今日の御言葉

 

「わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。我らを敵に勝たせ、我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。」 詩編44編7,8節

 

 この詩は、「救いを求める共同体の祈り」です。詩人はまず、かつてイスラエルが神の栄光を帯びていた時代を振り返りながら(2~4節)、主への信仰を言い表します(5~9節)。

 

 3節の「(国々の領土を)取り上げる」と4節の「(領土を)取った」とは、同じ「ヤーラシュ(捕まえる、所有する、相続する)」という言葉が用いられています。3節の動詞はヒフィル形(使役形)、4節はカル形(標準形)です。

 

 イスラエルの先祖が獲得した土地は、神が異邦の民から取り上げさせたものだという文脈から、「国民、異邦人」(ゴーイ)を「国々の領土」と意訳しているわけです。口語訳は「もろもろの国民を追い払って」、新改訳は「国々を追い払い」と訳しています。 

 

 また、「枝が伸びるために」は、「遣わす、広げる」(シャーラー)という言葉で、国々の民を苦しめるために、神がイスラエルを派遣したということです。新共同訳は「広げる」(ピエル形)の意味を強く出して、「その枝が伸びるために、国々の民を災いに落としたのはあなたでした」と訳しています。

 

 先住民を追い出して、そこに植え付けられたイスラエルがその枝を張り広げることができるように、神が諸国民を苦しませたという解釈を示しているわけです(口語訳も同様)。岩波訳は「諸民族を砕き去って彼らをお遣わしになったのです」としています。

 

 いずれにせよ、かつてイスラエルの民が、アブラハムに約束された土地を嗣業の地として受け継ぐことが出来たのは、イスラエルの父祖たちの剣や腕の力などではなく、神の御心、神の御手の業であったということが、明確に述べられています(4節)。

 

 「御顔の光」は、4編7節、89編16節にも出る表現で、42,43編の「御顔こそ、わたしの救い」に通じ、それは民数記6章25,26節に示されるとおり、神の恵みを表しています。

 

 だから、今も依り頼むべきは、弓や剣などではなく、王の王、主の主なる神であることを、詩人は冒頭の言葉(7,8節)のとおり宣言します。そして、主が自分たちに味方してくださったので、感謝と賛美をささげるといいます(9節)。

 

 ここに、一つの危険が示されます。自分たちの戦いのために神に依り頼めば、いつでも味方になってくださる、感謝と賛美をささげることで神を味方につけることが出来ると思い込む危険です。

 

 

 けれども、神は勝利を約束するアイテムなどではありません。詩人は、「しかし、あなたは我らを見放されました。我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず、我らが敵から敗走するままになさったので、我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです」(10,11節)と言っています。

 

 詩人はこの言葉で、かつてイスラエルに恵みをお与えになった神が、今なぜ助けてくださらないのか、共に戦ってくださらないのかと訴えています。これは、御言葉に立ち、主に従って歩んだヨシヤ王の最期の時のことでしょうか(列王記下22章以下)。

 

 ヨシヤは、父アモンの道にも祖父マナセの道にも歩まず、徹底的に主の御言葉を実行しました(同23章24,25節)。しかし、新興バビロニア帝国に首都を陥落させられたアッシリアを応援するためにカルケミシュに向けて出陣してきたエジプトの王ネコを、メギドで迎え撃とうとヨシヤが出て行ったところ、逆に討たれてしまいました(同23章29節)。

 

 歴代誌下35章20節以下の記事によれば、エジプトの王ネコは、「今日攻めてきたのはあなたに対してではない。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる」とヨシヤに語り、イスラエルと戦う意志がないことを示しています。けれども、ヨシヤは神の口から出たというネコの言葉を聞こうとはしませんでした。

 

 ヨシヤは、国力が回復した今、新興バビロニア帝国に協力して、アッシリアを滅ぼす絶好機と考えていたのかもしれません。そこで、アッシリアを助けようとしたエジプトを迎え撃つ気になったのでしょう。けれどもそのとき、神はヨシヤに味方してくださいませんでした。

 

 ヨシヤに慢心があったのでしょうか。徹底的に神に聴き、その御言葉に従うという道をそれ、剣にかけて敵を打ち破ろうと出て行ったのです。そして、あえなく返り討ちに遭ってしまいました。

 

 実は、エジプト・アッシリア連合軍がカルケミシュでバビロニア帝国と戦い、さんざんに打ち破られてしまいました。バビロニア王の年代記によれば、そのときの戦いでエジプトに戻ることが出来た者は一人もいなかったそうです。ということは、ヨシヤが何もしなくても、アッシリアとエジプトは、バビロニア帝国によって滅ぼされてしまったわけです。

 

 神がヨシヤに望んでおられたのは、過越祭を盛大に祝い、多くのいけにえをささげることよりも(歴代志下35章1節以下)、謙って神に聴き従う、打ち砕かれた心、悔いる霊だったのです(詩編34編19節、51編19節など)。

 

 一度や二度の成功で慢心することなく、あらためて主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、御心を行って主の栄光を現すために、主の右の御手、御腕に依り頼みましょう。  

 

 主よ、今日も御言葉をいただきました。今あらためてあなたの慈愛と峻厳を思います。どうか、いつも慈愛の御手のもとに私たちをお守りください。恵みの光の中を歩ませてください。主の慈しみとまことが、この地に豊かにあらあわされますように。 アーメン

 

 

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2014年8月6日サイト開設