ダニエル書

 

 

8月8日(月) ダニエル書1章

 

「侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。」 ダニエル書1章7節

 

 ダニエル書は、「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目」(1節、紀元前605年ごろ)にバビロンの捕虜となったダニエルに名を借りた著者が記しているという構成になっています(7章1節以下参照)。

 

 列王記下24章1節に、ヨヤキムの統治下、ネブカドネツァルに攻められて、3年間バビロンに隷属した後、反逆しと記されています。バビロンの王ネブカドネツァルは、紀元前605年に即位して、エジプト軍をカルケミシュの戦いで打ち破り、パレスティナの権益を手に入れました。その勢いでエルサレムに攻めて来たのでしょう。

 

 ただし、エルサレムを包囲して、神殿祭具の一部を手中にしたというのは、ヨヤキムが反逆した後、再び攻め寄せてヨヤキムの子ヨヤキンを捕囚とした紀元前597年のことでしょう(列王記下24章10節以下、第一次バビロン捕囚)。

 

 本書の中心部分はアラム語で書かれています。恐らく、もともとほぼ全体が当時の国際語であるアラム語で書かれ、後に、1章1節から2章4節まで、そして8章から12章までが、ヘブライ語に翻訳されたのようです。アラム語、ヘブライ語の用法は、主に紀元前2世紀ごろに用いられたものであるということから、本書が1節で言われているような捕囚時代の著作ということは有り得ないということになります。

 

 本書は、1章から6章まで、ダニエルと三人の友人たちの英雄物語で、小説形式で記された物語は、その語彙や知識から、ペルシアとヘレニズムの影響を強く受けていることが分かります。一方、7章から12章までに出て来る黙示的な幻は、紀元前2世紀初めに書かれたと推定されています。

 

 注解者たちは、現在見られるかたちになったのは、シリアのアンティオコス・エピファネスによってパレスティナが支配されていた紀元前2世紀で、ギリシア文化の強制によってユダヤ人たちが大いに悩まされたその治世の終わり近く、紀元前165年頃のものであろうと言います。

 

 著者は、アンティオコスの政治に抵抗した敬虔派ユダヤ教徒(ハシディーム)の一員であろうと考えられます。そのグループから、死海の畔にあるクムランで共同体を形成するために荒れ野に出て行った人々がいます。その他の人々は、後にファリサイ派として歴史に登場して来ます。

 

 私たちキリスト教徒の持つ聖書では、ダニエル書は「預言者」の書の一つとされていますが、ヘブライ語聖書(マソラ本文)では、ダニエル書は詩編やエステル記、エズラ記などと並んで「諸書」に区分されています。7章からの黙示的な幻を見れば、預言者の中に加えても良さそうです。

 

 署名となった「ダニエル」については、「イスラエル人の王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年」(3,4節)で、「ユダ族出身」(6節)と紹介されています。

 

 捕虜となっている者の中にそのような少年がいるということは、ヨヤキムの代ではなく、エルサレムが陥落して多くの者がヨヤキムの子ヨヤキンと共に捕囚となった紀元前597年のことと考えた方が良さそうです。その捕囚の民の中から優秀な若者を選んで宮廷で仕えさせることにしました(3~5節)。そこに、ユダ族出身の四人の若者がいました。ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤです(6節)。

 

 侍従長は、冒頭の言葉(7節)のとおり、彼らの名前をバビロンの名前に変えました。名前を変えるというのは、それ自体何でもないように見えますが、これは自分たちの文化を相手に強要し、相手の文化を否定するという象徴的な出来事です。

 

 古くは、ヤコブの子ヨセフがエジプトの宰相となるとき、ツァフェナト・パネアという名前を与えられたということがありました(創世記41章45節)。近くは、戦時中、日本が併合した国で宗氏改名を行いました。

 

 ダニエルとは、「神が裁きたもう」という名で、神の正義を信じる親が子にその名をつけたわけです。それがベルテシャツァルと変えられました。これはバビロンの言葉で、「王の生命をお守りください」という意味です。親がつけた名が奪われ、別の名で呼ばれる屈辱は、経験してみないと分からないでしょう。自分でつけるペンネームや友だちからつけられるニックネームなどとは、わけが違います。

 

 自分の人生を左右する出来事に出会い、改名することもあります。たとえば、主イエスの弟子となった漁師シモンがペトロと呼ばれ(マタイ福音書16章18節)、迫害者であったサウロがパウロと名乗っています(使徒言行録13章9節)。

 

 ヤコブはヤボクの渡しで神の使いと争ったとき、神の使いから「イスラエル」の名前を与えられました(創世記32章29節)。アブラムがアブラハムに(創世記17章5節)、サライがサラに(創世記17章15節)、名前を変えています。そこには、新しい人生のへ神の祝福があります。

 

 ダニエルの改名は、彼が望んだものでも、人生を左右する出来事に出会って、神の祝福の名前がつけられたというのでもありません。彼自身ではどうすることも出来ない力に押さえつけられるかのような出来事です。

 

 しかし、そのような状況にあって、ダニエルが自分を見失うことはありませんでした。8節の、「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」たというところにそれが表われています。神の御前に、清くあることを願っていたわけです。

 

 私たちは、主イエスを信じて、「クリスチャン(キリストのもの)」と呼ばれる者となりました。この地上の生涯を、主イエスを信じる信仰によって歩み通し、御国に凱旋するとき、主なる神が私たちに、祝福による新しい名を賜ることでしょう。

 

 そのときまで、主なる神を信じ、主のみ言葉に日々耳を傾けつつ、御霊に満たされて真理の道、命の道をまっすぐに歩みましょう。

 

 主よ、御子キリストは人間となってこの世に来られたとき、イエスと名付けられ、また、インマヌエルと呼ばれました。十字架の死によって贖いの業を成し遂げられて、高く上げられ、あらゆる名にまさる名が授けられました。キリストに倣う者として、日々御言葉に耳を傾け、御霊の力を受けて宣教の使命を果たし、御名を崇めさせてください。主の祝福が常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

8月9日(火) ダニエル書2章

 

「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる。」 ダニエル書2章20,21節

 

 「ネブカドネツァル王が即位して2年目」とは、紀元前604~3年ごろということになります。ということは、ダニエルたちが王に仕える者として選び出され、3年の養成期間を過ごしているときということになります(1章3節以下)。ただ、それでは15節の「ユダの捕囚の中に、一人の男が見つかりました」という言葉と時期が合いません。第一次捕囚が行われた紀元前597年の次の年と考えた方が良さそうです。

 

 王は何度か夢を見て不安になり(1節)、占い師、祈祷師、まじない師、賢者たちを呼び出して夢解きを求めます(2,3節)。それも、どんな夢を見たのかを言い当てた上で、その解釈を告げよ。出来なければ体を八つ裂きにする。しかし、正しく解釈してくれれば、贈り物と大いなる名誉を授けようというのです(5,6節)。

 

 ここで、4節の「賢者たちは王にアラム語で答えた」という言葉に続く、カギ括弧で記された賢者たちの発言から7章28節まで、アラム語で記されています。「アラム語で」というのが、ここから本文がヘブライ語からアラム語に変わるという後代の書き込みだろうと、岩波訳の注に記されています。 

 

 話を元に戻して、夢を言い当て、その上で夢を解釈するよう求める王に対し、賢者たちは、そんなことは誰にも出来はしないと答えると(10,11節)、王は激しく憤り、バビロンの知者と言われる者たちを皆殺しにせよと命じます(12節)。とんでもない無理難題です。権力者というものは、時としてこのように頑迷に振舞うものだと言わんとしているのでしょうか。

 

 しかしながら、この無理難題に答える者がいました。それは、ダニエルです。ダニエルは、三人の友と共に天の神に憐れみを乞い、王の夢の秘密を求めて祈りました(18節)。すると、天の神は夜の幻を通して、夢の秘密を明かされました(19節)。

 

 ダニエルは神を賛美した後、早速王に拝謁し、王の見た夢を告げ(31節以下)、夢の秘密を解き明かしました(37節以下)。巨大な像の金の頭はネブカドネツァルでバビロンを示し(38節)、銀の胸と腕はメディアが次に興ること、第三は青銅の腹と腿でペルシア(39節)、第四は鉄の脛でアレキサンダー率いるギリシアが登場します(40節)。

 

 それが鉄と陶土の足になるというのは(41節以下)、ギリシアがセレウコス朝とプトレマイオス朝に分裂することを示していると考えられます。ダニエル書は、この段階にあるときに記されたのです。

 

 この巨大な像を、人手によらず切り出された一つの石(34節)、即ち、天の神が起こされた国が打ち砕く(44節)と告げられます。バビロンをメディアとペルシアが砕き、ペルシアをギリシアが砕き、そして、ギリシアが分裂した後、ローマがそれらを砕きます。

 

 このように王の無理難題に答えることが出来たことについてダニエルは、自分に世の中の誰にも勝る知恵があるからではなく、将来起こるべきことを王に知らせるために神が夢を見せ、その意味をよく理解するように助けるためだと語っています(28節以下、45節)。

 

 ダニエルの夢解きを聞いた王は、即刻ダニエルを宰相として立て、その友らも行政官に任じました(48,49節)。さながら、エジプトに奴隷として売られ、だれも解き明かせなかったファラオの夢を解き明かし、宰相として取り立てられたヨセフのようです(創世記41章1節以下、41,42節)。

 

 そのとき、ネブカドネツァルはダニエルの前にひれ伏し(46節)、「あなたがこの秘密を明かすことができたからには、あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない」(47節)と言いました。即ち、バビロンの王は、ダニエルを通してイスラエルの神の前にひれ伏したのです。ここに、主なる神が、イスラエルだけでなく、バビロンの人々にとってもまことの神でもあられることが明示されます。

 

 また、その夢解きを通して、人の造るものはどんなに立派に見え、あるいは優れていても、それは有限の存在に過ぎないことを示されました(37節)。今、権勢を誇り、栄耀栄華を誇っているバビロンも、崩されるときが来ます(41,45節)。

 

 ネブカドネツァルの権威は、天の神から授けられたものです(37節)。それは、ネブカドネツァルによって、神の御業を行われるためなのです。そのことをわきまえず、分を超えて驕り昂ぶり、神の栄光を自分のものにしようとする者は退けられます。かつてのイスラエルがそうでした。それゆえ、バビロン捕囚の憂き目を見たのです。まさに、「奢れる平家は久しからず」です。

 

 神を畏れることこそ、知恵のはじめです(箴言1章7節)。主にまことの知恵を求めましょう。すべてのものには終わりがあります。しかし、神は永遠の御国を興され(44節)、すべての国々を打ち滅ぼされます。神の権威、権能を持ってすれば、それは容易いことでしょう。

 

 そこで神が用意されたのは、天軍天使たちではなく、御子キリストでした。御子キリストが十字架によって敵意を滅ぼされ、ユダヤ人も異邦人もなく、男も女もなく、すべてのものを一人の新しい人に作り上げて平和を実現されました(エフェソ書2章14~16節)。

 

 主イエスが十字架で殺されたとき、それは、神のご計画が水泡に帰したかのようでした。しかし、知恵と知識の宝はすべて、このキリストのうちに隠されています(コロサイ書2章3節)。神の愚かさは人の賢さよりも賢く、神の弱さは人の強さよりも強いのです(第一コリント書1章25節)。

 

 冒頭の言葉(20,21節)のとおり、ダニエルがしたように私たちも神の前に膝をかがめ、主の御名を讃え歌いましょう。「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる」と。

 

 「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ書5章18,19節)とあるごとく、聖霊の満たしと導きにあずかり、主の御心を悟り、心から賛美をささげましょう。 

 

 命であり、甦りであられる主よ、主イエスこそ道、真理、命です。常に主を畏れ、主に従って歩み、御もとに進ませてください。更に深く主と交わり、絶えずほめ歌を歌わせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心が行われますように。御業のために用いられる者としてください。 アーメン

 

 

8月10日(水) ダニエル書3章

 

「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お立てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」 ダニエル書3章17,18節

 

 バビロンの王ネブカドネツァルが金で像を造りました(1節)。高さ60アンマといえば、およそ27メートルという大きさです。奈良の大仏が座高およそ15メートルだそうですから、立ち上がればそれくらいの身長になるでしょうか。王が巨大な像を造るといえば、自分自身の像ではないかと考えられるのですが、12,14節の記述は、それが神の像だったということを示しています。

 

 この像の除幕式には、帝国中の高官、役人たちが召集されました(2節)。そして、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音が聞こえたら、神の像の前にひれ伏し、拝むことを命じました(5節)。そして、ひれ伏して拝まない者は、燃え盛る炉に投げ込まれるという厳罰がありました(6節)。

 

 2章47節で王がダニエルに、「あなたの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない」と言い、ダニエルを長官として立てたばかりなのに、なぜそのような像を造り、拝ませるのでしょうか。勿論、ネブカドネツァル王が主なる神を信じる者となったわけではありませんから、ローマ時代の皇帝礼拝のように自分自身を神格化しようとしていたか、宗教を利用して自分の権力を誇示しようとしていたのでしょう。

 

 王の厳命に対し、ユダヤ人のシャドラク(ハナンヤ)、メシャク(ミシャエル)、アベド・ネゴ(アザルヤ)、つまりダニエルの三人の友人たちは像を拝みませんでした。ここにダニエルの名が入れられてはいませんが、ダニエルも当然拝まなかっただろうと思います。

 

 ところが、三人のことが王に密告されます(9節以下)。「ユダヤ人を中傷しようとして」(8節)とあることから、捕囚でありながら行政官に任じられたことを妬ましく思っていたのでしょう。三人は王の前に立たされます(13節)。そして、像を拝まなければ炉に投げ込まれることが、改めて言い渡されます(14,15節)。

 

 その際、「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(15節)と尋ねています。当然、自分の手から救い出すことのできる神などいないと考えての発言です。ここに、確かに自分を神の地位において、真の神をそこから排除しようとしているのです。

 

 冒頭の言葉(17,18節)は、その王の言葉に対する三人の答えです。絶対的権力者と思われている王の前に、捕囚から取りたてられた三人が極めて冷静に、主なる神への忠実な信仰を表明しているのです。憤った王は、炉を通常の七倍も熱く燃やし、三人を縛り上げて放り込みました(19節以下)。冷静な三人と対照的に、激している王の姿は滑稽に映るでしょう。

 

 炉は激しく燃えていて、三人を投げ込む係の男たちさえ焼き殺しましたが(22節)、しかし、三人は何の害を受けることもありませんでした(25,27節)。それを見たネブカドネツァル王は、三人を炉から引き上げ、イスラエルの神を賛め称えました(28節以下)。

 

 大変痛快な物語です。行政官に任命されているとはいえ(2章49節)、捕囚の身の三人が、帝国の頂点に君臨する王に向かって、臆することなく自らの信仰を言い表し、最後には、逆に王が彼らの神を称えるようになったのです。

 

 勿論、彼らの信仰表明は、まさに殉教を覚悟してのものでした。自分たちは神が王の手から自分たちを救い出してくださると信じているけれども、たといそれが適わなくても、つまり、焼き殺されることになっても、王の神々に仕えはしないし、金の像を拝むこともしないというのです(18節)。そして神は、そのように語る彼らの信仰に答えて、炉の火から、王の手から彼らを守られました(25節)。

 

 信仰のゆえに迫害される人々がいます。信仰を捨てるように強要されることがあります。私のような臆病者は、そのような迫害には耐えられないかも知れません。脅しに屈して、心ならずも金の像を拝むかも知れません。そして、人々はそんな腰抜けの私を嘲り笑うことでしょう。けれども、そんな私に目を留めてくださる方があります。それは、主イエスです。

 

 三人が燃え盛る炉の中に投げ込まれたとき、もう一人の人がそこにいました。ネブカドネツァル王は、「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と言っています(25節)。神の御子キリストが、三人を火に投げ込まれないようにしたというのではありません。燃え盛る火の中に共におられたのです。そして、三人を完全に守られました。

 

 同様に、主イエスは弱く苦しむ私たちと共におられ、私たちの弱さや苦しみを引き受けてくださいます。ご自分を三度否むペトロに対して、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22章32節)と言われた主です。ペトロは、この主イエスの祈りに支えられて、再び立ち上がることが出来ました。私たちも、このお方によって救われるのです。

 

 主よ、どうか試みにあわせないで、悪からお救いください。弱い私が、真の主なる神を離れて他の神々を祀り、拝むことがありませんように。絶えず主を仰ぎ、常に主イエスに向かい、「わたしの主、わたしの私よ」と言い表し、死に至るまで忠実に主に従って歩ませてさせてください。 アーメン

 

 

8月11日(木) ダニエル書4章

 

「すべて地に住む者は無に等しい。(神は)天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて、何をするのかと言いうるものはだれもいない。」 ダニエル書4章32節

 

 神が再びネブカドネツァルに夢を見せられました(2節以下、2章参照)。それは、天にまで届くほどに成長した木を、天使が来て切り倒してしまうというもので、そしてその切り株が、野の草を食む獣のようになっています(12,13節)。そこで、ネブカドネツァルはベルテシャツァル(ダニエル)を呼んで、その夢解きを頼みます(6,15節)。

 

 それによると、ネブカドネツァルに降りかかる運命について、神が彼にその夢を通して予め示したものでした。天にまで届くほどに成長した木は、彼に与えられた威光を示すもので、地の果てにまで及んでいたけれども(19節)、それが切り倒されるということは、威光のすべてが取り去られるということを表わしていました。

 

 彼は、王の地位を追われるだけでなく、人の心を失って、「七つの時」の間、野の獣と共に住んで草を食む生活をしなければならなくなります(22節)。「七つの時」とは、「7」が完全数ですから、神の罰が完全に実行される時間ということになります。そして、罪を悔い改め、いと高き神こそが真の支配者であると悟れば、王国が返されるというのです(23節)。

 

 ダニエルは王に、「どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう」と進言しました(24節)。その進言を受けて、王は貧しい人に恵みを与える公正な政治を行ったのだと思います。しかしながら、少しずつたがが緩んでしまったのではないでしょうか。

 

 1年が過ぎたころ、ネブカドネツァル王が王宮の屋上を散歩しながら、「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として立て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ」と、その業績を数え上げ、自分の権力の大きさを独り喜んでいたとき(27節)、天からの声が響き(28,29節)、夢で啓示されたとおりのことが彼の身に起こりました(30節)。

 

 そして、七つの時を経て、預言どおり彼に理性が戻り(31節)、神を賛め称えたとき、神は繁栄を返されました(33節)。「切り株と根は地中に残し」(12節)というのは、すべて根こそぎ滅ぼしてしまうというのではなく、主の深い憐れみによって新生の希望を与えるものだったのです。

 

 歴史的事実として、バビロニア帝国最後の王ナポニドスが悪性の病に襲われ、7年間、アラビアのテマというところに引っ込んでいたことがあり、「ナポニドスの叙事詩」には、「この王は狂気である」とはっきり記されているそうです。また、5章1,2節にネブカドネツァルの子と紹介されているベルシャツァルは、実際にはナポニドスの子ですから、ナポニドスに起こったことをネブカドネツァルのこととして描いていると言ってもよさそうです。

 

 いずれにせよ、このことを通してネブカドネツァルも、確かにいと高き神を畏れることを学んだことでしょう。冒頭の言葉(32節)のとおり、「すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる」と神を称え、「わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、奢る者を倒される」と歌っています(34節)。

 

 これはしかし、他人事ではなく、私たち自身が心して聴くべき物語です。たとえば、年の初めに、今年こそ神の言葉を朝毎にきちんと聴き、神の御心に従って正しく歩もうと思いますが、じきにそれを忘れ、自分勝手に歩んでしまいます。1年間、なかなか定めたとおりに歩み続けることが出来ません。

 

 そして、主なる神こそこの世の主権者であることを忘れ、神の栄光を横取りして自分のものにしようとする傲慢な者は、人の心を失って獣と同じ心になるというのは、心すべきことです。世の権力者でなくても、自分の来し方を振り返って業績を数え上げ、誇らしい思いになるというのは、誰にでもあることだからです。

 

 さらに、それが昂じて他人の業績を自分のものと言って見たり、人に褒められるために業績を偽るということも、全くないことではありません。どこかに、人から良く思われたいという意識があり、粉飾してしまうのです。

 

 私たちが人として生きることが出来るのは、神の深い御計画によることです。だからこそ、常に主の御言葉を聴く必要がありまし、繰り返し味わう必要があります。また、日ごとに新しく御言葉を頂かなければなりません。そして、主によって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する生活をさせていただきたいと思います。

 

 主よ、私たちに清い心を授け、新しく確かな霊をお与えください。御前から私たちを退けず、御救いの喜びを常に味わわせ、御霊によって支えてください。日毎に御言葉の恵みに与り、主の御心をわきまえることができますように。御心がこの地になり、御名があがめられますように。 アーメン

 

 

8月12日(金) ダニエル書5章

 

「さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。」 ダニエル書5章25節

 

 ベルシャツァルが、千人もの貴族を招いて大宴会を開きました(1節)。2節に、ベルシャツァルの父はネブカドネツァルと紹介されていますが、実際には、ベルシャツァルはネブカドネツァルから数えて4代目の王ナボニドスの息子です。ベルシャツァルの母はネブカドネツァルの娘なので、ベルシャツァルはネブカドネツァルの孫ということになります。ただ、実際には、ベルシャツァルが王と呼ばれることはありませんでした。

 

 宴が進み、酔いも回った頃、余興のつもりで、エルサレムの神殿から持ち込まれた金銀の祭具で酒を飲もうと、会場に持って来させました(2節)。こうして酒を飲みながら、彼らは異教の神々をほめたたえたところ(4節)、人の指のようなものが現れて、王宮の白い壁に文字を書きました(5節)。

 

 恐怖にかられた王は、知者たちを集め、「この字を読み、解釈をしてくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうちの第三の位を与えよう」(7節、エステル記8章15節、創世記41章42節参照)と言います。「第三の位」とは、王と王妃に次ぐポジションということでしょう。

 

 しかしながら、その文字を読める者、そして解釈できる者はいませんでした(8節、2,4章参照)。王はいよいよ怖じ惑い、貴族たちも皆途方に暮れていると知った后が、「お国には、聖なる神の霊を宿している人が一人おります」(11節)と語り、ダニエルを召し出して、その壁の文字を解釈してもらうよう進言しました(12節)。

 

 ダニエルは、ベルシャツァルがネブカドネツァルの身の上に起こった出来事、王位を追われ、栄光が奪われて(20節)、人間の社会からも追放されたという出来事を意に介さず(21節)、神の祭具を持ち出し酒を飲む器としただけでなく、異教の神々をほめたたえたために(23節)、神が指でその文字を書かれたのだと説明し(24節)、そして、冒頭の言葉(25節)のとおり、書かれた文字を読みました。

 

 「メネ、メネ、テケル、そして、パルシン」という文字ですが、「メネ」はムナ、「テケル」はシェケル、そして、「パルシン(ペレスの複数形)」はムナの半分という貨幣の単位を表していると考えられます。つまり、「1ムナ、1シェケル、そして0.5ムナが二つ」ということです。

 

 ユダヤでは、貨幣や重さの単位を人々の価値を表すのに用います。それをここに当てはめると、1ムナはネブカドネツァル、1シェケルはベルシャツァル、そして0.5ムナ二つはメディアとペルシャということになるでしょう。1ムナはおよそ60シェケルに相当します。父ネブカドネツァルと息子ベルシャツァルでは、値打ちがかなり違うということです。

 

 それから、ダニエルは、メネは「数える」、テケルは「量をはかる」、パルシンは「分ける」という意味だと王に告げます。ヘブライ語と同様、アラム語も、書かれている子音に異なる母音をつけることで意味を変えることが出来ます。ここでは、ダニエルは名詞を動詞として解釈したのです。

 

 即ち、神がベルシャツァルの治世を「数えて」終わりにしようとしておられ(26節)、そして、彼の力量が「はかられて」不足が判明し(27節)、それゆえ、バビロンの国がメディアとペルシャの二つに「分割」される(28節)、という説明がなされました。

 

 貨幣の単位とあわせて考えれば、1ムナの値打ちがあるものを、1シェケルのベルシャツァルが引き受けることは到底出来ず、メディアとペルシャが0.5ムナずつ分け与えられることになったというわけです。

 

 ここでの問題は、ベルシャツァルの政治手腕、統治能力などではありません。まことの神はどなたなのか、まことの神に対してどのような態度で臨まなければならないのか、彼がまったく理解していなかったということです。まことの神を畏れ、神の御言葉に聴き従うべきなのです。

 

 この点で、ベルシャツァルの祖父ネブカドネツァル王は自分の経験、そして、そこから得た悟りを、子や孫に教えなかったのでしょうか。「わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、奢る者を倒される」(4章34節)と語った父の思いは、彼に伝えられなかったのでしょうか。

 

 そのことについてダニエルは、「あなたはその王子で、これらのことをよくご存知でありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった」と断じています(22節)。聴いていたはず、見ていたはず、知っていたはずということですね。

 

 この解き明かしを聞いたベルシャツァルは、約束どおりダニエルに栄誉を与え、国を治める者のうち第三の位に就けるという布告を出しますが(29節)、それによって神の裁きの手を止めることは出来ず、その夜、神は王を打たれました(30節)。この背景にあるのが、紀元前539年に起こったペルシア王キュロスによるバビロン占領です。 

 

 ベルシャツァルの死は、世の支配者、王たちへの警告です。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできる」(4章14節)と記されていました。「最も卑しい人」という言葉でアンティオコス・エピファネスを揶揄しているようですが、神の権威に挑戦し、神の支配を無視して傲慢に振る舞う者は、必ず咎められるのです。

 

 私たちも、驕りやすい自分を戒める教えとして覚えていたいと思います。

 

 主よ、私たちに柔和と謙遜を学ばせてください。御子キリストも、多くの苦しみによって従順を学ばれたと言われます。主イエスと共に、軛を負わせてください。主こそ、私たちの永遠の救いの源であられ、私たちの魂に真の安らぎをお与えくださるからです。 アーメン

 

 

8月13日(土) ダニエル書6章

 

「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしは何の危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」 ダニエル書6章23節

 

 ダニエル書に登場して来る三人目の王は、ダレイオスです(1節)。バビロン帝国滅亡後を継ぐメディア人の帝国は歴史的に存在しません。ペルシア帝国の二代目の王ダレイオス1世のことと考えるという学者もないではありませんが、彼が王位に就いたのは36歳で、「既に62歳であった」(1節)とは合致しません。また即位したのが紀元前522年で、紀元前605年に少年だったダニエルの生存を期待するのは困難です。

 

 29節の「ダレイオスとペルシアのキュロス」を、「ダレイオス、即ちペルシアのキュロス」と読むという学者がいます。保守的な立場では、最も受け入れ易い解釈だろうと思います。

 

 ダレイオスは帝国に120人の総督を置き(2節)、その上に3人の大臣を置きました(3節)。ダニエルは大臣の一人でしたが、ダレイオスはダニエルがすべてに傑出しているのを見て、王国全体を治める宰相に任じました(4節)。バビロンに次ぐメディアでも宰相となったという状況です(2章48節)。

 

 ヤコブの11番目の息子ヨセフが、ファラオの夢を解き、その知恵が認められて、エジプトの宰相に取り立てられたのと同様(創世記41章37節以下)、背後に神の御手があり、神の支配が異邦世界にも広く及んでいることを示しています。

 

 ところが、ダニエルが重く用いられることを妬んだ他の大臣や総督たちは、ダニエルを失脚させようと画策します。けれども、なかなか弱点が見当たりません(5節)。そこで、ダニエルの信仰を口実にして彼を失脚させようと考えました(6節)。

 

 それは、向こう一ケ月間、ダレイオス王以外の人間や神に向かって願い事をする者は、だれでも獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令をダレイオス王に発布してもらうことです(8節以下)。本来であれば、そのような勅令を出すべきかどうか、宰相としたダニエルに相談するところなのでしょうけれども、王は彼らの思いどおりに勅令を出してしまいます(11節)。

 

 しかしながら、禁令の発布を知った後もダニエルは、日に三度、祈りと賛美を自分の神にささげることをやめませんでした(11節)。役人たちはダニエルの禁令違反を見届けた後(12節)、ダニエルのことを王に訴え出て、刑の執行を求めます(13,14節)。

 

 王は何とかダニエルを救いたいと考え、日が暮れるまで努力しますが(15節)、自分の出した勅令を引っ込めることも出来ず(16節)、刑を執行するため、ダニエルを引き出すことになります(17節)。王は、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」(17節)と祈りました。王には、ダニエル一人を救う力がなかったのです。

 

 食を断ち、眠れぬ夜を過ごした王は(19節)、夜明けとともに獅子の洞窟に行き(20節)、ダニエルに、「生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」(21節)と呼びかけます。王は断食、徹夜でダニエルの保護を神に祈り続けていたわけです。

 

 それに対してダニエルは、「王様がとこしえまでも生き長らえられますように」と答えた後(22節)、冒頭の言葉(23節)を語りました。自分が無事であった理由を、①神が天使を送って獅子の口を閉ざしてくれた、②神に対する無実が認められた、③王に対しても背いたことがないと告げています。

 

 神に信頼し、誠実に歩んでいたダニエルの信仰と、ダニエルの身を案じたダレイオス王の祈りが神に届き、ダニエルを獅子の口から守ったというかたちです。王は喜んでダニエルを洞窟から出します(24節)。そして、ダニエルを陥れようとした者たちを家族もろとも洞窟に投げ込み、獅子の餌食としました(25節)。

 

 ここで、「お前がいつも拝んでいる神は、獅子の口からお前を救い出す力があったか」という言葉は、私たちが困難な問題に直面するときに迫ってくる問いです。神は生きているのか。この困難な状況から救ってくださるのか。そもそも神がおられるなら、なぜこんな問題が降りかかるのか。

 

 本書の著者はこのような問いに対して、神は生きている。問題から救い出してくださるということを示しています。なぜ災いが降りかかるのか、それはだれにも分かりません。ダレイオス王は何故、ダニエルを陥れようとしていた者たちの提案をすんなりと受け入れたのか、その時、何故宰相の意見を求めなかったのか、よく分かりません。

 

 しかし、困難な状況に出会えば、私たちは真剣に神を求め、神に祈ります。そして、神の答えを聴きます。私たちの祈りを聞き届けられる神がおられるからこそ、問題を耐え忍び、乗り越え、解決に導かれるのです。あとになって振り返ってみると、問題が私たちを神に近づけ、信仰が強められたことに気づきます。そのために、神がその状況になるのを許されたのでしょうか。

 

 私たちもダニエルの信仰に倣って、どんなことに直面しても朝ごと夕ごと忠実に神の前に進み、賛美と祈りをささげましょう。神の御言葉を聴きましょう。

 

 主よ、自然災害に見舞われたり、戦乱により、大きな悲しみや不安の中で過ごしている人々がいます。今日も命の御言葉を聴かせてください。真理の光のうちを歩ませてください。主イエスこそ、私たちの道であり、真理であり、命だからです。 アーメン

 

 

8月14日(日) ダニエル書7章

 

「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」 ダニエル書7章13,14節

 

 7章で、ダニエルの見た幻(夢)が物語られます(1,2節)。1節はその時期を、「バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである」と言います。

 

 ベルシャツァルは、バビロンの最後の王ナボニドスの皇太子でした。彼が王となったことはありません。ただ、ナボニドスが都から離れている間、摂政としてバビロンを治めており、そのため、ペルシアの王キュロスがバビロンに攻め込んできた折、戦死したと考えられています。ダニエル書の記述を受け入れるなら、摂政としてバビロンを治めた初めの年(紀元前546年頃)ということになります。

 

 ダニエルが見たのは、大海から四頭の獣が現れるというものでした(3節)。第一の獣は獅子のようで鷲の翼が生えており(4節)、第二は熊(5節)、第三は豹で翼が四つ、頭も四つあります。(6節)、そして第四は巨大な鉄の歯に10本の角を持つ獣です(7節以下)。

 

 これらは地上に起こる四人の王であると天使によって説明されます(15節以下、17節)。これは、2章でバビロンの王ネブカドネツァルが見た夢をダニエルが解いた物語を思い起こさせます。

 

 四人の王を巡って、様々な解釈がなされています。最も代表的なのは、第一がバビロン、第二がメディア、第三がペルシア、そして第四がギリシアというものです。そして、第四の獣の10本の角の後に出てきたもう一本の角とは、シリアのアンティオコス・エピファネス王を指すと考えられます。

 

 アンティオコスによるパレスティナ支配は、帝国を統一するためにギリシア文化を強制するものでした。王は、ユダヤの宗教を一掃するために様々な迫害を行いました。安息日に略奪を繰り返し、神殿にはギリシアの神々の祭壇を設けて礼拝を強要するなどしたのです(23,25節)。

 

 ユダヤの人々は、王に逆って信仰を守るか、王に従って律法を破るかの二者択一が迫られました。逆らうことは死を意味し、生きるためには律法を破るほかないという時代でした。

 

 1世紀のクリスチャンたちは、第四の獣をローマ帝国に当てはめました。現代では、ロシアを中心とする共産主義がそれだ、という解釈を聞いたこともあります。自分たちを苦しめる敵を、それに当てはめて解釈しているわけです。

 

 そのように、現実の敵について預言したものという解釈を否定するものではありませんが、敵とは具体的に誰のことかと、周りを見回して詮索する作業に加わる必要はないでしょう。私の中にも、神の御言葉に逆らい、傲慢になる思いがあります。角が生えてきます。周りを踏みつけてしまいたいというような思いに駆られます。人の内側に働きかけて闇に引きずり込もうとする悪魔がいるのです。

 

 この箇所で注目すべきメッセージは、冒頭の言葉(13,14節)のとおり、創造主なる神を示す「日の老いたる者」が、天の雲に乗って来た「人の子」に、権威、威光、王権を授け、すべての民を従える「人の子」の統治がとこしえに続き、滅びることがないというものでしょう。「人の子」(バル・エナシュ)とは、「人間の子」という言葉で、「一人の人間」を意味しています。

 

 詩編8編5~7節に、「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」とあります。

 

 本来、神は人間を、万物を治める者として創造されました。神は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と命ぜられたのです(創世記1章28節)。その意味で、永久の王権を授けられた「人の子」の統治とは、神が創造の秩序をもう一度回復しようとしておられるということを示していることになります。

 

 およそ国の統治者となろうと思う者は、自分が人間の子であるとは言いません。むしろ、自らを神としようとします。神の子と呼ばせます。しかし、本来は神の独り子でありながら、自ら「人の子」と称しておられた方があります。そうです。主イエス・キリストです。

 

 このお方の統治は、武力、権力とは無関係です。むしろ、平和の統治、愛による統治、愛する者のために自らの命を捨てるという統治です(ヨハネ福音書10章10,11節)。主イエスの贖いによって、私は神の子とされました。罪が赦されました。永遠の命を頂きました。それは、主イエスにあって、神がこの世に平和の秩序を回復されるためなのです。

 

 私たちの主イエスの御顔を日々仰ぎましょう。朝ごとに主の御声に耳を傾けましょう。御霊に満たされ、その導きに従って歩みましょう。 

 

 主よ、感謝します。今、平和のないところに平和を作ってください。共に主の十字架を仰がせてください。聖霊を通して神の愛をお互いの心に注いでください。自然災害の被災者、テロや内戦の犠牲になられた方々、それによって祖国を離れざるを得なくされている方々に、主の慰めと平安がありますように。人の命が守られますように。 アーメン

 

 

8月15日(月) ダニエル書8章

 

「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る。」 ダニエル書8章14節

 

 ベルシャツァル王の治世第3年、即ち紀元前551年ごろに、ダニエルは再び幻を見ました(1節)。初めの幻が「ベルシャツァル王の治世元年」(7章1節)で、その2年後に次の幻を見たということで、8章を7章につなげているわけですが、日本語の読者には分からない違いがあります。それは、7章までアラム語で記されていましたが、8章からヘブライ語になることです。

 

 このとき見たのは、エラム州の都スサのウライ川の畔で(2節)、一頭の雄羊が川岸に立っているという幻です(3節)。スサは、ペルシア帝国の冬の首都で、歴代の王が住んでいたところです(ネヘミヤ記1章1節、エステル記1章2節も参照)。

 

 雄羊は、二本の長い角を持っており(3節)、それは20節でメディアとペルシアの王のことであると説明されています。つまり、ベルシャツァル王が殺され(5章30節参照)、バビロン帝国がメディアとペルシアにとって代わられることを示しています。

 

 ただし、メディア王国は、バビロンが滅びる前の紀元前550年、ペルシア王キュロスによって滅ぼされています。ということから、このメディアとペルシアの王とは、ペルシア帝国の王ということになります。

 

 その後、雄山羊が雄羊を打ち倒します(5~7節)。これは21節で、ギリシアの王のことと説明されており、マケドニア王国のアレキサンダー大王を指していると思われます。その後に、非常に強大な王が現れます。「一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり」(9節)とは、そのことです。それは、セレウコス朝シリアのアンティオコス・エピファネス王を指していると考えられます。

 

 ダニエルは、その角が「麗しの地」へと力を伸ばすのを見ました(9節)。「麗しの地」とはイスラエル、就中エルサレムを指しています。アンティオコスは日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒しさえしています(11節)。エピファネスとは、神が現れるという意味ですから、彼は自らを神の座に置く称号をつけていたわけです。彼のゆえに、イスラエルの民は苦しめられました。

 

 それはそうと、アンティオコスが王位についたのは紀元前175年ですから、ダニエルはずいぶん先のことを幻で見ていることになります。これは、知者として名高いダニエルの名を借り、バビロンやペルシアの王になぞらえて、シリアの王に苦しめられているイスラエルの民に向かい、神の言葉を伝えようとしているわけです。

 

 しかしそれは、捕囚の憂き目を見たイスラエルは、それ以後ずっと苦難の道を歩んで来たということを示しています。一難去ってまた一難と言わんばかりです。古くはエジプト、そしてアッシリア、バビロン、その次はペルシア、それからギリシア、その次はシリア、そしてローマがパレスティナを支配します。

 

 ですから、イスラエルの民は、自らの手で完全な独立自治を勝ち取りたいと願い続けます。主イエスが登場してきて、その奇跡を目の当たりにした群衆が、主イエスを王に推し立てようとしたのも、その現れです(ルカ福音書19章38節、ヨハネ福音書6章15節など)。

 

 しかし、そのような願いはなかなか実現されません。紀元70年にローマ軍によってヘロデの神殿を破壊されてからは、今日に至るまで、自らの神殿を持つことも出来ないままでいます。

 

 ただ、もうひとつ大切なメッセージがあります。それは、苦難は永遠のものではないということです。「いつまで続くのか」という問いに対して(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、「日が暮れ、夜が明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」という答えがありました。

 

 「日が暮れ、夜が明けること」で2回とカウントすると2300回は1150日、つまり三年余ということになり、7章25節の「一時期、二時期、半時期」、すなわち3.5年と符合することになります。

 

 「7」が完全数で、その半分ということですから、文字通り三年半というよりも、苦難はいつまでも続かないという意味と考えればよいでしょう。

 

 イスラエルの民はこのメッセージを受け止め、今でも神による国と神殿の再建を堅く信じているわけです。どんな状況であっても主に信頼し、御言葉の成就を待ち望む信仰を、私たちも学びたいと思います。

 

 パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)と言いました。パウロが同書11章23節以下に彼が味わった苦難のリストを上げていますが、それは、とても軽い艱難とは思えません。けれども、それを「軽い」と言わしめるほどに、彼の心には、神の御国に入る希望が満ち、永遠の栄光に比べれば、艱難は「一時」のことと言い得たのです。

 

 どんなときでも、主に信頼し、御言葉の成就を待ちつつ、主を仰ぎ、賛美と祈りを御前にささげて参りましょう。

 

 主よ、どうか私たちの悩みに目を留め、苦しみから解放してください。暗闇に真実と愛の光を灯してください。私たちの主こそ、真実であり、また希望と慰めの源だからです。どんなときにも主を信頼し、御言葉は必ず実現することを信じ待ち望む者としてください。御業のために用いてください。御名があがめられますように。 アーメン

 

 

*牧師の夏期休暇(8月16日~22日)のため、「今日の御言葉(ダニエル書9~12章)」の更新もお休みしました。

 

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