ヤコブ書

 

 

5月31日(水) ヤコブ書1章

 

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」 ヤコブの手紙1章21節

 

 ヤコブの手紙の著者は、ゼベダイの子ヤコブではなく、主イエスの弟、肉親のヤコブであると考えられています。主の兄弟ヤコブは、主イエスの生前にはクリスチャンではありませんでした。彼が信仰に入ったのは、復活された主イエスに会ったからでしょう(第一コリント書15章7節)。後に、ゼベダイの子ヤコブが殉教した後、選ばれて教会の使徒となりました(使徒言行録12章2,17節)。

 

 ただ、この手紙は豊かな語彙を持つギリシア語の文体を持っていることから、パレスティナを一歩も出たことがない主の兄弟ヤコブのものとするのは難しいというのが大方の見方で、恐らく日常的にギリシア語を使うパレスティナ外に住むユダヤ人キリスト者の作であろうと考えられます。

 

 本書は、パウロの信仰義認の考え方を誤解し、信仰による行いが軽んじられ始めた時代に、これを批判するために書かれたと考えられることから、1世紀末から二世紀初め頃に執筆されたと思われます。執筆場所はパレスティナないしその周辺でしょう。

 

 この手紙は、最初(1章)と最後(5章)に「試練(誘惑)と忍耐」についての教えがあり、これがこの手紙の大きなテーマであることが分かります。

 

 12節に「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と記されていますが、この忍耐というのは、じっと我慢の子でいるという感じではありません。13節に「誘惑」という言葉が出てきますが、12節の「試練」と同じ言葉です。そして、神は人を誘惑されない(13節)、人を誘惑するのは、その人自身の欲望である(14節)、欲望が罪を行わせ、そして死に至らせる(15節)と言われています。

 

 それに対して、神は良いものをくださる(17節)、私たちクリスチャンは真理の言葉によって新しく生まれた者だ(18節)と言われています。つまり、おのが欲に引かれて罪を犯す誘惑に陥り、死に至るのではなく、神の真理の御言葉によって試練に打ち勝ち、約束されている命の冠をいただきなさいというわけです。

 

 19節で「聞くに早く、話すに遅く」というのは、昔からよくある格言です。箴言19章16節でも「口数が多ければ罪は避け得ない、唇を制すれば成功する」と言われています。

 

 人はどうも、自分の言いたいことだけ言って、他人の言うことは聞かないという傾向を持っているようです。話す前によく聞きなさい。相手の話をよく聞き、理解しなければ、よい交わりは出来ないということですね。

 

 ヤコブはこの格言に、「怒るのに遅いようにしなさい」を付け加えました。そして、「人の怒りは神の義を実現しないからです」(20節)と説明しています。ここで「神の義」は「救い」と言い換えてもよいでしょう。人の怒りが神の救いをもたらすことなど、あり得ません。

 

 ヤコブが「聞くにの早く、話すにの遅く」の格言に「怒るのに遅いように」を付け加えたのは、相手の話をよく聞き、よい交わりを築くことを妨げる最大の要因が、「人の怒り」であると考えているからではないでしょうか。「怒り」はヤコブにとって、冒頭の言葉(21節)で言うとおり「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」の現われなのです。

 

 ヤコブは、怒りによって耳をふさがず、相手との交わりを喜ぶ心を開くために、その悪、つまり「怒り」を素直に捨て去り、そして、「心に植えつけられた御言葉を受け入れなさい」(21節)と教えています。「捨て去れ」とは「脱ぎ捨てなさい」(アポティセーミ)という言葉です。

 

 「素直に」を、新共同訳は怒りを捨てることと関連させていますが、口語訳は御言葉と関連させて「素直に受け入れなさい」と訳しています。「素直」とは「柔和」(プラウテース)という言葉です。つまり、「怒り」ではなく「柔和」が心を占領するようにせよと解釈することが出来ます。

 

 相手の話に耳を傾けるには、柔和な心が必要だと言っているわけです。そして、心を柔和にするためには、「心に植えつけられた御言葉を受け入れる」ことです。

 

 主の兄弟ヤコブは、兄イエスの気が変になったということで、取り押さえに行ったことがあります(マルコ福音書3章21,31節以下)。しかし、そのヤコブが主イエスを信じて新しくされたのです。ヤコブを生まれ変わらせた主イエスの福音は、それを受け入れるすべての人に神の義を実現し、魂を救うことが出来ます。

 

 自分が話し、また怒る前に、救いと愛を説いて実践された主イエスの御言葉をまず聞きなさい、それがあなたを、怒りに心奪われることなく、あらゆる悪からあなたを解放し、柔和を身に着けて、何を語るべきかを教え、よい交わり、よい人間関係を築くことが出来ると説いているのです。

 

 朝毎に主の御前に進みましょう。御言葉に耳を傾けましょう。そして、御言葉を行う人になりましょう(22節)。聞くだけで行わない者は、忘れてしまいます(24節)。知恵に欠けた者となるのです(5節)。それは、聞いていないのと同じことなのです。

 

 主よ、世の中には様々な悲しみ、怒りがあります。それによって感情が害され、よい関係が損なわれてしまいます。まず、あなたの御言葉に耳を傾けることが出来ますように。心が主にある平安な喜びで満たされますように。その恵みを隣人と分かち合う知恵と力を授けてください。 アーメン

 

 

6月1日(木) ヤコブ書2章

 

「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」 ヤコブの手紙2章8節

 

 宗教改革者M.ルターは、ヤコブ書を「藁(わら)の書」と呼びました。それはパウロが「人は行いによらず、信仰によって義とされる」(ガラテヤ2章16節など)と説いた福音によって救いの喜びを味わっていたのに、ヤコブが「行いの伴わない信仰は死んだも同然だ」(17節)と言って、その福音を批判していると考えたからです。

 

 「溺れる者は藁をもつかむ」と言います。藁をつかんでも何の助けにもなりません。慌てて藁をつかむから、結局溺れてしまうのです。助かりたければ、つかむものを選ばなければなりません。ただ、ヤコブ書はルターが言うような役に立たない「藁の書」ではありません。信仰を学ぶために、大切に読まれるべきだと思います。

 

 14節に「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」とあります。ヤコブがそのように言うのには、理由がありました。それは、「信仰義認」の教義を、主イエスを信じさえすれば、あとは何をしても自由なんだと誤解した人々が少なからずいたのです。

 

 中には教会の有力なメンバーがその考えに支配されて、パウロの指導にも従わないといった事態に陥ったこともありました。第一コリント書10章23節の「すべてのことが許されている」というのが、その有力メンバーの発言で、それに対して「すべてのことが益になるわけではない」、「すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」とパウロが反論しています。

 

 主イエスを信じさえすれば、何をしてもかまわない、あるいは何もしなくてもよいということはありません。ガラテヤ書5章6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と教えています。信仰は救いの恵みに与らせ、さらに愛の実践へと導き、実を結ばせるものでもあるとパウロは考えているわけです。

 

 だから、第一コリント書15章10節で「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と語ります。

 

、さらに、同58節に「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」と記しているのです。

 

 ヤコブはこうした点を踏まえ、誤解を与えないように、最初から行いを伴う信仰を説いたのです。ヤコブの語る「行い」とは、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る」(1章25節)ことです。

 

 それは主イエスが「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章31,32節)と言われたことを指しています。

 

 1章22節に「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と記されていました。「自分を欺く」とは「パラロギゾマイ」という言葉で、「ロゴス(言葉)に逆らう」という意味です。そこから、誤解する、曲解するといった意味に用いられています。ですから、御言葉を行わないのは、その意味を捻じ曲げること、罪を犯すことになるというわけです。

 

 1節に「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」とあります。主イエスが「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章35,36節)と言われています。そして、主イエスはその悪人のために、十字架に死なれたのです。

 

 冒頭の言葉(8節)で、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを引用して、「最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです」と言います。これは、主イエスが最も重要な掟として挙げられましたし(マタイ福音書22章34節以下39節)、パウロも、律法全体がこの一句で全うされると言いました(ガラテヤ書5章14節)。

 

 「最も貴い律法」とは、「王の律法」(ノモス・バシリコス)という言葉です。5節の「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」を受けて、主を信じ神を愛する者たちが受け継ぐ国では、王の王たる神がお与えくださった「隣人を自分のように愛しなさい」という律法が全うされるということです。

 

 言葉と振る舞いをもって私たちに愛を示された主イエスの模範に倣い、朝毎に自由をもたらす律法としての主の御言葉に耳を傾け、それを心に留め、御教えを守り行う者となりましょう。互いに分け隔てせず、隣人愛に生きることができるよう祈りつつ励みましょう。

 

 主よ、私たちの耳を開き、絶えず御言葉に聴かせてください。日々主の御言葉に心を留め、それを口ずさみ、その恵みを互いに分かち合って、信仰の交わりを深めることが出来ますように。常に聖霊に満たされ、聖霊を通して注がれる神の愛をもって互いに愛し合い、その喜びを多くの人々に証しすることができますように。 アーメン

 

 

6月2日(金) ヤコブ書3章

 

「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」 ヤコブの手紙3章17節

 

 信仰から生み出される行いを重んじるヤコブは、3章で舌の問題を取り上げます。馬をくつわで、船を舵で制御するように、人間は舌で全身を制御できると言います(2節以下)。

 

 そして「舌は火です。舌は『不義の世界』です」(6節)と断じます。「不義の世界」(ホ・コスモス・テース・アディキアス:the world of iniquity)という言葉遣いは、聖書中ここだけです。舌が不義の固まりという意味であろうと考えられます。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(8節)という言葉など、舌を悪魔的な存在としているようです。

 

 しかし、実際に「舌」が自分の意志に反して毒を吐いたりするわけではありません。主イエスが「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ福音書12章34節)と仰っています。

 

 つまり、心からあふれることが言葉となっているのであり、問題は、私たちの心なのです。心を制御できないので口を制することができず、心が清くないので人を傷つける言葉を吐くのです。語る言葉でその人の心、思いが分かるということです。

 

 13節以下で、「知恵」について教えています。ここには、2種類の知恵が取り上げられます。それは、「上から出た知恵」(17節)と、「地上のもの、この世のもの、悪魔から出た」(15節)知恵です。

 

 地上の知恵は、ねたみ深い、利己的、自慢、真理に逆らう、うそ、混乱、あらゆる悪い行い、偏見、偽善などの特徴があります(14,16,17節)。一方、上から出た知恵は、柔和な行い、立派な生き方、純真、温和、優しい、従順、憐れみ、良い実などの特徴を示します(13,17節)。

 

 ここで著者は、どのような知恵を持っているかということを論述しているのではなくて、その知恵が何を産み出したか、どのような業を行っているかを示そうとしています。その業によって、それを行っている者、あるいはその集団、特に教会が、神に従う群れであるのか、神に逆らう群れであるのかが示されているというわけです。

 

 神に従う群れの特徴は、平和を実現しようとするところに示されます(18節)。神は、そのために必要な知恵を、上からその人々に授けて下さっているのです。それに対して、悪魔はおのが知恵を自慢させ、ねたみや争いを群れの中に引き起こさせます。真理に逆らう様々な考えによって争いが生じ、混乱に陥ります。

 

 どんなに自分たちが論理的に正しいと証明する知恵を持っていても、それによって対立を深め、争い合うならば、神の喜ばれるところを行うことは出来ません。物事を正しく理解し、判断する能力は大切です。しかし、それを相手を非難し、裁き合うための道具にしか用いることが出来ないのであれば、上からの知恵を持っていないということになります。

 

 そして、「上から出た知恵」という表現が示しているように、だれも、自らその知恵を持ち合わせてはいないのです。

 

 そのことに気づいたならば、1章5節で「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と言われているとおり、神に願い求めましょう。そうすれば、約束どおり、お与えくださいます。主は、私たちが混乱していたり、分裂の危機に陥ることを望んではおられません。私たちを良いもので満たそうとされる神です。

 

 まことの知恵とは、神に対する従順ということが出来ます。神の御言葉に喜んで従うとき、その人の心を神の平和が支配します。神の平和に支配された心で働くと、その人を通して周りの人々に神の平和が広げられていきます。

 

 御言葉と御霊の働きによって心を耕しましょう。よく耕された畑は、良い実を実らせます(マルコ福音書4章8節)。別の言い方で言えば、堅固な家を築くために御言葉を土台とすることです。御言葉に聞き従おうとする態度を、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて建てた人に似ていると、教えています(ルカ福音書6章47,48節)。

 

 今、心に平安がない人、悩みや苦しみ、混乱の中にいる人は、御言葉を求めて祈りましょう。「私の聞くべき御言葉を示してください」と神に願いましょう。御言葉を通して、上からの知恵と平安を頂きましょう。

 

 主よ、絶えずあなたの恵みの御言葉を与えてください。御言葉に聴き従って歩むことが出来ますように。そのことを通して、私たちの心をあなたの平和が支配しますように。あなたの平安をもって、私たちの周りの人々との人間関係を平和にしてください。 アーメン

 

 

6月3日(土) ヤコブ書4章

 

「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」 ヤコブの手紙4章10節

 

 1節で、お互いの間に戦いや争いが起こるのは、自分たちの内部で争い合う欲望が原因ではないかと言います。欲望について、1章14,15節に「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と記されていました。

 

 また、3章16~18節には「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています義の実は平和を実現する人たちによって、平和の内にまかられるのです」と、神による知恵と争いを起こす欲心を対比させています。

 

 2節には、「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します」と記されます。創世記4章1節以下に、兄カインが弟アベルを襲って殺す記事があります。カインがそのような罪を犯した原因は、弟への妬みであり、自分の献げ物が顧みられなかったことへの怒りでした。カインは神の前に顔を上げることが出来なかったと言われます(同4章5,6節)。神と平静に語ることが出来なかったのです。

 

 これは、そのような思いが祈りの障害になることを示します。だから、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と言われるのです(2,3節)。

 

 8節で「神に近づきなさい」と言います。神に近づくとき、私たちのうちに聖い真理の光が当てられます。神の神聖さの前に立つとき、だれもが自分の罪、汚れを思います。

 

 イザヤも、セラフィムの賛美と共に神殿の敷居が揺れ動いて神殿が煙に満たされたという光景を目撃したときに(イザヤ書6章2~4節)恐れて、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(同5節)と言いました。神の臨在を感じたとき、彼は、到底聖なる神の前に立つことなど出来ないと感じたのです。

 

 しかし、神の方からイザヤに近づかれます。セラフィムの一人が祭壇から取った炭火を手にイザヤのもとに飛んで行き、イザヤの口に火を触れさせて(同6節)「実よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(同7節)と告げました。神がイザヤを清められたのです。

 

 そして、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(同8節)という主の御声を聴き、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(同8節)と応えます。これが、神への畏れを覚えているイザヤを、神が預言者として召された瞬間です。

 

 同様に、主イエスの言葉に従って魚の大漁を見たペトロが(ルカ福音書5章1節以下、6節)主イエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(同8節)と言いました。主イエスの力、神の権威に畏れを覚えたのです。

 

 それを聞かれた主イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(同10節)とシモンに仰いました。シモン・ペトロを御側に召し、人を集め、神の教会を建てる仕事に就かせるというのです。そのために、神の御業を見せ、真の畏れを抱かせられたのでした。

 

 ヤコブは、手を清めなさい、心を清めなさいと言います(8節)。どうすれば、手を清め、心を清めることが出来るのでしょうか。冒頭の言葉(10節)のとおり、主の前にへりくだることです。6節に、箴言3章34節の「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」という言葉が引用されています。

 

 「へりくだる」は「低くする」(タペイノオー)という言葉で、身を低くして相手に恭順の姿勢をとるのです。主の前にへりくだるとは、神を畏れ、御言葉に聴き従うこと、神以外の言葉には耳を貸さないことです。私たちは今、日毎に御言葉を聞き、静かに御言葉を瞑想することを教えられています。

 

 そのことで、興味深い文章を読みました。それは、ヨーロッパの修道士たちは聖書を暗記することを「瞑想(meditation)」と呼んでいたというのです。つまり、御言葉が自分自身のものとなるまで繰り返し頭の中で唱え、また何度も声に出し、ときに実行するなどしてそれを記憶するわけです。それが、「瞑想」の本来的な意味だというわけです。

 

 3,4世紀、修道士たちは瞑想をして1500ページにも及ぶ聖書の文章を一言一句違わずに暗記したそうです。それも、年配者が口で話したことを、若い修道士が口真似で習ったということです。というのも、印刷技術のない時代、聖書は書き写すほかありませんでしたし、紙はとても高価で簡単に手に入れることが出来なかったためです。

 

 「いかに幸いなことか」(詩編1編1節)、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り繰れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(同2,3節)と詩人は歌いました。

 

 イザヤの唇が祭壇の火で清められたように、私たちの口と心を御言葉で清め、それによって神の平安を頂きます。「言(ことば)」なる主キリスト(ヨハネ福音書1章1節以下)が、私たちの心にお住まいくださるからです。今日も、主の口から出る一つ一つの言葉で、豊かに養っていただきましょう。

 

 主よ、私たちはあなたの前に滅びるしかない者でした。しかし、キリストの贖いのゆえに、御前にあって神の子として生きることが出来るようにして頂きました。絶えず御前に進み、御言葉に従って福音に生きることが出来ますように。あなたが御前に謙る者を高く引き上げてくださると約束しておられるからです。 アーメン

 

 

6月4日(日) ヤコブ書5章

 

「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」 ヤコブの手紙5章13節

 

 1節以下に、「よく聞きなさい」(アゲ・ヌーン)で導かれる富める人たちに対する裁きの言葉が記されています。そこには、悔い改めなどを勧告する言葉はありません。富める人が不義なる者と同義であるかのような語られ方です。

 

 そして7節以下が、本書の結びとなるところですが、7節以下に忍耐を勧め、12節に誓いを立てるなと言い、冒頭の言葉(13節)以後に祈りを勧告、そして、真理から迷い出たものを真理へ連れ戻すよう促す言葉を書いて、それらしい結びの言葉も挨拶も記さないまま、筆が置かれています。新共同訳が「忍耐と祈り」と小見出しをつけて一つに括れるほど、その論理は明確ではありません。

 

 「急いでこの手紙を終わらせなければならないような、何らかの事情でもあったのではないだろうか。そういう感じがする」と評する学者もあります。

 

 冒頭の言葉に始まる祈りの勧めの中で、四つの状況に焦点が当てられています。「苦しんでいる人」(13節)、「喜んでいる人」(13節)、「病気の人」(14節)、そして、「罪を犯した(人)」(15,19節)です。そして、それぞれの人々に具体的な指示を与えています。

 

 最初の「苦しんでいる人」には「祈りなさい」と指示します。ここで、「苦しんでいる」というのは「カコパセオー」という言葉です、「カコス(悪い)」と「パセイン(苦しむ、経験する)」という言葉で、「苦難、不幸に見舞われる」といった意味合いで用いられています。

 

 この言葉は、ここ以外では第二テモテ書に2度用いられており、それは福音宣教に伴う苦しみです(2章9節、4章5節)。ここでも、10節の「主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」という言葉から、宣教に伴う苦難を辛抱し、耐え忍ぶことと示されて、それをじっと我慢しなさいというのではなくて、神に祈りなさいと勧めていると考えられます。

 

 続いて、「喜んでいる人」は「賛美しなさい」と言われます。「喜ぶ(エウスメオウ)」という言葉は、ここ以外では使徒言行録に2度用いられていて、いずれも、嵐の海で意気消沈している人に向けて語られた言葉で、「元気を出しなさい」(27章22,25節)と訳されています。

 

 元気が出る源は神です。ですから、喜んでいる人とは、神によって元気にされた人ということになります。どんなことにも神の導きがあり、支えがあるという信仰が込められた表現です。

 

 ちょっと横道にそれますが、「トゥモオウ」と言えば、腹を立てるという意味です。それに「よい(good)」という意味の「エウ」がくっつくと、元気が出る、喜ぶという言葉になるというのは、面白いですね。

 

 元に戻って、冒頭の言葉では、福音宣教のゆえに苦難を味わっていた人が、祈りを通して神の慰めと励ましを受け、喜んで神を賛美するといった様子を思い描くことが出来ます。その意味では、賛美は神への感謝の祈りとも言えます。

 

 使徒言行録16章25節に「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、他の囚人たちはこれに聞き入っていた」とあります。

 

 パウロとシラスの二人は、フィリピの町で福音宣教をしていました(同16章12節以下)。そして、占いの霊に取りつかれた女性が二人についてきて邪魔をするので、その霊を追い出しました。すると、占いが出来なくなってしまったということで、その女性を使っていた主人たちが二人を訴え、それで町の高官たちに鞭打たれ、投獄されたのでした(同16章16節以下)。

 

 まさに二人は福音宣教のために苦しみを受けて、祈りをささげ、賛美の歌をうたっていました。それは、町の高官たちや二人を訴えた女性の主人たちを呪う祈りや歌ではありませんでした。真夜中にもかかわらず、囚人たちが二人の賛美と祈りに聞き入っていたというのですから、慰めと励ましに満ちた祈り、賛美だったに違いありません。

 

 二人は獄につながれ、鞭打たれた背中の傷がうずいて眠れないという状況でした。けれども、二人の心には、主への感謝と喜びがあったのです。あるいは、自分たちが不当に取り扱われたという憤りがあったかも知れませんが、祈りと賛美の中で神に触れられて、「怒り」(スモス)が「勇気、喜び」(エウスモス)に変えられたのではないでしょうか。

 

 福音宣教の苦しみは、御言葉に従う苦しみと考えることも出来るでしょう。人間関係の辛さの中で、仕えること、愛し合うことが勧められ、頭では理解しても、心も行動も伴わないことがあります。そこで、祈ってみましょう。共に主を賛美しましょう。主の導きを忍耐して待ちましょう。

 

 主よ、パウロとシラスは、二人だったから祈れたのではないでしょうか。賛美が出来たのではないでしょうか。同じ苦しみを味わう友がいて、互いに励まし合い、慰め合うことが出来たら、何と幸いでしょう。そして、主もまたそこに共にいて苦しみを分け合い、慰め、励まし、勇気と喜びをお与えくださる方であることを、味わい知ることが出来ますように。 アーメン

 

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