アモス書

 

 

9月7日(水) アモス書1章

 

「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。」 アモス書1章1節

 

 本日から、アモス書を読み始めます。アモス書の著者アモスについて、本書で紹介されていること以外は、ほとんど何も分かりません。アモスの生い立ちや系図なども全く記されていません。

 

 冒頭の言葉(1節)で、出身地として紹介されている「テコア」は、エルサレムの南方20km、標高850mの丘の上にあります。イスラエルが南北に分裂したとき、ユダの王レハブアムは、砦の町(要塞)を十五、建てました。そのうちの一つがテコアです(歴代誌下11章5,6節)。エレミヤ書6章1節に、「テコアで角笛を吹き鳴らし」とあるのも、ここが砦の町で、南方からの敵の侵入を知らせる役割を担っていたことを示します。

 

 サムエル記下14章1,2節に、ダビデ王の軍の司令官ヨアブが王とその子アブサロムの仲を取り持つのに、テコアに使いを送り、一人の知恵ある女を呼び寄せたと記されています。 女性の名が記されないことから、彼女に固有のということより、テコアである種、職業的な知恵者、知識人が養われていて、そのことが広く知られていたのではないかと考えられます。

 

 アモスは、テコアで羊などの家畜を飼う「牧者の一人」であり、また「いちじく桑を栽培する者」でした(7章14節)。これは、貧しい遊牧民というものではなく、広い土地を所有する農園主を思わせます。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない」(7章14節)とアモス自身が語っているので、預言者としての訓練を受けたということもないようです。

 

 けれども、神に命じられて、預言者としての務めを果たします。「わたしは預言者ではない」といったのは、農業に従事しながら、神の言葉を伝える務めを果たしているだけで、王に仕える職業的預言者ではないということです。イスラエルに王に仕える職業的預言者が不在だったわけではないでしょう。むしろ多数いたと考えられますが、しかし、主はアモスをご自分の預言者として召されたのです。

 

 アモスの語る預言の内容は、「イスラエルについて示されたもの」です。「示す」と訳されている原語(ハーザー)の本来の意味は、「見る、予見する、知覚する、見て取る」です。70人訳は「見る」(エイドン)という訳語を当てています。アモスには、イスラエルについて神から見せられたものがあり、それをイスラエルに告げるようにと命じられたわけです。

 

 アモスが預言者として立てられたのは、「ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代」です。ウジヤの在位は紀元前783~730年、ヤロブアムは紀元前786~746年、外交的にも内政的にも安定した時代です。ということは、アモスが活動したのは、ホセアとほぼ同時代ということになります(ホセア書1章1節参照)。

 

 「あの地震の2年前に」がいつなのか、どれほどの被害をもたらしたのかなど、聖書以外にそれを明らかにする記述は存在しないので、詳しいことは分かりません。しかし、ゼカリヤ書14章5節にも「ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように」と言われているので、イスラエルの民にとって長年記憶に残る出来事であり、その被害は決して小さくなかったと考えられます。

 

 その「地震の2年前に」ということですから、アモスの預言した主なる神の裁きが、地震というかたちで実行されたということを暗示しているようです。 

 

 アモスという名前は、「重荷」とか「負担」という意味を持っています。どうしてそのような名前がつけられたのでしょうか。親がその子に、「お前は私の重荷だ、お前は私の負担だ」などという名前をつけると思われません。そうではなくて、「人の重荷を負いなさい、隣人の負担を軽くしてやりなさい」というメッセージと受け止めるべきなのでしょう。

 

 上述のとおり、アモスは南ユダ王国の出身(エルサレム南方のテコアの住人)ですが、北イスラエル王国のベテルで、預言者として活動しました(7章10節以下)。家畜を伴ってベテルまでやって来て、預言活動が終わると、またテコアに戻るということだったかも知れません。

 

 けれども神の召しは、アモス自身にとっては、喜ばしいことであったとは思われません。彼の語るメッセージは、聞く者を喜ばせるものではなく、むしろ恐怖を与えるようなものだったのです。

 

 2節に、「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる」という言葉がありますが、「ほえたける」、「声がとどろく」というのは、家畜を飼っていたアモスにとって、戦慄を覚えるものだったに違いありません。神の示されたことが、アモスには、ライオンの咆哮のように迫ってきたのでしょう(3章8節参照)。アモスは、北イスラエルの人々に恐怖と戦慄を与えるために吼え猛る声として、エルサレムから遣わされて行くのです。

 

 はじめは、ダマスコ(アラムの首都、3節以下)、ガザ(ペリシテの都市国家、6節以下)、ティルス(フェニキヤの都市国家、9節以下)、エドム(11節以下)、アンモン(13節以下)と、諸国民に対する裁きが告げられます。これらは、聞く人々に快く受け入れられたことでしょう。それは、これらの国民がイスラエルに敵対し、嗣業の地とその民を蹂躙して来たからです。

 

 けれども、2章4,5節は南ユダの、同6節以下からは北イスラエルの裁きが告げられます。民に耳を傾けさせておいて、それは特にイスラエルの裁きを告げるための序章だったわけです。

 

 裁きを告げる預言は、イスラエルの民にはなかなか受け入れられません。実際、喜んで耳を傾ける者はいなかったようです。7章10節でベテルの祭司アマツヤが、「アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません」とヤロブアム王に訴えています。人に受け入れられない仕事をしなければならないということで、まさしくこれは、神から与えられた重荷、負担だったことでしょう。

 

 何故アモスは、家畜を飼う仕事、いちじく桑を栽培する仕事に従事する傍ら、そのような重く苦痛の多い使命を担ったのでしょうか。それは、彼を召した神を畏れたからです。そして、御言葉に聴き従うことを神が喜んでくださると、彼は知っていたのです。さらに、彼は同胞を愛しています。悔い改めが起こされること、そして神の国イスラエルの回復を期待していたのです。

 

 私たちも主を畏れ、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。委ねられた務めを全うできるよう、主の知恵と力を求めましょう。聖霊に満たされ、常に主の御業に励むものとしていただきましょう。 

 

 主よ、私たちもアモスのように主を畏れ、御言葉に聴き従うことが出来ますように。委ねられた主の使命を果たすことが出来ますように。必要な知恵と力を授けてください。聖霊に満たされ、御業に励む者としてください。御名が崇められますように。御心が行われますように。 アーメン

 

 

9月8日(木) アモス書2章

 

「ユダの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖もあとを追った偽りの神によって惑わされたからだ。」 アモス書2章4節

 

 諸国民への裁き(1章3節以下)の最後に、モアブに対する裁きが語られます(1節以下)。「モアブの三つの罪、四つの罪」と言いながら、そこに挙げられているのは、「彼らがエドムの王の骨を焼き、灰にした」ということのみです。

 

 王の骨を焼いて灰にするというのが、列王記下3章27節の、王となるはずの長男を人身御供として焼き尽くすいけにえとしたようなことか、それとも、エレミヤ書8章1,2節の、王墓を荒らしてその骨を焼いたようなことなのか、論争されていると、岩波訳の脚注に記されています。ただ、モアブの罪として、エドムの王の骨を焼いたということから、モアブ人がエドムの王の墓を荒らしたというのが妥当だろうと思います。

 

 エドム人は、ヤコブの兄エサウの子孫ですが(創世記36章1節以下、6,8節)、「剣で兄弟を追い、憐れみの情を捨て、いつまでも怒りを燃やし、長く憤りを抱き続けていた」(1章11節)と、イスラエルに対する暴力的な行動が断罪されていました。そのエドム人の王の墓を荒らしたこと、遺体を焼いたことが、モアブの罪として断罪されています。

 

 墓を荒らし、遺体を汚すことは、他者の命や宗教に対する冒涜といえます。主なる神は、異教徒だからといってエドム人の生命を軽んじ、宗教を冒涜してよいとは言われないのです。

 

 諸国民への裁きに続き、4,5節に南ユダの裁きが語られます。敵対する諸国民に対する裁きを喜びながら聞いていた北イスラエルの民は、南ユダの裁きについても、気分よく耳を傾けていたものと思われます。

 

 冒頭の言葉(4節)に述べられているユダの罪は、これまでに語られてきた諸国に対するものとはまったく違います。隣国を荒らしたなどということではありません。ユダの人々が主なる神の教えに背き、異教の神々を礼拝したというかどで、諸国民と同様の裁きを受けているのです。

 

 それには理由があります。南ユダ王国の人々、そして6節から裁きが語られる北イスラエル王国の人々は、主なる神から特別の恵みを得ました。彼らは、主なる神によってエジプトの奴隷の苦しみから解放され、約束の地カナンに領土を与えられました(9,10節)。

 

 40年の荒れ野の生活の間、服は古びず、靴も擦り切れることなく、パン(マナ)も毎日必要な分だけ与えられました(申命記8章3,4節、29章4節)。肉がほしいといえばウズラの肉が与えられ(民数記11章)、水が飲みたいといえば、岩から水が流れ出るようにされました(出エジプト記17章1節以下、民数記20章1節以下)。

 

 それらはすべて、神の恵みでした。エジプトの奴隷であったイスラエルの人々は、神の憐れみのゆえに、恵みによって選ばれて、神の宝の民とされたのです(申命記7章6~8節)。それにも拘らず、彼らは恩知らずにも、主の教えを拒み、その掟を守ろうとしなかったというのです。そして、異教の神々を祀ることさえして、神の怒りを買ったわけです(4節、申命記7章9,10節)。

 

 「三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない」という言葉が、1章3節~2章5節において繰り返されてきました。「三つの罪、四つの罪」とは、三つか四つの罪という意味でしょうか、3+4=七つの罪という意味でしょうか。いずれにせよ、多くの罪という意味でしょう。

 

 ただ、諸国民の罪は、いずれも一つしか記されてはいませんから、繰り返し、何度も罪を犯したと読むことが出来るでしょう。そして神の選びの民、ユダは、それこそ何度も何度も神を悲しませ、繰り返し繰り返し神を憤らせてきたのです。

 

 6節以下には、北イスラエルの裁きが述べられます。アモスは、預言者として諸国民の裁き、そして、自分の出身地の南ユダの裁きも語りましたが、北イスラエルの罪は、かなり詳しく語られています。確かに彼は、北イスラエルに使わされた預言者なのです。

 

 先ず、「正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売った」(6節)とは、裁判官が賄賂を取って法を曲げ、貧しい者を罪に定める判決を下したということです。また、「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ」(7節)とは、弱者を虐待したということもあるでしょうが、弱い者、貧しい者から搾取しておのが腹を肥やそうとしているということです。

 

 また、「父も子も同じ女のもとに通い」(7節)は、近親相姦というようなことではなく、何世代にもわたって異教の神殿娼婦のところに通い、まことの神への信仰を捨てたということです。

 

 さらに、神が立てたナジル人に、禁じられている飲酒を強要し(民数記6章3節)、預言者に預言するなと命じたと言われます(11,12節)。徹頭徹尾神に背き、その御言葉に耳を傾けることを拒否しているわけです。これらのことは、4節に掲げられたユダの罪を詳述したものといってよいでしょう。

 

 そこで、「わたしは麦束を満載した車がわだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く」(13節)と、その裁きが告げられます。「地を裂く」と訳されたのは、「ウーク(押しつぶす、砕くの意)」 という言葉です。口語訳、新改訳は、「圧する」、「押さえつける」と訳しています。岩波訳は、「轟かす、轟音を立てる」と訳し、脚注に「地震を考えたい(1章1節、6章11節参照)」と記しています。

 

 轟音を立てて地が引き裂かれるような地震に襲われれば、14節以下に言われるとおり、だれもその激しい揺れから逃れることができず、剣や弓、馬も、地震から勇者を守り助けることはできません。そのように主の裁きは突如として襲い来るというのです。

 

 主イエスも、「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(マタイ24章38,39節)と教えておられます。 

 

 ローマ書11章22節に、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」とパウロが記しています。神の慈愛にとどまらなかった者、信仰に躓き倒れた者には神の厳しさが臨むというのです。これは心したい言葉です。

 

 私たちもいつしか恵みに慣れ、感謝を忘れてつぶやくことが少なくありません。神の御言葉よりも自分の事情のほうが大事だと考えてしまいます。私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を神からいただいていることか、よく考えて見ましょう。主から賜った恵みをもう一度思い起こし、数えてみましょう。そして、心から神に感謝しましょう。

 

 主よ、私たちはあなたの憐れみによって恵みのうちに選ばれ、神の宝の民としていただきました。私たちの心に主の教えを刻み込んでください。キリストの言葉を豊かに宿らせ、すべての者が主を知ることが出来るように、喜びと感謝をもって主をほめたたえさせてください。 アーメン

 

 

9月9日(金) アモス書3章

 

「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか。」 アモス書3章8節

 

 神がイスラエルの人々を「わたしがエジプトの地から導き上った全部族」(1節)と呼び、「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ」(2節)と告げられます。しかしながら、その次の言葉に驚かされます。「それゆえわたしはあなたたちのすべての罪のために、あなたたちを罰する」(2節)と言われるからです。

 

 何をもって「罪」と言われているのか、これだけでは分かり難いですが、イスラエルは神に選ばれてエジプトの奴隷の家からの解放され、約束の地に導き入れられるという恵みに与りましたが、その選びには、目的がありました。それはしかし、彼らに免罪という特権を与えるようなものではありません。

 

 2章6節以下の、イスラエルの罪として挙げられたものは、イスラエルが正義と公正を蔑ろにし、神の御声に耳を傾けないというものでした。つまり、イスラエルの民は自分たちが選ばれた意味を解さず、神の御声に耳をふさぎ、正義と公正を行わなかったので、そのすべての罪のゆえに罰すると言われているわけです。

 

 3節以下には、疑問文が並びます。3~5節は、原因もないのにこういう結果になるだろうかという形式で、これを聴く者が「否」と答えることを想定しています。続く6~8節では、こういう原因があれば、こういう結果にならないだろうかという形式になり、それに対しては「然り」と答えると想定されています。

 

 その最後に、冒頭の言葉(8節)のとおり、「主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」という一句が告げられます。主の語られる言葉を聴いたなら、誰もが預言するだろう、然り、そうだその通り。誰でも預言するということです。

 

 ところで、なぜ預言者アモスは、このようなことを記しているのでしょうか。それは、一つには、アモス自身が何故北イスラエルで預言を語るのかを説明していると考えられます。また、獅子が吠え(4,8節)、角笛が吹き鳴らされ、災いが起こる(6節)という記述から、主の語られた言葉はアモスに脅威を与え、恐怖を呼び起こすようなものだったのでしょう。

 

 小国イスラエルが、アッシリアやエジプトという大国にはさまれながら自治を保ち、平和裏に発展するというのは、大変困難なことだったと思います。アモスが預言者として活動している時の北イスラエルの王は、ヨアシュの子ヤロブアム(2世)でした(列王記下14章23節以下)。

 

 彼は41年イスラエルを治めましたが、その間の治安は安定し、北イスラエル王国の歴史の中で最も繁栄した時代でした。だからこそ、41年も王位についていることが出来たわけです。国土も北に南に拡大して、ソロモンの時代の国土にも匹敵するほどだったと言われます。王としての手腕は、高く評価されるべきものといっても良いと思われます。

 

 しかしながら、イスラエルの民がヤロブアム2世の治世下で繁栄を謳歌していたとき、アモスは神の御声を聴きました。あるいは、アッシリアの迫り来る足音を「獅子の吼える声」として聞いていたのかも知れません。そして、その声を聞くことが出来たのは、アモス一人だったわけです。

 

 「美しい門」の傍らで物乞いをしていた足の不自由な男を立ち上がらせたペトロとヨハネが(使徒言行録3章1節以下)、サンヒドリン議会に呼び出され、尋問を受けたとき、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(同4章19節)と答えました。

 

 ペトロとヨハネは、十字架にかかって死なれた後、三日目に甦られた主イエスの福音を、聖霊の力を受けて大胆に語っていました。それは、「(主イエスの)ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエス・キリストという)名のほか、人間には与えられていないのです」(同4章12節)という、はっきりとした確信に立っていたからです。

 

 それは、カイアファの官邸で主イエスが裁かれているとき、三度も主イエスを知らないと否んだペトロと同一人物とは思えない、全く変えられた姿です。ペトロの内に、聖霊の力が確かに与えられていたのです(使徒言行録1章8節、2章1節以下)。

 

 私たちも、イエス・キリストこそ私たちの主であることを宣べ伝えていきたましょう。日々「主の名によってこられる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19章38節)と歌いましょう。

 

 主よ、私たちは主イエスの贖いの御業によって救いに与り、神の子としていただきました。その恵みを疎かにせず、主の福音の証し人となることが出来ますように。そのために、聖霊で満たし、その力に与らせてください。この時代に世の光、地の塩としての教会の使命を果たしていくことが出来ますように。 アーメン

 

 

9月10日(土) アモス書4章

 

「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を乗り越えられる。その御名は万軍の神なる主。」 アモス書4章13節

 

 アモスは4章で、イスラエルに対して具体的な告発を行います。

 

 先ず、サマリアの女性たちに向かって、「サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ」と呼びかけ、彼らは弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げていると、その罪が告発されます(1節)。「バシャンの雌牛」とは、食用に供される牛の品種を示しており、サマリアの女性たちを侮辱して、憤らせる表現です。

 

 女性たちが、「酒を持って来なさい、一緒に飲もう」と夫に向かって言い、夫は妻たちに十分な酒を用意するため、弱い者、貧しい者から搾取しているということです。ということは、ここで裁かれているのは、北イスラエルにおける支配者層の人々ということになります。

 

 その深酒と不公正のゆえに、彼らは裁かれ、「ヘルモンの方へ投げ出され」(3節)ます。ヘルモン山はイスラエル北方、アラムとの国境線付近にそびえる標高2800メートルを超える高峰です。ヘルモンの方へとは、北方へということで、アラムのことでしょうか、はたまた、さらに北方の強国アッシリアのことを考えているのでしょうか。

 

 「投げ出される」は、2節の「肉鉤で引き上げられ」、「釣鉤で引き上げられる」との関連で、北方の国へ捕らえ移され、捕囚とされることと読めます。

 

 次いで4節で、「ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ」と語ります。ベテルやギルガルには、古くから聖所が置かれ、民はそこで神を礼拝していました。「罪を犯し」、「罪を重ねよ」と言われますが、ここでいう罪とは、法に触れる犯罪のことではありません。それは神に背くことです。しかも、神殿に十分の一税を納め、感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼き、随意の献げ物をすることによってというのです(4,5節)。

 

 それらの儀式に関係する行為は、通常はむしろ、神との関係を正しくするため、より確かなものとするために行われます。ところが、イスラエルの人々は、それらの儀式を行うことで、神からますます離れているとアモスは言うのです。それというのも、ベテルやギルガルで彼らが礼拝しているのは、万軍の神なる主ではなく、冒頭の言葉(13節)で「地の聖なる高台」と言われる異教の神々なのです。

 

 「ベテルに行って罪を犯し」なさいというのは、勿論、神がそう願われての言葉ではなく、彼らがそうしていることを皮肉っているわけです。そして、それが主なる神に対する罪であることを明言しているわけです。  

 

 6節以下に、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」という言葉が5度(6,8,9,10,11節)繰り返されます。神はそのとき、イスラエルが神に顔を向け、立ち帰るように、様々な災いをイスラエルの上に降されました。それらによって彼らが罪を悔い改め、神を呼び求めるようになると期待されたのです。

 

 ところが、何度悔い改めを呼びかけても答えてくれない、手を変え品を変えして道を準備しても、帰って来ようともしないので、悲しくてやりきれないという御思いだったのではないでしょうか。

 

 それで、堪忍袋の緒が切れたというのではないと思いますが、12節に、「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」と言われます。ここにも、4節同様の皮肉があります。通常、聖地への巡礼は主なる神の救いの恵みに感謝し、祭に参加するためになされるのですが、主はイスラエルの民に決定的な裁きを告げるために、彼らを招いておられるからです。

 

 そして、冒頭の言葉(14節)が語られました。神は、山々を造り、風を創造された方です。暗闇を変えて曙となされた神の御前に、どんなことも隠すことは出来ません。すべてが明るみに出されます。彼らがベテルやギルガルを巡りながら、あたかも神を拝んでいるようにして、実際には「聖なる高台」で異教の神々に犠牲を献げている彼らの偽善が明らかにされました。そして、「聖なる高台」は踏みつけられ、乗り越えられます。

 

 異教の偶像が神の御前に何の力がありますか。何の助けになりますか。偶像に依り頼んで、真の神と対峙で

きますか。そうです、それらのことは、何の力にも助けにもなりません。どうすれば、神と出会う備えが出来るでしょうか。

 

 神は、イスラエルの民が帰ってくるのを待っておられるお方です。素直に神のもとに帰ればよいのです。神は求められること、探されること、門が叩かれるのを待っておられます。神は私たちの罪の闇を、命の光が輝き出る曙にお変えになることが出来るのです。

 

 朝毎に慈しみ深き主に信頼し、主の御前に進みましょう。御顔を仰ぎ、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。 

 

 「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ書10章20~22節)と言われるとおりです。

 

 主よ、罪深い私をお赦しください。どうか私を内側から清めて、新しくしてください。清い心、新しい霊授けてください。御救いの喜びを再び味わわせ、自由の霊によって支えてください。真心から近づくことが出来ますように。新たな恵みを得て、主に仕えさせてください。 アーメン

 

 

9月11日(日) アモス書5章

 

「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」 アモス書5章4節

 

 5章では、最初に「悲しみの歌」(1~3節)が歌われています。この「悲しみの歌」は、神がイスラエルを悲しんで歌ったもので、前章の、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」に通じています(4章6,8,10,11節)。それはまるで、葬儀のときに歌われる挽歌のようです。

 

 イスラエルがその罪のゆえに神に打たれ、千人のうち百人、百人のうち十人しか生き残らないという有様になります。それを神が嘆かれているのです。 

 

 これまで、イスラエルの人々はベテルやギルガル、ベエル・シェバで礼拝していました(5節)。ベテルはイスラエルとユダの国境付近、ギルガルはベニヤミン領・ヨルダン川西岸付近、そして、ベエル・シェバはユダ南端の町です。これは、北イスラエルだけでなく、南ユダをも含む、イスラエル全土を表しているかのようです。

 

 しかし、そこで行われているのは真実な礼拝ではありませんでした。神を悲しませる偽りの礼拝だったのです。だから、「ベテルに助けを求めるな、ギルガルに行くな、ベエル・シェバに赴くな」(5節)と言われるのです。

これまで何度も主に立ち帰るようにと、預言者らを遣わしてイスラエルの民を招き続けてきましたが、彼らは応答しようとしなかったのです。

 

 けれども、神はもう一度、冒頭の言葉(4節)のとおり、「わたしを求めよ、そして生きよ」と、強く激しく呼びかけられます。それは、死んだ魂を揺り動かし、その目を覚まさせるような叫びです。

 

 これは、死んだラザロを墓の中から呼び出された主イエスの言葉を思い出させます(ヨハネ福音書11章43節)。「出て来なさい」という主イエスの声に従って、ラザロが墓から出て来ました。イスラエルが生きる道は、「わたしを求めよ、そして生きよ」と言われる神の御言葉に聴き従い、真の主を慕い求めることです。

 

 主は、「すばるとオリオンを造り、闇を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の面に注がれる方」(8節)です。苦しみを喜びに、涙を笑いに変えることがお出来になりますし、楽しみを悲しみに、幸いを災いに変えることもお出来になります。

 

 イスラエルの民はかつて、エジプトの奴隷の苦しみから救われる恵みを味わいました。しかし、戒めに背いて神を悲しませ、その恵みを失おうとしています。今、「わたしを求めよ、そして生きよ」と呼びかけられる主の声に聞かなければ、再び奴隷の軛につながれ、苦しみの日がやって来るわけです。

 

 残念なことに、北イスラエルはこの主の御言葉に耳を傾けなかったので、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされてしまいました。そしてまた、南ユダも紀元前587年にバビロンによって滅ぼされたのです。

 

 主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」と言われました(ヨハネ福音書11章25,26節)。死んでも生きる、死を通して開かれる新しい命、永遠の世界があるということです。

 

 改めて考えると、ここで「生きていてわたしを信じる者」というのは、不思議な表現です。「生きていてわたしを信じる者」ということは、「死んでいて主イエスを信じる者」もいるということになるでしょう。そうでなければ、わざわざ、「生きていて」という必要はないとでしょう。

 

 そして、死後に信じる可能性があるというのは、第一ペトロ書3章19節以下の「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」というくだりで、死者の霊にキリストが宣教されたということを示していると言えます。

 

 いずれにせよ、「死んでも生きる」、「決して死なない」というのは、この肉体の命のことではありません。私たちは、この肉体は死ぬこと、死んで滅びてしまうことを知っています。新しい命、永遠の世界とは、死によっても閉ざされない真実な主イエスとの交わりのことであると示されます。私たちと主イエスとの交わりが、永遠のものであるということは、主イエスを信じる者同士の交わりも、死で終わらないものであるということになります。

 

 主は今日、「わたしを求めよ、そして生きよ」と、力強く語ってくださいました。死んでしまっているようなイスラエルも、主を求めて命に与ることが出来るのです。神は、確かにイスラエルを滅ぼしておしまいとはなさいませんでした。バビロンから帰ってくることが出来ましたし、エルサレムの町を建て直すことも出来ました。今日、イスラエルは建国されています。

 

 私たちも、復活であり、命であられる主を信じます。しっかりとまことの主を求めます。主と共に生きます。その交わりが日毎に新しく豊かなものとなるよう、何よりもまず第一に、神の国と神の義を求めて参りましょう。

 

 主よ、弱い私たちを助けて、絶えず主と主の御言葉を信じる信仰によって歩ませてください。あなたを求めます。常に私たちの内に、私たちと共にいてください。聖霊に満たし、その力によって主イエスの恵みと愛を証しする証し人にならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がこの地になりますように。 アーメン

 

 

9月12日(月) アモス書6章

 

「お前たちはロ・ダバル(空虚)を喜び、『われわれは自分の力でカルナイムを手に入れたではないか』と言う。」 アモス書6章13節

 

 預言者アモスは、繁栄に酔い、安逸をむさぼっているイスラエルの人々に、驕りを見ました(1節)。シオンは南ユダの首都エルサレムの町のこと、サマリアは北イスラエルの首都です。いずれも山の上にあって、その住民は、おのが都は難攻不落だと考えていたので、それに安心しきっていて真の神に依り頼もうとはしなかったのです。

 

 そこで、「カルネに赴いて、よく見よ。そこから、ハマト・ラバに行き、ペリシテ人のガトに下れ」と語ります(2節)。カルネは、イザヤ書10章9節で「カルノ」と呼ばれるシリアのはるか北方、現在のトルコとの国境近くにあった町、ハマト・ラバは、シリア中部にあるオロンテス河畔の町ハマトのことです。ガトは、記されているようにイスラエルの南西にあるペリシテの町です。

 

 北に、南に、これらの町を見に行けというのは、サマリアだけが繁栄している町ではない、井の中の蛙になるなということでしょうか。そして、北の二つの町はアモスの時代にアッシリアによって亡ぼされ、南のガトはその後、征服されています。だから、次はイスラエルだということを言外に含んでいるのかもしれません。

 

 そして、高慢によって思い違いしている様子を、12節に、「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛が海を耕すだろうか」と記しています。「馬が岩の上を駆ける」とは、お前はカモシカのつもりなのかということでしょう。「牛が海を耕す」とは、お前は魚のつもりなのかということでしょう。

 

 ひづめの割れていない馬は、岩の上を跳びかけることは出来ませんし、力の強い牛も、海の中では役に立ちません。そのように、今のイスラエルは、主なる神にとって、思い上がりもはなはだしい状態で、何の役にも立たないということでしょう。

 

 その傲慢さのゆえに、「お前たちは裁きを毒草に、恵みの業の実を苦よもぎに変えた」(12節)と言われています。「裁き」とは、「公正」(ミシュパート)、「恵みの業」とは「正義」(ツェダカー)という意味の言葉です。公正と正義が毒されているところを、神がお喜びになるはずがありません

 

 冒頭の言葉(13節)に、「お前たちはロ・ダバルを喜び、『われわれは自分の力でカルナイムを手に入れたではないか』と言う」とあります。これは、イスラエルが戦いによってロ・ダバルとカルナイムを獲得したということです。

 

 ロ・ダバルはガリラヤ湖の南、ヨルダン川東岸の町です。カルナイムはガリラヤ湖の東35キロのバシャンにある町です。ギレアドの二つの町をシリアから奪還して、イスラエルは戦勝の喜びに沸いているのでしょう。「カルナイム」は、雄牛の角を意味していて、角は力や権威の象徴ということから、自分たちの力が発揮出来た、その力が証明されたと喜んでいるわけです。

 

 しかし、彼らが手に入れたのは「ロ・ダバル」です。「ロ」は否定を表す言葉です。「ダバル」は「言葉、出来事」という意味の言葉です。つまり、言葉がない、モノがないということで、「無駄、理由なし」という意味になります。新共同訳聖書には、「ロ・ダバル(空虚)」と記されていました。彼らの喜びは空しい、無意味だということを表わしているわけです。

 

 なぜ、イスラエルの勝利が無意味なのでしょうか。それは、「レボ・ハマトからアラバの谷に至るまで」(14節)、イスラエルを圧迫する一つの国が、神によって興されるからです。「レボ・ハマトからアラバの谷に至るまで」というのは、ソロモンが支配下に治め(列王記上8章65節)、後にヤロブアム2世がその領域を回復したイスラエルの全土を指しています。

 

 神が興される一つの国とは、アッシリアのことでしょう。今、ギレアドの地で二つの町をシリアから奪還して小さな勝利に浮かれているイスラエルが、強大なアッシリアの力の前に、その全土にわたって完全に打ちのめされてしまうことになるというのです。真の神の助けがなければ、圧倒的な軍事力の前になす術なく打ち破られてしまいます。

 

 私たちの力が空虚なものに費やされるということにならないように、公正な裁きを行い、恵みの業の実を結ぶようにしなければなりません。それは、神の御顔を慕い求め、御前に謙り、その御言葉に喜んで耳を傾け、御心に従って歩むことです。

 

 すばるとオリオンを造り、闇を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の表に注がれる、万軍の神なる主よ、絶えず御言葉の光の内を歩ませてください。私たちはあなたの口から出る一つ一つの言葉によって生きる者だからです。御心に従い、いつも全力を注いで主の御業に励むことが出来ますように。御名の栄光のため、主の器として用いてください。 アーメン

 

 

9月13日(火) アモス書7章

 

「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。」 アモス書7章12節

 

 主がアモスに三つの幻をもって語られます。第一の幻は、いなごによる災いでした(1節)。いなごによる災いと言えば、ヨエル書1章4節の記事を思い起こします。それを見たアモスが執り成し祈ると(2節)、主はそれを思い直され、「このことは起こらない」(3節)と言われました。

 

  第二の幻は、神が審判の火を下されるというものでした(4節)。この火が「大いなる淵をなめ尽くし」と記されていて、神の下される火は、深淵を満たす水でも消せないということが示されています。それを見て、再びアモスが祈ると(5節)、主は、「このことも起こらない」(6節)と言われました。

 

 そして、第三の幻は、主の手にある下げ振りで城壁を点検しようとするものです(7節)。下げ振りは、柱や壁が地面に垂直に立っているかを測る道具です。主は、「わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない」と言われました(8節)。つまり、イスラエルの歪み、神に対する背きの罪は、もう無視しておけないほど酷い状態になっている。この歪みを正さなければならないと言われるのです。

 

 その裁きは、「イサクの塚は荒らされ、イスラエルの聖なる高台は廃墟になる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう」というものです(9節)。「イサクの塚」とは、「イサクの高台(バーマー)」という言葉で、イサクがベエル・シェバに築いた祭壇のことを指しているのだろうと思います(創世記26章25節)。

 

 「イスラエルの聖なる高台」とは、「イスラエルの聖所(ミクダシュ)」という言葉で、ベテルやダン(列王記上12章29節)、サマリア(同16章32節)などに置かれた神殿を指すものでしょう。

 

 イサクの塚や聖なる高台が荒らされ、廃墟にされるというのは、そこに、まことの神ならぬ異教の神々が祀られ、偶像礼拝が行われているからで、それを行っているヤロブアムの家、即ちイスラエルに裁きを降すと言われているわけです。

 

 それらのことを聞いたベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに、預言者アモスが王に逆らって耐えられないことを語っていると言って(10節)、アモスの言葉を告げます(11節)。しかしそれは、正確な情報ではありません。そもそも、アモスは王に逆らう言葉を預言者が勝手に語っているわけではなく、神がイスラエルを裁かれるのです。

 

 ヤロブアムとの会談の後、アマツヤはアモスのもとに来て、冒頭の言葉(12節)を告げました。王がアモスを亡き者としようと決めたのでしょうか。そのように仄めかすことで、アモスがイスラエルを逃げ出すと考えたのかもしれません。

 

 だから、「ユダの国に逃れよ」と語っているわけです、アモスの命が危険な状態になっている、殺されるかもしれないと警告しているわけです。しかしそれは、親切心から出ているのではありません。アモスを排除すべきだと王に進言したのは、当のアマツヤ自身なのです。

 

 「ユダで糧を得よ、そこで預言するがよい」というのは、当時、王に仕えて預言を語ることで生計を立てていた職業的預言者の存在を示しています。そしてこれは、アモスが北イスラエルで預言者として生きることは出来ないので、ユダに帰れと言っているわけです。

 

 そして13節で、「ベテルでは二度と預言するな、ここは王の聖所、王国の神殿だから」と言います。王の力を借り、宗教指導者としての権威をかさに着て、アマツヤがアモスを脅しているのです。

 

 しかし、その言葉はアモスには通じません。アモスは、「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と語り(14節)、自分は預言者として働くことで生計を得ているわけではないことを告げ、そして、「行ってわが民イスラエルに預言せよ」(15節)と主なる神に命じられのだと答えています。

 

 アマツヤは、アモスが預言者であることは認めています。アモスを「先見者」(12節)と呼んでいるからです。であれば、同じ神に仕える者でありながら、なぜアモスに、「ベテルでは二度と預言するな」と語るのでしょうか。それは、アモスの預言をアマツヤが聴きたくないからです。イスラエルの聖所が廃墟になるということは、アマツヤの祭司としての地位が地に落ちてしまうことになります。

 

 けれども、アモスが神の預言者で、神の御言葉を語っているのであれば、アマツヤも、ヤロブアム王も、謙ってそれに耳を傾けなければなりません。そうしないから、神の裁きを免れられなくなってしまったのです。

 

 私たちも、自分で自分を清め、正しくすることなど出来ません。日々主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みましょう(詩編119編9節以下)。

 

 「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(同130節)。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(第二テモテ書3章16節)。

 

 主よ、あなたの恵みと導きのゆえに感謝します。日々あなたの御言葉を聴かせてください。あなたの御言葉は、私たちを教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。そうして、あなたに仕える者として、どのような善い業をも行うことが出来るよう、十分に整えてください。主に栄光が世々限りなくありますように。 アーメン

 

 

9月14日(水) アモス書8章

 

「主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」 アモス書8章11節

 

 アモスは神から4番目の幻として、「一籠の夏の果物(カイツ)」を見せられました(1節)。それは、「仮庵祭」(レビ記23章34節以下、申命記16章13節以下)と呼ばれる、秋の収穫祭において神に献げられたものでしょう。神はしかし、その供え物を喜ばれず、「イスラエルの最後(ケーツ)」を宣言されました(2節)。

 

 ここに、「カイツ(夏の果物)」が「ケーツ(最後)」になったという語呂合わせがあります。また、「最後(ケーツ)」とは、「切り取る」(カーツァツ)という動詞の名詞形です。果物が切り取られたということから、イスラエルの国が切り取られて他国のものになるという意味に読むことが出来ます。

 

 神は、形式的な儀式、供え物ではなく、神の御言葉を聴くこと、聴き従う心を求められます(5章21,22節)。当時、イスラエルの民が仰いでいたのは、主なる神ではなく、「王として仰ぐ偶像の御輿や、神として仰ぐ星、偶像ケワン」(同25節)でした。

 

 イスラエルの民は、一籠の夏の果物を神に献げて、仮庵祭を祝おうとしているのですが、神は、「その日には、必ず宮殿の歌い女は泣きわめく」(3節)と、喜びが嘆きに代わることを告げます。それは、「しかばねはおびただしく、至るところに投げ捨てられる」(3節)ということで、繁栄を謳歌しているイスラエルが切り倒され、打ち捨てられるのです。

 

 「声を出すな(ハース)」(3節)とは、この審判の言葉において、前には「主を求めよ、そして生きよ」(5章6節)と悔い改めるよう招かれた主が、もはや、招きの時は過ぎ、いよいよ審判が実行されるときがやって来たこと、それは神の裁きであるゆえ、何も言うなということでしょう。

 

 そのことを10節で、「お前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(10節)と言われるのです。

 

 神は、「このために、大地は揺れ動かないだろうか」(8節)といって地震を起こし、「真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(9節)といって日食を起こされ、イスラエルの傲慢と貪欲を打ち砕かれます。「地震」は、アモスの預言の2年後に起こりました(1章1節参照)。

 

 ナイルへの言及(8節)は、川の氾濫と関係して、大地が創造される前の混沌とした状態に戻されることを物語っているようです(創世記1章2節)。「日食」について、当時の人々は、罪が神の恵みを覆い隠し、その恵みがイスラエルから去ったと考えたようです。

 

 これらのことは、かつてエジプトに起こった災いが(出エジプト記10章21節以下)、今度はイスラエルを襲うと言われているのです。

 

 加えて、冒頭の言葉(11節)のとおり、「大地に飢えを送る」と言われます。「飢えと渇き」は、イスラエルを絶えず悩まして来ました。そのたびにイスラエルの民は、食糧を求めて右往左往させられました(創世記12章10節以下、26章1節以下、41章53節以下参照)。

 

 ここで語られているのは、主の言葉を聞くことが出来ない飢えと渇きです。あるいは、旱魃による飢饉で神に助けを求めても、神が答えてくださらないということで、ここに、神との関係が完全に断絶したことを象徴していると言ってもよいでしょう。かくてこれは、信仰共同体として成立した神の国イスラエルの滅亡を意味しています(申命記8章3節)。

 

 神がイスラエルに下すと言われた刑罰は、すべて主イエスの身の上に起こりました。それが、キリストの十字架です。朝の9時に十字架につけられ、正午に全地が暗くなりました(マタイ27章45節)。そして、キリストは「渇く」といわれ、息を引き取られました(ヨハネ19章28,30節)。

 

 そのとき地震が起こり、岩が裂け、墓が開きました(マタイ27章54節)。キリストが身代わりに刑罰を受けてくださったので、私たちは赦され、生きることが出来るのです。主は今も、私たちが主を求めて、生きることを望まれているのです。

 

 アモスが遣わされた「ベテル」は、かつてイスラエルの父祖ヤコブが父と兄の前を逃れ、ハランへ旅する途中、野宿した場所です。父たちを裏切った罪で後悔の念に駆られていたことでしょう。神はそこでヤコブに語りかけ、祝福を約束されました(創世記28章13節以下)。「ベテル」とは、「神の家」という意味です。荒れ野と見えたところが「神の家」でした。即ち、どこにも神が共におられ,、神の守りがあり、祝福に与ることが出来るのです。

 

 主を信じましょう。信じてその御名を呼び求めましょう。主の御声に耳を傾けましょう。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8章3節)ものだからです。

 

 主よ、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、御名を崇め、感謝致します。御言葉を聴くことの飢饉と旱魃に見舞われないよう、絶えず主を求め、日々御言葉を聴かせてください。主の御言葉に素直に聴き従う信仰を与えてください。御心がこの地に実現しますように。 アーメン

 

 

9月15日(木) アモス書9章

 

「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。『柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない。』」 アモス書9章1節

 

 預言者アモスは、冒頭の言葉(1節)のとおり、主が祭壇の傍らに立っておられるのを見ました。これが、アモスの見た五番目、最後の幻です(7,8章参照)。祭壇はいけにえを献げる場所、神との和解を祈る場所です。しかし、そこで神の口から語られたのは、罪の赦しや民の祝福などではありませんでした。

 

 「柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け」(1節)と、神殿が破壊されて、そこにいた人々が犠牲になてれと言われます。そして、「生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない.逃れて生き延びる者はひとりもない」と、逃れる者のない徹底的な裁きが告げられます。

 

 2節の「たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、わたしは、そこからこの手で引き出す。たとえ天に上っても、わたしは、そこから引き下ろす」という言葉は、「天に昇ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」という詩編139編8節の言葉を思わせる表現です。

 

 詩編の記者は、どこででも主なる神の守りと導きを得ることが出来ると、その不思議に驚いています。しかしながら、アモスはここで、どこに逃れ、身を隠そうとも神の裁きの手から逃れることは出来ず、主の御前に引き出されるというのです。

 

 それは、何故でしょうか。その裁きが神殿から始まっていることから、イスラエルの民の礼拝に問題があることが示されます。それは、場所の問題ではありません。神を神として崇める生活が問われているのです。つまり、イスラエルの民の礼拝が、霊と真理によってなされておらず、神に喜ばれるものになっていないからでしょう(ヨハネ福音書4章23,24節参照)。

 

 アモスは、北イスラエル王国の聖所が置かれているベテルで、預言をしていました(7章13節)。ベテルは、かつて神がヤコブ=イスラエルの前にご自身を示された場所です(創世記28章10節以下参照)。神は、そこでヤコブに祝福を与えられました(同28章13~15節)。ヤコブは、そこに記念碑を立てて神を礼拝しました(同28章18節以下)。神は今もご自身を、その祭壇の傍らに現されているのです。

 

 それなのに、イスラエルの民の目には、神の御姿が見えないのです。御声が聴こえないのです。何か別のものに心奪われ、耳目がふさがれていたのです。

 

 かつて、シロの町の聖所で、エリという祭司が仕えていたとき(サムエル記上1章3節)、エリの息子たちが礼拝を蔑ろにし、就中、主なる神を蔑ろにしていて(同2章12節以下)、そのために、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであったと記されています(同3章1節)。

 

 そのとき、神の御声を聴いたのは、祭司エリではなく、エリに仕える幼子サムエルでした(同3章4節)。そして、サムエルに示されたのは、神がエリの家の断絶しようとしているということでした(同3章13,14節)。その後、実際にシロの聖所は閉じられることになります(エレミヤ書7章12,14節、26章6,9節)。

 

 7章で学んだとおり、農夫であったアモスが預言者として働かなければならなかったのは、ベテルの祭司アマツヤが、祭司の務めを忠実に果たさず、主の御声に耳を傾けようとしていなかったからです(同10節以下、12,13節)。

 

 あらためて、このことを自分に問いかけます。私たちは、神に喜ばれる礼拝を捧げているでしょうか。自らを神に喜ばれる聖なる生ける供え物として、御前に捧げているでしょうか(ローマ書12章1節)。霊と真理をもって神を礼拝しているでしょうか(ヨハネ4章23,24節)。生活を通して、神が神として崇められているでしょうか。

 

 これらの問いにいつでも、「はい」と答えることの出来ない自分がここにいます。見せ掛けの信仰生活を反省します。裁きは確かに神の家から始まります。神を畏れなければなりません。

 

 けれども神は、私たちを滅ぼしたくて、裁きを下したくて、このように語られるわけではありません。8節に、「ただし、わたしはヤコブの家を全滅させはしないと、主は言われる」と記されています。これは、一方的な神の憐れみによる救いの宣言でしょう。神はヤコブの家、イスラエルの民が、神に立ち帰ることを待ち望んでおられるわけです。

 

 私たちは今、主なる神の豊かな恵みに常に与っています。聖霊に満たされ、絶えず感謝をもって、神をほめたたえる者にならせていただきましょう。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4章9節など)と言われる主の御言葉に耳を傾けましょう。御言葉に耳の開かれた者としていただきましょう。主の御心を悟り、その導きに従って歩みましょう。そして、喜びと感謝をもってその恵みを証しする者となりましょう。

 

 主よ、あなたの深い御愛を感謝致します。その憐れみによって生かされています。その恵みを徒に受けることなく、日々主の御言葉を聴き、その導きに従って歩ませてください。常に感謝を込めて、主の御前に唇の実を捧げることが出来ますように。 アーメン

 

 

 

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