第一テサロニケ書

 

 

4月26日(水) 第一テサロニケ書1章

 

「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」 テサロニケの信徒への手紙一1章6,7節

 

 今日から第一テサロニケ書を読みます。本書は、パウロによって紀元50年頃に記されました(1節)。福音書(紀元70年前後)などよりも早く、新約聖書の中で、最も早く執筆されたと考えられています。

 

 テサロニケの教会は、フィリピ教会と同様、パウロの第二回伝道旅行のときに、その伝道の働きによって紀元49年頃築かれました(使徒言行録17章)。テサロニケは当時、人口12万を数え、マケドニア州の州都として隆盛期を迎えていました。現在は、40万ほどの人口があるそうです。マケドニアがあれば、カチドニアがあるのかと尋ねるのは、単なるダジャレの世界です。

 

 使徒言行録の記事によれば、パウロのテサロニケにおける伝道は短期間でしたが、教会の基礎はしっかりと築かれたようです。けれども、そうして教会が築かれると、それを妨害する働きもあらわになります。その活躍を妬んで暴動が起こり、町が混乱に陥りました。パウロたちの身に危険が及んだので、やむなくテサロニケを後にして、次の宣教地ベレアに向かいました。

 

 しかしながら、テサロニケには生まれたばかりの教会があります。迫害の中に残された信徒たちが心配です。そこで、パウロはアテネからテモテを遣わします(第一テサロニケ書3章1節以下)。彼らが苦難の中でも動揺せず、信仰を守るように励ますためでした。

 

 アテネとテサロニケは、徒歩で数週間という距離です。テサロニケで活動する時間を考えれば、テモテがアテネからテサロニケに行き、パウロの元に戻ってくるまでには、2ヶ月以上かかったことでしょう。テモテが戻ってくるときには、パウロはコリントに移動していました(使徒言行録18章1,5節参照)。

 

 戻ってきたテモテの報告を聞いて、パウロは飛び上がるほど嬉しかったことでしょう。それは、彼らの信仰と愛について、「うれしい知らせ」(原文では「福音を告げ知らせる:エウアンゲリゾマイ」という言葉が用いられています)がもたらされたからです(第一テサロニケ書3章6節以下)。それは、彼らがあらゆる困難と苦難に直面しながらも、しっかりと主を信じて歩んでいるというものでした。

 

 それで、嬉しくなって記したのが、この手紙なのです。ですから、この手紙を読みますと、パウロの喜びと感謝が伝わってきます。この手紙の主題は「感謝」の二文字に尽きると言ってよいかも知れません。

 

 2節に「神に感謝しています」という言葉が出て来ます。このところを原文で読むと、2節から5節までは一つの文章です。そして「感謝しています」(エウカリステオー)が、長い文章の述語動詞なのです。そして、6節以下も、パウロの感謝の内容が記されていると言ってよく、1章全体が「感謝する」という言葉の内容説明になっているわけです。

 

 そればかりか、3章9節までこの感謝が続いていると見ることも出来ます。そして、5章18節では、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めの言葉が記されています。この手紙の主題は「感謝」という二文字に尽きるというのは、そうした内容だからです。

 

 パウロは、「祈りの度に、あなたがた」(2節)、即ちテサロニケの人々のことを思い起こしてと記しています。つまり、パウロは、祈りのときに、一人で神の前に立っているわけではないということです。祈りの時に、一緒に立っている信仰の仲間がいたわけです。

 

 一緒にいる仲間のことをいつも思う、祈りの度に、一人で神の前に立ち、一人で訴えているというのではなくて、祈りの仲間がわんさといる、その仲間の中にテサロニケの人々もいる、彼らのことを思うと、感謝の思いが溢れて来るというのです。

 

 このパウロの祈りの心を学びたいと思います。祈りの時に、誰と一緒に神の御前に立っているのでしょうか。一人で神の前に立ち、一人で祈っていると考えているのは、まだまだ信仰が序の口ではないかと考えさせられました。信仰の初歩を後にして、成長していくために、祈りについても大切なことを学び、身につけなければならない、それは、祈るとき、私たちは決してひとりではないということです。

 

 そのような感謝の思いのうちに冒頭の言葉(6,7節)が記されています。「あなたがたは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(6節)というのは、とても不思議な言葉です。ひどい苦しみを受けているのに、喜びをもって御言葉を受け入れているというのです。

 

 苦しみに遭うのはいやです。信仰に入ったために苦しみを味わうという事態に追い込まれたテサロニケの信徒たちは、そこで信仰を捨てるどころか、むしろ「聖霊による喜び」に満たされました。どういう心境なのでしょうか。よく分かりませんが、それが神が彼らの中で働いているという証拠です。

 

 4節に「神に愛されている兄弟たち」と言い、そして、「あなたがたが神に選ばれたことを、わたしたちは知っています」と語っています。テサロニケの人々、即ち異邦人を「神に選ばれている」と言っているのです。

 

 それは、ユダヤ人たちが拒絶したキリストの福音を、ひどい苦しみを受けながらも、聖霊による喜びをもって受け入れたからです。それこそ、神に愛され、選ばれた者であるしるしだと語っているわけです。ということは、ここにいる私たちも、キリストの福音を受け入れることが出来たということは、神に愛され、神に選ばれた者であるということになります。

 

 テサロニケの人々は、御言葉を受け入れて喜んだでおしまいではありません。彼らは、「パウロに倣う者となり、そして主に倣う者となった」(6節)というのです。「倣う」というのはミメーテースという言葉ですが、ここから、ラテン語のイミタチオ、英語でイミテーションという言葉が出来ました。

 

 イミテーションと言えば、偽物、まがい物という意味に用いられるところがあります。けれども、なぜイミテーションが造られたのかと考えると、それは、本物は素晴らしい価値をもっているからです。それを何とか再現したい、近づけたいと考えて、造られたわけです。

 

 パウロが語った福音、イエス・キリストの福音が素晴らしいので、テサロニケの人々はパウロの真似をしようとしたわけです。つまり、彼らはパウロが自分たちに伝えてくれた御言葉をしっかりと覚え、身につけて、今度はそれを、他の人々に対して宣べ伝えるようになっていったのです。

 

 パウロは、第一コリント書11章1節にも、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と記しています。パウロを手本にすることが、キリストに倣うことなのです。

 

 それは、完全無欠の立派な生活をするということではありません。立派な生活をしているから、「倣いなさい」と言っているわけではありません。むしろ、欠点だらけの自分をキリストが愛してくださり、使徒として選んでくださった。その神の恵みに感謝して生きている、そのところで自分に倣う者になってほしいと思っています。

 

 どうすれば、神の恵みに感謝する生活をすることが出来るか、その恵みを回りにいる多くの人々に伝えることが出来るかということをいつも考え、キリストに従って生きようと努力している、そういう生活を真似てほしいとパウロは考えているわけです。ということなら、私たちも同じように、「私に倣いなさい」と言うことが出来ますし、そう言える生活をしなければならないと思います。

 

 テサロニケの人々は、パウロが語る御言葉を受け入れ、さらに、パウロを真似て神の御言葉を語るようになりました(7,8節参照)。それは、言葉だけによらず、生活を通して、そのような生き方で伝えたのです(8~10節、5節も参照)。

 

 それで、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡った」と言われているわけです(8節)。「響き渡る」とは、山彦、エコーという言葉です。彼らがどのように神を信じるようになったのか、至るところで証ししたのです。そして、その言葉が信徒たちだけでなく、他の人々の口に上るほどの噂になって行ったということです。

 

 日本の至るところで、神の恵みに感謝する声が響き渡るように祈ります。神を賛美する声が響き渡るようにと願います。私たちが日々、御言葉の恵みに与りながら、神の御前に信仰の輩と一緒に祈れる恵みに感謝しながら生活することを通して、信仰が至るところに宣べ伝えられ、主の御言葉が響き渡るように、そのような信仰の生活の模範になることが出来るようにと、祈りつつ励んでまいりましょう。

 

 主よ、神に愛され、選ばれたテサロニケの人々がパウロに倣い、主に倣う者となって、主の言葉がマケドニア州とアカイア州、ギリシアの国中に響き渡り、彼らの信仰が至るところで語り伝えられたように、私たちも神に愛され、選ばれた者としてパウロに倣い、主に倣うものとしてください。この地域に、そして日本中に福音が響き渡りますように。 アーメン

 

 

4月27日(木) 第一テサロニケ書2章

 

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」 テサロニケの信徒への手紙一2章13節

 

 冒頭の言葉(13節)の「このようなわけで、わたしたちは絶えず」という言葉ですが、原文を正確に訳すと、「このようなわけで、わたしたちもまた、絶えず」となります。「わたしたちもまた」とは、テサロニケの人々が神に感謝しているということが言外に言い表されていると考えられますが、1章2節で語った感謝に続いて、もう一度感謝を語っているということもあるでしょう。

 

 1章3節では、テサロニケの人々が信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐していることを感謝すると言っていました。そこに、「信仰」と「愛」と「希望」という三つの言葉が出て来ます。これは、第一コリント書13章13節の「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という大変大事な言葉を思い出させます。

 

 信仰、希望、愛、この三つは、聖霊なる神が与える賜物です。そして、その中で最も大いなる賜物は愛であると教えられていました。

 

 この信仰、希望、愛という賜物が、設立されたばかりでまだ基礎が固まったとも思えなかったテサロニケの教会に既に与えられています。彼らは、その信仰によって働き、愛のために労苦し、そして与えられた希望のゆえに迫害を忍耐しているのです。その様子をテモテから聞かされて、パウロは感謝しているのです。

 

 その感謝をささげた後、パウロはまた新たな感謝をささげます。その感謝の理由は、テサロニケの人々がパウロの語った福音のメッセージを神の言葉として受け入れたことです。これは、1章6節でも「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」と記しているとおりです。

 

 テサロニケの人々が御言葉を受け入れたのは、パウロの説教が分かりやすかったとか、上手だったというのではなくて、聖霊なる神の働きです。人々が神の言葉を受け入れ、その御言葉に従って信仰に生きるように導くことが使徒パウロの使命です。そのために命がけで働いているのです。

 

 しかし、真剣に働きさえすれば、伝道できるというものでもありません。そもそも、第二回伝道旅行でテサロニケに来る予定はありませんでした。彼らはアジア州、ビティニア州を回るつもりでした。ところが、そこでの伝道を聖霊に禁じられたと使徒言行録に記してあります(16章6節以下)。それは、アジア州とビティニア州で伝道がうまくいかなかったということだろうと想像します。

 

 それで、これからどうしようかと導きを祈っていたら、マケドニアに渡って行けと示されたというところでしょう。その導きに従ってテサロニケにやって来たわけですが、そんなパウロの説教をテサロニケの人々が聞いてくれたということ自体が、聖霊の導きです。そして、その説教で彼らが御言葉を受け入れ、主イエスを信じました。ですから、彼は神に感謝せずにはおれないのです。

 

 これは、説教者ならば、誰もが経験するところです。イエス様を信じてほしいと思って、一所懸命説教の準備をします。けれども、願いに反して人々の反応は芳しくない、自分でも、自分の説教がうまく語れたとは思えず、落胆して講壇を降りることがあります。そして、そういうことが少なくありません。

 

 それなのに、主イエスを信じたいという人々が出て来ます。そのたびに、これは神様だ、神様が働かれたんだと思います。そして、そのような拙い説教を神が用いてくださったと思うと、ただ感謝するほかありません。

 

 パウロはここで、感謝の理由として、驚くべき表現を用いています。それは、彼らがパウロの説教を、「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と語った後、「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」と記していることです。

 

 それは、パウロが語る言葉が、すべて神の言葉であるということではありません。だいいち、パウロは人間です。人間が神の言葉を語るのは、不可能なことです。けれども、テサロニケの人々は、パウロの説教を神の言葉として聞いたのです。

 

 ここには、パウロ自身の喜びと申しますか、驚きが表現されているのではないかと思います。自分の語る言葉を神の言葉として聴いてくれる、そして、その言葉が彼らの内にあって神の力となって働いていることが分かったというわけです。

 

 パウロが語っているのは、彼自身が聞いて受け入れた福音です(第一コリント書15章3~5節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」)。

 

 パウロが受け入れた福音が彼のうちに働き、彼を使徒として立たせました。つまり、パウロ自身にとっても、聞いたのは人間の言葉ではなく、神の言葉だったのです。それで、パウロはテサロニケで神の福音を宣べ伝えました。そしてテサロニケの人々は、その説教を神の言葉として聞いたというわけです。

 

 神の言葉には力があり、暗闇に光を生じさせ、病を癒し、悪霊を追放し、嵐を凪に、死者に命を与え、存在していないものを呼び出すことが出来ます。

 

 テサロニケの人々は、主イエスを見たことがありません。主イエスから教えを受けたこともありません。お会いして教えを聞くことはおろか、見たこともないお方を、彼らは喜びをもって受け入れたのです。そして彼らは、パウロたち一行がベレアへ去ってから後も、迫害の中で信仰を保ち、福音を広めようとしていたのです(14節)。

 

 彼らが聞いたパウロの説教が、神の言葉として現に彼らの中に働いているとパウロが語っているのは、そのことでしょう。

 

 パウロの聞いた福音が神の言葉だから、パウロを迫害者から伝道者に作り変えました。そして、パウロの語る福音が神の言葉だから、テサロニケの人々がそれを受け入れ、彼らもパウロに倣い、そして主イエスに倣う者となったのです。

 

 神の御言葉が語られ、それを神の御言葉として聞かれるところで、福音宣教の連鎖が起きるのです。それは、語られている福音が、事実、力ある神の御言葉だからです。聖霊の導きによって語られる福音のメッセージを、神が、神の言葉として人々の心に届けて下さり、御言葉を通して神の力が働くようにされるというわけです。

 

 ローマの信徒への手紙10章17節に、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」という言葉がありますが、キリストの言葉が私たちに信仰を与えるということです。すべてを主に委ね、御言葉に従って参りましょう。

 

 日毎、主なる神のみ顔を慕い求め、御言葉を聴かせてくださいと求めましょう。主を信じ、御言葉を信じましょう。そして、パウロのごとく、テサロニケの教会の人々のごとく、主に従って歩みましょう。福音を宣べ伝えましょう。神の愛を喜びをもって証ししましょう。

 

 主よ、御言葉を受け入れ、神の力を頂いて御言葉を語るようになった人々の働きにより、私たちも神の御言葉を聞くようになりました。その言葉を神の言葉と信じて受け入れることが出来ました。私たちの中でも御言葉が神の言葉として働いています。聖霊に満たされ、その力を受けてキリストの福音を語り伝える者となることが出来ますように。御名を崇めさせ給え。御国を来たらせ給え。 アーメン

 

 

4月28日(金) 第一テサロニケ書3章

 

「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」 テサロニケの信徒への手紙一3章9節

 

 迫害のゆえにテサロニケを去ったパウロは(使徒言行録17章5節以下、10節)、後に残した教会が心配で、若い伝道者のテモテを派遣しました。使徒言行録では、パウロはシラスとテモテをベレアに残したことになっていますが(同14節)、テモテはそのとき、パウロの命を受けてテサロニケに戻ったのでしょう。

 

 それは、「あなたがた(テサロニケの信徒たち)を励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするため」(1節)です。テサロニケからコリントまで、当時の交通事情で数週間かかったということですから、往復の時間、そしてテサロニケ滞在期間を考えると、旅は2ヶ月以上になったでしょう。

 

 当初、パウロはアテネで二人が戻って来るのを待っていましたが(使徒言行録17章16節)、二人が戻って来たのは、パウロがアテネを去ってコリントで伝道を始めてからでした(同18章5節)。だから、パウロは鶴のように、キリンのように首を長くして、テモテたちが戻って来るのを待っていたことでしょう。迫害下のテサロニケ教会の様子を早く知りたかったからです。

 

 そうした事情がここに記されていることを、少々意地悪な注解者は、テモテの働きはあまりうまくいかなかったんじゃないかと言います。この手紙は、テモテがもたらしたニュースを聞いて喜んだパウロが、さらに教会を励ますために書いたものです。テモテが派遣された理由が、わざわざここに書かれる必要はないでしょう。それが書かれているのは、不首尾だったからだというわけです。

 

 確かに、人の苦労を慰め、励ますというのは、若者にとって易しいことではないかも知れません。お前に何が分かると言われると、口を閉ざさざるを得ません。神様の慰めがありますようにと語り、祈るというのが精一杯です。それは年をとってもそうですが、苦労を経験している分、同情が出来るというか共感が出来るというものですね。

 

 パウロがテモテを「わたしの兄弟、キリストのために働く神の協力者」とあらためて紹介しながら、苦難に遭っても誰一人動揺することのないように、彼を派遣したんだと執り成しつつ語っています。

 

 3節に「わたしたちが苦難を受けるように定められている」という言葉があります。パウロはなぜこのように語っているのでしょうか。クリスチャンは苦しむことになっているという一般論的な表現でしょうか。確かに、主イエスが苦しまれたから、弟子も苦しみを受けるということはあります。しかし、それ以上のことがあると思います。

 

 パウロは主イエスに、苦しみの伴う使命を受けました。使徒言行録9章16節に「わたし(イエス)の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼(パウロ)に示そう」とあります。パウロが使徒として選ばれたときの、主がパウロへの使者として遣わすアナニアに語った言葉です。パウロが使徒として指名されたとき、それゆえに苦しむことも受け入れたわけです。

 

 しかし、パウロは受ける苦しみをじっと我慢しているというわけではありません。そこには深い喜びがあります。その苦しみが主イエスの十字架とつながっていると感じられること、そして、その苦しみを通って復活の恵みに直結されていると信じられることです。

 

 神は確かに、万事を益としてくださいます(ローマ書8章28節)。ゆえにパウロは、苦難をも誇りとすると語ることが出来ました(同5章3節)。

 

 主イエスも山上の説教(マタイ福音書5~7章)の冒頭で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(同5章11,12節)という祝福を語ってくださいました。

 

 やがて、テモテが戻って来て、嬉しい知らせを伝えました(6節)。それは、彼らが信仰に立ち、しっかりと主に結ばれていたからです(7,8節)。パウロはそのとき、アテネからコリントに伝道の場所を移していました。

 

 パウロがコリントで伝道を始めたとき、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(第一コリント書2章3節)。なぜそんな状態になっているのか、具体的な理由は分かりませんが、一つには、テサロニケに遣わしたテモテや、ベレアに残してきたシラスのことが気になっていたのでしょう。そしてまた、コリントの伝道がなかなか困難であったのではないかとも想像されます。

 

 しかし、シラスとテモテがマケドニア州から到着すると、「パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証し」(使徒言行録18章5節)しました。それは、テモテによってもたらされた「うれしい知らせ」(原文では「福音を告げ知らせる」という言葉が用いられています)がパウロを大いに喜ばせ、励ましたからです。

 

 アラビアのことわざに、「日光ばかりは砂漠を作る」という言葉があるそうです。私たちは皆、太陽の光を喜びます。晴れていることをよい天気と言い、雨が降ることを天気が悪いという言い方をします。しかし、雨が降らなければ、生命を育むことが出来ません。

 

 困難が身に及ぶことを好む人はいないでしょう。しかし、私たちの人格、品性は、困難によって練り鍛えられます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ書5章3,4節)と言われるとおりです。それは、困難にあうとき、人は謙遜にされ、忍耐を学ぶからです。そして、神に助けを求め、傍近くに共におられる主イエスを見出し、御手の業に与るからです。

 

 パウロはこのとき、自分自身よりもむしろ、テサロニケの信徒たちの困難な状況に心痛めていたのでしょうけれども、彼らの信仰によってかえって励まされるという恵みを味わいました(7節)。彼らに信仰を与えたのは自分だという自負心がなかったとは思いませんが、しかし、彼らが信仰に堅く立っているのは、神の恵みであることを、誰よりもパウロ自身が知っていることです。

 

 それがどれほどの喜びであったかが、冒頭の言葉(9節)に窺えます。「感謝」(エウカリスティア)は、「恵み」(カリス)に対する応答に他なりません。「ささげる」の原語は「アンタポディドーミ」で、これは、「アンティ」と「アポ」「ディドーミ」の合成語です。

 

 「アポ」は「~から」という前置詞、「ディドーミ」が「与える」という動詞で、この二つが組み合わさると、「返す、支払う」という意味になります。そして、「アンティ」は「~の代わりに」という前置詞です。合わせると、「代わりに返す、返礼する」という意味になります。恵みを与えられた者として、喜びあふれて感謝の返礼をせずにはおれないということです。

 

 パウロはテモテの報告を受けて、コリントの伝道に専念し、キリストを力強く証ししました(使徒言行録18章5節)。そこにも神の恵みが働いていることを、あらためて知らされたからでしょう。そして、そうすることこそ、恵みを無駄にしないというパウロの(第一コリント書15章10節)、神への感謝の返礼ということなのです。

 

 私たちも主の恵みに与っている者として、主イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(ヘブライ書13章15節)。それを神がお喜びになるからです(同16節)。

 

 主よ、どうか私たちをお互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように。そして、私たちの主イエスが御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、私たちの心を強め、私たちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように。 アーメン

 

 

4月29日(土) 第一テサロニケ書4章

 

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」 テサロニケの信徒への手紙一4章14節

 

 4章から第二部に入り、現在の問題についての勧めが語られます。最初に、「主イエスに結ばれた者としてわたしたちはさらに願い、また勧めます」(1節)と言います。「主イエスに結ばれた者として」は「主イエスにおいて」(エン・キュリオー・イエスー:in the Lord Jesus)という言葉です。

 

 「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」(1節)で「学びました」は「受け入れた」(パラランバノー:receive)という言葉です。パウロも、キリストの福音を使徒たちから受け取りました(第一コリント書15章3節)。それをテサロニケの人々に伝えました。キリストの福音が次々に手渡されていきます。

 

 「その歩みを今後もさらに続けてください」(1節)は、原文では「あなたがたがもっと豊かになるために」(ヒナ・ペリッセウエーテ・マーロン:so that you should abound more and more)です。主イエスにあって受け入れた福音に歩むのは、神に喜ばれる生活において豊かになるため、神に喜ばれる生活をさらに豊かに歩むためということです。

 

 神に喜ばれる生活とは、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働く」(11節)ことです。当時は、労働を悪のように考え、働かずに暮らせる豊かさを持つことが名誉とされるところがありました。それに対して、ストア哲学の影響で他人の労働をあてにせずに自ら働くことを高く評価する気風が一般大衆の間に生まれてきていました。

 

 パウロはしかし、そのような気風に倣うことなど、人の評判を考えてそのように語っているのではありません。キリストは自ら、仕えられるためではなく仕えるために、愛されるためではなく愛するために、この世に来られました。キリストに従う者は、キリストに倣い、進んで奉仕する者になるべきことを教えているのです。

 

 「落ち着いた生活」を語った後、13節に「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言います。「眠りにつく」とは亡くなることです。亡くなった者のことで嘆き悲しんで、希望を持たないほかの人のようにならないようにとパウロが願っているわけです。

 

 勿論、亡くなった者のために嘆き悲しんではならないということではありません。どんなに嘆き悲しんでも、悲しみ過ぎるということはありません。そういう感情を持ってはいけないと言っているわけではないのです。そうではなく、私たちには、死者のことで嘆き悲しみ、希望を失うことがないようにと語っているわけです。

 

 1章3節に、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」と記されていました。

 

 ここに、信仰、愛、希望という、永遠に続く神の賜物が登場してきます。そして、ここに「希望」という賜物が既にテサロニケの人々に与えられていることが明言されています。その希望は、私たちの願望などではありません。イエス・キリストに対する希望です。

 

 イエス・キリストに対して希望を抱いているテサロニケの人々が、眠りについた人たちのことで、希望を失ってただ嘆き悲しむだけの者となるとは考えられないことです。冒頭の言葉(14節)は、その根拠を示すものです。

 

 「イエスを信じて眠りについた人たち」のことを語っているのは、まさにここがテサロニケの人々の関心事だったからでしょう。パウロは15節で「主が来られる日まで生き残るわたしたちが」と記しています。主の再臨が間近くて、その日まで自分たちは生き残っていると考えていたわけです。ところが、主の再臨を待たずして召される信仰の友が出て来ました。

 

 それは迫害による殉教でしょうか。あるいは病気で亡くなるということでしょうか。それ以外の死因もあり得ますけれども、いずれにせよ、信仰を持ちながら亡くなった者たちはどうなるのかということが問題になっているわけです。

 

 その問いに答えるために、冒頭の言葉(14節)を告げているのです。ここで「イエスを信じて」は「イエスによって」(ディア・トゥー・イエス―)という言葉ですから、「眠りについた」を形容するというより、むしろ、「導き出してくださいます」につけて、「イエスを通して、イエスと一緒に導き出してくださいます」と訳したほうがよいのではないかと思います。

 

 死んで甦られた主イエスの働きで、共に死から導き出されるということです。「導き出してくださいます」(アクソー)は、「導く」(アゴー)の未来形です。導き出してくださるだろうと推論しているわけです。それで、その根拠を15節に示します。それが、「主の言葉に基づいて」(エン・ロゴー・キュリウー:by word of the Lord)と言われていることです。

 

 「次のことを伝えます」以下に主の言葉の内容が告げられますが、主イエス再臨後の出来事について、主イエスご自身の言葉は新約聖書中に記録されていません。聖書外の主イエスの語録か、キリスト教預言者の言葉で主イエスによる啓示という可能性が考えられます。岩波訳の注釈などは、後者の可能性が大としています。

 

 この手紙には、キリストが再びおいでになることについての希望の言葉が、1章10節、2章19節、3章13節、5章23節など、あちこちにちりばめられています。そして4章13節以下の段落では、主の来臨そのものについて語られています。

 

 再臨について、まず「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパ」という、さながら凱旋将軍の到来を知らせるような現象が起こり、それから満を持したかの如く、「主御自身が天から降って来られます」(16節)。

 

 すると、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し」ます(16節)。それから、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼ら(キリストに結ばれて死んだ人たち)と一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(17節)。

 

 パウロが語っているのは、単に私たちの体が復活することに対する希望ではありません。再臨の主と出会い、キリストに結ばれて死んだ人たちと共に天に引き上げられ、そこでいつまでも主と共に過ごすことが出来るという、主との交わりに与り続けることが出来るという希望です。

 

 「イエスを信じて」(14節)、即ち、死んで甦られた主イエスを通して、主イエスと共に導き出されることが、主との交わりに与り続けることが出来るという尽きない希望となっているのです。

 

 そのことを覚え、慰め合い、励まし合って、お互いの信仰の向上に心がけて参りましょう。

 

 主よ、日々の生活で神を喜び、神に感謝する生活、主に信頼し、御言葉に従う生活が求められていること、その中で特に、死んで甦られた主イエスを通して、共に復活の恵みに与り、永遠に主と共にあることが出来る希望を与えられていることを学びました。どうか、落ち着いた生活のうちに、主に深く信頼し、御言葉に従う喜びをさらに深く味わうことが出来ますように。 アーメン

 

 

4月30日(日) 第一テサロニケ書5章

 

「霊の火を消してはいけません。」 テサロニケの信徒への手紙一5章19節

 

 12節以下は、本書の「結びの言葉」です。最初に「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」(12,13節)といってお願いします。つまり、指導者を重んじ、尊敬して欲しいというのです。ここに、教会内の組織化が始まっているようです。

 

 次に、怠けている者たちを戒め、気落ちしている者を励まし、弱い者を助け、すべての人に忍耐強く接するよう勧めます。信徒たちへの相互牧会の勧めです。

 

 続いてパウロは、信仰生活のために大切な三つの勧告を与えます。そこに信仰生活の理想が示されます。その勧告が大切であるというのは、神がテサロニケの信徒たちに望んでおられることだと言われているからです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(16~18節)という勧めです。

 

 この勧めの中心は、「絶えず祈りなさい」(17節)です。祈りは、神との対話であると教えられました。対話で大切なことは、正しく向かい合い、相手の話をきちんと聞くことです。自分の言いたいことを言うだけ言って、相手の話を聞かなければ、対話になりません。

 

 私たちの生活は、昔と比べると、科学・技術の発達により、何でも大変便利になりました。洗濯も炊飯も全自動、交通手段の発達で、遠距離の移動も短い時間で出来るようになりました。コンピューター一台あれば、相当量の仕事をこなすことが出来ますし、世界のあらゆる情報を瞬時に手に入れることが出来ます。

 

 ところが便利な機器が登場すればするほど、仕事量が増え、家族団欒の時間はドンドン削られていきます。毎日、家族とどれだけ会話していますか。その会話の中で、家族の話を聞いたという時間はどれくらいありますか。

 

 「風呂・飯・寝る」と3語だけの毎日というほど極端でなくても、会話の殆どが相手に対する要求の言葉で、相手の話にじっくりと耳を傾けるというゆとりのない生活になってしまっています。

 

 そしてそれは、特に祈りにおいて顕著ではないでしょうか。神様に対して、どれほどの時間、祈りますか。今は亡き榎本先生が「壊れやすいのは、祈りの祭壇です」と語られた言葉が耳に残っています。本当にそうだと思います。そして、祈りは神との対話であると言いながら、祈りにおいて神の御声を聴くことがありません。

 

 一日5分、神の御声に耳を傾ける沈黙の祈りをしてみましょう。最初はとても長い時間に感じられるでしょう。そして、どなたの声を聴くことも出来ないかもしれません。けれども、私たちの心には穏やかな静けさが残ります。その心で聖書を読み、導きに従って祈りましょう。

 

 神は、私たちがどのような言葉で祈るかではなく、どのような心で主を仰ぎ、主を求めるかを見ておられるのです。そして、絶えずご自身を求める私たちの心の祈りを待っておられるのです。主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)とおっしゃっておられるのも、そのことでしょう。

 

 祈りを通して、主と深く親しく交わることが出来たとき、私たちの心には喜びと感謝の思いが満ちています。祈りなさいという勧めを、「喜びなさい」、「感謝しなさい」という言葉でサンドイッチしているのは、そういうことでしょう。主と深くつながっているからこそ、いつも喜ぶことが出来、そして、どんなことも感謝に変えられるのです。

 

 そのことを10節でも、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と語っていました。眠っているときでさえ主と共に生きるとは、詩編127編2節で「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」と語られていたことを思い起こします。

 

 それは、私たちを愛し、私たちの必要をご存知の主に信頼し、主と共に歩むとき、主は私たちを安心して眠らせてくださる、私たちが眠っている間も、私たちに必要な最善のことを神がしていてくださるということです。

 

 冒頭の言葉(19節)でパウロは、「霊の火を消してはいけません」と言いました。私たちが神の望みに応えないことは、霊の火を消すことと読めます。そしてまた、神の望みに応えるには、霊の火が必要だ、御霊の働きが必要だということです。

 

 御霊に満たされ、御霊の力が働くところに、神の御業が進められます。御霊のあるところに自由があり、主の霊の働きにより、私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのです(第二コリント書3章17,18節)。主と同じ姿に造りかえられるとは、私たちの教会がキリストの体として、キリストの教会らしく建て上げられるということです。

 

 絶えざる喜びがあり、感謝があり、祈りがある教会として、建て上げていただきましょう。

 

 主よ、どうかキリストの恵みが絶えず私たちと共にあり、平和の神ご自身の働きを通して、私たちが御前に何一つかけたところのないものとしてくださいますように。そのために、私たちが日々、あなたが望まれているとおり、いつでも、絶えず、どんなことにおいても主を仰ぎ、喜び、感謝して祈ることが出来ますように。 アーメン

 

 

 

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