第一コリント書

 

3月7日(火)より14日(火)まで原田牧師が休暇を取られ、今日の御言葉(第一コリント書1~7章)の更新を休みました。ご了承ください。

 

 

 

3月15日(水) 第一コリント書8章

 

「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」 コリントの信徒への手紙一8章1節

 

 パウロは8章で、偶像に供えられた肉について指導します。コリントでは、アポロ神殿に供えてから市場で売られることになっていたので、そのような肉を食べても、信仰の上で問題はないのかという質問がパウロに届いたのです。

 

 冒頭の言葉(1節)に「我々は皆、知識を持っている」とカッコつきで記されているのは、コリント教会の人々の主張を引用していることを示しています。その知識とは、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないこと」(4節)を指しています。

 

 「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」(1節)ということは、彼らは正しい知識を持っているとパウロが認めていることになります。けれどもパウロは、正しい知識を持っているのだから、その通り行動しなさいとは言いません。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)と言っています。

 

 即ち、知識に愛を結びつけること、愛によって知識に基づく行動を制御するようにと告げているのです。そうでなければ、その人は高ぶりに陥るからです。「高ぶる」(フシオオー)とは、「膨らむ(puff up)」という意味の言葉です。それは、自分を実物以上に大きく見せようとすることです。

 

 イソップ物語で牛を見た蛙の子が(おたまじゃくしではなかったと思いますが)、親蛙に大きな動物を見たと報告します。親蛙は、息を一杯吸い込んで自分のおなかを膨らませ、このくらいの大きさかと子蛙に尋ねます。子はもっと大きかったと答えます。親はもっとおなかを膨らませ、子はもっと大きかったと答えます。

 

 そういうやり取りを続けているうち、ついに親蛙のおなかははじけてしまいます。蛙が牛の大きさにまで膨らむのは、勿論不可能なことでしょう。身の程知らずの蛙の愚かさを笑うという話です。パウロはここで、コリント教会の人々が持っている知識は、自分を高ぶらせるだけで、それは何の益にもならないと言っているのではないでしょうか。

 

 学者の研究によると、彼らの中には、自分がいかに正しい知識を持っているか、偶像に供えられた肉を食べても害を受けないということで証明して見せようとして、「偶像の神殿で食事の席に着いて」いたようです(10節)。

 

 コリントの町の上流階級の人々は、偶像の神殿で様々な祝いの席を設けることを常としていたそうです。その席に招かれること、あるいはその席に客人を招くことが、彼らのステータスだったわけです。そこで飲み食いしても何の影響も受けないことを示して、自分の信仰の強さ、知識の確かさを証明した気になっていたのでしょう。

 

 クリスチャンになる前は、町の人ならば誰もが当たり前に参加していた行事でしょう。ところが、クリスチャンになった今、その祭りに参加して異教の偶像に供えられた肉を食べることは、主なる神に罪を犯すことではないかと考える人もいました。

 

 そこで信仰が強いと自称する人々は、そのように考える人を「信仰が弱い」と批判し、パウロに彼らの信仰の指導を依頼したのではないかと考えられます。それをパウロは、そのように弱い者を見下ろす態度をとる者たちの知識は、自分を高ぶらせるだけの無益な知識であると批判しているのです。

 

 それだけでなく、「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事に席についているのを、誰かが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」(10,11節)と言います。

 

 パウロは、偶像なる神はないことを認めてはいますが、しかし、偶像の祭りに参加することを無害とは考えていません。弱い者はそれによって滅びてしまうというのは、再び偶像のとりこにされてしまうということでしょう。パウロはそこに、悪しき霊の働きを見ているのかも知れません。

 

 そうすると、弱い者のために死んでくださったキリストの贖いの業を無駄にすることになります。11節の「その(弱い)兄弟のためにも」の「も」は、原文にはありません。パウロは、弱い兄弟をつまずかせるのは、「キリストに対して罪を犯すことなのです」(12節)と言い切ります。

 

 そうするくらいなら、「わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)とパウロは語りますが、これは、偶像に供えた肉を食べないというのではなく、どのような肉も食べないという意味です。これによってパウロは、はっきりと弱い者の側に立つと言明しているわけです。

 

 一方、「(愛は)造り上げる」(1節:オイコドメオー)とは、「建築する」という意味の言葉で、パウロは、その行動によって人を高め、神の教会を建て上げることを求めます。すなわち、正しい知識を持っていることが行動の基準ではなく、愛こそが行動の基準として重要であることを示しているのです。特にそれは、弱い者を生かし、その交わりが豊かになることなのです。

 

 「我々は皆、知識を持っている」とコリントの教会の人々が言っているということですが、「我々」とは誰のことでしょうか。私たちが日常使う「私たち」というのは、いったい誰のことを考えているのでしょうか。都合の悪い人や仲間に加えたくない人などを省いて、「我々」と言ってはいないでしょうか。

 

 イエスを主とするキリストの教会は、互いに愛し合う愛によって造り上げられていきます。というのは、主こそ、愛だからです。互いに愛し合う愛に生きることが出来るよう、聖霊の導きを祈りましょう。

 

 主よ、私たちの心を探ってください。知識の正しさよりも愛によって行動することを選ぶという教えに、自分の愛のなさを教えられました。いつも主を拝し、御顔を慕い求め、御言葉に従うことを喜びとしますように。聖霊により、神の愛を私たちの心に満たしてください。 アーメン

 

 

3月16日(木) 第一コリント書9章

 

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」   コリントの信徒への手紙一9章23節

 

 冒頭の言葉(23節)で「福音のためなら、どんなことでもします」と語るパウロは、「だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(19節)。これは、パウロが実際に奴隷になったということではありません。対象となる人々の生活や環境を取り入れて、それに従うことを意味します。

 

 具体的には、「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました」と言っています(20節)。彼はユダヤ人ですが、キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人であることから自由になったのです。しかし、ユダヤ人に福音を伝えるためには、ユダヤ人として生活するというのです。

 

 そして、それとは反対に「律法を持たない人」(21節)、つまりユダヤ人ではない異邦人に対しては、「律法を持たない人のようになる」ことも出来ます。それは、律法で禁じられているものを食べてでも、彼らと交わるということでしょう。それが福音の前進に役立つとあれば、いとわず進むのです。

 

 扇谷正造という人がずいぶん前に著した『トップの条件』という本があります。副題に「『恕』1字で萬事」と記されています。「恕」とは、思いやり、同情、赦す、大目に見るという意味です。

 

 その中に、英国のウインザー公の話がありました。彼が皇太子のころ、当時は大英帝国を誇り、世界各地に植民地を持っておりました。そして毎年、植民地の王たちを招いて、ロンドンで大晩餐会を催していたそうです。そこには、英国の紳士淑女が陪席します。

 

 ある年の晩餐会で食事の最後にフィンガーボールが出てきたとき、インドの王様がその水を飲んだというのです。まさか、それは手を洗う水ですよといって主賓に恥をかかせる訳にもいかず、どうしようと陪席の紳士淑女たちが戸惑っていると、ホストのウインザー公もそれを飲んだ。それで一同がそれに倣い、晩餐会が無事に終了したそうです。

 

 このウインザー公の心配りが、恕の精神だというわけです。相手に恥をかかせないもてなし、相手の立場に立って物を考える力が問われるということです。パウロが、すべての人に対してすべてのものになったというのは、恕の精神をもって行動しているということではないでしょうか。

 

 すべての人に対してすべてのものになったというパウロが、一番強調しているのは、22節の「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」ということです。その理由として、二つのことを上げることが出来ます。

 

 一つは、すべての人に対してすべてのものになったと言っているのに、「強い人に対しては、強い人のようになった」という言葉がないことです。パウロは、できるだけ多くの人を得たいと考えていますが(19節)、強い人のようになるとき、弱い人は彼を離れるでしょう。明らかに彼は、弱い人に寄り添い、弱い人と共に歩み、自ら弱い人として生きることを選んでいます。

 

 もう一つは、「弱い人のようになった」という文章を原文で読むと、「のよう」という言葉がないことです。正しく訳せば、「弱い人になった」(エゲノメーン・アスセネース)という文章になります。強い者から批判を受ける対象となり、その批判を跳ね除ける強い者ではなく、批判されるままにその弱さを担う者になったのです。「すべての人の奴隷になった」という表現もそれを示しています。

 

 そしてこれは、パウロが主イエスを模範として行ったことなのです。主イエスは「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2章7節)。その十字架の死によって、すべての人の罪を担い、贖ってくださったのです。それによって、私たちは救いを得ました。主イエスに倣う生き方をすることこそ、パウロの語る、「共に福音にあずかる」ということなのです。

 

 福音に共に与る者となるために、どんなことでもすると語ったパウロは、それに続いて、競技場で競技をする者の例を持ち出します。昨年、ブラジル・リオデジャネイロでオリンピックが開かれました。パウロは、オリンピックを見たことがあるのでしょうか。定かではありませんが、コリントの町では2年ごとにイストミア競技会と呼ばれる大競技祭が開催されていたそうです。

 

 だから、コリント教会の人々は、パウロが短距離走や拳闘について語るとき、活き活きとしたイメージでそれを聞いたことでしょう。25節に「朽ちる冠」という言葉があります。オリンピックでは月桂冠をかぶらせますが、イストミア競技会の勝者には、枯らしたセロリで作った冠がかぶせられたそうです。

 

 なぜセロリなのか分かりませんが、その冠そのものに価値がないという点では、「朽ちる冠」という表現がぴったりです。しかし、勝者になる栄誉のために、競技者たちは節制します。

 

 この話をしながら、パウロは、「わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制する」(25節)と言います。この言葉で、信仰の傍観者ではなく、信仰生活で「朽ちない冠を得る」勝利者となるよう、私たちにチャレンジしています。

 

 私たちが教会生活という団体競技で勝利者となるというのは、他の誰よりも強い確信があるとか、知識を持っているというようなことではありません。そうではなく、皆が「福音に共にあずかる者となる」(23節)ということであり、そのために互いに愛し合うこと、隣人に対してキリストの愛をもって奉仕することなのです。

 

 主よ、パウロが弱い人になったのは、自分の罪のために死なれた主イエスの福音に参与することでした。私たちも、それぞれの方法で福音にあずかる者となることが出来ますように。御霊に満たされてその力を受け、心に神の愛が注がれて、主の御業に用いられるうつわとしてください。 アーメン

 

 

3月17日(金) 第一コリント書10章

 

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 コリントの信徒への手紙一10章13節

 

 9章31節で「他の人に宣教しておきながら、自分のほうが失格者になってしまわないためです」と記したパウロは、「次のことはぜひ知っておいてほしい」(1節)といって、イスラエルの先祖たちの失敗を語り、コリントの教会の人々に警告します(11節など)。

 

 モーセに率いられたイスラエルの民は、雲の柱、火の柱をもって守り導かれる神に従って(出エジプト記13章21,22節)、紅海を渡ってエジプトを脱出しました(同14章)。彼らは、シナイの荒れ野で神が与えたパンを食べ(同16章)、岩から流れ出た水を飲みました(同17章)。

 

 ところが、彼らの大部分は荒れ野で滅ぼされました(5節)。彼らが神に従わなかったからです。それは、異教の偶像を礼拝し(7節、出エジプト記32章など)、みだらなことをし(8節、民数記25章2,6節以下など)、キリストを試み(9節、民数記21章4節以下)、指導者に不平を言ったこと(10節、民数記16章1節以下、17章6節以下)などです。

 

 イスラエルの民は神に与えられた自由を自分の欲望に売り渡し、罪の奴隷となってしまったのです。だから、以前の罪の奴隷から解放されたコリントの人々が、自由を履き違えて神の御心に適わないことをして滅びを招かないように、警告しているわけです。

 

 それは、そのような生活をする人々がいたのでしょう。異教の偶像に供えた肉を食する宴に参加することを厭わず、コリントの町に1000人いたと言われる神殿娼婦と交わることをためらわない人がいますし、パウロが主イエスに召された使徒であることを疑い、その指導に背いて教会分裂の危機を生じています。そうすることが真の知識を持った自由人の証しと言ってはばからないわけです。

 

 当然のことながら、罪の赦しと罪からの解放とは、罪を犯す自由と権利を得ることではなく、罪を犯さない生活をすることです。主イエスは、姦淫の現場で捕らえられた婦人を罪に定めず、解放されましたが、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8章11節)と命じておられます。パウロも、それを冒頭の言葉(13節)で確認しているわけです。

 

 ここで、「試練(test,trial)」(ペイラスモス)には「誘惑(temptation:欽定訳ほか)」という意味もあります。神ご自身が人を罪に誘惑されることはあり得ません。それは悪しき霊の仕業です。しかし、神が悪しき霊をもその手の中で支配しておられ、その仕業をある程度許容しておられます。

 

 それは、私たちがその誘惑に際し、あるいは悪しき霊に苦しめられるとき、どのように振舞うかを試す、文字通り、試練として用いられるわけです。そして、ご自分を求める者たちには、自分の欲望を満足させようとする罪の誘惑に打ち勝ち、あるいは誘惑から逃れ、神の御心に従って生活が出来るように、必要な知恵や力、助けをお与えくださるのです。

 

 その根拠は、「神は真実な方です」ということです。神は、イスラエルの歴史を貫いて、常に真実であられました(申命記32章4節、詩編36編6節、40編11節、89編9節、イザヤ書49章7節、65章16節、ゼカリヤ書8章8節、ヨハネ3章33節、ローマ書3章4節、1コリント1章9節、2コリント1章18節など)。

 

 ゆえに、背き続けるイスラエルの民を憐れました。そしてついには、独り子をさえお与えになり、その血によって私たちと新たな契約を結んでくださったのです(ヘブライ9章15節以下、12章24節など)。私たちと共におられ、私たちを守ってくださる主イエスとの真実な交わりに生きること、それが、真実な神を信じて生きる道なのです。

 

 私たちは、キリストの血という代価によって買い取られ(6章20節)、真実な神の霊を宿す神殿とされています(同19節)。神の真実に支えられて、信仰の道を誠実に歩んでいきましょう。 

 

 主よ、今日の御言葉を感謝します。主の真実に信頼します。私たちは不真実であっても、あなたは常に真実な方だからです。あなたの真実に支えられて、主の道を歩みます。聖霊と御言葉によって私たちを常に正しい道、命の道へ導いてください。 アーメン

 

 

3月18日(土) 第一コリント書11章

 

「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 コリントの信徒への手紙一11章1節

 

 冒頭の言葉(1節)の「わたしに倣う者となりなさい」という勧告は、4章16節に続いて2度目の登場です。パウロは、自分の言うことを聞けと命じるのではなく、自分を手本とせよと言います。師が弟子にそう語るのは、当然と言えば当然のことです。

 

 パウロ自身は、わたしはキリストに倣う者であると言います。ここに、キリスト、パウロ、コリント教会の信徒たちという順序、上から下への流れがあります。パウロなしに、コリントの教会はありませんでした。そして、キリストなしでは、使徒パウロは存在し得なかったのです。

 

 パウロはどのようにしてキリストに倣い、コリント教会の信徒たちの模範となろうとしているのでしょうか。それは決して、パウロが立派な生活が出来ているとか、誰よりも優れているという意味の模範ではありません。パウロはいつも、十字架につけられたキリストに注目しています。ですから、パウロに倣う者にも、キリストに目を注いでほしいと考えているのです。

 

 十字架のキリストに目を注ぐと、何が見えてくるのでしょうか。キリストの十字架は、私たちの罪を赦し、救いの道を開くものでした。パウロは、キリストに倣って、自分が救いの道を開く者になったと言っているのでしょうか。勿論そうではありません。断じてそうではありません。十字架が私たちの救いの道となったというのは、そこにキリストが命を捨てられたということです。

 

 キリストが十字架にかかられたのは、決して英雄としてではありませんでした。罪なき神の子が罪人として裁かれ、そこで死なれたのです。すでに見たとおり、「十字架につけられたキリスト」を宣教するのは「愚か」であり、「つまずかせるもの」でした(1章23節)。しかし、信仰の目が開かれたとき、キリストの苦しみと死は、永遠の栄光をもたらす力の表れであることが分かったのです。

 

 パウロがキリストに倣うと語るのは、神に忠実に従って十字架の苦しみを受け、死なれたキリストに倣うこと、つまりそれは、自分の名を上げることではなく、隣人のために、特に弱い者のための愛と奉仕に生きることなのです。誰が注目してもしなくても、評価されてもされなくても、一人を獲得するために働くのです。

 

 場合によっては、それは多くの人から批判される働きになります。見失った一匹の羊を探し出すため、99匹の羊を野原に残せば(ルカ福音書15章4節)、羊飼いは99匹の羊から文句を言われるかもしれません。自分勝手にいなくなった一匹にそこまで目をかけて、ずっと従って来た私たちを野原に放っておくのかと。

 

 あるいは、そもそも一匹の羊を見失うこと自体、羊飼い失格という証拠だということにされるのではないでしょうか。キリストは、見失った一匹を獲得するために、この文句を引き受けられたのです。

 

 そして、考えてみてください。実は、他の99匹も以前は見失われ、野に迷い出ていたものであって、キリストによって一匹ずつ見出されたものでした。主イエスが羊のために命を捨ててくださるよい羊飼いだからこそ、今の私たちがあるのです。

 

 パウロは、その感謝、喜びを忘れることが出来ません。彼は、単に迷い出たというようなものではありませんでした。羊飼い失格と考え、キリストに敵対する者だったのです(ローマ書5章6節以下)。にも拘わらず、愛され、義とされ、和解させていただき、救いに与りました(同10節)。だから、キリストに倣ってその一匹を探し出す者になり、その働きでコリント教会が建てられたのです。

 

 パウロの願いは、すべての人に福音を告げ知らせ、救いに導くことです。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(9章23節)というパウロです。10章33節でも、「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」と言っています。

 

 自分の自由、知恵知識、経験を誇り、他者を差別する生き方ではなく、すべての人に仕える生き方、それが、パウロのキリストに倣う姿勢、福音を告げ知らせるスタンスです。その姿勢にコリントの教会の人々が倣ってくれること、協力し合うことを願っているのです。

 

 めいめいがどこから主の救いに導かれ、今があるのかを思い起こし、感謝をもって主に仕え、委ねられている使命を果たして参りましょう。 

 

 主よ、キリストの体なる教会が、絶えず神の愛に満たされ、キリストの愛を実践することが出来ますように。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に泣く真実な交わりで、すべての人と平和に、共に福音に与る歩み、働きが出来ますように。絶えず聖霊の満たしと導きをお与えください。 アーメン

 

 

3月19日(日) 第一コリント書12章

 

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」 コリントの信徒への手紙一12章3節

 

 1節に、「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」と記されています。「ぜひ知っていてほしい」というのは、原文では「無知でいて欲しくない」(ウー・セロー・アグノエイン)という、コリント教会の信徒たちの理解の程度を少々疑う言葉遣いになっています。

 

 また、「霊的な賜物」は、「霊的な」(プネウマティコス:形容詞)+冠詞という言葉(ただし複数形)で、「霊的な人々」と訳される可能性もあります。ここでは、4節に「賜物(カリスマ)」が出てくるので、「霊的な賜物」という訳になったのでしょう。これは、コリントの教会で重要視されていた問題です。ですから、パウロも12~14章と大きな部分を割いて、この問題を取り扱っています。

 

 冒頭の言葉(3節)は、神の霊、聖霊の働きがどのように現れるか、それがどこに認められるかという問題に答えたものです。これは、今日においても重要なことでしょう。これほど文明が発達し、様々なことが科学的に立証される時代になっても、占いやまじない、霊能者と呼ばれる人々が堂々とテレビにも登場して来て、人々の耳目を集めています。その影響力は計り知れないものがあります。

 

 様々な霊の存在、そして霊の働きが認められる中で、神の霊、聖霊の働きは、それによって語られる言葉、つまり、「イエスは神から見捨てられよ」(アナセマ・イエスース:「イエスは呪い」の意)というのか、それとも「イエスは主である」(キュリオス・イエスース)というのかということで判断出来ると、パウロは言っています。

 

 キリスト者が「イエスは見捨てられよ」と発言するとは考えられません。キリスト者を迫害する者が、踏み絵のような形で強いて言わせようとした言葉と考えればよいでしょう。背後に、異教徒の存在がありそうです。あるいは、コリント教会の信徒たちの中に、異教徒のときに様々な霊体験を持った者がいて、それが今も影響しているとパウロは考えているのかも知れません。

 

 霊によって「ものの言えない偶像」のところに連れて行かれ(2節)、金縛りにあったり、トランス状態になっておおはしゃぎしたりしたという体験です。この後の議論から、特に「異言を語る」(10節、13章1節、14章2,4節など)という経験をすることが、霊的な恵みを受けたこと、特別な存在となったことの証拠と考えられたようです。

 

 そこで、そういう体験を求めて「ものの言えない偶像」のところに熱心に通ったということでしょう。コリント教会の人々が霊的な「体験」を熱心に求めるというのは、そのような異教の霊の悪影響を引きずっているのではないかというわけです。

 

 しかしながら、彼らは異教の悪影響から救われ、主イエスを信じる神の子どもになりました。神の霊、聖霊の働きは、「イエスが主である」と信じることが出来るように導き、そう告白させることです。私たちが信仰を得たこと、そして、「イエスが主である」という信仰告白に導かれたのは、神の霊、聖霊の賜物であるという主張がここにあります。

 

 聖霊は私たちに真理を教えます(ヨハネ福音書14章17節、16章13節など)。同様に、キリストの言葉にとどまることで真理を知ります(同8章31,32節)。御言葉による真理は私たちを自由にします(同8章32節)。

 

 また、「主の霊のおられるところに自由がある」(第二コリント書3章17節)という御言葉があります。こうして、聖霊はキリストの御言葉を通して働かれると見ることが出来ます。

 

 神に喜ばれるのは信仰です。信仰がなければ、神に喜ばれることは出来ません(ヘブライ書11章6節)。そして、その信仰は、キリストの言葉を聴くことによって始まるのです(ローマ書10章17節)。御言葉を慕い求めましょう。御言葉に聴き従いましょう。聖霊はその信仰の中で働かれるのです。

 

 主よ、今日も御言葉を求めます。御言葉を聴きます。そこから、信仰が始まるからです。聖霊の導きによって、御言葉の真理を悟らせてください。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできると言われているからです。真理に従って歩むことが出来ますように。私たちの歩みを祝福してください。 アーメン

 

 

3月20日(月) 第一コリント書13章

 

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」 コリントの信徒への手紙一13章4節

 

 13章は、「愛の賛歌」と呼ばれて親しまれている箇所です。パウロは、12章の最後のところで、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12章31節)と記しています。そうして語られたのが、この「愛の賛歌」です。即ち、パウロは、愛こそが最大の賜物、愛に生きることこそ最高の道と考えているわけです。

 

 1~3節に、12章に記されていた「霊の賜物」が登場して来ます。まず1節、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と言われます。14章でパウロは、「異言」という賜物を肯定的に評価していますが、それには、愛をもって語ることが重要だというわけです。

 

 2節は、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。教会を造り上げるためには、「預言」の賜物が「異言」にまさっていると14章5節に記されていますが、愛なしにはそれも無に等しいのです。

 

 「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じている」、「完全な信仰を持って」いるということを自慢している人々がいたようです。神から与えられた賜物を持っていることを自慢する者たちは、他者への愛に欠けており、それは無意味なことだというパウロの批判と見ることが出来ます。

 

 3節には、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と記されています。貧しい人々に全財産を施すというのは、最高の道徳行為と考えられていました。また、「わが身を死に引き渡す」とは、殉教の死を遂げるという表現です。命をかけて信仰を守るというのは、信徒の誇りでしょう。

 

 しかし、最高の行いと思われることでも、愛がなければ、何の益もないと言われます。これは、大変厳しい言葉ではないでしょうか。施しというものは、その動機が何であれ、そこには多少なりとも愛があるでしょう。それを、愛がなければ無益と言われるということは、逆に、私たちは愛の行為をすることが出来るのかということになるのではないでしょうか。

 

 そこで、パウロは4~7節において、15の動詞を用いて、愛の特質について説明します。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 

 「忍耐強い、情け深い」と言えば、日本語では形容詞ですが、原語では「忍耐する、親切にする」という動詞です。動詞で愛の特質を説明しているのは、愛というものは、何よりも行動によって示されるものであるということです。

 

 バークレイの注解では、冒頭の言葉(4節)の「忍耐強い」(マクロスメオウ)という動詞について、「常に人々に対する忍耐を表わし、周囲の状況に対する忍耐を意味してはいない。それは、他者から不当な扱いを受け、これに対して復讐しようと思えば簡単に出来るのだが、あえてそれをしない、そういう人間について用いられる言葉である。それは怒りを遅くする者をあらわす」と言います。

 

 私たちは、たとえば、貧しさとか病気などの苦しみには耐えようとすることが出来ますが、むしろ、人々から受ける苦痛、たとえば、無礼な態度、侮辱を忍耐するというのは、大変困難です。

 

 パウロは、十字架の苦難、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架に釘づけられるという苦痛の上に、あらゆる侮辱、嘲りを耐え忍ばれた主イエスの忍耐を思っているのです。この「忍耐強い」という動詞に示されているのは、キリストを通して表された神の愛なのです。

 

 よく言われることですが、4~7節の「愛」という言葉に自分の名前を入れて読んでみましょう。どうでしょう。はっきりと声を出して読めますか。だんだん声が小さくなりますね。自分の内に、聖書で言う愛がないということを、思い知らされるような感じです。

 

 あらためて、「愛」という言葉を「キリスト」と置き換えて読んでみましょう。「キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。ねたまない。キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 

 何の違和感もありません。ここに語られている「愛」は、確かにキリストを表わしているということが分かります。ということは、ここに15の動詞で表現されている愛は、パウロが経験してきた、パウロが味わっている主イエスのご愛そのものということではないでしょうか。

 

 以前、幼稚園の卒園式のとき、泣いている子どもたちがいたので、悲しいことがあれば泣けばいい、だけど、光の子として胸を張ろう、後ろのことは忘れて前を向こう、力を合わせ、助け合って前進しよう、神様がきっと祝福してくださると話したことがあります。

 

 式の後、一人のお母様が私のところにおいでになって、あの言葉で癒されましたと仰いました。どういう悲しみをお持ちなのか、詳しいことは分かりませんが、神様がご存知で、私の拙い言葉を通して、お母様に語りかけてくださったのだと思いました。神様がそのお母様とご家族を、広い愛、長い愛、高い愛、深い愛で導いてくださるようにと祈りました(エフェソ書3章18,19節参照)。

 

 パウロは、「愛は決して滅びない」(8節)、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(13節)と断言します。信仰と希望と愛は、7節で、忍耐にはさまれて、「(愛は)すべてを信じ、すべてを望み」と記されていました。パウロはここに、終末に訪れる神の愛の最後の勝利を堅く信じ、その勝利を待ち望んでいるのです。

 

 この愛が神の最大の賜物であり、それを受けるよう「熱心に努めなさい」と言われるということは、愛を祈り求めよということです。祈りを通して、信仰に、希望に、愛に導かれ、その恵みをお与えくださる主をほめたたえましょう。

 

 主よ、私たちに聖霊をお与えくださり、感謝いたします。聖霊を通して私たちの内なる人を強め、信仰によってキリストを心の内に住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者、神の忍耐強い愛に生きる者としてください。 アーメン

 

 

3月21日(火) 第一コリント書14章

 

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」 コリントの信徒への手紙一14章1節

 

 14章でパウロは、異言と預言の賜物について記しています。

 

 「異言」というのは、私たちが日常生活で使う言葉ではありません。原文を直訳すると「別の舌」という言葉です。「異言」は、語る人にもその意味が分からないものです。これは、神に向かって語られる、誰にも分からない、霊によって神秘を語るという霊的な言葉の賜物です(2節)。

 

 コリント教会の中には、異言の賜物を過度に重んじる人々がいました。彼らは、異言を語ることが霊的に成長し、信仰が成熟した者の証拠であるかのように考えていたようです。そのような考え方をする人が、コリントの教会の有力者といわれる人々の中に少なからずいたと、注解書に記されていました。

 

 異言が語る経験を持たない人々が多い教会では、この賜物を軽んじる傾向がありますが、異言も神から教会に与えられた「霊的な賜物(タ・プネウマティカ:複数形)」の一つであり、「霊の働きが現れるのは、全体の益になること」(12章7節)といって、同8節以下に霊の賜物を列挙する中に「種々の異言を語る力」(同10節)と挙げています。

 

 だからパウロは、誰にも理解出来ないような異言を語るのはやめなさいという言い方をしません。むしろ18節で「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と言っていますし、また39節に「異言を語ることを禁じてはなりません」と記しています。

 

 3,4,12節に「造り上げる」という言葉が出て来ます。これは「家を建てる」(オイコドメオー)という言葉で、口語訳では、「徳を高める」と訳されていました。ここでは「高める、強くする、確立する、徳を養う、益となるといった意味にも用いられます。

 

 異言は、個人を強め、造り上げるものです(4節)。それは、異言の賜物が私たちを強めるということではなく、異言の祈りを与えられる聖霊の働きによって、私たちが作り上げられるということでしょう。しかし、異言が教会の中で語られても、それは誰にも理解出来ないものなので、それを聞いて互いに心を一つにすることが出来ません。

 

 15節に「霊で祈り」、「霊で賛美し」とあるのは、文脈上、異言の祈り、異言の賛美と考えてよいでしょう。異言で祈り、賛美すれば、霊的な実を実らせることになるでしょうけれども、それは、人にも自分自身にも分かる言葉ではないので、私たちの理性は実を結ばず(14節)、教会を造り上げることが出来ないというのです。

 

 4節には、教会を造り上げるのは、預言の賜物だと記されています。預言とは、何年後にどういうことが起こるかを予め語る「予言」ではありません。聖霊の働きで神の言葉を預かり、それを人に向かって語ることです。

 

 異言が神に向かって語られるのに対し(2節)、預言は人に向かって語られるもので、人を造り上げ、励まし、慰めます(3節)。だから、教会を造り上げるために、冒頭の言葉(1節)で、「預言をするための賜物を熱心に求めなさい」と言われています(5,12節も参照)。

 

 「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)と主イエスが言われ、その後、ペンテコステに福音を大胆に語り出し、多くの人々が信仰に導かれました(同2章1節以下)。

 

 だから、預言が出来ればよいというのではありません。聖霊の力に満たされて、キリストを証しすること、福音を宣べ伝えることが求められます。そのことを、パウロは、「預言の賜物を求めなさい」という言葉で勧めているわけです。

 

 キリストの体なる教会を造り上げるために、大胆に力強く福音を伝えることが出来るように、御言葉を語る器として用いられるために、聖霊に満たされること、聖霊の賜物が豊かに与えられることを、熱心に祈り求めて参りましょう。

 

 主よ、私たちが大胆に福音を宣べ伝え、教会を造り上げるために、聖霊に満たし、御霊の賜物、特に預言の賜物を授けてください。聖霊を通して注がれる神の愛を受けて、平和を作り出す者となることが出来ますように。 アーメン

 

 

3月22日(水) 第一コリント書15章

 

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いておるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」 コリントの信徒への手紙一15章3~5節

 

 パウロは15章に、彼がコリントの人々に説いた福音について、記しています。1節に、「もう一度知らせます」と語られていますが、原文には、「もう一度」という言葉はありません。以前知らせた福音を知らせるというので、「もう一度」という言葉が訳文に付け加えられたわけです。

 

 告げ知らせようとしている福音は、以前彼らに語ったものであり、そして彼らがそれを受け入れ、そして、その中に彼らが立ち続けているものです。「生活のよりどころとしている福音」(1節)と訳されていますが、原文では、福音の中に立ち続けていると書かれています。「立ち続けている」(エステーカテ)というのを、「生活のよりどころ」と意訳したわけです。

 

 その福音が、冒頭の言葉(3~5節)です。その内容は、①キリストがわたしたちの罪のために死んだこと(3節)、②葬られたこと(4節)、③三日目に復活したことです(4節)。そして、復活の証人としてケファ(即ちペトロ)と12人が挙げられました(5節)。12人とは、主イエスがお選びになった使徒たちのことです。

 

 「キリストがわたしたちの罪のために死んだこと」(3節)と、「三日目に復活したこと」(4節)には、「聖書に書いてあるとおり」という言葉が記されています。聖書とは、この時代、新約聖書は出来ていませんから、旧約聖書のことを指しているのですが、旧約聖書を調べると、救い主メシアが私たちの罪のために死なれること、そして三日目に復活されることが記されているということです。

 

 主イエスが、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ福音書5章39節)と仰ったのも、そのことを指しています。

 

 一方、「葬られたこと」(4節)と「ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」(5節)には、「聖書に書かれているとおり」という言葉がありません。これは、聖書に記されているかどうか、という問題なのではなくて、この二つは、それぞれ、歴史的な事実を証言しようとしています。

 

 「葬られたこと」というのは、イエスが死なれたということが歴史的な事実であることを証言しています。エルサレムに聖墳墓教会、主イエスのお墓の教会があり、その地下に、主イエスが葬られた墓が保存されています。お墓があるということは、主イエスが、歴史的事実として死んで葬られたということを証言しているのです。

 

 また、「ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」というのは、主イエスが三日目に復活されたということが歴史的な事実であると証言することです。

 

 何気ない言葉ですが、パウロが伝えた証言によれば、ケファに現れた後「十二人」、つまりイスカリオテのユダをも含む使徒たちに、復活の主が姿を現されたと言っていることになります。マタイや使徒言行録の証言が正しければ、ユダを除いて「十一人」と言わなければならなかったはずです。

 

 いずれにせよ、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、そして三日目に復活されたことが、予め聖書に記されていたことであり、そして、さらにそれが歴史的な事実として証言されていることだと、語られているのです。

 

 パウロはこれを、「最も大切なこととしてあなたがたに伝えた」(パレドーカ・ヒューミーン・エン・プロートイス)と語っていますが、しかしこれは、パウロが考え出したものではありません。「わたしも受けたものです」(ホ・カイ・パレラボン)と告げているとおりです。

 

 ちょうど、リレーの走者がバトンを受け渡すように、あるいは、駅伝ランナーがたすきを受け渡すように、しっかりと先の者からあとの者へ、福音を語る役目を引き継いだということです。最も大切な福音と呼ばれている冒頭の言葉は、初代キリスト教会、ペトロやヤコブ、ヨハネたちが宣べ伝えるときに用いた福音の言葉、伝道の言葉、あるいは信仰告白と言われています。

 

 「最も大切なこと」と呼んでいるわけですから、この福音の言葉は一字一句替えないで、受け継がれてきたものだと思います。しかしながら、パウロたちはそれを伝言ゲームのように、正確に憶えて間違えないように次の人に語ったということでもありません。

 

 というのは、この福音は、聞いた人々に受け入れられ、生活の拠り所となるからです(1節)。「わたしも受けた」と語ったパウロも、この福音によって救われたのです。まさに、この福音に救いを得させる神の力が働いているのです。

 

 その上パウロは、6,7節を付け足しています。500人以上もの兄弟たちに同時に現れ、次いでヤコブに現れ、その後、すべての使徒たちに現れたと言います。ヤコブは、主イエスの実弟で、後にエルサレム教会を中心的に担うことになった人物です(使徒言行録21章18節以下)。

 

 この付け足しは勿論、彼が勝手に考えたことではなく、これもバトンが渡されるたびに付け足されてきたのではないでしょうか。即ち、ケファ、12人、そして500人以上の兄弟たち、ヤコブ、それからすべての使徒たちが、甦られた主イエスと出会って、主イエスの甦りを証言する者とされました。

 

 そして、最後に「月足らずで生まれたようなわたし」パウロにも主イエスが出会ってくださったと言います(8節)。主イエスの福音は、聖書において預言され、歴史的な事実として語り告げられてきたこと、そしてパウロもその事実を味わった一人としてそのバトンを受けたということです。

 

 本来ならば、彼はそこに名を連ねるはずのない人物でした。むしろ、そのような証言を根絶やしにしようと迫害する側にいたのです。9節にそのことを記しています。だから、「月足らずで生まれたようなわたし」というのです。確かに、パウロがバトンを受けたのは、神の恵みです。決して、自分からなろうとしてなったのではありません。神がパウロを選ばれたのです。

 

 そして、キリストの復活の証人、使徒として働くことこそが、本来のパウロのあるべき姿でした。それを神の恵みによって見出したというのです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです(I am what I am)」(10節)と語っているのは、そのことです。

 

 神の恵みを受けるまでは、そのことが分からなかったのです。ですから、パウロの働きすべてが神の恵みなのです。すべてが「神の恵み」という言葉に集約されていますが、パウロにとって、どんなにマイナスと見えることも、神の恵みの中でそれが益となって働くということを、使徒として働く中で味わってきたわけです。

 

 今、この福音宣教のバトン、多くの人々の汗と涙、血のにじんだたすきが、私たちのところまで運ばれてきました。私たちも、私たちの罪のために死なれ、三日目に復活された主イエスの福音を信じて、救いの恵みに与りました。甦られた主イエスに選ばれ、召されたのです。

 

 この福音にしっかり立ち続け、そうして周りの人々に、最も大切なこととして語り告げて参りましょう。主の恵みと導きが豊かにありますように。

 

 主よ、御子キリストが私たちのために死んでくださったこと、それによって命の道が開かれたことを感謝します。死への恐れではなく、永遠の命に生きる希望をもって、この地上で主の業に励みたいと思います。絶えず霊の恵みをもって励まし、助けてください。私たちを、主の十字架と復活の証人として用いてください。 アーメン

 

 

3月23日(木) 第一コリント書16章

 

「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。愛をもって行いなさい。」 コリントの信徒への手紙一16章13~14節

 

 16章は、募金についての指示(1~4節)、コリントへの旅行計画(5~12節)、そして結びの言葉(13節以下)が記されています。

 

 13,14節は勧告で、13節に四つ、14節に一つの命令形の動詞があります。

 

 まず、「目を覚ましていなさい」(グレーゴレイテ)というのは、実際に眠らない生活をすることではありません。信仰の目を覚ましていること、今がどのようなときであるかをわきまえ、特に、終わりの日が近いことを考え、再臨の主を待望して、その希望にふさわしい生活をすることです。

 

 「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」(ステーケテ・エン・テー・ピステイ)というのは、自分の主義信条によるのではなく、神の福音を土台として、主イエスを信じる信仰に基づいて生活することです。

 

 ヘブライ書11章6節に、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあり、そして、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ書10章17節)と記されております。この時代に、何ものにも動かされないでしっかりと信仰に立つことが出来るように、キリストの言葉を聴いていきましょう。

 

 「雄々しく、強く生きなさい」というのは、「雄々しくあれ」(アンドゥリゼスセ)、「強く生きよ」(クラタイウースセ)という二つの動詞が連なって語られているものです。新約聖書中、「雄々しく」は、ここ以外には用いられていません。「アンドゥリゾマイ」は、「アネール:男(複数形アンドレス」に関係し、口語訳、新改訳は「男らしく」と訳しています。

 

 「強く生きなさい」も、用例は僅かです(他にルカ1章80節、2章40節、エフェソ3章16節のみ)。「クラタイオオー)は「クラトス」(「力」の意:エフェソ1章19節、6章10節、コロサイ1章10節など参照)と関係する言葉です。

 

 この二つの言葉が同時に用いられているのは、詩編31編25節(七十人訳)が反映しているものと考えられます。24節から読んでみましょう。「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ(アンドゥリゼスセ)。心を強くせよ(クラタイウースソー)。主を待ち望む者はすべて」。

 

 ここで、強さや雄々しさは神への愛に根ざし、そして、主を信頼して待ち望むところに根拠を置いています。「主に望みを置く人は新たなる力を得、鷲のように翼を張るって上る」(イザヤ書40章31節)のです。ですから、真の強さというものは、驕りや高ぶりとは無縁のものなのです。

 

 そして14節の「何事も愛をもって行いなさい」(パンタ・フューモーン・エン・アガペー・ギネスソー)。「愛をもって行え」というのは、この手紙の主題ともいうべき言葉です。

 

 愛については、8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語られておりました。それから13章は「愛の賛歌」と呼ばれるところです。霊の賜物、神のプレゼントについて語っている12章から14章で、最も大いなる賜物、最高の道は、愛であると教えている箇所です。

 

 13章4節から7節において、神の愛が15の動詞で説明されています。神の愛は行動によって表されるということです。特に「忍耐強い」(4節)、「すべてを忍び」、「すべてに耐える」(7節)と、忍耐が語られます。

 

 私たちの堪忍袋の尾は、簡単に切れてしまいます。もう限界だ、そんな愛には生られない。そんなことをやっていたら身が持たない、やっていけないということになってしまいます。だからこそ、賜物として与えられる神の愛を祈り求め、すべてのことを愛もって行えと、ここで命じているのです。

 

 結びの言葉の最後に祝福の祈りが記されます。それは、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祈りです。礼拝の祝祷では、「主イエスの恵みと、父なる神の愛と、聖霊の交わりがあなたがたの上に豊かにあるように」と、三位一体の神からの祝福を祈っております。ここでは、神の愛と聖霊の交わりという祈りの言葉を「主イエスの恵み」という言葉に込めて祈られているのでしょう。

 

 通常は祝祷で終わりですが、この手紙では祝祷にさらに祈りが続きます。それは、「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(24節)という祈りです。キリスト・イエスこそ、パウロとコリントの信徒を結ぶ絆です。そして、キリスト・イエスのゆえに、パウロは、コリントの信徒たちを愛すると語ることができるのです。

 

 私たちもお互いに祈りましょう。自分たちの愛が、キリスト・イエスにおいて、キリストの体なる教会に連なる神の家族一同と共にあるように祈るのです。お互いの思いが主イエスによって執り成され、キリストの愛によってお互いが愛の絆で結ばれるように祈りましょう。

 

 主よ、あなたの恵みと導きに感謝します。私たちが何事も愛をもって行うことが出来ますように。主イエスの恵みが、常に私たちと共にありますように。私たちの愛が、キリスト・イエスにおいて神の家族一同と共にありますように。お互いの思いが主イエスによって執り成され、神の愛の絆で結ばれますように。 アーメン

 

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