申命記

 

 10月1日(水) 申命記21章

 

「町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。」 申命記21章21節


  冒頭の言葉(21節)は、「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば」(18節)という、家庭内の問題について取り扱ったものです。しかし、その問題について下される判決は、驚くほど重いものです。もしも、この規定が厳格に適用されれば、すべての家庭から男の子がいなくなってしまうかも知れません。


 愛情深い親が、息子の反抗的な行動や口答えのために、この規則を適用させようとするとは考え難いものです。少なくとも、聖書の中に、この規定を実行した例は存在しません。聖書学者たちも、この掟が実行されたことはなかったと見なしているようです。何しろ、親が我が子の死刑を求めるべき事態とは思えないからです。


 であればなぜ、このような定めがなされたのでしょうか。それには、何と言っても、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト記20章12節)という、十戒の第5番目の戒めの存在が上げられます。十戒においては、どの規定にも罰則が示されていません。第5戒も同様です。


 そこで、施行細則が設けられることになるのでしょう。出エジプト記21章12節以下、「死に値する罪」を述べる段落で、同15節に「自分の父あるいは母を打つ者」、同17節に「自分の父あるいは母を呪う者」を挙げて、「必ず死刑に処せられる」と告げています。ここでは、それらの罪が「人を打って死なせた者」(12節)、「人を誘拐する者」(16節)と同列に扱われていて、親に対する罪の大きさ、刑罰の重さを思わせます。


 この「父あるいは母を打つ者」、「父あるいは母を呪う者」の延長線上に、今日の課題である、父母の言うことを聞かない、反抗する息子の問題があります。前述のとおり、この規定が適用された実例は、聖書にはありません。とすれば、この規定が、何らかの歯止めの役割を果たしたのでしょうか。それとも、イスラエルには、親に対する不敬は存在しないのでしょうか。


 残念ながら、適用されるような問題が起こらなかったというわけではありません。たとえば、シロの臨在の幕屋で神に仕えていた祭司エリの息子たちは、祭司でありながらならず者で、「主を知ろうとしなかった」とされ(サムエル記上2章12節)、彼らの悪行を咎め諌める父エリの声に耳を貸そうとしませんでした(同25節)。


 国の指導者の悪行は、国の行方を危うくします。国民にとって、災いとなります。この際、エリはこの規定に訴えて、対処すべき事案だったのかも知れませんが、何の手を打つこともなく、結局、神の手に堕ちて、隣国ペリシテとの戦いに主の契約の箱と共に同行し(同4章1節以下)、イスラエル軍が打ち負かされて(同10節)、神の箱は奪われ、エリの息子たちも殺されてしまいました(同11節)。


 規定があっても適用されなければ、何のための規定かということにもなりそうですが、ここでの問題は、彼らが親の言うことを聞こうとしないというだけではなく、そこのことが、神の御旨に背くことだということも軽く考えているということです。親への不敬に対する罰則が重いのは、神への不敬に通じているからということも出来そうです。


 だから、主御自身がその罪を厳しく咎められるわけです。そして、息子たちだけでなく、神の箱が奪われたという知らせを受けた父エリも(同4章18節)、そして、息子の嫁も、命を落とす結果となりました(同19節以下)。罪を犯した息子たちの責めを家族も負ったということなのでしょうか。


 冒頭の言葉(21節)の後に、「木にかけられた死体」(22,23節)に関する定めが記されています。死刑に処せられた人を木にかけてさらし者にするということです。それは、そのように見せしめにすることで、犯罪の抑止効果を狙うということでしょう。


 しかし、23節では、「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」と告げます。神が呪っているものを、見せしめということでさらしたままにして、地を汚してはならないというのです。


 聖書においては、木にかけることで見せしめの効果を狙うというより、神の呪いを受けることだということです。パウロがこの言葉を引用しながら、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」と述べています(ガラテヤ書3章13節)。


 私たちは、親への反抗を始め、数えきれないほど神に背き、罪を重ねて神を悲しませて来ました。およそ神の祝福に与ることが出来るような歩み、生活をして来たなどと、神の前に胸を張ることなどできません。むしろ、呪いを覚悟しなければならないような歩みをして来たと言わざるを得ない者です。そういう私たち人類を、罪の呪いから解放するため、罪のない神の御子キリストが木にかけられて、すべての呪いをご自分の身に負われたというのです。


 つまり、主イエスの受難によって、私たちをあらゆる罪の呪いから贖い出し、救いの恵みに与らせるために、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という掟を、あらかじめここに置いてくださっていたわけです。ここに主の恵み、神の愛が示されます。


 主の恵み、憐れみに感謝し、その導きに素直に従って参りましょう。聖霊の力を受けて、神の愛と恵みを証しする者とならせて頂きましょう。


 主よ、あなたの深い愛と恵みとに心から感謝します。神の愛なくして、私たちの救いはありません。その恵みに与った者として、その感謝と喜びを一人でも多くの方々と分かち合わせてください。聖霊の満たしと導きが豊かにありますように。 アーメン

 


 10月2日(木) 申命記22章


「道端の木の上または地面に鳥の巣を見つけ、その中に雛か卵があって、母鳥がその雛か卵を抱いているときは、母鳥をその母鳥の産んだものと共に取ってはならない。」 申命記22章6節


 1節に、「同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さねばならない」とあり、さらに3節では、「ろばであれ、外套であれ、その他すべて同胞がなくしたものを、あなたが見つけたときは、同じようにしなさい。見ない振りをすることは許されない」と言われます。


 これは、出エジプト記23章4,5節の「あなたの敵の牛またはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない」のという定めを、拡大したものと考えることが出来ます。


 こういう定めがあるということは、多くの場合、他人の持ち物のことで時間を取られたり、面倒に巻き込まれるのを避けるため、見なかったことにするということになるからでしょう。


 主イエスの語られた「善いサマリア人」のたとえ話で(ルカ福音書10章25節以下)、祭司やレビ人が追いはぎに襲われた人を見ない振りをして、道の向こう側を通り過ぎたと言われます。彼らは、自分たちを清く保つため、半殺しの目に遭っていた人と関わり合って、祭儀的汚れを受けることを避けたのです。そして、そのことを追及されたも、知らなかった、見なかったと言い逃れるつもりなのです。


 これはしかし、他人事ではありません。私自身、彼らに石を投げることの出来ない、面倒に関わり合いたくないと考える人間です。寝た振り、見なかった振りをしてしまいます。そういう私に、「見ない振りをしてはならない」と訴えているのです。


 そのことについて、さらに考えさせられる言葉があります。それが、冒頭の言葉(6節)です。ここに言われている、「母鳥をその母鳥の産んだものと共に取ってはならない」という定めは、「道端の木の上または地面」に巣を作った小鳥を、おそらく食用にするために捕獲するということが前提のものです。


 その際、親鳥と雛あるいは卵を一緒に取るなというのです。7節では、「必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない」と、細則を定めています。これは勿論、小鳥のことを考えて定められたものではありません。こうすることで、資源を確保し、引き続き、貧しい人が卵あるいは雛鳥を取り続けることを考えているわけです。そして、神はそれを許しておられるということになるでしょうね。


 ところで、主イエスが、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ福音書10章29節)と仰っています。さらに、ルカ福音書12章6節では、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」と仰いました。つまり、4羽買うと1羽ただでおまけがついて来るということです。


 それほどの価値しかない雀ですが、しかし、「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」、つまり、父なる神が、まるで飛行機の管制官のように、雀一羽一羽の動静を見極め、飛んでいるときも、羽を休めているときも絶えず見守っておられるというのです。


 そう語られた上で、「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ福音書12章7節)と言われました。私たちの動静のすべてを神がご存じだというのです。「恐れるな」と言われますが、神の御心に背いている私です。御言葉に従い得ない私です。そのすべてを、神は御存じです。どうして恐れないでいられましょう。


 けれども、その神御自身が「恐れるな」、恐れなくてよいとおっしゃるのです。何故でしょうか。神は私に罰を当てようとして見ておられるのではありません。私が神の許しなしに地に落ちたりしないように、それで怪我をしたりしないように、私が神の助けを求め、導きを求めて祈ると、それに応えようと待ち構えておられるのです。


 神は、私が道に迷ったようになっているとき、いい気味だ、そうなったのは自業自得だ、などとは言われません。まさに、見て見ぬ振りをなさらないお方です。必ずあるべきところに連れ戻してくださいます。私たちの一切の必要を豊かに満たしてくださるお方なのです。


 そのお方を主と呼び、神として崇めさせていただいています。主が「見て見ぬ振りをするな」と仰るならば、それを実行させてくださいと祈りましょう。心貧しい私のために、必要な知恵と力を授けてくださいと、主に求めましょう。


 主よ、何をするにも自分の都合が最優先で、面倒なこと、遠回りさせられそうなことには目をつぶり、見なかったことにしようとする私です。そんな身勝手さで道を迷う私を見ぬ振りせず、絶えず正しい道へ導き返してくださる神様、その恵みに感謝し、主の御心を行う者とならせて下さい。御名が崇められますように。 アーメン


 

10月3日(金) 申命記23章

 

「主人のもとを逃れてあなたのもとに来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。」 申命記23章16節


 冒頭の言葉(16節)で言及されている「奴隷」とは、負債の支払いのために身を売って奉公するヘブライ人奴隷ではなく、他の国から逃亡して来た奴隷のようです。この箇所では、そのような逃亡奴隷に対して、もとの主人に引き渡さず、むしろ、「どこかの町の彼が選ぶ場所に、望むがままにあなたと共に住まわせなさい」(17節)と、避難所を提供して保護するように命じています。

 

 しかしながら、そのようなことをすれば、国外逃亡奴隷を引き渡さないということで、国際社会の摩擦を呼び、大変な事態になってしまうのではないでしょうか。また、そのような逃亡奴隷に対する対応は、国内の奴隷制度にも影響を与えそうです。

 

 新約時代、ローマ帝国のもとでは、逃亡奴隷が捕まえられれば、十字架刑という極刑が待っていましたし、ローマ市には、逃亡奴隷を捕まえる特別警察が組織されていたと聞いています。その意味では、奴隷制を廃止することなど全く考えられない時代に、これは、奴隷の生存権を守る画期的な規定といってもよいでしょう。

 

 ここで、「逃れて・・来た」というのは、ナーツァルというヘブライ語で、この言葉には、「救う」という意味があり、神がイスラエルの民をエジプトから「救い出す」というときに用いられている言葉です(出エジプト記3章8節、6章6節など)。

 

 イスラエルの民は、かつてエジプトで奴隷として使役されていました。その民の叫びを主なる神が聞かれて、彼らをエジプトから救い出され、今や、約束の地に導き入れようとしているところなのです(出エジプト記3章7節以下)。

 

 ですから、イスラエルの民のもとに逃れて来る他国からの逃亡奴隷は、いわば同胞、家族なのであり、彼らを匿い、共に住むようにするのは、当然のことだというわけです。彼らには、住む場所を自由に選ぶ権利さえ、保障されます(17節)。

 

 新約聖書の時代、使徒パウロが、オネシモをフィレモンのもとに送り帰すという手紙を書いています(フィレモン書8節以下、12節)。オネシモは、フィレモンの家の奴隷でしたが、彼のもとを逃げ出してパウロのところに身を寄せていたのです。そのため、「以前はあなたにとって役に立たない者でした」(同11節)と言われるのです。

 

 オネシモとは、「役に立つ」という意味の名前で、特に奴隷の名として用いられたそうです。その名に反して、オネシモが役立たずになって逃げ出し、パウロのところにやって来たのを、もう一度、フィレモンのもとに送り返そうという話です。

 

 しかも、「役に立たない者」とは、ただ逃げ出したというだけではなかったようです。同18節に、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら」とありますが、実際、逃げ出すときに金品を持ち出して、フィレモンに損害を与えていたのだろうと思われます。

 

 そういうオネシモが、どのような経過で、パウロのもとに身を寄せることになったのか分かりませんが、恐らくエフェソで監禁されていたパウロに執り成しを頼み、仕えている内に、キリストの教えを受け入れ、クリスチャンになったのでしょう。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(同10節)とはそのことを示しています。

 

 そこでパウロは、オネシモをフィレモンに送り帰すことにします。しかしそれは、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです」(同16節)。パウロはフィレモンに、オネシモをパウロ自身と思って迎え入れて下さいと求め(同17節)、オネシモがフィレモンに与えた損害は、パウロが肩代わりしようとまで言います(同18,19節)。

 

 このパウロの姿勢は、一見、冒頭の言葉に反しているようですが、フィレモンがオネシモをパウロの求めに従って受け入れるならば、以後、オネシモは自由の身となり、住む場所を自由に選ぶことが出来るようになります。その意味で、冒頭の言葉の核心をついた姿勢を示したということになります。

 

 パウロはなぜそこまで、オネシモのことに親身になっているのでしょうか。それは、主の導きに反して御子キリストを迫害する者となっていたパウロでしたが(ガラテヤ書1章13節以下)、裁かれるどころか、復活の主イエスと出会ってキリストを信じる者となり、更にその福音の伝道者とされたのです(使徒言行録9章1節以下など)。その神の恵みを味わった者として、オネシモに関わるのは当然のことだったのでしょう。

 

 罪の奴隷であった私を贖い出して自由の身にして下さった主イエスに感謝し、聖霊の力と導きを受けて、贖いの主の証人にならせて頂きましょう。


 主よ、あなたはかつて罪の奴隷であった私を、御子の十字架の死によって贖い出して下さいました。その恵みを知ったとき、多くの人にこの喜びを味わって欲しいと思いました。今もその思いが心の内にあります。主よ、聖霊の力に満たして下さい。主の愛の証し人とならせて下さい。 アーメン

 


 10月4日(土) 申命記24章

 

「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。」 申命記24章19節


 新共同訳聖書は、5節以下の段落に、「人道上の規定」という小見出しをつけています。特に、貧しく、弱い立場の人々に対する配慮が記されます。


 6節に、「挽き臼あるいはその上石を質にとってはならない」という言葉があります。挽き臼全体を持って行くのが大変ということで、上石だけを質に取るということがあったのでしょう。挽き臼は穀物を粉に挽くために欠かせない生活必需品です。上石を持って行かれると、困ってしまいます。


 金貸しとしては、そういうモノを担保に金を貸せば、すぐにそれを取り戻そうと、借りたお金を返済するのに必死になるだろうという考えがあるわけです。しかし、それは生活に困窮している人の生存を脅かす行為として禁じられます。


 10節以下で、「隣人に何らかの貸付をするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい」というのも、上記同様、困窮者を保護するために、貸主に都合の良いものを質に取ることを禁じているわけです。


 そこで、上着以外に担保となるものがないような貧しい人には、その日の内にそれを返せと言われます(12,13節)。それは、上着が夜具でもあるからです(13節)。17節の、「寡婦の着物を質に取ってはならない」というのも同様です。


 恵まれない者に対してそのような配慮が命じられる根拠が18節に、「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである」(18節)と告げられています。


 冒頭の言葉(19節)も、その関連で語られます(22節参照)。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない」というのは、レビ記19章9節の、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで駆りつくしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない」と同じで、落穂を拾うのは、貧しい人々が命を支える糧を確保する大切な手段でした。


 主イエス一行が麦畑を通られたとき、弟子たちが穂を摘んで食べたとき、それをファリサイ派の人から咎められましたが(ルカ6章1,2節)、それは、「他人のものを盗ってもよいのか」ということではありませんでした。麦畑で穂を手で摘んで食べることは、貧しい者や旅人には許されていたわけです(23章26節参照)。ファリサイ派の人が問題にしたのは、「安息日」に収穫と食事の準備をしたことです。


 落穂拾いと言えば、ルツ記の記事を思い出します。モアブ人女性ルツは、ユダヤから移り住んできたエリメレクの息子と結婚しますが、その夫に先立たれ、姑のナオミと共に、姑の故郷ベツレヘムに戻ります(ルツ記1章)。ルツは早速落穂を拾いに行きますが、それは、たまたま姑ナオミの親戚ボアズの畑でした(同2章1節以下、3節)。ボアズは、異国人であり寡婦であるルツの身の上を知り(同2章5節以下)、厚意を示します(同8節以下)。


 ここに、申命記の戒めが忠実に守られた実例を見ることが出来ます。モアブ女性ルツに親切にし、やがて結婚したボアズとルツの間にオベドが生まれ、オベドからエッサイ、そしてエッサイからダビデが誕生します(ルツ記4章13,21,22節)。ボアズは、ダビデ王の曽祖父となったのです。


 幕末期の1865年7月、米国のA.ハーディーは、自分が所有している船(ワイルド・ローバー号)のボーイとして渡米して来た一人の日本人青年に目を留め、青年の志を知って自宅に引き取り、学問をさせるため全面的に援助します。青年は、ハーディーの感化でクリスチャンになり、大学を卒業して神学校で学んでいたとき、明治政府最初の外交官・森有礼と会い、その後、岩倉具視の遣米使節団の通訳として協力することになります。


 神学校を卒業し、宣教師となって帰国した青年が、日本の将来のためにと様々な困難の乗り越え、京都に同志社大学を建てます。この青年こそ、ご存じ、新島襄先生です。ハーディーが一人の寄留者に示した愛が、以後、大きな実を結ぶことになったのです。新島先生は、ハーディーをアメリカの父と呼び、自分のミドル・ネームに名前をもらってジョセフ・ハーディ・ニイシマ(Joseph Hardy Neesima)と称していたそうです。


 私たちも主イエスの恵みに与って神の子とされ、クリスチャン(キリストのもの)と呼ばれています。キリストに愛された愛をもって、互いに愛し合いましょう(ヨハネ15章12節)。主が手の業すべてを祝福して下さるからです。


 主よ、御子が私たちのために一切を捨ててこの世においで下さいました。それは御子の貧しさによって私たちが富む者となるためでした。神は、主を信じる私たちのためには、御子と一緒にすべてのものをお与え下さるのです。 ハレルヤ!アーメン

 


 10月5日(日) 申命記25章


「あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。」 申命記25章19節


 25章の最後、「アマレクを滅ぼせ」という見出しが付けられた17節以下の段落、その冒頭の17節に、「アマレクがしたことを思い起こしなさい」とあり、そのことで、続く18節に、「彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れなることがなかった」と説明されています。

 

 アマレクのそのような仕業に基づいて、冒頭の言葉(19節)のとおり、「あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない」という厳しい命令が記されています。アマレクの徹底的な殲滅が命じられているわけです。

 

 これは、出エジプト記17章8節以下のイスラエルとアマレクとの戦いのことを言っているものと思われます。その戦いでは、ヨシュアの奮戦とモーセの執り成しの祈りにより、アマレクを打ち破ることが出来ました(同12節)。そして、主がモーセに、「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」と言われ(同14節)、モーセが「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる」と言っています(同16節)。


 ただ、18節で言われているようなことは、出エジプト記には何も記されてはいません。徹底的にアマレクを打ち滅ぼし、彼らの記憶をぬぐい去らせるようにするための悪意に満ちた付加ではないかとさえ思われます。

 

 創世記36章12,16節によれば、アマレク人は、ヤコブの兄エサウの子孫と伝えられています。とすると、23章8節の、「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」という言葉とぶつかってしまいます。エドム人とは、エサウの子孫のことだからです(創世記25章30節)。

 

 ここに記されているアマレク人に対する嫌悪感は、恐らくその後の士師時代、王国時代を通じて、繰り返しエドムの荒れ野からイスラエル南部に侵入して略奪を行うなど勢いを振るい、モアブ、アンモン、ミデアンと共に脅威となっていたからでしょう(士師記3章13節、6章3,4節、サムエル記上15章、30章)。

 

 ところで、私たちはこの記事をどのように読むべきでしょうか。イスラエルに敵対し、神の民に弓引くアマレクの民は、滅ぼし尽くして永遠の忘却の彼方に追い遣るべきなのでしょうか。文字通りに考えれば、そうなのかもしれません。

 

 実際、聖書のほかに、アマレク人の存在を記している資料はありません。アマレク人に関する考古学的発見もないようです。ということでは、神の命令が実現していることになります。それにも拘わらず、聖書にアマレクの記事が記されているので、その記憶を天の下から拭い去るどころか、世の終わりまで確実に語り継がれていくわけです。


 ということは、申命記が伝えようとしているのは、アマレクを滅ぼし尽くすこと、アマレクに敵愾心を燃やし続けることなどではなく、出エジプト記17章16節のモーセの言葉のように、イスラエルに敵することは、神を敵に回すことであり、神ご自身がイスラエルの民のために戦って下さるということではないでしょうか。


 あるいはまた、アマレクが攻め滅ぼしたとされる、疲れ切って民のしんがりにいた落伍者に対して、神を畏れ、憐れみの心を持って対応するようにせよということかも知れません。つまり、申命記記者の関心は、イスラエルの民の幸福にこそあるということではないでしょうか。

 

 確かに、「敵」といわれる存在があることでしょう。自分たちに敵対し、害を与えるため、「敵」と呼ばざるを得ないような相手です。敵との戦いを避けられず、神の武具で武装せよと言われるところもあります(エフェソ書6章10節以下)。しかしそれは、人間を相手にするものではありません。

 

 そして、身を守る武具として、真理の帯、正義の胸当て、福音宣教の靴、信仰の盾、救いの兜、そして御霊の剣を取れと言われます(同16,17節)。ここには、相手に害を与える武具は、存在しません。御霊の剣とは、神の御言葉のことだと説明されています(同17節)。神の御言葉で悪魔の策略を打ち破れというわけです。

 

 主イエスは、人間の敵に対しては、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言われました。これは、簡単に実行出来るものではありません。しかし、実行出来ないものでもありません。主イエスの御言葉に聴き従うことこそ、私たちと「敵」との間にうごめく悪魔の策略を打ち破る戦いなのです。

 

 御霊の力により、御言葉に従わせないよう働く悪しき力、思いを取り除いて頂きましょう。御霊の導きを祈りつつ、絶えず主の御言葉に耳を傾けましょう。


 主よ、誰かに右の頬を打たれて左の頬も向けてやるというような心のもち合わせは、私にはありません。しかし、あなたは敵を愛せよと言われます。御旨に聴き従うことが出来ますように。信仰と祈りによって一歩踏み出させて下さい。 アーメン



10月6日(月) 申命記26章


「今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい。」 申命記26章16節


 冒頭の言葉(16節)は、「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい」といって語り始められた掟と法の序文(5章1節)に対応しています。つまり、5章の十戒に始まる掟と法の宣告が、冒頭の言葉で「結び」となったわけです。

 

 ですが、掟と法の宣告が結ばれたということは、これで完成ということではありません。冒頭の言葉で言われている通り、神が命じておられる「掟と法」を、心を尽くし、魂を尽くして、忠実に守ることが求められているのです。


 17節の、「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聴き従います」というイスラエルの民の誓約の言葉に対し、主なる神が18,19節で、「すでに約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする」と誓約されました。


 ここに、イスラエルの民が主をおのが神とし、主なる神がイスラエルの民をおのが民とするという契約が、再び結ばれたことになります。


 かつて、シナイ山においてイスラエルの民は主なる神と契約を結びました(出エジプト記19~24章)。けれども、彼らは、シナイの荒れ野を旅する間、度々主なる神に背いたので、主は彼らを打たれ、約束の地に入ることが出来ませんでした(民数記14章、26章参照)。


 そこで、約束の地カナンに入る前、第二世代の民と、改めて契約を結ぼうとしているわけです。約束の地には、モーセも入ることが許されませんでした(民数記20章12節、申命記3章23節以下、27節)。そこで、掟と法を語り聞かせる必要が生じ、十戒をはじめとする重要な教え(5~11章)と、諸規定(12~26章)を民に伝えたのです。


 諸規定を語り終えるに当たり、約束の地に入って住み、そこで収穫を迎えた時になすべきことを定めています(1節以下)。神は、「地の実りの初物」(2節)を主にささげる際に、5~10節の言葉を告白するように求めておられます。


 そこで語られるのは、まず出自で、「滅び行く一アラム人」と言います(5節)。アラムとは、ヨルダン川東岸からチグリス・ユーフラテス流域までに住むアラム人のいる広い地域を指すものです。

 

 イスラエルの先祖アブラハムは、「カルデアのウル」(創世記11章31節)、即ちユーフラテス川河口の町の出身です。ウルから父テラに連れられて水源地に近いハランの地に移り住み、そこで主の御言葉を聞いて、カナンに下って来ました。彼には子どもが与えられていませんでした。神の助けと導きがなければ、彼の代で系図が途絶えてしまうところでした。「滅び行く一アラム人」の素質は十分です。

 

 アブラハムは、「わずかな人を伴ってエジプトに下り」(5節、創世記12章10節以下)、そこに寄留しようとしたこともありますが、「そこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました」(5節)というくだりをみると、これは、アブラハムの孫ヤコブのことであることが分かります。

 

 ヤコブは、兄エサウの祝福を奪い、ハランの地に避難したことがあります(創世記27章)。彼はたった一人でハランの地に赴きましたが、そこで神の恵みに与って二人の妻、二人の側室を得、12人の男児をなしました(同29章以下)。多くの財産を抱えて故郷に戻って来ます。

 

 その後、パレスティナを襲った飢饉のため、子らとその家族70名(先にエジプトに売られ、宰相となっていたヨセフの家族も含めて)を連れて、エジプトに下ります(創世記48章、出エジプト記1章5節)。ゴシェンの地に寄留したヤコブの家族は、王に厚遇されてその数を増し、「強くて数の多い、大いなる国民」に成長したのです(同7節)。


 しかし、それがエジプトにとって不安の種になります。ヨセフを知らない世代の王が出ると(同8節以下)、イスラエルの民は厚遇される立場から一転、重労働を課される奴隷の立場に落とされました(同11節)。


 神は、助けを求めるイスラエルの民の声を聴き、その苦しみ、労苦、虐げを御覧になり(7節)、力ある御手をもってエジプトから導き出し、彼らに約束の地をお与えになりました(8,9節)。ですから、初物をささげるのは、約束の地に入ることが出来たという喜び、約束を主が真実に適えて下さったという感謝のしるしなのです。


 それを、約束の地に定住し、作物の実りを見た最初にするだけでなく、新しい季節の産物の初物をささげるごとに行うのです。そのことで、実りに対する感謝と共に、自分たちがこれまで受けてきた神の恵み、自分たちが神の民と呼ばれるために与えられた神の愛の深さを思い起こし、その感謝を言い表すのです。


 それは、新しい地においても神の恵みを受けるという信仰の表明でもあります。かくて、主なる神とイスラエルの民との契約は、彼らがエジプトから導き出して頂いたという感謝と、新しい地でも神の恵みに与るという希望に基づくものであり、そのために御言葉に聴き従うことを誓うことなのです(14,15節)。


 私たちも、罪の呪いから解放され、新しい命に生きる者とされました。日毎に主の御言葉に耳を傾け、その導きに心を尽くし、魂を尽くして忠実に従いましょう。そこに、私たちの感謝と希望もあります。 


 主よ、私たちも新しい月ごとに主が命じられた主の晩餐を守り、その御業を記念しています。私たちが神の子とされるためにどれほどの愛を賜ったことか、思いを新たにするためです。どうか私たちを祝福し、与えられている務め、働き、私たちが仕えている場所、家庭、職場、地域を祝福して下さい。 アーメン

 


 10月7日(火) 申命記27章


「また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。」 申命記27章7節


 1節に、「モーセは、イスラエルの長老たちと共に民にこう命じた」と記されています。モーセがイスラエルの民に語りかける際に、「長老と共に」民の前に立つというのは、これまで前例のないことでした。


 モーセは、約束の地に入ることが許されてはいません。ですから、ここで命じたことを民が忠実に実行するかどうか、モーセ自身が確かめることが出来ません。そのために、長老たちがモーセと共に立ち、いわば立会人しての役割を果たしているわけです。


 ここで命じているのは、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ったら、大きな石を幾つか立ててそれに漆喰を塗り(2節)、その上に律法の言葉をすべて書き記せというものです(3節)。

 

 律法の言葉を石に書き記させるのは、その石碑を見る人に神の戒めを守るべきことを常に思い起こさせるという狙いがあるのでしょう。「律法の言葉をすべて書き記せ」(3節)と言われているということは、神がモーセを通じてお命じになった律法を、すべて守り行えというわけです。


 ただし、「律法の言葉をすべて」とは、5~26章に記されている掟と法のことだとすると、その分量の多さから、それを文字通りに実行するのは、とても大変なことではなかったかと思われます。恐らく、契約の箱に十戒の刻まれた石の板を納めたように、律法のすべてを代表して、「十戒」を石碑に記したのではないかと思われます。あるいは、「大きな石をいくつか立て」ということですから、重要な掟とされる5~11章を碑に刻んだのかも知れませんね。

 

 4節に、「これらの石をエバル山に立てよ」と言われます。エバル山について、以前、「あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい」と言われていました(11章29節)。それは、主の戒めに聴き従うならば祝福を受け、戒めに耳を傾けようとせず神に背く道を行くならば呪いを受けるということでした(同27,28節)。

 

 そして、エバル山には、石碑が建てられるだけでなく、祭壇も築かれることになります(5節)。それは石の祭壇で、そこに焼き尽くす献げ物をささげ(6節)、また、和解の献げ物をささげます(7節)。和解の献げ物は、それをもって神に和解を求めるというよりも、罪赦され、和解の恵みに与った感謝の献げ物といった方がよいのでしょう。


 冒頭の言葉(7節)に、「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」と言われています。レビ記によれば、和解の献げ物は、脂肪を燃やして煙とし、胸の肉と右後ろ足は祭司らのものとなり、それ以外の肉は、奉納者が神の御前で食することになっています(レビ記3章、7章11節以下)。和解の恵みに与った感謝の献げ物を、神と、そして仲保者たる祭司たちと共に喜び祝うわけです。

 

 これは、イスラエルの民が約束の地に入るということは、罪の赦しという神の恵みの賜物だということでしょう。赦しがなければ、だれ一人、約束の地に入ることが出来なかったのです。だからこそ、「主の御前で喜び祝いなさい」と言われるのです。


 私たちの罪を赦すために、神の御子、主イエスが贖いの供え物となられました(ローマ書3章24,25節、第一ヨハネ書2章2節、4章10節)。主の晩餐式では、裂かれたパンと、ぶどうから作られた杯をいただきます(マルコ14章22節以下など)。それは、キリストが体を裂き、血を流されたことを記念するものです(第一コリント書11章23節以下)。


 そしてそれは、神の国での祝宴の先取りでもあります。というのは、主イエスが「神の国で新たに飲む日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(同14章25節)と仰っています。ここに、神の国で、主イエスと共にぶどうの実から作ったものを飲むときが来ることが約束されているといってよいでしょう。


 それは、どんなに大きな喜びでしょうか。言葉では表現出来ない喜びが爆発するときでしょう。主の晩餐式は、それを先取りしているのです。冒頭の言葉のとおり、「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」と言われているのですから、私たちの和解の献げ物として死んでくださった主イエスを記念する主の晩餐に与るとき、もっと喜ぶべきです。もっと神に感謝すべきです。


 私たちのささげる礼拝が、神を喜び祝う礼拝となるように、主の御言葉に耳を傾け、御旨に従い、日々豊かな祝福に与りましょう。


 主よ、計り知れない恵みに心から感謝します。罪赦され、救われ、神の子とされ、永遠の命に与りました。祈りが聞かれ、癒しや助けをいただきます。聖霊の力を受け、主の恵みを証しすることが出来ます。日々御言葉が開かれ、御旨を悟ります。御業のために用いて下さい。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 


10月8日(水) 申命記28章 


「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので」 申命記28章47節


 28章には、神とイスラエルの間に結ばれる契約の特約事項が、「神の祝福」(1節以下)と「神の呪い」(15節以下)というかたちで記されています。即ち、この契約のために与えられた掟と法(5~26章)を忠実に守り行うことによっていかなる利益がもたらされるのか、また、それを守り行わないことによっていかなる不利益を被ることになるのかということです。


 神の祝福には、理想的な姿、こうであればよいなあという、希望溢れる表現が並んでいます。神の守りは国の全域に及んでおり(町でも野でも祝福される:3節)、人の生活にかかわる生き物が多産で(4,5,11,12節)、あらゆる活動が順調に進みます(6,8節)。敵を打ち負かすことが出来ます(7節)。それらのことを通して、イスラエルが神の聖なる民であることが証しされ(9,10節)、他国をも治めることが出来るでしょう(13節)。

 

 一方、神の呪いは、まず分量的に、神の祝福の4倍の長さで語られています。内容は、16~19節に神の祝福(3~6節)をちょうど裏返しにした記述があり、20節以下には、疫病や天変地異などの災厄、異国の支配、36節以下には、捕囚の憂き目を見ることなども記されています。そして、これらの災いは、実際にイスラエルが味わうことになりました。

 

 疫病や天変地異などは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、エジプトに下された災いでした。イスラエルの民は、神の恵みを得てエジプトを脱出したのです。エジプトに下された災いでイスラエルの民が打たれ、そして、「エジプトに送り返される」(68節)というのは、文字通りエジプトの奴隷となるということでもありましょうけれども、神に背いて呪われた結果、一切の恵みを失った姿であるということが明示される形なのです。


 イスラエルの民は、ダビデ王の時代に、神の大いなる祝福を得ました。それこそ神は、町にいても祝福され、野にいても祝福され(3節)、入るときも祝福され、出て行くときも祝福され(6節)、立ち向かう敵を目の前で打ち破られたのです(7節)。

 

 ダビデから王朝を引き継いだその子ソロモンも、神から受けた知恵をもって、これ以上ないというほどの祝福を受けました(列王記上3章)。壮麗な神殿を建て、贅を尽くした王宮を完成することも出来ました(同6~8章)。ソロモンの名声を聴き、知恵を聞くために世界中の人々が拝謁を求め、貢ぎ物を携えてやって来たと言います(同10章1節以下、23~25節)。

 

 ところが、ソロモンには700人の王妃と300人の側室がいて、この妻たちがソロモンを惑わしました(同11章1節以下)。外国から娶った王妃や側室のために異教の神々を祀る場所が築かれ、その礼拝が行われるようになり、ソロモンは主の戒めに背いたのです。ソロモンはいったい何のために千人もの妻たちを抱えたのでしょうか。


 婚姻関係を結んで、両国の平和安定的な交易を求めるためでしょうか。あるいは、よい子孫を残すためでしょうか。その他、様々な理由があるのでしょうけれども、勿論それは、神の導きではありません。むしろ、神の戒めに背く行為だったのです(同11章2節、出エジプト記34章12節以下)。申命記17章14節以下に「王に関する規定」が記されているのは、まさにソロモンのためといってよいのではないでしょうか。


 その結果、ソロモンの存命中に既に敵対する者が起こり、死後、イスラエルは南北に分裂します(列王記上12章)。そうして、北イスラエルは紀元前721年にアッシリアに(列王記下15章27節以下)、南ユダは紀元前587年にバビロンに滅ぼされ、民は捕囚として連れ去られるという結果を刈り取ることになりました(同25章)。


 民を正しく裁き、善と悪を判断するために聞き分ける心をお与え下さいと神に求め、知恵に満ちた賢明な心を授かったソロモンが(王上3章6節以下、9節)、なぜ、愚かにも神に背く道を歩んでしまったのでしょうか。その理由は定かではありませんし、理解に苦しむところです。

 

 冒頭の言葉(47節)で、「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので」と言われています。ソロモンは、あらゆる面で豊かになったとき、シェバの女王を初め多くの来訪者たちが賛辞を口にするのをおのが誉れとし、いつしか心高ぶって感謝を忘れ、喜びと幸せに溢れて主に仕えることをしなくなったのでしょう。


 一つ一つ神に知恵を求めずとも、自分の世界一豊かな知恵で判断し、最も良い裁決が出来ると思い始めて、歯車を狂わせてしまったのかも知れません。主を畏れることが、知恵の初めなのです(箴言1章7節)。パウロは、知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れていると言っています(コロサイ書2章3節)。神の御前に謙ればこそ、知恵が明らかにされるのです。神を畏れる心を忘れて、懸命に生きることは出来ないということです。


 神の恵みが仇となることがないように、恩知らずにならないように、絶えず御前に謙り、日々御言葉に耳を傾け、「今日」主が命じられるところをことごとく忠実に守り、主と共に歩みましょう。


 主よ、与えられている恵みに心から感謝致します。その恵みを主の御業の前進のために生かして用いることが出来ますように。そのために、聞き分ける心、実践する力を授けて下さい。喜びと幸せに溢れて主に仕えさせて下さい。御心が行われますように。 アーメン

 


 10月9日(木) 申命記29章


「あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」 申命記29章2,3節


 29~32章はモーセの決別説教というべき部分です。28章69節(口語訳、新改訳は29章1節)に、この説教の見出しが、「これから述べるのは、主が、ホレブで彼らと結ばれた契約とは別にモアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉である」と記されています。


 7節までのところに、簡潔にこれまでの歩みを振り返っています。1,2節で、イスラエルの民がエジプトを脱出するために起こされた神の災いを思い起こさせ、4,5節では、荒れ野で経験した神の恵みに触れ、6,7節には、ヨルダン川東岸での戦いに勝利して嗣業の地に編入したことが記されています。


 ただ、冒頭の言葉(2,3節)で、「今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」というのは、イスラエルの民が、これら神の偉大な御業を主の御業としてでなく、自分たちの努力の結果と勘違いしていたのではないかということを示唆するものです。もしも、見るものを見、聞くべき言葉を聴いていれば、それが神の御業であることを悟れたはずだということです。


 そもそも、神が彼らに憐れみをかけていなければ、エジプトを一歩も離れることは出来なかったでしょう。イスラエルの民は、エジプトにいたときから約束の地を目前にしている今日まで、様々な恵みを味わいながら、神の民として神を畏れ、その御心を悟り、神にのみ信頼して、従順にその御言葉に聴き従うということが出来ませんでした。何度も神に不平を言い、繰り返し主に背いて、その怒りを招きました。


 だから、シナイの荒れ野で登録されたイスラエルの成人男子について(民数記1章)、ヨルダン川東岸のモアブの平野で再調査した時には、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて、生き残った者はいなかったという結果を招いてしまったのです(同26章)。そこで、もう一度改めて、次の世代の者たちと契約を結ぶことになったわけです。


 9節に、「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水を汲む者に至るまでいる」と言われています。主なる神と契約を結ぶために、「部族の長、長老、役人からすべての男子、その妻子」という、イスラエルのすべての民だけでなく、宿営内の寄留者に、薪を集め、水を汲む僕たちも、主の御前に共に立っています。


 これは、ここで結ばれる契約は、イスラエルの選民思想とは無縁ということです。また、イスラエル民族という集団というより、共同体を構成する一人一人と結ぶということでもあります。


 そのことは、13~14節の、「わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである」という言葉にも表れています。

 

 神はこの契約の相手を、世代を越えてもっと広げようとしておられるのです。今ここに共にいない、次の世代、次の次の世代、もっとずっと後の世代の人々とも結びたいということです。


 そしてまた、この時、モーセがそう考えていたとは思えませんが、「今ここに共にいない」、別の場所にいる者、つまり、イスラエルの民ではない、周辺諸国の人々とも結ぶということにもなるのではないでしょうか。だから今、私たちも主なる神との契約のうちに入れられているわけです。キリストの福音がイスラエルの民から異邦人へと広げられた根拠が、ここに記されていたということです。


 冒頭の言葉との関連で、主なる神は、エジプトを出たイスラエルの第二世代の民から、寄留者、奴隷、そして、異邦人、後のすべて世代の人々に、「悟る心、見る目、聞く耳」に示されている、主を神と信じる信仰をお与えくださるために、新しい契約を結ぼうとしておられるということになります。


 パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章17節)と言いました。申命記において、神の御言葉、すべての掟と法、神の命令と教えに忠実に従うように、何度も命じられています。


 神の御言葉を聞くことから始まる信仰を通して、主のほかに私たちを救うことが出来るものはないと悟ること、このお方の約束を信じ、その御手にすべてを委ねて歩むこと、そして、このお方の御言葉、御教えに忠実、従順な選びの民となるように、繰り返し語られ、導かれているのです。


 神はかつてホレブで契約を結び、そして、ここモアブでそれを更新されます。一度契約を結べば、それで善いというのではありません。あなたは「今日」、わたしと契約を結びますかと、神は問われるのです。即ち、神との契約は毎日更新されるのです。毎日、「あなたは今日、私を主と呼びますか。私の言葉に耳を傾けますか。私を信じて仰ぎますか」と問われているのです。

 

 主の問いかけに、常に「はい」と答えて、主の御言葉に日々耳を傾け、喜びをもって素直に従って行きたいと思います。


 主よ、私たちは置かれた状況、境遇によって心が変わります。キリストのみ、信仰のみに立つことが出来なくなります。どうか清い心、確かな新しい霊を授けて下さい。信仰に堅く立ち、絶えず主に目を向け、御言葉に耳を傾けることが出来ますように。アーメン


 

 10月10日(金) 申命記30章


「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」 申命記30章14節


 30章の最初の段落は、「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み」(1節)という言葉で始まりますが、その内容は、イスラエルが最悪の事態に陥って、28章に語られていたあらゆる災いを被ったことが前提となっているかのようです。


 これまでの論調は、神に従えば祝福、背けば呪いが臨むという二者択一のもので、そこでは当然、神に忠実に従って祝福を受けるようにという招きが語られていました。どこか、「天国か地獄か」といった響きに聴いていました。神に呪われ、災いを受けたらそれでおしまいと考えていました。


 しかし、ここに見られるのは、神に背いてその呪いを受けても、追い遣られた先々で悔い改めるならば、「あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」という、回復の約束です(1節以下、3節)。


 つまり、主なる神は背くイスラエルを滅ぼしてしまわれたいのではなく、再び神に聴き従う者となること(2節)、心を尽くし、魂を尽くして、イスラエルの神、主を愛する者となること(6節)を望んでおられるのです。そしてそれが、申命記でモーセを通して神が告げていることなのです(10節)。


 11節に、「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」とあります。教えを理解し、実行するのは難しくないのだから、それを行って、祝福を得よというのです。

 

 ここで、「難しい」の原語は、「不思議(パーラー)」という言葉で、神の御業などの形容に、「驚くべき」(出エジプト記3章20節、34章10節など)とか「奇しき」(新改訳:出エジプト記34章10節など)と訳されて、普通の人間が理解することの出来ない不思議な出来事という意味で用いられます。しかし、ここでは、「難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない」ということから、誰もが理解し、実行することが出来ると言われています。

 

 勿論、あらゆる律法、すべての戒めを行えと言われて、それが完璧に出来る人もまたいないでしょう。「それらのことは幼い時からみな守ってきました」と答えた青年も、主イエスには、それが完全でなかったことを見抜かれていました(マタイ19章16節以下)。

 

 しかし、神の赦しと救いに与り、神の愛を知った者として、命令に従いたいと願い、教えを実行しようと努力すること、神に近づこうとして歩み始めること、それがどんなに弱々しく、ゴールまでほど遠いものであっても、その一歩一歩を神は喜んで下さるにちがいありません。そして、善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると信じます(フィリピ書1章6節)。

 

 戒めが難しいものではないという根拠について、冒頭の言葉(14節)で、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と言っています。これは先ず、神の御言葉を繰り返し朗読することです。御言葉が「口にある」とはそのことです。そして「心にある」とは、御言葉を信じることです。朝毎に御言葉を聴いて御心を示され、それを何度も思い起こし、思い巡らして、恵みを味わいたいと思います。

 

 パウロが、この言葉をローマ書10章8節で引用しています。そして、「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」と解釈しました。つまり、口と心にある「御言葉」とは、主イエスのことを指していて、口で「イエスは主である」と告白し、心で「神がイエスを復活させた」と信じるなら、救われる(同9節)と説いているのです。


 主イエスを信じて心に迎え、主の御言葉を語れ、主イエスを証しせよということですね。だから、「すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(同12節)とも言っています。


 こうした言葉の背後には、パウロ自身の信仰体験があると思います。迫害者をも愛し憐れみ、救おうとされる主イエスの愛に触れて目が開かれ、主イエスを信じる者となりました。御霊の力を受けて、主イエスの愛と救いを証しする者となりました(使徒言行録9章)。


 パウロは、彼の心に主イエスが住まい、もはや自分ではなく、キリストが生きているというのです(ガラテヤ書2章20節)。そして、どのような困難にも迫害にも気落ちしないで主を証しし、福音を語る時、彼の心には御霊を通して神の愛がいよいよ豊かに注がれ、喜びに満たされました。彼は、艱難さえも喜ぶことが出来る者とされていたのです(ローマ書5章1~5節)。


 日々神の御言葉に耳を傾け、それを行うことにより、岩の上に家を建てる賢い者とならせて頂きましょう(マタイ7章24,25節)。御言葉に土台し、導きに従う者は、どんな世の嵐が吹き荒れ、荒波が押し寄せてきても、神の祝福の内に守られるからです。主から受けた恵みを証しするため、御霊の満たしと力を祈り求めましょう。主は、求める者に聖霊を下さるからです。


 主よ、繰り返し背いたイスラエルを絶えず憐れみ、何度も祝福の道を示されました。そこに赦しを見ます。救いを見ます。今日私たちがあなたに従って歩むことが出来るのも、主が私たちを憐れみ、招き続けていて下さるからです。感謝をもって常に「イエスは主なり」と告白して参ります。私たちの歩みを守り導いて下さい。その恵みを証します。聖霊を与えて下さい。御名が崇められますように。御業がこの地に行われますように。 アーメン

 


10月11日(土) 申命記31章


「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」 申命記31章6節


 2節に、「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた」というモーセの言葉があります。これを見る限り、もうこれで晴れてお役御免、お務めご苦労様でした、というところです。

 

 ただ、モーセの本心は、ヨルダン川を渡って約束の地を踏みたい、乳と蜜が流れるというカナンの地を見たいということでした(3章25節)。しかし、それは適わず、最後にネボ山、即ちピスガの山頂から、その地を眺めることだけが許されたのでした(同27節、34章1節以下)。


 どんなに優れた指導者でも、力のあるリーダーでも、永遠に働き続けることは出来ません。いつしか、そのバトンを次の者に渡さなければならないときが来るのです。そのとき、何が起こるのかということが示されています。民はこれまで、困ったことがあるとモーセに訴え、解決が与えられて来ました。指導者がいなくなれば、この民はどうなるのでしょうか。


 モーセは先ず、「あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼしてそれを得させてくださる」(3節)といい、冒頭の言葉(6節)のとおり、「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」と告げます。


 これは、モーセに代わって主なる神がということではありません。主なる神が共にいて導かれたからこそ、モアブの地まで来ることが出来たのです。そして、モーセがいなくなっても、それは神がイスラエルの民を見捨てるということではなく、だから、主が共に歩んでくださるということに、変化はないということなのです。

 

 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守って下さるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127編1節)と詩人が詠っています。イスラエルの国を建て、その民を守るのは、優秀な指導者ではなく、主なる神なのです。主こそ、真のリーダーです。主が共に歩んでくださるのだから、「恐れてはならない。おののいてはならない」(6節)と言われるのです。


 次いで、モーセはヨシュアを呼び寄せ、民の前で自分の後継者であることを明らかにします(7節)。モーセは、ヨルダン川を渡れないことが確定したときから、エフライム族のヌンの子ヨシュアが選ばれていました(民数記27章12節以下、23節、申命記3章26節以下、28節)。神の導き、助けが、これまでモーセを通してなされていたように、これからは、ヨシュアという新しい代理人を介して与えられるのです。


 これは、創世記2章18節で、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と神が言われたことを思い起こさせます。「助ける者」とは、「助け」という意味のエゼルというヘブライ語が用いられています。旧約聖書において、「助け」をお与えになるのは主なる神のほかにありません(詩編121編1,2節参照)。その神が、独りでいる、即ち、寄る辺のない人に、「助ける者」を造ってくださるというのです。


 モーセが全権をヨシュアに委ねるにあたり、与えた奨めは、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」という言葉です(7,8,23節)。ヨシュアも、主なる神の助けを必要としている人間だということです。だから、冒頭の言葉で全イスラエルに向かって与えたのと同じ奨めの言葉が、あらためてヨシュアにも与えられているわけです。


 モーセは、12章1節以下26章まで、イスラエルの民が約束の地に入って守るべき掟と法を語って聞かせ、28章69節以下、その掟と法に基づき、シナイ山で結んだ契約を更新するかたちで、モアブの地で契約を結びました。ここで、それらを書き留めさせ、祭司およびイスラエルの全長老に与えました(9,24節)。それこそ、モーセの遺言です。それによって、民はいつでもモーセの意志を確認出来ます。神の導きを知ることが出来ます。


 主なる神が先立って民を導き、モーセの後継者にヨシュアが立てられ、そして、契約書としての律法の書があれば、鬼に金棒、これで用意は万全と言いたいところですが、モーセはしかし、そのように考えてはいませんでした。「わたしはあなたがかたくなで背く者であることを知っている。わたしが今日、まだ共に生きているときでさえ、あなたたちは主に背いている。わたしが死んだ後は、なおさらであろう」と語っているからです(27節)。


 だから、ヨシュアに、強く、雄々しくあれと語るのであり、また、祭司、長老たちに、七年ごと、仮庵祭の折に全イスラエルの前で読み聞かせ、忠実に守らせよ(10,11節)と命じるのです。どんなに心備えしても、それで安心ということはないでしょう。


 イスラエルが拠って立つのは、自分たちの誠実さ、忠実さ誠実さなどではなく、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(6節、8節など)という御言葉です。主がそう約束されるからこそ、約束の地で安息を得ることが出来るのです。


 主よ、あなたは私の弱さをよくご存知です。あなたがご一緒下さらなければ、どうして信仰の道を全うすることが出来るでしょう。どうか前から後ろから、また上から下から私を取り囲んで、恵みをお与え下さいますように。信仰の創始者であり、完成者である主を仰ぎ見ながら、私の担うべき役割を果たすことが出来ますように。 アーメン



10月12日(日) 申命記32章


「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。」 申命記32章10節


 31章30節以下の段落には、モーセがイスラエル全会衆に語り聞かせた「モーセの歌」(1~42節)が記されています。これは、主なる神がモーセに教えて書き留めさせ、イスラエルの人々に教えて、イスラエルの人々に対する証言とせよと言われていたものです(31章17節)。


 というのは、イスラエルの民が約束の地に入って満ち足りた生活をし始めると、主を侮り、その契約を破るであろうと予告されていて(同20節)、そこで彼らが災いと苦難に襲われるとき、この歌が彼らに対する証言となるのだと言われるのです(同21節)。


 この歌が、どのような節回しで歌われたのか、よく分かりません。けれども、「すべての言葉を心に留め、子どもたちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせ」(46節)るために、歌にして思いを伝えるというのは、それが人々の記憶に留まる上で、有効な手段といってよいでしょう。

 

 この歌の内容は、なかなか厳しいものです。「主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方」(4節)と主の真実さをたたえる一方、「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない。愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか」(5,6節)と、不実なイスラエルの民をばっさりと切り捨てています。


 主が40年に亘り、イスラエルの民と共にシナイの荒れ野を旅されて、彼らの不平不満、ゆえなき反抗、不信をご覧になって来たからこその表現でしょう。モーセも31章27節で、「わたしはあなたがたがかたくなで背く者であることを知っている。わたしが今日、まだ共に生きているときでさえ、あなたたちは主に背いている。わたしが死んだあとは、なおさらであろう」と言っていました。


 だからといって、彼らを呪おうとしているわけではありません。9節に、「主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業」とあります。これは、日本には日本の神がおられ、中国には中国の神がおられ、そしてイスラエルにはイスラエルの神、主がおられるというような、そしてそれは、神々の会議において、その割り当てが決められたかのような表現です。


 ただ、イスラエルを割り当てられた主は、国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割り振られた「いと高き神」(8節)、即ち天地万物の創造主なのです。

 

 一方、主なる神に割り当てられたイスラエルは、しかし、最高の民ということではありません。冒頭の言葉(10節)で「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ」と言われるように、彼らは荒れ野を彷徨っていたような存在でした。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活で呻き苦しんでいたのを、そうした言葉で表現しているのでしょう。また、荒れ野の生活で民が示した神への0不信をそう言い表したということも出来ます。

 

 つまり、イスラエルの民が優秀な民だから、嗣業の民とされたというのではなく、主の助けがなければ、そのまま荒れ野で滅びるほかないような存在だったというわけです。主はイスラエルの嘆きを聞かれ、その苦しみの様子を目に留められました。そして、モーセを遣わし、民をエジプトから救い出されました。荒れ野を旅する間、親がその子を守るように、彼らを「囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」(10節)のです。


 また、神の民としてよき訓練も行われました。「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり」(11節)というのは、雛の巣立ちを親鷲が促している様子でしょう。「羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶ」というのは、巣から飛び立った雛が上手く飛べなくて墜落しそうになるのを空中でキャッチし、巣まで運び上げて、再び飛び立つようチャレンジさせるということです。


 40年の荒れ野の生活は、イスラエルの民が神を信頼し、その導きに忠実に従うための訓練のときでした。しかしそれは、突き放したスパルタ式の訓練などではなく、まさに「御自分のひとみのように守る」という、注意深く慎重に配慮の行き届いたものだったのです。


 13節以下は、約束の地に入ってからの経験を歌っているものであるように見えますが、いずれにせよ、イスラエルの民は慈しみ深い神の憐れみに満ちた取り扱いを受けながら、「エシュルンはしかし、肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った」(15節)と言われる振る舞いで、主を怒らせました。


 ここで、「エシュルン」とは、「正しい者」という意味ですが、イスラエルの愛称と考えられます(イザヤ書44章1,2節参照)。不実な民が正しい者となるようにという神の期待が込められた呼び名ではないでしょうか。しかしながら、彼らはその期待に応えるものではなかったわけです。


 モーセの執り成しがなければ、荒れ野で滅ぼされて当然の所業でした。そういう彼らが約束の地に入ることが出来るのは、神の恵み、神のイスラエルの民を思う真実のゆえです。それを忘れて恩知らずに主を怒らせるならば、災いと苦難に襲われるでしょう。二度と憐れみをかけて頂くことが出来なくなってしまうでしょう。


 にもかかわらず、イスラエルが「敵」に苦しめられているのを看過なさらず(26,27,36節参照)、かえって、敵に対して主が自ら報復されると言われます(35,43節)。イスラエルを滅ぼして民を捕囚としたバビロンが、主の立てたペルシア王キュロスの軍に打ち破られ、イスラエルの民がエルサレムに神殿を再建することが許されるのは、まさにこの主の言葉の成就ということで、主の愛の深さ、憐れみの深さを思わせられます。


 主なる神が慈しみ豊かな、憐れみ深い方だからこそ、今日、私たちが主を神と信じて神の子とされる恵みに与らせて頂いているわけです。そうした神の恩寵を忘れず、御言葉を心に留め、忠実に聴き従う者にならせていただきたいと思います。


 主よ、罪の荒れ野を彷徨い、滅びを刈り取ろうとしていた私を見出し、救いの恵みに与らせて下さったことを感謝致します。今も注意深く私を見守り、祈りに耳を傾けていて下さいます。共にいて助けて下さいます。主に信頼し御言葉に従う者として下さい。今日も御言葉を頂きます。 アーメン



10月13日(月) 申命記33章


「レビのために彼は言った。あなたのトンミムとウリムを、あなたの慈しみに生きる者に授けてください。」 申命記33章8節


 33章には、「モーセの祝福」が記されています。これは、生涯を終えるに先立ってイスラエルの人々に与えたもので(1節)、まさにモーセの遺言といってもよいものでしょう。これについて、ヤコブが12人の子らを祝福した出来事(創世記49章)に、その先例を見ることが出来ます。

 

 祝福の言葉全体を一目見て、レビとヨセフをモーセが特別扱いしていることが分かります。語られている分量が明らかに違うからです。そのうち、ヨセフに対する祝福は、ヤコブの祝福を受けてのものといってもよいと思います。ヨセフの子エフライムから、ヌンの子ヨシュアがモーセの後継者として立てられました(民数記27章18節、13章8,16節)。ところが、レビについては、ヤコブとモーセは全く違います。

 

 ヤコブは、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間にわけ、イスラエルの間に散らす」と言っていました(創世記49章5~7節)。


 このような呪いの言葉が語られたのは、妹ディナがヒビ人ハモルの子シケムに辱められたことに腹を立て、二人が策略を巡らしてシケムの町の男を皆殺しにし、町中を略奪するという事件を起こして、イスラエルを苦境に立たせたためです(同34章1節以下、30節)。

 

 シメオン族には嗣業の地が与えられず、ユダ族の嗣業の地の中で、17の町とそれに属する村を分けてもらっただけでした(ヨシュア記19章1節以下)。まさに、「ヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」というヤコブの呪いの言葉どおりの結果になっているわけですが、それを受けているのか、モーセの祝福には、シメオンに対する祝福が完全に抜け落ちてしまっています。

 

 となると、モーセがレビに与えた祝福の言葉は、まさに特別です。ヤコブの呪いが祝福に変えられています。そうされた理由は、モーセがレビ族の出だからなのでしょうか(出エジプト記2章1節以下、民数記26章57節以下)。モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出す指導者として、主なる神によって選ばれました(出エジプト記3章1節以下)。

 

 ただ、モーセが指導者として選ばれたのは、彼が有能だったからでも、雄弁だったからでもありません。エジプトの王女の養子とされるということもありましたが(出エジプト記2章10節)、エジプト人を殺害したかどでモーセはエジプトを逃げ出し、長年月、ミディアンで羊飼いをしていました(同2章11節以下)。


 だから、神の召しを受けたとき、「わたしは何者でしょう」とモーセは言い(同3章11節)、「わたしはもともと弁が立つ方ではありません」(同4章10節)、「だれかほかの人を見つけてお遣わしください」(同4章13節)と、なんとかしてそれを辞退しようとしました。

 

 しかるに神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われ(同3章12節)、「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(同4章12節)と答えられています。つまり、神がモーセを指導者として立てたのは、彼の雄弁さや指導力を期待してのことではなかったわけです。


 ここに、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(第一コリント1章27~29節)という原則が示されているように思われます。

 

 つまり、レビは神に祝福を受ける資格を何も持っていません。むしろ、父から呪いを受けるような存在でしたが、神の憐れみにより、有力な者を辱めるために選び出され、神の聖所で務めを果たすという、大切な使命が与えられたのです。

 

 モーセは、冒頭の言葉(8節)で「あなたのトンミムとウリムを、あなたの慈しみに生きる者に授けてください」と言いました。「トンミムとウリム」とはどのようなものか、詳細は不明ですが、神意を悟るために用いるくじのようなものだったと考えられています。つまり、「トンミムとウリムを授けてください」という求めは、神の御心を知ることが出来るようにという祈りです。

 

 神の憐れみによって選ばれ、その慈しみの内を歩む彼らにとって、神の御心を知り、それを忠実に果たす以外に、彼らが生きる道はないのです。


 それは、主イエスによって選ばれた私たちも、同様です(ヨハネ15章16節)。主につながっていなければ、実を結ぶことは出来ません。農夫の手入れ、即ち神の助けがなければ、豊かな実りは期待出来ません(同15章1,5節)。私たちには、神の御旨を悟るために、神の御言葉(聖書)と聖霊が与えられています。


 日毎に主の御言葉を求め、主の御前に進みましょう。御言葉を通して神の御旨を知り、素直に聴き従うため、御霊の満たしと導きを祈り求めましょう。


 主よ、あなたはぶどうの木、私たちはその枝です。つながっていなければ、実を結ぶことは不可能です。豊かに実を結ぶことが出来るように、御言葉と御霊によって教え導いて下さい。それによって主の栄光が表されますように。 アーメン

 

 

10月14日(火) 申命記34章

 

「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。」 申命記34章5節

 

 申命記の最後に、「モーセの死」が報告されます。創世記から申命記までの5巻をモーセ5書と呼び、伝統的にモーセがその著者であるという考えが示されていますが、少なくとも申命記34章は、モーセが書けない文章です。明らかに、後代の人が申命記を編集して、この部分を書き記したわけです。

 

 死の直前、神はモーセをネボ山に登らせ、イスラエルの全地を見せられました(1節)。3章27節に語られていたこと、さらに、32章49節で主に告げられたを、ここで実行したわけです。現実には、標高800m程度のネボ山から、イスラエル全地を見渡すのは不可能です。全地を見渡すことが出来たのは、ネボ山に登ったからではなく、主がモーセにそれを見せられたからということでしょう。

 

 「ギレアド」はヨルダン川の東側、「ダン」、「ナフタリの全土」はイスラエルの北境、「エフライムとマナセの領土」はイスラエル中部、「ユダの全土」はイスラエル南部、「ネゲブ」はイスラエルの南境、「エリコの谷からツォアルまで」は、死海周辺のことです。これで確かに、イスラエルの全地を見渡したことになります。

 

 かつて主がアブラハムに、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」と言われました(創世記13章14,15節)。

 

 モーセにすべての地を見せられたということは、それをすべてモーセとその子孫に与えるということを表しています。4節で、「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした」と言われるのは、そのことです。

 

 けれども、モーセはそれを自分の所有にすることは出来ませんでした。そこに入ることを許されなかったのです。「あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」(4節)と、最後の最後にもう一度、駄目押しをされています。

 

 そして、冒頭の言葉(5節)で、モーセの死が報告されます。どのような最期だったのかは、不明です。その上、モーセを葬ったのが主ご自身で、その墓が「ベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷」(それはイスラエルの民が宿営していた場所近辺:3章29節)にあるようですが、しかし、「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」と言われます(6節)。ということは、モーセの死を見届けた者は誰もいないということになります。

 

 あらためて、なぜモーセは約束の地に入ることを許されなかったのでしょうか。民数記20章に記されている、「メリバの水」の出来事で、約束の地に入ることが出来ないということにされていますが(同1節以下、12節)、それはあまりにも厳しい裁きではないでしょうか。モーセは、ヨルダン川を渡りたいと考えていました。そう願いもしました(3章25節)。けれども、その願いは聞かれませんでした。

 

 「主の命令によってモアブの地で死んだ」(5節)と言われていますが、そのときモーセは「120歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」(7節)のです。モーセとしては、随分心残りだったのではないでしょうか。

 

 しかしながら、この情け容赦ない、ある意味では、少々理不尽さを感じる処置に対して、モーセ自身は全く抗弁してはいません。約束の地に入りたいと願いはしましたが、拒絶されてた後、神に文句を言ってはいません。悔しいと思わなかったのでしょうか。恨みに思わなかったのでしょうか。モーセが自分の思いをどのように処理したのか全く分かりませんが、ともかくも、主の命令を受け入れているのです。

 

 ここに、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ書2章8節)という主イエスの姿を示されます。主イエスこそ、何の落ち度もない、罪のない神の御子であられますが、神の命令に従い、私たちの罪を十字架に負って、30代の若さで死なれました。

 

 であれば、そのように主の命令に従うことは、モーセにとって、最高の喜びだったのではないかと教えられました。こうしてモーセは、「主の僕」としての生涯を全うし、主の命令に従って天に召されたのです。

 

 モーセは、召される前に神から与えられた戒め、掟と法を、民に守るよう教え(4章以下)、神との契約を更新しました(28章69節以下)。これからイスラエルの民は、モーセに従ってではなく、神の戒めに従って歩まなければなりません。それこそが、神の御心といってもよいでしょう。

 

 私たちにも、神の御言葉が与えられています。日々、主の御声に聴き従いましょう。そのため、悟る心、見る目、聞く耳が与えられるよう、絶えず祈り求めましょう。  

 

 主よ、あなたは御前に謙る者を高く引き上げて下さるお方です。徹底的に御言葉に従って歩み、約束の地に入る直前の死をさえ受け入れたモーセのように、あなたを畏れ、あなたに信頼し、御言葉に従うことを喜びとする主の僕として、私も歩むことが出来ますように。 アーメン

 


 

 

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