り、「新しいこと」が起ころうとしています。それは、エジプトならぬバビロンからの解放です。

 

 紀元前597年、ユダの王ヨヤキンはバビロンの軍隊に降伏し、王族をはじめ国の有力者が捕囚としてバビロンに連行されました(列王記下24章12節:第一次バビロン捕囚)。バビロンの王ネブカドネツァルは、ヨヤキンに代えて、その叔父マタンヤを王として立て、その名をゼデキヤと改めさせました(同24章17節)。バビロンの傀儡政権が誕生したことになります。

 

 しかし、10年後にゼデキヤはバビロンに反旗を翻し(同20節)、よく抵抗しましたが、兵糧攻めに遭って戦線が維持出来ず(同25章3節)、ついにエルサレムが陥落しました。神殿、王宮などは焼き払われ(同9節)、城壁も取り壊されました(同10節)。貧しい民の一部を除き、ほとんどの者が捕囚とされます(同11,12節)。紀元前587年のことでした(第二次バビロン捕囚)。

 

 50年、60年の捕囚生活で多くの者は祖国復興の希望を失い、力を失くして行ったことでしょう。神はどこにおられるのか、神は本当に愛なのかなどと考えたかもしれません。国を失い、他国で奴隷として働かされる経験をすれば、そしてその生活が世代を超えて続けば、誰でもそうなるのではないでしょうか。

 

 しかしながら、そのような亡国の憂き目を見、捕囚の苦しみを味わうことになったのは、神がおられないから、神が愛でなかったからということではなく、イスラエルの民が神に背く自己中心的な生活をしていたからです(42章18節以下、24,25節、列王記下24章20節参照)。

 

 然るに、目があっても見えず、耳があっても聞こえないイスラエルの民をバビロンに渡された神は(42章18節以下)、再びイスラエルを顧み、「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と宣言されます(1節)。

 

 ここでイザヤは、主なる神を「あなたを創造された主」、「あなたを造られた主」といいます。創造主は、イスラエルがご自分の被造物であるゆえ、イスラエルを贖って「わたしのもの」と告げられ、その名を呼ばれるというのです。

 

 2節の「水の中」、「大河の中」、「火の中」、「炎」は、イスラエルを滅ぼす力を持つものです。42章25節の「主は燃える怒りを注ぎ出し」という表現から、それは、神の裁きを示すものということも出来そうです。しかるに神は、怒りをもって裁き、滅ぼす力の中にあるイスラエルと共におられ、彼らを守ると言われます(2,5節参照)。

 

 また、「水の中」、「大河の中」は、イスラエルがエジプトを脱出した際に通らされた葦の海を思い起こさせます(上記・出エジ14章10節以下)。であれば「火の中」、「炎」は、バビロンからの解放を予想させるものでもあります。

 

 イスラエルに対する主なる神の評価が4節で、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」と説明されます。ここで、「貴く」と訳された言葉(カーボード)は「重んじる」という言葉で、主がイスラエルを誇りとすると言われているわけです。

 

 そして、御自分の証人として再びお立てになります(8節以下、12節)。即ち、彼らをバビロンから解放し、救い出す神こそ、まことの神、主であることを示そうと言われるのです(10~12節)。それが冒頭の言葉(18節)で「今や、それは芽生えている」(19節)と告げられ、今もうそれが起ころうとしているというのです。

 

 かつて海の中に道を通し(16節)、エジプト軍を倒して消え去らせた(17節)主が、今新しく行おうとされているのは、「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」ということです。荒れ野とは、人の往来がないところです。そこに道が敷かれて、人が行き来するようになる、つまりそこが荒れ野ではなくなるということです。

 

 イスラエルの民にとって、荒れ野とは、神に背いた結果、神との交わりが途絶えたことを意味します。救いの喜びが過去のものとなり、活き活きとした喜び、感謝が失われていることです。砂漠とは、文字通り、水がない場所です。これも、信仰の危機、神との交わりが潤いを失っていることを示します。

 

 主なる神は、そのように行き来が途絶え、潤いのなくなったイスラエルの民との交わりを回復するため、さらに新しい豊かな恵みの道を開こうと言われ、渇いた者が命の水を自由に飲むことが出来るようにしてくださると言われるのです。主イエスが、ヨハネ福音書7章37節で、「渇いている人はだれでも、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われたのは、まさにそのことです。

 

 主イエスを信じるとき、主の主、王の王なる主イエスが私たちの罪を赦し、私たちを神の民としてくださいます(ヨハネ1章12節、第一ペトロ2章9,10節)。「野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる」(20節)とは、神を知らずに、神に背いて生きていた私たち異邦の民が、神の恵みに生かされ、神を崇める者に変えられたということなのです。

 

  弱い者、不信心な者、罪人、敵であった私たち、およそ受け入れることの出来ないような私たちを愛し、受け入れてくださった神の愛に感謝し(ローマ5章5節以下)、周囲の人々にその恵みと平安を証ししましょう。

 

 主よ、主の贖いと救いを感謝します。私たちは、「新しいこと」を待ち望みます。それは、日本のリバイバルです。この町のリバイバルです。私たちの同胞に、主を崇め、御名を褒め称える賛美と感謝の歌を歌わせてください。私たちを絶えず聖霊に満たし、主の愛と恵みを証しさせてください。 アーメン

 

 

「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。」 イザヤ書44章3節

 

 1節冒頭に「そして今」(ヴェ・アッター)とあり、前段とのつながりを示しています(43章1節も同じ言葉遣いですが、訳され方が違うのはなぜでしょうか)。43章27,28節との関連では、「そして」よりも「しかし」と訳した方がよさそうです(口語訳は「しかし」としています)。

 

 けれども、同25節の「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」という赦しの宣言を受けて、「そして今」と呼びかけられていると解釈したのでしょう。岩波訳も同様です(岩波訳43章1節は前段との関連で「しかし今」としています)。

 

 2節に「恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ」とあります。ここで「エシュルン」というのは、前節の「わたしの僕ヤコブよ、わたしの選んだイスラエルよ、聞け」という言葉から、イスラエルのことを指していることが分かります。

 

 「エシュルン」という呼び名は申命記32章15節、33章5,26節にもあり、イスラエルの愛称もしくは敬称を示しています。聖書中にこの4回しか出て来ませんが、この名前は「まっすぐ、正直」を意味する「ヤーシャル」(民数記23章10節:「正しい」)という言葉と関連のあるものと考えられます。

 

 一方、「ヤコブ」は「かかと」という言葉に由来する名(創世記25章26節)ですが、父イサクをだまし、兄エサウの祝福を奪ったヤコブの名を、「だます」という意味の「アーカブ」という言葉に関係するものとして、創世記27章36節(口語訳「おしのけた」、新共同訳「足を引っ張り(アーカブ)欺いた」)に紹介されています。

 

 かつて、かかとで押しのける者、欺く者であった、イサクの息子、エサウの弟「ヤコブ」が、神の祝福を受けて「イスラエル」とされました(同32章28節)。「イスラエル」は、「神と人と闘って勝った」という意味だと説明されています。

 

 申命記32章15節に「エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った」とあります。ヤコブ=イスラエルの子孫が神の祝福を受けて肥え太り、頑なになって再びヤコブとなり、こともあろうに、神を足で蹴り、押しのけたというのです。けれども、そうすれば神の怒りを買い、御前から退けられてしまいます(同19節)。

 

 冒頭の言葉(3節)に「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える」と言われるのは、神の怒り、その裁きを恐れなければならない罪深いヤコブが、再びエシュルンと呼ばれ、神との交わりが絶えて乾いてしまった地に新たな流れ、潤いが与えられるということで、それは、イスラエルの民に救いが与えられるということでしょう。

 

 ところで、神がここに用意される水、その流れはどれほどのものでしょうか。出エジプトの際、神は荒れ野を行く民が「水がない」と不平を言うと、その都度、水を用意されました(出エジプト記17章1節以下、民数記20章1節以下)。神から命じられて、モーセが岩から水を出したということです。

 

 そのとき、民の数は、兵役に就くことの出来る男だけで60万人もいました(民数記2章32節)。子どもや老人、女性を加えると200万人以上の大群衆です。一人が1日2リットル飲むなら、全部で400万リットル、4000トンの水が必要です。牛や羊などもいたでしょう。ともかく、それだけの量の水が毎日必要なのです。

 

 そう考えると、神がイスラエルの地のために用意された水、その流れは、私たちの想像をはるかに超えて大きいものではないでしょうか。ということは、それをお与えくださる神は、私たちが想像出来ないほどに偉大なお方だということです。なんと私たちは神の御力、その御業を小さく見積もっていることでしょうか。

 

 神は非常識な方ではありませんが、しかし、常識を超えることをされるのです。「あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」(3節)と言われています。「霊が注がれる」は、エゼキエル書37章の「枯れた骨の復活」の記事を思わせますし、また使徒言行録2章のペンテコステの出来事を思い出します。

 

 第一コリント書10章4節に「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と記されています。

 

 パウロは、同2節で葦の海徒渉をバプテスマ、同3節で天から降ったマナを主の晩餐式のパン、そして同4節でモーセが岩から出した水を晩餐式の杯になぞらえて語っています。それは、旧約の出来事がキリストの救いを予表するものだということです。

 

 であれば、キリストの十字架を記念する主の晩餐式に与ることで、出エジプトという民族的救済の出来事を記念することにもなるということでしょうか。そうなると、現代の私たちの礼拝が、初代クリスチャンたち、そして旧約の世代の人々とつながっていることになりますね。

 

 「イスラエルの王である主」、「イスラエルを贖う万軍の主」、「初めであり、終わりである神」(6節)が、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」とマタイ福音書24章12節に記された終末さながらの様相を呈して来ている我が国においても、御力をもって大いなる御業を行うことが出来ると信じます。

 

 主を畏れ、静まって、御言葉に耳を傾けましょう。御霊の力を受けて、地の果てまで主の愛と恵みの証人となりましょう。

 

 主よ、私たちに御霊を注いでください。わが国をあなたの祝福で満たしてください。不安や恐れではなく、希望と平和が支配し、穏やかで落ち着いた生活をすることが出来る国となりますように。上に立つ者たちの心を、主にある希望と平安で満たしてください。そうして、すべての者が御前に膝を屈め、「イエスこそ主である」と告白して、主の御名を賛美しますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」 イザヤ書45章7節

 

 ペルシア王キュロスのことを、1節で「主が油を注がれた人」と紹介しています。ここには、「メシーホー(彼のメシア)」という言葉が用いられています。「メシア(油を注がれた人)」とは、イスラエルの王(サムエル記上2章10節、16章6節など)や祭司(レビ記4章3,5,16節など)を指す言葉であり、後に救い主を表わす言葉になりました。

 

 ところが、それが異邦人の王に対して用いられているのは、少々驚きです。キュロスは、44章28節でも「わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者」と言われておりました。ただ、キュロス王自身が「主のメシア」と呼ばれることに同意していたり、主の望みについて聞き知っていて、その実現を図ろうとしていたとは、およそ考えられません。

 

 キュロスは、国々を従わせて、その武装を解除します(1節)。キュロスの前に敵対して立ち得る者はありません。山々が平らにされ、青銅の扉は破られ、鉄のかんぬきは折られ(2節)、秘蔵されている宝、富がすべて、キュロスのものとなります(3節)。それは、ペルシアの強大な軍事力によって行われることです。

 

 ここで、2節の「山々」と訳されている「ハドゥーリーム」という言葉は、「たたえる、畏れ敬う」(ハーダル)という動詞の受動態分詞(複数形)で、それが「山」という意味になるとは考えにくいものです。畏れ敬われるものを平らにするというのは意味不明なので、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)に従って「山々」という訳語が選ばれています。

 

 イザヤは、「主はこう言われる。『わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる』」(1節)と語って、主がキュロスを、国々の武装を解除するなどという主の御心を成就する道具として選び、油を注いだと告げているのです。

 

 それは、イスラエルのためであり(4節)、そして、キュロスが主なる神を知るようになるため(3,5節)、さらに、「日の昇るところから日の沈むところまで」、主のほかに神はいないと知るようになるためです(6節)。

 

 キュロスは神に用いられ、イスラエルをバビロンから解放し、エルサレムの神殿を再建させました(歴代誌下36章22,23節、エズラ記1章1~4節)。13節に「彼はわたしの都を再建し、わたしの捕らわれ人を釈放し、報酬も賄賂も求めない」と語られているとおりです。けれどもそれは、キュロス自身が「主のほかに神はない」ということを知ったからではないようです。

 

 「わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった」(4,5節)と言われているからです。

 

 歴史的に考えても、ペルシアでイスラエルの神が礼拝され、ペルシアの王が主なる神に仕えたという事実はなかったのではないでしょうか。しかし、世が終わりを迎えるとき、すべての者は確かに、主が神であられることを、否が応でも知らされます。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ書9章28節)からです。

 

 ここで、主が神であられることを、本当に知るように期待されているのは、勿論イスラエルの民です。彼らこそ、主によって選ばれた、すべての民の間にあって神の宝の民、祭司の王国、聖なる国民なのです(出エジプト記19章5,6節)。

 

 しかしながら、彼らは神との契約を守ることが出来ませんでした。実にイスラエルの民こそが、「わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった」という有様だったのです。だから、神の怒りを買い、亡国の憂き目を見ることになりました。

 

 冒頭の言葉(7節)で「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをする者である」とは、大変考えさせられる言葉です。本当に神は、「闇を創造し」、また「災いを創造」されるのでしょうか。

 

 愛と義の神が闇や災いを創造されるというのは、受け入れ易い言葉ではありません。不慮の事故や重い病などで苦しんでいる者にとって、神が災いを創造したというのは、聞き捨てならない言葉でしょう。

 

 主に聴き従う者には、光と平和を与え、聞き従わない者には、闇と災いを与えるために、それらを創られたのでしょうか。また、ヨブ記のように、「闇」や「災い」はサタン・悪魔がもたらしますが、神はご自身の支配のもとで、それを許しておられるということでしょうか。

 

 ただ、神は天地万物を創造され、そして、すべてを御手の内に収めておられます。神が災いを創られた理由、私たちが災いに遭遇する理由など、今すべてが明らかにされているわけではありませんが、神は光を造られ、平和をもたらすお方なのです。

 

 主によって、闇が光に、災いが平和に変えられる日が必ず来ると信じ、絶えず主を仰いで救いを得ましょう(22節)。

 

 主よ、パウロが、神の慈しみと厳しさを考えなさいと言い、そして、神の慈しみに留まる限り、あなたに対しては慈しみがある、と教えています。絶えず主を仰ぎつつ慈しみの御手の下に留まり、御霊の実を結ばせてください。すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。 アーメン

 

 

「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」 イザヤ書46章4節

 

 1節に「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」という言葉があります。「ベル」とはヘブライ語の「バアル」に相当する「主」という意味の言葉で、バビロンの主神マルドゥクを指しています。バビロンの最後の王ベルシャツァル(ダニエル書5章1節など)の名に表れています。

 

 「ネボ」とは「告知者」という意味のアッカド語「ナブー」から来たものですが、主神マルドゥクの子、または使者と見なされ、バビロンの守護神とされています。だから、ナボポラッサル、ネブカドネザル、ナボニドスなど、バビロンの諸王は、ネボ神の名を冠しているわけです。

 

 バビロンが隆盛を極めていたころ、春の新年祭には、マルドゥクの神殿とネボの神殿を行列行進が行われ、ネボ神の像を立派な舟に乗せて運んでいたそうです。即ち、これらの神々によってバビロンに神の栄光があらわされ、勝利と繁栄が授けられたと考えられていたわけです。

 

 けれども、主は「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」と告げられます。それは、ベルもネボも神としての威厳を失った様を示しています。神々がその威厳を失ったということは、バビロンが滅亡するということを示しているのです。

 

 そのときには、これらの神像をペルシアの王キュロスの手から守るため、「獣や家畜に負わ」(1節)せて、町から運び出さなければならなくなりました。人々が歓呼の声と共に担いでいたものが、今や「重荷となって、疲れた動物たちに負わされる」(1節)とまで言われるのです。

 

 つまり、神々が町を守るどころか、人々に守られ、動物の背に乗せて運び出されなければならなくなったというわけです。しかも、それが重荷となって動物たちが疲れ果て、結局、町から運び出そうとした人々も捕えられてしまうのです(2節)。

 

 一方、主なる神は、ヤコブの家、イスラエルの家の残りの者、即ち捕囚の民に向かって、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」(3節)と言われます。ここに、人に担がれ、獣や家畜に負われて運ばれるバビロンの神々と、イスラエルの家の者を担い、持ち運ばれる主なる神という、全く対照的な神の姿が描かれています。

 

 「生まれた時から負われ」というのは、イスラエルの民を「鷲の翼に乗せて」(出エジプト記19章4節)エジプトからシナイ山へ、そして約束の地カナンへと背負われて運ばれたこと(申命記1章31節)、そこで、イスラエルの国を築かせたことを表していると言ってよいでしょう。

 

 そして、誕生のときを描いたので、続く冒頭の言葉(4節)では、「同じように、わたしはあなたたちの老いるまで、白髪になるまで、背負って行こう」と、人生の終わりを描きます。これは、バビロンを出て、再びカナンの地へと持ち運ばれることを言い表しているのです。こうして神は、イスラエルの民を最初から最後まで、常に変わることなく守り支えてくださるというわけです。

 

 「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」とは、力強い神の御心の宣言のようです。4節には、「わたし」(アニー)という言葉が、計5回出て来ます。ヘブライ語の動詞は、人称によって語尾が変化するので、代名詞をつけなくても意味は十分通じます。あえて人称代名詞を用いているということは、そこに強調点があるということです。

 

 つまり、イスラエルを造り、それゆえに担い、背負い、救い出すのは、主なる神のほかにはいないということです。そしてまた、主なる神こそが唯一の主、主の主、王の王なるお方であるということです。

 

 ここに、人を造られた神と、人によって造られた神々の違いが明確に示されます。人を造られた神は、人を担い、背負い、救い出されます。一方、人によって造られた神は、命がありませんから、人や動物たちによって運ばれなければなりません。ですから、他者を救うことなど、出来るはずもないわけです。

 

 今、私たちの目の前に、人の手によって造られ、人に運んでもらわなければならない偶像の神が置かれており、また、目には見えませんが、人を造り、持ち運び、救ってくださる主なる神が、その横に立たれています。あなたはどちらを選びますか。どちらがよいでしょうか。

 

 かつてイスラエルの民は、まことの神を捨てて、異教の偶像を祀り、礼拝を捧げてきました。それで神の怒りを招き、バビロン捕囚という苦しみを味わうことになったのです。イザヤは、ここにもう一度、まことの神に聴くように、その御声に従うように、そのためにまず罪を悔い改め、神の恵みを思い起こせと、憐れみをもって語っているわけです(8,9節)。

 

 私たちはこの世において、様々な重荷を負い、押しつぶされそうになっています。そのような私たちを、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と主イエスが招かれます。主イエスは、私たちが疲れ果て、重荷を負っていることを知っておられ、休ませ、元気づけてくださるというのです。

 

 インマヌエルなる主イエスを信頼し、その招きに応えて主イエスに学ぶものとならせていただきましょう。 

 

 主よ、あなたの憐れみのゆえに感謝致します。いつも最善をなしてくださる神様、あなたを礼拝します。あなたの計画は必ず成り、主が望まれることはすべて実行されるからです。絶えず御言葉に聴きしたがうことが出来ますように。柔和で謙遜な主イエスに学び、従って歩むことこそ、私たちの喜びであり、力の源だからです。 アーメン

 

 

「わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主。イスラエルの聖なる神。」 イザヤ書47章4節

 

 46章に続き、47章にもバビロンに対する裁きの言葉が記されています。46章には、バビロンの神々が力を失うことが告げられていましたが、47章では、バビロニア帝国の滅亡、バビロンの都の陥落が歌われています。注解書によれば、文学的技巧にすぐれて、バビロンの奢りと神の裁きが哀歌調で歌われているということで、その歌によってバビロンを嘲笑しているかたちです。

 

 1節の「おとめである、娘バビロンよ」という呼びかけは、まだ主人に仕えたことがないということから、バビロンはいまだ征服されたことがない、威勢を誇っているという表現でしょう。「諸国の女王」(5節)と呼ばれ、自ら「永遠の女王」(7節)と称しているバビロンが、「身を低くして塵の中に座れ」、「王座を離れ、地に座れ」と命令されて、屈辱的な扱いを受けることになると示されます。

 

 2節の「石臼を取って粉をひけ」というのは、女奴隷として仕事をせよということです。「ベールを脱ぎ」以下「すねをあらわにして川を渡れ」は、危急の事態に陥り、逃走する情景を示すものでしょう。けれども、裸にされ、屈辱的な扱いを受けるようになります。ここに「娘」、「女」といわれるのは、「バビロン」が女性形の名詞なので、擬人化した表現をしているわけです。

 

 5節にも「娘カルデヤよ」という呼びかけがあります。カルデヤとは、バビロンのことです。イスラエルの父祖アブラハムの故郷は、カルデヤのウルですから(創世記11章31節)、もとをたどれば、カルデヤ人とユダヤ人は同族ということにるわけです。しかし、「諸国の女王と呼ばれることは二度とない」という言葉で、帝国としての支配の終わりが告げられています。

 

 そのような裁きが告げられる理由が、6節に「わたしは自分の民に対して怒り、わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず、老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした」と語られています。つまり、神がイスラエルを罰する器としてバビロンを選び、その手に処罰を委ねたのだけれども、その指示以上に冷酷に取り扱ったというのです。

 

 さらに7節で「わたしは永遠に女王だ、とお前は言い、何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった」と告げられます。つまり、神を畏れないこのような驕りが、彼らの裁きの理由だというわけです。8節では「快楽に浸り、安んじて座る女よ」と呼ばれて、おのが危機を悟らず、安逸を貪っていることを断じます。

 

 また、「わたしはやもめになることなく、子を失うこともない、と心に言う者よ」と呼ばれます。やもめになるとは、寄る辺を失うことであり、子を失うとは将来の希望を失うということでしょう。バビロンの人々はそうならない自信を持っていたわけです。しかるに神は、「その二つのことが、一日の内に、瞬く間にお前に起こ」(9節)ると言われます。

 

 また、この自信は、「呪文」や「まじない」によってもたらされていたもののようです(9,10節)。特に天文学に関する研究は、他に類を見ないほどの進歩を遂げていたと言われます。その「知恵と知識」がバビロンを「誤らせ」てしまったのでしょう。

 

 12節で「呪いと呪文の数々をもって立ち向かえ。若いときから労して身につけたものが、あるいは役に立ち、それを追い払うことができるかもしれない」と言われるのは、なんと皮肉たっぷりの意地悪な勧告でしょうか。

 

 そして14節に「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし、炎の力から自分の命を救い出しえない」と記されています。呪いに使う火によって自ら焼き尽くされるということで、守るはずのものによって滅ぼされてしまうと言われるのです。

 

 ただし、ここに預言するイザヤの言葉を聴いているのは、イスラエルの民です。一方では、自分たちを奴隷として苦しめたバビロンに対する裁きの言葉に、溜飲の下がる思いがしたかもしれません。しかしながら、6節にあるとおり、神がイスラエルをバビロンの手に渡されたのは、彼らが神の怒りを買うような罪の生活を繰り返していたからです。

 

 神に従わず、自らの知恵や知識に依り頼み、「わたしだけ、わたしのほかにだれもいない」(8節)という選民意識をもって驕り高ぶるなら、またもや、悲しく辛いところを通らなければならなくなり、まさに「お前を救う者はひとりもいない」(15節)ということになってしまうのです。

 

 冒頭の言葉(4節)でイザヤは、主なる神を「わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる者」と呼びました。イスラエルは、贖い主の救いを必要としています。万軍の主が味方してくださるとき、どんな敵にあたることも出来ます。このお方こそ、イスラエルの聖なる方、唯一の神です。

 

 イスラエルの民を捕囚の苦しみから贖い出してくださった万軍の主は、今も尚、「イスラエルの聖なる者」と呼ばれることをよしとしておられます。この主なる神に信頼し、主の御言葉の前に身を低くしましょう。その導きに従って歩みましょう。

 

 主よ、私たちはあなたを必要としています。私たちは罪人です。私たちの罪を赦してください。十字架の主を仰ぎます。その血潮によって清めてください。心の王座に主をお迎えします。私たちをあなたの御心のまま、あなたの望まれるような者に造り替えてください。 アーメン

 

 

「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。」 イザヤ書48章18節

 

 48章は、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」で始まった第二イザヤの預言の前半部(40~48章)の締め括り、ペルシア王キュロスによるバビロンからの解放を、捕囚の民に対する福音として告げ知らせ、イスラエル・エルサレムへ帰還する準備をするように呼びかけるものです。解放者キュロスに関する言及は、48章15~18節が最後になります。

 

 ヘブライ語原典で見ると、1節は「聞け」(シェマー)で始まっています。イスラエルの民は、毎朝晩「聞け、イスラエルよ」(シェマー・イスラエル)で始まる、申命記6章4~9節の御言葉を唱えます。イスラエルの民は、神の御言葉で一日を始め、御言葉で一日を終わるのです。つまり、イスラエルは、神の御言葉を聞く民であるということです。

 

 あらためて調べてみると、48章には「聞く」(シャーマー)という動詞が、合計11回(1,3,5,6②,7,8,12,14,16,20節:新共同訳では、「知らせる、告げている」と訳されているものもあります)出て来ます。イザヤがどれほど、神の御言葉を聞くことが大切だと考えているかということを窺わせる数です。

 

 それはまた、ヤコブの家、即ちイスラエルの民が神の御言葉を聞くことを、イザヤが言うようには大切にして来なかったということも示しています。実際4節に「お前が頑固で、鉄の首筋を持ち、青銅の額を持つことを知っているから」と記されていて、かつてイスラエルが厚顔で強情であったことを非難しています。

 

 また8節には、「お前は聞いたこともなく、知ってもおらず、耳も開かれたことはなかった。お前は裏切りを重ねる者、生まれた時から背く者と呼ばれていることをわたしは知っていたから」と記されており、これは、イスラエルの民がエジプトから解放されたときから、御言葉に聞き従わない、神に背く者であったということです(エゼキエル書2章3節、ホセア書9章15節)。

 

 神は、祭司らを立て、預言者を送って神の御言葉に耳を傾け、その掟を守るようにと招かれましたが、イスラエルの王とその民は、聴き従おうとはしませんでした。それゆえ、神の裁きを受け、亡国の憂き目を見る結果となったのです。

 

 そのような頑固で厚顔な民、生まれながら神に背く者であったイスラエルの民に対して、主は「これから起こる新しいことを知らせよう」(6節)と言われ、「わたしのもとに近づいて、聞くがよい」(16節)と招かれます。

 

 そうして彼らに、「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え」(20節)と命じられました。

 

 「これから起こる新しいこと」とは、イスラエルの民がかつてエジプトから解放されたように、バビロンから解放されることであり、そして出バビロンの際には、これまでとは違って神の御言葉に聞き従い、その感謝と喜びを全世界に告げ知らせる神の僕としての使命を果たすということです。

 

 神は、「わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる」(17節)と告げ、さらに、冒頭の言葉(18節)のとおり、「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」と語られます。

 

 ここで、「平和」(シャローム)とは、単に争いがないということではありません。健康や安全、そして繁栄という意味もあります。また、「恵み」と訳されている「ツェダカー」という言葉は、本来「正義」を意味する言葉ですが、救いや勝利という意味を含んでいることから、ここでは、「恵み」と訳されているわけです。

 

 また、「大河」(ナハル)は、詩編93編3節では「潮」と訳されています。パレスティナには、雨季のときだけしか水が流れない、乾季には川床まで乾いてしまう「ワーディー」と呼ばれる水無し川がたくさんあります。これまでのイスラエルは、まさにこのワーディーのようなものだったと思います。

 

 即ち、神に聴き従って豊かな繁栄を味わいますが、それは短期間で、やがて恵みに慣れ、驕り高ぶって神から離れた結果、恵みが枯渇してしまうのです。「平和は大河のように、恵みは海の浪のように」とはほど遠い、砂漠や荒れ野が広がっているのです。

 

 だから、主の言われるとおり、聞く耳をもってその御声に絶えず耳を傾けましょう。ただ聞くだけでなく、常に主の御言葉を口ずさみ(詩編1編2節参照)、主の御旨に従って歩みましょう。そのとき、恵みの流れは、ナイルやチグリス・ユーフラテスのように、尽きることのない豊かな流れとなるのです。

 

 天のお父様、日毎に御言葉を聞かせてくださり、感謝します。主イエスが、「聞く耳のある者は、聞くがよい」と言われました。「聞く耳のある者」とは、聞いて行う意志のある者のことでしょう。どうか、御教えを愛して絶えず御言葉に耳を傾け、瞑想し、御心をわきまえてそれを行う者とならせてください。御霊に満たされて、主の恵みを証しすることが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「見よ、わたしはあなたを手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」 イザヤ書49章16節

 

 49章から第二イザヤ(40~55章)の後半部の始まりで、前半部(40~48章)のペルシア王キュロスによる捕囚からの解放というテーマから、苦難の僕としてのイスラエルがクローズアップされ、特に「主の僕の歌」(49章1節以下、50章4節以下、52章13節以下)を通して、その苦難が他者のための苦しみであることが強調される展開になっています。

 

 1~6節は、「主の僕の歌」の第二歌です。第一歌(42章1節以下)では、主が御自分の僕について語っていたのですが、ここで語っているのは主の僕自身で、自分に与えられた召命と派遣についての自己証言となっています。

 

 3節に「わたしに言われた、あなたはわたしの僕、イスラエル、あなたによってわたしの輝きは現れる、と」と記されています。主なる神がご自身の栄光を現すために、僕としてイスラエルを選ばれたという表現です。

 

 主が御自分の僕を選ばれたのは、ご自身の言葉を語らせるためでした。それが2節の「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して」という言葉です。「御手の陰に置き」、「矢筒の中に隠して」というのは、主に託された言葉を、語るべきときが来るまで隠すということであり、それは、自分が預言者であることも、主によって隠されるということでしょう。

 

 そして5節に「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために、母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた主は」とあります。3節の「わたしの僕、イスラエル」との関連で、イスラエルを神の民として再興するために、その初穂として、ここに「わたし」と語る預言者を、御自分の僕として選び立てられたということです。

 

 主の僕として選ばれた預言者は、しかし、辛い思いをします。4節に「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」とありますが、それは、イスラエルの民が預言者の語る言葉に素直に耳を傾けないからです。それゆえ、同胞に向かって厳しい裁きの言葉を語らなければならず、それがまた預言者を苦しめるのです(エレミヤ書20章7節以下参照)。

 

 「わたしの神こそ、わたしの力」(5節)と預言者は言いますが、それは、神の助けなしには、その使命を全うすることは出来ないということです(7年ほど前、タイムリーヒットで阪神を勝利に導いたマット・マートン選手が、ヒーローインタビューでファンに向かい、「神様はわたしの力です」と日本語で言いましたが、5節の言葉を暗唱したかたちです)。

 

 ここで神は、「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」(13節)と、シオンの回復の預言を語らせます。ところがシオンは、「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた」(14節)と言い、それを受け入れません。厳しい捕囚生活の中で喜んで歌い躍ることなど、絶え果てていたのでしょう。

 

 それに対して、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子どもを憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)と主なる神が答えられます。つまり、主の憐れみは、母が子を愛する愛を凌駕しているという宣言です。

 

 続いて、「わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃墟とした者はあなたを去る」(16,17節)と言います。ここにイスラエルの再建が語られ、青写真が主の手のひら(掌)に刻まれていると言われているのです。

 

 この手のひらの傷というイメージは、私たちにさらに深い印象をもって迫ってきます。それは、主イエスの手のひらにある釘の跡です。そしてその傷こそ、私たちを主なる神がどれほどに愛しているのかを、何よりも雄弁に物語る徴です(ローマ書5章8節)。

 

 主イエスが十字架に死なれたのは、私たちの受けるべき罪の呪いを御自分の身に受けてくださるため、そして、その贖いのゆえに私たちが罪赦され、神の子として頂くためでした(ローマ書4章25節、第一コリント書15章3節、コロサイ書1章14節、第一ペトロ書3章18節)。

 

 パウロは「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)と言っています。

 

 主イエスの復活の知らせを信じることが出来なかったトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」と主は言われ、そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と告げられました(ヨハネ福音書20章24節以下、27節)。

 

 主を信じ、罪赦されて神の子として頂いた私たちには、その喜びを告げ知らせ、福音を語り伝える務めが与えられたのです。絶えず主の御言葉に耳を傾け、その導きに従いましょう。

 

 主よ、あなたの深い憐れみのゆえに感謝致します。恵みのとき、救いの日に、あなたを信じ、御言葉の導きに従って歩みだすことが出来ますように。信仰の恵みに与り、その喜びを家族に、周りの人々の広げていくことが出来ますように。御霊に満たし、その力をお与えください。御心が行われますように。 アーメン

 

 

「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」 イザヤ書50章4節

 

 4~9節は、「主の僕の歌」の第3歌です。冒頭の言葉(4節)で、「主なる神」と訳されているのは、「アドナイ・ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」という神の名について、ユダヤの人々は、「あなたの神、主(ヤハウェ)の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という十戒に規定に基づき、正確に発音せず、通常は「アドナイ」と読みますので、そのとおり発音すれば、「アドナイ・アドナイ」となります。

 

 そこで、岩波訳のように直訳的に「主なるヤハウェ」と訳すか、上記の理由に基づいて「ヤハウェ」と表記するのは良くないとするならば、同じ音が重なりを表すように「主なる主」、「主である主」と訳すほうがよいでしょう。「主(ヤハウェ)」が、そうお呼びする名前というだけでなく、まさしく私の主人であるということを強調して、「主である主」という表現になったと考えることも出来ます。

 

 また、「弟子」(リムーディーム)という言葉が2度出て来ますが、これは「教えられる者」という意味の言葉で、複数形です。同じ言葉が8章16節にあり、そこでは「弟子たち」と訳されていました。また、54章13節では「教えを受け」と動詞的に訳されています。口語訳、岩波訳のように「教えを受けた者」と訳してもよいでしょう。

 

 一方、「舌」(リショーン)は単数です。舌が単数であるのは、弟子たちが教師である主の教えを語っているということでしょう。そして、特にこの箇所では、「わたし」イザヤが教師の主なる神に学んだ生徒として、主なる神に教えられた言葉を語るということではないでしょうか。

 

 「弟子としての舌」が与えられたのは、「疲れた人を励ます」ためです。「疲れた人を励ます」ということでは、40章29節に「(主は)疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与える」と語られ、この主の働きを預言者が担うわけです。

 

 この時代、「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れ」(40章30節)るほど弱り、疲れを覚え、無気力になっていました。捕囚となっていた民は、自分たちは主に離縁された、バビロンに売り渡されたと言い(1節参照)、自分たちを離縁し、あるいはまた外国に売り渡した者が、自分たちを買い戻すことは出来ないと主張していたようです(申命記24章1節以下参照)。

 

 また、自分たちをバビロンの手から解放し、救い出してエルサレムに連れ戻すことは出来ないだろうし、バビロンの50年の捕囚生活で営々と築いてきたものを捨てて、危険の多い荒れ野を通って長距離を旅し、荒廃している祖国を再建する辛苦をなめるのは、ごめんだと考えていたのかも知れません(2節参照)。 

 

 「呼び覚ます」(ヤーイール)は、「揺り動かす、かき立てる」という強い意味もあり、42章13節では、「奮い起こす」と訳されていました。疲れた者を励ますためには、ありきたりの、通り一遍の言葉ではなく、主によって揺り動かされ、振るい立てられた、力ある神の言葉でなければならないということでしょう。

 

 そして主は、預言者たる「わたし」自身が先ずその言葉を聞くべく、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし」てくださいます。主に聴くことなくして、主の言葉を語ることは出来ません。主が語れと言われることを告げるのでなければ、それは、主の言葉ではないからです。

 

 預言者サムエルがまだ幼いとき、主から「サムエルよ」と呼ばれ、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えて、主の言葉を聞きました(サムエル記上3章1節以下、10節)。これが、神の人サムエルの耳が呼び覚まされた物語です。その後サムエルは、主の預言者として人々の信望を集め、「主は御言葉をもって、シロでサムエルにご自身を示され」(同20,21節)続けました。

 

 一方、祭司エリには、主の言葉が告げられませんでした。同1節には、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」と記されています。これは、「弟子として聴き従う」姿勢を持たないとき、つまり、主なる神の御前に謙り、御心を行う信仰に立たなければ、その耳が開かれないということを、私たちに教えているのです。

 

 神の御言葉を語る務めは、容易いものではありません。6節に「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」とあります。

 

 預言者として告げる言葉が直ちに実現しないことで受ける侮辱、預言者に反抗する人々から受ける暴力などをそのように表現し、しかもそれらを甘受したと言います。それが、主から委ねられたミッション、使命だったからです。

 

 これはまた、主イエスが十字架につけられる際に味わわれたことでもあります(マルコ福音書14章65節、15章15,16~20,29~32節など)。だから、朝毎に言葉を呼び覚まし、耳を呼び覚まされる主の御前に出、疲れた人を励ます主の御言葉を聞かなければならないのです。主イエスが朝早く、ときには夜を徹して祈られたのは、そのためだったわけです。

 

 日毎に御言葉と御霊の導きにより、主の慰めと励ましを頂きながら、主の使命に励んで参りましょう。

 

 主よ、私たちの耳を呼び覚まし、疲れた者を励まし立たせる御言葉を聞かせてください。闇の中を歩くようなときも、主を畏れ、御名に信頼し、御力に支えられて立ち、前進させていただくことが出来ますように。あなたの御言葉こそ、私たちの足の灯火、道の光だからです。 アーメン

 

 

「わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。」 イザヤ書51章1節

 

 冒頭の言葉(1節)で「正しさを求める人」とは、正義を行う人というより、神の義、神の正しさを求める人という意味です。「義」(ツェデク)という言葉が1,5,7節で「正しさ、正義」として、また、女性形の「ツェダカー」が6,8節に「恵みの業」と訳されて、用いられています。この段落は、「神の義」が重要なテーマであることが分かります。

 

 神の義、神の正しさを求めるとは、神が神として正しくふるまってくださること、また、人が人として正しく神を崇めることを求めることです。その背景に、神はどこにおられるのか、神は本当におられるのかという、捕囚民の置かれた苦しく辛い立場、状況があると思われます。そこで、自分たちをその苦難から贖い出してくださるまことの神を追い求める人がいるというわけです。

 

 ということは、「正しさを求める人」と、続く「主を尋ね求める人」とは、同義ということになります。神の義は、神を信じる信仰により、恵みとして与えられます(ローマ書3章21節以下)。神の義が与えられるということは、罪から救われるということでもあります(エフェソ書2章4節以下)。

 

 主を求め、神を信じる信仰に生きようとする人々に、「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」(1節)と言われ、2節で「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ」と告げられていますので、「切り出された元の岩、掘り出された岩穴」とは、父祖アブラハムとサラのことでしょう。そして、切り出された岩はイスラエルの民ということです。

 

 「サラ」の名は、旧約聖書中、創世記以外ではここにしか出て来ません。「アブラハムとサラに目を注げ」とは、どういうことでしょうか。そこで主は、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」(2節後半)と言われます。「ひとりであった」とは、アブラハムとサラの間には子がなかったということです。

 

 アブラハムは75歳のとき、「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という神の声を聞き、妻のサラと共にハランを出ました(創世記12章1節以下、5節)。そしてアブラハム100歳、サラ90歳のときに、約束の子イサクが生まれます(同21章1節以下)。

 

 そして、イサクにヤコブが生まれ(同25章21節以下)、ヤコブに12人の男児が生まれました(同35章22~26節)。これが、イスラエル12部族の先祖ということになります。

 

 ヤコブ一族が飢饉を逃れてエジプトに下ったときは70人でしたが(同46章27節)、430年後、イスラエル全部族は数えられた成人男子だけで60万を数えており(出エジプト記12章37節以下、40節)、女子どもを数えると、総数は200万にも達していたと考えられます。

 

 もし、アブラハムが主の声に聴き従わず、ハランの地に留まり続けていたとすれば、年老いたアブラハムと不妊のサラに、子が生まれて来ることは、なかったでしょう。彼らに子が与えられ、一民族をなすことが出来たのは、まさに神の約束の言葉に従ったから、神の祝福をいただいたからです。

 

 アブラハムの生まれ故郷はカルデヤのウル、即ちバビロンです。捕囚の民に「アブラハムとサラに目を留めよ」と言われるのは、神がもう一度、アブラハムの子孫イスラエルの民をバビロンから呼び出し、約束の地カナンで彼らを祝福の基としようということです。

 

 3節の「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め」とは、子のなかったアブラハム、サラを慰めてイサク(笑い)をお与えになったように、バビロンによって廃墟にされたエルサレムを慰め、そこを住む者の多い都とされるのです。

 

 さらに、「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(3節)と語られています。「エデンの園」と「主の園」は同一のことで、荒れ果てて砂漠のようになった国土が、やがて「エデンの園」(楽しみの園:創世記2章8節)のように回復され、そこには「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」用になるというのです。

 

 それゆえに、希望をもって主を尋ね求めなければなりません。とはいえ、これは勿論、人が努力してなし得ることではありません。神の恵みに信頼し、すべてを神に委ねることです。だから、「わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ」(1節)と最初に告げられていたのです。

 

 主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)と言われたのはそのことでしょう。続けて、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(同34節)と言われています。

 

 「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(詩編37編3~6節)。

 

 「主は恵み深く、その慈しみは永久に絶えることがない」。主よ、その深い恵みと慈しみのゆえに、心から感謝致します。絶えず主の恵みのもとに留まり、謙って御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って歩ませてください。御名が崇められ、御心が行われますように。 アーメン

 

 

「しかし、急いで出ることはない、逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」 イザヤ書52章12節

 

 52章13節から、4番目の「主の僕の歌」が始まります。それまでの部分は、「エルサレムの救いへの呼びかけ」(1~6節)、「平和の到来」(7~10節)、「出発への呼びかけ」(11,12節)と区分することが出来るでしょう。 

 

 6節に「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう」と言われています。「それゆえ」は、3節の「主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と」という言葉を受けています。

 

 イスラエルはかつてエジプトの奴隷でしたが、モーセに率いられてエジプトを脱出し、エルサレムに都を置くイスラエルの国を築きました。ところが、ソロモンの死後、イスラエルは南北に分裂し、紀元前721年に北イスラエルがアッシリア(列王記下17章)、南ユダも紀元前587年にバビロンによって滅ぼされ(同25章)、それぞれ捕囚とされました。

 

 それは、彼らが主なる神ではなく、人や馬の力に依り頼み(30章15,16節など参照)、また、異教の神々を祀って礼拝し、主の怒りを買ったためでした(列王記下24章19,20節、歴代誌下36章15節以下)。

 

 それが、バビロンに対して賠償金を支払うのではなく、主によって買戻される、即ち、主なる神によってバビロンから救い出して頂くという恵みに与ろうとしているのです。だから「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ」(1節)と呼びかけ、「立ち上がって塵を払え」(2節)と命じ、「わたしの民はわたしの名を知るであろう」(6節)と言われるのです。

 

 主はイスラエルの民を繰り返し「わたしの民」(4,5,6節)と呼んでおられます。それは、主とイスラエルの民との間に、新しい契約が結ばれていることを表しています(エレミヤ書31章33節参照)。しかしながら、「わたしの民はわたしの名を知るであろう」ということは、これまで、「わたしの民」が「わたしの名」を知らなかったと言っていることになります。

 

 つまり、主なる神が「わたしの民」と呼ぶイスラエル、神の選びの民とされていることを誇りとしていたイスラエルの民は、それにも拘らず、主を軽んじ、主に聴き従おうとはしなかったわけです。だから、主の怒りを買い、アッシリアやバビロンに「ただ同然で売られ」ることになったのです。

 

 しかしながら、主なる神は、イスラエルの民を苦しむままに放置しておくことが出来ませんでした。おのが民が異邦の民に苦しめられることは、そこで主の御名が汚され、侮られることでもあったからです(5節)。それゆえ、主が御腕を伸ばして、ご自分の民をその苦しみから助け出されるのです。

 

 主はご自分の民に呼びかけて、「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ、汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。主の祭具を担う者よ」(11節)と言われます。出エジプトならぬ、出バビロンです。

 

 出エジプトの際には、イスラエルの民はせきたてられて、急いでエジプトを出ました(出エジプト記12章33節)。そして、主がイスラエルの民に先立って進まれ、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって道を照らされました(出エジプト記13章21,22節)。

 

 葦の海を前にしたイスラエルの民の背後からエジプト軍が追い迫ってきたとき、雲の柱が民の前から後ろに回り、イスラエルとエジプトの間に入りました(同14章20節)。それで、エジプト軍はイスラエルに近づくことが出来ず、その間に葦の海が二つに割れて乾いた地が出来、民はそこを通って難なく向こう岸に渡ることが出来ました(同22節)。

 

 イスラエルに続いてエジプト軍が後を追って海に入ったとき(同23節)、主なる神がエジプト軍をかき乱され(同24節)、戦車の車輪を外して進み難くされて(同25節)、海の中に彼らの足止めをされた後、海の水が元に戻るようにされたので(同26,27節)、エジプト軍は全員、海の藻屑となりました(同28節)。

 

 一方、出バビロンにおいては、冒頭の言葉(12節)の通り、民は「急いで出る必要はない、逃げ去ることもない」と言われます。つまり、バビロンからの脱出は、逃亡などではなく、その戦いに勝利した凱旋の行軍のようなものということなのです。

 

 しかも、神ご自身がイスラエルの先を進み、かつ、しんがりを守られます。それにより、荒れ野をさ迷って40年を過ごすということはありませんし(ヨシュア記5章6節)、あるいはまた、疲れ切ったしんがりの落伍者にアマレクが攻めかかるというようなこともないでしょう(申命記25章18節参照)。

 

 パウロが、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ書8章31節)と問い、「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(同37節)と結論しています。

 

 私たちを憐れみ、先を進み、しんがりを守られる主に信頼し、その導きに従って歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、あなたの限りない愛と憐れみのゆえに感謝致します。あなたは、罪の奴隷であった私を贖い出し、凱旋の列に加えてく下さいました。御言葉と御霊の導きに与り、至る所にキリストのよい香りを届けることが出来ますように。主の慈しみに留まり、力強い主の御手の下に絶えず身を低くすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら背負った。」 イザヤ書53章11節

 

 52章13節~53章12節が、「主の僕の歌」の第4歌、最終の歌です。

 

 この歌は、「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(52章13節)という言葉で始まります。「栄える」(サーカル)は、「賢く振る舞う」という意味の言葉で、「成功する」とも訳されます(ヨシュア記1章7,8節参照)。ところが、同14節には、「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」と記されており、その栄光を失ってしまったかのようです。2節でも、同様に語られています。

 

 52章15節に「彼は多くの民を驚かせる」とあります。それは、主の僕が神の栄光を受けて高く上げられたからであり(同13節)、しかしながら、見る影もない姿を見たからという(同14節)、二重の理由のゆえでしょう。これは、イスラエルがバビロンによって壊滅させられた際の惨状と、捕囚から解放されて自由にされたときの高揚感が、共に人々の驚きの対象になったのでしょう。

 

 「王たちも口を閉ざす」(同15節)は尊敬のしるしという表現で、「誰も物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったから」(同15節)と合わせて、捕囚のイスラエルの状況が突如として変化し、解放されて帰国することが出来たのを目の当たりにした驚きが示されています。

 

 2節に「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った」とあります。神の祝福を受けて成功する人が、十分に水を与えられて育つ植物にたとえられるように、ここでは、水分が十分得られずに干からびてしまう植物のように育つというのは、神の祝福が取り去られたということを語っているようです。

 

 そのために、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」(3節)ます。人々はその姿を見て、「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」(4節)と考えるのです。しかし、主の僕は、神に背く者たちの病を担い、その咎による痛みを負って、苦しんでいたのです。

 

 7節には、「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれていく小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」と記されて、ここに、この僕が自分の置かれた境遇を甘受し、黙々と歩んでいる様子が描かれています。

 

 「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」(9節)のは、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は臨まれ、彼は自らを償いの献げ物とした」(10節)からであると説明されます。つまり、主の僕の苦しみは、主なる神の御心によることであり、僕の死は、多くの人々の罪の償いの献げ物となるためだったというのです。

 

 最初に、「わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(52章12節)と語られていたのは、神の御心に従って人々から蔑まれ、見捨てられるほどに低くされた僕が、私たちの身代わりとして贖いの業を成し遂げたゆえに、神が僕に栄光を与え、高く上げられるということだったわけです。

 

 この「僕」について、学者たちの間に様々な議論がありますが、キリスト教会は伝統的に、この僕こそ、主イエス・キリストであると考えて来ました。主イエスは神の独り子であられますが、人となってこの地上に来られ、私たち人類の罪の身代わりに、十字架にかかって死なれました。

 

 当時のユダヤの指導者たちは、ゲッセマネで主イエスを捕らえた後(マルコ14章43節以下)、大祭司カイアファの屋敷に連れて行き、そこで主イエスが神を冒涜する者であると断じ、死罪を言い渡しました(同53節以下、64節)。その後、ローマ総督ピラトは、「十字架につけろ」と叫ぶ群集の声に負けて、主イエスを十字架につけることに同意しました(同15章14,15節)。

 

 主イエスは、二人の強盗と共に朝の9時に十字架につけられ(同25,27節)、午後3時過ぎに「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と大声で叫んで、息を引き取られました(同34,37節)。そして、アリマタヤ出身のヨセフというサンヒドリンの議員の墓に葬られました(同43,46節)。

 

 主イエスの弟子たちは、主イエスを見捨てて逃げてしまいました(同14章50節)。主イエスが十字架で死なれたとき、それが私たちの背きの罪のため、身代わりとなってその呪いを身に受けてくださるためだったと理解出来た者は、誰もいなかったのです。

 

 それはまさに、8節で「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」と言われている通りです。

 

 しかし、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(5節)のです。そして、神は、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であられたキリストを「高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのです(フィリピ書2章8,9節)。

 

 今日、地の果ての日本に福音が伝えられ、主イエスを信じる信仰に与る者が起こされているのは、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(11節)とあるように、甦られた主がそれを御覧になりたいと望まれたからであり、そして、その結果を喜んでいてくださるからです。

 

 主イエスをお喜ばせするため、福音を宣教する働きにさらに励んで参りましょう。

 

 主よ、私たちが救いに与り、約束された聖霊に満たされるため、御子キリストが罪の呪いを身代わりに受けてくださいました。この驚くべき恵みに心から感謝しています。この恵みを無駄にせず、今年度も伝道する教会、主の恵みを証しする信徒として用いてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。」 イザヤ書54章2節

 

 1節には、「喜び歌え」(ラーニー)、「歓声をあげ」(ピツヒー・リナー:「突然歌い出す」の意)、「喜び歌え」(ツァハリー:「叫ぶ」の意)という命令形(2人称単数)の言葉が並んでいます。こう命じられるのは、「不妊の女、子を産まなかった女」、「産みの苦しみをしたことのない女」です。

 

 当時のイスラエルでは、子を産まない女性は神の祝福から漏れていると見做されていました。身籠った女奴隷ハガルが不妊の女主人サラを軽んじたことや(創世記16章4節)、ヤコブの妻ラケルが男の子を産んで、「神が恥をすすいでくださった」(同30章23節)と言ったことなどが、それを裏付けています(サムエル記上1章も参照)。

 

 1節で「不妊の女、産みの苦しみをしたことのない女」と言われるのは、エルサレムのことです。バビロンに滅ぼされて神殿は焼かれ、城壁は崩され、多くの住民は捕囚となり、残りの民も四散して、町は荒れ果てたままにされていました。まさに、神の都が周囲から辱めを受けていたのです。

 

 それがここで「喜び歌え」と命じられるのは、神がその恥を雪いでくださり、繁栄が回復されるということです。「夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなる」とは、そのことを言うのです。

 

 「夫に捨てられた女」(ショーメイマー)は、「夫ある女」(ベウラー)との対比による意訳で、もともと「荒れ果てた、荒廃した」という言葉です。バビロンに滅ぼされ、荒れ廃れる前のエルサレムは、夫ある女、神の保護の下にあった都でした。

 

 神の都エルサレムがその御前から捨て去られることになったのは、彼らが主に背き、その目に悪とされることを行って、主の怒りを買ったからです(列王記下24章20節、歴代誌下36章15,16節)。

 

 不妊の女、夫に捨てられた女が子を持つというのは、通常あり得ない話です。しかも、夫ある女より多くの子を持つというのです。つまり、エルサレムは、神の深い憐れみにより、かつての繁栄を取り戻すだけでなく、それ以上に豊かに繁栄するようになると言われるのです。

 

 主なる神は、続けて冒頭の言葉(2節)の通り、「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て」と命じられます。子どもが多くなり、その場所が必要だからです。

 

 51章2節に「あなたたちを産んだ母サラに目を注げ」と言われていましたが、サラは不妊の女と言われていました(創世記11章30節)。しかも、90歳という高齢となっていましたが、息子イサクを産みました(同21章1節以下)。アブラハムとサラは、生まれたイサクのために、テントを広げる必要があったでしょう。

 

 イサクとは、「笑い」という意味の名前です(創世記17章19節)。彼らははじめ、神の言葉が信じられず、ひそかに笑いました(同17章17節、18章12節)。それは、嘲りを込めた、しかし寂しく悲しい笑いでした。ところが、イサクが生まれたことで、彼らは心から喜び笑うことが出来たのです(同21章6節)。

 

 イザヤがこの預言を語ったとき、バビロンにいる捕囚の民は、喜び歌う気になれたでしょうか。エルサレムに戻り、広く場所をとる備えを始めたでしょうか。実際、気落ちしている者を励まし、立たせるのは、簡単なことではありません。イスラエルの人々がこの言葉で奮い立つことが出来たとすれば、それは、まさにこれが神の言葉だからであり、そこに聖霊の力が働いたからです。

 

 神は今、私たちにも、この言葉で語りかけられます。「天幕に場所を広く取り」とは、神様の御声に聴き従う心の大きさのことであり、それは即ち、私たちが神様をどれほど大きな存在と考えているかということでもあります。

 

 口では、天地万物を造り、その一切を御手の内に支配しておられる主と呼びながら、私たちの生活の中には、主のためにどれほどの場所も用意されていない状態、言い換えれば、現実の生活の中でどれほども主なる神に期待することがないという状態になってしまってはいないでしょうか。

 

 主は私たちに、小さくなれ、現実的になれと言われているのではなく、大きな者、繁栄する者となるように、主に期待し、主のための場所を拡大せよ言われるのです。それはまず、主を喜び祝うことから始まります。主を賛美するとき、私たちの中で主が拡大(magnify)されるのです。

 

 そうすると、恵みに満たされ、平安に満たされ、喜びが溢れ出てくるでしょう。そして、その喜びを分かち合いたくなるでしょう。そうして、私たちの生活の中に、主の恵みにある喜びを分かち合う場が拡げられていきます。そこに、さらに新しい人を迎えたくなるでしょう。かくて、霊的に、質的に、そして量的にも、豊かに拡大、成長させていただくことになるでしょう。 

 

 主を信じましょう。主に大いなることを期待して、感謝と賛美をささげましょう。

 

 主よ、私たちのあなたを信頼する心の杭を強固にしてください。主にあってビジョンの綱を長くすることが出来ますように。祝福され、恵みを受ける場所を広くすることが出来ますように。信じて祈る者の祈りに主が豊かに応えてくださると信じます。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン

 

 

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」 イザヤ書55章6節

 

 55章は、第二イザヤ(40~55章)の締めくくりの章です。「55章は真に福音的な章」と称する学者もあるほどに、重要な箇所ということが出来ます。

 

 冒頭に「ああ!」(ホーイ)という、嘆きや裁きの際に用いられる間投詞がありますが、新共同訳は訳出していません。ここでは、強く注意を促す「さあ」といった意味で用いられています。昨年出された『聖書協会共同訳』には、そのように表記されています。

 

 主なる神は先ず、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)と招かれます。それは、水や穀物、ぶどう酒も乳も、すべて主が無償でお与えくださる一方的な恵みだということです。

 

 続いて、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)と言います。異教の偶像への献金や、そのための労働を揶揄する言葉、また、エルサレムへの帰還を促す預言者の言葉に耳を貸さず、バビロンに留まろうとする者たちに、命の糧ならぬ地上の富、霊的な欠乏を満たすことの出来ない金のために労するのかと質す言葉です。

 

 さらに「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)と語ります。捕囚生活でも、水とパンは提供されたでしょう。しかし、イスラエルの民が生きるためには、彼らを活き活きと生かす心の栄養が必要だったのです。主は、御自分に聞き従うすべての者に、生きるために必要なすべてのものを豊かにお与えくださるというわけです。

 

 主イエスが荒れ野でサタンから、石をパンに変えて空腹を満たしたらどうかと試みられたとき(マタイ4章3節)、「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(同4節)と、申命記8章3節を引用しながら誘惑を退けられました。

 

 これは、霊的なものは神から、しかし空腹を満たすためにはパンが必要ということではありません。ここで主イエスは、御自分の体の欲求のために神の力を用いるようなことはなさいませんでした。イザヤと同様、必要なものはすべて、神が語られる御言葉によって与えられると言われたのです。

 

 それから、冒頭の預言者の言葉(6節)で「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」と命じ、すぐに「呼び求めよ、近くいますうちに」とたたみかけます。捕囚から解放され、改めて契約を結ぼうと言われる今、主が近くにおられ、見いだし得るときなのです。

 

 かつてイスラエルは、「主に信頼せよ」(30章15節参照)という預言者の言葉に耳を傾けず、異教の偶像に頼り、エジプトやバビロンを当てにして難局を乗り切ろうとした結果、主なる神の保護を受けることが出来なくなり、亡国の憂き目を見ることになりました。今改めて、「わたしのもとに来なさい」と招かれる主の言葉を聞き、悔い改めて主のもとに帰るために、機会を逃してはならないのです。

 

 8節に「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」と言われています。主なる神の思いと人の思い、主の道と人の道の隔絶が詠われています。それは特に、苦難の主の僕の歌に示されるとおり、人の想像をはるかに超えた方法で主は人をお救いになるということです。

 

 だから、人と主の思いが異なり、道が異なるのは当然なので、私たちは私たちの道を行くという話ではなくて、主なる神と私たちの思いが異なり、主の道と私たちの道が異なっているので、主の御心のうちに留まり、主と共に主の道を歩むために、主を尋ね求め、主に立ち帰れと言われているのです。

 

 牧師になる前、「わたしの考えとお前の考えは違う」という言葉を、直接耳で聞くように聞いたことがあります。ひらめいた言葉といってもよいのかもしれません。そのとき、それは当たり前で、自分と主なる神の考えが違うのは当然だと思いました。

 

 高校受験のときから牧師になることを目指していましたが、大学を卒業するころ、召しを感じられず、違う職業を選ばざるを得ませんでした。そのため、何かにつけて後ろめたさを覚えていました。そうして、いつしか聖書を読む楽しさを忘れ、祈る喜びも失っていたのです。だから、その言葉を耳にして、もう主の道を歩めないということかとさえ思いました。

 

 けれども、やがてその言葉は「お前は自分の夢を壊し、自分の計画とは違う道を歩んでいると思って落ち込んでいるかもしれないが、その道を歩ませることこそが主の御心、主のご計画なのだ」という意味ではないかと思えるようになったのです。

 

 主は、もう二度と主の道を歩ませないということで、そのように言われたのではありません。私たちがどこにいても、何をしていても、主は傍におられ、尋ねれば見出し、呼び求めれば答えてくださるのです。主の御言葉に信頼し、その道を歩み続けたとき、主は私に、主の御言葉の教師となるようにという使命を与え、その道に導いてくださいました。

 

 以来、主は分かれ道に立つ度に御言葉を示し、進むべき道を教えてくださいます。道を外れそうになっても、その都度、正しい道に呼び戻してくださいました。今あるは、実に神の恵みです(第一コリント書15章10節)。それ以外の何ものでもありません。

 

 これからも主を畏れ、日々その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みたいと願っています。

 

 主よ、今日もあなたの憐れみに支えられ、主の道を歩ませて頂いています。あなたに聞くこと梨に、その道を歩むことは出来ません。あなたの御言葉こそ、私たちの足の灯火、道を照らす命の光です。絶えず、御言葉の悟りを与えてください。真理に従って歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」 イザヤ書56章7節

 

 56章から66章までは第三イザヤと言われ、第二イザヤの弟子の筆とする学者がいます。預言の内容から、第三イザヤの活動期はバビロン捕囚からの解放後、エルサレムに第二神殿が建てられた紀元前520~515年頃ではないかと考えられています。

 

 というのは、第二イザヤと第三イザヤには、類似性があるものの、第三イザヤには、第二イザヤに見られなかった神殿礼拝への言及、祭儀への関心、安息日を守ることなどが出て来るからです。それは、エルサレムの神殿が再建され、神殿で祭儀が再開されたこと、捕囚期以来、安息日を守ることが民族のアイデンティティーとして大切にされて来たと考えられます。

 

 冒頭の言葉(7節)で「彼ら」と言われているのは、6節の「主のもとに集ってきた異邦人」のことです。3節前半に「主のもとに集ってきた異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と」と記されていました。つまり、主なる神が、ユダヤ人と異邦人の区別はないと言われたということになります。

 

 ということは、主の民であるか否かの区別は、いかなる血筋や民族に属する者であるかということで判別されるのではなく、その人が「正義を守り、恵みの業を行う」(1節)者であるか、また「安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人」(2節)かということで見極められるということです。

 

 詩編1編1,2節の「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」という言葉と同じ消息を表わしているでしょう。

 

 3節後半に「宦官も言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」とあり、続く4,5節で「宦官が、わたしの安息日を守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」と約束されています。

 

 こうして、「会衆に加わる資格」を定めた申命記23章2~9節(口語訳・新改訳は1~8節)の規定が廃棄されました。異邦人が主の民とされる条件が6節に「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を守るなら」と記されています。

 

 「わたしの契約を守る」というのが、旧約の律法をすべてきちんと守るということを意味するなら、それは、誰にも出来はしないでしょう(ローマ書3章20節参照)。主が深い憐れみをもって私たち異邦人をも主の民となるように招き、導いてくださるからこそ、「主に仕え、主の名を愛し、その僕となる」ことが私たちの喜びであり、幸いとなるのです。

 

 エフェソ書2章18~20節に「キリストによってわたしたち両方(ユダヤ人と異邦人)の者が一つに結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています」と言われていて、それは、イザヤが遠く待ち望んでいたことでしょう。

 

 主のもとに集ってきた異邦人が主の民とされることを、冒頭の言葉で「聖なる山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と語ります。「聖なる山」とは神の都エルサレムのことで、「わたしの祈りの家」はそこに建てられた神殿のことでしょう。

 

 主イエスが神殿の境内に入って商人たちを追い払われたとき(マルコ福音書11章15節以下)、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という7節の御言葉を引用されながら、祈りの家を強盗の巣にしてしまった(エレミヤ書7章11節参照)と言われました(マルコ11章17節)。それは、神殿を神への祈りをささげるという目的以外に利用しているということです。

 

 「祈りの家」とはしかし、建物のことだけではありません。祈りをささげる人々の集まりという意味でもあります。「祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」とは、祈りの家の一員になるということだからです。逆に言えば、私たちが祈るとき、決して一人で神の前にいるのではなく、神の家の喜びの祝いに連なっていることになるのです。

 

 私たちには、「すべての民の祈りの家」と言われるような、すべての民のために祈りの手を挙げること、また、すべての民と共に神の御前に祈りをささげる恵みと喜びに共に与るものとなることが期待され、求められています。

 

 ダビデは、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩編23編5節)と詠いました。神が共にいてくださる喜びと平安の表現です。箴言15章15節にも「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」と言われています。

 

 私たちと共にいて、私たちの祈りに絶えず耳を傾けてくださる主に信頼し、御言葉と祈りによる交わりをとおして、絶えず宴会の喜びに与らせて頂きましょう。

 

 主よ、どんな時にも私たちを祈りへ、主の御言葉へと導き、祈りの家の喜びの祝いに連なることができますように。祈りの交わりを広く外に向かって開くことが出来ますように。共に主に仕え、主の御名を愛します。私たちを主の僕として用いてください。御名が崇められますように。この地に御心が行われますように。 アーメン

 

 

「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」 イザヤ書57章15節

 

 57章は、前半13節までに、まじないや異教の偶像により頼む者に対する裁きの言葉が記され、後半14節以下には、へりくだり、心の砕かれた者への祝福の言葉が記されています。このように記されているということは、裁きか祝福か、どちらかを選びなさいということですし、当然のことながら、裁きではなく、祝福を受けなさいと勧めているわけです。

 

 こう語られる背景を考えると、少々暗澹たる思いになります。というのは、イスラエルがバビロン捕囚の憂き目を見たのは、神の命に背いて異教の偶像を祀り、呪いや口寄せに頼って、その怒りを買ったためだったからです。

 

 50年の奴隷の苦しみから解放され、帰国が許された民が、またもや、異教の偶像に依り頼み、占いや呪いを行っているのであれば、イスラエルを憐れみ、ペルシア王キュロスをたてて彼らを解放してくださった神の恵みが無駄になってしまいます。

 

 1節に「神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても、気づく者はない」とあります。ここで「神に従ったあの人」とは、「義人」(ハ・ツァッディーク:the righteous man)という言葉です。新共同訳は、第二イザヤのような預言者を指していると考えて、「神に従ったあの人」という訳語にしているのでしょう。

 

 また、「神の慈しみに生きる人」は、「愛の人々」(アヌシェー・ヘセド:岩波訳「愛の人」)になります。これは、第二イザヤの指導に従っていた人々のことかも知れません。新改訳は「誠実な人々」と訳しています。

 

 義人と呼ばれる預言者や、その指導に従う慈しみ深い誠実な人々がいなくなっても、誰も心にかけない、気づかない状況というのは、決してよいものであるはずがありません。だから、もう一度裁かれなければならないようなことになるのです。

 

 けれども、神に従い、神の慈しみに生きる人々には「平和が訪れる」、「真実に歩む人は横たわって憩う」(2節)と言われます。つまりそれは、悲惨な死を迎えながら、地が裁かれる前に神の平和の内に迎えられ、安らかに憩うことが出来るということでしょう。

 

 一方、神に従う者に聞かず、むしろ神の慈しみに生きる人々を苦しませた人々、異教の偶像に迷った人々に対して、主なる神は「わたしがとこしえに沈黙していると思って、わたしを畏れないのか」(11節)と言われ、「助けを求めて叫んでも、お前の偶像の一群はお前を救いはしない。風がそれらすべてを巻き上げ、一息でそれらを吹き去るであろう」(13節)と語られました。

 

 しかしそれは、イスラエルの民が神の前に罪を悔いて謙り、砕かれた心で神の前にひれ伏すことを、主が願っておられるということなのです。冒頭の言葉(15節)のとおり、主はこの世の罪から離れて、ひとり高く聖なる所に住んでおられますが、しかし、永遠のかなたにおられるというのではありません。「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり」(15節)と言われています。

 

 「(聖なる所に)住む」、「(共に)ある」は、いずれも「腰を下ろす、落ち着く、住む」(シャーカン)という言葉で、ここから「幕屋」(ミシュカン)という言葉が出来、また、後のユダヤ教にとって重要な用語となる「神の臨在」(シェキーナー)という言葉も生まれました。

 

 「高く聖なる所」に住まわれる主が、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人」のいるこの地に低く降って共に住まわれ、そこにご自身の臨在を現されるのです。パウロが、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」(フィリピ書2章6,7節)と記しています。

 

 ペトロも、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章6節)と言います。「自分を低くする」(タペイノオー)は、正確には「低くされなさい」(タペイノーセーテ:受動態、2人称複数形)という言葉です。神の力強い御手で押さえつけられなさいと言えばよいでしょうか。

 

 つまり、理不尽と思えるほどに低くされ、あるいは辱められ、苦しめられたとき、それを神の御手によるものと考えて身を任せなさいということです。続けて、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(同7節)と語っているのは、そのことでしょう。

 

 イスラエルが捕囚の辱め、苦しみを受けたのは、そのことによって謙り、心砕かれ手心の悔い改めに導かれるため、そして、主が彼らと共に住まわれ、彼らを高く引き上げ、神の栄光を見せてくださるためだということです。

 

 主は、「わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民の内の嘆く人々のために、わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす」(18,19節)と言われます。

 

 主の招きに応え、謙って御前に進みましょう。御言葉に耳を傾け、その恵みに与りましょう。御霊の導きに従い、御心を行うものとならせていただきましょう。 

 

 主よ、私たちは驕り高ぶる者であり、また神に背き、従わない者でした。それゆえに苦しみ、悲しみを味わうことがありました。然るに神は、私たちを憐れみ、恵みを味わわせてくださいました。今、あなたが私たちと共に住み、私たちの内にいてくださることを感謝します。絶えず御前に謙り、御言葉に耳の開かれた者としてください。目が開かれて、あなたの御業を拝させてください。私たちの体、生活、教会の交わりをとおして、主の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」 イザヤ書58章6,7節

 

 1節に「喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを、ヤコブの家に、その罪を告げよ」と言われます。「喉をからして叫べ」と言われるのは、国中にその声を響かせよということと、民が神に立ち帰るよう繰り返し叫ぶことが要求されているわけです。それは、民が預言者の声に素直に耳を傾ける状況ではないということではないでしょうか。

 

 イスラエルの民の「背き」とは、3節で民が神に向かって「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」と不満を述べたことで明らかにされたものです。自分の振る舞いを自ら義とし、神がそれを認めるようにと要求しているわけです。

 

 断食は一年に一度、7月10日の贖罪日、神の裁きを心に留め、悔い改める日に行うよう定められました(レビ記16章、23章27節以下参照、ここに「苦行」と記されているのが、断食のことです)。やがてこれに、エルサレムの陥落を悲しむ日や神殿の破壊を憶える日、総督ゲダルヤの死を悼む日などが加わって、年に4回、断食日が設けられることになりました(列王記下25章参照)。

 

 ゼカリヤ書7章5節に「五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか」という主の嘆きの言葉があります。繰り返される苦行、断食が、真に神を礼拝するためではなく、人々が自分の考え、自分たちのやり方で儀式を行い、願い事をして、それで神を礼拝し、断食したつもりになっているというのです。

 

 バビロン捕囚からの解放後、終末の到来への期待が起こり、苦難から解放される終末を熱望する気運が高まりました。それなのに、自分たちの期待する終末が訪れません。神はどうして期待に応えてくださらないのかという深刻な問いがそこにあったと思われます。エルサレムに戻って来た民の生活は以前苦しく、都の再建もままならないという状況が続いていたのです。

 

 それで、断食して主の到来を求めているのに、その労苦に目を留められないのは何故なのかというわけです。その答えを求めて苦行する機会が増え、なかなか答えが与えられないので、ますます熱心に断食が行われるようになったといってもよいのでしょう。

 

 それに対して、冒頭の言葉(6,7節)が語られています。神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そうでなければ、1節以下にいわれる罪の宣告を受けます。冒頭の言葉に対する対応が、祝福と呪いの分水嶺ということです。

 

 冒頭の言葉(6,7節)に告げられていることが神の選ばれる断食だということは、「ヤコブの家」(1節)、イスラエルの民が正義と公正の実現を切望し、かく尽力することが、主なる神のたっての望みだと示されます。 

 

 これはマタイ25章31節以下の、主イエスが最後の審判者としておいでになり、すべての民を、祝福に与る人と、呪いを受ける人に分けられるという記事を思い起こさせます。主イエスは、弱い人、助けを必要としている人への対応が、御自分に対する対応であり、それによってその人が裁かれると言われるのです(40,45節)。

 

 その上、主から祝福される者は、主に対してよい対応をしたとは考えておらず(同37節以下)、一方、主に呪われる者は、よい対応をしたつもりでいる(同41節以下)と語られました。

 

 神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そのことについて、8節には「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る」と記されていました。

 

 また11節では「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」と約束されています。

 

 光と水は、人が生きていく上で、欠かすことの出来ないものです。そして、ただその必要なものが与えられるというだけではなく、「あなたの光は曙のように射し出で」(8節)、「あなたは潤された園、水の涸れない泉」(11節)といわれるように、どの人から溢れ出て、隣人にその恵みを広げる祝福の源となるのです(創世記12章2,3節参照)。

 

 日々主を尋ね求め、主の道を知ろうと望みましょう。恵みの業(正義:ツェダカー)を行い、神の裁き(公正:ミシュパート)を捨てない民として、主の正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望みましょう(2節)。 

 

 主よ、私たちの内を御言葉の光で照らしてください。御言葉に癒しがあり、命があるからです。私たちに語りかけれらる御言葉を通して御心をわきまえ、神の望まれる業を行うものとならせてください。キリストを心の中心にお迎えします。聖霊の力を受け、主の福音を語り伝えさせてください。命の水が私たちの腹から川となって流れ出ますように。 アーメン

 

 

「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕、主を支えるのは主の恵みの御業。」 イザヤ書59章16節

 

 ペルシア王キュロスによって捕囚から解放され、意気揚々と帰国した民は、神殿再建や独立運動が遅々として進まないことに業を煮やし、「主の救いの手は短くて、自分たちには届かない」、「神の耳は遠くて、私たちの祈りが聞かれない」と嘆いていたのでしょう。

 

 58章3節の「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」という不満にも、それが表われていました。

 

 けれども、そのような嘆きに対して預言者は、「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1,2節)と語り、民の苦難の原因が、イスラエルの民の罪にあること、それによって救いが妨げられていることを示しています。

 

 これは、50章1節の「お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ」と、同2節の「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」という言葉を再解釈し、自分たちの罪を棚に上げて、苦難の原因を主なる神の所為にしようとする責任転嫁こそ、民の罪を如実に示すものだということです。

 

 預言者は、イスラエルの民を「お前たち」(2節以下)、「彼ら」(5節以下)と呼んで、その罪を指摘してきましたが、9節以下では「わたしたち」になります。これは、預言者がイスラエルの民の罪を自分自身のこととして言い表しているのです。

 

 預言者は、民と共に神の御前に立ち、「主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく」(13節)とその罪を告白して、ここに神の憐れみと赦しを請うているのです。

 

 主イエスが十字架の上で語られた最初の言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)でした。自分を殺そうとしている者のために赦しを父に請う祈りで、感動を禁じえません。とはいえ、ここで主イエスは私たち罪人のことを「彼ら」と呼び、ご自身とは区別しておられます。

 

 ところが、主イエスが息を引き取られる前に叫ばれたのは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、すなわち、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした(マルコ福音書15章34,37節)。つまり、民の罪をご自身の身に負われ、見捨てられたのは「彼ら」ではなく、「わたし」であると言い表しておられるのです。

 

 この主イエスの執り成しと贖いのゆえに、私たちは罪赦され、永遠の命が授けられ、神の子として天の御国に受け入れられる者としていただいたのです。

 

 このことが冒頭の言葉(16節)で、「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業」と語られています。いかに預言者といえども、神の御前に自らを義とすることは出来ません。程度の差はあれ、預言者もイスラエルの民も、罪ある存在であることに変わりはありません。

 

 ですから、主なる神は独り子キリストをこの世に送り、人の子として生まれさせ、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(第二コリント書5章21節)。即ち、この世に救いをもたらすのは、まさに「主の御腕の力であり、主の恵みの御業」以外の何ものでもないということです。

 

 使徒ペトロが議会で宗教指導者たちの取り調べを受けていたとき(使徒言行録4章1節以下)、ペトロが聖霊に満たされて「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(主イエスの)名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)と語っています。

 

 私たちも聖霊の力に満たされ、主イエスの証人として、キリストの福音を告げ知らせて参りましょう(同1章8節参照)。主イエスを信じる信仰以外に、私たちを救い得るものはありませんし、また、「主(イエス)を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ書10章11節)と信じるからです。

 

 罪を悔い改め、主なる神と新しい契約を結んだ者に、主の霊が上から注がれ、語るべき福音の言葉がは、私たちの口に授けられます(20,21節、ローマ書10章8節)。主を仰ぎ、主の細き御声に絶えず耳を傾けましょう。

 

 主よ、あなたは憐れみと慈しみに富み、私たちを贖う者として、御子イエスをこの世にお遣わしになられました。その偉大な救いの御業のゆえに御名を崇め、感謝と賛美をささげます。私たちを聖霊で満たし、主の福音を大胆に伝え、その恵みを感謝とともに証しすることが出来ますように。主の僕、その恵みの通りよき管として用いてください。 アーメン

 

 

「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」 イザヤ書60章1節

 

 60~62章は、第三イザヤと呼ばれる預言(56~66章)の中心的な部分を構成していると言われます。60章は59章20節の「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる」という言葉に導かれるかたちで、語り出されています。

 

 捕囚からエルサレムに帰還を果たしたイスラエルの民は、ペルシア王キュロスによる捕囚からの解放が、第二イザヤが告げていた預言を直ちに完成するものではないということを、思い知らされていました。それは、帰国の一年後に始められた神殿再建の働きが(エズラ記3章8節以下)、妨害に遭って中断を余儀なくされてしまうからです(同4章)。

 

 神殿再建もままならず、経済的にも大変厳しい状況の中で、私たちの断食は顧みられない(58章3節)、主の手は短い、主の耳は鈍い(59章1節参照)といった不満な思いが、イスラエルの民の間に蔓延していたのです。

 

 それに対して60章は、第二イザヤのメッセージを語り直し、強調するものとなっています。たとえば、4節の「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る」は、49章18節で「目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る」と告げられていました。

 

 また、16節後半の「こうして、あなたは知るようになる。主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者、ヤコブの力ある者であることを」も、49章26節で「すべて肉なる者は知るようになる。わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う、ヤコブの力ある者であることを」と語られていたものです。

 

 その救いの到来を、闇の中に現われる光として語っているのが、冒頭の言葉(1節)と、続く2節の言葉です。「闇」(ホーシェク)、「暗黒」(アラーフェル)は、無知や罪、不幸、破壊、死などを象徴する言葉です。

 

 闇の中に現われる光というイメージは、9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」、42章16節の「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする」にもあります。イザヤが一貫して語り継いでいるメッセージということが出来るでしょう。

 

 ただ、9章1節に告げられる「大いなる光」は、直前の8章23節に「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」と告げられているところから、アッシリアに滅ぼされた北イスラエルで輝くと言われているようです。

 

 冒頭の言葉で「起きよ」(クーミー)は、打ちひしがれ、うずくまっている人々が栄光の主に向かって目を上げ、立ち上がるよう促し、「光を放て」(オーリー)は、栄光に包まれている姿を人々に見せなさいということでしょう。ここに用いられている動詞は女性形であることから、「エルサレム」に向かって告げられています。

 

 これは、主イエスが、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか(マルコ4章21節)と語られた言葉を思い起こさせる表現です。しかし、どうしてうずくまっている人が立ち上がり、栄光を現すことが出来るのでしょうか。そういう希望も喜びもないので、うずくまっているのではないでしょうか。

 

 起き上がり、光を放つ力が、彼らの内にあるはずもありません。原典には、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」の前に、「キー」という単語があります。「キー」は、「なぜならば(because)」と訳される、理由や根拠を示す接続語です(聖書協会共同訳当該箇所参照)。

 

 「昇る」と訳されている言葉(ボー:「来る、行く」の意)も「輝く」という言葉(ザーラー:「太陽が昇る、照り輝く」の意)も、完了形動詞が用いられています。つまり、既にあなたの光はやって来た、既に主の栄光があなたを照らしているということです。それだから、立ち上がって、その輝かしい栄光に包まれたあなたの姿を、私たちに見せなさいというのです。

 

 光と栄光の組み合わせは、58章8節にもありました。闇に輝く光、主が闇の中にあるエルサレムに栄光を表されるというモティーフは、第三イザヤの主要なテーマといってよいでしょう。

 

 ただ、この預言は、直ちに実現したとは言い難いものです。イスラエルは、この後もペルシアの支配下に置かれ、次はギリシア、続いてシリア、それからローマの支配を受けることになります。1947年の国連決議(パレスティナ分割統治)に基づき、翌年、イスラエル国家が独立、誕生しますが、主の栄光とはほど遠い有様です。

 

 しかし、確かに主の栄光がエルサレムに訪れました。神の御子イエス・キリストの到来です。6節に「ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」とありますが、黄金、乳香、没薬を携えた占星術の学者たちが東の方かららくだに乗って、乳飲み子の主イエスのもとにやって来ました(マタイ2章1節以下、11節)。

 

 ヨハネ福音書1章のロゴス賛歌の中で、「言(ことば:ロゴス)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1章14節)と歌われています。

 

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(同4節)と告げられるとおり、ロゴスなる主イエスが人間を照らす光としてこの世に来られました。主イエスを通して、主の栄光が私たちの上に輝いているのです。私たちはその栄光を見ました(同14節)。

 

 パウロも「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第二コリント書4章6節)と語っています。

 

 ということは、「起きよ、光を放て」と私たちにも命じられているのです。信仰によって聖霊に満たされ(エフェソ5章18節)、その力を受けて主の証人として用いていただきましょう(使徒言行録1章8節)。

 

 主よ、あなたの豊かな憐れみによって、私たちはあなたの栄光に包まれています。聖霊の力を受けて立ち上がらせてください。世の光として、主の栄光を輝かせてください。多くの人々が主イエスへと集まり、その恵みと真理に与りますように。 アーメン

 

 

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人によい知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」 イザヤ書61章1節

 

 1~3節に、預言者の召命について記されています。それは、神殿の再建に着手したものの、すぐに行き詰まってしまい、意気消沈していたエルサレムの人々に希望を与えるためです。神殿再建が行き詰まったのは、エルサレムの状況が余りにも悪かったからです。その状況は、ハガイ書1章1~11節からうかがい知ることが出来ます。

 

 ハガイの預言から、エルサレムの人々の生活はあまりに貧しく、衣食住という基本的生活の確立に忙しくて、神殿建設にまでは、とても手が回らなくなっていたのです。その上、干ばつに襲われて不作となれば、神殿建築の事業はすぐにも頓挫してしまったことでしょう。

 

 そこで、冒頭の言葉(1節)のとおり、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた」と告げて、自分は、主から油が注がれて預言者として立てられ、主なる神の霊が自分を通して語っておられるというのです。

 

 ここで、原文を直訳すると、「主なるヤハウェの霊がわたしの上にある。というのは、主はわたしに油を注いだからだ」となります。前にも学んだように、「ヤハウェ(YHWH)」は通常「主(アドナイ)」と訳されますが、「主なる主」では日本語として可笑しいとして、「主なる神」という訳出されたようです。

 

 油注ぎについて、具体的には、先輩預言者から油を注がれて、預言者に任命されたというところでしょうか(列王記上19章16,19節、列王記下2章13,15節参照)。それを、主の霊が自分の上に降ったことによってオーソライズされたので、自分の油注ぎ、即ち預言者への任命は、主からのものだというのです。

 

 バプテスト教会では、ある人を牧師として任命するとき、先ず、その人を牧師として招聘するかどうか、総会を開いて協議します。その際、その人が神によって選び立てられた教職者であるのか、その人がその教会の牧師としてふさわしいかどうかを判断し、協議して結論を得るのです。

 

 その人が神に召されていること、また当該教会の牧師となることが神の御心、ご計画であることという、ある意味で証明不可能な個人的事柄を、教会の総会決議をもって承認しようというわけです。

 

 その際、その人物の人柄、教養、知識経験がいかに素晴らしいものであったとしも、それで、当該教会の牧師の職務が全うできるというものではありません。そして聖書は、神はあえて無学な者、無力な者、無に等しい者を選ばれると語ります(第一コリント書1章26節以下)。

 

 神がその人を召されたということは、その働きが神のためのものだということです。そしてそれは、神の導き、神の助けなしに、完遂することは出来ないということです。だから、その牧師の職務が主にあって全うされていくように、神の祝福と聖霊の導きを祈るのです。

 

 そのための儀式が按手礼です。そしてそれは、牧師個人のための儀式ではありません。牧師の職務が全うされるということは、当該教会の宣教活動と信徒相互交わりが豊かにされるということであり、それによって主なる神の栄光が表されるということです。その祝福と導きを祈るのは、教会の務めであり、責任です。それが、総会をもって牧師招聘を決議する意味です。

 

 10節に「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。云々」と記されています。これは、預言者がイスラエル全体を代表して、感謝の賛美を歌っているのです。ということは、イスラエル全体に主の霊の働きがあり、預言者が代表して油注ぎを受けたといってもよいでしょう。

 

 預言者が召されたのは、「貧しい人によい知らせを伝えさせるため」です。「貧しい人」(アナウィーム:複数形)は、単に経済的な貧しさだけでなく、惨めな状態に置かれている人、抑圧されている人をも意味するものでしょう。「打ち砕かれた心」、「捕らわれ人」、「つながれている人」など、負債を返せないために投獄され、奴隷のような状態にある者の労苦を示す言葉が、それを示します。

 

 冒頭の言葉(1節)の最後の行にある「解放」(ペカ・コーハ)という言葉は、「目を開くこと」という意味の言葉で、この箇所以外には出て来ません。その意味で、この「解放」は、暗闇に光が射すというような、精神的な苦痛から解き放たれることを暗示しています。

 

 ここに、当時のイスラエルの民が置かれていた状況を見ることが出来るようです。預言者は、失望落胆している民に、主の救いの計画が示し、希望を与えようとしているのです。

 

 主イエスがナザレの会堂でこの箇所(1~3節)を朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4章17節以下、21節)と語られました。これにより、主イエスが神から遣わされたメシアであり、主イエスの到来により、預言が実現したのだと告げておられるのです。

 

 主イエスの贖いの業によって救いの恵みに与った者として、私たちも、「主は救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花嫁の表に輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」と賛美させて頂きましょう。

 

 主よ、罪の闇の中にいた私たちを救いに導き、聖霊をあたえて賛美の心をまとわせてくださり、心から感謝します。日々主の御言葉に与り、その恵みを多くの人々に語り伝えるために立ち上がり、光を放つことが出来ますように。いつも全力を注いで、主の業に励む者としてください。御国が来ますように。御心がなされますように。 アーメン

 

 

「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」 イザヤ書62章1節

 

 62章も、エルサレムの回復がうたわれています。シオン、神の都エルサレムは、「捨てられた女」と呼ばれました。神の都としての栄光を失い、長い間「荒廃」したままだったからです(4節、60章14,15節)。しかし主は、失意落胆の中にいるイスラエルの民に呼びかけ、救いを約束されます。

 

 かつて、イスラエルの民はバビロンにおいて、捕囚として大変な苦難を味わいました。エルサレムの都から遠く離され、神殿は破壊されてしまいました。この苦しみから誰が解放してくれるのか。そもそも、バビロンの神マルドゥク(エレミヤ書50章2節)やネボ(イザヤ46章1節)は、イスラエルの神、主=ヤハウェに優っているのではないか。民はそのような嘆き、呻きの中にいました。

 

 そのような民に神の慰めの言葉を告げたのが、第二イザヤです(40章1節以下)。預言者は、バビロンの神々は人間が造ったもので、語ることも動くことも出来ず、薪として燃やしたとき、暖かさを与えてくれるだけのものと皮肉ります(44章9節以下)。そう語る背景に、バビロンの人々が捕囚の民を嘲り、おのが神を誇るということがあったのでしょう。

 

 その後、ペルシアがバビロンを倒し、イスラエルの民は帰国を果たします。それは彼らにとって、夢を見ているのではないかという出来事でした(詩編126編1節)。キュロス王が救い主、メシアに見えました(45章1節など)。けれども、帰国を果たすことが出来たものの、未だ約束の地は彼らに祝福をもたらしてはいません。むしろ、みすぼらしく貧しい生活を余儀なくされ、苦闘しています。

 

 かつて主は第二イザヤの召命記事で、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(42章2節)といい、また、捕囚の民の苦しみに寄り添い、癒すお方として御自分のことを、「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のように喘ぎ、激しく息を吸い、また息を吐く」(同14節)と言われていました。

 

 主なる神は、黙して語らない中に救いの業を進められるお方であることを示していたのです。しかし、帰還したイスラエルの民は、その沈黙を救いの徴とは見ることが出来ませんでした。むしろ、救いを求める民の声に神が応えられない、神は私たちを見捨てたのではないかという疑いが広がって来ました(64章9節以下、11節参照)。

 

 その声に応えるように語られているのが、冒頭の言葉(1節)です。預言者が、「彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」、つまり、神とイスラエルとの関係が正され、その救いが実現し、それを、諸国の人々が見るようになるまで、語り続けると言います。そこに、神の御言葉に対する預言者の確信があります。

 

 そのときシオン・エルサレムにあるイスラエルの民は、「捨てられた女」(アズバ:60章15節、54章6節参照。ヨシャファト王の母の名[列王記上22章42節])とは呼ばれず、「夫を持つもの」(ベウラー)と呼ばれます(4節)。イスラエルにとって、主なる神が、花嫁を守る花婿となってくださるのです。

 

 「荒廃」(シェマーマー)は、54章1節のように「不妊」を意味するものと解釈されます。また「望まれる者」(ヘフツィ・バハ)は、「わたしの喜びは彼女にある」という言葉で(口語訳、新改訳、岩波訳「わが望みは彼女に」。マナセ王の母の名[列王記下21章1節])、主がエルサレムとの関係を回復するのを喜びとされるということでしょう。

 

 さらに12節で「彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ、あなたは尋ね求められる女、捨てられることのない都と呼ばれる」と言われています。「聖なる民」は申命記7章6節、「贖われた者」は出エジプト記15章13節と、古い契約を思わせる用語で新しい関係が始まることを伺わせます。

 

 2節に「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれる」とあったとおり、それは、主なる神の一方的な恵みであることを示しています。

 

 黙示録21章2節に「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整え、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」とあります。同9節でも「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せて上げよう」と言い、それが、聖なる都エルサレムのことと、同10節に記されています。

 

 ヨハネ3章29節の洗礼者ヨハネの言葉と併せ、教会は聖なる都、新しいエルサレムのひな形といってよいでしょう。主なる神は私たちに救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせ、輝きの冠をかぶらせ、宝石で飾ってくださいます(61章10節)。

 

 見えるところでは、未だ困難の中かも知れません。神が沈黙しているとしか思えないかも知れません。、あるいは眠っておられるように見えるかも知れません(マルコ4章38節参照)。けれども、常に共にいてくださる主に平安を見出し、希望と喜びをお与えくださる主の恵みを、「口を閉ざさず」人々に告げ知らせていきたいと思います。

 

 主よ、御言葉と祈りを通して、常に主との親しい交わりにお導きくださり、有り難うございます。主の深い御心に触れ、心が主の平安で包まれます。聖霊に満たされ、力を受けて、その恵みを喜びと感謝をもって、人々に告げ知らせることが出来ますように。 アーメン

 

 

「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』、これは永遠の昔からあなたの御名です。」 イザヤ書63章16節

 

 イスラエルの民は、第二イザヤが預言していたとおり(40~55章)、紀元前538年に捕囚から解放され、帰国を果たすことが出来ました。けれども、民のエルサレムでの生活は貧しく厳しいものだったので、次第に明るい希望を見失っていきました。

 

 11節で「そのとき、主の民は思い起こした、昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか、その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか、聖なる霊を彼のうちにおかれた方は」というのは、エジプトを脱出して約束の地へと導いてくれたモーセのような指導者を、自分たちの上にもう一度立てて欲しいという願いが語られているのです。

 

 というのも、帰国後直ぐに神殿再建に取りかかりましたが、神殿再建を妨害する内外の敵の存在に加え(エズラ記4章参照)、干魃による飢饉などで生活自体がままならず(ハガイ書1章参照)、再建工事中断のやむなきに至ったからです。

 

 ネヘミヤ記1章3節に「城壁は破れ果て、城門は焼き払われたまま」という言葉があります。これは、ペルシア王アルタシャスタの治世第20年、即ち紀元前444年頃のことですが、バビロンによって破壊されたままというより(列王記下25章10節)、エズラ時代の神殿再建妨害時に再び破壊されたとする解釈もあります(エズラ記4章23節参照)。

 

 いずれにせよ、城壁、城門の破れを修復することが出来ずにいたわけです。そこで、「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮からご覧ください」(15節)と求めます。「輝かしく聖なる宮」とは、天の王宮のことです。

 

 エルサレムの神殿は未だ再建中で、完成を見ることが出来ていません。「間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています」(18,19節)と語られているからです。

 

 「天から見下ろし」、「聖なる宮からご覧ください」と求めているのは、神に見捨てられているように、さらに、忘れ去られてしまったとさえ感じているからではないでしょうか。だから、「どこにあるのですか。あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは抑えられていて、わたしに示されません」(15節)というのです。

 

 そのように求める根拠が、冒頭の言葉(16節)に示されます。預言者は、神を「父」と呼びます。「アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても」とは、イスラエルの父祖アブラハムに与えられた祝福の約束が忘れられ、見捨てられたように思えるということです。しかし、そこでなお、父なる神の憐れみを求めて祈るのです。

 

 また、「贖い主」(ゴーエール)とは、レビ記25章などで「買い戻す義務を持つ親戚」と訳されている言葉です。貧しくなって身売りした者を買い戻すのは、兄弟や叔父、従姉妹など、近親者の務めです(ルツ記2章20節、4章3節以下参照)。預言者は、神が近親者、特に父祖アブラハムに優る「父」として、イスラエルの民を苦しい生活から贖い出してくださるように求めているわけです。

 

 それにしても、「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにさせるのですか」(17節)とは、よく言ったものです。天地万物の創造者であられる神は、彼らが罪を犯すのも、そうしないように守るのも、神の神の御業だというわけです。

 

 そして、自分たちから目を離し、その存在を忘れたかのような扱いをしたからこうなったと、自分たちの罪を神になすりつけ、苦しみを味わっている責任を、神に転嫁しているとしか思えない言いようですね。勿論、それだから、自分たちがその罪の報いを受けることはないと考えているわけではありませんでした。

 

 そもそも、7節で「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を」と言っていました。「慈しみ」(ヘセド)も「栄誉」(テヒラー:「賛美」の意)も複数形で、何度も何度も神の恵みを受けたことを心に留めるということです。

 

 ということは、これまで、恩知らずにも、それを忘れていたということでしょう。そのことが、10節の「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた」というところに明示されています。

 

 そこで、「立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」(17節)と求め、「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(19節)と願っています。

 

 そして、主は「贖い主」として、自分たちの苦しみに目を留め、そこから贖い出してくれるように、そのために、天を裂いてくだっておいでくださるようにという祈りに応えてくださいました。神の独り子が私たちの罪を背負い、十字架に死んで、贖いの御業を完成せいてくださったのです。それゆえ、私たちは罪赦され、神の子として生きる恵みに与りました。

 

 主イエスが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と叫ばれ、息を引き取られたのは(同37節)、罪のない神の御子が私たち全人類のすべての罪を御自分の身に引き受けて、贖いの死を遂げてくださったしるしです(2コリント5章21節、1ペトロ2章22節以下)。

 

 常に贖い主なる主イエスを仰ぎ、その恵みに感謝しましょう。御言葉に耳を傾け、信仰に固く立たせていただきましょう。

 

 主よ、あなたの豊かな愛と憐れみのゆえに感謝します。これまで受けてきた数々の恵みの御業を心に留め、常に主を喜び、主に喜ばれる歩みが出来ますように。絶えず御言葉に耳を傾け、感謝をもって御心を行うものとなることが出来ますように。 アーメン

 

 

「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」 イザヤ書64章7節

 

 4節前半に「喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えてくださいます」と記されています。預言者がこのように語るのは、イスラエルの民が喜んで正しいことを行って来たからではありません。むしろ、神に背いて異教の偶像を慕い、神に信頼せず、エジプトの武力に依り頼んで、神を悲しませ、その怒りを招いて来たのです。

 

 4節後半で、「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです」という通りです。新共同訳は訳出していませんが、文頭に「見よ behold」(ヘン:強調詞)という言葉があります。1節以下ここまで語って来たことと、今彼らが置かれている状況に注目させる言葉です。

 

 その罪のゆえに、「聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、わたしたちの輝き、わたしたちの聖所、先祖があなた(神)を賛美したところは、火に焼かれ、わたしたちの慕うものは廃墟となった」(9,10節)のです。

 

 もしも、神が因果応報の原則に基づいて評価される方であれば、イスラエルの民は、捕囚の苦しみから解放されることを期待することも出来なかったでしょう。しかるに神は、「期待もしなかった恐るべき業と共に降られ」(2節)、ペルシア王キュロスを用いてイスラエルの民をバビロン捕囚の苦しみから解放し、故国イスラエルに戻れるようにしてくださいました(歴代誌下36章17節以下)。

 

 ただ、帰国を果たすことは出来たものの、エルサレムの都は破壊されたままに放置されていて、神殿や城壁・城門の再建もなかなか進みませんでした。そこで預言者は憐れみ深い主に向かい、神殿が火に焼かれ、廃墟となったままであるのに、「それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、わたしたちを苦しめられるのですか」(11節)と訴えます。

 

 前述の通り、バビロンからの帰国を果たせたのは、彼らが罪を悔い改め、喜んで正しいことを行っていたからではありません。同様に、帰国したイスラエルの民が、神の喜ばれることを行うようになっているから、預言者が神に助けを求めて訴えているということでもありません。

 

 5節で「わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった」というのは、過去のことではないでしょう。実際、そこに用いられている動詞は、未完了形です。つまり、その行為が今も続いていて、完了してはいないということです。

 

 預言者は、63章16節に続いて冒頭の言葉(7節)でも、主なる神を「我らの父」と呼び、その憐れみを求めます。主を父と呼ぶということは、自分たちが主の子どもであると自覚していることを意味します。子どもとして、親の助けを求めているわけです。

 

 このような表現は、預言者が神の憐れみを求めて祈ったのが、一度や二度ではないということを示しているようです。繰り返し何度も「アッバ、父よ」(ガラテヤ書4章6節)と神を呼びながら、その助けや導きを願ったことでしょう。

 

 主イエスは「神を畏れず人を人とも思わない裁判官とやもめ」のたとえ話(ルカ18章1節以下)を通して、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」(同1節)、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(同7,8節)と語られました。

 

 預言者はまた、「わたしたちは粘土、あなたは陶工」(7節)といいます。イスラエルの民と主なる神との関係を、粘土と陶工というイメージを用いて表す言葉は、45章9節にありました。

 

 20数年前、松山に住んでいた頃、贈り物にと湯飲みを砥部焼の陶工に依頼したことがあります。思いのほか時間がかかりました。思った色と形になるまで、何度も作っては壊し、壊しては作りしたのだそうです。だから、一組だけ作るのは、割に合わないと言われました。何も知らずに、ずいぶん無茶なお願いをしたものでした。

 

 ここに粘土と陶工のイメージを用いているのは、自分たちの味わっている苦しみを、自分たちをもう一度神の民として作り直すための陶工の手の業と考え、さらに子どもが親に全幅の信頼を置いているように、一切を神の御手に委ねるという信仰の表明でしょうか。

 

 それとも、一度高温の火で焼いた器は再び作り直すことは出来ず、強い力を加えたり、高いところから落としたりすれば、器は壊れ、砕けてしまうだけなので、自分たちが主の手によって作り出された作品であることを思い出し、苦しみから解放してくれるようにと願う言葉でしょうか。

 

 続く8節の「どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民であるわたしたちすべてに目を留めてくださるように」という言葉から、後者のように解釈すべきではないかと思われます。それは、ヨブ記10章9節で語られているところの状況とよく似ています。

 

 主が自分たちに目を留めてくだされば、また、自分たちが神の作品であり、神を「我らの父」と呼ぶ神の子らであることを思い出してくだされば、「熱情と力強い御業」、「たぎる思いと憐れみ」(63章15節)が自分たちに示されるでしょう。苦しみ呻いているわたしたちを見ながら、「黙して、わたしたちを苦しめられる」(11節)ことはないでしょう。

 

 「たぎる思い」は「はらわた、腸」(メーアイム)、「憐れみ」は「子宮、胎」(ラハミーム)という言葉です。父が、母が、我が子の苦しみを、はらわたの痛みとして覚えてくださるように、また、おなかを痛めて産んだ子どもとして覚えてくださるように、求めているのです。

 

 昨日も学んだとおり、父なる神は「贖い主」(63章16節:ゴーエール)として、イスラエルの民をその苦しみから贖い出してくださいました。それは、独り子イエス・キリストの命を代償として支払うという方法でなされました。

 

 十字架に苦しまれる我が子をご覧になる神の苦しみはいかほどだったでしょう。まさに、腸がちぎれる痛みだったでしょう。にも拘わらず、まさに主なる神は「ご自分を抑え、黙して」、我が子・主イエスを「苦しめられ」たのです。ここに、神の愛が示されます(第一ヨハネ4章9,10節)。

 

 愛と恵みの主に信頼し、御手の内にある土塊として、主の望まれるような者に作り替えていただきましょう。 

 

 陶器師なる主よ、私を憐れんでください。深い御憐れみをもって背きの罪を拭ってください。私たちの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。それ以外に、罪深い私たちが救われる道はないからです。御子イエスの贖いの業を感謝し、御名をほめ讃えます。主の恵みの証人として用いてください。 アーメン

 

 

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にものぼることはない。」 イザヤ書65章17節

 

 第二イザヤ(40~55章)は、「見よ、わたしは新しいことを行う」(43章19節、42章9節、48章6節参照)と語り、イスラエルの民の解放と帰還、繁栄の回復の希望を示しました。そして預言どおり、ペルシア王キュロスによって解放と帰還は果たされました。

 

 けれども、繁栄の回復や独立などは適いません。むしろ、貧しく苦しい生活の中で、イスラエルの民の間には、失望落胆が広がります。そこで、2節に「反逆の民、思いのままによくない道を歩く民」とあるように、再び異教の神々を頼ろうとする者が現れたのでしょう。

 

 3節の「屋根の上」は、「煉瓦の上」(アル・ハ・レベニーム)という言葉ですが(新改訳、岩波訳参照)、イスラエルの祭壇は石造りのときには自然石を用い(出エジプト記20章25節)、ソロモンの神殿は青銅製(列王記上8章64節、歴代誌下4章1節)ですから、レンガの祭壇はバビロンの宗教を思わせます(創世記11章3節参照)。

 

 4節の「墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし」は、死者の霊を呼び出し、霊媒を行うことであり(岩波訳脚注参照)、「豚の肉を食べ」は禁じられている食習慣ですから、イスラエルの民は、神に背いて、今なおバビロンにおける偶像礼拝の習慣に倣っているということを示しているようです。

 

 そこで、「見よ、わたしの前にそれは書き記されている。わたしは黙すことなく、必ず報いる」(6節)、「彼らの悪も先祖の悪も共に、と言われる」(7節)と告げ、その悪を裁かれます。しかしながら、あらためて「わたしの僕」と呼ぶ民を、彼らの中から選び出されます(9節)。選びの条件は明示されていません。

 

 主に背いて異教の神を拝む者は再び剣に渡され(11,12節)、そして、主の僕たちは、糧を得、酒に酔い、喜び楽しむことが出来ると言われます(13,14節)。裁きが語られるのは警告のためであり、主の御声に聴き従って、その祝福に与るように 、あらためて民を招いているのです。

 

 冒頭の言葉(17節)で言及されているのは、民族としての、即ちヤコブの末としてのイスラエルの民のことではありません。神はここで、「新しい天と新しい地を創造する」と言われているからです。

 

 第二イザヤが、出エジプトをモティーフとして、バビロン脱出を新しい神の国建設として語っているのに対して(43章16,17節)、第三イザヤは、天地創造物語になぞらえ、創世記1章27節と同じように、冒頭の言葉(17節)と続く18節に「創造する」(バーラー)という言葉を三つ重ね、神が新しい天地、新しいエルサレムを創造されると説いているのです。

 

 神は、新しいエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして創造するので、「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ」と言われます(18節)。それは、神がエルサレムを喜びとし、その民を楽しみとされるからです(19節)。「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」(19節)のは、神と民とが共に喜び、楽しむからなのです。

 

 主なる神が新しく創造される民の特色は、長寿であるということです。「若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者となる」(20節)と言われています。

 

 わが国の平均寿命は世界最高水準ですが、いまだ百歳に達してはいませんし、超高齢化社会の到来に、長寿を祝いつつもそれを祝福と受け止める空気は、残念ながらまだ生まれていません。そして、百歳に達していないから、「呪われた者」のように思えるということでもないはずです。

 

 もう一つのことは、「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない」(25節)と言われることです(11章6~8節も参照)。

 

 創世記1章30節に「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とありました。神が創造された獣は初め、すべて草食で、肉食獣などいなかったわけです。

 

 それが、ノアの洪水後のノアと神との契約の中で、「動いて命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(同9章3,4節)と語られて、人間に肉食が許されます。

 

 ゆえに、すべての動物は人の前に恐れ戦き(同2節)、噛み合い、殺し合うようになったわけです。それがここに、狼や獅子が草やわらを食べると言われているのは(25節)、天地創造のはじめ、主なる神が創造された最初の秩序が回復されるということになります。

 

 ただ、「蛇は塵を食べ物とし」と言われています。これは、女を唆して善悪の知識の木の実を食べさせた蛇を呪って、「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。おまえは、生涯這いまわり、塵を食らう」(創世記3章14節)と神が語られたところから、採られていると言ってよいでしょう。

 

 つまり、神の創造される新しい天と地は、狼や獅子に代表される強いものと、小羊や牛といった弱いものが共存共栄する世界だということであり、その新天新地において、神の僕とされた人は祝福を受けて過ごすことが出来るのですが、神に背くよう人を唆した蛇は、その呪いから逃れることは出来ないということでしょう。

 

 絶えず主の御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けつつ、祝福のうちを歩ませて頂きましょう。そうして、百歳までも健やかに主の御用を果たすことが出来る祝福を頂きましょう。

 

 主よ、あなたは背く民を招き、応えた者たちを僕として選び、御自分の民として祝福をお与えになります。それは、主の憐れみにほかなりません。迫害者であったパウロも、主の恵みによって、使徒・伝道者となりました。絶えず御声に耳を傾け、喜んで御言葉に聴き従います。御用のために用いてください。御心がなされますように。御国が来ますように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると、主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」 イザヤ書66章2節

 

 第三イザヤ(56~66章)が活動したのは、捕囚から戻ったイスラエルの民がエルサレムに第二神殿を建設したころだと言われます。ペルシア王キュロスによって解放され、意気揚々戻ってきた民を待ち受けていたのは、バビロンによって破壊され、荒れるにまかされていた、変わり果てた都の姿でした。つまり、国に戻れば、以前と同じ生活が出来るようになるというわけにはいかなかったのです。

 

 板張りのきちんとした家に住めたのは、ごくごく一部の者たちで、殆どは着の身着のままでとりあえず雨露を凌ぐといった貧しい生活環境でした。その上、外敵の侵入はある、旱魃による飢饉が襲うとなれば、神殿再建どころではない、城壁が築かれるのもいつになることやら、全く見当もつかなかったことでしょう。

 

 1節に「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか」と記されています。これは、神殿建設を促し、推し進めるための激励の言葉などではありません。人間が、神のお住まいになる神殿を建てることが出来るのか、いや、出来はしないと読めます。

 

 ソロモンが贅を尽くし、7年の歳月をかけてエルサレムに建てた神殿を神に奉献する儀式の中で、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上8章27節)という祈りをささげています。

 

 この言葉にしたがうとすれば、神殿を建てる必要などはないという結論になるでしょう。何しろ、「天が王座、地は足台」です。人が建てるどんな大きな建物も、天地万物を創られた神をお入れし、そこを安息の場として頂くというのは、全く不可能なことなのです。そうであれば、何のために神殿を建てたのでしょうか。神殿を建てたのは無駄なことだったというのでしょうか。

 

 ダビデが神殿を建てたいと願ったとき、主は、ダビデの子がわたしの名のための家を建てると言われました(サムエル記下7章10節、列王記上8章17節以下)。そして、ダビデの子ソロモンが神殿を建築し、祭具を神殿に納め、主の契約の箱を至聖所に安置したとき、主の栄光が神殿に満ちました(王上7章51節、8章1節以下、10,11節)。神がその神殿に現臨されたわけです。

 

 神殿は、主なる神に祈りをささげ、賛美を捧げて、神を礼拝する場所です。神が見られるのは、何をどれだけ捧げるかということよりも、どのような心で捧げるかということです。

 

 主イエスが、レプトン銅貨2枚を捧げた貧しいやもめの献金を、ほめられたことがあります(ルカ福音書21章1節以下)。1レプトンは1デナリオンの128分の1です。どんなに高く見積もっても100円に届きません。あるいは2レプトンで100円程度でしょうか。

 

 しかしながら、その女性にとって、それがその日の生活費の全部でした。それを献げてしまったあとの生活は、どうなったのでしょうか。そんな心配をすることもないほどに神に信頼し、あるいは神の恵みに感謝する思いが、その女性の心を満たしていたのです。

 

 神は冒頭の言葉(2節)の通り、「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」と、イザヤを通して語られました。「苦しむ人」は「貧しい、弱い、悩む」という言葉です。また、「霊の砕かれた人」は、「霊、心」が「悔いる、打ちひしがれる、踏みにじられる」という言葉です。

 

 これは、謙遜な人という意味ではないでしょう。神殿を再建したくても、城壁を築き直したくてもなし得ない、その力がない、日々の生活に追われ、苦しんでいる人々、敵に苦しめられ、自然災害に脅かされている人ということでしょう。だから、神が彼らを顧み、守ってくださらなければ、生きてはいけません。

 

 「わたしの言葉の前におののく」というのは、御言葉の真実、御言葉の力を知るということではないでしょうか。「お言葉ですからやってみましょう」と網を投げて大漁を目の当たりにしたペトロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5章8節)と主イエスを畏れて、その御前にひれ伏したという出来事に、それを見ることが出来ます。

 

 ペトロは、神の御前に恵みを受けるに値しない罪深い者であることを思い知らされたのです。そのように主イエスの前に恐れ戦いたペトロに主イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(同10節)と言われました。真の畏れを抱いたペトロに、新たな使命をお与えになったのです。

 

 ペトロが主イエスを主、神と畏れてひれ伏した姿勢こそ、神の喜ばれる真の礼拝だったということでしょう。そのような思いで主とその御言葉に信頼し、自分の持てる2レプトンを精一杯捧げるとき、ソロモンも及ぶことのできない、神ご自身の建ててくださる神殿、神を礼拝するすべての民の祈りの家が、固く打ち建てられるのではないでしょうか。

 

 主の御言葉に日々耳を傾け、恐れ戦いてその実現を祈り求め、主の栄光を洗わす器として用いていただきましょう。

 

 主よ、あなたは恵みと慈しみに富み、私たちの必要を豊かに満たしてくださいます。感謝と喜びをもって、私たちのレプトン2枚を精一杯ささげます。御心のままにお用いください。そして、栄光を現してください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設