ローマ書

 

 

2月20日(月) ローマ書1章

 

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 ローマの信徒への手紙1章16節

 

 ローマの信徒への手紙は、パウロが第三回伝道旅行でコリントに滞在していたとき(紀元56年ごろ、使徒言行録20章1~3節参照)に書かれたと考えられています。

 

 パウロは、キリストの名がまだ知られていないところで福音を告げ知らせようと、熱心に務めていました(ローマ書15章20節)。3度の伝道旅行で地中海の東側地域の伝道に終止符を打ち、これから西側地域、ヨーロッパ西端のスペインにまで、キリストの福音を告げ知らせたいと計画を立てています(同23,24節)。

 

 そこで、拠点をシリアのアンティオキアからローマに移そうと考え、何度もローマ行きの機会を伺ってきましたが、これまで果たせませんでした(1章13節)。そこでまず自己紹介を兼ねて、ローマ訪問が実現するように祈って欲しいと、手紙を書いたわけです(15章32節)。

 

 冒頭の言葉に、「わたしは福音を恥としない」とあります。なぜ、「福音を誇りとします」ではなくて、「福音を恥としない」と言うのかという疑問を持ちます。

 

 この言葉の背景には、「福音を恥とする」という人々がいることを伺わせます。それは、十字架につけられたキリストのことをつまづかせるものと考えるユダヤ人や、愚かなものと考えるギリシア文化の教養人たちです(第一コリント書1章23節)。

 

 パウロ自身も、かつては福音を恥とする者であり、キリスト教会の撲滅のために迫害の先頭に立っていました。ところが、ユダヤの選民意識やギリシアの文化・教養によって愚かとされたキリストの福音こそ、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と知ったのです(16節)。

 

 新約聖書において「救い」(ソーテーリア)とは、「罪や死、そして終末的審判からの神による救出」を意味しています。その「救い」は、「神の力」によって「信じる者すべて」にもたらされます。ユダヤ人とギリシア人などの区別はありません。あらゆる人に例外なく与えられます。 

 

 パウロはそのことを、聖書を研究したり、神学を究めて悟ったのではありません。クリスチャンを迫害してダマスコという町に行こうとしていたとき、復活の主イエスと出会い(使徒言行録9章1節以下)、そこでキリストを信じる者に変えられました。

 

 17節に「福音には、神の義が啓示されています」とあります。「神の義」は、「神との正しい関係」という意味で、「救い」と同義といってよいでしょう。「啓示される」(アポカリュプトー)とは、「覆いがはずされる」という意味の言葉です。主イエスと出会ったとき、彼の心にかかっていた覆いがはずされたのです。 

 

 使徒言行録には「目からうろこのようなものが落ちた」(9章18節)という表現があり、それは彼の視力が回復したということですが、心の眼が開いたことをも示していると言ってよいでしょう。そのときに、キリストの「福音」(エウアンゲリオン)が「救いをもたらす神の力」であることを知ったわけです。

 

 キリストの福音が「救いをもたらす神の力」であるとパウロが語っているということは、パウロが熱心に信奉していたユダヤ教の律法の行いによっては、彼は救われなかったということです。だから、キリストの福音こそ、救いの喜びを与える神の力であることを、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも告げ知らせることに努めて来たのです(14,15節)。

 

 15節の「福音を告げ知らせる」という言葉はエウアンゲリゾマイという一つの単語で、「喜ばしい(エウ)知らせの使い(アンゲロス)になる」という意味です。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」と言っていますが、ここで「あなたがた」と呼ばれているのは、ローマ教会の信徒たちです。

 

 パウロにとって「福音」とは、一度聞いて信じればそれで終わりというようなものではなく、何度でも聴いて信仰の喜びに与り、「福音」に生きること、更にその喜ばしい知らせの使者になることなのです。

 

 主よ、かつて福音を恥とし、愚かとしてキリスト教徒を迫害していたパウロが、福音によって救われ、福音に生きる者とされ、さらに比類なき伝道者となりました。そこに、神の力があります。私たちも、同じ福音によって救われました。繰り返し福音を聴き、神の力を受けて人々に信仰の喜びを告げ知らせることが出来ますように。 アーメン

 

 

2月21日(火) ローマ書2章

 

「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」 ローマの信徒への手紙2章1節

 

 パウロは、1章18節から「人の罪」について記しています。特に、神以外のものを神とする異教の偶像礼拝に触れていますので(1章22,23節)、その矛先が異邦人に向けられていると言えます。そして、返す刀で今度はユダヤ人に切り込みます。それが、冒頭の言葉(1節)で始まる2章の記述です。

 

 「だから」とは通常、前に述べたことを根拠として、結論を述べるのに用いられる接続詞ですが、ここでは、「異邦人と同じように」という意味で用いられています。ですから、「すべて人を裁く者よ」とは、ユダヤ人のことを言っていると考えられます。

 

 ユダヤ人は、パウロが前段で語ったことに同意するでしょう。そして、自分たちは真の神を礼拝し、真の神によって特別な選びの民とされていることを喜ぶでしょう。けれども、真の神を知らないで偶像を作り、不義を行っている者を愚かと笑い、彼らに神の裁きが下るのは当然だと思っているユダヤ人にも、同じ裁きが下るのです。

 

 というのは、ユダヤ人は偶像を作ることはないかもしれません。異教の礼拝に加わり、そこでの淫行に加わることはないかもしれません。けれども、1章29~31節に列挙されている悪徳と完全に無縁の人など、存在し得ないのではないでしょうか。誰が、他人を裁く正当な権利を持っているでしょうか。

 

 それは、主イエスが言われたとおり、「罪を犯したことのない者」(ヨハネ福音書8章7節)です。主イエスの御言葉が耳に届けば、誰も人に向かって石を投げることは出来ないでしょう。自分の罪を思い出した者から、その場を去らなければならなくなります(同9節)。

 

 ユダヤ人は、自分たちを神の選びの民とし、自分たち以外の者を「異邦人」(エスノス)として差別していました。ギリシア人は、ユダヤ人から異邦人として差別されていますが、彼らは自分たちを「知恵のある人」(ソフォス:1章14節)と呼び、それ以外の者を「未開の人」(バルバロス「野蛮人」の意)と呼んで差別します。

 

 60年前、日本は神州、神の国であり、英米人を鬼畜生と呼び、朝鮮半島や台湾の人々を第二国民として差別していたのと同様でしょう。自分は神の側に立っている正しい者と考えるので、他の人々を正しくない愚かな者として差別するのです。

 

 これはしかし、他人のことではありません。私のことです。他人が自分のことを悪く思っていることを知ると、夜も眠れなくなるほど落ち込むのに、自分の秤にあわない人のことを悪く思います。一度悪い判断を下せば、なかなか修正出来ません。もし傷つけられるような経験をしたなら、相手を罪に定めて決して赦そうとは思いません。

 

 けれども、自分は神によって罪赦された者であることを喜びながら、他人を罪に定めているとすれば、その裁きが降りかかることを知らなければならないのは、私自身でした。神の愛は、私たちが神に代わって他人を裁くために与えられたのではありません。

 

 神の憐れみは、私たちを悔い改めに導くために与えられているのです(4節)。神が望まれているのは、他人を裁くことではなく、私たちが神に従って他者を愛する者、仕える者となることです。

 

 私は、パウロが冒頭の言葉で語っているとおりの罪人であることを認めます。それを告白します。主イエスの赦しがなければ、裁きを受けて滅ぼされるべき存在です。自分のしたい善を行う力がなく、したくない悪を行ってしまいます(7章19節)。瞬間瞬間、主イエスの赦しを必要としている者です。

 

 神の憐れみにより、悔い改めに常に導かれたいと思います。共に、御言葉により御霊の導きに従って、主の御心を行う者としていただきましょう。

 

 主よ、いつの間にか、自分一人で、自分の力で歩いているかのように錯覚していました。そして疲れていました。今日、そのことに気づかせてくださいました。主の赦しがなければ、前進出来ません。主の十字架を仰ぎます。すべてを御手に委ねます。主のもとに解決があるからです。御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。 アーメン

 

 

2月22日(水) ローマ書3章

 

「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」 ローマの信徒への手紙3章24節

 

 21~31節の段落は、ローマ書全体の主題を表していると言われます。ここまでパウロは、すべての人が罪のもとにあること(1章18節以下、3章9節以下)、神の律法を授かったユダヤ人も、律法の行いによっては義とされなかったとこと(2章1節以下、3章1節以下、20節)を語って来ました。

 

 けれどもここからは、そのような状況に終止符を打つ出来事について語り始めます。それで、「ところが今や」(ヌニ・デ:21節)と語り始められているのです。

 

 冒頭の言葉(24節)のとおり、キリストが贖いの業を成し遂げられました。主イエスを信じる信仰によって、神の義とされる恵みの道を開くため、神がキリストをこの世に遣わされたのです(25節)。

 

 25節の「罪を償う供え物」(ヒラステーリオン)というのはとても珍しい言葉で、新約聖書中にはあと一回、ヘブライ書9章5節に用いられています。そこでは「償いの座」と訳されています。「償いの座」とは、契約の箱の蓋のことで、この蓋の上にケルビムが設置されています。

 

 「償いの座」を旧約聖書では「贖いの座」(カポーレト:出エジプト記25章17節)と呼んでいます。「カポーレト」は「覆い隠す」という意味で、神の愛が罪を覆い、神の裁きから罪人を隠すということを表します。

 

 セプチュアギンタ(ギリシア語訳旧約聖書)では、「贖いの座」に「ヒラステーリオン」という言葉を用いています。新約聖書はセプチュアギンタの用語を用いているわけです。

 

 イスラエルにおいては、大祭司が一年に一度、民の罪の償いのために至聖所に入り、そこに贖罪の血を注ぎます(ヘブライ書9章7節)。パウロがここで、「ヒラステーリオン」を用いているということは、キリストの十字架こそ「償いの座」であるという信仰を表しているのです。それは、律法によっては成し遂げられなかった救いの御業を、キリストが十字架によって完成されたということです。

 

 神による救いを「義」と表現しているのですが、それは、神との関係が正しくなるということです。義という漢字は、「羊」の下に「我」と書きます。罪を取り除く神の子羊なるキリストの下に自分を置く、即ちキリストに従うときに、神との関係が正しくなると読むことが出来ます。

 

 漢字の成り立ちを調べると、「我」というのは、刀を振り下ろすという字で、羊に刀を振り下ろす、つまり羊を殺して相手に差し出すことで、関係を回復する、相手との関係が正しくなるというのが、「義」の意味なのです。中国で「義」という字が作られるとき、聖書の福音の影響があったのではないかと思わざるを得ません。

 

 私たちが義とされるのは、私たちにその資格があるとか、権利を持っているというわけではありません。23節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」と記されているとおりです。

 

 「受けられない」(フステレオー)というのは、「欠けている、不足している」という意味の言葉です。義の業を行おうとしても、罪を犯すために、神の栄光が欠けている、不足している。そこで、「神の栄光を受けられない」と訳されているのです。いったい誰が、神の独り子イエス・キリストの命の代価を支払うことが出来るでしょうか。だれにも出来はしません。

 

 だから、冒頭の言葉どおり、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」道を、神が開いてくださったのです。信じるだけで、誰でも無償でその恵みに与ることが出来るようにしてくださいました(22節)。ここに、神の愛が表されています。私たちの罪の贖いのために、独り子を犠牲とされたからです。実に考えられない恵み(アメージング・グレイス)です。

 

  「信じるだけで」と申しましたが、この信仰も、私たちが神を信じようと思って、自分の内側から出て来たようなものではありません。信仰も、神から頂いたのです。もしも、「私たち自身の信仰」が義とされる拠り所であれば、こんな不確かなことはありません。なぜなら、私の信仰心は、状況に振り回され、時には不信仰にさえなるからです。

 

  22節に「イエス・キリストを信じることにより」という言葉がありますが、原文を直訳すると、「イエス・キリストの信仰によって」となります。「信仰」(ピスティス)は、相手に対する真心、誠実という意味ですから、「イエス・キリストの真実によって」という意味になります。

 

 つまり、私たちが神の救いに与ることが出来るのは、キリストの真実に支えられてのこと、即ち、すべてが神の恵みであるということです。そのことを喜び、感動するからこそ、今こうして主イエスを信じ、神を礼拝する恵みに与っているわけです。

 

 いつでも神の恵みに対する感謝を忘れず、主の十字架に目を向け、その御顔を仰いで行きましょう。

 

 主よ、あなたは私たちが御子イエスを信じるだけで義とされる、神の救いに与る恵みの道を開いてくださいました。心から感謝します。その恩を忘れず、絶えず恵みの道、命の光のうちを主と共に歩み、委ねられた御業に励む者とならせてください。 アーメン

 

 

2月23日(木) ローマ書4章

 

「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」 ローマの信徒への手紙4章5節

 

 3章21節以下で、信仰によって義とされることを力強く語ったパウロは、その根拠を聖書に求めます。3節に、「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、神の義と認められた』とあります」と語られているのは、そのためです。

 

 ここに、創世記15章6節の御言葉が引用されています(ガラテヤ書3章6節も)。パウロはイスラエルの父祖アブラハムに焦点を当て、アブラハムが義と認められたのは、神を信じたその信仰のゆえであることを、この御言葉を引用することによって示しています。

 

 信仰によって義とされるというのは、律法の行いという働きの報酬ではなく、神から与えられる恵みです(4節参照)。働きなしに恵みを受けた人の幸いを、ダビデの詩を引用して示します。7~8節は、詩編32編1,2節からの引用です。

 

 どうしてダビデは、不法が赦され、罪を覆い隠された人、主から罪があると見なされない人の幸いを語ることが出来たのでしょうか。それは、ダビデ自身が、その幸いを味わったからです。そして、不法が赦され、罪が覆い隠され、主から罪なしと見なされたのは、ダビデが律法を熱心に行っていたからではありません。

 

 彼が律法を熱心に、そして完全に行うことが出来ていれば、罪の赦しは不要でした。罪があるということは、神に背き、律法に従い得なかったということです。にも拘らず、罪が赦されたというのは、神がダビデを深く憐れみ、恵みを与えたからです。ダビデはその恵み、幸いを味わったので、このように詠っているわけです。

 

 さらに、神に義とされることが恵みであるということについて、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受けてからか、それとも割礼を受ける前かと問いかけます(9節以下)。アブラハムが割礼を受けたという記事は、創世記17章に記されています(特に23節)。対して、信仰が義と認められたのは、創世記15章6節に記してあると前に述べました。

 

 これで明らかなように、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受ける前のことでした(10節)。ですから、アブラハムが割礼を受けたのは、義と認められ、救いを完成させるためではありません。そうではなく、義と認められ、救われたしるしとして、割礼を受けたのです(11節)。

 

 「認められる」(ロギゾマイ)は、「数える、計算する、考慮する、見なす、もくろむ」という言葉です。これはパウロがよく用いる言葉で、新約聖書に40回用いられている内、34回をパウロが用いています。ローマ書に19回あり、しかも4章に11回用いられています。

 

 ここでは、商取引の勘定書きに由来する比喩的表現として、「(貸し方に)書き入れる」という意味を含み持つと、ニューセンチュリー聖書注解に記されていました。即ち、「アブラハムの信仰が、義を受けることを見込んで、貸し方に書き込まれた」と解するべきだというのです。「義と」(エイス・ディカイオシュネーン)の「エイス(into:~へと)」は、目標を表す前置詞です。

 

 パウロは、自分の信じる神を冒頭の言葉(5節)で「不信心な者を義とする神」と呼んでいます。これは、驚くべき言葉です。「不信心」(アセベース)とは、文字通り信仰心がないこと、不敬虔なことです。不信心な者、信仰心なき者は神に裁かれるという御言葉があります(第二ペトロ書3章7節、ヨハネ福音書3章18節)。

 

 出エジプト記23章7節の「わたしは悪人を、正しいとすることはない」という言葉をセプチュアギンタ(ギリシア語訳旧約聖書)で見ると、「悪人」は「アセベース」で、「不信心な者を義とすることはない」と読めます。その人が義とされるとすれば、それは、善い行いによって救いを獲得するのではなく、不信心な者をお救いくださる恵みの神に信頼する以外にありません。

 

 この関連で、アブラハムが信仰によって義と認められたということは、自分の子孫が星の数ほどに多くなる言われた主を信じる以前(創世記15章5,6節)、アブラハムは「不信心な者」だったということになるでしょう。 

 

 パウロ自身は、不信心な者ではありませんでした。むしろ、神を信じ、熱心に律法を行う者でした。その熱心のゆえに、キリスト教徒を迫害しました(フィリピ書3章5,6節)。キリスト教徒が安息日を厳格に守らないなど、律法に背いていると考えたからです。

 

 ところが、パウロは神の声を聞きました。それは、「なぜ、わたしを迫害するのか」という声でした(使徒言行録9章4節)。パウロは、キリスト教徒が神を冒涜していると考えて迫害していましたが、それがまことの神を迫害する行為であると知ったとき、どんなにショックだったでしょうか。信仰熱心と考えていたことが、全くの勘違いだったわけです。

 

 ここでパウロは、自分の行いでは義とされない者であったわけですから、キリストを信じないで教会の迫害者であったパウロは、先のアブラハムと同様、「不信心な者」ということになります。しかるに神は、不信心なパウロを伝道者として任命されたのです。

 

 だから、「不信心な者を義とする神」とは、神に敵対している者を信仰に導き、義とされる神ということです。であれば、神に義とされない人がいるのでしょうか。パウロは、一人もいないと信じているからこそ、この福音をユダヤ人ばかりでなく、異邦人にも宣べ伝えたのです。

 

 迫害者を伝道者に造り替えられた主の恵みが、私たちにも注がれています。不信心な者を義とされる主の恵みに感謝し、その恵みに応えて、それぞれに語りかけられる主の御声に聴き従いましょう。 

 

 主よ、あなたから正しい関係へと招かれているのに、なおも背を向けてその恵みを味わおうとせず、永遠の命を粗末にしている人々に、主の福音を熱心に伝えることが出来ますように。恵みに与っている者たちが、感謝を忘れず、いつも喜んで歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

2月24日(金) ローマ書5章

 

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの信徒への手紙5章5節

 

 3,4章で「信仰義認」という主題を展開したパウロは、ここから、神に義とされたキリスト者として生きる生活について語り始めます。つまり、「神の義」は神による救い、神にある新しい生命を意味するものであり、福音は「救いをもたらす神の力」(1章16節)だということを展開していくのです。

 

 1節で「義とされた」ことを「神との間に平和を得た」と言い、2節でパウロは「キリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と語った後、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)と語ります。「誇る」(カウカオマイ)は「喜ぶ」とも訳されます(口語訳、新改訳。欽定訳:glory)。

 

 通常の心理であれば、苦難はいやです。避けたいものです。神の栄光に与るためには、苦難を避けられないということも考えられますが、それならば、苦難を誇るというよりも、苦難を切り抜け、乗り越えた経験や知恵などを誇りとすると言った方が分かり易いです。苦難を誇るというのは、どういうことなのでしょうか。

 

 パウロは続けて「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3,4節)と語っています。聖書で「知る」というのは、一般的な知識ではなく、体験的に味わった知識です。ですから、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを体験したということです。

 

 主イエスに従うクリスチャンたちは、様々な苦難を経験していました。忍耐は、苦難をじっと我慢したというのではなく、どんなに苦しめられても福音の証しをやめないことをさします。そして、練達とは、信仰が本物であると証明されるということを表します。そして希望は、神の栄光に与ることを望む心です。

 

 こうして、神の栄光に与る希望を誇りとしているパウロは、苦難が神の栄光に与る希望を更に確かなものに、強固なものにしてくれるゆえに、苦難をも誇ると語り得ました。苦難の重圧が増せば、耐える力も増し、耐える力が増せば、練達が底光りするほどのものとなり、練達が増し加わることによって、それだけ希望が確固たる基礎の上に増し加わることになるというのです。

 

 パウロはなぜ、苦難が栄光に向かって人を導く道であると信じる信仰に堅く立つことが出来たのでしょうか。その根拠について冒頭の言葉(5節)で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と言っています。

 

 「注がれている」(エクケキュタイ)というのは、「注ぐ」(エッケオー)という動詞の完了時制・受身形です。つまり、今注がれているというのではなく、既に注ぎ込まれて私たちの心は神の愛で満たされている、その状態が続いているということになります。

 

 私たちがキリストを信じてその信仰を表明することが出来たのは、聖霊の働きです(第一コリント書12章3節)。私たちの体はキリストによって贖われ、聖霊が宿られる神殿とされています(同6章19節)。私たちの内におられる聖霊との交わりが開かれたとき、自分は神に愛されているという確信が与えられます。

 

 パウロは、神の愛によって救いを体験しました。パウロが「まだ弱かったころ」、「不信心な者」(6節)であったとき、また、「まだ罪人であったとき」(8節)、さらには「敵であったとき」(10節)に、キリストが死んでくださったことによって神の愛が示され(8節)、神と和解させていただいたのです(10節)。

 

 その愛に押し出されてキリストを証しする者、その福音を語り伝える伝道者となりました。そして、苦難にあうとき、その愛に支えられました。ゆえに、キリストの証人として、いつでもどこでも堅く立つことが出来たのです。

 

 以前、北九州で行われた集会で講師が、「我に返る」という講演をされました。「我に返るとは、神が私を愛しておられる、私は神に愛されているという原点に返ることだ」と言われました。

 

 そして、「土のチリという何の価値もないもので、神のかたちに神に似せて私という人間が創り出された。それは神の愛である。この愛を知った者は、命を粗末に扱うことは出来ない。神の愛によって創られた自分を粗末にするのは罪だ」と教えてくださいました。

 

 また、「神の愛は人との出会いによって経験される」とも言われました。「この人と出会わせてくださった神の愛に感謝する」というようなよい出会いをしたいと思いました。そして、その原点にキリストとの出会いがあることで、そのキリストと出会わせてくださった神に心から感謝しました。

 

 家族、知人友人、周辺にいる人々に、キリストとの出会いを提供する伝道の業に、皆で心を合わせ、祈りを会わせ、共に励んでまいりましょう。

 

 主よ、聖霊のお働きを通して、私たちに主イエスを信じる信仰の導きと、神に愛されているという確信をお与えくださり、有難う感謝致します。周りの人々に神の愛と恵みを証しすることが出来ますように。そうして、いつも聖霊に満たされ、心から御名を賛美させてください。 アーメン

 

 

2月25日(土) ローマ書6章

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」 ローマの信徒への手紙6章23節

 

 6章には、古い自分(自我)に死に、新しい命に生きることが、バプテスマ論(1~14節)と奴隷制の比喩(15~23節)をもって語られます。

 

 バプテスマは、死んで葬られるという姿を表すと同時に、新しい命に生きる者となったことを表しています。「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた」という言葉が3節にあります。

 

 「キリスト・イエスに結ばれる」とは、原文では「キリスト・イエスの中へと(エイス・クリストン・イエスーン into Christ Jesus)」という言葉で、キリストの中へとバプテスマ(浸される)されるということから、「キリストに結ばれる」という訳が出て来たのでしょう。

 

 キリストに結ばれた者は、キリストと共に「死にあずかる」(3節:エイス・トン・サナトン into death)ものとなり、そして、キリストと共に「新しい命において」(4節:エン・カイノテーティ・ゾーエース in newness of life)生きることになります。

 

 そのことを、8節でもう一度、「わたしたちは、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と語っています。そして、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」(10節)と言います。

 

 死んだ者は、罪を犯すことがありません。ゆえに、「罪に対して死んだ」という表現がなされます。罪との関係が永遠に切れたということです。一方、「神に対して生きる」というのは、キリストに結ばれて復活に与った者は、神との関係が永遠に切れないということになります。

 

 このようにずいぶん細かい説明がなされているのは、パウロの福音を誤解する人がいたからです。1節に、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という疑問文があります。これは、こういう疑問を抱く人が少なからずいたことを想像させます。

 

 行いによらず、信仰によって義とされるなら、好き勝手してもいいじゃないか。そのほうがもっと恵みが分かるんじゃないかというような誤解に陥った人、あるいは敢えて曲解して、自分の欲にまかせて放縦に生きようとした人がいたのではないでしょうか。しかしながら、それは間違いです。愚かなことです。

 

 「私には劇的な変化を伴う入信体験がない、そういう体験をする人が羨ましい」といった言葉を耳にすることがあります。それは、放蕩息子の兄のように真面目に生きるよりも、弟息子のように親不孝をするほうが、親のありがたみが深く分かるというような考え方ではないでしょうか(ルカ福音書15章11節以下参照)。

 

 確かに、親のありがたみがよく分かったほうがよいに決まっています。だからと言って、罪を犯したほうがよいのでしょうか。放蕩息子の兄は、真面目だったから親のありがたみが分からなかったのではありません。彼も、弟と同様、親のありがたみが分からない罪人だったのです。

 

 にも拘らず、兄は父親と一緒にいて、弟のように食べ物に困ること、飢えることはありませんでした。それこそ、親のありがたみではありませんか。親を失ってからそれに気づいても、恩返しが出来ません。あのたとえ話は、兄息子に父親のありがたみを悟らせるために語られているのです。

 

 「恵みが増すように罪の中にとどまる」というのは、利己主義であって信仰ではありません。神は、私たちを罪の中にとどまらせるために独り子を贖いの供え物としたのではありません。キリストと共に新しい生活をさせるためです。神が罪人の私たちに恵みを与えるために支払われた犠牲の大きさを思えば、どうして、「罪の中にとどまるべきだろうか」という質問が出て来るでしょうか。

 

 16節に「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」と言います。

 

 神の愛を受け入れ、神の子として神の前に立つことが「義」とすれば、「罪」とは、欲に引きずられて神の愛に背を向け、自分勝手に行動して神を悲しませることです。それを罪の虜、罪に仕える奴隷と言っています。

 

 20節に「罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」とあります。「自由の身」は良さそうな表現ですが、「自由」を公言しながら、清く正しく生きる人がどれほどあるでしょうか。

 

 実際には、パウロが言うように、「義に対して自由」、義と結ばれていない、即ち、義のない生活をしているということです。むしろ、義に生きようとしても、罪に縛られてそれができない状態であるといってよいでしょう。その状態にあることを、「義に対しては自由の身」というのです。岩波訳が「義とは無縁な者」と意訳しています。

 

 冒頭の言葉(23節)で「罪の支払う報酬は死」と言いますが、それは、肉体の死とは別のものです。死ぬと、呼びかけに応えなくなります。神からの呼びかけに応えない魂、その愛の招きに背を向けるのは、神から切り離された、霊的に死んでいるというのです。

 

 罪は私たちに「死」という給料を支払います。しかしながら、そこに神が介入され、「永遠の命」を「賜物」(カリスマ)としてお与えくださいました。 「わたしたちの主キリスト・イエスによる」は、「キリスト・イエスの中にある」(エン・クリストー・イエスー・トー・キュリオー・ヘモーン in Christ Jesus our Lord)です。

 

 イエス・キリストがご自身の命をかけて開いてくださった「永遠の命」の道を、主の僕として歩ませていただきましょう。 

 

 主よ、あなたは私たちに、永遠の命という、はかり知ることの出来ない尊い価値のある賜物を与えてくださいました。それは、主キリスト・イエスの命という代価で買い取られたものだからです。キリストの死によって罪と死の呪いから解放された者として、主に従い、聖なる生活の実を結ぶことが出来ますように。 アーメン

 

 

2月26日(日) ローマ書7章

 

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝致します。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」 ローマの信徒への手紙7章25節

 

 1節以下の段落で、律法は人を生きている間だけ支配するものであることを(1節)、「結婚の比喩」をもって説明します(2節以下)。キリストへとバプテスマされたキリスト者は(6章3節)、その死に与りました(同4節)。だから、「キリストに結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」(4節)というのです。

 

 律法に対して死んだパウロは、律法から解放されました。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で主に仕えるようになっています(6節)。

 

 7節以下、パウロは律法に内在する罪の問題に論を進め、自分の中に、聖なるものであり、また霊的なものである神の律法を喜ぶ心の法則と、それに反し、それと戦ってパウロを虜にする罪の法則が働いているのを見出しました(22,23節)。というのは、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているからです(19節)。

 

 パウロはここで、善を行う意思はあるけれども、実行力がないと言っているわけではないと思います。というのは、「律法の義については非のうちどころのない者でした」とフィリピ書3章6節に記しており、それはファリサイ派の一員として歩んでいた当時のパウロの自負であったと思います。

 

 ですから、望む善は行わずというのは、自分では善を行っているつもりだったが、実際は悪を行っていたことを知らされたということではないでしょうか。パウロは、イエス・キリストが神を冒涜しているとして、キリスト教徒を迫害していました。それは、神に対する熱心からとった行動でした。しかし、それこそが神に敵対する悪であったわけです。

 

 人は自ら罪を行いたいとは思わないものでしょう。エデンの園でアダムとエバが罪を犯したのは、彼らがそうしたかったからではありません。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という戒めが与えられていましたが(創世記2章17節)、それに背きたいと考えてはいませんでした。

 

 ところが、その実を食べても決して死ぬことはない、神のように善悪を知るものとなると蛇に唆されました。木の実を見るとおいしそうで、確かに賢くなれそうだと思われて、とうとう木の実に手を伸ばし、取って食べてしまいました(同3章1節以下、6節)。「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」とパウロが8節で語っているのは、そのことでしょう。

 

 パウロにとって、「あらゆる種類のむさぼり」とは、どのようなものでしょうか。パウロはフィリピ書3章5,6節に「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」と語っています。

 

 それはパウロの誇りであり、肉の頼りとするところでした。人が羨むような経歴を持ち、誰よりもその道に精進していたのです。けれども、それは神に栄光を帰すためではなく、栄光を我が物とする誘惑から自由ではなかったのです。信仰に熱心であるということさえ、パウロにとって「むさぼり」の対象だと気づかされたわけです。

 

 キリストを信じる信仰に導かれたパウロは、それまで誇りとしていたものを塵あくたと見なすようになりました(フィリピ書3章8節)。キリストを知ることを妨げ、ゆえになすべき善をなし得なかったからです。キリストを信じた今、神の霊によって礼拝し、主イエスを誇りとする者となりました。

 

 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(24節)とその深い嘆きを吐露したパウロは、一転、冒頭の言葉(25節)で、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、感謝を口にしています。罪の法則の内に虜にされていたパウロを、イエス・キリストがその救いの御業を通して解放してくださったからです。 

 

 私たちも絶えず罪の誘惑にさらされています。サタンは、主イエスさえも誘惑しようとしました。しかし、主イエスはサタンに打ち勝たれました。御言葉によってあらゆる誘惑を退けられたのです。

 

 私たちと共におられ、内にいて下さる主イエスを信じ、その御言葉に耳を傾けましょう。心のうちに御言葉を豊かに宿らせましょう(コロサイ書3章16節)。御言葉に絶えずとどまりましょう(ヨハネ伝8章31節)。そのとき、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にします(同32節)。

 

 真理とは、主イエスご自身であり(同14章6節)、その贖いの御業によって罪の呪いから解放していただいたのです(同8章34,36節)。

 

 よ、日々御言葉をくださって有難うございます。御言葉によって御旨を悟り、聖霊に満たされ、私たちの体をとおして主の栄光を表すことが出来ますように。世界中に立てられているキリストの教会を、その教会を形作りキリスト者一人一人を豊かに祝福してください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン

 

 

2月27日(月) ローマ書8章

 

「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」 ローマの信徒への手紙8章26節

 

 今日は、ローマ書8章からの学びです。ここには、イエス・キリストによる救いの恵みを、四つの視点から語り、そして、最後に頌栄をもって結んでいます。

 

 キリストの救いの四つの恵みとは、第一に罪からの解放(1~4節)、第二は罪の結果である死からの解放(5~11節)、第三は神の子とされる恵み(12~17節)、そして第四が共同の相続人の恵み(18~30節)です。最後の頌栄(31~39節)において、神の愛を喜びをもって賛美しています。

 

 18節に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とあります。パウロはここに、「現在の苦しみ」と「将来わたしたちに現されるはずの栄光」を対比して、栄光の大きさから、現在の苦しみは取るに足りないと言い表しています。

 

 パウロは、「現在の苦しみ」はその重い栄光に与るために通らなければならない道なのです。17節に「キリストと共に苦しむなら」という言葉があります。これは、私たちを救ってくださるキリストご自身が苦しまれていることを示していますし、キリストと苦しみを共にすることで、キリストが受けられた栄光に与るのだと言っているのです。

 

 であれば、その苦しみは、早く逃れたい、早く解放されたいと願う種類のものではありません。フィリピ書1章29節に、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と記されています。

 

 「苦しむこと」が「恵みとして与えられている」とは、神様が苦しみをプレゼントしてくださったということでしょう。そしてパウロはこの賜物を喜び、フィリピにいる信徒たちにも、同じプレゼントが与えられていることを喜んでいるのです。

 

 コロサイ書1章24節で「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と言い、続く25節で「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」と語っています。

 

 主イエスを信じる者は誰でも、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられ、救いの喜びを味わうことが出来ます。しかしながら、福音を聞いた者がすべて、すぐに主イエスを信じるというわけではありません。キリスト教に反対する人もいます。また、まだ福音を聞いたことのないという人が、世界中にたくさんいます。そのための苦労を「あなたがたのための苦しみ」というのでしょう。

 

 また、福音宣教の務めをもって「教会に仕える者となった」ということは、教会の責任者、牧師のような務めについたということであり、そこにも様々な苦労があるということです。人それぞれ、様々な悩み、苦しみをお持ちです。様々な悩み苦しみ、課題を持っておられる方々と出会い、交わり、そうした方々に神の御言葉を伝えていく務めを果たすというのは、苦労なしに出来るものではありません。

 

 パウロはそうしたことを思いながら、しかし、その苦労をすることは、自分にとって喜びなのだというのです。というのは、その苦労を通して、苦しみを通して、主イエスがそこに働いておられるということを知るようになるのです。

 

 フィリピ書3章10,11節に、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とあります。ここに、「その苦しみにあずかって」とありますが、「あずかる」という言葉は、その原語は、「コイノニア(交わりfellowship)」という言葉です。苦しみの交わり、苦しみによる、苦しみを通しての交わり、苦しみを共に味わい、苦しみを通して互いに共感し合う。

 

 福音を宣べ伝えていく苦労、他者に仕え、教会に仕える苦労を通して、イエス・キリストの十字架の苦しみを知る、その苦しみに連なる、つながるというのです。そして、この苦しみを通して、十字架の救いとはどういうものか、主がお与えくださる命とはどういうものか、そのことを知った。もし自分が苦しまなければ、イエス・キリストを知ることが出来なかった、救いが分からなかったというのです。

 

 主イエスが、罪と死の力を打ち破り、輝く栄光のお姿となって、パウロの前に姿を表してくださいました。その主の栄光のお姿を思うとき、あの主の栄光の姿にあやかることが出来るのであれば、確かに今の苦労は取るに足りないと、パウロは思ったのです。そう思った根拠、それを保証するのは、神の霊、御霊です。

 

 14~16節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と記されています。

 

 私たちには聖霊、神の霊が与えられています。御霊は、神の子として栄光を受けることが出来る保証なのです。今、神様に向かって、「主」と呼び、また「父」と呼ぶことが出来るのは、御霊の働きですが、それはどんなに大きな恵みであり、喜びでしょうか。

 

 私たちが神に祈りをささげ、神様と通じ合う喜び、神が私たちの祈りを聞いてくださる、その感動を味わうことが出来た喜び、それを私たちにお与えくださるのが、神の御霊なのです。その霊が、私たちが神の子であることを保証してくださるのです(ガラテヤ書4章6,7節、エフェソ書1章13,14節)。

 

 

 冒頭の言葉(26節)に、「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」とあります。

 

 ここで、「助けてくださいます」(シュナンティランバノー)という言葉は、三つの言葉が組み合わされた合成語です。一つ目は「共に、一緒に」(シュン)、二つ目は「に代わって、のために」(アンティ)、そして三つ目は「取る、持つ」(ランバノウ)、それが一つになって、「助ける」(ルカ10章40節では「手伝う」)と訳される言葉になっているのです。

 

 「共に」と、「代わって」と、「持つ」。「共に持つ」、「代わって持つ」。神様が私たちの重荷を共に担って下さる、代わって担って下さる。それは大きな助けであり、慰めです。

 

 小さな子どもに荷を持たせます。持つ力がまだ十分ではないので、片方を親が持っています。いえ、実際には殆ど親が持ってやっています。そうして運び終わったときに「偉かったね、重い荷物をよく持てたね、助かったよ」といって褒めてやると、子どもはそれで自信をもって「今度は一人で持つ」というようなことになりますね。

 

 聖霊が私たちに寄り添い、弱い私たちのために、一緒に重荷を担ってくださる、代わって持ってくださいます。28節に「万事が益となるように共に働く」という表現がありますが、これは続く29節で「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」と言い、私たちの苦しみ、呻きを聖霊が神の子の栄光に変えてくださると教えているのです。

 

 つまり、御霊が私たちの苦しみを引き受けることで、それが「産みの苦しみ」(22節)となり、それで、「万事が益となるように共に働く」ことを知るというわけです。

 

 日々、私たちと共におられ、私たちの内におられる主イエスを頭として仰ぎ、御言葉に従って主と共に歩みましょう。

 

 主よ、今日もあなたが私たちの前を歩み、しんがりを守り、上から恵みを注ぎ、御手をもって下から支えてくださること、私たちと共に、私たちに代わってその重荷を担ってくださり、その打ち傷によって私たちを癒してくださった主が、私たちを慰め、私たちを励まし、私たちを助け、導き、祝福してくださっていることを覚えて、感謝致します。いつもあなたの御言葉に聞き、あなたの御言葉に従って歩みます。私たちの歩みを祝してください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

2月28日(火) ローマ書9章

 

「それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」 ローマの信徒への手紙9章23節

 

 9~11章には、神の民イスラエルに対する神の計画が記されています。神はイスラエルを選び、御自分の宝の民とされました(出エジプト記19章5節、申命記7章6節)。それはただ、神の愛のゆえ、深い憐れみのゆえです(申命記7章7,8節)。

 

 しかるにイスラエルの民は、神から離れ、見捨てられた者のようになっています。3節でパウロが「兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と言っているのは、自分の同胞がキリストの恵みを受け取ろうとしないので、神から見捨てられた者となっているからです。それがパウロの痛みでした(1節)。

 

 21節以下に、焼き物師と焼き物を例にして、神とユダヤ人、異邦人との関係を説いています。ユダヤ人は貴いこと、つまり神に仕える者として造られたのですが、彼らは神の御心に背いて罪を犯しました。聖書が言う罪とは、いわゆる犯罪ではありません。神に背くことであり、人と人が互いに背き合うことです。

 

 「罪」という字は、竹網で鳥を捕まえるという文字ですが、それが 罪という意味になったのは、「非」の字に関わりがあるのでしょう。「非」は、鳥が羽を広げたかたちです。左右の羽が互いに反対方向を向いているということで、背くという意味になり、さらに否定的な意味を持つようになったようです。

 

 21節で「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に作る権限があるのではないか」と言います。イザヤ書64章7節にも「しかし主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業」とあり、父なる神が私たちを思いのままに作られたという信仰を言い表しています。

 

 優れた陶工が作るものは、日常生活で使う茶碗でも大変高価です。父なる神が作られた器は、どのような価値になるのでしょうか。それは価高く貴いものです。そして神は、ご自分の作られた器を愛されます。あなたも私も、神に造られたゆえに、「わたしの目に価高く貴く、わたしはあなたを愛する」と神が言われるのです(イザヤ書43章4節)。

 

 この器を誰がどのように用いるかで、用いられ方、取り扱われ方が全く変わってしまうかもしれません。器の価値を知らない者は、それにふさわしい取り扱い方をしないでしょう。時に、とてもひどい用い方をするのではないでしょうか。

 

 私たちは自分が自分の価値を見失っているとき、自分自身を粗末に扱い、ひどく傷つけてしまいます。そういう私が他者を大切に出来るはずもありません。心無い言葉や態度で周りの人々をどれほど傷つけてしまったことでしょうか。しかも、そのことにさえ気づかずに歩んできたのです。

 

 神様にしてみれば、もっと美しい輝きを放つように造ったはずなのに、どうしてこんなに汚れてしまったのだろう、歪んでしまったのだろう、その上、用いられ方がご自身の計画と全く違っているというところでしょう。残念ながら、こうなってしまえば、叩き壊すほかはないと思われても仕方ありません。22節の「怒りの器として滅びることになっていた」というのは、そのことでしょう。

 

 しかしながら、神はそのような私たちを寛大な心で耐え忍んでくださっただけでなく、冒頭の言葉(23節)の通り「憐れみの器」として選び、豊かな栄光をお示しくださるというのです。

 

 主なる神はその憐れみの器として、異邦人からも召し出されました(24節)。それを、ホセア書2章1,25節を引用して説明しています。また、イスラエルの民についてはイザヤ書10章22,23節、1章9節を引用して、「残りの者が救われる」というのが、「憐れみの器」として選ばれたことだと示されます。

 

 器が憐れみの力を持っているのではありません。罪に汚れ、歪んでしまった私たちに神の憐れみを注ぎ、御子イエスの血で洗い、御霊によって新しく作り変えてくださるということ、そして、神の憐れみを「憐れみの器」として選び、整えた私たちを通して、人々にその憐れみを届けさせようとしておられるのです。

 

 それは、主なる神がアブラハムを「祝福の源」として選び、祝福して(創世記12章2節)、「あなた(アブラハム=イスラエル)を祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(同3節)と言われているのと同様のことでしょう。

 

 その憐れみを一番最初に味わうのは、私たち自身です。叩き壊されて当然の「怒りの器」を、「憐れみの器」としていただいたのは、神の憐れみ以外のなにものでもないからです。

 

 思えば、器は作ってくださった陶工の意思に従い、主の御手に自らを委ねて用いていただいているときが一番幸せでしょう。何しろ、器は用いられてこその存在だからです。どんなことにも間に合うオールマイティーの器でなくてもいいのです。高価で取引されるような道具、器でなくてもよいのです。用いる方にとって、使いやすい器であればよいのです。

 

 かつて、マザー・テレサが「神の愛の宣教者会」という新しい修道会の設立認可を求めて、バチカンから遣わされて来た神父に、「私は、神が手に持つ小さな鉛筆です。文字を書くのは神ご自身です」と語りました。それを聞いた神父は、「だれが神の鉛筆を止めることが出来るでしょうか」といって、新しい修道会の設立を承認されたそうです。

 

 その鉛筆で、どんなに素晴らしい文章が紡ぎ出されたことでしょう。ただ、マザーは自分のことを「神の手の中の一本の鉛筆」と呼び、すべて神がなさったことと謙虚に語り続けておられました。だからこそ、マザーを通して神が偉大な御業を成し遂げられたのです。

 

 貴いことであろうが、貴くないことであろうが、神が用いてくださるのであれば、どんなことでも感謝です。神に用いられることを喜んで、一つ一つ忠実に従っていくときに、神は私たちを思いがけない貴いことに用いてくださるでしょう。小事に忠実な者は大事にも忠実だからと言われているからです。

 

 主よ、私たちはあなたの御手の作品です。しかし、長い間、作者の御心も知らず、自分勝手に歩んでいました。ユダヤ人が福音を拒んで頑なになったとき、神の憐れみが異邦人に開かれ、私たちにもその憐れみが届きました。神に召された憐れみの器として、周りの人々に神の恵みを届けることが出来ますように。御旨のままに私たちを用いてください。御心がこの地になされますように。 アーメン

 

 

3月1日(水) ローマ書10章

 

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」 ローマの信徒への手紙10章17節

 

 パウロは9章から11章まで、異邦人の使徒として召されたパウロが、同胞イスラエルの救いのために祈り、格闘している様子を描いています。

 

 5節以下の段落に記されているのは、人はいかにして救われるのかということです。第一は10節で、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と語られています。

 

 心で信じて義とされるとは、主イエスを信じることによって神との関係が正しくなるということですから、それを救いと言ってもよいと思います。神様との関係が正しくなければ、救われているとは言いません。神様との関係が正しくなっているからこそ、神様の恵みを期待することが出来ますし、神様は私たちを様々な方法を用いて助けてくださるわけです。

 

 それを口で公に言い表すとは、どういうことでしょうか。私たちと神様との関係が正しくなったらどうなるでしょうか。それによって与えられる喜び、感謝を、人に言い表さずにはおれなくなるでしょう。自分の信仰の喜びを黙っていることが出来ないでしょう。それこそが、その人が心に信仰を持っている証拠、神様に義とされたということの明らかな証明になるということでしょう。

 

 信仰を言い表してバプテスマを受けたから救われるというのではなく、救いに与ったので、主への信仰を公に言い表してバプテスマを受けるわけです。それによって、私たちと主イエスとの関係、神様との関係において、神の民、キリスト者としての責任を正しく果たす生活が始まります。

 

 私たちが天に上らなくても、底なしの淵に下らなくても、キリストが私たちのもとに来られました(6,7節)。そして3年ほどの公生涯で神の国の福音を宣べ伝え、そして、十字架で贖いの業を成し遂げられ、三日目に甦られて、私たちのために救いの道を開いてくださいました。

 

 パウロが、申命記30章14節の「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という御言葉を引用しているのは(8節)、①「御言葉はあなたの近くにあり」で、今あなたの前でキリストの福音が宣べ伝えられているということを示し、②「あなたの口、あなたの心にある」で、その御言葉を心で信じ、そして、信じた通りに口で言い表しなさいということを示すためです。

 

 神様の言葉が語られて、それを神様の言葉として聞くことが出来た、信じることが出来た。それを口で言い表すことが出来た。それはすべて、神様が私たちに近づいて来られ,私たちを正しい関係に導き入れてくださった証拠だというわけです。

 

 第二は13節で、「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」と言います。これは、ヨエル書3章5節の引用です。「だれでも救われる」と言われているのが、この引用のポイントです。「神様」と言う者は誰でも救われる。誰でもです。そこに隔てはありません。ユダヤ人もギリシア人も、男でも女でも、幼子でもお年寄りでも、学問があってもなくても、主イエスを呼び求めれば救われるのです。

 

 呼び求めるとは、祈ることと言ってもよいでしょう。祈る者は救われる。それは、神が私たちの祈りを聞かれるということです。祈れば神様が聞いてくださいます。主イエスを呼び求めるためには、信仰が必要です。そして、主イエスを信じるためには、キリストの福音を聞く必要があります。そして、キリストの福音を聞くためには、宣べ伝える人が必要です(14節)。

 

 さらに、神に遣わされなければ、宣べ伝えることが出来ないと言われます(15節)。パウロが一番強調したいのが、この最後の言葉です。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」という言葉です。これは、福音が単なる神の知識ではないからです。生ける神の言葉なのです。

 

 どうして人間が神の御言葉を語ることが出来るでしょうか。神の御言葉を語ることが出来るのは、神お一人だけです。けれども、語らなくてよいわけではありません。神が、御言葉を宣べ伝えよと言われるからです。ここに御言葉を語る難しさがあります。どうすればいいのでしょうか。「神様、どうぞ私を遣わしてください」と祈るのです。

 

 皆、家族の救いを真剣に祈っているでしょう。しかし、自分以上に熱心に、家族に福音を伝えたいと思ってくれる人はいません。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と言われるのですから、「私を遣わしてください」と真剣に祈るべきでしょう。神は私たちがそう祈るのを待っておられて、呼び求める者は誰でも救われると仰っておられるのではないかと思います。

 

 第三は17節です。第一、第二の結論であるかのように、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と記しています。ここで、「キリストの言葉」とは、私たちがよく耳にする「ロゴス」という言葉ではなく、「レーマ」という言葉が使われています。「キリストのレーマ」という言葉になっているわけです。

 

 「レーマ」とは、語られた言葉、いわば説教を指します。8節の「御言葉はあなたの近くにあり」も、「レーマは」という言葉で、だからその後で、「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」という説明になるわけです。

 

 「御言葉があなたがたの近くにある」というのは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉、つまり説教があなたのそばで、前で語られている、そういう説明になっているわけです。つまり、信仰は聞くことにより、それもキリストの説教を聴くことによって始まるのだというのです。

 

 「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言われています。説教を聞いたで止まっていてはいけません。それが「始まり」なのです。

 

 先ず、心にいただいた信仰を口に言い表す生活を始めましょう。そして、「わたしを遣わしてください」という祈りを始めましょう。

 

 「よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(15節)と言われます。なぜよい知らせを伝える者の口ではなく、足が美しいというのでしょうか。私の足は丈夫とか、優美な足だというのではないでしょう。これは、生活ということです。私たちの生活が用いられるということではないでしょうか。

 

 特に変わった生活をして見せるということではありません。普通の生活の中で、その生活の中心に信仰が生きている、御言葉に耳を傾けつつ歩む生活、祈りがある生活。イエス・キリストの御名によって立って歩いているのかということです。

 

 誰かにそれを勧める前に、自分自身がいつも神の御言葉に聴き、主イエスに従って歩む者となるということです。そうして、御言葉に耳を傾けつつ、主イエスの証人として御言葉を宣べ伝えるために遣わしてくださるように祈るのです。

 

 主よ、私たちの心の耳を開いてください。御言葉を読むとき、説教を聞くとき、あなたの御声を聞かせてください。心の目を開いてください。常に主の御顔を仰ぎ、その御業を拝させてください。主との交わりを深めて、聖霊の交わりと導きに与り、その力を受けて主の証人として遣わしていただくことが出来ますように。 アーメン

 

 

3月2日(木) ローマ書11章

 

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解しつくせよう。」 ローマの信徒への手紙11章33節

 

 パウロは、なぜユダヤ人はキリストの福音の前に頑なになったのかを考えてきました。それは、ユダヤ人の滅びを願うのではなく、救いを求めているのです。同胞が救われるためなら、神から見捨てられた者となってもよいとさえ考えているほどです(9章3節)。

 

 そして、彼が到達した結論は、全イスラエルが救われるということでした(26節)。そのことで、先ず「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」(4節、列王記上19章18節)とエリヤに告げられた神の言葉を引用し、「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」(6節)と言います。

 

 「残っている」は、「残り」(レインマ)があるという言葉で、「残り、残余、食事の残り、屑」という意味です。およそ、何かの役に立つという代物ではなさそうです。しかし、神はそれを「自分のために残しておいた」と、あたかも「とっておき」であるかのように仰っておられます。

 

 「バアルにひざまずかなかった七千人」は、彼らの信仰心で偶像礼拝をしなかったというより、神が彼らを憐れみによって選び、恵みをお与えになったので、バアルにひざまずかずにすんだということなのでしょう。

 

 しかし、多くのユダヤ人はキリストの福音の前に頑なになり、神から見捨てられた者のようになります(9章3節参照)。そのことを、オリーブの木の折り取られた枝と、17節以下で表現しています。神は、栽培されているオリーブの木の枝を折り取り、野生のオリーブの木の枝を接ぎ木したということで、ユダヤ人に替えて異邦人に救いの恵みをお与えになったというのです。

 

 22節に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまる限り、あなたに対しては慈しみがあるのです」と言います。「厳しさ」(アポトミア)は、「アポ」(from,away)と「トミア」(cutting)の合成語で「切り離す」という意味の言葉です。「枝が折り取られ」(17節)たことを神の「厳しさ」と見るという言葉遣いです。

 

 「慈しみ」という傘の下にとどまれば、その恵みによって守られますが、その傘から離れると、「厳しさ」が降りかかり、濡れてしまう=切り取られるという図式です。「神の選びの民」とされたことで自惚れ、その慈しみを離れて倒れてしまったイスラエルを見下すような態度をとれば、それは、神の喜ばれるところではないので、彼らも容易く切り離されてしまうと、異邦人の読者に警告しています。

 

 そして、25節以下にイスラエルの再興について、パウロの見解が述べられます。そこで、「一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」(25,26節)と言われます。

 

 その根拠として、イザヤ書59章20,21節を引用します(26,27節)。救い主が来て、ヤコブ=イスラエルから不信心を遠ざけると語られています。イスラエルの不信心が一掃されるのは、神の憐れみによるのですが、イスラエルが憐れみを受けるのは、かつて神が彼らを選びの民とされたからであり(28節)、そして、神の賜物と招きとは取り消されないものなのです(29節)。

 

 「取り消されない」(アメタメレートス)は、「悔い改めがない、後悔しない」という言葉です。イスラエルを選びの民とし、彼らに神の賜物をお与えになったことを、神は悔いてはおられないということで、それを取り上げたり、取り消されたりはなされないという意味に用いられているわけです。

 

 そもそも、神がイスラエルを選ばれたのは、彼らが信仰熱心な優れた民だったからではありません。神の憐れみを受けなければ、エジプトで滅んでしまう奴隷の苦しみの中にいる者たちだったのです(申命記7章6,7節参照)。

 

 イスラエルの民が神の選びの民としての地位に安住し、他の者たちを異邦人として見下して奢り高ぶっていたので、神はイスラエルを頑なにされ、その結果、キリストの福音は異邦人のものとなりました(30節)。異邦人にキリストの福音が及んだのは、彼らがそれを信じて受け入れたからですが、その背後には、神の異邦人に対する憐れみがありました。

 

 選びの民が頑なになることで、そもそも不信心だった異邦人に神の憐れみが注がれたとすれば、今頑なになって神の恵みから漏れているイスラエルも、神の憐れみを受けるようになるでしょう(31節)。つまり、神の憐れみは、信仰心篤き者に注がれているのではなく、不信心な者に注がれているのです(4章5節参照)。

 

 32節で、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と語っているのは、そのことです。

 

 ここまで考えてきて、パウロの心に命の光が差し込みました。同胞の救いを確信することが出来たのです。そこで、彼の口から賛美の言葉がほとばしり出てきました。いまだ、イスラエルの人々が福音を信じようとしているわけではありません。同胞の救いを伺わせるような状況はまだ生まれていません。むしろ、彼らはますます頑なになります。

 

 ローマ書を書いた後、パウロは義捐金を届けるため、エルサレムに行き、そこで、ユダヤ人らに捕えられ、殺されそうになります。ローマで福音を証しするという使命のために、神がパウロを守っていなければ(使徒言行録23章11節)、そこで殉教していたことでしょう。ですから、ここでパウロは、信仰によって先取りして賛美しているわけです。神が約束されたことは必ず実現すると信じているのです。

 

 冒頭の言葉(33節)でパウロは、神の富と知恵と知識の深さをたたえます。すべての民を救う神の遠大な計画に思いを馳せているのでしょう。勿論、神の定めを極めることも、神の道を理解し尽くすことも、人間に出来るはずがありません。

 

 けれども、神はそのような救いの計画の実現のために、教会を、そして私たちを用いられます。第一コリント書1章21節に「世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」とあります。

 

 神はご自分の力で救いの計画を成就することが出来るのに、人間による福音宣教という手段でそれをなさるというのは愚かなことではないでしょうか。しかし、神はその方法を選ばれました。それこそ、人間が自分の知恵や力によらず、ただ神の憐れみにより、主イエスを信じる信仰によって救われることが明らかにされることだからです。

 

 すべてを恵みの主の御手に委ね、自惚れることなく、むしろ、力強い神の御手のもとに謙り、御言葉と聖霊の導きに従って歩みましょう。 

 

 主よ、パウロが語るとおり、あなたの富と知恵と知識はあまりに深くて、それを究めることはおろか、理解することも出来ません。しかし、その富と知恵と知識の深さにより、私たちのような罪人も救いに与らせて頂きました。だから今、キリストの十字架の福音を人々に告げ知らせます。どうか同胞を憐れみ、救いに与らせるために、私たちを憐れみの器として用いてください。 アーメン

 

 

3月3日(金) ローマ書12章

 

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 ローマの信徒への手紙12章1節

 

 12章から、キリストの福音を信じて義とされた者の新しい生活について、実践的な勧めが展開されます。その中で、1,2節に、全体の基調をなす勧めが語られています。

 

 冒頭の言葉(1節)で、「こういうわけで」とは、どういうわけでしょうか。これは、これまでパウロが語ってきたことを根拠として、勧告や命令などの結論を語るということでしょう。これまで語ってきたこととは、1章から11章までに語られたことすべてということになります。

 

 それは、人は自分の行いによって救いを獲得できず、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われること、それは神の深い憐れみによることで、その憐れみはすべての民に及んでいるということでした。

 

 「憐れみによって勧める」とありますが、パウロは、11章までに語ってきた福音について、それを一言にまとめて、「神の憐れみ」と記しているのではないでしょうか。そのためか、この「憐れみ」という言葉は、複数形です。神の憐れみの豊かさ、恵み深さを示していると考えられます。

 

 勧めを受けているのは、「兄弟たち」です。キリスト教会では信徒お互いを「兄弟、姉妹」と呼びます。これは、単なる呼び名ではありません。信徒同士の親しみを表現しているものでもありません。キリスト・イエスの贖いによって神の家族とされたことを表すものです。

 

 神との関係を示すという意味では、牧師、執事という職名よりも、「兄弟、姉妹」という呼び名のほうが重要です。牧師も執事もみな神の家族、兄弟姉妹なのです。それゆえ、神を父と呼ぶのです。父と呼べるということは、神と親子の関係であるしるしです。

 

 私たちは神を、「アッバ(「お父ちゃん」という意)、父よ」(8章15節、ガラテヤ書4章6節)と呼びます。そして、そのように呼ばせてくださる神の御霊が私たちに与えられているのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり(エフェソ書1章14節)、その霊の働きによって、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(第二コリント書3章18節)。

 

 キリストを信じて神の家族とされた私たちに勧められているのは、どのようなことでしょうか。それは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」ということです。体を献げるとは、私たちの生活すべてを神のものとするということです。兄弟姉妹すべての生活が、神のものであるということです。

 

 「体」は複数形です。それは、一人一人様々な生活があるので当たり前でしょう。しかし、「いけにえ」という言葉は単数形です。兄弟姉妹の生活すべてが、神の御前に一つのいけにえとなるということですね。

 

 逆に考えてみると、神が独り子キリストを私たちの贖いのためのいけにえとされました。この一つのいけにえによって、時代を超えたあらゆる部族、民族、すべての者が救いに与ることが出来るようにされたわけです。

 

 ですから、私たちが一つのいけにえとして自分の体を献げるというのは、このキリストの贖いの業に対する私たちの信仰の応答ということです。信仰の応答として、生きている体=生活を献げるということになれば、どのように生活しなければならないかということも、自ずと示されてきます。

 

 パウロはそれを、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言いました。私たちがキリストの慈愛に応えようとして生活することこそが、神に喜ばれる礼拝であり、聖なる=神のために区別された、とっておきの礼拝であり、生ける=命ある礼拝なのです。

 

 「なすべき」(ロギコス)という言葉は、第一ペトロ書2章2節では、「霊の」と訳されています。口語訳では、「あなたがたのなすべき霊的な礼拝」と訳されていました。「ロギコス」とは、「論理的な、理屈に合う」、英語の「logical(ロジカル)」にあたる形容詞ですから、「なすべき」でよいわけです。

 

 それが「霊的な」という意味でもあるというのは、どうしたことでしょうか。それは、ここに述べられる論理(ロジック)が、私たち人間の理屈を超えた神の摂理だということでしょう。

 

 神の愛に私たちが応答するのは当然だということですが、実に教会はキリストの体であり、キリストがご自身をいけにえとして十字架に献げられたことと、すべての兄弟姉妹が一つのいけにえとして自分の生活をささげることとが、神の御前に一つとされるのです。それこそ、神の御業、霊的な礼拝と言われる所以ではないでしょうか。

 

 2節の「ならう」(シュスケーマティゾー)は、「形(スケーマ)を同じ(シュン)にする」という言葉です。一方、「変える」(メタモルフォオー)は、「形(モルフェー)を変える(メタ)」という言葉です。

 

 「スケーマ」と「モルフェー」は同じように「形」と約されますが、基本的な違いがあります。注解書に「オランダ風の庭園をイタリア風に変えるのはメタスケーマチゾー、庭園を都市のような全く別のものに造り変えるのはメタモルフォオーである」という説明がありました。つまり、「ならってはならない」とは「一致するな」ということで、「変えていただく」は、「変貌、変容する」ということです。

 

 6章4節で「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と言われていたように、この「変貌、変容」は、バプテスマに関連することと考えてよさそうです。そこに、聖霊が働くのです(上述参照)。 

 

  その「変貌、変容」の目的を、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」なることと言います。聖霊の導きによって、神の御心をわきまえることが出来るようにされていくのです。

 

 主の御心を尋ねて、日々御言葉に耳を傾けましょう。御心をわきまえることが出来るよう、聖霊の導きを祈り求めましょう。そうして、神に喜ばれる「まことの礼拝」へと導いていただきましょう。

 

 主よ、今日の御言葉で、教会の原点を改めて見つめました。教会に集う兄弟姉妹の生活すべてが神のものであるということです。それは、私たちすべての者は、キリストによって贖われた者だからです。キリストの者とされた私たちが、どのような生活をしなければならないのか、どのようにして一つとされていくのか、教えてください。そうして、神に喜ばれるまことの礼拝をささげさせてください。 アーメン

 

 

3月4日(土) ローマ書13章

 

「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。」 ローマの信徒への手紙13章12節

 

 パウロは、私たちの体を神に喜ばれる、生ける聖なる供え物として献げなさいと勧め(12章1節)、それは、この世に倣うのではなく、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心にかなう、善い、神に喜ばれる、完全なものであるのかをわきまえなさいと語ります(同2節)。

 

 冒頭の言葉(12節)は、それを受けて語られているものです。「この世」を夜と呼び、新しく到来する神の完全な支配を「日」と呼んでいます。また、「闇の行い」、「光の武具」という言葉も用いられ、対比されています。

 

 「闇の行い」とは、13節の「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」のこととでしょう。また、14節の「欲望を満足させようとして、肉に心を用い」ることをも指しています。こうしたことが記されている背景には、ローマの裕福な人々の豪奢な生活に倣い、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」に身をやつす輩が全くいなかったということではないと思います。

 

 それに対して、「光の武具を身につけよう」というのは、夜は既に過ぎ去ったということではないということを表します。夜の闇と日の光の間に戦いがあり、この戦いに「光の武具を身につけ」て参加せよというのです。ですから、今はまだ夜の暗闇の中にいることになります。

 

 「夜は更け、日は近づいた」とは、夜になってからずいぶん時間がたつので、朝が近づいたということですが、「更ける」は「深ける」とも書くと国語辞典にあり、夜の闇が深くなったという表現と考えられます。夜明け前が一番暗いという言葉もあります。

 

 常識で考えれば、確かに朝は近づいているのかもしれないけれども、しかし自分を取り巻く状況は朝の到来を思わせるしるしが何もない、あるいは、もう二度と自分には朝がやって来ないのではないかと思えるほどに闇が深まっていく、そんな状況を想定してもよいのかもしれません。

 

 パウロが伝道旅行中、この手紙を執筆していた頃は、ローマによる迫害はまだ表立って行われてはいなかったものの、彼の進む先にはいつも、「殉教」の2文字がぶら下がっているようなものでした。そして、今日の私たちの世界も、「夜は更け」という言葉のままにますます混迷の度を深め、闇が濃くなり、終末を目指して邁進していると言わざるを得ないように思われます。

 

 しかしながら、パウロはそこで信仰の目を開き、「日は近づいている」というのです。闇が打ち破られて、神の光が夜に満ち溢れる、救いの完成の日が到来することを確信しているのです。だからこそ、「光の武具を身につけ」て、闇の業を追い出せというわけです。

 

 さらに、「光の武具を身につけ」ることを、14節では、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言っています。この言葉の背景には、クリスチャンが信仰を表明してバプテスマ(洗礼)を受けるときに、今まで身につけいた着物を脱いで、バプテスマ用のガウンを身につけるという教会の習慣があります。

 

 バプテスマとは、古い自分に死に、主イエスの命に入れられること、その命の中に浸されることです(6章3,4節、コロサイ書2章11~13節)。それで、主イエスを身にまとうという言い方が出て来ているのです(ガラテヤ書3章27節)。

 

 そして、バプテスマを受けた者たちは、キリストを生活の土台として、その福音にふさわしい生活を始めます。その生活は、もはや夜の闇に支配されることなどはないということではありません。むしろ、戦いがあることを忘れてはなりません。それが、「光の武具を身につけましょう」と勧告している意味です。

 

 パウロはこのとき、ローマの権力を「悪、闇」と考えているわけではありません。むしろ、国家権力に対して敬意を払いつつ服従することを勧め(1,7節)、隣人に愛をもって行動することを求めています(8節以下)。それが、闇に呑み込まれない、光の内を歩むキリストの福音に相応しい行為と考えているのでしょう。

 

 光の武具で武装していること、絶えず福音にふさわしい生活をしようと心を定め、主の御言葉に耳を傾ける生活をすることこそ、眠りから目を覚ましているということなのです。光の内におられる神との御言葉と祈りによる交わりを(第一ヨハネ書1章7節)、しっかりと持ち続けましょう。

 

 主よ、私たちはアダムのように裸で、罪に汚れていました。放蕩息子のように、自ら父なる神を遠く離れて生きる希望を失いかけていましたが、あなたの深い憐れみにより、イエス・キリストという最上の衣をまとわせていただきました。絶えず主を見上げ、主の御声を聴き、御言葉に従う生活をさせてください。目覚めて福音に相応しく生活することが出来ますように。 アーメン

 

 

3月5日(日) ローマ書14章

 

「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」 ローマの信徒への手紙14章9節

 

 14~15章は、信仰の弱い人と強い人が話題となっています。単純に考えれば、信仰の弱い人は強い人になりなさいと指導されているのだろうと思われるのですが、実際はぜんぜん違います。それは、どういうことでしょうか。

 

 信仰の弱い人は、「野菜だけを食べている」(2節)とあります。また、「ある日を他の日よりも尊ぶ」(5節)人です。旧約の律法で菜食主義になることは考えられませんし、彼らが律法を守るように主張したとも考えられません。教会内にグノーシス主義に影響を受けて禁欲的生き方をしていた人々がいたのでしょう。

 

 手紙の文面からすると、彼らは少数派で、多数派から禁欲主義にとらわれた「信仰の弱い者たち」という差別を受けていたのではないかと想像されます。一方、少数派の人々は、多数派の人々の野放図な生活を生き方を非難していたという構図を考えることが出来ます。ですから、少数派とはいえ、教会が分裂する危機をはらんでいたわけです。

 

 パウロ自身は、禁欲的生活をしなければならないと考える立場ではありません。むしろ何を食べてもよいと考え、どの日も同じと考える立場であろうと思われます。けれどもパウロは、「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と、自ら強いと主張している者に向かって語りかけます。

 

 彼らが「信仰が弱い」といって差別している人々も、主の兄弟として受け入れるべきだというのです。それは、「神はこのような人をも受け入れられたからです」(3節)。

 

 原文には、「このような人をも」の「も」という言葉はありません。直訳すれば、「神は彼を受け入れたからです」となります。原文にはない「も」という表現が加えられたのは、多数派が少数派を主の兄弟姉妹として認めるだけでなく、少数派も多数派を認めることが必要だという信仰理解があるからでしょう。

 

 即ち、信仰が強いと自称する自由派が「信仰の弱い人を受け入れ」るだけでなく、少数派の禁欲的な生活をしている人々も、多数の自由派の人々を神の家族として受け入れる必要があるということ、お互いに主にある兄弟姉妹だと認め合いなさいということなのです。

 

 というのも、何かを食べないことや、何でも食べるということが、信仰にとって究極的に大事なのではありません。それぞれ、何のためにそうするのかという理由があります。両者とも、それぞれの生活態度を通して主イエスを仰ぎ、そして神に感謝しているのです。

 

 些細な違いではないかもしれませんが、お互いが主のためにしていることを理解し合い、兄弟姉妹同士が互いに裁き合わないようにと警告するのです(4節)。

 

 私たちはキリストのために生かされています。そして、キリストのために死にます(8節)。ここで、パウロは死について、寿命が尽きてお迎えがやってくるという運命のように考えてはいないことが分かります。

 

 パウロは、自分の身も心も、命までも献げているので、自分の真の持ち主である主イエスのもとに戻ることであると考えているわけです。だから、死ぬことも、パウロにとっては大きな喜びなのです。

 

 ゆえに、主イエスの死と復活という救いの御業によってキリストの者とされた私たちは、何をするにも、主のためにするのです。それが、私たちの救われた意味です。そのとき、他の人が何をしているのかということは問題になりません。主があなたに何をせよと仰っておられるのかということが問題なのです。

 

 キリストの体とされたお互いですが、全員が目ではないし、耳ではありません。しかし、全身のあらゆる器官がそれぞれの役割を忠実に果たすとき、その体は生きています。主を頭として、主によって生かされ、主と共に歩んでいく群れです。

 

 私たちがキリストに属し、キリストに結ばれたキリストの者とされていること、それこそ、キリストの死と復活の意味であると、冒頭の言葉(9節)は私たちに教えています。死と復活の出来事を通して、主イエスは天と地を貫いて「死んだ人にも生きている人にも」すべての者の主となられたのです。

 

 ということは、私たちが主のものであるならば、私たちの生き死には大した問題ではありません。だから、強い人は弱い人を軽蔑すべきではありませんし、弱い人は強い人を裁くべきではないのです(3,4節)。私たちは、最終審判者たる主の裁きの前に立つときが来ます。主なる神こそ唯一の裁き主なのです(10,12節)。

 

 主よ、静岡教会というキリストの体によって、神の栄光を表すことが出来ますように。絶えず御言葉に聴き、御霊の力を受け、御霊を通して注がれる神の愛で私たちの心を満たしてください。私たちを御子イエスの血によって贖い、キリストの者としてくださったことを心から感謝します。 アーメン 

 

 

3月6日(月) ローマ書15章

 

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように。」 ローマの信徒への手紙15章13節

 

 信仰の強い者が弱い者を受け入れるように(14章1節)、そして、その弱さを担うべきである(15章1節)とパウロは語り、ローマ教会に生じている分裂の危機に対処しようとしています。パウロはまだローマに行ったことはないので、何らかの方法でその情報を得て、これを書き送っているということでしょう。

 

 パウロはしかし、その状況を悲観してはいないようです。4節で「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と言っています。

 

 そして、「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(5,6節)と祈るのです。

 

 つまり、私たちの信じる神は忍耐と慰めの源なる神であり、私たちは聖書を通して神の忍耐と慰めを学んでいるのだから、互いの違いを認めながら、キリストのために同じ思いになれるという希望が持てるというのであり、そうして、お互いに声を揃えて神をたたえさせてくださいと祈っているわけです。

 

 さらに、パウロはキリストを引き合いに出して、「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7節)と言います。ここに言われているのは、食事を共にすることも含め、双方が互いに相手を受け入れ合うことです。

 

 キリストがあなたがたを受け入れてくださったとは、ユダヤ人にとっては、「キリストは神の真実を表すために、割礼ある者たちに仕える者となられた」ということです(8節)。それは、キリストがユダヤ人としてお生まれになったこと、そして、主にイスラエルで活動され、エルサレムで十字架にかかられたからです(9章4,5節参照)。

 

 一方、キリストが異邦人を受け入れたのは、その憐れみのゆえでした(9節、11章30節など)。それは、本来なら受け入れられるはずのない者が、恵みによって受け入れられることになったということであり、だから、それを知った異邦人たちが神をたたえるようになるのです(9節以下)。

 

 ユダヤ人と異邦人とが互いに受け入れ合い、認め合うというのは、容易に起こり得ないようなことだったでしょう。けれども、イエス・キリストの真実と憐れみのゆえに、福音はユダヤ人から異邦人へと広げられ、そのことを喜び、神をほめたたえて来たのです(使徒言行録11章18節など)。

 

 対立し合い、食事を共に出来ないようになっている人々に対し、主の晩餐に共に与ることから、再び交わりが始まり、互いに受け入れ合うようにと、このときパウロは考えていたのではないでしょうか。

 

 同じように仲間割れ、仲間争いをしていたコリントの教会の人々に、「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(第一コリント書10章17節)と、主の晩餐に基づいて説明しているからです(同11章17節以下も参照)。

 

 そうして、冒頭の言葉(13節)のとおり、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように」と祈ります。教会を一つにするのは神の力であり、神を信じる信仰によって喜びと平和が満たされ、教会の土台が堅く据えられてキリストの栄光を拝することが出来るようにと祈り願うのです。

 

 パウロの内には喜びと希望が満ち溢れており、どのような困難があってもローマへ行き、そこを拠点にして、イスパニア(スペイン)まで伝道に行きたいと熱望しているのです(24節)。パウロが望めば必ずかなうということではありません。パウロのスペイン伝道は、実現しなかったのではないかと考えられます。

 

 しかし、希望の源なる神は、私たちの心に希望を与え、それが実現するようにと働いて下さいます(フィリピ書2章13節)。パウロはスペインまで行けなかったかもしれませんが、しかし、スペインまで伝道したいという彼の希望は、実現したのです。

 

 私たちも希望の源なる神にあって大いなる希望を抱き、聖霊の力によってその希望に満ち溢れさせていただけるように、祈りましょう。

 

 主よ、静岡市には70万という人々が生活しています。そこに40あまりの教会が建てられています。一つの教会が1万8千人を対象に伝道しようとしていることになります。どうか私たちに救霊のために愛を注いでください。信仰によって得られるあらゆる喜びと平和で私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。信仰と希望と愛、それは永遠に存続するものだからです。 アーメン

 

 

3月7日(火)~14日(火)、原田牧師が休暇を取られ、今日の御言葉(ローマ書16章)の更新を休みました。ご了承ください。

 

 

 

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